dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2024/3

エイジ・オブ・イノセンス

観たことがあると思ったら見てなかったのやつ。何度目だ。

スコセッシの割には短いがそれでも二時間越え。いわゆる劇中劇的な演出というか、アイリスアウト・アイリスイン(しかし全く真っ黒になるわけではない)という、あのメタな視点の導入は面白いけれど何か奇妙だ。

婚姻制度の檻のなかで貴族が本音と建前でがんじがらめになり、なんかこう「サウスパーク」の皮肉が止められなくなるアレと言う感じ。ある種の政治的な駆け引きなんだけれど、上流社会の仕草という。

しかしメイの側はどうだったのだろうというのは少し気になる。

 

テルマ&ルイーズ」

小道具に凝りまくるリドリー翁らしく、そこかしこに男根のメタファーが配置されている。言ってしまえば男性社会と女性社会の衝突によって生じる逆説的なフェミニズムの発露というか。

少し面白いポイントとしては、いわゆる攻めに割り振られそうなルイーズの方が背が低く受け身っぽいテルマの方が背が高いところだろうか。いわゆるBLや百合界隈における身長差(の表象)では攻めが高身長に回ることが多いのだけれど、本作ではそれが逆に配置されている。これは別に意図したものではないのだろうけど、話が進むにつれテルマに一種の能動性が付与されていくことでむしろこの法則に回帰していくのですよな。

などと余談も甚だしいのだけれど、しかしこの映画がウーマンスを飛び越えたレズビアンのにおいを醸し出している(ラストで二人は一線を越えるわけで)ことを考えると、そういった文脈から読み込むことも割と重要な気もするのだ。

立場も性格も対照的でありながら「妻」(そして否定の言明による逆説的な「娘」)という同じ立場に置かれた二人の同質性と差異を描きながら「女性」というマイノリティ属性であるがゆえにあのラストを共有することになる。

抑圧とそれからの解放。おもえば、彼女たちの乗る車がオープンカーであることも重要だ。

最初の話に戻るが、銃にせよタバコにせよ、それらは全て男性性の象徴=男根であり、当初それを強烈に纏っていたのはルイーズであった。あのやや攻撃的・挑発的な振る舞いは物語が進む中で明かされるレイプ被害による一種の防衛機制と捉えられる。

そうでありながらジミーというDV気質のありそうな男を、ハルを除いて唯一まともな男性として描いているのはかなり疑問は残るものの、それでもルイーズが少なくともテルマに対して良い男と供していると対置させられている。

過去に傷を持ち、それゆえの男性性…「強さ」を纏うルイーズはいわばヒロイックな存在である。

対してテルマは、前半などはともすれば観客を苛立たせるほどのナイーブさを見せる。情動を優先し、それによってこの映画のトリガーが引かれるといってもいいくらいではあるわけで、それはほとんど戯画化されたヒロインの戯画化だ。

コンビニで小さい酒の瓶をたくさん買う場面にしてもそうだが、箱入り娘かと思わせる世間知らずとして描かれる。実際、彼女が自分の過去をブラピに語るとき、それが事実だったということがわかる。

ブラピを乗せようとした件にしても、自分の置かれた状況を理解しているのかと疑いたくなるお人よしっぷりである。

しかし、それは見方を変えれば他者を思いやる気持ちではある。まあ相手がブラピなので見た目で助ける相手を選んでねぇか?と言われたらアレなのだが、とはいえ恐らくは男性から見てもあの本性を隠したブラピは好青年で助けたくなるというのはわかる。

それにまた重要なことなのだが、テルマは彼によってこそ真にセックスの快楽を体験し、その上彼の戯言かもわからない強盗作法を実践することによってサバイブするのである。

実際、ブラピはワルい奴ではあるが悪人ではない。そして見方を変えれば金を盗んだことでテルマはある種の生存能力を獲得することになる。実際、この後はテルマこそがルイーズを激励する場面も多くある。まあ「おまいう」ではあるのだけれど。

この映画は観ていて清々しい(黒人バイカーの噴煙シーンとかも)し、ラストの跳躍的な美麗なカットに至る一連のシーンは素晴らしいけれど、同時に限界を露呈してしまっている。

有り体に言ってしまえば、テルマテルマのままでいられないことこそがこの映画の限界であるということだ。過剰適応による男性性の袈裟を装い、銃という男根で武装し、相克によってのみトキシックマスキュリニティを超克する。毒を以て毒を制す、ということだ。

しかしそれではいつまでたってもこの家父長的な社会制度は維持されるし、そこからの解放があのラストであるというのは美しさにかまけてしまうことになる。

じゃあどうすんだよ、と言われると叩頭して「わかりません」というしかないのだが。

しかし、ここまで「結婚」を真正面から女性にとっての拘束具として描いているのは中々ないので、そういった制度を告発する映画というだけでも貴重なのではないだろうか。

 

「シング:ネクストステージ」

テレビで見たんだけれど、これはどう考えても劇場で観るべきだったかもしらん。

 

 

「劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」

なんかキャラデザの等身が低い気が。特に全身が映った時のすわネオテニーかと言いたくなるような感じ。前もこんな感じだったっけ。

あとチーフ演出が山田尚子になっているのだけれど、彼女ではやりそうにないような演出も結構見られた気がする。真上からの俯瞰とか、ああいうのってあんまやらない気がするんですよねぇ。ま「リズと青い鳥」とも時期的に被ってるだろうからってのもあるのかもだが。

久美子が2年生になってからの話ということで新キャラ一年生が登場ということなのだが、なんか相変わらずぎすぎすしている。

ウィキを読んでいて驚いたのだけれど、「本作の久美子を描くうえで石原は、女の子が可愛く見えるのは好きな男の子の前にいる時だと考えたことから、秀一との関わるときの可愛さを意識して描いたと語っている。そのため、久美子の秀一との関わり方や、なぜ久美子が秀一に惚れたのかを意識し、演出を行ったという。」とあった。

前作から書いているし、今作を観ても思ったのだけれど異性愛規範の脱臼は通底している。のに、上記のような監督の言を読むとなんだか奇妙に映る。まあ、矛盾はしないんだけども。

冒頭で秀一からの告白があり、その結果を省くことでいったん宙づりにしつつ交際していたことを作中で明かしながら、しかし久美子から「マルチタスクは無理ぽ」と関係を一度清算する。あるいはキスの拒否にしてもそうだが、そこには周到な異性愛への拒絶…と言う言葉が強ければ躊躇がある。

あるいは競争原理、才能と人間関係というテーマも相変わらず続いている。加部ちゃん先輩というキャラクターが競争原理を(本人の意志とは別に、しかし消極的でありながらそれを望みつつ)回避したことは、さらりと描かれているが割と重要ではある。

競争原理の内側にいる以上、それは外圧・内圧による闘争心を掻き立てることに繋がるということを意図してかせずかはともかくとして告発している。

そこには多分、「推す」という概念の隆盛とも地続きなのではないか。

才能と社会性については新キャラの奏が若干の変奏を加えつつも同じ問題の立て方をしているが、ユーフォ全員選ばれるならその問題立てた意味はあったのだろうか。いや、美鈴の方にすり替えられているから無視しているわけではないんだけれど。

雨の中走らせるのはコテコテすぎる気もするけど、この身体性についてのある種の憧憬のようなものって周縁者の自意識なのかな、とかいうのはさすがに言いすぎか。

奏がやたらと口に入れるものを先輩ズに差し出すのは不気味で良かったんだけど奏自身はどちらかというと久美子のための当て馬感はある。

あと部長が「もっともっと『強くなる』」と言ったことも、「上手くなる」ではないところは示唆に富む。

 

「特別編 響け!ユーフォニアム〜アンサンブルコンテスト〜」

で、この中編なのだけれど、久美子の立場の変化による成長を感じさせる話。だが、これはまあ明らかに予告編というか新シーズンへのフラグだろうな、と。

 

