dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

オンライン試写

オンライン試写会という奴に当たったので、家で映画を観る。

今回のは7分ほどの短編と長編1本というプログラムでござんした。まあ映画館で観るのとでだいぶ印象は変わると思うのだけれど、手間はかからないから楽ではある。

 

短編「くじらの湯」

短編アニメーション。

なんか凄いものを見てしまった気がする。

いや、日本映画に詳しいわけじゃないのでなんとも言えないのですが、実のところ女湯というものがここまでてらいなく描き出されたことってあまりないのでは?(しかもサウナまで!)男湯なら割と観る気がするのですけど、それにしてもここまでのものはない気がする。

女性が見ればあるある、男性から見ると未知の領域なのかしら。まあでもサウナ入ってるときの姿は男女問わずあんなものでしょう。サウナとかほとんど入ったことないですけど。銭湯も、そういえば近所にあった銭湯が数年前に潰れたちゃったっけ。
そう考えると、なんだかあのアニメーションのダイナミズムというのも妙にセンチなノスタルジーを惹起してくれるような気がする。

本当に、あそこまでてらいなく(これ重要)女湯と女湯の中の女を描かれるとそれだけでかなり圧巻(そのくせ妙にリズミカルなのが笑う)で、あの幼女の気持ちもわからないでもないというか。

ああいう他人の裸などというてらいのない他者の姿を見ることができるあの空間を、あのてらいないアニメーションで表現するっていうのは相性として抜群なのですなぁ。

 

 

 

「アボカドの固さ」

すごい。びっくりするくらい何も起こらない、窓辺系の映画でござんす。

そんで主役の前田さんが有田に似てる。くりぃむの。めっちゃ似てる。あとムロツヨシ。二人を足してくりぃむ上田の頭髪でわり算したような。

 
5年付き合った彼女に振られて未練たらたらな男が未練たらたらなままひたすら変化など起こさない終わるという。
 
じゃあまったくつまらないのか、というと、まあ個人的には何か所か笑ってしまうシーンもあったので、つまらないと言い切ってしまうことはできないんですよね。主人公がナチュラルにクズなのに、そこに自覚がないのとかも(人によっては苛々すると思いますけど)笑えましたし。


別れたあともああいうフランク(に振舞おうとしている)な関係性というのが有効なのかどうか知りませんけど、別れて数日後?に二人で飲みに行くシーンがあるんですよ。

このシーンの「居酒屋閉まっちゃってるね」からのくだりの居た堪れなさというか、主人公のポンコツっぷりは笑えます。
そのあと、彼女の方だけカメラからフェードアウトするんですよね、ちょっと。またすぐカメラに収まるんですけど。
ニトリで家具見てるときは二人の歩みはまあ揃っていたしカメラにもしっかり収まっていただけに、この関係性の崩れた感じが観ていて面白い。ニトリではフィックスだったけど、分かれたあとは手持ちでカメラ揺れてるしどんだけ動揺してるんだよ、というのが笑える。
 

そこからのハグ攻撃からのシミちゃんのATフィールド。まあこの辺からだいぶ主人公の行動が怪しさを帯びてくるんですけど、アボカド持った当たりのナチュラルにマッドな演出はさすがにこらえきれず爆笑しました。いやどんだけ引きずってるのよと。妄想の重ね掛けはヤバすぎて笑える。


で、仕事相手(CMディレクターかな?)の女性と良い感じになるんですけど、ここでもまた主人公のナチュラルクズっぷりと元カノへの未練が噴出します。
いやもうね、まず告白が不意打ちすぎるし、第一元カノについてのあのうざったすぎる話をされた流れて告白って頭おかしいでしょう。
案の定拒否される(というか彼氏がいると言われていて、にもかかわらず告白するという暴挙)んですけど、拒否された後の行動もまあクズ。
元カノに電話しろっていわれて半ギレになるのはまだ百万歩譲っても、そこからの人格批判からの創作物批判(しかも自分が出演している)というすさまじいまでのクズな立ち振る舞い。そこで逆切れしてとんずらこいたかと思えば直後にデリヘル呼ぶという。

デリヘル側はリップサービスのつもりで会話してるのにコミュニケーションが下手(多分本人はそこに自覚がないという恐怖)なせいで「何歳に見える?」に対してリアルに年齢をあてに行くのも本当にヤヴァイ。サービス業の人のリップサービス真に受けちゃってシミちゃんち行っちゃうし。
シミちゃんのお母さんもすっとぼけた感じで変な空気作るし事情知らないみたいだし。

しまいには花屋に因縁付け始めるし、小学生並みの「何で?」攻撃とか、あんなクレーマーって結構いるのかしら。そもそもサンダーソニアがなかったからより戻せなかったわけではないのに、花屋さんが哀れすぎる。
いや花屋さんには悪いと思いつつあまりに身勝手すぎる行動に笑っちゃうんですけれどもね、ええ。

そうこうしてたらなぜかシミちゃんに呼び出されるし。かといって何か起こるというわけでもなく。
別れ際のタクシーのところは「あいのり」の告白シーンな台詞の羅列で笑っちゃいましたし、全体的に笑って観ていたんですけど。

にしても、最後の家具のくだりの演出の意図はわかりますけど、そういう問題じゃないから。主人公のあれはそういう問題じゃないので、あれ完全にヤバい人なんで。


しかし散々指摘したそのヤバさクズっぷりというのは極めて日常風景のもので、はっきり言って映画で観るにはあまりに逸脱しなさすぎて退屈ではあります。アボカドのくだりだけはナチュラルに狂ってて面白いんですけどね。


映画で見るようなクズではなく、現実に、そのへんにいそうな卑近なクズっぷりであり、それ自体には笑えるのだけれど、それは映画として収めるには弱すぎるきらいが。だから私が笑ったというのも映画的どうこうという部分とはまったく別で、むしろそういう人間の生態を集めた映像集的に楽しんでいた、ということではあります。

まあ一切の成長を見せずにあそこまで身勝手に閉じようとしている、というのはこれが主人公の妄想というアレで決着していたりすればそれはそれで突き抜けられたかもしれませんけど。

 

 

 

 

吉岡里帆+座頭市+中堅ハチ公な試写会

もちろん半分冗談ではあるんですけど、座頭市に限らず盲目の方というのはやたらと超人的に描かれがちで(多分、感覚的に視覚的健常者の理解を超えているからだろうけど)はあるんですけど、トゥデイ本日今日の完成披露試写会で観賞いたした映画も、超人とまではいかずともかなりハンディキャップ()を負った方とは思えないムービングでございました。

いや、先天的とかならまだ納得はできるんですけど。盲導犬を連れてると、むしろ人間個人としての適応能力は退化してそうだし。

 

というわけで「見えない目撃者」の完成披露試写会に行ってきました。

ネタバレ全開でいくので「見えない目撃者」を100パー愉しみたい人はここから下は読まんといてください。

 

 

適当に試写会に応募して後から調べたんで知らなかったんですけど、これR15なんですね。

それを知った瞬間に吉岡里帆のエロエロエッサイム!?高杉真宙たんのエロエロエッサイム!?と勝手に興奮したのですが、よく考えたらそういうのがあるのはR18だしこのバジェットと吉岡里帆という多分に事務所のプロテクトがかかっていそうな(といってグラビアから転身したんでしたっけ、この人?)キャストでそんなの望むべくもないべ、と落ち着きを取り戻す。まあぶっちゃけ吉岡里帆にはそこまで関心はないんですけどね。

ていうかそもそも同タイトルの韓国映画のリメイクということらしく、当然未見。「サニー」とか「22年目の告白」とかとか、韓国映画のリメイクが割と大々的にプッシュされていますな。

まあ韓国映画の質は高いので、そのリメイクであればある程度のクオリティと観客動員が見込めるから企画が通りやすかったりするのかもですが。

実際、あんまり期待していなかったですけど、個人的には結構楽しめました。 

 

 

えー舞台挨拶つき完成披露試写会ということで出演者が登壇しての挨拶がありましたので、ちょろっとだけ触れようかとも思ったんですけど、思った以上に当たり障りのないキャスト陣の挨拶がほとんどで特に書くことがないという。

ああでも、司会進行役のお姉さんが投げる質問に対して高杉くんや吉岡さんの受け答えがどことなくバツが悪そうだったのは映画の本編を観てわかった。特に高杉くんに関しては(スケボーやってるの、ほとんど高杉くんじゃないんだろうなぁ。本当に高杉くんがやってたら顔映すべなぁ)という印象を抱くくらいスケボーシーンでは足元のショットばかりで、ちょっと思い出し笑いをしたり。いや、本当に。

まあスケボーって結構難しいですからね。私も友達に教わってどうにか平地で進むことまでは覚えましたけど、簡単そうに見えるああいう技も結構練習しないとですし。

あと吉岡さん演じるなつめの弟役で今回映画初出演という松山さんがいやに緊張していたり受け答えの歯切れが悪かったのも映画開始5分で納得。

あの登場時間と役割で舞台上に立つのは、私はむしろ羞恥プレイなのではと思ってしまいますし。

そんな感じで舞台挨拶自体は本当に内容が合ってないようなもので、とりあえず吉岡さんをヨイショする~という流れでした。

あとはそう、キャストの方々が「走った」と結構言っていたので走るシーンに期待していたのですが、割と本気で初老のおっさん(主にトモロヲ氏)の「いやぁ久々に走ったねぇ」というもの以上の印象はなく・・・。いやトム・クルーズ並みのを期待していたわけではないんですけど、アングルとか、もうちょっと気持ちのいい走る姿を見せてほしかった。

トモロヲさんは相変わらず話慣れてる感じでしたしね。大倉さんも左に同じ。

個人的に良かったのは國村さんの生声が聞けたことでしょうか。

挨拶も卒なくこなし卒なく笑いを引き出すあたりはもちろん、静かなのにはっきりと通る声で、正直これだけでも満足しちゃってました。

 

かと思いきやサプライズでパルちゃん盲導犬役の犬)が登壇し、一気に会場が沸く。

トモロヲさんがマイクを向けるとガジガジ噛みだすパルちゃん萌え。フォトセッションで國村さんに抱き着くパルちゃん萌え。カメラに向かって吠えるパルちゃん萌え。

本編では正直いてもいなくても特に問題ないパルちゃん萌え。

 

といった感じで多幸感あふれる舞台挨拶でございましたです。

 

 

ではそろそろ本編について。

一応、今回吉岡さんは元警官の視覚障碍者というキャラクターなのですが、これがもう警官(になるまでの過程)としてのなつめの時間はウルトラマンの地球上での活動時間よりも短いのではないでしょうか。と思うほどすぐに警官じゃなくなります。

冒頭のモンタージュで警官としての訓練のシーンがさらっと流されて証書を受け取って、いざゆかん、となるのかと思いきや夜遊びしている弟を車で拾い上げてそのままなつめのわき見運転でクラッシュ。

ここまで多分5分もかかってないのでは?

