dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ピピン生存ルート

「MEG」観てきました。

インデペンデンスデイ」のサメ版ですな。ガジェットの感じも含めて。

まあね、今更こういう映画を観に行って「お話が云々」とか言うのはカップラーメンにキャビアが入っていないと喚くくらい愚の骨頂なわけで、そこに来るといかにして楽しむか・製作側の提供するものとシンクロできるかという部分がこの種の映画を見る際に求められるものなのかもしれない。

まさか自己犠牲展開を2度もやるとは思いませんでしたが、個人的にでかいスクリーンでマシ・オカを観るということだけでなんか変に得した気分になれたりするのです。しかし顔変わらないなぁ、この人。

あとはリー・ビンビンの化粧が厚いなぁとか、ステイサムのヒゲともみあげの境界線がわからなくて面白いなぁとかね。

しかし個人的にはピピンちゃんが生きていたどうでもいい目配せとか、結構好きだったりするのです。ああいう、こういう作品では本筋からは心底かけ離れたどうでもいい部分で変に気を遣ってくれたりすると嬉しいんですよね。「ちえり~」がその真逆だったので余計に。

個人的にはアイスデブ小僧を殺してくれたりしたら大満足だったんですが、まあ大きい鮫の明らかな怪獣映画を意識していて楽しめましたし。

 

しかし一番面白かったのは鑑賞後に見かけたシャークネードの4DXをこのシネコンでかけるというニッチをつついた広告だったりする。

なんかしょうもないですけど。

かいけつゾロリを探しに行ったら短編映画2本観れたの巻。ついでに最近観た短編アニメについて

はい。そういうことなんです。

先週の週末、友達にパチンコに誘われたんですが、その友達が「かいけつゾロリ探したいから図書館行こう」と成人の口から聞くにはやや珍しい単語を口にしたことがきっかけで図書館に行くことになり、その図書館でたまたま無料上映会がやっていたので予約することに。

で、本日観に行ってきたのでした。ちなみに、その映画というのは「チェブラーシカ 動物園へ行く」と「ちえりとチェリー」というストップモーションアニメ2作品でした。上映後は監督のトークもあり、市町村の図書館が開く無料上映会にしてはやや豪華でした。(司会進行の女性司書らしき人と監督が同期ということを口にしていたので、そのツテとかあるのかもしれませんが)

監督の経歴がいまいちよくわからないんですが、元々はアニメなどの脚本を手がけていて、そのつながりだったり、チェブラーシカの原作者のインタビューだかドキュメンタリーの撮影をしにいったときにできたツテなんかで企画を任されることになったとか。なんか演出が全体的にクドさがあったのはそのへんも関係しているのかしら。

 

んで、内容。

友達のゲーナ(ワニ)が帽子を盗まれて風邪をひいてしまったため、彼の代わりにチェブラーシカがワニとして動物園で働くことになる、というお話。ええ、書いていていよくわからないですが、このとおりなんですよ。チェブラーシカってギズモみたいなやつなのにワニとして通用するんかいな、というところなんですが、まあ通用しないんですよ。だけんどワニを知らない子どもはチェブラーシカをワニだと思ってスケッチしてそれを宿題として提出して先生マイッチングだったり、そんなときに意地悪なおばあさんがキリンのいるところにライオンの看板を立てたりしてごちゃごちゃにしたり、なんだかよくわからないまま終わるのです。

人とその他の動物が対等というか動物が完全に擬人化されていて普通に家に住んでいたりするのに動物園で見世物として働くというのはなかなか珍妙なバランスで、初チェブラーシカな自分にとっては驚きでした。

フリークスを動物に見立てていると考えると色々面白いんですが(いや面白くないか)、まあなんだか変なバランスでした。

ストップモーションのアニメーションそのものに関しては、正直なところ特筆するところは特にない、というあたりがNHKの普通の枠でやっていそうなクオリティ・尺・話なので、どうも映画を観ているという感覚ではなかったですかな。環境も視聴覚室ということもあって、なんというか学童クラブに通っていたときにたまに観る漫画映画のような視聴体験というか。

 ちなみに一緒に観た友人は「チェブラーシカのグッズ買って燃やそう」とチェブラーシカに対してイラついていました。まあ、わからなくもないというか、私がアニポケのプリンに対してイライラするのと同じような感覚なのでしょう。

そもそもチェブラーシカに関しては大学時代の授業でちょろっと観た程度なので詳しいことは知りませんので、なんか不思議な世界観でしたな。ただ、共同脚本の人が「霧の中のハリネズミ(霧につつまれたハリネズミ)」にかかわっていたとかなんとか。あれ、原作のほうだっけかな。

このハリネズミの方もちょろっと観ましたけど、こちらはすごく良かった記憶があります。絵本をそのまま動かしているような、粒子感というか。

キリンのデザインがエロいとかライオンに黒髪ストレートな髪型といった狙ってはいないのだろうが絶妙にキッチュな感じとか、あまりないバランスでよかったですね。

それと、原作者が今年の8月に亡くなっていたようで妙なシンクロニシティが。

 

 「ちえりとチェリー」

チェブラーシカがロシア人に合わせて作ったので、こっちでは日本人向けに作りたかった(それでも海外の映画祭では普通に受けた、とのこと)ということらしく、キャラデザがまさに日本アニメ的な(伊藤を援用させてもらうなら、私はそれこそ「怠惰なキャラクターデザイン」だと思いますが)人形だったのが、ほかのインディー系の日本人ストップモーション監督やスタジオライカ、ウェスなんかとも違うなと。