地球へ…

ダイジェスト感。X-men感。そして往年のディストピアSF感。

災害ユートピアの萌芽。

 

ゴーストバスターズ2」「ゴーストバスターズ アフターライフ」

2の方は昨日見たのにもう内容忘れてるんですが。

アフターライフの方に関しては思っていたより良かった。

ガジェットのレトロな感じと玩具感は良い意味で80sぽく、個人的にはツボだった。「ギフテッド」のマッケナ・グレイスというのも良い。中性的な見た目のローガン・キムの男女どちらとも取れる感じ、かつ吹き替えが高山みなみというのがかなり効果的な気がする。いい感じのクソガキ感がありつつも役者の中性的な見た目が上手い具合に不快感を中和している。

あんま記憶にないのだけどあのゴースト捕獲用の武器ってあんなに物理的な作用強烈でしたっけ…?ゴースト側もなんか小機関銃みたいな攻撃してくるし全体的に殺傷力高めな描写でちょっとびっくりした。

ハロルド・ライミスの使い方に関しては、まあ色々と倫理的な危うさを持ちつつも「ゴーストバスターズ」だからこそ許される文脈もあるといえばいえる、グレーゾーンではあるもののなしではないのではないだろうか。

まあクライマックスに関しては爺たちが出しゃばりつつもちゃんと主役が決めるのはいいのだけれど、だったらそこは兄貴とポッドキャストに譲れと。

まあでも続編を見てもいいかなと思えるくらいには楽しんだ。

2024/2月

「劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜」

テレビ版2期の総集編ということで、例の如くテレビシリーズは未見なのですが、1期の総集編は構成がめちゃ上手くてびっくりしたのだけれどこっちもなかなかどうして上手い具合にハマっている。

というかテレビシリーズのシリーズ構成が巧みなのだろう。

しかしである。これはテレビシリーズの総集編ゆえなのか元からそうなのか正直なことろ判断がつかないのだけれど、少なくともこの劇場総集編2作目(と1作目もそうなんだけど)だけで考えるとそこはかとなく齟齬が見えてくる。

というのも、これは合奏とは名ばかりの強烈な(そして明確な才能を持った)メインキャラクターのエゴイズムによって物語を牽引しているからだ。

前作では高坂が、本作では田中が。そしてその両者の、ある種のメディウムとしての久美子が主人公として配置されている。

合奏シーンにおいてネームドだけでなく名前もないキャラクターの一人一人が躍動的に描かれれば描かれるほどに田中の物語に収斂されていく。

合奏とは、というか合奏に限らず集団的に何かを行うものはそれがスポーツであれなんであれ「個の集合」としてのチームとして1+1を2よりも大きくするためのものでなければならず、そうであるがゆえにそれを構成する個々人を描き込むことが必要になってくる。

いうまでもなくそれは組織規模が大きくなればなるほど困難になるわけで、ましてメディアによってもその描写の多寡は変わってくるだろう。テレビシリーズといえど合奏を行うキャラクター全員にスポットを当てるというのは難しい。そのために久美子というキャラクターをその中心において、あるいはモノローグによって分かりやすく物語を咀嚼しやすくしている。それは至極まっとうな判断だろう。

しかし、前作でも思ったがその牽引役の個性が強ければ強いほどに相対的にほかの名無しやネームドでさえも後景化してしまう。加藤の恋慕のスタートダッシュからの敗北のスピード感たるや、高坂と久美子の完全なる当て馬である(いうまでもなく塚本も)。

だから何だ、というわけではないのだけれど、こと合奏という題材を描く本作において特定のキャラクターが突出しすぎてしまうことはかえってモチーフのレベルで解離を起こしてしまうのではないかと思ったのだ。

ちなみに、その点で「ブルーロック」は本作と非常に似通っているだけでなく、そのエゴイズムというテーマを全面展開しつつ、実はあまり死にキャラがいない上にそのテーマ上キャラが食われても問題ないという荒業をやっているのだが、これは男性向けと女性向けの差なのかもしれない。まあそれでも特定のキャラが人気出てそこにスポットが当てられるというのはコンテンツとしては無べなるが。

 

一つ、劇場総集編2作に共通する「父性の渇望」が妙に気になった。高坂の滝に向けるそれと田中の実父に向けるそれは(高坂はLOVEと言っているが)父性に対する渇望として見れる。その父性からの承認を支えるのは久美子とのウーマンスである、というのもなんだか気になる。

このシリーズでは基本的に異性愛は予めくじかれている、というのは先の加藤のスピード失恋からも明らかである。一方で女性の同性愛(ていうか百合なんだけど)的な仕草は多分にみられるし、セリフでも明らかに狙ったものが散見される。それが露骨な高坂と久美子だけでなく本作において田中と久美子のやりとりにもそれが見られる(ラスト付近の二人の会話のきっかけとなる田中の茶化しのセリフなど)。

もちろん、百合であるがゆえに一線を越えることはないしそれ自体がテーマでもないのだけれど、高坂のLOVE発言の浮薄さに比べて演出レベルでの百合の濃度は明らかに気合の入りようが違う。で、その極めつけが「リズと青い鳥」に繋がっていくわけだけれど、それはさておきこの周到な(というか執拗な)異性愛的価値観の排除はちょっと面白い。

思うに、これは極めてヘテロ優位な社会的価値観を巧みに利用したホモソーシャルの反転利用なのではないか。

男女の友情は成り立つか、という問いが常々なされることだが、その問いが立つという時点で同性愛ではなく異性愛優位の価値観が定着しているということである。

そうであるとすれば、男女混合が展開されるとそこには恋愛のにおいひいては性的なものが前面に出てきてしまう。それは「ユーフォニアム」には、合奏という集団作業にノイズをもたらす。サークルクラッシャーという概念はつまるところそれであるのだから。

だからこそ、本シリーズでは女性同士によるケアによってそれを可能にする。先ほど「ブルーロック」の例を出したが、あれは極めて競争原理の強い作風で、そこには男性同士による強烈なホモソーシャルが立ち現れる。男性同士の闘争だ。

しかし、同じ「ホモ=同性愛)」であっても、それを女性による相互ケアの原理に挿げ替えることでホモソーシャルを反転利用する。言うまでもなくそこには選抜といった競争原理があるわけだが、本作においてはその競争原理自体がほとんど無化されている。まあ、劇場版1作目も含め、それはそれで「才能」というまた別の恐ろしく困難なテーマが立ち現れてくるわけだけれど。

 

前作に引き続いて最初の問いかけやセリフの意味を反転させる構成は巧みだし演出や作画も良い。

 

めっちゃどうでもいいけど卒部会で3年生が出し物するんすか?送り出す側がやるもんじゃねえんですかね、それ。

 

かがみの孤城

うーん……「バースデー・ワンダーランド」でも思ったけど原恵一とファンタジーって致命的に相性悪い気がする。アレに比べればこちらは原作の持つポテンシャルというか、人間の妙味があるから虚無ではないし上手い具合にサスペンディングではあった(まあ個人的な好みとしてこの手の作為性は好きじゃないんだけど)し。「君の名は。」じゃねーかとか普通に思ったしネタバレ前にギミック分かってしまったし。いくら時系列が違うとはいえ7年程度なら地理的な違いがそこまで生じようもないから話してるうちに何となくわかるもんだろ。

しかし、「何ヶ月も一緒にいて同じ学校に通ってたこともわからない」ということが、もちろんそれは展開優先の作為性の露呈ではあるのだけれど、これが逆説にサードプレイスとしての孤城(=メタファーとしてのオンゲーといったワールドワイドウェヴなど)の限界を露呈してもいる。ハッキリ言って、その程度の繋がりでしかないということ。