でまあ、一応あらすじは知っていたので車に乗った瞬間からもう「このあと亡くなるんだよね・・・」という笑いがこみあげてきてしまう。

事故までの展開があまりにスピーディであることにも笑う(事故のSEがいやにデカいので音量注意)。それにくわえ、事故った際にトラック運転手のおっさんになつめが救出されるんですけど、なぜかそのままおっさんが自然とフェードアウトしていって「どこいくね~ん」というツッコミ待ちな絵面のまま弟が爆死するというあたりは本当に吹き出しそうになりました。

なので「ああ、そういう感じで進んでいくのね」といった姿勢で観ようと思っていると、割と真面目に作っている(まあ撮影の高木さんの手腕が大きいと思うんですけど)ので結構どういう心持で観ればいいのか迷う。

といっても細かい演出にはいろいろと「んー?」となりつつも脚本に目立った粗があるというわけではないですし、むしろ割と手堅くはあるんですけど、それが逆に2時間のテレビドラマスペシャルっぽくもある。ある一点を除いて(そしてその一点こそが本作のキモでありテレビドラマと一線を画す作品になっているともいえる)。

またサスペンスとして見せたいのであれば(というか真犯人のくだりはそういう意図があるでしょう)いささか真犯人の印象が薄いのが残念なところではありますかね。

犯人が判明したときに「お前が犯人だったのか!」と思えるキャラクターが真犯人でなければならないわけですけど、この映画で真犯人が明らかになっても「え、ああ、さっきのあの人か」という程度なので。

 

とはいえ、本質的にはこの映画はスプラッターホラーではあるので、その辺は割とどうでも良かったりします、個人的に。

むしろ真犯人が判明してからの怒涛の展開が面白い。

この映画、割とキャラの生き死に大してシビアなのですよね(思えばこれも2時間ドラマと異なるかな)。なのでそのへんは割と新鮮でした。とはいえ、イケメンバリアはありましたけど(笑)。

まあトモロヲが死ぬのは既定路線(いくら警察官とはいえ犯人+異常者だと確信している相手に対して背を向けるのは馬鹿すぎると思いますけど)として、いざ鎌倉!な勢いで敵地に乗り込んでおいて返り討ちに合う大倉さんとかのムービングは「ムカデ人間」の刑事のような無能っぷりで笑えます。しかも大倉さんの死にざまはかなりサービスされていて、すわ「DAWN OF THE DEAD」のフライボーイゾンビかと思うような頭のかち割られ方(一旦押し返してるのに結局負けるのも爆笑ポイントが高い)をしていて笑いました。

被害者救出の一連のくだりはまあ、色々と言いたいこともなくはないんですけれど、解体部屋(勝手に命名)の赤い照明のライティングとかあのアングルからの撮影とかは割とブキミで好きだったりしますし、何より浅香さんの真犯人のキャラクター、っていうか表情が良い。

絶妙に表情を崩さないまま淡々と作業に勤しむ感じとか、そういうかっこいい動きをしておきながら絶妙に下手をうつ(脚本の都合上)感じとか愛嬌がある。

というのは半分ジョークにしても、浅香さんの表情と動きはマジでいいです。まあ六根清浄のくだりを模倣したのは殉教したいからなのか、それとも本人が口にしたようにただ単に人を殺したかっただけなのかははっきりさせてほしかったのと、ここの問答は割と苦痛だったのだけはいただけないかな、と。

でも「ドント・ブリーズごっこからのなつめの射撃は(まあ、ぶっちゃけ予想はできてましたけどね。これ見よがしに音鳴らしてたし)しっかりと納得いく幕引きでしたよ。欲を言えば盛り上げてほしかったとは思いますけど。

 

ただ、私が何より好きなのは、殺された家出少女たちの遺体、の記録写真なのです。

写真と言わず、損壊した死体そのものがはっきりとアップで映るんですけど、不思議なことにそれよりも記録として写真に納まる彼女たちの遺体の方がグロテスクなんですよね。

でも「遺体写真」それ自体はそこまで珍しいというわけでもない、と思う。

ではなぜ、今回に限ってそれが印象に残ったのか。それは多分、フラッシュの具合によってそう見えるというのもあるのかもしれないけれど、それ以上に身体の一部を奪われた上になお(それが法的に正規の手続きであるとはいえ)撮られるという幾重もの略奪の構造を、てらいなく描出してしまっているからだろう。

ここは図らずも「撮る」という行為のグロテスクさを浮き彫りにしてしまっている。その無頓着な行為のグロテスクさが立ち現れてくるからなのかな、と。

ぶっちゃけ、ここがなかったらそこまで印象には残らない映画ではあったと思う。

 

あと切り取ったパーツをそのままささげてるのもポイント高い。下手に冷凍保存とかしないで、本当に供物として扱っている感じが。だからこそ「人を殺したいだけ」発言がもやるんですけど。

あと手首切断をズームで撮っているのを神妙な顔つきで國村さんが解説しているのも良き。

この映画、そういうグロテスクな描写のところが妙に凝っているので、そういう意味ではR15の映画の振る舞いとしては正攻法なのかもしれませぬ。

 

観終わったあと、「あれ、よく考えたらこれ犬いらなくない?」とか言わないように。可愛いは正義です。

 

 

 

処女ティモシー

エロい、カッコイイ、可愛い、最強エトセトラエトセトラ。

およそ考えつく容姿にまつわる肯定的な表現をわがものとしたことで有名なティモシー・シャラメを初体験してきました。いわゆる処女シャラメです。

と思ったら「インターステラー」でケイシー・アフレック(が演じた役)の幼少期を演じていたんですね。あまり印象に残っていなかった。

うーん、でも巷で言われるほどのイケ☆メンとは映らなかったですね、すくなくとも「ホット・サマー・ナイツ」では。まあ、イケメンというかその魅力でもってかどわかす役どころはシャラメではなくむしろハンター役のアレックス・ローとマッケイラ役のマイカ・モンローに託されているから、でしょうが。「君の名前で~」を観たらシャラメに悶絶できるのだろうか。

 

というわけで久々に恵比寿ガーデンシネマに行ってきたんですけど、やっぱりあそこの匂い好き。 

いきなり本編とは別件なんですが、本作のパンフレットが8㎝CD(なつかしい)のパッケージ風になっていて、めちゃんこおシャンティでございます。わざわざ角に折れを印刷していたり、中々に凝っていてすんごい良い。代わりに1000円とやや高めの値段ですが、本編のスチル(?)がブロマイド(?)風に十数枚収められていまして、むしろお得感がありますので余裕がある人は買って損はないかも。

 

もう一つ本編とは別に気になったことがあったんですけど・・・えー誰ですか、宣伝に「アオハル」なんて言葉使ったの。アオハライドとか雑誌のアオハルが元ネタなのか知りませんけど、こういういかにも広告屋が使いそうなワードをこの映画のい、カッコイイ、可愛い、最強エトセトラエトセトラ。

 

およそ考えつく容姿にまつわる肯定的な表現をわがものとしたことで有名なティモシー・シャラメを初体験してきました。いわゆる処女シャラメです。

 

と思ったら「インターステラー」でケイシー・アフレック(が演じた役)の幼少期を演じていたんですね。あまり印象に残っていなかった。

 

うーん、でも巷で言われるほどのイケ☆メンとは映らなかったですね、すくなくとも「ホット・サマー・ナイツ」では。まあ、イケメンというかその魅力でもってかどわかす役どころはシャラメではなくむしろハンター役のアレックス・ローとマッケイラ役のマイカ・モンローに託されているから、でしょうが。「君の名前で~」を観たらシャラメに悶絶できるのだろうか。

 

 

 

というわけで久々に恵比寿ガーデンシネマに行ってきたんですけど、やっぱりあそこの匂い好き。 

 

いきなり本編とは別件なんですが、本作のパンフレットが8㎝CD(なつかしい)のパッケージ風になっていて、めちゃんこおシャンティでございます。わざわざ角に折れを印刷していたり、中々に凝っていてすんごい良い。代わりに1000円とやや高めの値段ですが、本編のスチル(?)がブロマイド(?)風に十数枚収められていまして、むしろお得感がありますので余裕がある人は買って損はないかも。

 

 

 

もう一つ本編とは別に気になったことがあったんですけど・・・えー誰ですか、宣伝に「アオハル」なんて言葉使ったの。アオハライドとか雑誌のアオハルが元ネタなのか知りませんけど、こういういかにも広告屋が使いそうなワードをこの映画の宣伝に用いるのは的外れな気がします、内容的に。

もっとノワールな映画だし、これ。

 

前置きはこの辺にしておくとして、本題に。

過去の年代のブームというのが一定の周期で訪れる、というのはよく耳にする話でございますが、10年代がまさに70~80年代を舞台にした映画が多かったことを考えると、2020年を控えたこの年に明確に90年代であることを打ち出しているこの映画がフィーチャーされるというのは妙に得心がいく。

とはいえ、劇中で流れる曲は90年代のヒット曲などではなくバラバラの年代の曲だったりするのは、後述するように結局のところは監督のナラティブに他ならないからなのでしょう。というか、実際にインタビューで年代的な整合性よりも感情に寄り添った選曲をしてる、といった旨の答えを示してるし。

ナラティブでいえば、編集の感じとかどことなくマイク・ミルズ監督の「20th century women」に似ているなぁと思ったけど、あれもかなり個人的なナラティブ映画だったのを考えると、「ムーンライト」を筆頭にA24スタジオはこういうタイプの映画が好きなのかしら。

 

さて、劇中のドライブインシアターで「ターミネーター2」が上映され、ストリートファイターⅡの筐体が遊ばれ、湾岸戦争フレディ・マーキュリーの死など、90年代(というか91年にあった出来事)の事件がピックアップされ、ある少年によって語られる。ほかにも91年のパブ、とでも呼びたくなるようなモチーフは頻出するのですが、その辺はパンフレットの長谷川氏の解説に任せるとして、重要なのは既述した事件が「語られる」ことにある。