しかしやたらとメンツが豪華なんですよね。

星野源尾野真千子といった有名俳優から敦子さんや谷育子さんといったベテランの声優、サンドウィッチマンもちょい役で出てましたし。

主題歌の作詞作曲がミスチルの桜井というのもですし、公式サイトのコメント見たらブラッド・シフ (スタジオライカ アニメーションスーパーバイザー)とか「ズッキーニ」のクロードとか村田朋泰監督とか、ストップモーションアニメ界隈では知らない人はいないビッグネームも寄せてますし、なんだか箔付けがすごいぞ。

まあ「ジェリーと恋と靴工場(だっけ?)」とか「ターミネータージェネシス」でのキャメロンのリップサービスなどからもわかるように、本編で判断するべきであるということは常に頭に置いておりますゆえ、率直に感想を書きますが。

 

ちなみにストーリーはこんな感じ↓

 

ちえりは小学6年生の女の子。幼い頃に父を亡くし、母親と二人暮らし。

母親は仕事に忙しく、ちえりの話し相手をしてくれない。

そんなちえりの唯一の友人が、父の葬儀の時に蔵で見つけたぬいぐるみの“チェリー”だった。

チェリーはちえりの空想の中では父親の代わりにちえりと話し、遊び、助言し、守ってきた。

ある日ちえりは、父親の法事のため、久しぶりに祖母の家にやってくる。

そこでちえりを待ち受けるものとは…… 空想と現実の狭間で、不思議な冒険が始まる!

 

と、いうわけです。

なんかプロットはほとんど児童文学の「ぼくが消えないうちに」かな、と。まあ子供の想像力云々で描くとしたらこんな感じになるのでしょうね。そこにSF要素を足していったりすると「ペンギン・ハイウェイ」になったりするのでしょうが。

チェリーが胴長短足の割に逆三角形な体格で面白いとかカラスの鳴き声がなんかヘボいとか、屋内なのに服がめっちゃたなびいてる(演出であることはわかるが)とか、そういう重箱の隅は置いておいておくとして、ストップモーションとしてはかなり上質な部類じゃないでしょうか。

そりゃ「KUBO」を見たあとではどうしても表情とかはフルアニメーションとミリテッドアニメーションのそれ以上の差があるように見えてしまいますけど、ないものねだりというものですので。それに、あの目のサイズっていうのはある種それをカバーするためでもあったのかなとは思ったり。日本人は目から表情を読み取るのに対し欧米諸国だと口から表情を読み取るといった研究もあるらしく(顔文字なんかその典型例ですが)、日本人向けにというのはそのへんも意図しているのかな。まあ単純にドローイングの日本アニメのキャラデザをコンバートしただけなんでしょうが。

あと負の想像として出てくるどんどらもっけ(超うろ覚え)みたいな、要するに怪物なんですけど、それが明らかに貞子・伽耶子のミックスでちょっと笑えました。や、小さい子が見たら多分泣きますけどねあれ。人型であるぶん、タタリ神的な気味悪さとかはない露骨なホラーデザインなので、やっぱり怖いと思います。

まあでも、やっぱり全体的には日本のアニメーションのクリシェストップモーションに置換したような印象は強いかな、と。いやまあ、わたしが擦れた人間なのでこういうのが受け付けなくなってきてしまっている、というのは否定しがたい事実ではあるのですが。

序盤で回想を2カットインサートするだけに留めたかと思えば後半でがっつり見せるのはちょっとビビりました。回想の色調とその前後の物置での色調がやや被っているんでは、と感じましたけど、どうなのでしょう。

現実と空想のシンクロ、というかパラダイムに繋がっていくというのはややもすると今敏を思い浮かべそうなものですが、どっこい失敗ケースとして「リアル鬼ごっこ」というのがありましてね。平行世界での危機を回避すると、なぜかもう一方の世界での危機が(説明なしに)回避されるというシーンがありましてね、これはそっちパターンにやや流れているようなきらいがありますです。

うん、たとえばね、暗殺教室みたいに試験のメタファーとして描かれるように、ちえりちゃんが母犬を助けようと何かをする(あるいはお医者さんに届けるまでの道程をアンクル・グランパ的に描くとかね)というのならわかるんですが、現実と空想がパラダイムに描かれるのではなく現実と空想が完全に折り重なっているために恐怖(ここでは死とほぼほぼ=でしょうが)の表象として機能するはずの怪物がほとんど「死」そのもののように描かれていて、怪物を撃退するとなぜか弱っていた母犬が無事出産するのですな。

ちえりちゃん、それもう空想とか想像力とかじゃなくて神の御技ですよ。

まあ、これはこれでありだとは思うんですけど、最後の最後に生まれたばかりの赤ちゃん犬を抱いて家の玄関の前で待ってるシーンはもう少し考えてほしかったですよ。

だってあーた、母犬がその場面にまったく映らないんですもの。母犬からかっさらって親族に見せびらかすために抱いてるようにみえちゃいますよ。ていうか母犬はちゃんと生きてるんですよね・・・? ほらぁ、出産たる大義(ハオ様曰く)の直後の母犬への配慮が行き届いていないからどちらかといえば犬派(猫も好きです)な私のような人間は気になってしまうのですよ。「ワルツ」の蝉ではありませんが、人がボコボコにされているより犬や猫がボコボコにされている方が胸糞悪くなりますし。

