dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのもの。

國村(コクソン)隼

 なんだこの映画・・・というフレーズを何回か使っているため、これ以上使うとテクノロジー同様に陳腐化してしまう恐れがあるんでボキャ貧をどうにかしたいところではあるんですが、なんだこれ。

 韓国映画のコクソン。結構話題になっていたのですが近所の映画館ではやってなかったので、ようやく見たんですが、「感想ブログ」という体裁で良かったとつくづく思う。なんでってそりゃーよくわからなかったからですよ(爆)。

 ちょっと自分の中で答えを探りにくかったのと、深夜に見ていたこととかパンフの欠如とかスマホで見ていたとか冒頭(ここが最重要だったらしい)をちょっとぼんやり見ていたせいでラストまで観ても「あれ…?」となってしまった。

 これはいかん。何がいかんって映画から自分が何を見出したのか自分がわかってないってことですからね。このコクソンに関しては個々の要素を発見できてもそれが有機的に結びつかなかったことが映画への理解がお粗末だった理由なんですが、韓国では多いらしいキリスト教が符号しなかったこと(これはもう言い訳の余地がなく自分の無知)と、やっぱり冒頭の「ルカの福音書」の引用を映画鑑賞中に完全に頭から排除していたことでしょうな。

 つーかこれ、自分にかかわらず宗教に疎い大半の日本人は分かりづらいんじゃないでしょうか。リドリーなんかもエイリアンの中に当然のように(というかアメリカじゃ当然の知識なんでしょうが)聖書の引用をしてきますし。

 もちろん、普通の人(普通の人ってかなりアレな表現ですが)よりは映画に触れていると自負していますから、まったく気付かなかったということではないですよ、ええ。明らかに村社会には浮いているキリストモチーフ(神父とか)「偏見」と「差別」(とまあ村社会も含めていいかしら)によって人が引き起こす結果という部分はわかるんですが、それが作品としてどう重要なのかってことを、ほかの人のブログうとか読んでみてようやく腑に落ちたところがあったわけです。

 まあでも、言われてみれば、なんで娘が急に魚を貪り始めたのかと思ったけど、魚ってキリストのメタファーとしては有名ですな。

 とはいえ、いくつか参考にしたブログの中でも「それってこじつけじゃねーか」とか「いくらなんでも飛躍しすぎでは」と思う分もなくもないし、あんまりほかの人の意見を取り入れすぎるとどこまでが自分のものだったのか分からなくなってきてしまうので、初見の印象でいこうと思う。

 

 そもそも映画としてどうだったか。うん、オモスレーっちゃオモスレーですよ。韓国映画ってレベル高いのは分かってますけど、日本人に欠如している前提となる文脈がわからなくてもエンタメしてくれるのがいい。いや、それでも宗教的背景をわかってないとちんぷんかんぷんな部分はあるんだけど、それでも「ホラー」としてのフォーマットがあるゆえにわたしのような日本人はJホラーの持つ「気味悪さ」「気持ち悪さ」「得体の知れなさ」としての色眼鏡で咀嚼することができるため、そこに込められた宗教的意味がわからずとも情動的に楽しむことができるわけどす。

 ていうか、日本人の宗教に対する考えと同じではなかろうか。宗教ってなんだか得体がしれなくて怖い、という。大体、宗教とカルトを同一視してる節がありますからねー日本人って。オウムの一件とかもあるんでしょうが。

 あと、宗教というフィルターには気づかなくても、そこに込められた真意はわかる。ていうか、周到に村社会を使っていて、わざわざ韓国人が日本人をこんな役にキャスティングするというところからもそのスタンスが覗える。つまり、韓国人の抱く日本人への考えというものを監督はすごく理性的にカメラに収め、そこから人に対する偏見と差別意識というものを浮き彫りにしていくということ。それがもたらす、これはたぶんキリスト的な解釈なのかもしれないけれど、悲惨な結果。

 それはさておき序盤から中盤にかけては笑える場面がすごく多い。真面目に祈祷してる場面なんかもちょっと笑えるんですが、ラストまで見るとその笑える場面がちょっと物悲しくなってしまったり。

 メインとなる警官のおっさんジョングを演じるクァク・ドウォン。この人、アシュラでも嫌な刑事役やってましたけど、相変わらず嫌な奴です。というか、ダメなやつ。

 

 わたくしの感想としては、宗教云々は抜きにしてマトリックスリローデッドをつい最近見たばかりということもあってか、この映画を観て思ったのが差別っていやーねーというものと、「選択」と「結果」の残酷さ。ホラーというとバッドエンドが常ですが、こうしてありありと見せ付けられると「選択」の重要性というものが浮上してきますねー。

 

あ、春

 なんか、普通に名作な気がするんですが、これ。そのくせ名作ぶってないところがすごいかっこいいというか。いや、キネ旬で1位取ってるみたいですし評価されてるんでしょうが、あんまり話題にならない気がする。わたしだけ?

