dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

恋のゆくえとかそういう矮小な問題に押し込もうとするからいかんのです

邦題のダサさときたらまったく・・・。

あまつさえ、原題の前にくっつけてくる面の皮千枚張りっぷりには乾いた笑いが出てくる。

「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」

原題はスラッシュの後ろの部分だけなんですが、これ別に恋のゆくえそのものがメインなわけじゃないんですけどね。

監督・脚本はスティーブ・クローブスという聞きなれない名前の人なんですが、どうもハリーポッターシリーズの不死鳥意外の全てに脚本で参加しているというよくわからない経歴。あとファンタビにも製作として参加してはいるみたいですが、それ以外に目立ったフィルモグラフィーはないんですな。

そんな彼の監督デビュー作がこの「ファビュラス~」なわけですが、まあバーカーの方の元ネタという部分に反応しただけでそこまで期待していなかったのですが、思いのほか良かった。

 

映像的にすごく印象に残るっていう部分はないんだけど(それでもホテルのベランダで三人が話しているときに背景としてちょっと映る夜景とかいい感じ)、すごく普遍的な話ではある。30~50代くらいの働き盛りの人が観たらかなり共感するような部分があるはず。

それなりにピアノの才能がある弟ジャックと、彼のような才能はないけどマネジメント力があって世渡り上手で家庭もある兄のフランク。この二人は連日連夜バーだかホテルだかでピアノを演奏してカネを稼いでいるしがない兄弟のピアニストコンビなんですが、諸行無常から映画の早い段階で「来週から来なくていいから」と肩を叩かれてしまう。ここで契約を切られてしまう理由がひとえに集約されていないというのもまた地に足がついているバランスで好感が持てる。

そういえば、この映画はジャックがワンナイトスタンドを終えて着替えているシーンから始まるのですが、一夜を共にした女性が「あなたの手、最高だったわ」と言うのが粋である。粋、というかオヤジギャグではあるんですが、このあとにジャックがピアニストであることが判明するという中々こじゃれたオヤジギャグではあって、こういう些細な部分が割と自分は好きだったりする。普通に乳首が見えていたのですが映倫はどうやってレート決めたんだろう。

ジャックがピアノ演奏しながらタバコを吸っているというのも一つの要因ではあるだろうけれど、それだけではなく「ラジオスターの悲劇」的な要因だったり、ベイカー兄弟の問題やオーナーの人格という人に起因する問題だけでなく、それらの人が集まる「場」そのものが変容しているがために、というのがそれとなく指し示されてもいたりする。ま、単純にオーナーの人格的問題がでかいような気もする箇所もあるんですが、これが後々意趣返しされる展開はベタだけどスカッとしますし、いい感じではないでしょうか。

そんなわけでピアノだけでは(´Д⊂ モウダメポとなったベイカーズは歌手を向かい入れることになるわけですが、「シング」並のテンポでオーディションシーンが展開されていき、「主役は遅れて登場するもんだろ?」と言わんばかりに90分遅刻してきたスージーが横柄な態度で二人の前で歌うのである。

ええ、ベタすぎる。30年前の映画とはいえ、この展開はあまりに王道すぎて逆に今時珍しいくらい(今時じゃないから当然か)です。

で、ここから3人ユニットで大活躍を見せるわけですが、兄の忠告にもかかわらずジャックがスージーとファックしてしまい、雲行きが怪しくなっていく。スージーは引き抜かれ、ベイカーズはまた振り出しに戻り地道な営業から始めなくてはならなくなる。しかしそんな折に舞い込んだ深夜のテレビの仕事でコケにされたジャックはとうとう堪忍袋の緒が切れてしまう。

もちろん兄貴も怒ってはいるものの、彼には家庭があってローンもあって、安定した収入を得なくてはならない。だからせっせとマネジメントして仕事を食いつないできた。

それとは対照的なジャックが衝突するのは必然だったわけで。

個人的にはここの二人の言い合いからのだっさい取っ組み合いが好き。二人の不器用さとか、どうしようもないけどそうやって生きるしかない体たらくが。

イカー兄弟というのは、誰もが持っている両価性を二人の人間に分けてできたキャラクターであるはずですから、どちらも基本的に間違っていないというか共感できる部分があるというのがやさしい作りだなーとわたしは思いますです。

それに、このあとにいやいやだった仕事のことを笑いながら話しあって、酒を酌み交わしながら小さなピアノを弾いて・・・という展開があったりもするんで。

スージーとジャックの最終的な距離感というのも絶妙だし、そこで終わらせるというのもそれぞれの新たな出発としていい塩梅ではないでしょうか。

基本的には生暖かい監督の視線に溢れる作品だと思うので、それが合わないという人もいるやも。とはいえかなりテンポはいい映画ですし、前半は特に30分でスージー合流からの一時的な成功まで描かれちゃうくらいなんで飽きるということはない。ただ、先程から書いてきたようにベタベタで展開が読めてしまうので、そこはまあちょっと合わない人もいるかも。そういう意味では、やや教科書的すぎるきらいのある映画ですが、それでも誰もが思い悩むような問題を提示しつつ、それでも「なんとかなる」感じ(決してハッピーエンドでもビターエンドでもない)で終わってくれる良心的な映画だと思います。

ブラックコメディとしてはそこそこ楽しいけれど・・・

「サバービコン 仮面を被った街」を観てきました。

本当は「アイ、トーニャ」が観たかったんですが時間が合わなかったので延期。代わりに、といってはアレですが、そこまで観たいわけではなかった「サバービコン」に切り替える。BS海外ニュースでジョージ・クルーニー監督、マット・デイモン主演で映画を撮るというのは結構前から知っていたんで気になっていたといえば気になってはいたんですが、優先順位的にはそこまで高くなかったし。

 