だから、同じくとある少年によって語られるこの映画の一連の出来事は、それらと並列されるべき91年に起こった大事件の1つとしてある。

そして、その少年とはおそらくこの映画の監督であるイライジャ・バイナムそのものだろう。87年生まれの監督だから、91年当時の体験そのものではないにせよ、大学で出会った2人の人物にインスパイアされたというから、注がれる視線というのはやっぱり極めてイライジャ監督のパーソナルなものだと思う。

あとは最大級の嵐であるハリケーン・ボブが91年だったから、それをクライマックスにぶつけることでよりとある少年=イライジャにとっての伝説的な物語を演出したかったのだろうというのもある。

最後の語りと、イージーライダーなあのカットも含めて。

最後の最後に「そして伝説へ…」的なテロップを入れても違和感ないような。

 

明らかに脚色に脚色を重ねているけれど、それでも事実をベースにした、と言い張るのはイライジャ監督にとってその脚色された美しい物語こそが事実だからだろう。だって別に、事実ベースであるなんて文言は必要ではないから。

 

確かに青春映画ではあるけど、同時に一種のファムファタールとしても見れなくはない。ないのですが、それはそれであまりに男性目線的でもあるんだけれど、まあ語り部のことを考えるとやっぱり間違いではないかも。

そもそも、この物語自体が語り部である少年が彼女の最後から逆算したとも言えるわけで。

だってマッケイラとかかわった男はみんな死んでますからね。なんか、ポップなモンタージュでさらっと流されてますけど。そういう観点から見ると、キャンディーの間接キッスは、そのファムファタールとの一線を越えてしまった瞬間に見えて(ワンカットだし)すさまじくドキドキしました。もっとねっとり糸を引いてたりしたらなお良かったですけど。

実兄のハンターにしたって、マッケイラの泣き落としがなければ、あるいはあの結末を回避できたかもしれないわけで。

 

劇中で多用される音楽は、個人的にはあまり印象には残らなかったかなぁ。いや、流すのはいいんだけどいつもフェードアウトするタイミングがすごいぶつ切りな感じで・・・私のリズムと合わなかっただけかもしれませんけど、「GoTG」が知らない曲でも印象に残るのと比べるとそこまで合っていたかというと、どうなのだろう。

音楽もそうですけど、全体的に露骨ではあるんですよねモチーフの使い方が。それを分かりやすいと捉えるかこれ見よがしと捉えるか。

 

役者は軒並みよござんした。メインとなるナウなヤング(死語)たち、個人的にはティモシーよりもハンター役のアレックスが良い。ジャック・レイナー的な脆さを湛えつつも、その脆さに裏打ちされた強さがしっかりあって、ハンターの田舎者間のカリスマという役柄にどんぴしゃりで。

若い役者陣はいわずもがななんだけれど、所々で顔を出す大人たちがそろいもそろって強面ばかりで、その辺のジョン・ワッツ的な大人の持つ恐怖と先達としての言葉の力(悪者も善人も)みたいなものがあって、大人の出てくるシーンは軒並み良い。

しかしデックス役のエモリー・コーエンが20代というのは詐欺でしょ。どう見てもおっさんじゃないですかー。あの雑魚っぽいムーブとそれでもやることはしっかりやるというのは、それっぽくもなくもないのかも。

 

個人的にはもう一つのイケメン映画の方が期待値が高い。

 

水没している街は好きなのであの二人には末永く爆発しておいてほしい

個人的にはね。晴れよりも雨の方が好きなんですよ。ていうか、晴れって雨が明けるからこそ価値があるわけで。この映画はともかく、普段は晴れていることにそこまで思いをはせないでしょ、みんな。実際、雨→晴れるという一瞬で移り変わるところにセンスオブワンダーがあるわけで。

 

特に観る予定はなかった「天気の子」を観てきたんですけど、いやぁ予告編が青春系のアニメが多くて参りますね。

ありゃ一人で観に行くぶんにはいいのだけど、今回は一人じゃなくてね。予告が流れている間嫌な汗をかいていましたよ、ええ。

新海監督の映画ってほとんど観たことないんであんまり書けることがないんですよね。あそこの作画担当したのってやっぱり〇〇さんなのかなぁ~とかそういう、いかにもにわかな感想しか出てこないんですよ。そのくせレイトショーで観たせいで眠気に屈服しクレジットで寝落ちするという始末。

この観賞態度からもわかるように、新海監督は別にそんなに好きってわけでもずっと追っている、というわけでもない。

ないのですが、それでもまあ、面白かったですよ。

 

さすがに猫に喋るかけるのとか、ああいうのを面と向かって見せられるとこっぱずかしくなったりするんだけど。あれってなんでなんでしょうね。なんとなく思うのは、こういう動物の描かれ方って、基本的にその動物に語りかけている話者の感情やら思考やらを否定するにせよ肯定するにせよ、それが自問自答でしかないからなのかな、と。

 

 

曰く「要するに、恋愛って、それおっぱじめると構築してきたすべてが崩壊し、展開していたすべてが凍りつき、ただ恋愛が圧倒的に物語を支配して~後略」であると。

この甘言に乗っかるのであれば、新海監督の映画というの漏れなく上記のように構築してきたすべてが崩壊し展開していたryとなるわけです。でも、彼の創作物って最初から恋愛をフルスロットルでおっぱじめる体勢にあるわけで。彼女彼らの恋愛のためにあの世界は構築され崩壊しすべてがデイアフタートゥモローとなり物語を支配していくわけで。

というか、すべての恋愛映画がもれなくそういう世界観を持っているんじゃないのかしら。恋愛ものをとんと観ないので、こういう受け売りを引用する以外に私の中に語り口がないのでアレなのですが。

恋愛ものって、印象としては特定の人物(まあ大半が主人公とヒロインなのだろうけど)にそこまで費やされたすべてが収斂していくわけで。セカイ系というなら恋愛映画ってほぼすべてセカイ系でしょ。いや、セカイ系の定義がいまいち自分の中で定まってないんですけど、巷間で話される場合のセカイ系のイメージとして。

 

何物でもない田舎(穂高)少年は、小栗旬(キャラ名忘れた)の下で社員という形を得ることで穂高(少年)となる。思い違いでなければ、穂高穂高と名前で呼ばれるのは、彼が職を得たところからだったはずだし。

そこで彼は「穂高」という自分を獲得する。凍えるに狂うと書いてTOKYO(うすた京介)の厳しさ(ネットを使えるのにあのムービングは彼自身の情弱っぷりからくる自業自得とも取れなくもないのですが、正直あの辺の感覚は当事者でないとわからない)にまいっていた彼がそのTOKYOで居場所を得ることで、すでに予感としてあった恋愛にエンジンキーが差し込まれる。

恋を予感させる最たるものにバーガーをもらうくだりがあるんですけど、ここで穂高くんはこのバーガーを今まで手一番美味しい夕食だったとかなんとか言ってましたよね。

いや、確かに美味しいし、その言葉のニュアンスも読みとれるのですけど、本当にあのバーガーが一番美味しい夕食だったとしたら、相当なメシマズ家庭だったのか、それとも機能不全家庭だったのか、そもそも島だし食べられるものに本土と比べて制約があるのか、と考えてしまうのです。しかし、機能不全家庭の下で育った少年があんな真っ当に(人に銃を向けるのも、あれはあれで真っ当でせう)振舞えるはずがない。だとすると、あのモノローグはポーズではないかとも取れてしまう。

ポーズというか、自己欺瞞に近い。恋愛をブーストさせるため。初恋などという、恋に恋している者しか口にしえない、口にした途端羞恥心に爆死するような台詞を恥ずかしげもなく言えるのは、恋愛という魔法のスパイス(自分で書いてて悶死しそう)によるブーストがあってこそだ。

 

で、そこからはエンジン全開!フルスロットルでぶっ飛ばすからねぇ!と言わんばかりに穂高くんと陽菜の恋愛模様が展開されていく。あれってそもそも恋愛模様なのかしら。あんまり恋愛って感じがしないのはなんでだろう。特に陽菜の方から穂高に対しての恋、というのがあまり感じ取れないんですよね。

それはまあ、陽菜が天気の子というみんなの(もちろん穂高くんのも含め)願いの担い手であり、劇中で指摘されるとおりの人身供物として非人間(化していくから)であり、クライマックスにて穂高が陽菜をようやく人間にしていくからなのかな、と。陽菜の視点から描かれないのって、多分描けないからでしょ、構造的に。

 

話は変わりますが、CGの東京の街並みを観て私が思ったのは「うわぁー壊れなさそうな街並みだなぁ」ということだった。

まあなんで私がこういうことを思ったのかというか、ああいう街並みが出るとその街が破壊されることを予想というか期待する自分がいるからですね。

で、まあその願望というのは主に特撮とか庵野さんとか樋口さんとかあの辺による調教を受けてきたからなわけですけど。彼らの作品の街というものはいかにも壊れやすい。それはまあ、彼らの作る街というか世界って「壊すために在る」から。

庵野さんとか樋口監督みたいに「街ですか? そりゃ壊すためのものでしょ」(偏見)みたいな欲望のカタチに私の場合は近いので、ああいうただ「在るために在る」という背景にそんな感覚を抱いた、というわけで。庵野監督たちみたいに「壊すために在る」という欲望の方向性と全く違っていて、そういう自分の欲望と異なる風景を観るというのが割と珍しいことだったのでなんとなくそんなことを書いてしまった。

 

あの落雷にしたって、せいぜい車一つだししかも彼女の落雷だ。徹頭徹尾それは二人のセカイ。庵野さんみたいにゴジラエヴァ使徒といった絶対的な他者によって破壊される世界はない。実のところ、シンジ君自身が街破壊したことってないのではないか。使徒を撃滅する際に生じる爆発にしたって、あれは彼というよりも使徒という絶対他者による破壊だし、初号機が町を破壊するときって基本的に彼のママンという圧倒的他者が出張ってくるときだし。

 

そうなんす、この映画で描かれる街って壊れることはないんですよね。水に没したところで、そこにはずっと在り続ける。まったく壊れる気がしない。

セカイ系と言われるのって、そういう風に意固地なまでに世界を維持しようとするところからきてるのかなぁ、と。

 

でも、滝君のおばあちゃんみたいに引っ越すことのできない、あの姉弟のような人たちは二人の選択によってあの水の中に沈んでいったのだろうなぁ、と考えるとそういう隙間者の恋愛が同様に隙間者たちを搾取した上に成り立つという恐ろしく恐ろしい世界観だなぁとも思ったり。

 

