dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

【ハートフル】この世のすべてはあなたを追い詰めるためにある【ボッコ】

けれど救いはないわけではないのかもしれない。というバランス。

白石監督(和彌の方ね)の新作「凪待ち」の試写会に行ってきました。

ネタバレを気にするようなタイプではありませんが、一応公開前の作品につきネタバレ食らいたくない人は読まんといてくらはい。

 

 

白石監督の映画って割と話題になる作品が多い気がするんですが、私は「日本で一番悪い奴ら」しか観たことないっていう。「孤狼の血」も結局見逃しちゃったし。

でもまあ「日本で~」も面白かったしほかの作品も評価は高いしシネコンウォーカーで松久敦さんも推してたし楽しめるだろう、ってことで心置きなく観賞できましたよ。

しかし今年公開(予定)作品が3本もある上によく考えたら去年も3本撮ってるんですよね。しかもバジェットの差がかなりありそうで、なんというか自由闊達に映画作りしている感じがある。

 

本編の上映前に監督本人からのティーチインがあったので、それについて箇条書きで覚書。意訳あり。

・一か月石巻と女川町でのロケ

・いつもは加害者を描いていたが、今回は被害者を描いた。被害者を描くのは苦しかった。ただ、そうやって描くことで問題を浮き彫りにすることができた気がする。

・自分の中で「家族とは?」といった疑問があった。今までも、アウトローを描くと疑似家族を描いていたようなものだったけど、ちゃんと家族としての家族を描きたかった。自分の家族にもちょっと問題みたいなものがあって、弟が失踪したこととかあってそれを振り返ることができるようになったからとかなんとか。

・今まで転落した人は描いていたが、そこから這い上がるひとを描きたかった。

・それで用意した脚本が香取くんに合うんじゃないかと

・競輪は香取君がガチ勢で、ほかの映画のときにも競輪ネタを監督に押すくらいだったので、今回使ってみた。

香取君加藤さんは多分ギャンブル依存症(監督曰く)

・衣装合わせのときからアイドルオーラ消してきていた。

・いつものような暴力を抑えたかったが、ちょいちょい脚本にない部分とかにも暴力を盛り込んでしまった。でも香取君はちゃんと受けてくれた。

・今回は全員良い人にしようとした

・現地の話を取り入れた(フィリピン女性の再婚相手のところとか)

・過去は直接描かず台詞などで匂わせる程度にして、そういう重みは役者の人間力に担わせた。

・3.11の被災地にしたのは、やっぱり思うところがあったから。

といった具合でした。

あんな暴力的な映画を作ってる割に声とかは割と小さかったり、こじんまりしていてちょっとギャップがありましたね。

 

以下あらすじ

毎日ふらふらと無為に過ごしていた郁男は、恋人の亜弓とその娘・美波と共に彼女の故郷、石巻で再出発しようとする。

少しずつ平穏を取り戻しつつあるかのように見えた暮らしだったが、小さな綻びが積み重なり、やがて取り返しのつかないことが起きてしまう――。

ある夜、亜弓から激しくののしられた郁男は、亜弓を車から下ろしてしまう。そのあと、亜弓は何者かに殺害された。

恋人を殺された挙句、同僚からも疑われる郁男。次々と襲い掛かる絶望的な状況から、郁男は次第に自暴自棄になっていく――。

 

なんとなくここ1,2年の邦画の傑作の中に家族の様相(機能不全あるいは手前だったり)を描く映画が多かったですけど、この映画もそういう映画なんですよね。しかし是枝監督と白石監督でリリー・フランキーの扱い方の差にちょっと笑ってしまうんですが。

ところで、こうして公式のあらすじを読み返してみたら、亜弓(西田尚美 演)さんが死ぬことわかってたんですね。

いや、確かに不穏な臭いはチラつかせていましたし、ある意味で亜弓の「美波が変質者に殺されたりしたらどうするの」的なセリフとそれを真面目に取り合わない郁男(香取慎吾 演)のやり取りが呼び水となっていたのだなぁと今は思う。

 

役者に関しては金髪少年含め脇も手堅くメインキャストもみんなよかったです。

 

まずファーストカットですよね。香取君がチャリンコを漕いでいるところから始まるんですけど、これがもう(まあ偶然でしょうが)「岬の兄妹」ばりに足を映すんですよ。

小汚い服を身にまとった足でね~。そのまま競輪場に賭博しにいくわけなんですけれども、競輪場に入っていくときにカメラがほぼ真横になるくらいに斜めになっていくんですよ。随所で同じように(ショットは違うけど)カメラを斜めにする演出があるんですが、それはほぼすべてが郁男の賭博行為の前兆のように使われているんですね。不穏なBGMと共に。この、何か一線を越えてしまうような演出の仕方は、個人的に「こどもつかい」の異界表現にも似たそれを感じる。

 

でね、この競輪場が川崎なんですよ。川崎ですよ、川崎。川崎から石巻に引っ越すわけですよ。なんですかこれは。

はっきり言って、この川崎のパートは思い切りカットすることもできなくもないんですよ。いや、実はここでのナベさんを描くことでこそ後半の展開とか対比として機能したりするわけなんでカットできない理由はあるんですけど、別に東京にしても作劇上の問題はない。じゃあなぜ川崎なのかというと、もちろんそれは川崎であることで郁男の瘋癲ぷりにかなりの説得力を与えることができるから。

川崎の治安の悪さは有名ですが、川崎に務めている知人から色々と話を聞くとそりゃもうすごいです。生活保護関連のこともそうですしスーツを着た知的障碍の人が横断歩道で倒れていたり精神病院の横にやくざの事務所があったりとかそれはもう治安の悪さや濁った空気感は「デビルマン クライベイビー」やブレードランナーのプレミアムパーティの開催地であることなどを引き合いに出すまでもなく周知のとおりです(あくまで川崎区ですが)。まあ、だからこそ電脳九龍城みたいな娯楽施設ができたりもするわけですが。

で、そこからの石巻ですよ。3.11の被災地ですよ。川崎からの石巻。もうこの時点で救安易な救済がないことはわかりますよね。石巻の海も、赤色だったりもやがかっていたり、津波によって新しい海が云々という台詞があったり、整備されていたり、色々な表情を見せてくれるんですよね。

 

それでまあ、郁男のギャンブル友達であるナベさんと川崎競輪場でギャンブルをしつつ、ハロワに行ったり元の職場の後輩に因縁つけられたり、その帰りに酒飲んだり、本当に社会的に後ろ指をさされがちな人間の一日のサイクルを実践するわけです、この二人。

ここでのナベさんと郁男のやりとりは、実は石巻において立場の逆転という対比がなされる。たとえばナベさんが郁男に対して「どうして俺なんかにやさしくしてくれるの?」と言ったり、郁男が餞別と言わんばかりにロードバイクをナベさんにあげたりするわけです。このセリフ、石巻において今度は郁男がリリー・フランキーに対して同じようなことを言ったり、同じく無償に助けてもらったりする。

そういう風に人の情(善性みたいなもの)を強調するわけです。と、書きつつ、実はリリーとナベさんに関してのハートフルなエモーションというのは完全に郁男を追い込むための布石であったりするんですけど。

そういうわかりやすいハートフルの裏側にある暗いものによってリリーやナベさんが郁男を追い詰めるのに対して、反社会の人が最後の最後に(亜弓の葬式の時点であの人が来ていたので、実は最初から彼らだけは一貫しているんですね)義理を通すという反転があるんですよね。

いや、まあね、結局ノミ屋の彼らは反社だし一度はルール破って郁男をぼこぼこにしているのでまったくもって擁護のしようがなく、家に金を渡しにきたといってもそれは至極当然のことでありまして、そんな劇場版ジャイアンみたいなことをしたからといって赦していいわけではないわけです。皆さん騙されてはいけませんぞ。

ただ、救いであったはずの繋がりが一瞬にして反転し絶望に転化してしまうのと同じように(そして正反対に)、最低最悪の連中がやはり繋がり(みなまで言うのもあれですが、勝美の繋がり方ですよね)によって一縷の望みになったりするわけです。

人との繋がりを、白石監督は本作においてほとんどが郁男を追い詰めるためにしか機能させていないのですが、ただだからといって一面的であるかというとそういうわけではなくて、既述のような人たちもそうですし亜弓の元DV夫で美波の実父である村上竜次(音尾琢真 演)の描き方にしても屑っぽさもありつつ改心したように赤ん坊を眺めていたり。そういう一筋縄でいかない描かれ方をしているわけです。

亜弓にしても美波にしても、あの事件に至る過程やその後の関係性に軋轢が生じそうになったりするし。

印刷所の人間くらいでしょうかね、ほとんど良い面がない屑として描かれているのは(

ゲロの吐かせかたが迫真すぎてちょっと笑うくらいなんですけど)。それを言えばこぶつきの女性のヒモで金をくすねるような男なわけで郁男も郁男で屑と受け取れるわけですが、でも監督は郁男を屑としては描いていないでしょう。ギャンブルにしたってきっかけは郁男にはないし、亜弓の事件にしてもそれによって美波から糾弾される郁男の事情を観客はメタ的に把握しているわけで。

それゆえに、本人に落ち度がほとんどないがゆえにその追い込まれが理不尽なんですけれど。

 

だからこそ、亜弓の娘である美波や父である勝美と3人が並んで画面に収まるあのショット(香取君の泣き方とか恒松さんが服の袖掴むのとかね)にほんわかぱっぱするわけなんですよね。

 

そこからラストのエンドロールに合わせて、婚姻届けを沈ませた、どぶぞこを攫うような濁った海の映像が流れる。そういう安易な救いを提示しない終わり方で、郁男カワイソス。

どうでもいいけど、あの船のカギはどう見ても結婚指輪ですよね。そうですよね。亜弓はもういないけど。

 

 

そうそう。場面転換で気になったことがあった。場面転換の仕方が、強引というか一連のシークエンスの結果を端折ったような感じなんですよね。郁男がやーさんに囲まれた次のカットで何事もなかったかのように別のところにいたり、美波と亜弓が喧嘩しちゃったあとで亜弓が郁男の隣の椅子に座ると次の場面に移ってたりとか。本当なら、もっと描けるような気がするんですよね。

この辺は何かすごい感覚的なものなんですけど、どうだったのかなと。いくつか考えたことはあるんですけど、上手くまとまらないので書くのはよしときます。

 

 

 いやしかしですね、香取くん追い込むことに注力したせいでリリー・フランキーサイコパス()であることが露見したところで一気にホラーになりますがな。

亜弓を殺しておきながら何であんなことができるんだよ、という数々の恐怖がですね。もう本当にホラーの領域になってしまっています。抑えきれてねーじゃん白石監督!いつもの感じ出ちゃってんじゃん!