相変わらずダサい副題をつけるのが好きですねー日本の配給は。映画で描かれてるかぎりだと街というよりはむしろ家族なわけですし・・・ってこれネタバレだろうか。かなり序盤で種明かしされるとはいえ(そしてそれゆえにやや物語的な牽引力を弱めているような気も)、「あ、そういうことだったのか」となる部分はありますからね。
ここではネタバレなんて気にせずつらつら書いていきますが、もし見る人がいたらなるべくネタバレは回避したほうがいいと思いますですよ。

率直な感想としては「予想通り予想を超えてこないダメよりなフッツーの映画」ではあるかな、と。あーでも、製作陣がセーフをかけてる気はするけどなにげにグロだったりエグい場面があったりするので、そういう意味では楽しい部分もあるんだけど、結局のところは全体的にとっちらかったまま終わったという印象。
元の脚本がコーエン兄弟だけあって、そこそこサスペンスな部分はあるんだけど、黒人差別の部分とかは前時代的というか、やっぱり脚本が書かれた80年代のうちに映像化しておくべきだったなーとは思う。ただコーエン兄弟が映画化しなかったのは、やっぱり脚本に納得行ってなかったからじゃないかなー。「デトロイト」のように実際の出来事を巧みな演出で再現し再考させるというものでもないし。一応、本作も50年代の実話をモチーフにしているという話ではあるようですが。街ぐるみの黒人差別をちゃんと描ききれていない割にそっちにやたら尺を割くんだけど、メインとなるデイモン一家の話とまったく絡まないのが痛いですね。サバービアの嫌な感じだったらよっぽど「トゥルーマン・ショー」のほうがいいかなー。

演出的にも、説明的な映像がちらほらあったのが痛い。黒人一家が白人だけの街であるサバービコンに引っ越してきたところから始まるんですが、黒人の一家に手紙を届けにきた郵便屋さんの態度が表情の機微や手紙を渡しそびれる=黒人は召使いという認識を持っているといった部分を描くのは(やや戯画化されているきらいはありますが)いい感じなんですけれど、そのあとに街の集会所みたいなところでホワイトトラッシュガイズが集まって黒人がいるではないかとやいのやいの言って、黒人一家の家の周りに柵を立てるということを決めるのですが、ここ入れてしまうのはスマートではないですかね。
あそこは丸々カットして、いつのまにか家の周りに柵を立て始めているというふうにすればもっと気味悪くできたのでは、と。

ほかにもちょいちょい黒人差別の描写は出てくるんですが、描くだけで終わってしまっているので、物語に直接関わってこないのであればそういう描写を背景的に描くだけにとどめるべきだったのではないかなーと。
てっきり黒人との友好を結んだ息子だけが生き延びるというような展開かと思ったら全然そんなことはなかったし。

 
ジュリアン・ムーアのバカっぽい演技とかマット・デイモンが夜道を幼児用自転車で漕いで行くのは面白いんですけどねー。地下室で卓球ラケット持ってジュリアン・ムーアスパンキングしながら立ちバックするところを息子に見られたりするシーンなんかもまあ普通に笑えましたし。部分部分で笑えるところはあるんですが、やっぱり単一の作品として見た場合はちょっと首を傾げざるを得ない。

殺された母ではなく殺した側の叔母が黒人の子と遊ぶように促したおかげで息子が拠り所を失わずに済んだというのは、皮肉じみていてそれなりに納得はいくんですが、どうせならマット・デイモンに息子を射殺させてから夜が明けたら毒でデイモンも死んでいてロッジ一家全滅みたいにしたほうがよっぽどブラックコメディ的ではありますけんどね。ギャグ日の「アンラッキーシリーズ」みたいに。

 

 総評としては、面白い部分もなくはないですが、トマトの評価通りの出来栄えだとわたくしも思いますです。
どうでもいいですが製作総指揮にジョエル・シルバーがいるというのが地味に笑えました。

どっちが死んでるのコレー

黒沢清の「岸辺の旅」

毎度のことながらこの人の映画ってなんか独特ですよね。黒沢清「叫」で初めて知ったときはそういうのを感じ取るセンサーよりも「なんかつまらないような」といったネガティブセンサーが発動していたのだけれど、少なくとも「岸辺の旅」は奇妙に面白い作品ではあったどす。奇妙だから、というべきなのか。

やたらと音楽が目立っていたなーと思ったら黒沢映画で初めてのフルオケだとのこと。音楽の使い方もなんか普通じゃないんですよね、あれ。「その場面でその音?」という気味悪さというかズレというか。 

この映画全体がそういうズレ・・・みたいなものを意識させる作りになっているように思えてしょうがない。

作品の基本プロットは「妻の前に死んだ夫の霊が現れ、生前に夫が訪れた人々を再訪する」という、なんというか心温まる系にありがちというか想像しやすいものではあります。だけどですねーこれ、普通にホラーですよ。こんなハートフルっぽいガワを使って生と死の垣根を曖昧にさせようと(しかもいつもの黒沢節で)し、現実と幻の境目を不明瞭にさせていく。

深津絵理が何度もベッドから起きるシーンに象徴される(しかも最初の起床シーンで「変な夢」と言わせている)ように、そういう諸々の線引きを曖昧にさせてこようとしているわけですよ。

まず冒頭で深津絵理が女の子にピアノを教えてるシーンなんですけど、顔が映らない。顔が映らないだけでここまで不安を煽れるというのは中々新鮮な体験でしたが、ともかく深津絵理が死者なのかと思うくらい顔が映らない。死者であるはずの浅野忠信の明瞭さと対地させている狙いはあるはずなので、あながち彼女を死者のように見せているというのは外れてはいないでしょう。服装も浅野が暖色だったり(そうでなくとも色味の強い服ばかり)するのに対して、深津は色もグレーだったり服飾そのものも代わり映えしないものばかりで、本当は死んでいるの深津の方ではと思いましたよ。

浅野忠信は水飲んだりぜんざい?食べたり林檎食べたり(なんか肉とか米じゃないとこがまた生と死をあやふやにしてる感じがあったり)してるんですが、深津絵里は何も食さない。蒼井優とバトるとこでお茶飲んでたり、後半でちょっとしたお菓子みたいなのをつまんでいたりはしましたが。それに、テーブルを囲んでるシーンはあったりもしますが。