 相米慎二監督の作品はこれが初めてなんですが、春日太一が24時間ラジオで言及してたので名前だけは知ってた。で、それがストッパーになってくれて良かったす。笑える小津的で結構すきだ、この人。

 メインから脇にいたるまで、キャストも今を(も?)ときめく役者が揃ってますぞ。

 佐藤浩市はともかく、斉藤由貴がメインに出てくるのは色々と笑ってしまった。時勢的に。余貴美子とか三浦友和とか、そこまで出番ないんですけど若かりしときを見ると中々新鮮。そういえばこの間の大魔神のときに若い平泉成がいて、よくみなきゃわからんくらいでしたよ。

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 個人的には医者役のツカシンと酩酊して浮浪者たちに因縁つける木下ほうかとか、ほんとうにちょっとの出番なのに有名どころを持ってくるのがウォーリーをさがせみたいで楽しかった。ウィキで知ったんですがあの看護師河合美智子だったんかいとかね。

 でね、斉藤由貴がエロかわいい。奥ゆかしいんだけど、ちょと病んでるところとか、寝ている佐藤浩市の腹を噛むところとか(このシーンの意味はまだわかってないんですが、ラストの山崎努が腹でひよこを孵化させたことの暗示かなにかなのかしら)エロいです。最近のテレビに出てた斉藤由貴も年齢を感じさせながらもエロいんですが、若妻のこっちも童顔でエロ可愛い。

 話はまあ、なんというか、親子の話ではあるんですけど、なんだか笑えつつも笑えないのがまた笑えるバランスで、すごい絶妙ですよね。血が繋がっていないとか、それを今このタイミングで言うのか、とか。全然洒落になってない部分も、パロディとして笑わせてくる。

 あとカメラアングルが独特でかっこいい。斜め45度くらいからワンカットで長回しをするところとか、画面内でメインの情報とはべつにちょっとした情報が入り込んでいたりするのもあざとくなくていい。カメラの極めつけは佐藤浩市山崎努を窓ガラス越しにズームするとこでしょうな。ああいうのを素っ気なくやっちゃうのがクールですよねー。作品の内容に対して、割と冷静というか。

 ラストシーンで、山崎努にかかわった女が全員笑顔で遺骨巻いてるところがすごい好きです。

 

上げて落とすサメ映画

よく考えたら映画館でサメ映画を観たのって初めてだということを思い出した。

そりゃまあジョーズのような後世に残るサメ映画の体験はできなかったですけど、「海底47m」も中々どうして面白い映画でしたよ。

面白い、というよりも怖い。サメそのものの恐怖もそうですが、何よりも海底という場所が恐怖を煽ってくる。「ゼロ・グラビティ」を映画館で体験しそこねた身からすると、あれもこんな感じなのかなーと思ったり。

タイトルバックとかもB級っぽい凝り具合で、酒が血のように見えていってタイトルの文字が赤く染まるのとか、ああいうの好きですわ。わたくし。冒頭のワンカットのかすかに聞こえる水の音(ししおどしのチョロチョロ音がわずかに聞こえる程度)の感じとかやっぱり、映画館で立体の音響環境で聞かないと恐怖体験できませんよ。アンビリーバボー。

 実のところサメが襲ってくるのはかなり中盤以降なのですが、いわゆるホラーの典型のようなおバカキャラが次々に死んでいくタイプではなくて、主人公にキャラ付けされていたりサメに襲われる状況に至る理由が明確だったりするのも微妙に凝っていて好印象。いやまあ、そのせいで逆にバカっぽさが際立ったりするんですが、マイナス思考で悲観的な姉が妹のためにケージの中から外に飛び出すところとか、グッとくる部分がありますです。

 ブラフというか音楽で煽っておきながら別に何もないというパターンが三回くらいあったのはさすがにくどいような気もしますが、それのおかげでいつサメが来るのかドキドキしながら身構えてしまうという効果を生み出していて、自分はかなりびくついていました。ドッキリ系、本気で驚くタイプなんで。