郁男が「俺なんか死んだ方がいいんだよ」という悲痛なナラティブとナベさんの事件(バット持ってたからもしやとは思ったけど)の直後に爆発しちゃうシーンの自暴自棄な感じとかにも私はちょっとウルっときたんですけどね、しかしナラティブを郁男から引き出し聞き受けたのがリリー・フランキーであるということを考えるとね、もう郁男のナラティブが云々とかそういう問題じゃなくて亜弓を殺しておいて平然とそんなことができるリリーのサイコっぷりが気になってしょうがなくなるわけですよ。

ちょっとこの辺は本当に本編のバランスを危うくさせかねない気がしますけど、大丈夫でしょうか。

 

 

 

白石監督はもうちょっとリリー・フランキーを統御しないといつか映画を食われてしまいますぞ。

 

死こそが勝利である

たまたま時間が合ったというだけの理由でよく考えもせず「パドマーワト 女神の誕生」を観る。

観るまですっかり失念していました。インド映画は上映時間が長いということを。「ロボット」というSFコメディでさえ(?)177分という長尺なわけで、そう考えると「マッキー」のオリジナル版が145分というのが全然短く感じてくるレベルなのでありまして。

例外もあるとはいえ基本的にわたくしの集中力は2時間が限界なので、3時間分の尺を想定したドラマの構成になっているとやはり途中で「長いな・・・」と感じてきてしまうというのは否めない。
とはいえ、全国で公開館数が70に満たない規模な上にその尺の長さも相まってスケジュールも取りづらい中で近所のシネコンでたまたまとはいえ観れたというのは幸運だったのかも。


絶世の美貌を持つパドマーワティを演じるのはディーピカー・パードゥコーン。「トリプルX:再起動」に出ていたらしいのですが、正直あれは映画自体が記憶に残らない(ディーゼルがスケボーみたいなので坂下ってる絵面しか覚えてない)タイプの映画だったので、彼女の存在すらほぼ思いだせないくらいで・・・。
個人的には彼女もさることながらアラーウッディーンの嫁となるめ、めふ、メフルーニサ(?)を演じるアディティ・ラオ・ハイダリさんもかなりの美貌だと思う。スカヨハとアリシア・ヴィキャンデルの柔和なパーツだけを持ってきたような顔立ちで。声もちょっとハスキーなところもスカヨハっぽい。


すでに「長い・・・」とネガティブっぽいワードを置いておいてなんですが、全体的には楽しめました。いや長いんだけど。

ただまあ、どうしてもこういうインドで大河(?)な映画というと「バーフバリ」を想起してしまいまして、あっちがもう外連味溢れるシーン尽くして、ダンスシーンも恐ろしくハイテンションで下手なミュージカル映画よりも楽しませてくれる多幸感でいっぱいになるタイプだったのに対して、「パドマーワト」は話自体のテンポは悪くないのですがこと空間を切り取るということに関しては、せっかくいろんな場面で壮大で荘厳な画を見せてくれているのに、似たようなカメラアングルでの撮り方が多く視覚的マンネリに陥っている部分や、ダンスのシーンをもうちょっと派手にけばけばしくやってくれていいのになーと思ったりするところがあって、それが「バーフバリ」がまったく飽きることなく興味を誘引してくれたのに比べると一歩譲ってしまうところかなぁ、と。

といっても、ダンスシーンでは一つ飛びぬけて好きな場面があるので、正直それだけでもわたくしとしては十二分なのではあります。
ランヴィール・シン演じるアラーウッディーンが臣下に囲まれて「ヒャッハー! あの子に首ったけだぜヒャッハー!」なダンスシーン(これ→https://youtu.be/8lXii6ZGqhk)なんですが、古来の伝記をベースにしているだけあって映画全体が叙事的なルックになっている一方で、ダンスシーンというのは特定のキャラクターの心情の表現としてのリリックであるわけで、叙事からの抒情というギャップとそこで表現される心情の発露がここまで動きで爆発していると、もう悪役であるとか関係なく観ていて「あ~この人すごい楽しそうで良いな~!」という気持ちになってくるわけです。このダンスシーンの結末の落差も相まってここら辺のシークエンスは笑えて楽しいです。

パドマーワティのグーマルに合わせて踊るシーン(https://youtu.be/6cKErCWrb44)も、照明や火の使い方や歌声とか豪奢な衣装・セットとか踊り子のシンクロ具合とか、すごい楽しいものでしたけれど、ただこれは愛の表現ではあるものの、ラタンが上階から見下ろしていることからもわかるように女性から男性へのアピールという階層構造(というか一種の権力構造)を内包しているため、アラーウッディーンのひたすら欲望というか欲動が全面に押し出され感情が純化されたダンスシーンに比べると素直に楽しめないんですよね。アラーウッディーンのダンスの方はひたすら彼を画面の中心に置いていたのに対して、パドマーワティの方は所々でラタンのカット入ってるし。映画の構造上ここは仕方ないところではあるんですけど。
ていうか、この映画が描き出そうとしているものが、男尊女卑の世界からの女性の解放ではあるので。解放というにはあまりにも壮絶なんですけど、ここでの能動性(自らの意思・好意に基づく愛情表現)と受動性(しきたりという束縛)がラストの能動性(侵犯をよしとせず死を選ぶこと)と受動性(侵略によって服従か死か選ばざるをえなくなったこと)との対置とも取れるし。
まあ、だからパドマーワティが本格的に動き出すまでが長いから、少し鈍重に感じてしまう部分もある。けれどその鈍重さというものは、パドマーワティら女性たちに括られた足かせなのでしょう。それはアラーウッディーンによる女性=トロフィーという価値観だけでなく、ラージプートの、ラタンの嫁となることすらも。
どちらの文化も、彼女を束縛するものでしかない。アラーウッディーンは言わずもがな、ラージプートの義を重んじる因習すら、パドマーワティ自身の問題であるにもかかわらず彼女の意思を許さないのだから。
再三に渡る彼女の訴えも聞かず、敵が狡猾であることも知っているのに不意打ち食らって死んじゃって、バカな男どもの尻ぬぐいをさせられるのはいつも女性ですよ。

その悲哀と、しかしそれでもなお決然と自らがくべた火炎の中に身を投じる紅い激流――その中の滴には身重もいれば幼い子もいる――の先頭に立つ傑物としての最期に、わたしは涙を滲ませてしまった。

彼女に残された最後のなけなしの、最悪の、それでも確かな自由を選び取る強さと美しさに。

 

そうそう。悲哀でいえば、個人的にマリクくんの忠犬ぶりの中に時折垣間見せる主従以上の何かをアラーウッディーンに求めているような、けれどどうにもならないあの胸をかきむしりたくなる絶妙なバランスの関係性もかなりきました。
あれって一目ぼれだったのかなあ。だからあんなにあっさりおじを殺せたのかなあと思うと泣ける。

 

が、細かいところで気になるところもちらほら。パドマーワティの登場で弓を引くところがあるんですけど、ディーピカーさんにもうちょっと力ませた方が良かったのではないかなーと。
あとは、これは書いても詮無いことなんですが、叙事詩をそのままなぞっているのかどうか定かではありませんが、ともかくベースがエピックであるが故に「え!?」というような展開があって、本当ならギャグとして機能していそうな部分も至って真面目に描かれる(パドマーワティとラタンの出会いとかまさにそう。演出の問題でもあるのかもしれませんが)ため、論理を飛躍してくるところがあるのでそこらへんは拒否反応が出る人もいそう。
これは「パドマーワト」に限らないんですけど、インド映画ってなんかモーションブラーというかスローモーションを使ってFPSというか被写体の動きに奇妙な動きを与えることが多い気がするのですが、あれって何かCGとの兼ね合いとかなのでしょうか。

それと壮絶な本編な割にちょいちょい笑えるバランスがあって、「お前何回刺させるんだよ・・・」な親殺しもといおじ殺しなシーンだったり、チェータンが殺されるくだりだったり、生首が3回も登場するし(どんな天丼だ)、ベッドシーンで歌うマリクくんとか、熱湯コマーシャルも真っ青な本当に一瞬だけのパドマーワティ開陳とか、意図的な笑いもシュールな笑いも結構あります。

 

全盛期のハリウッド映画の放っていた雰囲気を煌びやかな衣装とセット(上映時間も)で現出させられるのは今やボリウッド映画くらいしかなさそうなので、そういう意味ではやっぱり観れて良かったどす。

MAYちゃん

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

浸りすぎ。「語る」に落ちた映画である。

伝えたいことはわかるしそこに共感する部分もないわけではないのですが、どうも押しつけがましいというか「バンブルビー」にも似た厭味ったらしさが。

3.11の当時の「絆」とか「がんばろう」といったたぐいの無理やり前を向かせようとする煽動じみていて。「さあ、みんなそれぞれ辛い思いをしているのだから共感しあって互いに理解しあいましょう」と。

はっきりって余計なお世話なんですよね。

この映画はオスカーという少年のナラティブ(そのものと、それによる開放・救済)と他者との共感というものがあるわけですが、母子の共感・悲しみの共有がクライマックスに持ってこられていることからも明らかなように、問題はこの映画で描かれるナラティブが共感という着地点を絶対的前提としていることにある。

ナラティブというのはメンタルケアの場面において重要なことではあるのですが、一方でそれを強要するような曝露療法的なものは実のところトラウマ体験をしたものへの負担が大きいということも証明されていたりするわけで。

そもそもナラティブと共感というのは必ずしも一緒くたにできるものではないでしょう。

ナラティブというのは、語ることそのものに意味があり、その先に何を求めるかというのはそれぞれによって異なるでしょう。赦しかもしれないし罰(まあこれも赦しに与するかもですが)かもしれないし、それこそ共感かもしれない。ただ、誰かに語るだけで救われるという人もあるでしょう。自分語りというのは、そういうことですから。

聴き手という他者を希求しながらも、徹底して自己の心理的な葛藤の解決を目的としている、ただでさえ本来的・本質的にエゴイスティックな作用を内在する「ナラティブ」を、オスカーのための「共感・共有」に絶対化したことで、さらにエゴイズムを肥大化させ「共感・共有」という他者との相互理解が必要な目的との間で決定的な断絶を生んでしまっているのではないでしょうか。この映画は。

 

オスカーやリンダに共感を示さない人もいるにはいて、彼らを門前払いするブラック(苗字)さんもいるのですが、そういう人たちは監督から邪険にされているのか掘り下げられることはない。回想でちょろっと触れられる程度だったり、オスカーからパパラッチされる人すらいたりする始末。描かれるだけまだマシなのかもしれませんが。

このことからもわかるように、前述のような「共感・共有」というどうしようもなく他者の存在を受容しなければならない命題に対して、「共感しようZE!マジ9.11辛かったし!みんな大事な人を失って傷ついてっしょ!ね!」と押しつけがましく行動してくる自分本位≒他者への無関心を作り手が気づかなかったことにこの映画の敗北はある。

それこそ、病的なまでのACのコマーシャルが流れていた「3.11」当時の日本の空気そのもの。ここ2,3年でようやくそれが顧慮されるようなメディアが表に出てきているわけですが、要するに「こっちの許可も取らずに何勝手に共感しようとしてきてんだ」という話である。

大体ね、子供という免罪符(アスペルガー云々というのもその援用にしか思えない)を使って他者を振り回してるようにしか見えないんですよ、これ。嫌がってる相手の写真を撮るとかね。

一応、おじいちゃんに謝意を示す(ここらへんは素の子供っぽい感じが出てて好きなんですが)演出があったりはするのだけれど、でもそれはおじいちゃんに対するものというよりはバツが悪いからということじゃないんですか、ええ?