あと何が怖いって、こちらのわからないロジックが厳然と存在しているのに劇中ではそのロジックの原理がわからないところ。だから観客はそのロジックを想像して安心を保とうとするわけで。これはわたしが観てきた黒沢清の映画の大体に通じる部分ではあると思うのですが、これは特にその傾向が強い気がする。カットの切り替えだけで存在の有無をスイッチングするのとかもそうですけど、もう幽霊がそこに突然現れても動揺とかはしないし、なんだかもうともかく面白い(適当)。

ライティングだと、暖色と白色の電灯の使い方なんかも露骨に使い分けていたり、ガラスや窓越しだったり窓の外の光が尋常じゃないくらいの光量になっていたり(笑)、露骨といえば露骨ではありますか。

 

細かい部分を挙げていくとそれこそザ・黒沢清なところはたくさんあるんで割愛しますが、普通に良い話に収まったという意味では「ニンゲン合格」ぽくもあるような?

 

役者はみんな素晴らしいんですが、深津絵里が個人的にはかなりキマシタ。エロい・・・というとリビドー的な意味合いから齟齬がありそうなので、あえて艶かしいと表現しますがともかく魅力的なんですよね。こう、抱きしめて支えてあげないと消えてしまいそうなおぼつかなさと、後半でそれを払拭していくのとか。

あと蒼井優ね。あの人の顔はどうしても好きになれないんですけど、やっぱり女優としてはずば抜けている。カメラワークやセリフの応酬(ほぼカット割らないのとかも相まって)では食い気味だったり、ここはともかく色々な意味で楽しい。

浅野忠信もかなりはまり役だったし。

 

散歩する侵略者」の宇宙人たちのツーリング場面を除けばこっちの方がすきかもしれない。

秩序は人間の尊厳を脅かすのか

時計じかけのオレンジ」と似たようなテーマといってもいいかもしれない。あそこまで露骨(というか露悪?)ではないにせよ。
コミュニティ内の平和と秩序を優先することとそのコミュニティを形成する個人(要素)の自由とのコンフリクト。まあ平和と秩序といっても表面的なものでしかなく、そもそもそれが完全に達成されること自体が仕組みとしてありえないわけで、社会システム論的な命題を要素としての個人を優先した映画というべきか。

まったく事前知識なく観たんですが、作りが割としっかりしているというか気が利いていました。マックが最初の方に行うある未達成の行為をチーフが継承して行うのとか。実は境遇からして二人は同じだったというのが中間で明かされてからの「最後のガラスをぶち破れ~」ですからね。
 にしてもジャック・ニコルソンですよ。この人は本当になんか気が狂ってそうな感じがして怖い。本作の舞台は精神病院なわけですが、ニコルソンが演じるマックは狂人を装って精神病院に送致されることで刑務所の強制労働を逃れようとしている、いわば健常者なわけです。が、ほかの精神病患者の役と並んでも遜色ない。といっても、ほかに比べると明らかに自我がはっきりしていますし話が通じる(それでも隠しきれないヤバさ)ぶんそこまで病的な振る舞いがあるわけではないんですが。遜色ないというか、馴染んでいるというべきでしょうか。

社会的規範にならえば悪とされるマックですが、しかしそれが精神病者たちにとっては救いの手であるという葛藤。矛盾ではなく、あくまで葛藤だとわたしは思いますが、そういうのを感じさせないくらいこの映画はマックを生き生きと描いている。
だからこそ柵を乗り越えてみんなを釣りに連れて行くシーン・釣りをするシーンはとてつもない開放感がある。
この直前のバスのシーンでマックが連れてきたキャンディがバスに乗った精神病者たちを見て「YOU ARE ALL CRAZY?」と言うわけですが、ここを「みんなお仲間?」と訳す字幕のセンスも中々イケている。
ただ、後半になっていけばいくほど辺の秩序と個人のバランスが絶妙に均衡してくるように思える。そもそも、婦長を明確に悪としては描いていないところからも、ミロス・フォアマン監督は単純な二項対立の図式ではあっても簡潔な善悪として分けているようには思えないのですよね。

確かに婦長の強権的な振る舞いによってマックが可愛がっていたビリーが自殺するとはいえ、そこにはマックの行動の結果が大きく起因している。それに、少なからず悪い結果になることは予期できたはずだし。それを棚に上げて婦長を絞め殺そうとする(ニコルソンだからこそこの辺に説得力がある)わけで、その憤りに共感は出来ても体制下に生きる我々にはマックに対する疑念や恐怖といったものを少なからず抱いてしまう。

だから、ロボトミーには悲しさや落胆みたいなものと同時に「そりゃそうなるよね」とも思ってしまう。それを最後の最後にそれまで自発的に行動することなく、いざというときに慄いてしまっていたチーフが「最後のガラスをぶち破れ~」となるからテイバーと観客の心は一体となり叫ぶのですよ。

 

雑ソウ記のほうで書いたのは、このニコルソンの行為すら精神病院側が許容(ことによっては歓迎すら)してしまう気持ち悪さにあると言っていいかもしれないなーと書きながら思った。

 

ま、現実問題としてどちらが悪いとか良いとかではなく、バランスの問題だとは思いますが。大空レイジが言うところの「右でも左でもなく真ん中が一番良い(意訳)。どら焼きだってサンドウィッチだって真ん中が一番おいしいだろう(直訳)」理論はつまるところ中庸ですし、個人的にはこれに賛同。もっとも、アバさんは「中庸は現実の前に無力なんだよ」と仰っていましたが。

あとDVD特典のギャラリーで映画化にあたってのダグラス親子の偶然とか、ロケ場所の病院の話とかキャストが事前に3ヶ月ロケの病院で生活したとか、そういう話があって結構面白かったです。

 

それと先月の13日に監督が亡くなっていたようですね。だからなんだという話なんですが、つい数日前まで生きていた人の映画を観たというのが妙な気分であります。

 

R.I.P

 

 

インフィニティうおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!