 あとはまあクライマックスの仕掛けはまあ、窒素酔いのくだりで「幻覚(だっけ?)」というワードが出たあたりで予想はできていましたし、姉が実は生きていたというところで「えー?」という感じではあったのですが、ジャンル映画だからこそここまで潔くできるのではないかと思います。ていうか、幻覚にしてもちゃんと食われるところを見せてくれたのはサービス精神旺盛でサムズアップ。

 ただ、姉の死に際をごまかすためだったのか予算的な都合なのかまではわかりませんが、水中でサメに食われる描写がいまいちよくわからないのはうーんという感じ。少なくとも仕掛けが発動する前に男が一人食われて死んでいるわけですから、そこはしっかり映してくれるともっと良かったなぁ。

 でも全体的に満足です。サメのジャンル映画としては中々面白いのではないでしょうか。少なくともシャークネードよりはまともにホラー映画してますし。

 ラストのラストもちょっと皮肉っぽくていいですね。幻覚の方ではサメに足を食われながらも姉妹共々生還して「海から顔を出して太陽の下に出ることができた」のに対して現実は「救助隊に救われたが妹は死んだ上に海の中」を浮かんでいく途中で映画が終わりますから、はたして姉にとってはどっちが良かったのだろうかと。

 いいじゃんいいじゃん、面白いじゃん。ってわけで、夏に涼みたいという人はこの映画をおすすめしていいと思ふ。 

 

 だけんどね、パンフが売ってなかったんですよー。撮影に関することとか知りたかったんだけど、パンフ取り扱ってなかったんですよー。おいおいイオンシネマこのやろう。ほかの方のブログではパンフレットから引用している文章があったのでパンフがそもそもないということではないらしいので、ちゃんとパンフレット仕入れてほしかったなー。

蜘蛛男、ヒーローの呪い

が、毎回に渡って描かれるスパイダーマン映画ですが、本作でも露骨でしたね「スパイダーマン・ホームカミング」

ライミのスパイダーマンが2002年でしたから、15年で同じキャラクターの別シリーズが三つですか。ライミシリーズが2002年~2007年、マーク・ウェブのアメスパが2012年から2014年(これは打ち切りですが)、そしてホームカミングが2017年。しかしこれだけあってどれも別物というのは面白いですね。

 ライミは心身と生活を絡めてはいましたが学園生活っぽさは少なく、マーク・ウェブは学園を背景に恋模様とヒーロー生活の両面を、主にグウェンとの恋をメインに描き、ジョン・ワッツのホームカミングは学園生活をメインにヒーローであろうとすることを描く。

 アメスパとホームカミングは割と共通点は多い気がしますが、比重の問題で別物になっていますね。アメスパはヒーローであろうとすることの呪いを二作に渡って描きつつ、恋人の死という別の呪い(ある種の解放と言ってもいいかも)によって最後の最後で完全な隣人ヒーローになった。能動性よりも、事故的にヒーローにならざるを得なかったように見えるのがアメスパだと思う。恋人の父親と恋人が死んでますからね。そりゃ仕方ないけど。

 その点、ホームカミングは涙っけはない。ていうか誰も死なないし。こちらはガーフィールドスパイディよりも積極的にヒーローになろうとしている。というのも、トムホのスパイダーマンには「アベンジャーズ」という公的なヒーローがいるからだ。これの影響がかなり作品の趣に及んでいる。

 先達としてのアイアンマンになろうとして失敗してしまい、学園生活の象徴(あの女の子)を振り切ってヒーローになる決意をし、それによって再起する。

 ライミやマークがヒーローとしてのスパイディのデビューと再起を複数作で描いたのに対し(どちらも一作目での懊悩はヒーローである自分というものに対する二元的なものであり、続編ではヒーローそのものへの悩みだったような気がする)、ホームカミングはそれを一作で描いた。これはやっぱり、すでにホームカミング世界では先輩ヒーローがいたからこそできたことだろう。かなり省かれたとはいえシビル・ウォーでスパイディのデビューは済んでいるし。

 で、ヒーローの呪いというのが何かと言うと、まあ分かりやすく「ヒーローと自分とのギャップ」でしょうか。今作が前2つのシリーズと違ってカラっとしているのは、トムホスパイディがギャップを感じていないから(というと過言ですが)でしょう。まあ最初からヒーローに憧れていてヒーローになりたがっている=ヒーロースパイディであることが彼のアイデンティティですから。ホームカミングにおける恋というのは、トムホピーターの中に残る日常の残滓であって、アメスパのような直接的なしがらみでもなければライミのようなドロドロで日常に直結したものとは違う。

 トビーとガーフィールドは見た目からしてすでに大人としての匂いを醸していて、そこではピーターとしてのアイデンティティがほぼほぼ完成している状態だったところに、スパイディという別のペルソナが生じたことで葛藤しますし、ヒーロー云々という話になってしまう。