前半から中盤で使われていた抑え目のBGMはよかったですな。「ワンダと巨像」を思い浮かべる感じで(と思って調べたらガメラシリーズ」や「ワンダと巨像」、「カラフル」を手がけた大谷幸さんでした。意外とわたしの耳も信頼できるのでは?)。ただ、後半に近づくにつれて露骨に「ぱぁー」としたメロディが強くなっていってちょっと内容と合わせてクドさがキツかったかな。

うん、でもそれなりに楽しめましたよ。ホラー成分のところは個人的に好きですし。

未亡人のママさんの色気とか、尾野真千子の演技も相まって半端ないですし。

 

ちなみに、これマクアケのCFで製作されたっぽいんですが、どうもプロジェクト第2弾がやっているようなので気に入った方は支援するとよろし。

 しかしこうして見るとちえりちゃん、アイマス天海春香っぽいなぁ。アイマスやったこといないけど。

 

監督のトークはかなりグダグダでした(笑)。一日のスケジュール表は小さすぎて読めませんでしたし、まあ銭湯によく行くんだけど最近身バレして辛いとか自虐風自画自賛していたりはしましたが。

面白い話としては各地の映画祭なんかでの反応とか、チェコでは字幕や吹き替えではなくボイスオーバーだったり、という話は面白かったです。

あとは質問タイムのときに監督の追っかけなのか知らないですが、犬ヶ島と絡めて人形のサイズの話でセットの関係とかに飛んで、「ちえり~」では本物の大工さんにセットを組んでもらった話とか出てきました。まあそのへんは別に、特撮まわりのメイキングなんかに触れていればそこまで目新しい話題というわけでもないんですけど。

他には海外スタッフとのやり取りは通訳を通していましたとか、制作現場の話をちょろっとしていました。

あと、監督は小学生の頃は作文が得意だったらしいですよ。

 

 

 

それらとは別に「WEEKENDS」という短編アニメが期間限定でこの前まで観れたのでそれを観ました。

セリフはなしなのですが、それでも十分わかる。

新しい男の鼻から上を映さなかったりね。

最終的にあの夢の中で自宅と実父(おそらく)の家の安全で安心な空間をミックスした場所で外を眺めて終わる。

そういうの嫌いじゃない。

蟻男と蜂観てきた

もはやMCUというだけで監督チェックすらしないで観に行くようになってしまった。

監督は前作から引き続きペイトン・リード。彼の作品だと「イエスマン」がぶっちぎりで好きなんです(ジム・キャリーズーイー・デシャネル成分がほぼ)が、「アントマン」も普通に観ていて一番気軽に楽しめるバランスだったので、今回もそんな感じのテンションで観に行きました。

なんか途中で膝がやたらと痛くなって終盤はちょっと集中ができていなかったのがががが。

 

まあ劇中でも言われてましたけど量子マンボジャンボが万能すぎるきらいがあるっちゃある。そもそも、前作からして「小さくなるのに質量はそのままってことは小さくしたところで車の重量とか変わらないのでは?」という疑問もあったりしたわけですが、今回はまあいろいろすごいです。先代ワスプはどうやって30年も生きてたのか(年取ってるから代謝してるわけで、だとしたら何食ってたんだとか色々ね)とかまあ色々。

それと今回のアントマンはどうもMCU全体の繋ぎのような側面というか本筋に絡む部分をクレジットの後に用意している以外はないので(「シビル・ウォー」とかへの言及はありますが)アントマンだけ観ていれば、という意味では観やすくはありますけんど、それゆえにある種どうでもいいというか作品そのものが閑話休題的というか。

ゴーストの紹介するところの本当にキャラ説明のためだけの説明とか、バックグラウンドの薄っぺらさとかは三すくみにしたがゆえに削られた部分なのかな、と。

いや、楽しかったですけどね、全体的に。

 

個人的に一番ツボだったのはローレンス・フィッシュバーンでした。あらゆる映画ユニバースをまたにかける男。

いろんな娯楽大作映画のユニバースに登場していて、今回の量子世界の話を考えるとやっぱり楽屋オチを意識しているのではないかと思う人選なのですよね。DCにも出てるしジョン・ウィックにも出てるし。

 

しかしこれができるのであればグレッグ作品の映画化もできそうな気がするんですけど、誰かやってくれないかなぁ。

 

サークルクラッシャーとしての宮崎あおい

いや、前から気になっていた「害虫」を観ましたですが、これ今見るとキャストとかちょい役に木下ほうかとか伊勢谷友介とか芳賀優里亜とか大森南朋とか出ていて面白い。

あと、サチの役に宮崎あおいで夏子に蒼井優というのが今だとむしろ逆のキャスティングの方が行人的には納得できるような感じがあるのもすごく時代を反映している気がして。

塩田明彦監督といえば私の世代だと悪名高い「どろろ」が印象に強いところですが、この「害虫」を観る限りなぜアレを作ったのかと問い詰めたくなる(まあ書籍で自戒していたりするらしいのですが)。全体的に雰囲気が黒沢清「叫」っぽいんですけど、やっぱり川とか廃墟じみた建物が原因なのだろうか・・・。

ファム・ファタール宮崎あおいというだけでゾクゾクくるんですけど、あの幼く自分でもわかっていないまま他者を陥れていくまさに天然デストロイヤーがたまらなくツボなのである。あれ、ラストをどう考えるかということで行くとむしろ伊勢谷が当たり屋青年と同じ末路になりそうな可能性がありそうで。