久々に胸を張ってこう言い切れる映画を観た。

 

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           /,.=゙''"/
    /     i f ,.r='"-‐'つ____     こまけぇこたぁいいんだよ!!
   /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\
     /   ,i   ,二ニ⊃( >). (<)\
    /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
       ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

 

 

かっこよすぎて泣きかけた(ぎりぎりで持ち堪えたけど!)数少ない映画の一つになりますた。ともかくハイパーテンションの映画でおまんした。
映画を見て家に帰ってきたら壁に飾っていた「ジャスティス・リーグ」のポスターが傾いていて思わず吹き出してしまった。DCEUの行く末を暗示しているようで。

それにしても超攻撃特化の映画でした。映画の姿勢というかなんというか、本当に攻めまくっていて攻撃こそ最大の防御を体現するような、そんな感じ(あやふや)。
しかし、これって案外難しいことではないでしょうか。まして、この規模の映画ともなれば。
よく「頭空っぽにして楽しめばいいんだよ」とか「細かいことは気にせず見ればいいんだお」とか「何も考えずに楽しめばいいんだよ~」と言う人がいますが、そういう言葉にはその映画の世界に没入させてくれさえすれば」という暗黙の了解としての枕詞があることをあまりわかっていない。わかった上で「だって好きなんだもん!」と反駁してくれるくらいの熱量がその作品に対してあるのならばいいのですが、大抵の人はただ単に何も考えずに「何も考えずに楽しめよ」とかのたまう。
それはただ単に思考停止しているだけで、決して夢中になっているわけでじゃない。
少なくとも、本当に「細かいことを考えずに楽し」ませてくれる映画にはちゃんと作り手に気概がある。バランスの問題だったりもするけれど。


だからこそ「インフィニティ・ウォー」は面白いのだ。そういう細かいことを感じさせる前に映像としての迫力や最低限の話の流れを組み立てキャラクターの描写も行った上でちゃんと燃える展開を用意してくれているのだから。
たとえば、ソーがストーム・ブレイカーを手に入れるくだりは、はっきり言ってソーが身を呈す必要は脚本上は不要といえば不要なのです。けれど、「シビル・ウォー」でわざわざ刑務所に立ち寄る場面に迫力を演出したルッソ兄弟は、そういった部分にも熱量を持たせるためにあえてソーの自己犠牲を選んだ。もちろん「新しい武器を手に入れるのになんの苦もないとあまりに単調すぎるから」という計算の下で派手さやエモーションを優先したに違いない。そこに繋がっていくのが、序盤では反抗期真っ盛りだったグルートが、ただロケットに言われてついてきただけのグルートが、ソーのふんばりに応えるシーンというのも泣けるではありませんか。
ほかにも細かい部分で言えば、バナー博士がキャプたちと合流する場面。画面の外から現れるバナーを映した直後にナターシャを画面の中心に据えてカットを切り替える二人の特別な関係性のそれとない演出。

二度流れるアベンジャーズのテーマに、わたしはかっこよさのあまり鳥肌が立ち涙腺が緩んだ。だってかっこいい登場をかっこよく演出してくれるんだもの。

 サノス意外の敵で言えばマウさん以外はあまり目立ってはいませんが、サノスが魅力的に描かれていたので仕方ありませんね。マウさんのやられ方がかなりまぬけというか「あ、そんなへんてこな宇宙船の形状してるけど物理法則は普通にあるんだ?」なエイリアンパロのくだりは笑いましたが。本当にマウさんがエイリアンと同じ末路(「エイリアン」のゼノモーフのラストと同じ構図だったような…)というのも呆気ないといえば呆気ないですが、ほかの物理に全振りしてた(少なくとも演出上は)ブラックオーダーよりはかなりおいしいでしょう。

なんだかんだでヒーロー側の強さを相対的に感じさせてくれる程度には引き立て役として機能していましたし。

スパイディが消滅するところにしたって、最初から彼が宇宙についてきてしまったことに怯えていたりそのあとにスタークにアベンジャーズとして認めてもらったから、という色々な組立があったからこその悲壮感であるわけですし。

サノスがただの「ちからこそぱわー(^p^)」で「ぐははは、おれさまがせかいをしはいするのだー」な魅力のない悪役じゃないというのも良かった。なんだかんだで人間臭いサノスが、実はこの映画で一番美味しい役どころだったのではないかと思います。

ラストで完全に賢者モードで隠居しそうに畑みたいな場所で座っていたのは笑っていいのか同情していいのか・・・


バッドエンドですしキャラクターも死にますが、随所に笑いもあったり、湿っぽくなりそうなタイミングでドラックスとかがちゃんと引き戻してくれたりするので、終盤の展開に至るまでは良い意味で安心して見ていられます。それだけにラストの展開が胸にくるというのもありますし。
ジェームズ・ガンが構築したgotgのメンツのキャラクターを上手く描けていたのも、ルッソ兄弟の力もありますがやはりマーベルスタジオの手腕も大きいのでしょうね。
ガントレット奪取の戦闘場面でクイルの背後でアイアンマンとスパイディがえっちらおっちらとガントレット奪おうとしている様は緊迫した場面にもかかわらず笑ってしまいましたけんど。しかも結構長いんですよね、ここ(笑)。


MCU10周年のご褒美(有料)という側面もあるので、CGふんだんに使いつつインファイトも結構あったり、ともかく派手派手にしようということだったのでしょうね。もちろん、最低限押さえるところは押さえて。
そのおかげで戦闘シーンの多い中でも何一つ飽きることなくそれぞれを楽しむことができましたし。またアイアンマン好きとしては今回かなり活躍してくれるのでそこも嬉しかったですねー。

早く続きが観たい…

4月のまとめ

ヒューゴの不思議な発明

なんだかすごいスピルバーグっぽい。

スラップスティックな感じとか、70~80年代のスピルバーグ映画でこんな感じのを観たような。あと駅にずっととどまっているという点では「ターミナル」とも共通点があるといえばある。