うーん、でもまあ、みんなが言うように「天気」という概念に対するような普遍性を見出していないんですよね。

 

なんか書き足りない部分がなくもないんだけど、なんだかそんなにモチベーションがないのでとりあえずこんなところで。

また書き足すかも。しないかも。

退屈でごわす

ワイスピ新作ってことで一応観に行ったんですけど、シリーズで一番退屈でした。

いや、もう特に書くことはないんですけどね。これに関しては。

「デッド・プール2」「アトミック・ブロンド」のデヴィッド・リーチだったんですね、これ。

ライアン・レイノルズ起用はそこの繋がりなのかな。ただ、デップー2があくまでデッドプールというキャラクターありきで成立していた面白さであったのに対し、今回のレイノルズは本当に酷い。いや、もしかしたらあのブロックネタとか私が知らないだけで向こうの文化圏では笑えるネタなのかもしれませんけど。

今回のワイスピが退屈なのはひとえに会話がダレ過ぎているというところに尽きます。今までのワイスピではキャラクターももっと多かったので喋っているシーンでもそれなりに退屈しませんでしたし、何より会話のシーンはできる限り長引かせないで「知るかバカ!そんなことよりカーアクションだ!」といった具合にバカバカしいことをやってくれてたんですけど、今回はよりキャラ萌えを重視したのかドウェインとステイサムの掛け合いやポッと出の新キャラであるステイサムの妹との退屈な会話にかなり尺が咲かれています。その会話の掛け合いも退屈な上におバカすぎるしで、かなりキツい。そのくせ、というかその冗長な会話のせいで二時間超えるという暴挙。

それでも笑ってるおば様がいらっしゃったのでファンなら楽しめるのかも。

私はキツかったけど。

そんなわけで退屈な会話とマイケル・ベイ以下のカーアクションがちょっと途中で入ったりはするんだけれど、すんません、いや本当に退屈で途中でちょっと寝ちゃいました。

なので、どうしてハワイ―に行ってるのかよくわからないんですけど、あのあたりの取ってつけたようなルーツ表現とかファミリー描写もキツかったです・・・。ワイスピシリーズは確かにワンピース的なファミリー感を売りにしてはいるんだけど、あそこはちょっとこう、押し売りがすぎて・・・。

ただ、あの戦闘前の儀式?を観て高揚できない私の知見が不足しているという部分は大いにあるので、あそこで燃え上がる人がうらやましくもあったり。

 

こうして観るとマイケル・ベイのハチャメチャなカメラって疲れたりわけわからなくなったりはするけど退屈はしないんだなぁ、というのがよくわかる。

どっちがいいか、と言われると、まあ私はマイケル・ベイの方が良かったりするんだけれど。

まあぶっちゃけここら辺は脚本と製作の問題のような気もします。

今さらツッコミどころをワイスピ相手に指摘するのはもはや馬鹿の領域なのでそんなことはしませんけど、もうちょい退屈にせずにしてくれないかと。

ただですね、終盤の車両連結綱引きのバカバカしくも燃えるアクションとか2対1の殴りあいはかなり良かったので、無駄に間延びして退屈な掛け合い(飛行機のシーンとか、あそこ丸々カットしても問題ないですからね)を削りに削って100分くらいで収めればかなり良くなると思ったんです。

キャラ萌え映画でキャラの掛け合いがつまらないってかなり致命的なんで。

あとタイリース・ギブソンが欲しかった。あの人の顔とか歯の白さとか、良い感じに陽キャなところが好きなんですけど、ワイスピシリーズとトランスフォーマーシリーズ(ダークサイドムーン以降出てないですけど)くらいにしか出てこないので、2年に一回くらいはタイリース・ギブソン成分が欲しかったりするので、スピンオフにも出してほしかったなぁ。

 

ステイサム邸宅の駐車場にあるミニクーパーを使って「ミニミニ大作戦」の小ネタは「そこを拾うんかい」という感じに笑えたりはしたんですけど、それだけ。

 

ワイスピとしてはワースト。あの綱引きがすごい良かっただけにもったいないなぁと。

南北リターンズ 再開の時 ~「北風」小デブの金正日~

韓国映画を劇場で観るのは久しぶり。

そんなわけで「工作 黒金星と呼ばれた男」。

 

 

いやぁ政治をメインに扱った映画としては抜群の楽しさでございますよ、これ。

史実ベースということもあり、主要5科目において赤点ないし限りなくそれに近い点数を取り続け、中でも歴史の知識に乏しい私は二の足を踏んでいたのですが、そんな私でも不足なく観ることができたので、最低限南北朝鮮が争っているということと北朝鮮共産主義国家であるということを理解しておけばなんとかなる。はず。

ま、それでも不安かつ自分で調べるのが面倒という怠惰な人(わたし)はパンフレットを買えば時代背景についての解説なども載っているのでより理解の促進につながるかと。

たとえば、劇中で当選する金大中があそこに至るまでに辿っていた経緯などは、映画を観た後で改めて知るとあの当選の感慨も大きくなりますし、何より(まあ本編でも散々描かれますが)体制側というのはどの国であろうとイデオロギーに関わらず本質的には五十歩百歩でしかないことなどもわかります。
他にも本編の舞台である92年以前の大統領選挙における北朝鮮という巨大なファクターが及ぼした影響についても仔細に記されていますし。
あとはやはりあくまで史実ベースということで、実際にはなかったことを別のことに置き換えていたり、というアレンジがされていることなどなど。まあ、そのおかげでエンタメとして面白楽しく観れるというのが韓国映画の優れた部分でありましょう。


それにしても、つい20年とちょっと前までこんなことが、というか今もだけどあるのだと考えると末恐ろしい反面やっぱりちょっとわくわくしてしまう。そういう響きが「スパイ」とか「間諜」といった言葉にはあると思うのです。

して、そのスパイとして韓国から北朝鮮に潜り込むパク・ソギョンことコードネーム黒金星(ブラック・ヴィーナス)を演じるのが「ベテラン」「コクソン」「アシュラ」など何故か数少ない私が観ている韓国映画にピンポイントで出てくるファン・ジョンミン。

そのほかのメインキャストの映画は観たことないんですけど、保衛部の課長は「アシュラ」にも出ておまんしたか。ここ数日はいいおっさんが出てくる映画ばかり観ていて非常に嬉しい限り。

パク・ソギョンを演じたファン・ジョンミンもいいんだけど、北朝鮮の対外経済委員会所長リ・ミョンウンを演じたイ・ソンミンさんもすんごい良し。よろし。この人の、感情をセーブしようとしてるときに体が小刻みに震えるのとか、なんならそのまま泡吹いて昏倒してしまうんじゃないかってくらい迫真で。割と小奇麗な顔立ちなのに見るからにおっさん顔で良い感じにひげをたたえてるのもグッド。


で、政治を描いた映画ではあるんですけど、実のところこの映画はこの二人のロミオとジュリエット、もといロミオとロミオなお話でもございまして。いや、恋愛要素はないんだけど。
国家同士のぶつかり合いというよりは、それに対して相対化される個を描いた映画ですのでね。

この二人が何回も食事をするシーンが出てきますけど、その場所・口にするもの・どう口にするか、それによって関係性の変化が描かれておりまして、世に跳梁跋扈する恋愛映画などはこういう細かい描写でもって描いてたりすると萌えるので、ぜひ取り込んでいってもらいたいものでげす。

あ、それとこの映画でタバコを吸う人は例外なく悪人です。あとお酒もそうかな? お酒に関してはお酒そのものというよりはその「飲み方」によって善と悪(あくまで通俗的な正義にとっての善悪)が区別されている、といった方がよろしいでしょうか。というかよく考えれば伏線としての機能も持ち合わせていますね、これ。凄まじい。

この辺の描写は先に述べたパクさんとリさんの関係性の変化にも密接にかかわってくるあたりなので、彼らのタバコのやりとりと酒の酌み交わし方(こっちは割と露骨だけど)を前半と後半で注視しながら観ると萌えます。

そうなんです。前述したとおり、この映画、政治劇としての面白さもありつつ関係性萌えの映画でもあるのです。特にお腐れの女史は垂涎ものではございませんでしょうか。私がロミジュリにたとえたのはその辺でございます。
だからこそ、ラストカットが最高なんですよね。あえて遠目からという粋の良さというかね。
もう一度書きますが、だからこそあのラストカットに代表される二人のシーンというのが胸に来るわけです。

関係性萌えのスパイスとしてもう一つ重要なことが。それは同じ国、同じ組織、そして同じ作戦に従事していた同志であっても思想の違い・状況の変化により相対しなければならなくなることを描いていることでしょうか。

それが決定的となるシーン。味方である室長のチェ・ハクソンが北側と接触する際に、パクさんを欺こうとする際に流れる(というかチェがレコードでかける)のがシューベルト「魔王」というのも意味深ですが、この裏切りを知ってしまい敵地で孤独となったパクさんの味方になるのが何を隠そうリ所長なわけで。

こんな萌え燃えな展開が史実ベースのことだなんて、普段は肩身の狭い(それは悪いおっさんどもの悪行のせいなのですが)おっさんがこんなに綺麗に輝くなんて、まだまだおっさんも捨てたものではありません。

某おっさんドラマで描かれた飯事ホモセクシャル(いや別にあれに恨みがあるというわけではないんですが)なんかよりも、よっぽどこっちのブロマンス(というとかなり語弊がありますが)の方が美しく尊い・・・のでございます。私的には。

 

そんな二人の物語は、不穏な空気から始まる。冒頭、屋内の釣り堀での一連のシークエンスなんですけど、あそこで黒服さんたちがちらりと一瞬だけ銃を突き付けてることを示すショットの素っ気なさ。ことさらに強調せず、しかし普通に画面に集中していれば確実に見逃すことのない、あの塩梅。強調されることがない、つまりあくまで日常の陰影にすぎないという恐怖でもあるわけで、いかにスパイという名称を担う存在が危ういものなのかを見せつけてくれます。

そこからパク・ソギョンが黒金星になるまでの経緯なんですけど、ここらへんはほとんど説明的なシーンが続きます。というかまさに説明のシーンなので当然っちゃ当然なんですけど。じゃあダレるか、というとそういうことでもない。割とパパっと済まされるし、というかその辺は手早く済ませてちゃちゃっと本題に入っていくので。

それゆえに彼の家族について削られてしまった部分などもありますが、この映画はラスカットに代表されるように「映さないこと」と「映すこと」(あるいはどう「映さない」「映す」)のかについてかなり意識的でありますから、そこも仕込みのうちでしょう。実際、私は違和感なく観れましたし。