 どっこい、トムホに関してはすでに参考になるヒーローがいるからヒーロー云々にはならないし、まだまだ自己の確立がなされていない状態でヒーローとしてのデビューを飾ったことでピーターとスパイディの境目が極めて薄いんです。だから、トムホは積極的にヒーローでであろうとするし、そこに抵抗はない。なぜならそれが彼にとっては日常を完全に逸脱した非日常ではないから。モンタージュでさっと流されますしね、街でのヒーローでの活躍。15歳という設定にしたのも、自己がまだ固まっていない年頃という納得度を増す。かといって14歳だと若すぎるだろうし。

 それでももちろん、ピーターとしての日常も彼にとっては重要だ。それは再三描かれるリズとのやりとり(失敗まで含めて)、リズへの拘泥によって浮かび上がっている。

 で、アベンジャーズと日常のシンボルたるリズとの狭間で揺れ、リズの親であり日常と非日常の象徴であるバルチャーを倒した上で救う。つまり、日常も非日常もどちらも捨てずに受け入れるという解釈でもよござんすと思うでござんす。

 だからこそ彼が最後に選んだのはアベンジャーズでもなくリズでもなく、その折衷案である「親愛なる隣人スパイダーマン」になることを選ぶ。しかもアメスパとライミスパの要素の折衷でもあるという。最初はあんなに街での活動よりアベンジャーズになることを志望していたことからも、ここらへんの解釈はあながち間違ってないと思う。

 アクション的にも見所はたくさんありますし、笑いどころも随所にあって飽きずに楽しめましたよー。冷房がちょっと強すぎたけど。

 あとアイアンマン一作目から劇場で追っている自分としてはチョイ役とはいえ久々にmcuグウィネス・パルトローが出てくれたのが嬉しい。しかも成り行きとは言えトニーとの結婚会見まで開いちゃうし。メイクのおかげなのか、アイアンマン3より若く見えたけど、錯覚かしら。

 自分の中での最新のグウィネスって観た順番的に「セブン」(え?)の首チョンパされちゃった妊婦さんなので、こうして多幸感あふれるペッパーとして出てきてくれると微笑ましい。

 そんなファンサービスもちゃっかり用意してくれるジョン・ワッツ。粋な男の「コップ・カー」も是非見たいところ。

地獄でなぜ悪い

例のごとくアベマで

アベマのいいところは見てみたいけど借りるほどではない、もしくはそもそも知らなかった映画をやってくれるので地上波のロードショーの後釜としては最適ですな。

ていうか地上波のロードショー枠が完全に死滅して残った金ローと土曜プレミアがありえないカットとかそもそも人気に便乗しただけだったりとか(や、はやりの作品の過去作は意外と重宝するんですが)で金の匂いがきつすぎて面白さを優先してくれないのがねぇ。

とまあ愚痴ったところでタイトルの映画。

アベマで園子温の作品を扱うのはこれで三度目でしょうかね。まあ今までのと比べたらこれが一番面白いんじゃないですかね。ハイテンションだし、ノれる映画ですしね。

ただねー、ハゲの解説がねー、わかってはいるんですけどちょっと語弊というか舌足らずな部分があると思うんですよね。

 一本の最高の映画が撮れればなりふり構わないというのは、まあそりゃそうなんでしょうけど、どう考えてもそこには一つの諦念もあると思うんですよね。というのも、園子温はバラ色ザ・ムービーに出演したときに(危険な映画特集だったかしら)「役者に怪我をさせるようなことはしませんよ。たかが映画ですからね。泣かせたりはしますけど」とまあ、うろ覚えで書いてますがこんな感じのことを言っていたんですね。うろ覚えでも「たかが映画」って部分は確か言ってたと思うんですが。

 ともかく、園子温は映画が何かをどーするというとまで考えていないんじゃないかしら。それは別に映画を見下しているとかではなく、その限界を知っているというか。その上で、映画を作ることに拘泥しているのだと。その辺をちゃんと伝えないと園子温の本位というか、自分がたかがと呼んでいるものに取り憑かれた馬鹿な男(悪口ではない)というスタンスが届かないでしょう。