どうでもいいけれど、クロエよりエイサくんの方が可愛いという罠。映画への愛が溢れている映画、といえばいいのだろうか。サシャバロンコーエンとかクリストファー・リーとか、なにげにメンツが面白いというか豪華というか。

あの機械はやっぱり「メトロポリス」のアレなのかなぁ。

 

 

「チェンジアップ オレはどっちでお前もどっち」

ライアン・レイノルズベン・スティラーに見えた。作品自体は下品なネタが多いけれど笑える。

マスターベーションを訊かれてクラッカーと答える母(クラッカーはタマキンのスラングなので意訳としては誤魔化してはいないという)。ケツたたいて友人の娘を倒すところの配慮の欠如とか。

タティアナは狙ってないのでしょうが日本語の語感だと卑猥に聞こえたり。

細かいところで言えば、向こうの行政施設?特に運輸省はサウスや「ズートピア」でも描かれたように仕事がトロすぎて行列ができるというのはもはや定型なのでしょうね。

ほかにも入れ替わったことをわからせるために夫婦しか知らないことを言うくだり。夫が誕生日を間違えるのとか、笑えるけど笑えないというか。

後半はレイノルズ側の描写が雑な気がしますが、まあ多くを求めるタイプじゃありませんな。

入れ替わることで他者を理解するというのはまあありがちだし、何か傑出した部分があるというわけではありませんが、普通に観ているぶんには笑えます。

個人的には「小便して自分の人生を取り戻す」というワードが気に入ったので、排尿するときに使います。

 

 

ドクトル・ジバゴ

長い。いや、良い映画ではあるんですが長いですよ。

197分とか、「アラビアのロレンス」もそうですがデヴィッド・リーンの映画は尺もそうだし内容のカロリーもあって集中力を持続させるのが大変。

ただ、最後まで観てみるとヒューマンドラマとしての側面がかなり大きく、ロシア革命という状況に翻弄される男女の物語なのですね。なんだか宣伝コピーみたいになってますが。

これ、どっかで同じようなプロットを見たなーと思ったら「シェルブールの雨傘」でした。「シェルブールの雨傘」も、これはこれで全編がミュージカル台詞という狂気の映画で凄まじいのですが、話自体は「ドクトル・ジバゴ」とかなり近い。要するに「もしもあの時あの人と…」というタイプ。オマー・シャリフの命日だからこれをやったのだろうか、BSは。

 

演出も芸コマだったり。たとえばコマロフスキー(クズ)とラーラのシーンで、コマロフスキーの顔を近めに、その横にある鏡におめかしさせられた赤いドレスのラーラを反射させて一緒に撮っているんですが、鏡には彼女の身体だけが映り、顔は鏡面に収まらないという演出。この男が彼女を本質的にどう思っているかが読みとれる。そのくせ、葉巻に火をつけるだけの行為を鏡の前で行う(無意識だろうが)自我の強さ。

実際、このあとで彼女はレイプされるわけですが、まあ男尊女卑の世界では黙殺されてしまってね。

ジバゴに「彼女を進呈しよう。結婚祝いに」なんてほざきますし。

でもあの赤いドレスがいいんですよね、困ったことに。

 

「大砂塵」

強い女同士のバトル。やっぱりジョーン・クロフォードはかっこいいなぁ。

いや、いい映画なんですけど、「ドクトル・ジバゴ」と立て続けに観たせいでわたしのポンコツな脳みそでは集中して見ることができず・・・

 

サボタージュ

もともと3時間の映画を編集で100分ちょいから午後ロー枠でさらに20分ほどカットされているので微妙によくわからない部分があったりする。

デヴィッド・エアーなので最低限の面白さは担保されているわけですが、ミステリー要素を排除しても良かったんじゃないかなーって。

しかし相変わらずグロ描写とか銃撃とかアクションはいい。死体を金網で巻くことで腐乱ガスが抜けて沈めても浮き上がってこないという部分とか。

しかし編集と演出(制作のゴタゴタのせいですが)のせいでよくわからなくなっている。シュワが最後の方で攻め込むところで背後のポスターに「sin sin sin」って書いてるのとか細かい部分はいいんですけどね。あと三四郎小宮の吹き替え起用はイミフ。

 

ロシュフォールの恋人たち

ミュージカル映画ってやっぱり衣装が大事な気がする。「ラ・ラ・ランド」がミュージカル映画の初体験である自分からすると、やはりその部分は外せないのだろう、と「ロシュフォールの恋人たち」を見て思った。

冒頭のダンスなんか、「ラ・ラ・ランド」の冒頭のダンスに少なからず影響を与えているでしょうし、これは結構イケている気がする。

グレーの作業着(?)の下に淡い色のシャツ着ていたり姉妹が最初来ていた白を基調として黄色やピンクが下地的に使われているワンピースも良いですよね。

あとイヴォンヌのカフェのデザイン。壁がほとんどなくて開放的なんですけど、グリッド状の白い床の整った感じとか、個人的にすごいツボ。

カラフルな衣装が次々変わっていく楽しさっていうのはやっぱりミュージカル映画ならではでないかと思うのです。

 

「ファーナス 決別の朝」

やるせない。チャンベール、ハレルソン、ケイシー、デフォー、サルダナ、ウィテカーなどなど。好みの俳優が雁首揃えて陰鬱とした空気を発している映画とあって、個人的には結構好きな映画だった。

チャンベールからどんどんズームアウトしていくカメラワークが多用されているんですけど、これはもしかすると彼から離れていくそれぞれの人物の視点だったりするのかなーとか思うとほろり。ケイシーは「マンチェスター~」でその地に足付いたすさみ具合を見せてくれていましたが、こちらでも心の荒廃を明確な理由を根拠にしているだけあって壊れ具合もひとしお。ハレルソン意外は明確な悪がいないだけに、どうにもやるせない。「ジュマンジ」を観たあとにこれ、というのも落差がひどい。ハレルソンを悪、とは書きましたが、実のところハレルソンですら閉塞した村社会の因習というシステムに無意識のうちに調教された犠牲者でもあると考えることもできなくはない。いや、普通に観ているとハレルソンの演技も相まってムカつくサイコみたいな感じなのですがね。