「映すこと」でいえば北朝鮮の、あの貧民市場で用いられるある視点からのワンカット。永六輔は「知らない横丁の角を曲がったら、それはもう旅」とか言っておりましたが、まさに地獄旅でございます。
あの子どもがあの場所で口にしてたのって・・・と考えると、そしてあの場所で北朝鮮側の体制側に属しているあの人が吐露する内心を考えるとやりきれませぬ。

それにしても、北朝鮮の世界観が冗談抜きでジョージ・オーウェルな世界。資本主義社会の日本(というか世界の大半)においては、ここまでわかりやすい支配の仕方ではなく消費行動に結びついて気づかないうちに支配とか操作が成されているという余計に質の悪いものではあるんですけど、共産圏だとこういう支配の仕方が有効だったのだなぁ、と思ったり思わなかったり。確かに支配の仕方としてはこっちの方が単純ではありますし、統治者からすればこっちの方がいいのかもですね。
 

そんなディストピア世界を描いているこの映画にあって、白眉となるのはやっぱり例のあの人の登場シーンでせう。

もちろん、例のあの人が登場するあの空間、あのアングルの切り取り方など、それだけでも十分に異なる存在として際立っているわけですが、それ以上にあの異界とその空間を支配する異物を、異物として観ることができるのは、あの人物が誰かを観客は知っているからです。
しかし、ヒトラーなどと違ってあの人物が直接的に、あそこまで大胆に、あそこまで近接して描かれたことを寡聞にして私は知らなかった。まるで悪魔が顕現する前兆のように(あるいは加耶子と俊夫のような)とてとて歩くシーズーといい、この一連のシークエンスは黒金星たちの顔の表情や固まった姿勢なども相まって特段に際立ったシーンとなっていて、ここを観るためだけでもこの映画を観てもいい。

だからこそ、あの二人で二度目に異界へと「冒険」に出るときの、あの駆け引きの緊張感と高揚感に観客は燃えるのです。

 

もう一つ、何気に個人的に気になったのは、得票や投票を直接操作しなかったこと。これって、公文書が改ざんされていることが明らかになっているどこかの国だと、もはや感覚が麻痺してそうなんですけど、この一線が守られているということは何気になけなしながら理性が残っているということでは。

だって、市民の不安を煽って投票行動に影響を与えるために北朝鮮に自国を攻撃させるなんて回りくどい方法をしなきゃ、投票の数値に影響を与えることができないってことですからね。もしも投票に関する数値を安企部が直接改ざんできるのであれば、わざわざあんな危険を冒してまで北と接触する必要もないわけですし。
それはだから、まあギリギリではありますが理性の残滓でもあり希望でもあるわけで。


政治劇・関係性萌え・ディストピア。こういうのが好物な人は観て損はないでしょう。

南北問題とか史実ベースってとこで肩肘張ってしまいがちで(まあ、わたしなんですけど)、観るのに疲れそうだから(まあ、わたry)という人はあまりそういうことは気にしないでいいかもしれんです。

いや、本当に。

第七間隔

「2つの頭脳を持つ男」

色々とぶっ飛んでる。

やってることはバカ殿様と大差ないんだけど、倫理観とかガン無視してマッドな方向に突き進むのは面白い。

下ネタだらけだし、細かいボケの感じとかほんとにコント番組のコントそのものなので、あまり映画を観ているという感じはしないけど。

ジェームズ・クロムウェルが出ているあたりとかも笑えてくる。

 

影の軍隊

ジャン・ピエール・メルヴィル監督の映画。

にしても重い。

ナチス政権下を舞台に繰り広げられる映画はたくさんありますでしょうが、この映画は本当に暗くて重苦しい。空は映っても灰色の雲海ばかりだし。

カッコつけた表現だけど、メルヴィル監督のカット割りってすごい静謐だから、余計に無情感が滲むんですよね。

「サムライ」から続けてみてみると、プロフェッショナルな人間たちが理性的に動いているのに、その目的自体がともすれば夢や理想といった彼ら彼女らの冷静沈着な行動の裏を行くようにすら見えて、その、矛盾はしないのだけれど相反するものを背負っていてやるせなくなってくる。

矜持に生きる人間って、こんなに侘しいものなんですねぇ。

 

バトルフィールド TOKYO」

低予算なつくりバリバリなんですけど、時期的に「クローバーフィールド」のパロというかエピゴーネンとして作られてる感じ。

ノイズのバリエーションが無駄に多くて編集であることが丸わかりだったり、明らかに救急車じゃないものを救急車に見立てたり、まあ色々とアレな出来ではありますが、なんだかんだて怪物がチラリと映るシーンは好きだったりする。

ミズチとかいうネタのチョイスはよくわかりませんが。

まあクローバーフィールドより白石監督の路線こそがこの映画の目指すところだったのではないかという気がする。

 

X-men アポカリプス」

今さら見る。

外連味あるシーンはたくさんあるのに気の抜けたシーンが多いのがいかんともしがたい。

ブライアン・シンガーも飽きてたんじゃなかろうか、これ。

 

「トラッシュ この街が輝く日まで」

「ものすごくるさくて、ありえないほど〜」の監督だったんですね、これ。

この人の作風ってどうも独善性というか、欺瞞じみているというか。

いや、「ものすごく~」に比べれば遥かに観ていて楽しいんですけどね。それはまあ題材が題材だからでもあるんですけど。

基本的なフォーマットは少年の冒険譚ですし、そのフォーマットにブラジルはリオデジャネイロのゴミ山のスラム?を当てはめるというのは中々ないですから、異化効果を生んでいますし。

序盤は良かったんですけどね、これから何が起こるのかという緊張感をもたらしてくれてましたし。「コースター」の暴力表現も生々しくてエグいし、その辺までは良かった。このあとでラファエルが殺されない理由のあまりにもおざなりな部分から予定調和・欺瞞さ・独善みたいなものが全面に出てき始める。

ビデオもさ、あんだけ殴られて顔面傷だらけだったのにいつの間にか傷治ってるし、むしろ傷がある状態でカメラに収めることこそが現実のグロテスクさを誠実に伝えるということを劇中劇的に描出できたはずだと思うんですけどね。

そういう不誠実さ・欺瞞さの極北がラストの銭ゲバシーンとそれに続く綺麗な海辺でワイワイする少年少女たちでしょう。

なんだか別の監督がやればもっとうまい具合に行ったと思うんですけど。

でも終盤の、夜が明けかけている空をバックにトタン屋根の上にいる彼らのシーンは結構グッときましたよ。

 

モンスター上司

ケビンスペイシーが1人だけガチトーンの演技をしている箇所があって笑う。

 色々あるけど、歯科医の件に関してはあれは最大限の異化効果が発揮されている部分だと思いますですけど、制作側にはその辺の問題意識がないというのが惜しいところ。

 

アルビン/歌うシマリス3兄弟

チップとデール+1。原作あったんかいこれ。しかも半世紀以上前の作品が元ですと・・・?

なんだけど、なんかこう、メジャーデビューしたバンドあるあるみたいなものなのかなぁ。デヴィッド・クロスが出てることになんか笑う。

 

「サーチ」

 監督まだ20代半ばですか。卓越した編集力と脚本の構成力で画面がもう才気煥発している。

これは大きな画面で観ないと細かいディティール、というか画面中に散りばめられた伏線を確認しづらいので劇場で観ておきたかったなぁ。

死んだと分かるやお通夜モードになる友人未満の学友たちとか、tumblrをtumblerとスペルミスするお父さんとか、文言を送信をするかしないかの逡巡をタイピングの画面だけで表現する演出などなど、映像で映える描写が細かい。この辺のリアリティ、最近も観た気がするんだけど、なんだっけな。

まあ、ヴィックが家に訪れたときにフェイスチャット(?)を起動しているのはよくわからないというか、なんか説明的すぎる気はしましたけど、それ以外はほぼ設定したルールを守っているし。

あとはどこまでが本当にあるものなのか知らないんですけど、住所がわかるサービスとかって本当にあるんですかね? 日本で言う電話帳みたいなガバガバさな気がするんですけど。もっとも、ああいうサービスが実際になかったとしてもあるように思わせる細部の作りが説得力を持たせているので、ご都合主義という感じはない。

むしろ、趣としては一種のシミュレーション映画のようにも思える(ソダーバーグ監督の「コンテイジョン」をちょっと思わせる)。それくらい、父親がハイスペックというか探偵じみた操作能力を発揮する。

これを「できすぎ」と取る人もいなくもないでしょうが、まあそこは親子愛ということでご愛嬌。

いやこれ、かなりウェルメイドな作品だと思います。

今後の活躍が楽しみな若手監督の一人です、アニーシュ・チャガンティ監督。

 

 

スクール・オブ・ロック

観ててニヤニヤ、ほっこりする。そしてジャック・ブラックの動きが面白すぎる、地味に長回しだだったりするし。

一見するとジャック・ブラックがロックを押し付けているという学校と同じような構造のように見えつつ、しかしその活動の中で生徒たちが(おそらくは発散できず)抱えている怒りを拾い上げてロックの中に昇華させている。

吹き替えで観たんですけど「大物」って原語だとどういう言葉になってるんだろうか。

ともかく、ロックの敵として「大物」という言葉を使っているわけですが、生徒の一人に「大物ですね」と校長先生に向かって言うわけですが、その直後に実は校長先生も・・・というあたりも上手い具合。

実際、校長先生が実のところ一番の『大物』だったわけで。

しかも特定の人物にフォーカスしつつも、ちゃんとバンドメンバー以外の部分もバンドを構成する一員としてのロールを与える目くばせ。ギャグめかしているバランスも絶妙。

ちょっとした部分で笑わせてくる芸コマ描写も秀逸。黒板にE=mc2を書いておきながら即興の算数の歌はへなちょこだったり。とかとか。

演奏シーンは最後の最後までお預け、というのも結構珍しいパターンな気がする。途中で一回失敗を挟みそうなものなのに。

教わる側だった生徒がジャック・ブラックを奮い立たせるという展開も、ベタではありますがやぱり燃える。真面目っぽいローレンスがフレディと小競り合うのもスキでございます。

何よりジャック・ブラックが下手くそを自覚して、それでもなお好きであるということを拠り所にするのも泣ける。

制服で演奏する、とりわけジャック・ブラックが制服を着ることの意味。抑圧され幼稚な殻に包まれながらも熱唱するその様。

個々の才能を発揮しそれぞれのオンステージを飾りながらも、才能のない彼のためにその才能を発揮するワンフォーオール・オールフォアワンの体現。

 