無能を自覚しているがゆえに他者に迷惑をかけまいと引きこもる自分のような人間からすると、無自覚なオスカーの行動がほかの人に比べて余計に腹立たしいというのもあるんですけど。

 

まあ、オスカーくんが幸せならそれでいいんじゃないでしょうか。この映画はすべてオスカーくんのためにあるので。

 

サンドラ・ブロックがオフィスの窓越しにツインタワーを見やるとき、タワーが歪んで見えるあの演出とか好きなシーンもあるんですけどね。

 

それにしても、この映画の日本公開が3.11から一年も経っていない時期というのがなんとも言えない。

 

 

俺たちに明日はない

観たことあると勝手に思っていたのですが、見直すつもりで観たら全く記憶になかったことに愕然とする。なんとも人の記憶というものは曖昧なものであることか。いや、私の記憶か。

ウィキには「銃に撃たれた人間が死ぬ姿をカット処理なしで撮影したこと」をはじめとして先駆け的な表現が多かったということなのですが、ラストの「死のバレエ」は今見てもすさまじいものがある。

ボニーとクライド二人の顔面アップの怒涛の連続カットバックからの一斉掃射による死にざま。確かにこれは、それまで描かれたドラマの終局としてまさに儚くも美しいと形容されるべきラストでしょう。

無慈悲な「THE END」がもたらす二人と観客の断絶も、エンドロールを長々と流さねばならない(それゆえに感傷や余韻に浸ってしまう)今の映画では難しいでしょうし。

拳銃という男根のメタファーに始まるこの映画が、その肥大化した姿としての機関銃の掃射によって終わるというのは因果応報的であるものの、しかしやはり悲しいものである。

インポテンツ(ていうか元の脚本ではバイセクシャルだったのでその名残らしいのですが)が暗喩されるクライドの、その代用物として虚飾の拳銃、さらにはそれが機関銃へと肥大していく居た堪れなさ。

クライドは自分の不能さ(あるいは世界から見た性的倒錯)を補うために見栄を張らなければならなかったのだろう。そうしなければボニーを繋ぎとめられないのだと、「男らしさ」という呪いに緊縛されて。ボニーが煽った(ボニーが拳銃を撫でる艶めかしさたるや)クライドの拳銃は、しかし当初は人に向けて発射されることはない。

さもありなん。所詮は自分の不能さを取り繕うためのものでしかなく、クライドは虎の威を借りるなんとやらでしかない。だから、ボニーと接触したときのような装ったスマートさはすぐに化けの皮が剝がれる。

ウェスタンのような強さ()を彼は持っていない。だからせいぜいこけおどしに空に発砲する程度だった。

わざわざ銀行が破産していたことをその銀行の管理者の口からボニーに言わせる情けなさこそが、おそらくは彼の本質なのでせう。はっきりとコミカルに描かれているし。
本質的にはクライドはロビン・フッドですらない。ただ臆病なだけなのではなかろうか。それが結果的にそう受け取られただけで。
それがモスの合流によってどんどん鍍金が剝がれていく。あそこまでモスに対して憤るのは(帽子でたたくシーンはちょっと笑ってしまう)、捕まることへの恐れもあったでしょうが、私にはむしろ自分の不能・無能さをボニーにさらされてしまうことへの虚栄心の反射のように映った。 

ボニーと出会わなければ、ああはならなかったはず。たしか、モスを最初に引き入れようとしたのもボニーだった気がするのですが、それを考えるとこれは一種のファムファタールでもあるといえるのかも。

 

グラサンのことやヘイズコードなど時代背景なども考えると色々と画期的なことをやっているということなんですが、そういうのを抜きにしても面白い。

 

 

カプリコン1」

名前は知ってたけど優先順位は高くない、ので今まで観ていなかったのですがなにこれおもしろい。

面白いんだけど、国内外の政治にまつわるあんな事件やこんな事件を思い返すとまったくもってフィクションではないというのが恐ろしいところである。

ただあのラストのくどすぎるスローモーションは笑ってしまうのですが、しかしあの後にどうなったのかということを考えると、それまでの政府の隠蔽の強引ぶりから察するに「追悼式典に悪戯目的でブルーベイカーのコスプレをした不届きものが闖入してきた」とでもなんとでも言ってしまえそうなところがなんとも。

 

あとジェリー・ゴールドスミスの音楽ね。

 

「デイジー・ミラー」

堅物男が身軽な女に執着したまま終わるという。

ドストレートにいきたまへ

 

「太陽はひとりぼっち」

 倦怠感。何をしていてもどこか空虚な感覚。それがモニカ・ヴェッティによって演じられる女性の姿で(正直あの美的感覚はそんなにわからないんだけど)、それとは逆にアラン・ドロンの稚拙さのようなものが最終的に交わりつつも、しかしやはり煮え切らない。

正直なところ俗っぽいアラン・ドロンや終始やる気のない演技であるモニカ・ヴェッティなんかよりもはるかに――異様に街並みとか風景といったものが印象的なのですよね。キノコ型の給水塔みたいなものもそうだし、やけに街を歩いているシーンがあるし、何よりラスト数分の映像。核兵器云々も含めて、人間の営みを鬱屈とした感覚でとらえるとこうなるのかなぁ、と。

冒頭のタイポグラフィーといい風景・情景の挿入の仕方といい、エヴァ参照元の一つがこれなんじゃないの、と思ったり。

 

「サイレントボイス 愛を虹にのせて」

志は高貴かもしれませんが、 映画としてはどうか、という問いが(いうまでもありませんが、これ映画なので)。カットのつなぎが不自然なところもあったりするし。

極めてポリティカルなネタではありますが、それを誘引するためのサスペンスがあるわけではなく、基本的にはエモーショナルな場面のみで繋げていく映画ですが、ポリティカルな題材でそれを扱うのはむしろ危険な気がするんですけど。そこにエルマー・バーンスタインの勇壮なスコアがかかるという猪突猛進ぶり。

描かれるべきディテールが描かれないために妄想じみたファンタジーとしてしか見れないのが痛い。
チャックやその周りの人の動向は描かれるものの、具体的にどうやって核兵器の撤廃に至ったのかが描かれない。表面的には米ソのトップが会談するシーンはあるんだけど、そこで政治的な交渉が描かれるわけではないし。結果だけ提示されても納得はできまい。

ほかにも、素人でも考えられる問題は山積み。どうやって既存の核兵器を処理するのかとか。89年の時点でアメリカが保有していた核ミサイル(あくまでミサイルなので弾頭自体はもっと多い)の数は1815でソ連は2794もあったというのに。07年にはそれぞれ982、760と、87年のINF全廃条約の発効などもあってかなり減少してはいましたけれど。まあ、INF全廃条約も弾頭そのものは廃棄対象外で弾頭数は減らなかったし、解除されたのも10%に満たないという体たらくではあったけど。

ただ、60年代から核軍縮の機運自体はあったし、INF全廃条約とSTARTⅠの交渉開始が81年82年だったこともあるから、その辺の動向を受けて極めて楽観的にこの映画を作ったという解釈をすれば、その希望的観測(というかほとんど願望)に寄りかかる気持ちはわかる。
題材としては、悲しいことに30年たった今でも古びていないだけに。

というか今はもっと各地の内戦とか、わかりやすい二項対立じゃない紛争こそがメインになっている分、悪化しているとすらいえるんだけれど。
 

現実的に考えるとジェフリーの役どころはむしろ大統領が担うべきであると思うんですが、登場から最後まで大統領が良い人として描かれているあたり、年代的にもレーガンに対する当てつけみたいなところもあるんだろうか。イラン・コントラ事件とか発覚した時期だろうし。あて推量でしかありませんが。
まあそこはグレゴリー・ペックですから、ある種の独善を含んでいるというか無邪気な「アメリカの正義」の体現として見ることもできなくはない。というよりは、「フォックス・キャッチャー」におけるマーク・ラファロ的というか。悍ましいのは、監督はそういうつもりで描いてはいないのだろうな、というところ。
ソ連の書記長を演じたバシェクの体形とかもちょっとゴルバチョフっぽいし、やっぱり意識してたんだろうか。


チャックももうちょっと丁寧に扱ってあげればいいのにと思わないでもない。いや、個人的にはチャックのあの恐怖はわかるすぎるくらいにわかるのだけれど、それは「はだしのゲン」を読んだりメディアに煽られた恐怖ゆえなので、直に核を見ただけでああなるのかどうか(爆発の瞬間を見せたとかではなく)。父親がパイロットだし、わからなくもないのかな。
あるいは、その程度のことですら恐怖を感じるくらいに感受性が高かったからこそのあの行動、ともとれはしますが。

ていうか、そもそまサイロを見学できるもんなんですかね? さすが自由の国アメリカ、グラスノスチごときで粋がるソ連などとは大違いです。

チャックに対してみんな結構辛辣というか、無責任すぎるでしょ。アメージンググレースにしたって、あれって見方によっちゃチャックに全部責任を押し付けてるだけとも言えますよ。ていうか、チャックの名前出してバスケを引退したら絶対ファンからカミソリレターもらうでしょ、チャック。

どうでもいいけどアメージングを暗殺するのにわざわざセスナ(だっけ?)爆発させるのは笑った。あそこの勢いは、「なんでそんな金かけて殺すの」的な倒錯っぷりと勢いがサウスパークじみていて。別に暗殺するにしたって、自動車事故なりなんなりできるでしょうに。空で爆殺は確かに確実ですけども。

 

でもまあ、最初から最後までやさしい世界の話ではあるので、そういうディティールとか無視できる人は( ;∀;)イイハナシダナーと楽しめるのではないでしょうか。

私個人としてはイイハナシカナー?ですが。

 

 「ブラジルから来た少年

 なんか思ったより怖かった。まさかあんなホラーな落ちになるとは。

前日にシリーズ人体を観ていたこともあって、まあなんというか、今見返すと科学考証として首をひねる部分もあるんでしょうけど。

でもこういうSFはいいですね。たぶんあのクローンには残虐性の遺伝子のスイッチをオンにするDNAのパーツがあったんでしょうなと。

何気にゴアだし。しかし本当にヒトラーって信長並みに弄り倒されてますね、本当。

 

武士の家計簿

 森田芳光監督の作品は「家族ゲーム」と「黒い家」しか観たことない程度なんですけど、「家族ゲーム」はすごい面白かったのは覚えている。

「黒い家」にしても、ほかの映画とはちょっと毛色の異なるものではあったから印象には残っていたんですけど、それにしても色々なジャンルを撮るんですなぁ。

まあでもユーモアというか笑いを入れてくるのは通底しているんですよね。会話のテンポとか掛け合いの妙によって。

仲間由紀恵をこんなに真面目に観たのははじめてかもしれない。いや、キャリアスタートがいろんな意味でネタに溢れているという極めて個人的な色眼鏡なせいなのですが。

 

「人生はシネマティック」

 そんなにコメディ要素ないような、と思ったらセットが崩れてくるシーンで吹いてしまった。いやトラジディであることはわかるんですけど、あのテンポは笑いを生じさせるものとしか。なんだっけ、猫が世界から消えたなら、みたいなタイトルの映画を観たときの主人公の恩師?みたいな人が振り返ったら死んでたときの笑いと同じ感覚の。

そこの笑い以外はほんとこてこてのラブロマンスなんですけど、結構観れる。それは多分、主人公の女性が脚本化だから。脚本家チームの執筆風景やそこに横やりや注文がつけられる様はさながら「ナイトクルージング」の高揚感や「カメラを止めるな!」的な現場あるあるな楽しさがプラスされているからかな。

 

 

「恐怖の影」

DVD未発売にてVHS画質で観たんですが、エロい。すさまじくエロい。画質が画質だけに、ソフトフォーカスだと余計に茫漠とした印象になるんですが、それがまたちょっと幻想的な雰囲気を醸し出していてエロスを漂わせる。異国、というよりは淫夢的な異界情緒に近い気がする。ちょっとホラーテイストなのも怪奇っぽさを狙っているのかもしれない。

撮影がいいですよね、これ。人形の切り取り方とか覗き方(画質と画面の小ささでよくわからなかったりもしたんだけど)とか。あと何気に暴漢の正体がわからないように(いや、展開的にもろバレなんだけど)してる工夫とか。