なんでそこで枚数増やしたの?といった演出、BGMの垂れ流し具合、そもそもの孤城のデザインの恐ろしいまでの退屈さ(は、まあバーステー~の時点で知れてたけど)も含め、絵的な面白さがないのも割と致命的な気がする。

「竜とそばかすの姫」もそうだけど、社会性もとい社会問題をアニメで描くことに腐心しすぎてアニメの可能性それ自体が閉じている気がする。

 

2024/1

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」

新年一発目がこれ、というのは我ながらどうかとおもうのだけれどタダで観れるなら見るに越したことはあるまいて。新作も今年やるみたいだし。

とはいえ、私は熱心なまどマギファンではないし、当時はそこまで熱心にアニメを追っているわけではなかった(そうだったら公開当時に観てるし)。一応、テレビ版の本放送をリアルタイムで追ってはいたので当時の震災を含めたある種の時代性を帯びたことによる熱狂はある程度知ってはいたのだけれど、逆に言えばそれ以降の劇場版総集編や雨後の筍のように湧いて出た批評の数々にまったく触れていなかったし、ヒットした作品の常としての澎湃として生じた数々のパブにも触れていなかった。

この間ようやっと当時のユリイカの特集を買ったくらい(まだ読んでない)なので、そういう意味ではまどマギ弱者であることは否めない。

しかしそんな弱者から見ても新編は面白かった。まずもって久方ぶりの犬カレー空間の異様さやカット数の多さなど、劇場版アニメにしてもその情報量の多さはちょっと異常である。まどマギはそれこそアニメバブル前夜の時代ということもあって興行収入こそ今のアニメ全盛の状況と比べると少し見劣りする(それでも20億超えてるので十分)が、作風的にもやはり濃ゆいファンがいるのでウィキも充実している。で、それを頼りにするとやはり絵コンテで2300カットあるとかで、まあそれだけカメラ位置を調整しているということである。

ただキャラクターが喋るだけで3カメ使ったり、アクションつなぎだったりアニメでそれをやるとなるとその分だけ新しい場面の絵を描かなければならないので手間になるはずなのですが、まあシャフトの場合は純粋な動性のあるアニメーションというよりは静的な動きの少ないカットの連続で見せていくところがあるので、アニメーションとしてはミニマルな手法のそれを手数を増やして贅沢にやるというちょっと面白いことをやっている気がする。

といいつつも戦闘シーン(ザ・ワールド)や変身シーンの手の込みよう(保守本流魔法少女変身シーンを脱臼させBGMもどこか不穏な装いがある)は、そういうミニマリズムとは別の映像的快楽をもたらしてくれる。

まあ要するに映像だけを取り出しても十分面白いということではある。後半のジャーゴンじみた用語の連続も、別にしっかりと理解する必要はなくて(その気があるなら映像はもっと抑えるだろう)、むしろそういったきっかりとしたSF的な説明の粗さを煙に巻くところがある。

何せ掲げられるお題目が「愛」である。いやもちろんSFの中で愛はヒューマニズムの観点からなどもよく取り上げられるものではあるけれど、それを宇宙の法則を書き換えるほどのエネルギーの源泉として扱うとなればもはやSF的なセンスオブワンダーで語るにはあまりにも大文字の「愛」過ぎるので、要するに「こまけぇこたぁいんだよ。愛だよ愛、最後に愛は勝つ」という本作のというかまどマギのテーマの全面展開のための方便なのだ。

 

マギレコの方はやってないしアニメも見てないのでアレが「まどマギ」とどういう位置づけなのか分からないんですけど、少なくとも2024年の新作が発表されるまでは本作が(とりあえずの)正当続編という扱いではあったと考えると、本作は実質的に「まどマギ」におけるメリーバッドエンドであると言えるのだがQBザマァエンドではあったので(しかしそのラストカットのQBの顔こそが「バッド」を予期させるのだが)個人的にはグッドエンドであった。

という冗談はさておき、テレビシリーズはいわばまどかの救済の話だったと思うのだけれど、この新編はほむらの(自力)救済の話でござんしょ。

どちらも実質的な主人公はほむらであるということにそこまで異論は生じないと思う。しかし、ここで個人的な所感を述べさせてもらえば、そういった一般論を差し引いたとしても「まどか」という存在が奇妙に映る。テレビシリーズの記憶が曖昧だもんで単に忘れているということもあるかもしれないんですが、「まどか」に対する印象がほとんどないのです、私。

いや「まどマギ」と言われて真っ先に思い浮かぶ顔はまどかだし、決して空気とかそういうことがいいたいわけではない。むしろ、それよりももっと大きな枠組みとしての「空虚」という言葉で表すべきキャラクターではあるかもしれない。

まどマギにおけるまどかは、その存在がほとんど舞台装置的といっていい(ワルプルギスの夜が舞台装置の魔女と呼ばれているのを初めて知ったんですけど、これも犬カレー背景や劇中の「幕間」の演出を観ると意味深)。おもえばテレビシリーズにおいても、物語を牽引するのはまどかではなくその周囲の魔法少女たちだったし、彼女らが魔法少女になるための願い、願うに至ったバックグラウンドもしっかりと描かれている。

そう考えると、ほかの魔法少女たちには家庭や家族といったものが(私のおぼろげな記憶の範囲では)描かれないのに対し(設定的にはさやかやほむらの家族は存在していてもおかしくないはずなので)、まどかには極めて通俗的な「充足した」家族が描かれることも奇妙に映る。多くのアニメにおける少年少女に家族が描かれないのは、むしろそれが彼女たちのキャラにとってノイズになりえるからで、キャラとして強ければむしろ不必要ですらあり(あるいは事前に設定レベルから排除されている)、なればこそまどか以外の魔法少女たちにはそのような存在を必要としない強度が与えられていると逆説的にいえる。

しかしまどかには家族が描かれる。

それはまどかの「キャラの弱さ」を虚飾すると同時に書割的に描かれる「幸福な家族像」によって、より一層まどかの空虚さを補填しているように見える。

創作物においてすでに満たされているキャラクターほど退屈なものはないだろう。何せ満たされているのであれば「何かをなそう」とする行動原理が生じえないのだから。せいぜいが「現状維持」だ。もっとも、その「現状維持」がある意味では本作の物事の重要な願望ではあるし、それを突き詰めると「ループ」という無限性に突入するので、そういう意味ではまどかのそれはやはり重要な要素ではあったのだろう。

ともあれ、テレビシリーズにおけるまどかは魔法少女に憧れこそすれ、そのための願いを持つことがなくモチベーションそのものを終盤まで欠いていた。

しかし、空虚であるということは、ハリウッドの往年のスターがそうであったように大衆の願望の眼差しの器として機能する。空虚で空っぽであるがゆえにあらゆるものを受け止める器になりえるのだ。

やがて「まどか」という存在は「ほむら」の願望の器もとい対象そのものになり、ループによって幾度ももほむらの願望を眼差された結果、「まどか」は空虚なキャラクターであるがゆえの超越性を獲得するにいたる。

他の魔法少女たちが「キャラ」として強かったのは、願いを含めそのキャラクター造形が人間的で魅力的であったからだ。翻って、キャラとして弱いまどかが魔法少女になるために最終的に掴み取った願いというのは「すべての魔法少女を救いたい(だったはず。多分)」という、人「並み」の願いではないものだった。

それは究極の利他であり、ほかの魔法少女たちが(見かけはともかく)本質的に自己救済的を目的とした「願い」であったのに対して、それは願いというよりもほとんど「祈り」に近いものだった。劇中でもマミがさやかに「他人のために願いを使うのはやばい」みたいなことを言っていたのは、さやかの末路だけではなく、むしろまどかの末路を指していたのではないかと思える。