大きな成功はしなかった。けれど小さな勝利を収めた。ああいう塩梅のエンディングも最高。

流石リンクレイター。

 

「ゾンビ・サファリパーク」

モチベーションが「パージ」的というかヒャッハーというか。

 「ジュラシック・パーク」なんかもそうですけど、こういう生命をアミューズメント化する施設を舞台にした作品では人間側のエゴが相対化されて見えてくるわけですけど、相手がゾンビ=人の姿をしているという点では中々にグロテスクな映画ではある。

「ウェストワールド」なんかはさらに逆転の構造があったりしますが。

しかし心理的な医療目的のためにゾンビを射殺、というのは大丈夫なのだろうかこれ。逆にトラウマになると思いますけど。

女子二人のキャンプの会話で死者が云々とかって話をしているあたり、功利主義というか損得勘定と倫理観の葛藤みたいなものはやはり意識しているだろうし(そもそもリゾートという施設がまさにそ表象だし)、躊躇していた彼女がゾンビを撃つという行為そのものが彼女自身のトラウマの克服という意図を持たせているのだろう。

と思いきや特にそんなことはなさそうである。しかし彼ピっぴも主人公の女性ももうちょっとムービングをどうにかできないものだったろうか。

最後まで不殺を貫くのは立派なことです、ええ。そのために彼ピっぴがとうとつに嫌なキャラクターに変化し、彼女の不殺という責任を帳消しにしようとするのは流石に笑いましたし、挙句彼に自殺させてその銃を持ち去るというあたりの「俺は嫌な思いしたくないから」精神の徹底ぷりは逆に新鮮ですらある。

そんな彼女が「人類の責任が~」というのは浮薄では。

 

あの最後の終わり方を観るに、おっさんが生存しているあたり、あのおっさんが黒幕だったりするのだろうか。まあオチとしてはB級精神にあふれているので嫌いではないのですが、妙にお金かかってこれはうーん・・・。

アニオタくんのシャツのせいで悲壮感が笑いに転じてしまうよー。

難民の扱いは予定調和ではあるし、まあそんなもんだよね、といったところ。

 

 

エニイ・ギブン・サンデー

オリバー・ストーン監督作。控えめに言って傑作。

選手の痛みから始まり、屋内での選手の姿を忙しない手持ちのカメラが追っていく。それを口火にアメリカンフットボールの世界の病理・マチズモをこれでもかと暴き出しながら、それでいて劇映画としての情動を喚起させ感動的な着地を見せるという極めて歪な作劇になっている。

オリバー・ストーンはアメフトの、ひいてはスポーツ界隈の陰部を含めたあらゆるものを晒そうとしたのではなかろうか。それを表象するかのようにロッカールームで選手たちはスッポンポンだ。モザイクはあるけど。

はっきり言って、ラストの試合に至るまでに描かれていることはフットボール界のあるあるな汚わいばかり。

ラストの試合のようにエモーショナルに徹することはせず、極めてグロテスクなシーンをインサートしてくる。ちょっとあの眼球が転がっているカットは本当に唖然としましたですよ。

でも、全てということは、そこに含まれるのは抗いようのない熱狂や感動もだ。だから、それこそあまりにマッチョでホモソーシャル(しかも、男性ではなくその価値観に支配されてしまったキャップの妻とキャップの関係性のような多層性も含んでいるという周到さ)で極めて醜悪なシステムを描きながら、最後には感動をもたらす。

それはとどのつまり、歪な構造を含めてこの感動がもたらされているという、やはりどこまでいっても歪なフットボール世界の構造を弁証法的に明らかにしてしまったのだ。オリバー・ストーンは。

わたしもまがりなりにチームスポーツを嗜んでいたからわかる。あの熱狂、あの熱量、チームという多数の意思が単一の目的に収斂し動くこと。それが達成されたときの巨大な感動。

そして、そこにはやはりロッカールームで繰り広げられたようなチームメイト間のパワー関係もあり、決してワンフォーオール・オールフォアワンなんかではない。けれど、試合になるとそういった感情は排されてゴールを狙うための群体と化す(※強豪チームなどであれば)。

ただ何度も書いてしまいますけど、本質的にあるのは歪んだこの世界への視線だと思う。キャメロン・ディアスがママンとの会話の中で「変化していく云々」と言っている画面の横には、カウントが表示されている。彼女はカメラの前であることを意識した発言しかしていない。

そういった、チーム自体の外での歪みも決して欺瞞に覆い隠さない。

選手の意思肉体家庭、マネージャー、コーチ、オーナー、ドクター、資本主義、黒人差別・・・あらゆる要素が複雑に絡み合い、それらが歪みを生じさせて、最終的に感動をもたらす。

あまりにグロテスクで残酷な情動を体験したいのであれば、この映画は最高の一本になりえる。

 

「ツイスター」

むかーし、ちょろっと観た記憶があったんですけど、こんなに面白い映画でしたっけ?

スピルバーグ製作、というのが納得できすぎるくらい納得できる。

モンスターパニックやディザスター映画で重要なのって、実のところモンスターや災害の描写ではなくキャラクターが描かれているかどうか、というところが極めて比重としては大きいと思うのですが(実際、「ジョーズ」においてサメが出てくるシーンは本当にわずかだし)その点で言えばこの映画のキャラは最高である。

ヘレン・ハントってロビン・ライトと似てるなーと思ってたんですけど、この映画だとジョディ・フォスターにも似てるな、と。何気に「フェリス~」のアラン・ラックが出ていたりするし。

しかし今見ると故人が多くて悲しくなってくる。当時は意識して観てなかったけれど、今見るとビル・パクストンにフィリップ・シーモアホフマンとか、良い役者ばっかりですねぇ。「トレマーズ」のベーコンしかり、こういうジャンル映画においてもキラリと光るものを残していくのは流石というか。よく考えたらマイケル・クライトンも亡くなってましたね。いやぁ、なんか諸行無常

で、スピルバーグが手掛けるということでやっぱりゴアな描写があったりするあたりもご愛嬌でありんす。

いいですねぇ、この映画。金ローでたまたまテレビつけて偶発的に観たりしたときの「なんだこの映画楽しい!」といった類のわくわく感を思い出させてくれる映画でござい。

家の中を突っ切る車とか、竜巻の中とか、最後の最後にカメラが離れていって竜巻の爪痕を見せてくれるあの抜けの良さといい、良い映画ですた。

 

「アンフレンデッド」

これもPC画面のみで展開する映画なんですが、ホラーという点でサーチとは異なりますん。

結構楽しかったです。

しかしまあ、チャット系のアプリあんま使わないので若干UIとかに戸惑う。

作劇上の制限とはいえ、1人目の犠牲者が出た時点で誰も家に向かわないあたりの(正確には向かおうとしたキャラはいましたが)行動の制限が、時代性を垣間見ることができる。

しかしあんだけ友人死んでるのに音量は調節しようたしてたり、錯乱状態で変に細かいところを気にしてるキャラに笑いがこみ上げる。

あとなんというか山田悠介の罰ゲーム的というかなんというか。

プロムパーティの話をしてたってことは高校生なんですよね。妊娠させて堕胎させたとか、親友が彼女とヤッてたとか、それが原因で仲間割れ起こすとか、良い感じに年相応の馬鹿っぽさが演出されていて大変よろしい。

タイトル的にはチャット仲間の繋がりと脱糞娘と主人公の関係性の二重の意味があったり、結構気が利いている映画ではありました。

続編もあるらしいし、結構ヒットしたんでしょうね。

 

「5パーセントの奇跡~嘘から始まる素敵な人生~」

こういうの本当に苦手なんですよね。障害を持った人が頑張って人生を成功させた、みたいなバラエティ番組でありがちなタイプの映画って。

 ていうか、この映画に関して言えば詐称しているわけでありますし。もちろん、それを開示していたらそもそも研修にすら参加できなかったであろう、ということはわかりますけども。

見えづらい、という描写も時たま思い出したようにぶつかったりする程度ですし。まあ、その程度だったと言われればそれまでですけど。

 

 

冒険者たち」

Q.満を辞して開いた個展の批評が最悪でした。どうすればいいでしょうか?

A.とりあえずはしゃぎましょう。

この場面のヤケクソなんだけど決してネガティブではないのが好きすぎて。

そのまま打楽器音楽を垂れ流しながらコンゴでのバカンスシーンに繋ぐのとか、とりあえず楽しむ精神につらぬかれていて大変よろしい。

前半の賑やかさから打って変わって後半のノワール調に転じる落差に驚き桃の木山椒の木。

ともかく最後のカットの悲壮さが美しすぎてアレだけでお腹いっぱい。

あれどこロケ使なんだろ。

 

おみおくりの作法」

寡黙な映画でございます。彩度も少し弱い。しかしそれは多くを語らないことを意味しない。

外を歩くとき、少し引いた位置からネイサンを捉える。一方で、黙々と作業をしているとき(=身寄りなき亡者の過去に触れ、彼らを知ろうとする過程でもある)、カメラは外にいる時よりも近い位置にある。

そして何より、彼が無縁仏の死者について(誰かと・誰かに)語る(伝える)ときに,

より一層近づいていく。

 

白くて質素な部屋で壁に向かって食事を取る。事程左様に、ネイサンが言葉を尽くす相手は一方的なディスコミュニケーションしか成立しない身元の分からない遺体だけ。

それにもかかわらず、社会のシステム上彼らを効率的に事務的に扱わなければならない。だからこそ毎日毎日の彼の仕事場は、書類の棚で囲まれている。そしてその事務的なシステムに従わなければならない以上、彼のように誠実に死者に向き合う方法は排他されてしまう。

 

いや、ディスコミュニケーションなのは死者とだけではないのかもしれない。彼が死者に対して誠実であろうとすればするほどに、その死者との縁を持った人を説得するのは困難になる。

何故なら死者はその時点で時の止まってしまった人であるのに対して、メイが説得しなければならない人々は時(いま)を生きる人であり、それらの人にとって無縁仏は過去の人でしかない。死者に寄り添うメイとの間でかみ合わないものがあるのは当然だ。

でも、ストークのような場合もある。それまで一人で何かを口にしていたメイは、しかし彼を知る物乞いとだけは、口にするものを共にする。

黙って寄り添えるのが理想なのだと物乞いの一人は言う。

 