ちょっと調べたら監督がウィリアム・A・フレイカーで、ポランスキースピルバーグなどとも組んで撮影監督として長年キャリアを積んでた人なんだそうな。でも本作では撮影監督はラズロ・コヴァックスっちゅー「イージーライダー」なんかを撮ってた人が担当しているんですね。

 

それにしてもエロい。多分、多重人格モノ(っていうかイマジナリーフレンドとのスペクトルなんでしょうが)でしかも近親相姦(まあ、本番はありませんが)モノっていうのは中々ないんじゃなかろうか。あの手つきは肉親に触れるそれじゃあないですよー。しかもオチがアレっていう。

これ、オチが「え、そこ!?」っていう、なんかこうシャマラン映画を観ていたときの「あ、それマジだったの?!」といった感慨に近い。そっかー。貧乳だったのはそのためかーと思ったり。あとはまあ、隣接する部屋でパピーと恋人が盛ってるときに自慰行為を始めるのですが、その手つきというか姿勢みたいなものもよくよく観察すると「それっぽい」あたり、実は伏線になっていたのではないかと深読みしてみたり。

 

オチの着地点を考えるに、これはミステリー(っていうか、サスペンス?)とかそいうことじゃなくて、もうほとんど作り手の性的倒錯をフルスロットルにしただけなんじゃないかと思うんですけど。

ソンドラ・ロックの目つき、佇まい、腕の細さ、病的とさえ思われる白さや童話じみた金髪、そのすべてがこの異界情緒あふれるエロティシズムに直結していて、もう辛抱たまらんといった感じ。そらパピーでも篭絡されてしまいますよ。いや、されてないんだけど。

ママンとグランマがあの事実を知らないわけがないので、そう考えるとあれは抑圧によるものだったりするのだろうけれど、そっちをことさらフィーチャーしないであくまでマーガレットの性に視線を注ぎ続けるあたりが変態じみていて大変よろしい。

 

そのソンドラ・ロックさんなんですが、去年の11月に亡くなっていたんですね。

彼女のことはほとんどよく知らないので哀悼なんて浮薄なことはできませんが、マーガレットを演じてくれたことに敬意を表したいと思います。

R.I.P

 

 「パニッシャー(2004)」

今のマーベルじゃいろんな意味で無理そうな映画だった。

なんというか、一つ一つのシークエンスが凄まじく間延びしているかと思いきや復讐シーンは結構テンポ良かったりするんですけど、なんか笑えるシーンが多い。

これ、ドラマシリーズとかでやってくれたらすごいいいんだけどね。いや、ネットフリックスとかじゃなくて、この毛色のままで。

あのマークは不覚にもカッコイイと思ってしまったよ。

 

「ワン・フロム・ザ・ハート」

これ結構好きですかも。一応、ミュージカル映画なんでしょうけど、中盤の街中でのミュージカルを除くとそこまで大掛かりなミュージカルシーンがないのがもったいない。

全編スタジオ撮影ってことなんで書割も多用しているんですけど、それがまたいい。あの箱庭感はブンドドの感覚に似ている。

編集やカメラワークがかなり凝っていて観ていて楽しいんだけど、どうやってるんだろうと気になる。

何気にハリー・ディーン・スタントンも出ているし、ミュージカル映画の中では結構好きな方です。

 

終電車

トリュフォーに関しては「大人は判ってくれない」を講義でちょっと観たくらいなので、こういう映画を作っていたとも知らず。

あの終わり方は好き。

 

「愛と青春の旅立ち」

 リチャード・ギアが若い。

(ディス)コミュニケーションの話ではあるわけですが、「海猿」がプロットをほとんどそのまま使っているような感じで。

軍曹とメイヨ―の殴り合いはもうまさに河川敷で殴り合る親友(と書いてライバルと読む)の青春である。

でもこれ、ポーラもリネットもどっちも女性の描き方としては流石にきついものがある。むしろ、リネットこそが抑圧されている女性の叫びとしてのリアリティを持っている。

 

「インサイダー」

さすがマイケル・マン。「コラテラル」「ヒート」を観ていたのでこういう映画を撮る人だとは思わず。

ワイガンドが台所で手を洗うところを家の外から(そして外には「部外者」が佇んでいる)のあのショット、まるで家(家庭)に閉じ込められているような強烈さ。

あるいはローウェルの休暇先の色がダークすぎてまったく休暇のそれではないという。笑えるくらい。

ほかにもワイガンドが壁の画を見つめているとそれが家の庭の風景に変容していくあのおどろおどろしさ。屋内から屋外の幻惑的な錯覚を見ようとするワイガンドの孤独感を、罵倒によって外界と接続させるローウェルの手腕。

ラストのローウェルのカットと流れ出す音楽のカッコよさといい、160分近い映画でしかも派手なアクションがあるわけでもないのにこんなに引き付けられるとは。

撮影といい証明といい、エッジがすごい(ボキャ貧)。

 

 

「ビッグリボウスキ」

 そういえば観てなかった映画の一つ。ていうかコーエン兄弟だったのね。

フセインとかベトナム戦争の後遺症とか、あの辺は(今も続いているけれど)当時のトピックとしてやっぱりあったのだろうか。

今こそデュードのような生き方を目指すべきなのではないかと思うんだけれど、こういう馬鹿っぽいクライムコメディでも脚本がしっかりしているところはコーエン兄弟らしいというか。

柳に風、というわけでは決してなく、むしろ物事には動じまくるのですが、そこに大きなお世話を焼いてくるウォルターとの絡みやドニ―の

_人人人人人人_
> 突然の死 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄

とか。

ジョン・タトゥーロの使いどころも含めて笑いどころが多い。

フィリップ・シーモア・ホフマンを観ると泣きそうになってしまう自分がいる。

 

「セルフレス/覚醒した記憶」

これターセム・シン監督だったんですか。まあ「ザ・セル」すっ飛ばして「白雪姫と鏡の女王」しか観たことないんですけど、内容は覚えてない反面シーン単位での洒脱な衣装やセットは思いだせる、ある意味で映像メディアにとっては幸福なことなんでしょうけど。

ネタ自体は古今東西のSFですでに使われきっているような内容なんですけど、あまりウェットになりすぎないバランスなのは好印象。

ライアン・レイノルズはもはや「デッド・プール」以前のシリアスな役どころを観ると笑ってしまうのですが(「ライフ」は半分ギャグみたいなものなので・・・)、でも演技が悪いってわけじゃないんですよね。知った風なこと書けませんけど。

どことなく「ボーン」シリーズな趣もある。

 

 「ハミングバード

わしはこんなステイサムみとうはなかった!

まどろっこしいったらありゃしないよもう!

 

「モンスタートーナメント 世界最強怪物決定戦」

プロレスラー使うなら普通にプロレスさせた方がよかったのでは・・・?

あーでも目からビームとかは(今後の可能性としてプロレス+ARとかで再現できそうですが)映画じゃないと観れないし、何気にメイクは凝っているし、楽しもうと思えば普通に楽しめる。

ウィッチビッチとかいう小学生レベルのネーミングセンスには苦笑しましたが。

 

「バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー」

もっとコミカルな方面に突き進んでいるのかと思ったら真面目にやっていてびっくりした。

だって万歳ですよ、万歳。年代的にも、もっとこう「ゴースト・バスターズ」的な感じかとおもったんですが、むしろ「インデペンデンス・デイ」な感じ。つまり本人たちは至って真面目なんだけれど、観客としてはなんか笑えてくるというバランス。

いや、セットとか小道具は結構凝っているので観ていて楽しいんですけど。

ラストのみんな集合のエンディングがBGMも相まって一番楽しい。

 

帰ってきたヒトラー

これって結構な当事者性が求められるようなタイプの映画ではありますが、どの国も同じ問題を抱えているんだなぁと。

でも、ある意味では強大なアイコンとしての悪がドイツにはあるぶん、顧みやすいということはあるんでしょうな。

日本の場合はもっと曖昧で認識しづらい空気みたいなものにあるから(ヒトラーがそれによって呑み込まれていた、という部分も確実にあるでしょうが)、余計に難しいところなのかもしれない。

 

ゾンビランド

2が今年やるということことで観てみたんですけど、この手の映画にしてはキャストが豪華すぎる。ビル・マーレイも含めてですけど、「アクアマン」でメラの役をやってたアンバー・ハードが割とちょい役で出ていたり「フリークス学園」のマイク・ホワイトもちょい役で出ていたりするし。

ビル・マーレイの扱いやジェネレーションギャップの小ネタ、一々ルールを文字で見せてくれるのも気が利いていて面白い。劇中のアクションに合わせて文字も色々な動きを見せてくれるのもいいですね。何気に物理的に存在しているかのように影をつけていたり無駄に凝っている、ああいう細かい編集で笑わせてくる。カイル・クーパーが手掛けた「パニック・ルーム」みたいで楽しい。

ただR15な割にそこまでグロい描写がなかったのは謎。

予告編で美味しいところを見せすぎているような気もしますが、それにしても最後以外はほとんどゾンビは出てこないのは結構大胆な作り。
ほとんどメイン4人がダラダラ過ごしているだけのシーンでありますからね。

人見知りへっぽこ童貞が障害を乗り越えてガールフレンド(?)をゲットするという実に分かりやすい話をロードムービー的に描き、人見知り出不精童貞くんを強制的に外に引きずり出し尚且つアクション的に活躍させる舞台設定としてゾンビがいるようなものとしか思えないので、ほとんどスパイス的な扱いである気がする。

ピエロのくだりの安易さとかハレルソンの息子のくだりとか、凄まじいまでのお手軽さで笑えてくるのですが、そういうスナック感覚で観るのには向いている気がする。

遊園地のアトラクションを使ってゾンビ退治するシーン(ていうかこれがやりたかっただけだろ!)はもうちょっとカメラワークとか色々ブラッシュアップできそうな気もしますけど、あのアイデア自体は新鮮ではあった。

近所のシネコンでかかるなら2も観に行くかも。

 

ドニー・ダーコ

これも観たかった映画だったんですけど、長い間放置していてようやく観賞。

なるほど、カルト映画の空気感は確かに湛えている。25歳でこれを撮るってのも凄まじいものがあるんですけど、なんとなく若さゆえのダウナーなアッパー感が。

評判の悪い2は未見なんですが、IMDBを観ると監督は全くのノータッチかと思いきやCharactersとしてクレジットされているっぽいですな。

リチャード・ケリー監督はめっちゃ寡作なんで、監督作はほかに4つしかないんですね。日本版ウィキが情報少ないだけってわけではなく、2009年の「運命のボタン」以降は監督も脚本もしてないと。午後ローで「運命のボタン」は観ましたけど、あれもあれで変な映画ではありましたね。オチも含めて星新一ショートショート的な話だったような。そういやサウスパークのシーズン13で似たような、というかほとんど同じ話があったのを思い出す。時期的に元ネタ同じだったりするんだろうか。

あれもあれで哲学的な問題提起ではあった。

本人としてほかのドキュメンタリー?とかには出ているっぽく「Donnie Darko: Deus Ex Machina - The Philosophy of Donnie Darko 」っつー2016年のものには出てるらしい。ただ、IMDBにもこれといったレビューがないあたり、本国でも割と「あの人は今」的な扱いなのかもしれない。

 

本編に関して言えば、最後の方までは「SFっていうより精神障害の人が視ている世界じゃんすか」と思っていたのですよね。関係妄想や幻視幻聴として捉えれば単なるスキゾフレニックなだけと言えなくもないし。が、最後まで観るとこれはむしろ「イザナミだ」な内容だったのかなーと。