まあでも、不自由なまま自由を謳歌しようとして結局は袋小路に自らを追い込んでいるわけだし、最終的には緒方先生を巻き込んで道連れバッドエンドという未来も見える。

サチ自身が自らの感情に振り回されているというのがなんとも。しかしキュウゾウさんは放火犯として確実にムショ行きですが、それを考えるほどの余裕がないというかそれよりも逃避を選ぶのが実に中学生らしいというか。

 それにしてもげに恐ろしきは蒼井優よ。宮崎あおいに積極的に関わっていきながらせいぜいダメージは好きだった人をNTRれただけなのですからね。母は自殺未遂、タカオはボコられ(まあ彼は常習犯ぽいのでサチがいなくても遠からずああなっていたでしょうが)キュウゾウさんは間違いなく豚箱行き。徳川も自業自得というかサチにまったくの落ち度はないわけですが、サチがいなければ夫婦として円満にやっていけたかもしれないわけで。

そう考えると蒼井優はやはり只者ではない。

 

しゃぶしゃぶシーンの遠のいていく食卓演出とか、机を引っ張って自らノイズキャンセラーとするところとか、なんか胸にざわつくシーンが多いのも印象的。

 

おそらく、この世で最もタチが悪い種類の人間の一人がサチなのでしょうね。みなさんの周りにサチがいたら関わらないのが吉。

西宮さんマジ天使

と書いたのですが、本編をご覧になった方はこの言葉が皮肉であることはわかるでしょう。

聲の形」(じゃなくてTHE SHAPE OF  VOICEですか(失笑))がまさかここまで不快極まる映画だとは思わなんだ。なんかウィキが充実してるのも腹立たしいんですが。

 

漫画の方は途中まで読んだ記憶はあったのですが、内容は本当に忘れていて、今回のアニメを観ても原作がどうだったかまったく思い出せないくらい印象に残らなかったんですよね。もし、原作の内容がアニメと同じだというなら、今読んだら間違いなく嫌いになるだろうな、と思う。

この映画なにが不快かって社会的弱者とされる人を慰みものに、登場人物が揃いも揃ってカマトトぶりながらマスターベーションしてるんですよ。そのくせ石田くん以外は大して印象に残らないし。石田くんにしたって、メインに据えられたことの不快さの印象ですしね。自罰のため(もしかしたらそれすらポーズなんじゃないかと思えるんですが)西宮さんをオナペットにしている。

正直言って気持ち悪い。

作ってる途中に何かおかしいと思わなかったんですかね、これ。作り手も劇中の人物も、誰も西宮さんの声を聞いちゃいない。それどころか封殺してしまっている。

西宮さんから人格を奪い去って神格化=非人間化することで西宮さんを強者たるいじめっ子たちにとって都合のいい存在として描いているだけなんですもん。しかもあんな小奇麗な作画で。

はっきり、そして徹底的にほかの登場人物たちにとって都合のいい女としてしか描かれていないんですよ、西宮さん。

唯一、彼女が人間としての感情を発露したのは小学生時代のシーンで石田くんと取っ組み合ったところくらいでしょうか。

さらに腹立たしいのは、いわゆる俺TUEEEEハーレムものと同じ構造を持ってもいるということ。が、それよりもタチが悪いのは俺TUEEEEではなく俺YOEEEEでハーレムを形成していること。弱いこと自体は責めることじゃない。それを笠に着て碇シンジくんごっこしてるのが気色悪いんです。

石田くん、表向き(というか劇中の描写として)は贖罪意識を持っているように描かれてますけど、あんなのポーズですよポーズ。「ぼく弱いモン」と観客にアピールするだけして、西宮さんのことなんてこれっぽっちも考えてない。西宮さんがどう思うかではなく、自分が彼女をどう思うか・彼女にどう思われているかしか考えてない。この映画自体が石田くんの主観で進むため、そういう構造に陥りやすいというのがあるのですが。

あと、石田くんに好意を持たせるというのはいいとしても、西宮さんに口で喋らせるというのがもう、本当に石田くんに彼女を寄り添わせるんだなぁ、と。だってね、西宮さんにとっての言葉っていうのは手話(筆談もかな)なんですよ。彼女にとっての言葉を捨てさせ、強者たる石田くんたちの言葉である口で話させようとするんですよ作り手は。

確かにそれは彼女なりの頑張りであることは確かだろう。もっとも、それは石田くんにとって都合の良い頑張りでしかないんだけれど。

 

しかも彼女を非難するような描写すらある。石田くんが橋のところでふさぎ込んだあとにみんなが離散していくシーン。あそこでね、西宮さんの困惑したような顔を映すんですよ。なにそれ。そこまでして西宮さんをいじめたいわけですか。石田くんは石田くんで「つれーわー、まじつれーわー」とミサワってるし。

この辺、ほとんど主人公の石田くんの行動と映画そのものの物語が一致しているので、作り手の意識の底にあるものなのかと疑いたくなる。

 

で、本当に信じられないことなんですが、西宮さんの人間性が剥奪され石田くんの自我の肥大が極に達するシーンが2箇所もあるんですよ。西宮さんがマンションから投身を図るシーン。西宮さんの顔を映さないんですよね。石田くんからの視点から描かれる彼女の背中だけを画面は追っていくんですよ。