誰かの死を伝えてきた彼の死を伝える者はないという、あのラストは確かに一抹の無情さはある。でも驚きはない。それまで嫌というほど、この無情なシステムについては描かれてきたし、彼はその中で生きていたのだから。

冷酷ではあるもののプラチェットの言葉は偽りない事実でもあるわけで。けれどそれは、メイにとっての真実ではない。だからこそ誠実に向き合い続けたからこそのあのラストなのだし。

それに何より、あの終わり方はアイロニカルでもなければシニカルでもない。それまで彼が看取った人々が集まってくるまでもなく、彼の行いが報われた、これとないハッピー・エンドだから。

誰かが「生きる」に似ていると言ってたけど、「生きる」とは正反対の終わり方だと思う。そもそも描かれていることは似てはいるけどピントがだいぶ違うし。

 

どうでもいいけど斎藤工の「Blank13」ってこの映画にインスパイアされている部分がある気がする。

 

なんかすごいしみったれたこと書いてきたけれど、結構愛嬌のある場面もあるんですよ。犬との見つめあいとか落ちたアイスを窃盗したり(ここは侘しいシーンでもあるんですが)ケリーが来ると分かると滅茶苦茶嬉しそうに葬儀について話し始めるメイちゃんかわいいし。

このケリーさん、どっかで観たことあると思えば「ボブ猫」のヒロインのジョアンヌ・フロガットさんだったんですね。

日本語版ウィキ作られていてもおかしくないくらいには作品に出てる気がするけど、まあつくられない理由もわからないでもないというのがちょっとモヤモヤする。

 

 「孤独の暗殺者/スナイパー」

なんか重苦しい。画面の明度といい、のっぺりしたカメラワークといい。

しかし全体的に中短編っぽい趣。

父親がもう少し死ぬの早ければああはならなかったのだろうとか、まあそういうたらレバを想像したりするのは楽しいものですけど。

疑心暗鬼にかられる様とかは良いですけど、全体的には自分の体調も相まって印象に残りづらい映画ではありました。

というか、多分ほとんど体調がすぐれないせいなんですけど。

 

「リバー・ランズ・スルー・イット 」

リリカル回顧。

お爺さんの昔話を聞かされている感覚。というかそういう作りであるわけなので、当然なのかもしれませんが。不在の中心を語るという意味では霧島にも似てるかな。

なんというかジョンカーニーのhurtを思い出す。

 

ニューヨーク東8番街の奇跡

なんこれ・・・。なんかほのぼの路線だけど明らかにねじが一本抜けてますよね。

まあUFOを妖精とかもっと有機的なものに変えればより受け入れやすい感じになるのかもしれませんが、あれはむしろCGの特性を生かすためにあえて無機物を選んだのでは、とも思う。

デモン・シードもびっくりでしょう、機械が機械と小作りなんて。

まあ表情は豊かですから、小動物的な可愛さがあるのはわかりますけど。

いやあこういう珍妙なものも面白い。

 

「ベテラン」

やっぱり韓国映画(少なくとも日本に入ってくるのは)にハズレはないんじゃなかろうか。

最初は結構コミカル風だったのと、アクションの感じが一昔前の香港映画みたいで、軽い感じなのかと思いきやまっくろくろすけでございました。

公開時期のナッツ姫事件の時勢の一致もあって大ヒットということらしいのですが、そういうのを差し引いても普通に面白いじゃありませんか。

何気に脚本も凝っているし、ぺさんが階段から落下していくシーンの違和感の無さといい(アシュラでもありましあけど、こういうシームレスな編集方法)、すごいっす。

アクションシーンも何かやたら豊富で、車にはねられるシーンとか、あれスタントの人相当危なかったんじゃないかしら? 

車もどんどん壊していくし、そういえば冒頭の刑事側の車の運転ですら日中の公道で結構危ない運転の撮影していましたし、この辺がフレキシブルなのはすごくうらやましいというか、そういう規制の無さみたいなものも含めてかつての邦画の良かったところみたいなものも時折垣間見える気がする。

ちょいちょい入るギャグだけが何故かコントみたいになっているのも、あそこだけ妙な空気になるのも含めてちょっとシュールで面白い味わいだったりする。

いや、良作良作。 

 

「クイーン・コング」

吹き替えで遊びすぎていてもはやビースト・ウォーズなんて目じゃないくらいで。

いや、チープとか言われますけどそれなりに特撮は観れますよ。何故なら作品そのものが極めて卑俗的だから。

いや、まあ、そういう意地悪な言い方はせずとも、結構観れると思うんですよこの特撮。だって日本に入ってきたのは21世紀でしょうけど製作年は76年ですから。違和感がないのは、画面の質感がそのまんま70年代だからであり、そこで用いられる特撮技術と合致しているからなのです。

「阿吽」と真逆のアプローチである、というような視線で観れるというか。

ていうか、今見てもそりゃまあ多少はチープかもしれませんけど全然観れるレベルの特撮だと思いますです。

 

また、この映画は計算されて作られているあたりの賢しさも見える。

ホットパンツの女性のドアップだったり、ともかく序盤は女性の露出度の高い姿で(男性)観客の興味を誘引するような仕掛けになっていて、しかしコングが登場してからはそういうのはなりを潜めてくる、というあたりは結構用意周到だと思いますです。

オリジナルの製作は76年なんですけど、吹き替え声優の挟んでくる小ネタが90年代のものがあったりするので、すごいタイム・パラドックスがあるなーと思ったら日本に入ってきたのが2001年。

うん、まあ吹き替えのテンションで観ないと厳しいかもしれないとは思いますけど。

しかし吹き替え、というのはやはり映画の観賞方法の一つとして重要なのだな、と改めて想ったりする。

 

それにしても前述のような女性のエロで釣っている(クイーン・コングの乳房と乳首にだけ毛が生えていないのは腹が立つんですけど)くせに、まるでフェミニズムを掲げているような展開になる(一応、冒頭から女性の力をアピールしていたりするんだけど)あたりの倒錯っぷりもなんか癖になる。

いやもちろん、フェミニズムに対するアンチテーゼだと解釈するのがまっとうな見方なのだと思いますが・・・わからない。

60年代後半から70年代前半にかけてのウーマン・リブに影響を受けた部分もあるのかもしれませんが・・・とかそれっぽくガチっぽく語るよりもやはり一本のおバカなカルト映画として語るのがこの映画にとっても観る方にとっても幸せなのではなかろうか。

広川さんだけでなくほかの声優陣の小ネタまで拾っているときりがないので、百聞は一見に如かずということで吹き替えを見ることをオヌヌメします。

いや、結構好きですこの映画。

 

「バイバイマン」

「リング」の口伝バージョン、というか。あちらはまさに「映像」を観ることによって感染するという映画に忠実な映画(なんだこの言い回し)だったような気がするのですが「バイバイマン」はその情報伝達が言語であるというのがかなり興味深い。

 

こと「伝える」ということに関しては人間は言葉に大部分を依拠していて、なおかつ情報を伝える(あるいは伝えない)ということは社会性動物である人間にとっては生存において重要な役割を持っているはずで。

本質的に、人間は言葉によって情報を伝える生物であり、それがこの映画の燃料になっていると思う。そこにあるのは能動性、というか「観る」という行為は相対的に受動的であるというか。

えーともかくそういうアクティブな伝えたいという欲求(不満の解消)の発露。恐怖を一人で抱え込むことへの不安、それを共有したいという願望。4人が手をつなぐシーンなんて、まさにそれそのものでしょう。

そういう、人間の持っているシステムを巧みに使っているのがバイバイマンというクリーチャー。

これ、たとえばブキミちゃん的な話だと思えばわかりやすいと思うんですよね。それが危ない情報だと分かっていても(あるいは逆に分かっていないから)伝えずにはいられない。好奇心であれ恐怖心であれ、そうやって致死性の情報が拡散していき被害者が増えていく。

あとはバイバイマンの殺し方。ここでまた「視覚」的な演出を取り入れているのもグッド。それが、逆説的に目に見えるものだけを信じるしかない人間の脆弱性を暴いているのも、まあ別にこの作品がトレイルカッターというわけではないですが、こうはっきりとした一つのモチーフとして使ってくれるのは珍しい気がする。この辺はちょっと「スパイダーマンFFH」のミステリオ戦を思い浮かべたりするあたりだったりしました。

 

あとはそう、昨今の情報社会(この言葉も懐かしい響きを帯びているなぁ)における真偽のわからない情報に踊らされる現代人のメタファーとして捉えるのもアリっちゃアリなのかも。

ほかで気になったのは、黒人が疑われ・(幻覚において)たぶらかし・殺人をおかし・襲われる対象に終始しているという点が、すごく意図的なものに思えたんですよね。

そして、そこに口伝という語りが加わることで人種問題みたいなものをそこはかとなく盛り込んでいるのでは・・・というのはさすがに考えすぎだろうか。

 

まあ、ナイトテーブルのくだりとか、特にラスト方面の姪っ子のどっきりのためだけに粗雑に処理した印象は否めませんし、手放しでほめられるものではないと思いますけど。

 

あの幕引きの仕方はB級にありがちではあるものの、よく考えればバイバイマンのロジックとしては至極当然なのですよね。自己(という概念がバイバイマンにあるのか不明ですけど)の存続・拡散のためにはそのコミュニティ内を全滅させてしまっては不可能になってしまいますから。

そういう意味で、極めてウィルスとかの感染プロセスみたいなものを踏襲しているんですよね。そういう意味でも貞子的というか。

 

個人的にはバイバイマンはむしろあそこまでクリーチャーっぽくせずに徹底的に(それこそ貞子みたいな)霊的な存在であった方がより生理的な恐怖を掻き立てることができたんじゃないか、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。

 

「ミラクル・ニール!」

まさかの犬映画で犬エンド。「少年と犬」並みの犬エンド。

てっきり「宇宙人ポール」みたいなポンコツナードのお話かと思いきや、なんか所々にブラックジョークが散りばめられていたり作風が全然違ってたので調べてみたらモンティ・パイソンテリー・ジョーンズだったんですね。んでもってロビン・ウィリアムズの遺作と。

 

力を与える人間のリストの中にリベラル気どりの福音派であるサラ・ペイリン州知事だったり、まあ露骨なアメリカンマッチョとかはそれらしい。

あと妙に下ネタが多いですね、メタファーとしてだけど。ストレートなうんこネタとかもありますけど、くだらなすぎて面白いと捉えるかやっぱりそのままくだらないと捉えるか、分かれそうではあります。わたしは前者ですが。