一方でこれはナウでヤングなユースフルボーイにありがちな、世界への不信というものとしても観ることができる。

ドニ―の行動はすべて尾崎豊の歌みたいなもので、大人による欺瞞を暴こうとしているようにも見えるし。ドリュー・バリモアくらいなものでしょうかね、この映画で大人側にいない大人は。文学、っていうところも多分そうだし。

同時にいわゆるセカイ系でもある。女の子を救うために自分を犠牲にするタイムループもの。悲しいけど。

改変前の名残みたいなものがそれぞれのキャラクターにもあるような描写があったりするし、飛行機がどこにいったのかわからないみたいな発言もあったし、繋がっているっぽいんですよね、前と後の世界が。

ラストカットのあれは「すれ違」っていることを示しているんでしょうかね。

 

直前に観た「ミスターノーバディ」と似ている部分がある。

竜巻みたいなのの超常感とかすごい良い。

 

怪獣王

わーい祭りだ祭りだー。

ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ」観てきもうした。


ぶっちゃけ脚本はアレだし人間ドラマは取ってつけたような感じです(とはいえ直接的に怪獣が絡んでくると結構いいんですけど)。

あとモンスターバースのサリー・ホーキンスは結構好きだったので割とおざなりに死んでしまったのは残念です。
ギドラを実質的に復活させたエマの死にざまを明確に描かない(というかまあ、体内放射?の間近にいたのでそれを描こうとしたらターミネーター2のサラの悪夢的な死にざまになってしまうので難しかったのでしょうけれど)し、オキシジェン・デストロイヤーの「とりあえず名前だけ付けてみました」「あったよ!オキシジェン・デストロイヤーが!」な軽い扱いというかなんというか。ここもゴジラにしっかりとオキシジェン・デストロイヤーを受けている絵が欲しかったところではあります。

あとはまあ、これはギャレゴジのときからそうでしたけど芹沢博士の何もしなさっぷりは健在で、ひたすら神妙な顔でそれっぽくかっこよさげなセリフを吐き出す自動機械です。ギャレゴジのときから基本的にヒューマンドラマに絡んでこない立場にいたので仕方ないとはいえ、もう少しどうにかならなかったのかと。
とはいえ、今回人間側で一番おいしい役どころであり、何気にゴジラ映画の中で(私の記憶が正しければ、オリジナルの芹沢博士でさえ行っていない)前人未到の偉業を成し遂げていたりする。

そんなわけで人間側のドラマは切って張ったようなものだし「怪獣は地球のセーフティ云々」というのも少し半笑いで観てしまうのもいなめない(もっとも、それは怪獣というものを矮小な人間の尺度では規定できない、というメタというか怪獣大好き―な自分としてはある意味首を縦に振るものではある)

 

が、しかし!

              /)
           ///)
          /,.=゙''"/
   /     i f ,.r='"-‐'つ____   こまけぇこたぁいいんだよ!!
  /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\
    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\
   /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

 

 

だって怪獣が最高だから。

核の扱いが云々とかギャレゴジのときも言われてましたけど、じゃあミレニアムシリーズとか平成シリーズとかどうだったんだ、って話になるわけで。

大体、初代ゴジラのように核の恐怖が云々という闇を背負っているゴジラなんてそうそうないわけで、それにこだわりすぎるのもどうかと思うわけです。


ゴジラの登場は今回3回ほどあるんですけど、どれもこれも外連味のあるカットで陶然とします。ギャレゴジも相当なものでしたが、今回はその量が尋常じゃない。

ギャレゴジの、波が引いていってからのゴジラがバーン!と同じような感じで南極でギドラが登場するシーンでは冷気が引いていくセルフオマージュやマディソンの背後で風向きが変わったことを示唆してからのゴジラばーん!など、もう最高でございます。

モスラは活躍シーンこそあまりないものの誕生シーンの神々しさたるや過去最高でしょう。これ、IMAXで観ないとその羽の巨大感などを体験するには足りないですマジで。

ラドンラドンであの炎をまとっているような見た目や火山から目覚めるシーンもいい(適当)。ただ、今回はモスラに「あの役割」を奪われてかしずくことになってしまうので、その辺はラドンファンは大目にみるしかないですが(笑)。
ほかの怪獣に関しては「スプリット」におけるほかの人格が云々というアレに近いので、今回はメイン4体に注力しています。これはまあ采配としては妥当なところでしょうし、ラストの落としどころ(あのカットからのタイトルドーンもいい)に繋がるという意味で設定だけの数になっていないという意味では納得できますし。

ギドラに関しても過去最高にチャーミングでございます。一番末っ子(?)と思われる左の首を小突くさまはほとんど3馬鹿大将のソレですし、その末っ子がモスラの糸で行動不能になっているほかの2本の首を助けようとする様子なんかもう萌え死ぬかと思いましたですよ。
しかも首が生え変わるという再生力もあったり、ゴジラに負けてしまうとはいえあれはバフがかかっていますから、そういう意味では負けたとはいえ格を保ったといえましょう。


また脚本があーだとか人間ドラマがこーだとか書きましたが、書いてきた通り怪獣周りの演出は本当に良い。ドハティ監督は「X-men2」の脚本も担当していましたが、この「X-men2」は能力を使った面白い描写が結構際立っていて、その辺の面白さや外連味はすごい上手いんでしょうね。どこまでが彼の采配かわかりませんが。

それにモナークとは異なる対立組織が登場したことで、人間側のやり取りも以前に比べるとだいぶ観れるようになりましたし、兵器どかどか出てきますし、その辺はブライアン・クランストが死んでしまってからの人間パートが退屈だったギャレゴジからカバーしてきている部分かと思いますし。

また怪獣が絡むと~と書いたのは、息子を殺したゴジラが娘を救うという両義性(人間から見ての)による神性の表現(それをやや狂喜がかった表情で見上げるマディソンの顔が最高)だったり、というところで人間側と怪獣が直接絡んだ部分では上手くかみ合っている、とは言えると思います。
惜しみなくゴジラのテーマをぶち込んでくるサービス精神、エンドロールにモスラを流すあたりやチャン・ツィーの祖母の双子の研究者を明らかに小美人に見立てていたりとか、その辺のリスペクトというかパロディもかなり盛り込まれています。

クレジットで怪獣の名前の横に「Himself」と記載する怪獣シンパっぷりや中島春雄さんへのリスペクトもあり、エンドロールもぜひ最後まで観てほしいところ。バース系映画特有の次回作への伏線映像もありますし。BLUE OYSTER CULTのGODZILLAはさすがに馬鹿すぎますが(誉め言葉)。


そんなわけでゴジラプロレス映画としてはおそらく過去最高と思われる映画でございました。

しかしゴジラを善寄りに描いてしまって、次のVSコングをどうするのか気になるところであります。ポストクレジットのくだりを観るとギドラ乱入なのかなーと思いますがそれはそれでどうなのか。

個人的には今回のギドラは宇宙生物だったので(専念竜王ェ・・・)、AVP2的にゴジラに寄生して人類アボーンさせるのをコングが阻止するのかと思いましたが、そうでもなさそうな様子。

誰でもない・誰でもない者さん

本当は5月のまとめに放り込むつもりが思った以上に長くなったので単一でポスト。

 

というわけで「ミスター・ノーバディ

観よう観ようと思ってから3年くらい経過してしまっていた。あと「神様メール」も観たかったんですけど、こっちは時間の都合上断念。

そんなわけでようやく観賞したんですけど、なんだこれ・・・。

一応、主観現在時間としては2092年ということでよろしいのでしょうかねこれ。

夢と現実の境目を曖昧にしたのが今敏とするなら、この映画はそこにさらに「可能性」としての現在・未来・あるいは過去(どこを起点に置くか、という問題でしょうが)の変数を代入した、観る者の足場を不安定にさせてくるタイプの映画でありましょう。

ただ、今敏のように夢の印象が強烈に膨れ上がっていくタイプというよりは、些細ながら決定的に違和感のある画を作り出してくる。

催眠術にかけられて目を覚ますシーンで、ニモの服装や壁の柄が同じひし形であったり、ベッドがいくつも並んでいたり、かと思えばローラーで道路を剥がしていたり現実の風景を模型化するように巨大な腕が出てきたり、線路を滅茶苦茶に重ね合わせてきたり、時間も空間も可能性も、あるいは音楽でもそういう表現があって、ともかくそういった変数をシャッフルして見せる、そういう表現を極めて平然と盛り込んでくる。

カメラワーク、というかカメラを一周させると場面が変わっているような、あるいは結婚相手が変わっているとか、単純なカットの切り返しではなくアクションカッティングだったり編集の力によってシームレスに場面を横断していく表現がこの映画では多用されているので、ちょっと混乱してくるところはある。それでも、シームレスさがもたらすその混乱こそがこの映画の耽美なところなのでせう。

生まれてくる親を選ぶシーンの、人種やペアごとに部屋の装飾を変えてたり、冷凍睡眠?のあのパッケージングは何気に「おぉ!」と思ったデザインだったりしましたし、細かい部分の美術も凝っていて、実は「観ていて」楽しいタイプの映画でもあるような気がします。

オムニバスだったり章立てすることで、それぞれの可能性をわかりやすく描くこともできたでしょうが、それではあまりにこの映画の語り口としてそぐわない。なぜなら、そういうわかりやすく理路整然とした目に見える因果律は幻想じゃないか?という問いかけこの映画は始まっているから。

 

冒頭の鳥の話は、すなわちニモが辿った人生そのもののたとえであるわけで。「ある結果というのは自分の行動がもたらしたもの」ではないということを提示したうえで、しかしそれでもなお、ラストに9歳のニモが「選択する」ということでレドのニモがアンナと再会できたという結果を選び取ることができたように、自らの選択を肯定する。

あらゆる可能性を提示しつつ、しかし過程を描かずに行動の結果(とそれがもたらすその先の結果)を無慈悲に描いているので決して甘美なだけの映画というわけではない。ないのですが、あらゆる可能性を観て、その上で1つをつかみ取ることができるというのはやはりチートなのでは。

 

結局は到達点が一つしかないあみだくじみたいなもので、その到達点たる老体ニモから催眠術によってプロセス(という名の無数のありえた結果の連続)を振り返っているだけという解釈なのか、それともそれぞれの時点でのニモもその可能性を観ていたのかによって結構見方は変わってくるような。

事故ったときのベッド上でそれを認識しているような、あるいは(どこまで本気か微妙ですが)予言ができるというくだりもあるし・・・。終盤で9歳のニモが列車で父母のどちらを選ぶかのシーンが再び出てくるとき、全てを観たからこそ迷いどっちも選ばないという「選択」をした、的なことを老体ニモが言っていたし。

 

で、ふと思ったのは「メッセージ」だった。あの映画で登場するエイリアンは、その文法によって過去と現在と未来を全て同一に観ることができたわけだけれど、それはつまり、可能性の排除ということではないか。すくなくとも、あの作品上では未来は一つしかないはずだ。現在というものが変えようもない以上、そこから一直線に伸びている未来も同一では。そうなると、ヘプタポッドはその文法によって自らの無数の可能性を消滅させているのでは。

速い話が波動関数の縮小を、自分の人生そのものにおいて行っているというわけで。たしか未来が現在を決定する、みたいな話があったけれど、それはヘプタポッドには当てはまるような気もするのだけど、それはそれで未来が現在に先立っているという解釈もできてしまう気もしてわけがわからなくなってくる。