 

 「ソイレント・グリーン」

ディストピア映画といえば、この映画の名前が挙げられるのはかなり早い段階であろう。人肉ウマーではなくマズーな映画。

この映画は食ってるものが人肉でできていましたーということが大オチになっているわけですが、今似たような設定やリメイクを作るとしたらむしろこれが前提となって様々なメタファーでもって映像化されるのだろうなーと思ったり。

人間を飼育することの前段階としての「家具」があるとも考えられるのですが、段階でいえばむしろ飼育の後になるでは。「家具」が女性だけという点は明らかにフェミニズムの問題が提起されている。

ディストピアな世界観が観れるだけで、割りとじぶんは満足してしまうのですが、頭の方の水路(?)みたいなところのフェンスを暗殺者が登っていくところの望遠のカットとか、なにげにすごい近未来感があるんですけど、あれってセットなのかしら。

あと市場の風景を映すときだけ緑色がかった霧のようなものが画面に充満しているのとかもいいですよね。

 

「シャイアン」

ジョン・フォードの、というかアメリカ人の罪意識からなのかどうかは知りませんが、今度は先住民側の苦悩を描いている。

相変わらず風景のカットとか馬がカメラの奥までずーっと雁首揃えて走っているシーンとかは観ていて気持ちいい。

 

 「レッズ」

冒頭の入りからてっきりドキュメンタリーかと思ったら伝記映画でした。それでも結構史実に忠実なのだろうけれど。

ロシア革命を外部の視点から描くというのは面白いんだけれど、いかんせん長すぎる。もっともどこかカットしろ、と言われるとそこまで無駄な部分があったとも思えないし。いや、そうでもないか。少なくとも前半のイチャイチャとかニコルソンとのntrとかもっと切り詰めてテンポよく行けたとは思うんですよね。別に、最終的にあの三者が組んず解れつのおお揉めになるとかでもなし、かといって革命の動向とシンクロするでもなし。主題はあくまで革命の動きにあるわけで、どうもどんピシャリとは思えない。困基本的に2時間でも集中力にかげりが見え始める自分としては190分は長すぎる。

 

女は二度決断する(AUS DEM NICHTS)

劇場行ったら朝一の回なのにアベンジャーズの客でごった返していてがすごかった。ていうかウザかった。GW効果もあるんだけど、あんなにイオンシネマに人がいるの見たことないですよ。ほんと、人ごみって嫌いだ。まあ好きな人はそもそもいないだろうけど、わたしは輪をかけて嫌いだ。

中年の夫婦がクレヨンしんちゃんアベンジャーズどっちを見るかで迷っていたのがなんか面白かったのでほかの客を許しましたが(何様)。しかしこれまでのmcuでこんなに人が入っているのは見たことないんですけど、この人たちはこれまでのシリーズをちゃんと全部おっかけてきたのだろうか。なんてことを思いながら箱に入っていったのだった。チケット渡すのにも列に並ばなきゃいけないくらい混んでましたよ。普段はガラガラなのに。

 

報告はこれくらいにして、映画「女は二度決断する」について。

 ドイツ(語)の映画といえば去年は「ありがとう、トニエルドマン」なんて傑作もありましたが、本作「女は二度決断する」も傑作です。面白いです。面白い、と書くと内容的に不謹慎かもと思わなくもないですが。
ていうか、すごい上手い。社会的な問題をそれとなく台詞や演出の中に盛り込みつつある一人の女性の話としてしっかりと最期まで語り切る巧さに脱帽。
ただ、あまり社会派とか書くと逆にバカっぽい(主に言語に対する思考が足りないマスコミのせいですが)んですが、それでもやぱり社会派な映画ではある。
偏見を偏見のままコメディとして扱う「サウスパーク」と並べてみても面白いかもですね。

 本作は3つのチャプターに章立てされていて、「Ⅰ 家族」といったようにあらかじめ提示される、わかりやすい構成になっています。最近だと「マジカル・ガール」がこんな感じでしたっけ。
そんなわけなので、とりあえず章ごとに書いてきます。

 

1章:家族
 この章に限らず、全編に渡ってほとんどフィックスで撮っている場面がなくて、手持ちカメラのように常に小さなブレがある。その演出は、人間を描くこの映画にはかなりピッタリしている気がする。「ギフテッド」ほど露骨ではないのも印象が良い。よく考えると映画の始まりからして獄中結婚の様子をホームカメラで捉えた映像から始まるわけですし。

 1章で描かれるのは章のタイトルどおり家族についてなわけですが、アットホームな雰囲気とかそういうのはほぼない。ないというか、本当に冒頭にさらっと(しかし巧妙に)描かれるだけで、10分もしないうちにすべての出来事の発端となる爆破事件が起こるので、むしろ家族を失ったカティヤの喪失感を描き出すチャプターと言えるでしょう。この一件で夫と息子を失うわけですが、事件が起こったときに彼女自身はおふろの王様みたいな場所で妊婦の友達とくつろいでいたというのがまたキツい。この直前の家族の些細だけどまさに良い家族といったやりとりがあるだけに。
この一連のシーンですでにカティヤは犯人と遭遇するわけですが、この辺も後の2章の展開と上手くリンクしていて法廷劇のシーンでカティヤ(ダイアン・クルーガー演)に感情移入させる作りになっている。もしかすると、この辺は共同脚本のハーク・ボームさんが助言していたりするのだろうか。
ちなみに、この妊婦の友人の描き方なんかを巧みに使って時間の経過(=裁判にかかっていた時間)を言外に示していたりする。