あの宇宙人たちの倫理観が実は、ってとこらへんなんかも星新一的で面白い。

ちらっとブライアン・コックスが出てるのもお笑いポイント。

まあ犬の扱いが良かったのでOKです。

 

「エイリアン・スナッチャーズ」

こういうどうしようもない映画をVHS画質で観るとノスタルジーに浸れる。

しかしこの映画のどうしようもなさったら本当にない。

この映画ときたら「戦争で人類滅亡しちゃいました。別の銀河(数光年先らしいんですけど、それって同じ銀河内なのでは?)の宇宙人も病(吹き替えなので、原語はもっとちゃんとしたワード使ってるのかもですが)で滅亡寸前なので人類との異種交配で存続しようぜ。そのために人類にセックスさせようぜ」

どうですかこれ。中学生並みの設定でしょう。そこで描かれる交尾の様子ときたらやたら長くて3,4回にわたって描かれる割に腰は動いてなかったりカメラアングルにしたってAVの方がよっぽど凝ってるしそのくせやたらと乳首だけは出そうとするし洋ピン特有の糞ダサいずっこけBGMが流れ出すし、中学生並みのエロ妄想と中学生並みのアダルトビデオ知識で出来上がっている始末です。

そんな映画に何故か登場しているアダム・ボールドウィン、というのも笑いどころとしてカウントできる。

 

そういうどうしようもない映画なのですが何故か宇宙船の模型だけやたらと凝っていて、なんかの作品の流用なんじゃないかとか思うんですよね。船内のセットはバカ殿並みなので。

いやもうね、ツッコミ出したらキリがないというか、そういうツッコミどころを笑ってあげることがむしろこの映画を楽しむためのスタンスなのではと思うわけですね。

編集とかセットとかカット割りとかサウンドエフェクトとか、そういうものの良しあしを知るための反面教師の素材としては優秀であると言えるでしょう。

冒頭のモンタージュの説明不足っぷりやジャナさんの笑ってしまう死体のポーズを何故かカメラに収め続ける謎アングル。

生殖器に遺伝子コードを移植したと言う割に、手術の映像では横隔膜付近にメスを入れているというちぐはぐっぷり。

やたらと一の高いベッド。

何故かジャナとトリットが起き掛けで不自然に仲が悪いし、躊躇なく瓶のようなものでトリットを殴打する勢いとか、機嫌が悪かった理由も特に説明されずに仲直りしていたり、誰がエイリアンに化けているかわからない状況で自分でも「ジャナと行動する」とか言っておいてさっそく彼女を放置しておいて彼女は殺されちゃうし。

 等々、笑える要素は結構詰まっています。

 

だけどまあ、敵側(一応)にも反乱分子がいて、それが誰なのかわからならいというツイストは上手く描けば面白くなりそうだったり、無駄に長くて無駄なシーンが多かったりするので、それこそトワイライトゾーン的に尺を1時間程度にして上手く編集すればそれなりに見れるものにはなりそうではあります。

それはそれで退屈なものに仕上がってしまいそうではありますが。

 

しかし4人のうち3人が反乱分子ってそれもはやお前が反乱分子だろ。

 

「落としもの」

 

絵本作家ショーン・タンが自らの絵本を原作に、共同監督としてアンドリュー・ラーマンを据えて自ら短編アニメーションとして映画化したもの。

ちひろ美術館で開催されていた「ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ」の展示の一つとしてリピート上映されていたのを観賞。

そもそもがこの展覧会で彼のことを知ったのですが、中々どうして素晴らしい展示ございました。

「落としもの」とは別ですが「アライバル」の絵コンテやスクラップでコラージュしたものなどなど、見所盛沢山でござんした。油絵でメルヴィル通りを描いた作品などの小品も良いのがたくさんありまして。

展示を見るまで、人間ではない生き物をメインに描く、それこそファンタジックな作風なのかと思いきや、この「落としもの」もそうですが「アライバル」を筆頭に社会的な、そこから帰納される生き方のようなミニマルな問題を表出させる人なのだなという印象を受けました。


して「落としもの」なのですが。
えー何というか、わたしはとてもテリー・ギリアムちっくなビジュアルの世界だな、と思いました。

たとえば大きなタンスのような引き出しから大量の書類を渡されるシーンは「未来世紀ブラジル」(よりはまあ、「うえきの法則+」のモップをゲットする場所に似てるんですけど)ですし、いくつもの標識が組み合わさった標識の集合体のビジュアルは「ゼロの未来」で観たものでもある。いや、あっちほど理路整然としているわけでもないし、時系列的には「落としもの」の方が先なんですけど。共通するものがある、ということで。

あるいは、冒頭の浜辺で主人公とあの奇妙な生物の真後ろに屹立するダムのような巨大な壁(に見立てられているもの)や、彼らが戯れの中で使っていたビーチボールをゴミとして黙々と処理していく白服の男たち。

ギリアムっぽいとは言いつつも、展示されている原作のロスト・シングからはそこまで感じなかったんですよね。が(それとは別にこのロスト・シングは日本の絵本に慣れている身からすると構図とかコマ割りとかバキバキに凝っていて滅茶苦茶楽しいです。絵本というよりは漫画的な技法に近いかも)、それをアニメーションにする過程でより緩いディストピアなイメージが盛り込まれているような印象。

それは多分、絵本では省略されざるを得ないコマとコマの過程をアニメーションという動きをくわえて描出することで立ち現れてくる空気感とも呼べるようなものだと思う。

ディストピアといってもわかりやすく完全統御されたガチガチの世界観ではないのですよね。むしろ個人の生活と密接に繋がっているがゆえに気づくことのない緩やかな、それこそ環境管理型権力が蔓延した(つまり私たちが生きる現実と全く同じわけですが)社会。

たとえば主人公の暮らす家。その家と全く同じ形の家々が立ち並ぶあのサバービア的な気持ち悪さ。あるいは見た目が均質化された町中を往来する人々の「顔」のなさ、その顔のない人々の行列が主人公と不思議な生き物の二者以外は前へ倣えで一方向に進んでいく様。

そんな社会の隙間、路地の間隙にある華やかなイマジネーションに溢れた世界。あれが、この緩慢なセクショナリズムに覆われた社会にあって唯一彩に満ちた空間であり本来持っている創造性なのでせう。

けれど、その不思議な生き物を見ることができていた主人公が最後にその緩やかな社会の中にじんわりと溶け込んでしまうことになるあのラスト。

カメラを引いていくと、主人公を乗せた列車と同じような車両が無数にレールの上を、あの町の中を走っていく様。

彼が落としてしまったもの、ロスト・シングとは何か。それを言葉にしてしまうとあまりに陳腐でチープなのでわざわざ書くことはしませんけれど、後生大事に抱えていきたいものであります。

本編とは別のことで一つ。
ストップ・モーション・アニメーションやセルアニメでの表現を期待する人がいるというのもわからなくはない。
ないのですが、9年かけて製作したということは(もちろん9年間それにのみ注力していたというわけではないことは承知の上で)、そのプロセスの中で手法についても十分に考える時間があったわけで。

「アライバル」の映像化の話のエピソードから考えれば、彼はコストパフォーマンスというものよりも「表現として」の部分を重視している気もしますし、であれば観客として考えるのは「なぜ●●じゃないのか?」よりも「なぜCGだったのか」ということなのではないかと思うのです。

 とはいってもバジェットの制約というものとは逃れがたいので、種々の都合の兼ね合いでCGにしたのでしょうけど。

けれどほぼ全工程でショーン・タン自身が関わっていることで、彼の絵で描かれる非実在のオブジェクトの質感は、むしろ実物として存在するものを動かすストップモーションよりも適しているとは思います。

とはいえ展示されていた立体物を見るとストップモーションでの表現というのもかなり期待してしまうのも禿同と言った感じなのですが。

 

「ジョニー・イングリッシュ」

かなーり前にちょろっと観た記憶があったんですけど、頭空っぽにして観ると今でも笑えますな。というか「007」のパロディだと分かってなかった以前よりももっと好意的に観ている自分がいる。

しかしぐっさんの吹き替えが思った以上に男前で笑ってしまいました。

あとマルコビッチがこんなにメインで出ているとは思わなんだ。

 

 

突入せよ!「あさま山荘」事件

 そういえば原田監督の作品ってほとんど観たことなかった。「クライマーズ・ハイ」くらいじゃなかろうか。

そんなわけで観たんですけど、いやはや「シン・ゴジラ」よりも先にやってたんですね、ああいうこと。

序盤のハイテンポに進んでいく警察側の動向の描き方ってあんまりない気がする。原田監督のリメイクした「日本の一番長い日」の批判を聞くに、なんとなくこっちでもうサンプリングは済ませちゃっているから、なのかなと。

あさま山荘事件を扱ったものなのに連合赤軍側の顔は確保の瞬間まで一切映さないという徹底ぶり。

その代わりに描かれるのは警察側の内情。徹底して警察の内部の動きだけを追っていき、それがずっこけまくる様はまるで警察側の独り相撲のようですらあり、自壊にも近い様相である。

くだらない縄張り意識からくる内輪揉め、トップの無能っぷり、衆愚の厄介さなどなど、まあ観ていて滑稽で笑えてきます。

その滑稽さが極に達するのが連合赤軍を確保する際に高らかに鳴り響く勇壮なBGM。あれの阿保っぷりたるや。

けれど、ずっと警察側のゴタゴタを見せられた観客は嫌でも感動を励起させられる、という恐ろしさ。どことなく「エニィ・ギブン・サンデー」ぽいというか。

そういえば山路さんがこれだけメインで出てるのってブレイドの他では観たことないかも。いや、あの人は声優でもあるけど舞台でも結構活躍してる人なので私が観てないだけなのだろうけど。

 

スリープレス・ナイト

フランス映画のハリウッドリメイク、ということらしい。オリジナルは知りませんがこっちの出来はうーん…。

まず冒頭のアクションシーンがカット割り、カメラワークの見せ方が下手っぴい過ぎていきなり気を削がれてしまいます。

ほかにもアクションシーンはあるものの、カメラマンのやる気がないのかゼロ年代初期のアクションのようなモッサリ感が…。

野球場でのアレはオリジナルからあるのかアウトレイジオマージュなのかわかりませんが、やるならしっかりやれと。いやあそこをしっかりやられてもそれはそれで困惑するんだけど。

思い出したように腹部の傷を労わりはじめるジェイミーフォックスに笑ったりしつつ、まあなんというか午後ロー送りにしておくのが一番いいのかな、と。上映時間的にも。