その点、「ミスターノーバディ」は可能性を可能性のまま保持し、それぞれの選択によるそれぞれの可能性を見せていく映画ではあるので、こっちの方がわかりやすい。構成のせいでわかりにくくなってはいるけれど。

その意味では「リック&モーティ」の画面がどんどん分割されていくシュレディンガーの猫のエピソードが非常にわかりやすいかも。

ニモにはリスポーン地点(というか時点)がいくつかあって、そして時間も一方向的ではないから行ったり来たりすることができる、ってことなのかしら。ラストの巻き戻しを観ると。

まああれですね、「強くてニューゲームもといコンテニュー」みたいな。

 

一応3人のヒロインが配置されている(3人との邂逅は作為性ぷんぷんで笑うのですが)んですけれど、完全に当て馬扱いのジーンさんがカワイソス。ジーンさんと結ばれるルートでは、ほとんどが自らに課した硬直的なルールのせいでバッドエンドに向かうわけで、もうほとんどファムファタール扱いですよ。

それを言えば、すべてを分かった上で選び取るのがアンナである以上、ニモにとってはアンナ以外はバッドエンドであるのでエリースもあれなのですが。というかエリースのルートも結構キツイ感じでしたし、火星に灰を撒くという約束をした創作の中でアンナが登場してきたり、あらゆる可能性を観て、それでもやっぱりアンナが一番であるということを提示するので、ジーンもエリースも完全に負けヒロインです本当にありがとうございました。

 この辺はなんかもうちょっとこう、手心が欲しかったところではあるんですよね。と考えてしまうのはADV脳なせいでしょうか。

とはいえ劇中でニモが引用していたテネシー・ウィリアムズの科白で「人生には他のどんなことも起こり得ただろう。それらには同等の意味があったはずだ」といっていたことを考えると、すべての可能性に価値を見出したということなのでしょうか。

しかし、その中の一つを最終的に選び取ってしまった(ように描かれる)時点で詭弁感が強い・・・。

 

どうでもいいんですけどジュノー・テンプルダイアン・クルーガーになるのはどうなんですか。あんなの予想できませんて。や、そういう見た目で選んでいるわけではないんですけれどね、ニモは。だとしてもそれぞれの時点でみんな顔違いすぎる。ニモは一貫して(9歳時点はやや太めですが)イケメンなのに。

しかしこの映画のジュノーはエロい。いやにエロい。顔立ちでいえば、失礼を承知ながら神崎かおりさんとヘンリー・スタインフェルドを足してエレン・ペイジで割ったような感じで、お世辞にも純粋に整った顔立ちというわけではないんですが、やはりそこは成長期ひいては可能性を内包する肉体のエロさというものがある。

あと15歳のニモ(トビー・グレボ)がエグいほどハンサム&エロスでビビる。産毛が立つシーンとかもうね・・・。

 

いわゆるループものでありながら既存のループものとは一線を画す表現で面白かったです。

 

 

 

試写会行ってきましたよ、プロメアの

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。というわけで、詳細も読まずに片っ端から試写会に応募してたら3つも当選してしまいまして。ええ。

この間の「オーヴァーロード」に続いて、今回はトリガー制作の「プロメア」を観てまいりましたよ。そんなわけで「あと一回私は試写会を残していますよ(フリーザ)」なんですが、明日なんですよね。

 

まずトリガー(っていうか今石監督か中島さんかな)という制作会社について私の個人的な忌憚ない意見を。

 

トリガーについては、ちょうど話題作が作られ始めるようになった時期にアニメを観なくなってきたので最後に観たのが「ニンジャスレイヤー」の記憶なんですよね。あ、「キルラキル」もあったか。

スタッフ的なつながりで言えば一応「グレンラガン」もリアタイではないですが観たりもしてたんですけど、なんかこうパロディが多いなぁと。パロディというか、二次創作感というか。

作風だけならまだしも、その精神性までが二次創作のノリなんじゃないのかとあるスタッフのツイートを読んで、それがちょっと気に入らなくて「グリッドマン」は観てなかったんですけお。

なんていうかこう、一般的には知られてなさそうなチョイスを昭和熱血なパロディでやろうとしているといえばいいのだろうか。その精神性がなんだか臭く感じてしまう部分があるんですよね。それだけならまだしも、それをこれ見よがしに提示してくる感じがすさまじくオタクの嫌な部分を煮詰めてだしを取った感覚ですごい気持ち悪いんですよ。

グリッドマン」のツイートというのも、そういうたぐいのものだった上に自分の好きなコンテンツだったので「そういう同人ノリをひけらかすのやめてほしいなあ」と思ってしまったりしたんですね。

それがすべてとは言いませんけど、パロディそのものに耽溺しているようにすら見えてしまうのがね。これ、同じことは「ポプテピピック」とか「ヘボット」とか「妖怪ウォッチ」にも言えるかもしれないんだけど。パロディをどうやるか、という点ではカートゥーンやアダルトスイムが昔からもっとスマートにやっているからなおさらその臭みを感じてしまうのでしょうね。

今更それで喜ぶってどういうことなの?っていうか。「カービィ」くらいじゃないですかね、ちゃんと本筋の味付けとして使ってるのって。

いやまあ、「オースティンパワーズ」みたいなのもあるし一概に言えないんだけど。

一時期よくネタにされた「ジョジョだよ知らねーのか」的なアレに近い。で、そのネタが一般的にはそこまで知られていないものを使ってマウントを取るように提示してくるのががが。

ほら、ブーンも言ってたでしょう「オタクは卒業してプロになれ!」って。

キルラキル」にしたって、あれって(まあ言及されてましたけど)「カエアンの聖衣」の設定まんまだし。まあトリガーやガイナまわりは庵野秀明含めてSF好きが多くいるのでわからんでもないんですけど。

こういうのがきっかけで絶版だったのが復刊してくれるのは嬉しいんですけどね。

 

とまあ、そういうのがちょっと気にくわない部分もあったりするんですけど、作品自体はそれなりに好きではあるんですよ。いや、特別めちゃくちゃ好きってわけでもないけど、どちらかと言えば好きというのが率直なところ。

 

そんな私が「プロメア」観ました。もったいぶる必要もないので普通に書きますけど、まあ面白かったですよ。良くも悪くも「相変わらずだなぁ~」ってところも含めて。

あ、記事執筆時点ではまだ劇場公開されてないので注意しておきますがふっつーにネタバレしますので。まあ、そういうの気にするタイプの映画じゃないけど。

今回は一橋ホールで観たんですけど、ちょっと劇場の設備が・・・。たぶん、もともと映画をメインとしているわけではないのでしょうけど、座席の数と空間の奥行に対してスクリーンが小さすぎました。たぶん、一番前の席でちょうどいいくらいだったんじゃなかろうか。

あと音響。あれ、音質が悪いというか空間が広すぎて音が響きすぎて明瞭さが減ってるんですよねー。

普段はそんなに音響とかは意識しないんですけど、今回はちょっと気になっちゃいましたねー。

劇場に関してはこんな感じでした。うーん、もうちょっと良い環境で上映できてたらもうちょっと評価変わったかも。

 

とりあえずあらすじをば

 

世界の半分が焼失したその未曽有の事態の引き金となったのは、突然変異で誕生した炎を操る人種〈バーニッシュ〉だった。あれから30年、〈バーニッシュ〉の一部攻撃的な面々は〈マッドバーニッシュ〉を名乗り、再び世界に襲いかかる。〈マッドバーニッシュ〉が引き起こす火災を鎮火すべく、自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトは、対バーニッシュ用の高機動救命消防隊〈バーニングレスキュー〉を結成した。高層ビルの大火災の中、燃える火消し魂を持つ新人隊員ガロ・ティモスは、〈マッドバーニッシュ〉のリーダーで、指名手配中の炎上テロリスト、リオ・フォーティアと出会い、激しくぶつかり合う。リオを捕らえることに成功し、クレイからその功績を認められ ―― ガロにとってクレイは幼き頃、命を救ってくれた恩人で憧れのヒーロー ―― 誇らしげに喜ぶガロであった。

しかし、リオは〈マッドバーニッシュ〉の幹部であるゲーラ、メイスと共に捕らえられていた〈バーニッシュ〉を引き連れて脱走する。後を追ったガロが彼らのアジトにたどり着くも、そこで目にしたものは、懸命に生きる〈バーニッシュ〉たちの姿であった。そして、リオから〈バーニッシュ〉をめぐる衝撃の真実を告げられることに。

 

何が正しいのか――。

 

そんな折、ガロたちは地球規模で進められている“ある計画”の存在を知ることになる――

 

 

 

個人的に良かった点はいくつかあるんですけど、まずは声優ね。

メイン3人じゃなくて4人の俳優は軒並み良かった。松ケン・早乙女くん・堺雅人

特に松ケンは「デスノート」のLとか「聖の青春」とかの割と静かにぼそぼそ喋ってるイメージが強かったんで熱血キャラ?と疑問に思ったんですが、いやいやちょっと驚いた。ああいう演技もできるんですな。

多分、言われなきゃ松ケンだとわからないんじゃないかと。諏訪部さんとか小西さん(別キャラで出てるけど)の声に近いんだけど、あそこまで色っぽい感じがないからガロ・ティモスの熱血(消して馬鹿ではない、というところが好感触)なキャラクターにはピッタリだと思います。

早乙女太一くんの演じるリオ・フォーティアっちゅー二枚目のキャラクターなんですけど、ガロとは違うキャラクターではあるんですけど彼にも熱血な部分があって、それが終盤のシャウトに現れてくるんですけど、そのシャウトがいいんですよー。見た目だけなら石田彰とか石川界人あたりと使ってもおかしくないんでしょうが、その内面と早乙女くんの低くて芯のある声がすごい良かった。

堺雅人も、これはある意味でネタバレになりそうなんだけど、まああの展開を読めないような人はいないだろうから書いちゃうけどかなり叫び倒すんですよね、後半。

その「熱」量のあるセリフ回しとか、リーガルハイとか倍返しのアレとかとも違っていて新鮮でした。ていうか、この人がストレートな悪役をやるのって珍しいですよね。「クヒオ大佐」とかは、そもそも悪役と言っていいのか疑問ですし。ブレスが1箇所気になったくらいで、後は問題なし。

 

あと古田新太は本当にわからなかった。多少エフェクトかけてるんでしょうけど、あれ最初は東地さんがやってんのかと思いましたよ。

あとは今石作品ではおなじみの声優が並んでますね。「キルラキル」の四天王は陣営は分かれてますけど全員出てますし、柚木さんと小清水さんも出てます。

あまり出番のないキャラクターにもおなじみの声優を使ってくるあたりは義理堅いというかなんというか。

で、ちょっと気になったんですけど、あの裏切り者の爺の声ってもしかして岩田の光男さんですかね。最初は気づかなかったんですけど、ちょっとテンション高い声のときがぽかった。しかし岩田さんの扱いがどんどんぞんざいになってる気がするのは私の着のせいなのか。

本編観るのに疲れてクレジット確認し損ねたのは痛い。作画監督も見損なったし。これはさっきも書いたように画面が小さくて確認できなかったというのもちょっとある。や、私の視力が低いせいでもあるんですが。

えーケンコバは正直いらなかったですね、今回は(笑)。広告塔以上の意味合いはないです、マジで。ポーグよりも存在価値が不明なくらいなので。

 

あとはアバン。あれが個人的にこの映画で一番好きだったりする。

すごいトニー・スコットの映画でありそうでカッコイイ。今回、歌も「トップガン」のデンジャーゾーンを思い起こすくらいしつこい(って言っても2,3回だけど)使い方されてるので、もしや意識してたりするのだろうか。