マジか。自殺しようって人間の感情をここまで徹底的に排して石田くんの贖いの道具に徹底されるのか。

本当にどういう神経してんでしょうね。

しかもね、彼女が自殺を図って代わりに石田くんが入院することになってからね、なぜかわからないけれど西宮さんがほかの人のところに赴くんですよ。元々彼女をいじめていた人とかのところに。

いやいや、オメーらが西宮さんのとこに来なさいよ。本当に都合のいい女でしかないんですよ、西宮さん。

で、もう1箇所は石田くんが「俺が生きるのを手伝ってくれ」と懇願するシーン。

オメーが西宮さんが生きるのを手伝えボケ

本当に自分のことしか考えてないのね、石田くん。

 

本当に宗教じみているのですよね。中世のキリスト教的価値観でっしゃろか、と。当時、貧者は聖なる存在としてあったんですよ。それというのも、強者が救うべき対象として在ったから。要するに、強者が勝手に救済すべき者として(それによって天に召されるため)貧者をオナホとして使っていたわけです。それとまったく同じ構図を、この映画は描いている。

西宮さんという非人間化され神格化され人格を奪われた表象としての神をみんなしてやいのやいの言って信仰の対象としようとしてるし、閉塞感といいラストの「おめでとう(パチパチ)」っぽさといい、旧劇エヴァエヴァ最終回っぽくもある。

2010年代の映画なのにだいぶ後退したな、と。

 

あと、音楽の使い方もちょっと臭いかな、と。モンタージュでBGM垂れ流すのとか、くどいと私は思います。

あと地味にマリアがずっと笑顔なのも怖いです。いやほんと、何でなのかわからない。

多様性表現なのかレプレゼンテーションのつもりなのか知りませんけど。

西宮妹のアニメアニメした描き方もなんかモヤモヤするし。

まあ大抵のキャラは結局のところ石田くんの慰みものとしているので、どうでもいいかな。

作画の美麗さすら石田くんの自我の中に収められてしまうという意味で、なんだか変な気分になってくるんですけど。

本当、あまりにも西宮さんが哀れすぎて泣きそうになりましたよ。

最後に全員を平手打ちして土下座させてから「よし、許してやろう」と胸を張ってくれたらまだ良かったんですけお。

 

 

 

august sammaly

フライト・オブ・フェニックス

あの「ダイ・ハード ラストデイ」で悪名を轟かせるジョン・ムーアの過去作で「飛べフェニックス」のリメイクとのこと。

まあまあ面白かったです。脚本はもうちょっと練り込めたろうとは思いますが、遭難もので紆余曲折ありながら一致団結していく定番といえば定番の作り。

ただ、こういう遭難ものでありがちな身内でのゴタゴタでチームが崩れていく描写は結構少ないんですよね。や、まったくないとは言いませんし、むしろちょいちょい小競り合いは生じるんですが、そればっかりということではない。

ではどうやって観客を訴求するかというと、外部からの問題なんですな。

それはヒューマンエネミーだったり自然災害だったりするわけですが、そういった設定された状況以外の外部からの問題が小刻みに発生していく。なんか取ってつけたような感じも否めないっちゃ否めないんですけど、ラストの太陽とフェニックスでオーケーです。

 

トレマーズ

ベーコンいいよベーコン。

そういえば見たことなかったものの、B級映画としてかなり面白い部類。

午後ローでやってそうであまりやっていない、というのがもったいない。

2000年代に入ってくると粗いCGでモンスターを見せてくるわけですが、このバジェットで惜しげもなくモンスターを実物で見せてくれるのは嬉しい。

 「ジョーズ」の荒野版と言ったところでしょうか。

 

 

ゼロ・ダーク・サーティ

長い。

デトロイト」へと至る手法が散見できたりするのですが、ともかく長い。体調が悪いのも相まって前半1時間くらいしか集中できんかった。

ハート・ロッカー」からこっち、ビグローさんは人間の人間化を行っているような気がする。ただ、その描き方が逆説的になるような題材を選んでいるためにそれが=で社会問題と直結するのだろう。

逆説的、というのは要するに人間が非人間化する状況を設定(というか事実からの引用)する。その意味では、イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」もこの系統に入れることはできなくもない気がするんですが、あれはむしろ「それをそのまま描いたら結果的にそう見える」というだけ(つまり観照者としてのイーストウッド)でしょうが。

ジェシカ・チャスティンの前半と後半との変貌ぶりというか適応ぶりというのがつまりはそういうことなのである。

しかし、この映画を見てこうして感想を書く事で、なぜ「感情的」というワードが往々にしてネガティブな意味合いで用いられるのか、ちょっと見えてくる。

「感情的になるな」というのは、要するに軋轢を避けるためなのだろう。感情的になるということは感情を持つ人間にとって最も人間らしい反応である。しかし、それがゆえに他者との軋轢を生じさせ苦痛を受け止めなければならなくなる。

感情的になるな、というのは要するに非人間化である。誰しもが一度は思うことだろうけれど、感情というものがなければどれだけ生きやすいかという想像をしてみる。あるいは、創作などでも感情を捨てたり切り離して「神」だとか「完全」だとか呼ばれるものに至ろうとする輩もいる。

まあ、当然のことなのだけれど、その行為自体がどうしようもなく人間的なわけで、結局のところは人間は人間でしかないのだろう。

 