これは別にそこまで突飛な話ではなくて、なぜならまどかは最終的に円環の理と呼ばれるシステムそのもの(通称アルティメットまどか)になるわけで、まどかという存在が最初からそういうシステム=まどマギ世界を成り立たせる舞台装置であったと考えるのはむしろ自然なことだ。

だから空虚な存在としてのまどかは最終的に(魔法少女≒魔女)を救済するシステムそものとして完成する。

アルティメットまどかに女神あるいは聖母のイメージが付与されているのも、それらの概念が機能としての救済(的存在を内包・産出する)を有しているからだ。

まどマギ」においてキャラの弱いまどかがそれにもかかわらず「まどマギ」の顔として強烈に印象付けられるのも、その世界のシステムそのものを象る枠であるからだろう。まどかがいなくてもあの世界は存在するが、彼女がいなければほかの魔法少女は輝けない。

近年の例で、より分かりやすくかみ砕かれた例で言えば「グリッドマンユニバース」におけるグリッドマンが割と近いものである気がするが、あそこまで単純明快な感じではない。

 

テレビの続編としての本作では、書き換えられ完成したシステムとしてのアルティメットまどかから「キャラ」としての「まどか」をほむらが奪掠する話であり、端的に言ってテレビシリーズの結末をひっくり返すとは言わないまでも、中指おったてた結末ではあるはずだ。

それが悪徳として、というと語弊があるので自己中心的な行為として受け止められるのは、ほむらにとっての夢の街を、そのまま世界そのもの、宇宙そのものへと敷衍してしまったから、すなわち自分の掌握可能な箱庭化するということにほかならないからだ。それは徹頭徹尾「利他」のためのに世界を書き換えたまどかとは違い、まどかと一緒にいたいという「利己」のために世界を書き換えたからと言える。

しかし、それは紛れもない、ほむらの人間性の発露でもあり、本質的に魔法少女の「願い」と何ら変わるところはない。

と、ここまで書いてきてこれ以上ディグるのは面倒というか疲れたのでここで切り上げる。

正直キャラクターに対する考察とかは散々されてるので今更私が個別のキャラをどうこういうことはない(杏子とさやかが一番グッとくるということくらいを言及するにとどめる)。だからこそこういうちょっとしたメタでしか語れないんだけれど、まあ書いたような「利己主義」としての「願い」(ほむら)と「利他主義」としての「祈り」(まどか)をどう揚棄するのかは気になるところである。というところでひとまず次作を待つ。

 

一つ一つのディティールを取り上げてやいのやいの語るのも一興ではあるんですが、そういうのはまあ濃度の濃いまどマギオタに譲るべきでせう。

しいて言えば魔女同士の対決は熱かったですな。魔女として葬られたさやかとなぎさが、なればこそほむらを相克しえるという巨大魔女の衝突の絵面。まあ、概念的スケールの差で最終的にいなされてしまうんだけど、作り変えられた世界でも明確に悪魔としてのほむらを意識できるという可能性はまだ残っているような描き方なのでセーフ(何が)。そのあとのまどかも含めてエネルギー回収システムとしての「魔女」がまだ機能してしまう可能性を保持しているということではあるんですが。

 

ただまあ、しいて言えば今の目線で考えるとQBの声優はゴリゴリのマッチョを想起させる男性声優の方が、今の目線で観るとよかったんじゃないかと思ったりもするんですよねぇ。そんなチープなエクスキューズはいらんわい、という声も無きにしも非ずではあろうけれど、しかし今やフェミニズム要素なしで魔女(Include魔法少女)を語るのは片手落ち(あんまこの言葉はどうかと思うが)でございますし、ボロ雑巾QBの絵面もマッチョ男性声優だったらよりザマァ感が増したのではないかと思う。

 

QBといえば次回作ではQBが感情を獲得して対立からの融和路線とか考えたんですけど、まあないよな。

 

「映画 ギヴン」

テレビでやってたから何の気なしに観たのだが原作もテレビシリーズの方も全くのノータッチ。だもんで、BLアニメであるということをまったく知らず音楽要素が少ない(全く足りてない、ということではなく)上にほとんどが隠喩として機能させられているのでちょっと面食らった。ていうかこれ前後篇の前編なのかよ。二人の物語としてはかなり綺麗にまとまったと思うんだけど次どうすんの。真冬と立夏か。テレビシリーズ観てないとこの二人にスポット当てた場合かなり音楽要素強めになりそうだけど、どうなんだろう。

しかし、割と個人的には好みではあった。いや湿度高すぎてちょっと笑ったりとか最後の告白を言葉として言わせるのはまあ、なんというか女性的というか「言わなきゃ伝わらない」という至極真っ当なディスコミュニケーションの回避を行っているあたりの社会性を感じさせるのだけれど、自分の趣味としては粋じゃない気がした。ていうか共感性羞恥に近い。

いや、雨月と秋彦の告白シーンがどうだったのか(そもそもあったのか)知らないんですけど、プレイバックになってたりしないのかとかね。ていうかアンタらの話がメインなのかよ、とまったくこのコンテンツを知らない身からすると割と衝撃だったのだが。春樹ってメインの中でも割とサイドよりじゃないですか明らかに(失礼)。そういうキャラは好きですけどね、幽遊白書の四人で一番好きなの桑原ですし、私。

 

そのラストはさておくとして、この映画というか「ギヴン」というのは、少なくともこの映画においては音楽についての映画ではない。秋彦が「音楽の楽しさ」を再び取り戻すという構成ではあり、それは要するにテニプリにおける天衣無縫的なアレなのだが、音楽が音楽そのものではなく「恋愛」というレイヤーと重畳させられていることによって「純粋に音楽が楽しい」という部分に「恋愛」という不純物が紛れ込んでいるように一見すると見える。

というか、実際に「音楽の楽しさ」や「才能との葛藤」という問題系は「恋愛」という強力なテーマによって回収されてしまっているのは否めない。たとえば春樹の「ほかのバンドメンバーに対して才能のない自分」という葛藤は、結局のところそれと並列される秋彦への恋慕と最終的に秋彦がその想いに応じるという形によって問題の本質を穿つことなく慰撫されてしまっている。

ある種の弁証法なのではないかと考えられなくもないかもしれないが、それをやろうとするとかなりダイナミックな飛躍が必要な気も。

音楽と恋愛が重ね合わされているというのは、言うまでもなく劇中のメタファーからも読み取れる。秋彦にとっての恋愛の問題系はその対象としての雨月とヴァイオリン(という過去)に象徴される。それに対置されるのが春樹とドラム(という現在)だ。

雨月=ヴァイオリン(過去):春樹=ベース(現在)の同質的な対置がなされているのだが、秋彦が扱う楽器をそれぞれの時系列と合わせると秋彦(過去)=ヴァイオリン・秋彦(現在)=ドラムなのだ。

ここに秋彦の恋愛における視点・立場の相違がみられる。雨月との過去の恋愛においては、彼と同じ楽器を扱うという営為がそのまま秋彦の同期・同化の願望として反映される。しかし、雨月との間に隔絶した才能の差を感じ取り、それが恋愛に亀裂を生じさせる。

女性にイラマチオさせてるっぽいし雨月に対しても春樹に対しても上位に組伏しているので秋彦はタチもとい攻めだと思うのだが……そこに伴う暴力性は一種のジャイアニズムでありそれが性的・恋愛的な秋彦の志向としてコードを読み取れる。すでに述べたように雨月に対しては彼のヴァイオリンの才能によってそのジャイアニズムが挫折させられ彼との恋が上手くいかなくなる。

攻めは本質的に受けの略取による合一を志向する型と捉えられるので能動的・加虐性を帯びるのだが、そこに「才能の差」と言うノイズを紛れ込ませることで雨月はそれを無効化…あるいは本人の意志の寄らぬ拒絶に繋がる。もちろん、それでも秋彦は無理やりやることもできるが、劇中の描写の限りではそれはない。そう考えるとそれこそが彼の音楽に対する真摯さとして受け止められる。だらしないけど。