で、トニスコ的なアバンでバーニッシュ誕生の経緯を説明するこのシークエンスの感じが「新世界より」の.超能力者の覚醒シーンじみた怖さもあって、ここは本当に好きですね。ここだけリピートしたいくらい。

 

キャラデザはコヤマシゲトさんなんですけど、メカの足から察するにメカデザインも担当しているのでは。「ヒーローマン」「キャプテン・アース」でも脚線美に喧嘩を売るような足の形状のメカを描くあたり、絵柄とかあんまり関係なくああいうのが好きなのかな、コヤマさん。

個人的にはマトイのデザインがダイアクロンダイアバトルスみたいで好みです。

 

 

お話は相変わらず荒唐無稽というか、ハチャメチャ。つっても、引用元の作品は予測できそうなもんではある。あと、設定考証に白土さんが入ってるらしいので、実は滅茶苦茶に見えるところも理論上は合っているとかそういうのもあるかも。門外漢なのでこの辺は何とも言えませんが、ぶっちゃけこの作品に考証が云々とかってあんまり必要ないと思うんですけどね。

結局いつものようにスーパーロボットバトルがおっぱじまるので。

そうなんですよ。相変わらず無駄にスケールをデカくしたがる癖があるようで、クライマックスではグレンラガンが地球に乗っかって鎮火作業を行いますからね。いや、マジで。

一応、本当に一応は黒幕の正体は最初はわからないんですけど、いきなり反権力グループのリーダーと幹部がとっ捕まる時点で推して知るべしというか、わかっちゃいますよね。だから、そういうミステリーなフックはない。

というか、あんまり脚本がどうとかって話ではない。だから、という理由かはわかりませんけど、ほとんどがアクションに次ぐアクションで繋いでいくつくりになっているので潔いといえば潔い。

バーニッシュに移民のアレゴリーを担わせているのか、プロメアの方に担わせているのかわかりませぬが、なんとなくそれは思っちゃうけれど、異能力者が人体実験を受けるというのはそういうの抜きにしてよくあることなので。

オチっていうか重要な設定を書くと、人体自然発火ネタかと思ったらグレッグネタだったっていう。

量子論が最近は盛り上がりを見せているので、その流れで多元宇宙やら並行世界やらというのを出しやすくなってきたのでしょうね。

別の法則を持った宇宙の別の知的生命体との接触というと、私なんかはグレッグの短編を思いだしたりするんですけど、空間転移のエネルギー云々の下りというのはもうよくわからない。

地球が危ないから箱舟作って宇宙に行こうか!1万人までしか乗せられないけど!ってすさまじく既視感がある。

その辺はもうなんというかクリシェというかね。ご愛嬌、と言った感じで。ともかくスケールをでっかくしたがる節があるのでね。

 

 

 

見せ場である冒頭とラストの戦闘シーンはCGも多用してカメラもぐりぐり動きますし、見ごたえはありますよ。だからこそ、もっとしっかりした劇場で観たかったんだけど。

パシフィック・リム アップライジング」みたいな巨大ロボVS小さいロボなシークエンスがあったり。似たようなカットがあったから逆輸入したのかなーと思ったり。

ただあっちと違って「プロメア」にはちゃんと重さがある。

静と動のメリハリ、その重さ。この辺は「アップライジング」なんか比べるまでもなく上手い。

ただ、これはカット単位の話であって、物語の流れからすると正直なところ平板であることは否めない。ステージが変わっても結局やってることは巨大ロボが論理性とか度外視で殴り合っているだけなので、カメラワークとかは観ていて面白いんですけど正直もうちょっとロジックとは言わないまでもメリハリは欲しかった。

じゃりんこ時代の私のブンドドですらもうちょっと理屈がありましたぞ、ってくらいバトルに関しては本当に気合のみって感じです。

いやあんさん、「リオの炎が守ってくれた」ってなんですのそれ。ってなるじゃないですか。そもそもクレイ>リオだって言及(本人談)された直後にそれですから、もう本当に勢いで攻めてます。

 

そういえば、冒頭の戦闘に入る前にプロメポリスの街並みが描き出されるんですが、これがCG丸出しで明らかな作り物感があるんですよね。テクスチャのしょぼさは、あれはもしかすると意図的なのかな、と思う。特撮作品では、私たちはそれを作り物と分かった上でそれが壊れる快楽を楽しむわけで、「人工物の入れ子構造」が壊れるその感覚をアニメで再現したかったのかなぁと。

 

 

あと音楽垂れ流しすぎでは。さすがにくどいと思うんですけど。

ただ音楽関係で言えば、「キルラキル」のときもそうでしたけど澤野さんの勇壮なBGMのおかげでバカバカしさを中和しているのだな、と今回観て思った。

 

ガロとリオのキャラクターはいいんですけど、それ以外のキャラクターはエリスとクレイ以外ははっきり言ってさばき切れてないなぁと。

アイナとか本当にいるだけって感じで。湖で顔赤らめるところとか、本当にいらないと思いますですよ。まあ、あれもクリシェというかお約束としての側面とちょっとした印象付けの意味合いもあるのかもしれませんけど。

リオの暴走の余波で壁が壊れるとかじゃなくてガロと対話させてエリスが脱出させる方がキャラを描けたと思うんですが、そこはアクションとテンポを優先したのでは、と。

 

あとはバーニングレスキューのビークル!あれはどう見たって合体するべきでしょ!ていうか本当は変形合体させるつもりだったんじゃないの!? シンクロ合体するための車種でしょうどう考えても!

「こんなこともあろうかと」っていうなら合体させるべきだよアレは!

というのがちょっと不満。

 

とまあ、そんな感じ。いや、なんか色々書きましたけど全体的には結構楽しめましたよ。でっかい画面でちゃんと音響が劇場の空間とマッチしているところで観るのがベスト。

つまり普通にシネコンに行けって話なんですけど。

 

 

えいがづくりってたのしいね!(小並感)

久々にuplink渋谷に行ってまいりました。

まがりなりにも福祉を学んだ人間としても映画を観るのが好きな人間としても、じつに興味深い映画があったので、わざわざ渋谷にまで行ってきましたよ。ええ。

「ナイトクルージング」って映画でございます。

 

 

 

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 uplinkや恵比寿ガーデンシネマみたいなオシャンティーな映画館はこういうのを展示してくれるので嬉しいところ。

 

 

以下概要

「あぁ、見えてない。それがどうした?」

視覚がなく、光すら感じたことのない全盲加藤秀幸は、ある日映画を作ることを決める。加藤は、映画制作におけるさまざまな過程を通して、顔や色の実体、2Dで表現することなど、視覚から見た世界を知っていく。また、加藤と共に制作する見えるスタッフも、加藤を通して視覚のない世界を垣間見る。見えない加藤と見えるスタッフ、それぞれが互いの頭の中にある“イメージ”を想像しながら、映画がつくられていく。
加藤の監督する短編映画は、近未来の宇宙の小惑星を舞台にした、生まれながらに全盲の男と見える相棒が“ゴースト”と呼ばれる存在を追うSFアクション映画。それはまるで、映画制作の現場で浮かび上がる、「見える/見えない世界」の間に漂う何かとも重なる。ドキュメントとフィクション、二つの世界に漂う“ゴースト”を、捕らえることはできるのか。

映画監督・佐々木誠と、全盲のミュージシャン・加藤秀幸。
僕らの青春は、ジャッキー・チェン
でもなぜ全盲の彼と映画の楽しさを共有できるのだろう。

監督は、本作品の前作である『インナーヴィジョン』、『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』などマジョリティとマイノリティの境界線に焦点を当てた作品を多く手がけてきた佐々木誠。プロデューサーに、障害を“世界を捉え直す視点”として展覧会やパフォーマンスなどのプロジェクトを企画してきた田中みゆき。また、加藤が監督する映画『ゴーストヴィジョン』には、『シン・ゴジラ』『バイオハザード』シリーズのプリビズやCGの制作チーム、『ファイナルファンタジーXV』の開発チーム、国内外で活躍する現代美術家金氏徹平など、幅広い分野のクリエイターたちが協力している他、山寺宏一石丸博也など豪華声優陣、作家のロバート・ハリスもキャストとして参加。前代未聞の映画制作をめぐる冒険ドキュメンタリー

 

全盲の、というくだりしか知らずに見に行ったのですがまさか山ちゃんやら神奈延年やら能登麻美子やら石丸さんやらが出てくるとは思わなんだ。

石丸さんは演出の感じからして顔出しNGだったのかもしれませんが、「ゴーストヴィジョン」のアフレコに参加したほかの声優はみんながっつり顔出ししておりました。

専業声優ではありませんがJ-WAVEでおなじみのロバート・ハリス氏を起用しているあたりも、口述しますが加藤さんの非視覚者(便宜上、ここでは視覚障碍者ではなくこういう表記をしていこうと思います)としての世界観があったのだなぁ、と思ったり。

しかしリターンズで時間が止まってるとはいえ神奈さん老けて太ってましたね・・・ちょっと小堺さんぽい気のいい叔父さんみたいな風体でした。相変わらず声はかっこいいですし、「ゴーストヴィジョン」では山ちゃんとのバディということもあって吹き替え声優ファン(ってほどじゃないけど)としてはこの珍しい組み合わせだけで結構脳汁ドバドバでした。

あと能登可愛いよ能登(テンプレ)。能登さんのああいう精悍な女性の声は初めて聞いたのでちょっと新鮮でした。

声優に関してはそんなところでしょうか。

 

さて、この概要や記事から受ける印象だと、何か挑戦的だったり視覚者との間に齟齬や軋轢が生じて葛藤する(監督はそうならないようにしていたようですが)映画かと思われるかもしれない。

しかし、実のところこの映画の内容は「もの(映画)づくりの純粋に楽しい側面だけを抽出した」ものだったりします。いや本当に。

 

それはたとえば、サークルで同人作品を出そうとするときのみんなでワイワイ企画を考えるときの楽しさに近い。自分にも少し覚えがあるので、劇中で描かれる映画作りのプロセスには本当にわくわくしながら楽しめました。まあ、私の場合は企画が空中分解しておしゃかになったわけですが。

星を小道具で作る方法、CGの制作過程、スクエニが作ったイメージボード、モーションキャプチャーブルーバックを使っての車内撮影などなど。

なんとなくそのプロセスを知ってはいても、こうして映像として「観る」ことで物を作ることの楽しさを疑似体験できる。そういう映画になっているとは言える。

もっと普遍的な例に落とし込むのであれば、友達と文化祭の出し物の準備をするワイワイガヤガヤした楽しさ、でしょうか。もしくは「遠足は前日が一番楽しい」というアレに近い。

 

とはいえ、映画製作の過程なんて、どう撮っても少なからず似たり寄ったりになるでしょう。エイリアンシリーズとか地獄の黙示録みたいに過酷すぎる現場は例外としても。

けれど、本作には大なり小なり映画製作で語られるはずの過酷さというものはほとんどない。それはたぶん、加藤さんがまったくの素人(一応、前作にあたる短編「インナーヴィジョン」では映画製作のハウツーを学んでいたようですが)であり「ゴーストヴィジョン」が「非視覚者による」企画であるという、ビギナーズラックや周囲の忖度によるところがあるからだ、と言い切っていいと思う。