マジック・マイク

ソダーバーグ映画。元々はレフンが監督する予定だったとか。そちらも観てみたい気はするんですが、それはともかくとして中々面白かった。気がする。

マジック・マイクことテイタムがストリッパーとしての力量はありつつも、その仕事に対して貴賎を抱いていて、踏み台程度にしか感じていない。この状況から脱しようとあがいている。それに対して、冒頭で出会うアダムくんをストリッパーの世界に導いてから紆余曲折があるんですが、この辺の価値観のすれ違いが面白いところ。テイタムってことで、このすれ違いの感じが「フォックス・キャッチャー」ぽくもある。

当人たちはホモセクシャルではないにもかからず、限りなくそちらに近接しているホモソーシャルというのが危ない┌(┌^Д^)┐ハァハァ

一応、ハッピーエンド(正確にはここからが彼らのリスタートなわけですが)で幕を閉じるんですが、両方とも失敗しそうだと思います、わたくし。特にアダムは。

ちょいちょいカットされてる部分もありましたが、まあ楽しめましたよ。

 

 

バットマン(1989)」

バートンバッツ。

なんというか、相変わらず愛いやつだなぁという印象。

スナイダーのバッツがほとんどコミックなのに対して、バートンがバットマンたちを見つめる視線は超人よりもフリークとしての自己に牽引している。だからキートンバッツは、ノーランやスナイダーのバッツにはない可愛げがあるのだ。

あんなに臆面もなくキスをするブルースを描けるのはやはりバートンがバッツをヒーローとは異なるものとして描いているように見える。

 

「アーロと少年」

ミニラとガバラの話がほとんどこれに近い感じがする。なんか動きとか、噛んで声出させるところなんかゴジラがしっぽ踏んでミニラに火を吹かせるところとダブるし。

つまり、あまりにまっとうな少年の成長譚。ガワ(恐竜と幼児)の組み合わせを除くと、あまりにまっとうすぎる。それゆえに、イマイチ盛り上がらなかったのかもしれない、世論は。

いや、映像とかとんでもないんですけどね。見慣れてるはずなのに風景とか水の描写とかどんだけ手間ひまかけたCG作ってるんだ、と思いましたし。そのハイパーリアリズムと呼んで差し支えないCGに対して違和感なくキャラクターを落とし込むセンスとか、なにげにやばいことやっているわけですが、いかんせん爆発力に欠けるというのはあるだろう。

しかし、これだけバカ正直な物語はほとんど「アイアン・ジャイアント」的と言いたくなるほどで、私はなにげに楽しんでしまいましたよ。

 

ミクロの決死圏

全編通して観たのはこれが初めてなんですが、すごく大胆な作りで驚き。

100分という短めの尺にもかかわらず前半40分近くに至るまで体内への侵入が行われない。しかし、30分にわたって描かれるミクロ化のプロセスがこの映画の魅力の半分(残り半分くらいは体内描写)だと思うので、正直ここのフェティシュに萌えられない人は厳しいかも。その割に冒頭で説明台詞なしに手早く事件を発生させてたり、終わり方も帰還してヒャッホーエンドだったり、時代もあるのでしょうが凄まじく潔い。

ほとんどあらゆる体内冒険物の元祖といって差し支えない映画ですが、ウィキさんによると手塚治虫あたりと色々あったっぽい。まあ手塚治虫が考えそうだよなぁ、とは思ったしブラックジャックで折れた注射針を取り出そうとする話なんかもちょっと繋がりありそうだしね。まあ直接のパロディとしてはTFのミクロの決死隊の話がまんまでしたが。

それにしてもこれが66年に作られたということを考えるとかなり先見の明がある描写なんかもあったりして、今見ても楽しめる。ていうかNHKでこれを放送したのはやっぱり夏休みで科学特集みたいなのをイメージしたのだろうか。

あと男性諸兄に対するサービスも地味に盛り込んでいたり(ラバーに近いスーツの女性にまとわりつく細胞とかね)

 

リプレイスメント・キラー」

フークワが監督したとは思えない変な映画。変な、というかコテコテのアクション映画なんですけど、色々と変な感じ。

まず吹き替えでマイケルルーカーに島田敏だったりするのが変だし。

しかし「トレーニング・デイ」の監督とは思えない印象の残らなさ。

 

「キャリー」

デ・パルマ映画でキング原作。ていうかデパルマって元々数学を学んでたんですね。

デ・パルマといえば個人的には「アンタッチャブル」が好きなんですけど、これもなかなかいい感じ。

ただ、わざとなのかどうなのかわからないんですけどスーがいじめに加担してわざとトミーに誘わせたのかと途中まで思ってましてね、わたし。てっきり彼女が落とす役目なのかと思ってましたけんど、描写的にわざとそう見えるようにしているんだろうか、やっぱり。

毒親のせいで浮いてしまい、その毒親の縛りから抜け出すためにプロムにいったら結局帰宅するハメに、というのは「だから言ったのに」にという不条理を孕んでいてゾクゾクする。

印象的なのはやっぱりサイキックのSEに「サイコ」のあのBGMを使っているところでしょうか。自他ともに認めるヒッチコック好きらしいデ・パルマの遊び心のようなものが垣間見えて微笑ましい。

あとはやっぱりスプリットスクリーンでしょうか。クライマックスの体育館でのサイキック発動シーン。あれ、おそらく普通に編集するのであればキャリーの目がカッとなるカットを入れて直後にその作用が及ぶカットを入れたりするのだろうけれど、それをスプリットスクリーンで同時に描くのが面白かったですね。