 あ、映画そのものは普通に面白かったです。ギャグ色強いし、堤真一とかのいい感じのバカ演技見れるし。二階堂ふみは胸寄せてるなーとかどうでもいいことから「殺陣のときに若干腰引けてんなー、ていうか腰入ってないなー」って部分が散見できたんですが、上半身のアップで見せたりと工夫はしていましたね。星野源もへたれの演技が上手いですね。先週の箱入り娘はBSで観ていまいちというか気の抜けた部分がちょっと鼻についたりというか、ちょっと陰キャラを類型的に描きすぎな部分があって二度見る気にはならなかったんですが、まあ良い部分もあったにはあったなぁとか思ったりしてたんですが星野源は割と抑えた演技してたし、両親のゲームのところとかは微笑ましかったりしたしね。

あとヨシキが出てた。細かい所作とか振る舞いが役者のリズムと浮いている(まあほとんど背景的なのでよほど注目でもしないときになりませんが)のでなんとなく微笑ましかった。そういや水道橋博士も出てるとかなんとか聞いたけどわからんかったです。

 余談ですがこの人って役者を使いまわすというか、気に入ると割と俳優を起用しますよね。シンゴジラへの怨嗟は長谷川博己を寝取られたことへの恨み言なんじゃないかと個人的には思っているのですが考えすぎかしら。

 

ここ数日の映画

 一本分のエントリーとして書く気にはならんけど、書きたいことがないこともないのでまとめて一本分にしようという雑然とした記事を。

 

・まずBSで観た「民暴2」

「2」というからには「1」があるのだろうが、未見なり。とはいえ、2から見ても結構楽しめましたよ、ええ。激安アウト・レイジというか、低予算(とかいいつつ木下ほうか主演で紗綾とか白竜とか出てるけど)ながら中々面白いです。ただ、「1」の方のあらすじを見る限りだと「2」と全然変わらん気がするのですが。や、ながら見だったので詳細までは覚えてないんですが。

こういう安っぽいながら中々たのしい映画を見ていると、いかに一流の映画の絵作りというものが緻密に計算されたものなのかということが相対的に浮かび上がってくるというのが中々興味深い。もちろん、そういうテーマというのは体系的論理的に説明されているのでしょうが、細かい部分が分からない自分でも感覚的に理解できるというのが映像メディアの面白い部分ではある。

だからこそ立派な機材と潤沢な()予算と見栄えのするキャストをふんだんに使ってゴミクソをひり出す「〇魂」とかいう映画が嫌なんですよ。あのね、笑いっていうのはそこに全力さとかひたむきさがあるからこそ面白いのであって、ふざけながらふざけたもん作ったって見てるこっちは腹立たしいだけなんですよ。まあ、あれは完全に身内向けの映画(と言いたくないのだが)なので、それをわかっていながら友人に誘われたとはいえ劇場に駆けつけた私が悪いのですが。

でもねー、あの映像(映画にあらず)に関してはスタンスからしてちょっと腹立つんですよねぇ。ベイだって少なくとも映画というものに対しては真摯であるはずでしょうよ。ロストエイジの映画館でのシーンやペイン&ゲインを見れば自己言及なシニカルさというものを全力で映画で表現してくれてますもの。や、最後の騎士王がどうこうというのとは別にしてもね。

それに対して「〇魂」は「この映画すべってるんで!この映画最初から爆死するつもりなんで!」なんて声高に宣伝して、要するに最初から出来の悪いことを告知して免罪符にしてるんですよね。原作からしてそのスタンスで、便乗すらしているんですよね。原作は最初からそんな感じなんで今さらではあるんですが、だからわたしはあの原作もそんなに好きじゃないんですよね。

 極端な考え方ですけど、公に息子の出来の悪さをおおっぴらに虚仮にしてフリークスを貶めることで笑いを取ろうとする下劣さ、自分たちで作ったものへの愛情のなさ(歪んだ愛情とすら形容したくない)がねぇ、鼻につくんですよね。

 とまあ、盛大に話がそれてしまったのですが、要するにチープな映画を見ることで分かることもあるということですな。

 

大魔神シリーズ

 これすごい。面白い。66年の映画とは思えないとは言わないけれど、面白い。

 大魔神の見せ方が半端ないです。実際はそんなにでかくないのに巨大に見せるカメラの画角。あと目ね。大魔神の目がすごくいいんですよ。特に一作目の冒頭からの「めまい」かと言いたくなるようなギョロ目。本編でも色々とやってくれるんですが、目だけを動かすところ、いやーやばいです。90分の中で大魔神が出てくるのがラスト30分という大胆な構成も中々潔い。