いやまあ、そのフラストレーションの対象に春樹が搾取されてしまっているのだが、逆に言えばその真摯さ(ゆえに生じる葛藤)というクソデカ感情を向けられるのが春樹ということでもあり、それはとりもなおさず秋彦が雨月=過去から春樹=現在にその感情のベクトルを変え始めた証でもある。

途中が長くなってしまったが、言いたいのは秋彦の過去性の恋愛は雨月との同質化(ヴァイオリン同士)を望んだことで挫折したのだということ。磁石の極性みたいなもんです。

翻って現在の恋愛性としての春樹がベースなのに対し、秋彦はドラムである。二人が違う楽器を扱っていることに意味があり、そしてその蓋然性の高さを担保するのが「バンド」という形式なのだ。バンドは基本的にメンバーが異なる楽器を担当しなければならない。つまり、バンドメンバーとなった現在の秋彦はかつての独りよがりなヴァイオリンとヴァイオリンという合一のカタチではない相補性を獲得するに至り、それが彼の恋愛的志向にも変化を与えたのだろう。

加えて秋彦と春樹には(両者の間にも差はあれど)「才能を持たざる者」の共通点がある。春樹は秋彦をして「器用貧乏」と評するが、観客からはそれはむしろ(ほかのバンドのサポートに入ったり)春樹にこそ当てはまるように見えるし、実際に彼は秋彦にとっての当事者性を持っていないがゆえに見えるものあり、現に秋彦も同様の評価を春樹に対して行っていた。

それをメタファーとして示すのが花火のシーンだ。春樹のマンションに居候することになった秋彦が、彼と二人で春樹のマンションから花火を見るシーンのセリフで、秋彦は前の場所(雨月と暮らしていた半地下っぽい場所)では見えなかったと述べる。それは逆説的にいえば春樹と同じ視点に立つことで秋彦はそれまで見えていなかったものが見えるようになったということだ。ここにおいて秋彦は完全に雨月(過去)ではなく春樹(現在)と同じ立ち位置を獲得したことが示される。

このように相補的・異質的でありながら同質性を持つ二人(というか秋彦)の恋愛は、バンドという社会性を持った形態を経由し、演奏という営為(によって真冬の才覚に当てられることで、自分とは「似て《音楽》非なる《楽器》」ものを受け入れる)を通じて雨月という過去とけじめをつけて成就する。途中で秋彦がやらかしたりもしたけど。

しかしそれは過去との決別ではない。

細かい部分ではヴァイオリンに対してベースと言う弦楽器(でけぇ括りだけど)であることだが、これは過去性との係累である。劇中の直接的な作劇(秋彦がヴァイオリンを再開したこと)ことからも明白ではあるのだが、そういう部分からも彼が過去を清算・切り捨てたのではなくまさに受容したのだとわかる。

 

とはいえやはり「恋愛」と「音楽を楽しむ気持ち」を同じ位相で語るのは無茶だったと思う。実際、恋愛の方はともかく音楽の楽しさ・才能の問題はなあなあだし。

またこの映画では各キャラクターのモノローグによるポリフォニー(ホモフォニーではないのがミソ)で補完されているのだが、立夏だけそれがないしその上、出番もないので初見の自分にはキャラがつかめなかった。才能がある側ということはわかるし、それを言えば明らかに主人公である真冬もキーパーソンではありながら出番は少ないので、もしかしたら後編では二人にスポットが当たる構成になっているのかもしれない。

そのおかげか、高校生の二人は恋愛ドロドロ劇場を演じていた秋と春に比べて音楽に対してピュアなキャラとして描かれている。というか描かれていないからこそ、そう受け止められるというか。

そして後編でこそ才能を巡る話になる……のか?分からないけどそうしないとぶち上げた問題が棚上げになってるしなぁ。いや恋愛も面白かったけど。

 

以下覚書

・名前の法則性は「500日のサマー」っぽい

・秋彦は人好きのするクズ

・地味に音響凝ってる

 

リズと青い鳥

個人的に苦手な監督、山田尚子の監督作なんですが、今回はかなり良かったと思う。これ、後から知ったんですけどユーフォニアムのスピンオフ的続編なんですな。まあ知らずに観たけど全然この一作で完結しているので問題ないのですが。

牛尾さんの音楽もさることながら全体的なサウンドデザインがよろしい。音楽をテーマにした作品は「ギヴン」もそうだったけど、劇伴以外でもその辺を気を遣うっていることが多いと感じるのだけれど、アバンまでの編集のテンポや(ある種の激重感情矢印のミスリード含め)足音などのSE一つ一つの繊細さ、それとこれは山田尚子個人というよりは京アニの色だと思うのだけれど、キャラクターの髪の毛が良い。こういう書き方をすると問題がありそうだけれど、女性監督の場合はキャラクターの髪の毛をかなり丁寧に描くことが多い気がして、それは戯画化されたアホ毛とは違う枝毛じみた毛髪の浮き上がりなどが際立つ。

アバンの廊下を歩くだけのシーンにおける静謐な音や前述の髪の毛を筆頭とした繊細な描写だけでかなり満足。

聲の形」や「平家物語」の共依存を前提にした対象を神格化することによる贖罪はうげぇと思って観ていたのだけど、「リズと青い鳥」に関してはその辺のバランスが上手く青春時代の一幕として閉じれていたと思う。

近いタイミングで観てしまった「ギヴン」が同じく音楽とその才能の差異を扱っていたのと似て、こちらも似たようなテーマを掲げながらもそこには恋慕というそのほかの事柄をすべて置き去りにしてドライブしてしまう要素がないため、ああいったドロドロ展開にはならない。

冒頭とラストの対比、違う場所を目指しつつも同じ道を歩むということの開かれ具合はグッド。

まあそもそも才能以前に楽器に対する真摯さがダンチなんですよね2人は。かたや腕時計しながら演奏、かたや大事な指を傷つけないために体育の授業に参加しないという徹底ぶり(バスケだしなぁ)

派手さはないけど編集やカメラワークの妙でしっかりとキャラクターの内面が描写されていて、深夜アニメばかり見ているとこういうちゃんとした(アニメ)映画を観るだけですごい快感が。

絵本パートはなんかこう、全体的に(まあ絵本だから当然なんだけど)戯画化されていて、素人吹き替え感も相まってどことなくジブリ臭がしてちょっと笑っちゃいましたけど。

 

「劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」

構成ばりウマ…。最初と最後で金賞と涙の意味が反転するの上手すぎ。

 

レオノールの脳内ヒプナゴジア(LEONOR WILL NEVER DIE)と鶏の墳丘(Chicken of the Mound)セルフ二本立て

数年ぶりにイメージフォーラム行ってきた。コロナ前後に行ったきりだからざっと数年ぶり。まあそもそも滅多に来ないんだけど。低賃金労働者には電車代を惜しむ守銭奴マインドがありますし、割引料金でないと映画一本も高く感じるゆえ、ミニシアターにはほとんど行かないんですよねぇ。そもそも渋谷の人混み好きじゃないし。

ほんと渋谷は毎度毎度のことだが街中を歩くだけで頭がクラクラして疲弊してくる。それに加えて観た映画が「レオノールの脳内ヒプナゴジア」と「鶏の墳丘」というのだからもうクラクラが止まりませんよ。

まずもってこの2本はくどい。それはもう色々な意味でくどい。前者に関しては構造の反復がくどい(インセプションかよ)し、後者に関してはくどいというかもはやそういうレベルではなく「よくもこれを挫折せず長編にしたな」という一周回ってそのくどさに感慨深さすらある。