しかしキングは70年代から2010年代に至るまで映画化作品が途切れないのが本当に恐ろしいですな。出来不出来はともかく。

まあ、読んだことないんだけど。

 

welcome to cinnabon would you like to cinnabon (うろ覚え) そしてダコタん・ファンに…

というわけで予告通り「500ページの夢の束」の感想書きます。

 と書いておきながら映画そのものについてではない、ちょっと思ったことを先に。

 

映画に限らないことだけれど、やはり物事にはブラックビスケッツが歌うようにタイミング(運と置換してもいいかな)が重要である。

たとえば、オナ禁・誓いウォーカー1ヶ月目でアダルティなビデオを観たとして、それが大して面白くも可愛いない女優・男優だったとしても、お気に入りになってしまうようなこともあるかもしれない。アヒルだって一番最初に観たものを親と思うわけですし(鴨だっけ?)、それもタイミングに換言しても無理はないでしょう。

そうでなくとも、思春期や幼年期に触れたものがその後の人生に影響を与えることは多々あるわけで、やはり物事には触れるタイミングの重要性というものがあるのだと思う。

だって、そうじゃなきゃ私がこんなにダコタを好きになるなんてことがあろうか(いやない)。いやね、監督の技量とか女優のちからとか、そういうふうに言ってしまうのは簡単ですがね、やはりある程度は自分の感情に自分でも責任を持つことも必要なのではないかと思うわけです。俳優や監督とかに自分の感情全てをおんぶにだっこさせるのは、それはそれで自分に対しても不誠実だと思うし。

いやほんと「こんなにダコタのこと好きだったっけ?」と困惑してしまうくらいこの映画を観終わったあとに考えてしまった。

 

基本的に、私の場合は物事の評価軸として「良し/悪し」と「好き/嫌い」があるのですが、どうしたって後者の評価軸に触れてくるモノの方に感情を動かされるのです。にんげんだもの。無論、双方を満たすモノもある。

だから、決して歴史に名を残す名作ではないかもしれないけれど、この映画は私にとって好きな映画であるのである。実際、演出を優先するあまり脚本というか展開に無理がある場面が部分部分のシーンとはいえなくもないですし。

でもね、私のフェイヴァリット映画は「トランスフォーマー」なんですよ? その程度のこと「トランスフォーマー」にくらぶれば夢幻のごとくなり。もちろん、ちゃんとした(って失礼な書き方だけど)映画だって好きですよ。このブログで度々名前を出している「大いなる西部」もそうだし「RAW~少女の目ざめ~」ほかにもいろいろ。

 

ちなみに、映画のストーリーはこんな感じ(公式サイトから引用)。

 

 『スター・トレック』が大好きで、その知識では誰にも負けないウェンディの趣味は、自分なりの『スター・トレック』の脚本を書くこと。自閉症を抱える彼女は、ワケあって唯一の肉親である姉・オードリーと離れて暮らし、ソーシャルワーカーのスコッティの協力を得てアルバイトも始めた。ある日、『スター・トレック』脚本コンテストが開催されることを知った彼女は、渾身の作を書き上げるが、もう郵送では締切に間に合わないと気付き、愛犬ピートと一緒にハリウッドまで数百キロの旅に出ることを決意する。500ページの脚本と、胸に秘めた“ある願い”を携えて― 
 
いやもう、本当にこれだけの話といえばそれだけなんですよ。
多分、これは登場人物へのピントや主観性をもっと変えて、脚本的な違和感を払拭すれば「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」になるのだろう。監督のベン・リューインはこの二つよりウェンディを、彼女のナラティブを、生暖かく祝福してやることにしたに違いない。それは、あるいは、自身もまた身体障害者であることから来ているのかもしれない。だから、彼女の旅路の障壁となるものはともすれば都合が良すぎてお手軽なために欺瞞的でクリシェとしてしか見えない場面もある。
まあ、これまでの監督のフィルモグラフィーを見ると脚本も自分で書いていたのですが、今回は別の人に書かせているようなので、単にそのへんのチューニングが上手くいかなかっただけかもしれませぬ。「セッションズ」でも主人公が身体障害者だったことや脚本まで自分で書いていたことからの、帰納的な当て推量でしかありませんが。
一応、プロダクション・ノートを読む限りでは脚本のマイケルがニューヨーク・タイムズに載っていた自閉症の少女の記事からインスパイアされてプロデューサーのダニエルとララがマイケルの脚本への愛情に打たれたことがキッカケとなっていて、ベン・リューイン発の企画ではなかったらしい。が、やはり障害を持つ者としての視点を盛り込むべくララが監督にベン・リューインを起用したらしいですね。
だから、あそこまで自然に描けたと言える。それはマイク・ミルズの生い立ちが「20th century women」につながったことと相違ないと思う。
 
 
ソーシャルワーカーのスコッティにはトニ・コレット。「リトル・ミス・サンシャイン」や少し前だと「シックス・センス」なんかにも出てましたが、ほとんど覚えておらず・・・。けれどもどこかで見た顔だなーとは思っていて、どこでみたのかと思ったら「トリプルエックス 再起動」でした。ウェルメイドな作品からビッグバジェットなアクション映画まで、以外に幅広く出演しています。
姉・オードリーには、アリス・イヴ。わたしが見た映画だと「メン・イン・ブラック3」とか「ナイト・ミュージアム/エジプト王の秘密」なんかに出てたんですが、まあこの映画にまつわる部分では「スター・トレック イントゥ・ダークネス」に出演していた、という楽屋オチのキャスティングでもあるところは触れておいたほうがいいですよね、多分。

 