 そんな興奮で2作目3作目と観たんですが、なんとうか、「あーそっちか」となったわけです。そっち、というのは、2作目からいきなりルーティーン化してしまったというちょっとがっかりな感じ。つまらなくはないんですけど、2作目からしてすでに水戸黄門的にお約束を見るだけの映画になってしまったのが少し残念。そういうのはテレビシリーズでやってくれればいいのであって、三部作にしておきながらルーティーンを見せられるというのもしょっとねぇ。特撮はすごいんですけどね。所々で変化をつけてきてはいるんですが、監督がそれぞれ違うのに大魔神の見せ方が割と定型化してしまっているのは、その前座的な人間の話にそれぞれの監督が主眼を置いたからなのかしら。

 とはいえ、元々はこの三部作の公開にも時間的スパンがあったわけで、三日連続立て続けに観たから余計そのルーティーンが目立ったわけで、当時の人はそれでも楽しめたのでしょう。ていうか、普通に面白いですよ、うん。

 

・で、サウスパーク劇場版

 私の知ってるサウスパークでした。

 ただ、最近のシーズンと見比べてみると割と直球というか、ひねりが全くないというのが今見るとその変遷が覗える。別に批判してるわけでもないですし、描こうとしたものを直球で馬鹿にしていく必要があったのでしょうから、思惑通りなんでしょう。

 それにしても「どうして汚い言葉を使っちゃいけないの」という子どものwhyに対して「どこでそんな言葉を覚えてきたの」とwhereで返す大人たちの反応も面白い。サウスパークディスコミュニケーションの面白さも相変わらず。

 フセインとサタンの関係とか、感覚がマヒしている自分にはそこまで目新しくもないのですがよく考えたらやばいよなーと。

 

 

 

 

トランスフォーマー 最後の騎士王~わたしが語らねば誰が語る~

 大げさなタイトルにしておきながら、実のところあまり語りたくないというか、映画としての語る余地がないのでこのはてブで書くのがはたして正しいのかという疑問が残る。

 映画として語る余地がないと但し書きしたのは、「トランスフォーマー」という作品は映画ではなく一つの巨大コンテンツであるという前提があるからなんですよ。

 で、ことトランスフォーマーに関しては、わたしの場合は映画としてではなく一つのコンテンツとして、玩具スキーとしての視点が過分に入り込んでしまうので、映画の感想ブログと称しながら今回の記事は映画そのものの話から別の位相にあるような気がするんですよ。

 

 とりあえず映画としてどうだったか。つまらないといえばつまらないし、誰かがこの作品を映画として貶めたとしても否定はできません。かといって面白い場面がまったくないのかと言われるとそうでもないんですが……いや、やっぱりこれダメ映画だよなー。制作費がもっとも少なかった一作目が今にして思えばどれだけの映像的な見せ方と物語的な工夫をがんばっていたのかを再認識させられた次第です。いや、一作目も結構見づらいとこはあるんですが、それはベイの小手先の技量の問題で物語性と映像性という部分とは少し違うので。少なくともベイにとってはそれらは三位一体をなしていないと思う。

 最後の騎士王には物語が不在なんですな。膨大な資金でもって暴力的に叩きつけてくるスペクタクル(笑)な映像が物語の繋がりなしに(しかも映像としての繋がりすらない部分まである!)に下手くそなパッチワークとしてツギハギされただけなので映像そのものの迫力が上映時間が経てば経つほど無化されていくという本末転倒な結果になっている。そのくせ画面内のジャンクな情報は異様に多いので観たあとに疲れる。こんな映画で疲労残さすなボケ。

 人間側で語る余地があるのはタトゥーロとせいぜいホプキンスくらいかしらね。あのイザベラとかいう女の子いる? 登場からして身内のTFの死から始まって感動的な劇伴使って感動演出してこようとするんですけど、ポカーンでしょ。たまに「〇〇家式場→」みたいな看板がありますけど、まさにあれを観て「ああ誰か死んだんだな」と思うのと同じで、それ以上の情動はないです(わたしの場合はそれでもちょっと泣けてくることもあるんですが)。そもそもイザベラは物語に絡んでこないし。よく考えたら物語とかないから当然なんですけどね。場当たり的に用意される事象にテンションが高いだけの空虚な人間どもが対応するだけ。なんだこれ。あまりに事象化されているせいで黒沢清の映画を見ているような気分にすらなりましたよ。

 ホプキンスのかわいいおじいちゃんぷりとコグマンのやりとり、コグマンの疾走シーンは良かったですね。でもコグマンって変形しましたっけ? ヘッドマスターという情報が口にされるだけで変形してなかったような気がするんですが、玩具売る気あんのか? 変形しなくていいから単体でabs素材でフィギュアだしてくれたら買うけど。