などと書くとどちらもよろしくないと受け止められかねないのだけれど、別にそういうわけではない。いやまっとうな傑作とかそういう言い方もしづらいんだけどさ。

 

最初に観たのは「レオノールの脳内ヒプナゴジア

これ、原題が「LEONOR WILL NEVER DIE」(英語なんだけどこれ原題でいいのかしら)なんですけど、こっちの方が通りがいい気がする。終盤からのラストを思うと。

白状しますと徹夜明けだったとはいえ前半は結構タルい。割と寝落ちしかけました、ええ。レオノールの頭にテレビが落ちてきてからようやくエンジンがかかり始めるんですけど、そこまでは(意図的とはいえ)カット割りも少ないしアングルも単調でロイ・アンダーソンの「さよなら、人類」みたいな間の使い方するしで「オモシロ映画」観に来たマインドセットの自分にはもう微睡みしかなかった。

んが、レオノールの夢の世界と現実の世界の両方で話が進みながらやがてそのどちらもが混然一体となって虚実の皮膜が剝がれていく感覚や、そこにもたらされるメタ構造が明らかになっていくにつれて尻上がりに面白くなっていく。

特に創作物におけるキャラクターの扱い、とりわけキャラクターの死(さらにこの映画はライブアクションである)をどう扱うかという創作者とキャラクターの対立。そこに息子を死なせた母の贖罪意識がダブらされることで(これは劇映画なので実際にはレオノールも創作者というロールを担ったキャラクターではある)キャラと人間の死を「劇映画の劇中」という仮想の土台ではあるがその土台の上では同じ地平に置かれることになり、一つの「キャラクター論」としても中々示唆に富む展開であった。

また、メタ構造にメタ構造を重ねた結果、話の本筋が元にもどるというのも面白かった。

ところでレオノールの脳内映画(営為製作中)のアス比がおそらくテレビサイズなのだが、彼女がVHSをよく買って観ていることや脳内映画が展開されるきっかけになる落下物がブラウン管テレビであるということを考えると、これはやはりテレビであるということが一つ、私の涙腺を刺激したのではないかと思う。ええ、ちょっと泣きましたよ私は。

具体的にはVHSを売っている男の子が、レオノール脚本の映画の登場人物としてレオノールがテレビ画面に映ったのを目にして友達を呼んでその映像を観るというシーン。

映画館ではなくテレビで映画を――意図せず事故的に――観るということの、そしてその映画に胸を躍らせてわくわくしながらキャラクターにシンクロすることの高揚感がこのシーンにはあった。すっかり忘れていた、けれど確かに自分にとって「映画を観ること」の原初的体験の悦びがそこにはあったのだ。これは世代的な感覚も大いにあるだろうし、私の感じたものを違う文化圏の監督に見出せるのか分からないし、必ずしも万人に通じるものではないかもしれない。

ことに自分より上の世代は映画館に足を運ぶことが映画の原体験だろうし、下の世代はすでにサブスクで観ることが当たり前なうえに映画以外の娯楽が充実しているからそこで「物語」に触れることも多いだろう。

けれど、私は午後ローやら洋画劇場やらで大作映画を観るというのが、もしかすると映画館で映画を観るよりも先立って映画体験としてあるやもしれず、このシーンにあるのはそのノスタルジーを刺激するものだった。

なのでまあ、このシーンだけでお釣りがくるくらい良かったのでそこまで文句もない。だけれど、まあメタ構造にメタ構造を重ねすぎてちょっとくどいかな~とか、兄貴の幽霊の突拍子のなさとか、意図的な演出だと分かっていてもアクションシーンのしょぼさはまあちょっと退屈と言わざるを得ない。もはや覚えている人も少ないだろうが「カメラを止めるな」の序盤の退屈さに似たあれ。それが前振りだとわかっていて、後からその真意が分かったとしても感じた退屈さ自体は減じないわけで。

あとちょっと異世界転生…というより悪役令嬢転生ものと似た感じもありましたな。「これ進研ゼミでやった問題だ!」というアレね。

 

で、次に観たのが「鶏の墳丘 Chicken of the Mound

思ってたのとだいぶ違った。少なくともルックはもっとソフト(それこそレッド・タートルみたいな)なものを想像してたんですけど、ちょっとエッジがききすぎていやしないだろうか。ハードコアすぎるでしょこれ。

上映後のトークでシー・チェン監督はCGクリエイターとしては我流でそういう意味で熟達しているわけではないといったようなことが言われてたのだが、それがゆえであるのかどうかはわからないものの、そのシンプルなテクスチャの質感や基調となる色彩の設計などはどこかユートピア的な静謐さや優しさを醸し出していて、そういう意味ではソフトではあるのかもしれない。無論、そこには反語としてのディストピアがあるわけだけれど。

まあ、この映画を無理やり(と言いつつも監督の中では一応決めてはあるのだろうが)ジャンルとして括るのであればSFであろうから、私の感じたソフトなユートピア感も遠からずといったところなのではないだろうか。

「人造人間ハカイダー」やら伊藤計劃の「ハーモニー(文庫版)」の印象を自分が強く抱いているから(特に後者)、あるいはそれ以前からの「白さ」の持つ欺瞞(「白々しい」)といったこれまでの創作物の反復によるパブロフ・ダァッグな半ば反射に近い反応でもあるのかもしれないが。

シー・チェンが中国ルーツであるということを考えると、どうしても「赤」に対する「白」を連想してしまうのは無理からぬ話ではあるまいか。

 

と、こんなことを書き連ねておきながらちゃぶ台を返すようだが、そんなものはほとんど後付けで、実際に観賞中はもっと酩酊したような感覚に陥っていたと素直に認めるほかにありますまい。

上映後のトークでは中国当局の検閲を回避するために物語を細分化(というか裁断)しまくったとか、そういう話をしていた。もし検閲を考えなかったとしたらどうなっていたのかはわからないけれど、少なくとも今回上映されたこの映画にはおよそ物語と呼べるような分かりやすさはない。と言っていいだろう。

スクリーンに映し出されるのはひたすら記号的な……というよりむしろ純粋な記号そのものの連なりだ。その意味において、これは一周回って物語を必要とするものではない原アニメーション的(そういう意味でもイメージフォーラムでやりそうなアニメではある)ですらある。

物語はない・記号の羅列とは書いたものの、明らかにメタファーとして描かれている描写が多々ある。侵略戦争include兵器、スマホによる(ディス)コミュニケーション、生殖、工業製品(特にフィギュアっぽいアレ。そもそもがメカ娘っぽいんだけど)…etc。どこか間の抜けた、ビデオゲーム的な(CGという映像手法も含め)SEのサウンドデザインもそうだろう。ていうか弾幕ゲーみたいなシーンあるし。

物語はない。んが、一方で映像にはしっかりと(こちらが汲み取れきれなかったものも含め)意味がある。いや、意味しかないというべきだろうか。

けれど、メタファーがメタファーとして立ち現れてくるよりも先に、記号としての記号性が強烈に機能するがゆえにメタファーによってもたらされる「意味」を無化してさえいる。それでも観客はそこにメタファーの残滓を汲み取り、なにがしかの意味を見出そうとする。

それは上映後トークの言葉を借りて「裁断された物語」の例えと使うと、一度シュレッダーにかけられた文書の紙片を集めて文章を再構成して読み取るような(「アルゴ」~)徒労感を観客にもたらす。観た後の疲労感は徹夜明けだとか二本目だからという以外にもあるはずだ。

そして、いかにもCGであることがもたらすゲーム的な箱庭的世界観、一つ一つのオブジェクトの情報の少なさ(作りこまれていないという意味ではなく)は、それが強烈な記号であるがゆえに現実ほどの情報量を持たないにもかかわらず現実世界を映し取る。もちろん完全に再現された電脳空間ではなく、現実世界から変数を減らされた仮想空間でしかない。この映画は、なんというかVRチャットをやっているときのような、あの形容しがたいノスタルジーにも似た既視感・寂寥感と通じる。