 で、前述したように台詞や演出からさらっと社会問題が表出する。たとえば犯人捜索のために警察がカティヤに質問をするシーン。夫はトルコ系で薬を売っていた前科者だったこともあって、警察はカティヤに「夫には敵がいたか?」と訊ねます。これの質問の意味するところは色々と背景があるわけですが、その質問に対して彼女は「敵って何?」と問い返すわけです。夫はすでに闇商売から足を洗っていたにもかかわらず、前科者でありガイジンであるというレッテルを貼ったり特定の宗教を信仰していたのかなど未亡人にデリカシーのない質問をぶつけます。
第二次世界大戦、東西冷戦、そして9.11を経た今、単純冥界な「敵」などという仮想敵がいないこの時代に。ほかにも随所にこれらのようなポリティカルなワードを想起させるものがあったのですが、1回観ただけなので失念している箇所が結構ありますです。

 このチャプターは全体として彼女の悲しみや夫の死によって生じる軋轢なんかが表出させられてくるのですが、ダイアン・クルーガーの煙草の吸い方一つとってもその混乱状態や悲壮感が伝わってきますし、殺された夫ヌーリ(ヌーマン・アチャル演)の実親が彼と彼の息子(要するにカティヤの息子)の損傷した遺体を故郷のトルコに持ち帰りたいと提案されたときのカティヤ側の親の反応やヌーリ側の親の反応、そしてその申し出に対して一度部屋にこもってクスリを吸ってから断るといった、カティヤの弱さを丁寧に描く。やりすぎて「もういい…!もう…休め!」と叫びたくなります。そんな喪失の只中にいる彼女が彼女の弁護人であるダニーロ(デニス・モシット演)からもらったクスリに頼ったり、それが後々の展開に影響していったりと、ともかく脚本がかなーり有機的に絡んでいる。

チャプター1のときは事件が起こってから章の終わりまで、ずっと雨が降っていてちょっと笑えてくるくらいなのですが、カティヤのことを考えるとそれほどの悲しみの中にいるということなのでしょう。
そして雨の降る中、風呂場でリストカットして自殺を図るカティヤ。が、犯人が捕まったという留守電を聞き覚醒し次のチャプターへ。

が、次の章に移る前に、ヌーリが自宅に三人でいる風景をスマホで撮っている短い動画がインサートされる。会社の経理担当でありつつ壊れた息子のラジコンを修理するエンジニアを自称するカティヤ。三人が楽しげにフレームに収まることはもうないのだという物悲しさや寂寥感で胸が苦しくなってきますね。
ところがどっこい、そこは周到なファティ・アキン監督。ここでのラジコン修理というのがまたまた後の展開の伏線というか布石になっていたりする。

 

 2章:正義
 この章は、法廷劇がメインとなっていて、エンタメとしてはここが一番楽しい部分だと思います。検察側と弁護側が参考人の情報などから相手を打ち負かそうとしている頭脳戦が見れますし。見た限りだと法廷では先攻より後攻の方が優位なのだろうか。それとも単純に力量の差なのだろうか。
ここは、共同脚本のハーク・ボームさんが弁護士でもあるという才人だったので、彼の助言なども結構大きかったようです。

 この辺、場所がほとんど法廷内だけなんですがカメラワークや被写界深度でカティヤとダニール(カティヤの弁護人)の距離感を演出していたり、飽きさせない作りになっているんですよ。それにここで犯人(ネオナチカップル)がまともに登場するわけで、ここまでカティヤに感情移入してきた観客にとっても明確な「敵」の登場に盛り上がるわけです(怒りで)。ま、それゆえにラストの展開が納得いかないとおっしゃる人もいるのでしょうが、わたしはむしろあれこそが人間だと思いますね。

 ここで登場する犯人側の弁護士のハーバーベック(ヨハネス・クリシュ演)の顔のウザさとかもね、いいんですよ。すきっ歯だったり眉間に皺寄せる表情だったり小癪な論法使ってきたり。
あるいは、参考人として召喚されるネオナチカップルの男のほうの父親であるユルゲン・メラー(ウルリッヒ・トゥクール演)と、カティヤの加害側と被害側の交流が描かれることで単純な二元論に陥っていないのもイイネ。ウルリッヒさんのちょっと所在なさげな顔がですね、いくら絶縁状態だったとはいえ息子を警察に通報するという行為に胸を痛ませなかったはずがないのだと思わせる。

 紆余曲折があって結局ネオナチカップルは無罪になるわけです。この紆余曲折の中に最終の3章の展開に繋がっていく重要な要素もあったり、前の章における行動が招いた結果であることであったりするのであまり省くわけにもいかないんですな。
たとえば1章でクスリをやっていたがために、様々な事情から薬物検査を拒否するしかなくそれによって証言能力がないとされたことだったり。あるいはホテルを経営するギリシャの極右政党の男がカップルを庇って改ざんした利用歴を提示したことであったり。うろ覚えなのですが、確かこの男の経営するホテルの名前が「オールドドリームなんとか」だった気が…バリバリの保守でちょっと笑えてきます。

 そんなわけで、無罪判決がくだりこの「正義」というサブタイトルの2章は終わり、またしても次の章に移る前に短いホームビデオの動画が挿入されます。

カティヤがおそらくはスマホで撮っている動画(彼女は足先し画面に映らないことから、彼女の視点であると推測できるので)。そこに映っているのは海で戯れる息子と夫。
これは映画のラストショットと密接に繋がります。ラストショットの説明は後に回しますが、これは明らかに生者であるカティヤのいる浜辺をこの世・此岸として描き、海をあの世・彼岸として描いています。この短い動画の中で彼女は夫に誘われるにも関わらず日焼けがどうのこうのと言って浜辺に残り続け、夫と息子は浜辺から海の中に入っていくのですから。

 