 ジョン・タトゥーロが少しですけど登場してくれたのも良かった。ていうかシリーズ通して一貫してるのってタトゥーロ演じるシモンズだけですし。もうタトゥーロとトップスピン(なぜか生きていた)のケイパーものかロードムービの方が見たいなぁ本編より。設定的には地球に大量のTFが来ているわけなので、そういうのも作りやすいと思うんですけどね。しかもTFは追われているわけなので、ボニーとクライドとかテルマ&ルイーズみたいなのをTF×人間かTF×TFで見せて欲しい。ぶっちゃけビーのスピンオフとかもはやいらないんで。

 さて、肝心のTFはどうか。各キャラクターも登場して最初の方は色々と喋って動いてくれるんですが、それがキャラクターの魅力に繋がっているかというとぜーんぜんですね。オプティマスにいたっては完全に尻軽ビッチです。ビンタと電気ショックで屈服するとか姫騎士も真っ青な即落ちぶり。かと思えばビーの声を聞いた瞬間に方針転換するというブレブレさ。何がネメシス・プライムだよ。完全に中二病じゃんか。しかも玩具の名前はダークプティマスプライムなんですけど。もっと連携とれよハズブロパラマウント。最後の騎士王でわたしは実写作品に登場したトランスフォーマーたちに対して心底「どうでもいい」と思ったのですが、唯一オプティマスに対しては苛立ちに近いものを感じました。でもよく考えたらこんな老害を誉めそやすほかの外野たちも頭がどうかしているわけで、そう考えるとほかのキャラも嫌いかもしれない。まあ無関心よりはいいのかもしれんですが。まーでもホットロッドの声がオマール・シーだったのは結構いいです。吹き替えが多田野曜平らしいので、ちょっと食指が動く。

 個人的に一番がっかりなのはメガトロン。一作目のカリスマ性(人間やられたじゃんとかいうツッコミは的外れなので無視)は皆無のクソザコですし、故郷を元に戻したいって、オメーがおっぱじめた戦争で星が衰退したんだろうが。この辺はどうせ続編で後付け的な理由があるのでしょうが心底どうでもいいです。最後吹っ飛ばされたシーンが「ザ・ムービー」オマージュかもなーとかどうでもいいんです。その他の有象無象とか語るほどのこともない。リベンジでフォールンに腰低かったあたりから怪しい空気が漂っていましたが、今回で完全にエクリプスしましたね。あのね、シネフィルや映画痛ほどに映画を見ているとは言い難いわたしですけどね、ある程度過去の名作やら「マンチェスター~」「20th~」「ハートストーン」とか実在する人間としてのキャラクターを見てしまった今となっては透明人間のそれですよ、最後の騎士王のTFたちは。ダークサイドムーン、ロストエイジの冒頭までで死んでて良かったよ、アイアンハイドとラチェットは。

 インデペンデンスデイリサージェンスと似たようなこと(元をたどればTFの方が先ではあるんですが)をエメリッヒよりも退屈なシークエンスで見せてくれたり、相変わらずなにやってんのかわからんレイアウトだったり、TFというコンテンツへの思い入れを度外視すると「ザ・マミー」よりもつまらんかったどす。

 

ここから映画から少し外れる話。

 

 

ではなぜTFの玩具を買うようなオタクどもは最後の騎士王を観て喜ぶのか。それはとどのつまり記号を楽しんでいるからに過ぎない。伊藤が「萌え」に安心するオタクに言及していたように、スースクがヒットしているのと同じように、「最後の騎士王」を楽しめたという人は記号を見ているにすぎない。いや、わたしはキャラクターの記号化にすら失敗しているような気もしますが。

そもそもさー、スーサイドスクワッドの劣化版みたいなキャラクター紹介とか必要ですか? あれは一応、それぞれのキャラクターがメインの構成員として(機能していたかはともかく狙いとしては)重要な位置を占めるためにまあわかりやすくポップに紹介したのであって、大して活躍もしてなければ大半は何も成し遂げずに死ぬだけのモブキャラでしかないわけですよ。じゃあなんでそんな紹介シーンを挟んだのかといえば、端的に記号化されたキャラクターの玩具を売りたいからだ。これはあくまで憶測に過ぎませんが、作品としてへたっぴぃ映画にもかかわらずわざわざスーサイドスクワッドのあの部分だけを抽出してきたことの意図はそれ以外に考えられません。というか、「なんかかっこいいべ」とか「スースクで受けてたから」とかその程度の浅慮な考えだとは思いたくありません。映画を作る側がそんな程度の考えで作っているなどとは思いたくないのです。そんなんだったら、まだ玩具会社の打算と思いたい。つーかこんなんで玩具欲しくなる人いるのか。いるんですな、以前の自分がそうだったから。まあ、それでも一応の弁明を許してもらえるのなら、わたしは2007年のトランスフォーマーによって変形玩具の魅力に気づかされたので、玩具としてのかっこよさや面白さというものがあればそれが劇中に登場していないキャラであっても買います。そしてまた、大して活躍のないキャラでも玩具で劇中のとんでも変形CGを再現しようと全力を尽くす玩具デザイナーたちの誠意に応えるために玩具を買いますよ。でも、今回はそんなことすらどうでもよくなってくるくらいです。ロストエイジからの連チャンでこれでは、もうどうしようもない。