CGではない(まあ画面に現出した時点でデジタル化されてるんだけど)ドローイングの絵画がむしろ映像上ではマテリアルとしての異質さを帯びるのは、奇妙に思いつつそこに僅かなよすがというか取り付く島を見出して安堵する。

ぶっちゃけ、これは映画館で観ないと絶対に通して観る気にならないと思う。ずっと向き合い続けるにはあまりにも無間地獄めいていて、「映画を観る」という行動のみに制約される劇場という空間でないと中々キツいものがある。タルコフスキーとかああいうのともまた違うし。そういう意味ではやはり劇場で腰を据えて観るのがベストなのではないだろうか。

 

「スキップとローファー」の合小都美さんの上映後トークは、時間が短いこともあってあまり突っ込んだ話にならなかったのが惜しいが、まあどのみちあの時の小生のメンタルスタミナを考えると小難しい話されても頭入んなかっただろうけど。

アーバンゴシック(そんな言葉はない)としての傷物語

三部作版の傷物語が公開していた当時、そもそも私は物語シリーズの視聴から離れていたし公開型式が分割だったのであまり食指が動かなかったのだが、なぜ今になって観ようと思い立ったのか。正直自分でもよくわからない。

去年の夏だったかに1期の再放送をしていてそれを回顧目的で観ていたからか、それにつられてOP・EDのアルバムをヘビロテしてセルフパブロフの犬をしていたからか、はたまた物語シリーズにさして興味のない友人がなぜか再編集前の分割公開されていた傷物語を完走していたことをふと思い出したからなのか。

アニプレックスがまた物語シリーズのアニメを企てているっぽいからというミーハーな理由ではないということは言えるのだが、深夜アニメに対して当時に比べてニュートラルな視点に立ち戻りつつあるからというのはあるかもしれない。当時の私は今とは比べ物にならないほどへそ曲がりだったので。

などと至極どうでもいい前置きを書いたのは、ひとえに「物語」シリーズに対する距離感を自己確認しておきたかったからだ。
物語シリーズに限らずゼロ年代に話題になったラノベ系アニメに対しては少なからず思うところがあって、それが主に懐古趣味的な評価軸に寄ってしまうのではないかとちょっと危惧していたので。

まあ杞憂だった。テレビの物語シリーズの手法は知っていたからめちゃくちゃ驚くということはなかったにしても、それにしてもかなりハードコアな映画で、にもかかわらず昨今のAI出力に負けそうなよわよわ定型キャラクターを雁首揃えて縊ってしまえそうなキャラクターの描写など、でかいスクリーンで観れてよかったと思える怪作だった。

化物語の手法を地続きに援用しながら広義のルック・サウンドデザインを大幅に変えているのが傷物語の大きな点で、まずもってワイドな画面を目いっぱい使ったショットのレイアウトの多用はテレビシリーズではやらないだろうし、インタビューを読んで改めて気づいたのだが物語シリーズなのにモノローグやナレーションがないということ。無論、あれだけ多用するのが異質とまではいかないまでも明らかに物語シリーズの特色としてあるにもかかわらず、それは使っていないというのは中々新鮮というか。

だからこそ物語シリーズとしてではなく一本の映画として違和感なく観れたというのはあるかもしれない。

元々が三部作だったのを一本にまとめたものであることから、違和感こそないもののやはり幕ごとの空気感は結構違っている。まあパンフでも言及されているのだがやはりこの映画の一つの大きな要素としてロケハンは欠かせまい。

実際にある場所をフォトリアルなCGの背景として継ぎ接ぎにした結果、レゴやトミカワールド的な、もっといえばゲーム的なある種の箱庭世界を強烈にイメージさせ、その箱庭世界からメインキャラクター以外の存在を排斥している。
これ自体はテレビシリーズのときから使っている手法で、モブ的な物体(人や車両)を明らかにメインキャラクターと位相の違うものとして描きだしていたのだが、本作においては既述のようにフォトリアルのCGとそのアーティファクトの選択と色彩設計がよりその印象を強めている。
有り体に言うと、90年代後期~ゼロ年代前半の黒沢清的な閉塞・破滅的な世界を想起させる。羽川パートはあんなきゃぴきゃぴしていて(羽川がテレビシリーズより数段かわいく描かれている)、「逆によくそこカットしなかったな」というパンチラなど、時代錯誤といってもいいこてこてなラブコメっぽいパートから急転直下するのだけれど、しかしやはり二人がそんなベタなやりとりを繰り広げている中で憮然と佇む工業地帯の建物やその色味(そもそも冒頭でかなり不穏なパートを先取りしているというのもあるが)が、そういった黒沢清的な世界(=暦の世界観)の破滅を予感させる。そこからさらに地下鉄の駅の豪奢で煌びやかなエスカレーターシーンのすわシャイニングかと言いたくなる不穏さからキスショットに血を吸わせるシーンまでは前半の白眉と言っていいだろう。

特にキスショットが血を吸うシーンは本当に陶然とする場面で、もはや「吸血鬼」というものが属性としてのみ雑に扱われがちな日本のアニメ界隈にあって、その本質として吸血鬼という存在が放つゴシック・幻想的エロティシズムが活写されていてヤバイです。これは私の所感なのだけれど、このキスショットの持つエロティシズムがレ・ファニュの「カーミラ」的な百合百合したものではなくドラキュラの男性的エロスであることが何気に凄まじいことではないかと思うのです。あれだけ女性的(ステロタイプな)記号を担わされているにもかかわらずそう見えるのは、キスショットを吸血鬼として真摯に描いたからこそ、そういった性別越境的な「吸血鬼の魅了の力」が生じたのではなかろうか。

第二幕のヴァンパイアハンターたちとの戦闘は普通にそれ自体として楽しいし、特にエピソード戦の音楽や普通にグロい描写など(まあ神原戦でもっと派手なことやってるけど)諸々含め飽きないし中だるみしないのは流石。

で、第三幕のVSキスショットなのだけれど、その前に彼女がやはり怪異なのだということが示される(露悪的な)シーンも結構ドぎづい。
これは物語シリーズの特色で、二次元上のマテリアル(テクスチャなども含む)の差異がもたらす異化効果がここでも発揮されているのだけれど、それにしても生首の物体感はちょっと異常。

この辺からVSキスショットのやりすぎ戦闘シーンなどはもはやスプラッター映画然としたギャグめいており実際に私は何度も笑ってしまったのだけれど、監督は割とマジだったらしく、だかこそ笑いに転じてしまうほどの場面になったのだなと。

実際、キスショット戦のアニメーションは作画の凄まじさもさることながら「不死身性」を持った者同士がつぶし合ったらこうなるというアイデアも豊富で、めちゃくちゃ楽しい。それがオリンピックの競技を模していたり、マジで当時の解説音声をぶちこんできたり好き放題やっているのだが、国立競技場というロケハン、および作品全体を60年代高度成長の日本建築で固めてきたこと、およびあのED曲からもわかるようなバッドエンドテイストが、東京五輪というクソみたいなイベントを通過した今振り返るとほとんど社会風刺的な様相を帯びてくるのが面白い。もちろんこれは偶然でしかないのだけれど、60年代日本の負の遺産が思いがけずフィルムに現出してしまった時代性は、まあ遅きに失したということもできるのかもしれないけれど、まさか箱庭化された物語シリーズにそんなものが写し撮られるとは思わず、かなりびっくりした。

2023/12

「好きだ、」

この映画好きかも。Wikipedia見たら石川寛監督これ含めて3作しか映画撮ってないんですな。年の割にはあまりに寡作すぎる。どうでもいいがちょいちょい清涼飲料水のCMっぽいカットがあると思ったらビタミンウォーターのCMとかやってた。