佐々木監督はこう言ってる。

『ナイトクルージング』を撮影するうえで意識したのは企画から完成まで、映画づくりの工程を忠実にカメラに収めること。見える/見えないにフィーチャーした描き方ではなく、映画の制作段階を丁寧に見せることで、クリエイター同士の会話の中で『見えない』ことによる問題がたまたま浮上する。そうすることで、おのずと見える/見えないという違いが出てくると考えました

この言質から考えるのであれば、10分ちょいの短編であるとはいえ本当に「忠実にカメラに収め」ていたのならば、映画製作の中で必然的に葛藤や問題は生じてくるはずだけれど、少なくとも私にはそれが感じられなかった。いや、視覚の概念を学ぶことは加藤さんにとっては大変なことなのだろうけれど、様々な施設を訪ねていく様は私にはむしろ学習番組を見ているようなウキウキしかなかったので。

もしも監督によってそのような場面がカットされたのでなければ、それは既述したようなビギナーズラックや忖度というものだと、意地の悪い言い方ではあるけれど率直な感想としてはやっぱりそう表現せざるをえない。もっと身も蓋もない言い方をすれば「偏見」となるのかもしれない。ただ、こればかりは非視覚かどうか以外の要素も強く影響してくるだろうから、なんとも言えないのだけれど。

 

ただ、監督の意図したとおりほかの映画製作についてのものとの違い、「見える/見えない」という加藤さんにしか生じ得ないものは確かに立ちあらわれてくるし、我々視覚者が当たり前なものとして普段は意識しないと思われている顔の形や色の円環構造なスペクトル性などを揺さぶってくる場面もある。

 

たとえば空間把握のとき、あるいは効果音をつける際の指示は、彼がシステムエンジニアでありミュージシャン(両方ともどの程度の水準なのかはわからないけれど)であることを勘案しても、映画作りのほかのプロセスに比べて明らかに効果を理解している。

ドアの締まる音、エディフとレスクの歩調の合わせ方、衣擦れの音などなど。あるいはサウンドコンテという解釈(実体としては要するに台本とか脚本ではないのかとも思うのですが)。

本編ではないですが、映画の後にちょっとだけ本人が登壇した際の発言からもそれはうかがえる。「サインはします。何がいいのかわからないけど」という言葉からも、逆説的に視ることへの相対的な関心の低さが伺える。当然と言えば当然なのだけれど、それをしっかり当事者が表明したことにこの映画の意義の一つとしてあるようには思う。

 

一方で「音」を使うことを極力避けたがっている様子もあって、それは多分「非視覚者

」であるで視覚者から受ける決めつけの視線によるものなのだろう。ステレオタイプというか。

しかし、本編の最後で監督から「何が一番楽しかったかか」と問われ「それは聞かれたらやっぱりアフレコだよ」と言っていたように、劇中の配信番組と格ゲーで対戦していたときの「100%音で理解している」という発言からも明らかなように、光よりも音にコミットしていることは逃れがたい。

それは個人的価値観とかそういうレベルではなくで、生存能力としての身体性の発露にほかならない以上、本人が望むと望まざるとにかかわらない不可避な特性なのでしょう。視覚者が光に大部分を依拠しているのと同じように。

だからといって音がすべてといっているわけではない。劇中で役者の顔を確認するときのように手で触れて認識するように、触覚にだってコミットしているし、それぞれ切り分けられるようなものではそもそもない。

 

映画の冒頭、カーテンが開きスクリーンが見えると、そこから12分は真っ暗での中「ゴーストヴィジョン」の音声が流れる。そしてゴーストヴィジョン本編が終わると最初の映画館スクリーン内部を映し出す。そこには数人の観客がいる。

全員、非視覚者たちだ。そして、彼らに対して好きな映画について語ってもらうシーンがある。各々が好きな映画について語っていき(20代くらいの女性が岡本喜八監督の映画が好きと言っていたのは笑ったが)、最後に加藤さんが応じる。

つまり、視えずとも映画を観て楽しむ人がいるということを、そしてそれが別に特別なことではないことを端的に示している。

そうやって視覚者と非視覚者に共通する普遍性と決定的な差異を提示してから、この映画は始まる。

 

だからというべきか、それを強調するかのように、この映画の中で2回「ゴーストヴィジョン」を異なる形で体験することになる。一つは非視覚者の「視る」「ゴーストヴィジョン」であり、もう一つは視覚者の観る「ゴーストヴィジョン」だ。

ドラマCD・ラジオドラマ的と言ってしまえばそれまでだが、はっきり言って映像のない冒頭の「ゴーストヴィジョン」の方が映像つきの「ゴーストヴィジョン」よりも違和感がない。それは声優の演技やSEという非視覚者にとっての世界がノイズなしで純粋に「映画化」されたものだからだろう。

しかし映像のある方は、前述したようにプリヴィズを持ってきたかのようなCGや間の抜けた(とみなされる)シーンや不可解な場面転換で占められている。これが加藤さんの望んだものなのかどうかすら判断できないのだけれど、少なくとも視覚者としてはとても優れた作品であるとは言えない。

矛盾しているけれど、こと「ゴーストヴィジョン」という映画においては、視ない方が洗練されているとすらいえる。それこそが、あるいは非視覚者たる加藤さんが持つ映画の「ヴィジョン」なのかもしれない。

けれど、よく考えれば映画を作る上では「何を描くか」と同じくらい「何を描かないか」ということも重要な骨子になってくる。であれば、非視覚者である加藤さんのヴィジョンである音でのみ描かれる(=何も映さない)「ゴーストヴィジョン」こそが、映像化されることでロスト・イン・トランスレーションされてしまった「ゴーストヴィジョン」よりも洗練されているのは必然であるとも言えるのではないだろうか。

そして、この「ゴーストヴィジョン」すらも映画として受け入れてしまう度量の大きさが映画というメディアの持つ強度なのかもしれない。いや、「こんなの映画じゃない」と言われたら「それは違う」と言い張れるほど自信はないのですが。

 

個人的には、映画よりもゲームでこそ、その本領が発揮されうるのではないかとも思っていたりするのだけれど。実際、今回のプロセスではゲーム会社の協力が大きい。

すでに「Perception」といった非視覚者の感覚(というか見えない恐怖)に近づけようとするゲームがあるくらいだし、インタラクティブメディアとしての可能性で言えばゲームの方に期待をしたくなる。

 

 

ただ、いくつか物足りない部分はある。

一つは、視覚者優位の世界・メディアにあって、非視覚者というアウトサイダーの視点から映画の可能性を模索することも可能だったのが、制作の中でインサイダー化していきマジョリティの文法の中に取り込まれてしまっているからだ。

しかしながら、ハウツーを知らずに全くの素人が映画を作ることはできなかっただろうから、ここに関してはいかんともしがたいのではありますが。

でもやっぱり、それはわたしたち視覚者に隷属させることのような気がしてならない。たとえ形無しになっても、アウトサイダーとしての作品は観てみたかった。映画の文法に縛られない映画。そんなものがあるのかどうか、可能なのかどうか知りませんが、その可能性を模索することはできたでせう。

けれど、当初の「非視覚者が映画を作ること」の是非の可能性を無限定に射程に対して、もっとも短距離な「作ることに意義がある(あった)」という結末に落ち着いてしまったのは残念なとこではある。

そういうことは意図していない、という部分も作り手側からは感じ取れるのだけれど、だとすればなぜ映画なのか、ということにならないだろうか。別にこの映画に限らなず、映画を観るときというのはそれがどんな映像になのかを想像するだろう。

や、だからこそのラストなのだろうし、ただ「作ることに意義がある」というスタンスは同人のそれに近い。だからこそ、この映画は「もの(映画)づくりの純粋に楽しい側面だけを抽出した」ように見えるのでせう。

だからこの物足りなさは、まあ、言ってしまえば私のないものねだりであるわけです。

もっとも、これからもまだ作るのであれば(というか是非そうして欲しくはある。能登さんの意味とは別の意味で)、やっぱりどうなるか見てみたい。

 

 

とはいえ発見も結構あった。たとえば、空の理解の仕方。ここ、個人的にはこの映画でもっともセンスオブワンダーだった。自分とはまったく異なる世界の解釈に、ちょっとウルっと来てしまったり。 

 映画を観ていく中で生じた問題や疑問も、新たな発見といえるかもしれない。

監督が映画のラストのラストで訪ねていたように「あの猫って何」という疑問。

いや、猫が登場したということよりも、なぜあの猫は平面的な存在だったのかということ。はっきり言って「ゴーストヴィジョン」の映像はプリヴィズ段階の映像を本編として使っているのではないか、と思えるくらいに完成度が低い。それゆえに、あの猫の表現がどこまで加藤さんの意図したものなのかという部分がまったくの未知であったり、そもそも劇中で指摘されているように完成したものを「視る」ことができない加藤さんは、映像メディアである映画に対してどう感じるのかなどなど。

パンフに収録されている「ゴーストヴィジョン」の科白と音声解説を読むに、音声解説でも「猫のカラダは厚みがなく、紙に描かれたようにも見える」という表現がされているから、おそらくは意図的なものなのだろうけれど。

そもそもライブアクションとアニメーションの違いについてどの程度把握していたのだろう? 一体「映画」というもの、それを作ることにおいて加藤さんはどこまで学びどこまで教えられたのだろう?

 また、観終わってからふと思った「どうやって夢をみるのだろうか」などなど、クオリアの違いというか、その辺は突き詰めていくともっと面白くなりそうだし。

 

 

ここまでは映画本編の話。

この映画本編で語られない側面を記したパンフ?を読むことで、映画では描かれなかった部分や気になった部分があったのでそれについても少し書く。

・私はこの「ナイトクルージング」の本編を「もの(映画)づくりの純粋に楽しい側面だけを抽出した」ものと書きましたが、パンフに収録されている鼎談では佐々木監督と加藤さんとの間でアフレコに関してのちょっとした衝突なんかが語られていたりする。

・前述の猫のくだりに対して、若林良の映画批評において「美学者の伊藤亜紗は~中略~資格の大きな特徴のひとつとして、「三次元を二次元化する」こと、すなわち「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換することがあると述べている」と述べ、続けて「つまり、この異様な猫はむsろ”健常者より”の猫であり、加藤の立場とは真逆なもの――「ふつう」の私たちのものつ、ゆがみの表象ともなりえるのである。」としている。この解釈は中々面白いなーと思うけど、これもやっぱりこちらがわの理論に基づく解釈でしかないことは留意しなければならない。

・作り手のスタンスはあくまで「見えない人が監督」ではなく「監督が見えない」というものであること。

 

・加藤さんの中に「楽しんでもらえる映画をつくりたい」という思いと「自分の頭の中にあるヴィジョンを映像化する」という思いの葛藤があったらしく、私が本編から感じるのは後者に傾いている、ということだったりする。

が、ここまで書いてきておいて、ふと「それって要するにこちらがわの文法に回収されることを拒んでいるってことなのでは? 脱構築できてるんじゃない?」と思い直す。

考えれば考えるほどよくわからなくなってきました。

そういう意味では、この映画の本質というのは「既存の、所与と思われるものに疑義を呈し再考させる」ところにあるのかも。

いやでもね、結局のところは帯谷有理さんの寄稿がてらいなし忖度なしの観た人の本意だと思うのですよね。ぶっちゃけこのパンフの帯谷さんの記述を読んだあとだと、ほかのインタビューその他が凄まじく欺瞞に思えてくる。私の言いたいことの本質を突いているし。

 

 

色々書いてきましたが、私も自分を投影したキャラクターの声を山ちゃんやら能登さんやらに吹き替えしてもらいたいものです。という欲望だらだらな感じで締めようと思います。