 ねー。スースク紹介しておきながらタカトミとハズブロはそのくせ未だに紹介されたキャラクターの大半は玩具化していないという怠慢。これも玩具好きとしてその売り方のあまりの売る気のなさに辟易します。

 制作側は、はたしてトランスフォーマーというコンテンツを理解しているのでしょうか。トランスフォーマーがほかのヒーロー映画と異なっているのは、ヒーロー映画がコミックという作品の中から浮かび上がった色彩豊かなキャラクターたちをライブアクションに置き換え、その作品そのものの魅力でもってグッズを売るのに対して、トランスフォーマーはその発端からして逆なのです。媒体の移植という同一パラダイム内の置き換えの過程の中でグッズ化されていくアメコミキャラと違い、おもちゃを売るためにアニメが作られコミックが作られていったトランスフォーマーとは出自からして違うということを製作陣は理解しているのだろうか。

 初代アニメが玩具を売るための作品であり、その前提から発した愛すべき天然馬鹿アニメとして魅力を発揮したことで、玩具ありきの宣伝アニメから立場が逆転し、玩具をも包括する巨大なコンテンツになったのです。日本の玩具を売るために作られたアニメ作品なんて掃いて捨てるほどありますが、ガンダムとTF以外に世界的なコンテンツとして認識されるものはありますか? ゲッターとかマジンガーとかは、そもそもそれ自体がエポック・メイキングで最初期に輸出されたから、という前提があるので同列には語れません。

 何が言いたいのか。つまり、作品としての完成度が玩具の売上につながるということを軽視しているんじゃないかということ。このような状態が続くのであれば、おそらくTFは再び下火になっていくことでしょう。TFファンとしては悲しいことですが、自壊していく巨大物を止めることはわたしごときにはできません。

 そうそう、ヒーローといば、チラシで急に「それは本当にヒーローなのか」とか唐突にヒーロー押ししてきた面の皮の厚さたるや正気を失います。オプティマスはそもそもヒーローじゃねえだろ。ヒーロー映画にフリーライドしようとしてんのは明らかですが、そもそもライドできてねーということを分かっていない。

ゴッドジンライやらプレバンのようなアコギな売り方をするのも反対ですが、売ろうとすらしているのか分からないなんて愛の無い扱いは玩具消費者として信用できない。

 

 オプティマス、本作ではついに変形すらしないですからね。ラストにカット切り替わったら煙の中からトラック出てきますけど、いくらシリーズものとはいえあれ初見の人はトラックがオプティマスだってわからんでしょ。ロボットモードのときなんてもはやトラックの部品ないですし。

 わたしはトランスフォーマーが好きなのであって、変形しないサイバトロニアンに興味はないです。どれだけ高クオリティのフィギュアが出されても、変形しない玩具を買わないというわたしのスタンスがそれを証明していますから。

  ハズブロ・タカトミはマーケティングが下手くそだということは前々から知っていましたが、ロストエイジからこっち玩具を買う気がどんどん削がれていっています。映画作品として、不出来。そして宣伝映画としても不出来。

 本当に悲しいことに、というか情けないことに、作品としての出来がはるかに上を行っているパワーレンジャーよりも最後の騎士王を語りたい欲求が強く、事実として大量の文章を書き上げてしまうこの不甲斐なさに自分が嫌になってきます

 TFの玩具をいつか売らなければならないなーとは思っていましたが、いよいよ大量に処分する日が来たのかもしれません。まさか玩具の宣伝映画を見に行って購買意欲をそがれることになるとは思っていませんでした。いや、ロストエイジですでにその片鱗は見えていたのですが、新章となる本作がこれではもはや光明を見出すのは難しいです。

 一作目がTFをライブアクションそのもので見せることでわたしに衝撃を与えてくれましたし、それによって創作物への意欲のある今の自分が作られた契機になったことは事実です。ですが、いよいよわたしもavgnのようになる日が来たのかもしれません。