最終チャプター、3章の「海」
 この章で描かれるのはカティヤの復讐に至る行動。
確かこの章で1章に登場した妊婦の友達とのやりとりがあったと思うのですが、さらっと描かれるのに情報量が多いです。
まず妊婦だった彼女が実はすでに出産して子どもを連れてきている。「実は」と書いたのはそれを明らかに意図した演出だからです。これが示すのは前述のとおり時間の経過です。裁判にどれだけの時間がかかったのかを暗に示し、それによって疲弊した彼女の心理などを表しているのですが、それだけではなくカティヤの目の前で子どもをあやすという、「悪いわけじゃないけどこっちのことも考えてよ!」なシーンだったり。まあ、これと似たシーンは2章のダニーロとの酒場でのかけあいにも似たのがあるんですが。
 ただ、この友人とのやりとりで重要なのは友人が出産を終えたことで「生理が戻ったの。タンポンあるかしら」という発言に続くカティヤの「これ(タンポン)あげるわ。わたしは止まっちゃったから」というような旨の言葉を発する。この生理というのが、実は結構重要なんですが、それも後述。

それから、彼女は復讐の行動に出ます。
無罪判決によって旅行を楽しむネオナチカップルのフェイスブックを眺めながら情報を収集していく中で、2章のギリシャ人極右オヤジの経営しているホテルの住所を突き止めます。このフェイスブックの投稿コメントも本当に腹立たしくて「国の金で旅行満喫中(。・ ω<)ゞ」みたいなことを書いているわけですよ。キャンピングカーに乗って。
で、ひと悶着ありつつもネオナチカップルの居場所を見つけたカティヤはいよいよ行動に出ます。その間、何度もダニーロから着信があったものの、無視するのです。が、これもラストに繋がっていく演出の一つなのかなーと思います。
犯人の居場所を見つけた彼女は、犯人が使ったのと同じ爆弾を作り始めます。鍋の中に大量の釘を仕込んだ爆弾を。この爆弾を使うのに使われるのが、インサートされた動画で彼女が直していたラジコンというのが、なんともはや言葉にしがたい。

そしてラジコンのリモコンを使って遠隔爆破を狙い、ネオナチカップルがキャンピングカーから出てランニングをしに行っているあいだにキャンピングカーの下に爆弾を置いて二人が戻ってくるのを草葉の陰でじっと待つカティヤ。ですが、ここで彼女は鳥が車のミラーにとまっていることに気づき、爆弾を回収してその場から立ち去っていくのです。


 ちなみに、ランニングから帰ってきた犯人の表情が生き生きしているのが最高に最悪なんですが、この辺のことをフェミニズムの観点からファティ・アキン監督と中村文則氏がパンフレットの対談で語っていて、そのへんもすごく面白いので読んでみるといいかもしれません。パンフレット全体としてはボリュームに欠ける気はしますが。

 

爆弾を爆発させることなく一時撤退した彼女に、またしてもダニーロから電話がかかってきます。けれど、今度は彼女はその電話に出るのです。上告の期限が迫っているから書類の記載にカティヤ本人の署名が必要だと。だから、明日の朝に来てくれと。するとカティヤは本当に心の底から溢れ出たような声で彼に礼を言います。そのあとに、彼女に生理が戻ってくる。

思うに、2章が終わってから生理が戻ってくるまでのカティヤは人間ではなかったのでしょう。人間ではなかったというのは、復讐心に支配され考えること思いやることを止めたがために、人間の血を失った=生理が止まったということ。
そう考えると、どうしてダニーロの電話のあとに彼女に生理が戻ったのかに得心がいく。それまで電話に出なかったのは、他者との接続を完全に絶っている状態であることを示しているのではないか。他者とのつながりを断絶することで他者の個人性を排し、復讐心というゼンマイによって動くだけの機械に成り下がっていたのではないか。

 けれど、彼女は一度踏みとどまる。なぜか。なぜなら、鳥という些細なきっかけではあっても、それによって他者の存在に気づいたから。

他者の存在に気づいた彼女は、ダニーロからの電話を取る。それまで無視していた他者の存在を思い出し、機械から人間に戻った。だから、血を取り戻したんだと思う。
 そして、人間になった彼女は、遠隔から爆弾を起動させて二人を殺すのではなく、自ら爆弾を抱えて乗り込み自爆することを選ぶ。そう。もしも自爆でなかったとしたら、それは息子と夫を奪ったネオナチカップルと何ら変わらない。悪辣な思想に自らの思考を蝕まれ、「他者」という個別な存在を放擲し人種や性別といったガワだけを切り取り攻撃するような思考停止な機械化したネオナチと。

殺戮マシーンというスラングがある。スラングとして定着しているわけではないけれど、殺戮とマシーンという単語を繋げることでそこに人間的な思考が排除されていることを暗に示している(かどうかは不明)のではないか。だとしたら、踏みとどまる直前までの彼女はやはり機械だったのだろう。
だから、彼女はあくまで人間として自爆することを選んだ。悲しみと怒りに支配されていたことで止まっていた生理が、爆破を思い直したあとで再開するのは、つまりそういうことなのだろう。考えることを止めた機械としてではなく「一人の人間として二人の人間を殺める」ために自爆という選択を取ったのではないか。

ただちょっと、映画そのものとは関係ないけれど、少し思うことがある。この映画に限らず「生理」とか女性の人体現象をあまり象徴的に使うっていうのは、それ自体がどこか女性を異なる存在として扱っているような気がしなくもない、というのは前から少し思っていたりする。だって、女性にとってそれはある意味でごくごく身近なものであるはずだから、殊更強調されるとこそばゆいのではないかと。

さて、そんなわけで車が爆発したところで映画は終わるのですが、ここで2章と3章のあいだに挿入される動画について触れた「海があの世である」ということが裏付けされる。裏付けされるというか、このラストのカットによって逆説的に判明する、といったほうが正しいのだけれど。
 なぜ海があの世なのかというのは、ラストに流れる歌の歌詞が露骨にそうであるから。というだけではもちろんないです。ラストショットで爆発した車から空に昇っていく爆煙をカメラが追っていくと、天地が逆転したかのように海が映し出されるからなんですよね。空の上にある世界があの世であることは、誰にだってわかります。まあ、あの世というよりは天国でしょうけれど。
なんにせよ、あのラストカットはすごく美しい。
ラストに至る一連のシーンのカメラのアングルとかもすごい良いです。ちょっとしたホラー(?)にも思えるようなのがあったり。


いや、これはすごい良い映画ですよ、マジで。