で、あらすじからもわかるようにスタトレが本作のフックとして用いられている。とはいえ、スタトレまったく知らない(リブートシリーズすら)私でも楽しめるので、そのへんは問題ない。ただ、「あーやっぱりママから見るとガンダムとかウルトラマンの違いってわからないんだなー(笑)」といった感覚を持ち合わせている人の方が笑える場面はあります。ソーシャルワーカーのスコッティが「スター・ウォーズのカーク(スポックだっけ?)が~」と誤謬を口走って息子に「ちゃいまんがな」と突っ込みを入れられて、初歩的なことを答えると馬鹿にしたように「よくできましたー」と言われてしまうあたりは笑える。ほかにはクリンゴン語での会話についていけない婦警が「あなた英語以外も喋れるのね」と、《そうだけどそうじゃないんですよ》という類の笑える場面があったり。

 まあ分からないのでいくつかある合図やポーズを見て「やっぱりスタトレネタなのだろうか」と考えてしまう部分はありますが、そこも無問題。

 なぜならスタトレはあくまで表層的な部分でのツールでしかなく、別にスタトレでなくても通用するといえば通用する話だから。既述したような笑いのポイントも、実は代替可能性はかなり高いですし。ただ、自身の感情に振り回される人物としてスポックと自らを重ね、さらに相互理解というところで姉のオードリーとカークをダブらせ前半で描かれる姉妹の「血縁であっても(あるがゆえの)通じ合わない」煩悶を、「種族が違えど通じ合っている」スポックとカークの脚本に託すことで同列のパラダイムに据えて昇華させているので、やはりそこはスタトレである必要性はあったのだと思う。必要性、というよりは描きやすさというところでしょうか。

(壁を超えて)通じ合う、という部分は実は姉妹だけでなく人種や立場の違いという軸をもこの映画は提供している。それはウェンディのバイト先であるシナボンで働くニモ=スパニッシュ&ネイティブアメリカン(英語が壊滅的なのですが、Spanish and Indigenousってそういう意味ですよね・・・?)なトニー・レボロリくん(トムホスパイディにフラッシュとして出演していましたね、彼)とのやりとりでもありますし、追う者と追われる者という関係性をクリンゴン語によって警官と通じ合う場面からも見られます。そういった、通じ合うことこそがこの映画のキモなのです。

 

そして、それを演出的に魅せるための、なにげに上手い反復もある。

ニモとのやり取りで言えば、当初はニモからもらったミックステープをぶっきらぼうに受け取るだけだったのが、旅を経たウェンディは自らがミックステープを作って贈り返すことで双方向のコミュニケーションをもたらしたり、二度に渡る信号を渡るシーンもそう。まあ、信号を渡るシーンは二回やるんだったら二回目はもっとタメを作ってくれても良かったのですけれど。あるいは、一回目のルールブレイクを大げさに大仰に描くことで、旅路の果ての最後の横断としての2回目の信号を渡るシーンは成長を描くためにそっけなく描くとか。

そして最後にやはり、赤ちゃんを抱くシーンでしょう。旅の途中で出会った悪役夫婦の赤ちゃんを抱けなかったウェンディが、最後の最後に姪っ子をその胸に抱くことなど。しかし、こうして見るとエル・ファニングの出ていた「ビガイルド」と真逆の終わり方になっていてちょっと笑えてきます。

それと、なんとなくダコタの歩く姿に「ラッキー」のハリー・ディーン・スタントンを重ねてしまった。あれもあれで愛らしい映画ではありましたね。

あとですね、ちょっと猫背というか首が前に出てる姿勢とかも、芸コマというかああいう人いるなぁって感じでまた愛らしいんですよね。

 

と、まあ「スキスキ大好きもうキスしちゃう」(このネタわかる人いるかな)なテンションで書いてきてなんですが、実のところ割と嫌いなシーンが思い出せる限りだと2箇所ある。細かいことを言えばウェンディの旅の障害の嘘くささ(あそこだけ唐突だしほかのシーンに比べて浮きすぎているんですよね)とかあるんですけれど。

一つは電話の前で「助けを求める」旨のメモを破り捨てて姪っ子の写真を見て再び歩き出すところ。

この意図はもちろんわかるし、決意を表すものとして機能しているのもわかる。ただ、私の場合はこの演出そのものがクリシェであるとも思うし、何より「助けられる手段を放棄する=助けを求めない」ことを強さとして描かれることに反感を覚えるのですよね。なぜなら、その思想は日大タックルとか水飲み禁止といった根性論に近接してしまうから。せめてしまいなおすくらいに押さえておけば、「もう少しだけ頑張ってみよう」というスタンスの方が好きなんですよね。

あと毛布かけるとこ。あれはちょっとね。しかもエモーショナルに描いているのがまた鼻につくんですよね、あそこ。だって、結局はあのおばちゃんがやってることって路肩のベンチに放置させてるのと同じですからね。自宅で腹出して寝ているor勉強机に突っ伏して寝ている人に毛布をかけるのとは訳が違いますぞ。

あれは優しさでコーティングした馬鹿さだと思うのですよ。

 

でもね、いいんです、そんなこと。基本的にこの映画は「優しい世界」ですから。

それに何よりダコタが最高に愛くるしいから。

可愛いくてユーモアに溢れて塗れるダコタが見たい人、ハリポタのルーナよりも断然に魅力的なので、ダコタスキーな人は見るべし。

エル派ニングだったわたしは、これでダコタ派ニングになりました。