 

見ようによっては「害虫」の続編じゃないですかねこれ。というより、ティーンの宮崎あおいの醸し出すあの筆舌に尽くしがたい存在感からこっちが勝手に読み取ってしまうのかも。とはいえ、姉の事故を間接的にとはいえ引き起こしたのユウだと考えるとやっぱり「害虫」じゃないかと。

 

それにしてもディスコミュニケーションな映画である。

基本的にはユウとヨースケの二人の話として完結している。にもかかわらず、コミュニケーションが絶妙に成立していない。というより、ディスコミュニケーションが成立してしまっているというべきだろうか。

二人のディスコミュニケーションの仲立ちとしての存在がユウの姉なのだろう。ほとんどそれを発生させる装置あるいは機能そのものとすらいえるのではないかとすら思える。

ユウと姉との掛け合いは、それ自体が少ない上にどこか説明的。姉の過去の出来事によるところがあるのかもしれないが、むしろ話題の中身(きっかけ)がヨースケを中心としているところにある。

その上、ヨースケにしてもユウにしても二人の会話の話題はほとんどがユウの姉を経由している。

二人の(ディス)コミュニケーションは明らかに空転しており、その間を埋めるように都度都度に渡って空模様がインサートされる。しかも、全体的に暗い色調でありながらも空模様は実に多様。それが直接的に心象風景を表しているとは思わないが、それでも何かを読み取ってしまう。

基本的に二人のやりとりは土手で交わされる。常にその背後には空が横たわっており、もどかしく「空」々しいユウの(自己)欺瞞の下に潜む本音を白日の下に晒してくれる。学校での二人のやりとりが土手のそれよりも遥かに明らかに白けているのはそこに空がないからだ(もっとも、真に二人が向き合い、まさに太陽に向かっていくのはエンドロールの映像でなのだけれど)。かように、空は本作における重要な意味を成す。

とはいえ、空疎な姉との会話に比べてユウがヨースケと話してる時は生き生きとしたエチュード的な趣さえあるわけで、だからこそ彼女の言葉・ヨースケに対する自己欺瞞による思いやりが痛切に伝わってくる。

それに対して高校時代のヨースケはそんな空疎なユウの姉に対して好意を持っている(17年後の彼のセリフから考えるとこれはブラフでむしろ彼すらもユウの姉を媒介していたのではないかとすら思えるのだけれど)。

理由は分からない。単に色気づいてきた(17歳でそれは遅いけど)思春期男子が年上の女性に憧れているだけなのか、ヨースケの中に潜むある種の空っぽさを空疎な彼女に見出していたのか。

ユウの姉は空疎であるがゆえに何でも受け入れてしまうのだから、そこに何かを勘違いしてしまうのも無理からぬ話ではあるのだけれど。ユウに言われたからって普通は行かないだろうし、ユウの(ヨースケの)鼻歌に対する言動も浮薄だ。まあそれは隙を見せたユウが悪いのかもしれないけど(笑)。

まあ、だからユウも姉を介してしかヨースケと意思疎通できないのだろう。

ことほどさように、それぞれの人物がそれぞれと向き合うことができないていない。

それは不自然なほど正面からだけで完結するしっかりとしたショットがほぼないことにも通じる。それっぽいバストショットがあっても、極めて照明の少ない(というか使ってない?)部屋だったり、どこかかぶいた姿勢だったり半身だったりする。

それこそ、意図せずに本質に直面した(させられた)のはヨースケがエロ本買った時くらいじゃなかろうか。そこからの匂いのくだり。

姉を介してしか(まあ匂いのくだりも姉なんだけど)接することができなかったユウに、ヨースケの本質に向き合いきることはできなかった。

それから姉の事故があり、二人がやりとりをすることが亡くなって17年が経過する。さもありなん。

この後半パートでは主観が交代する。高校時代では観客はユウの立場から世界を見る。17年後ではヨースケの立場からになる。それはモノローグからも明らかで、ことことに至ってようやく双方の矢印を把握するわけでござんす。

だからこそ、二人の一人称を通過してようやくあのエンドロールに至る、という流れは綺麗に収まるところに収まったといえる。まあ西島秀俊が刺されたときは「やっぱり害虫じゃねえか!」と思ったりもしたんですけど。にしても、17年後のユウに永作博美をキャスティングしたのは我が意を得たり。以前から宮崎あおい永作博美は雰囲気とか笑い方とか似てると思ってたので、それが勘違いじゃないということが認識できたよかった。虎美のくだりはいらないっていうか、ヨースケも事故の方が因果応報というか因果を回収した感じでそっちの方が収まりも良いしくどさも目減りしたと思うんだけど。まあ無粋か、それは。

あと最後にタイトル持ってきてもいいと思うんですけどね、これ。ついでにタイトルに含まれる句点はたぶん藤岡弘、のそれと同じ。

 

キャストの妙と編集(あと照明とか)のおかげで妙なリアリズム持ってるけれど、現実はこんなロマンティックな展開はありえないので好きな人にはちゃんと好きと伝えましょう。

どうでもいいがクレジットで西島秀俊永作博美の下が瑛太なのカワイソス。

 

「ドゥーニャとアレッポのお姫様」

日本の深夜(に主に放送されている)アニメばかり(といいつつ夕方アニメもそれなりに)見ていると、こういうシンプルなキャラクターデザインのアニメを観ることがかえって新鮮に思えたりする。

もちろん、ショートアニメなんかでは日本でも現在進行形で放送してるし「すみっコぐらし」の劇場版なんかもあるので、まったく見かけないというわけではないのだけれど、極めて「キャラクター」化された国産アニメのそれに比べると、この「ドゥーニャ~」におけるキャラデザ(を含めた背景などの美術全般)のシンプルさというのは、むしろアニメーションの原初的な面白さみたいなものに寄っているように思える(イメフォがやりそうなアレ)。

などと書いておきながらこの「ドゥーニャ~」はテレビシリーズでありすでにシーズン2まで作られているという。そもそも本作は総集編的色合いが強いようだ。

おもっくそキャラクター化されてるじゃねーか!というセルフツッコミは棚に上げて続ける。

いや、アニメーションの感じがアダルトスイムとかあそこらへんで観る(ていうかR&Mとか)感じだったので、薄々感づいてはいたのだが、キービジュが「ブレッドウィナー」とか「ソング・オブ・ザ・シー」みたいな感じだったので……。

 

ところで、アニメーションとは世界を一から描く(創る)ことである、というのはよく言われることだが、だとするならばそれは実写以上に作り手の世界へのまなざしが映像に反映されるということになる。

であるとすれば、本作において作り手が世界に向けるまなざしはやはり「やさしさ」だろう。無論、シリアの現状を割と普通に描いている(というか本筋はドゥーニャ一家が難民になってカナダに移住するまでの話なので)のだが、それをファンタジー(虚構)によって下支えすることで文字通り「励まして」いる。

そこに現実を見出そうとする(ある種の残酷さを伴った)リアリズムはない。その点で「ブレッドウィナー」とは異なっている。

たとえば最序盤、食事の用意に際しテーブルの上に料理の盛られた皿を置くシーン。あのさりげないリアリティの欠如、現実に肉薄しようとするアニメーションの方向性(それは作画の良さとパラフレーズしてもいいかもしれないが)とは違う。本来そこに伴う物理法則のなす無慈悲さのようなものがない。

いや、正直なところ「パンズラビリンス」的なアレを疑ったりもしたのだけれど、ニコイチの石像の完全なるファンタジーがドゥーニャのフィルターを通していない(はず)のだからその考えは棄却できるだろう。イシュタルの加護のようなものがあまりにも自然に具現化するのも、じーさんの光に包まれたあの描写にしても、それはこの映画が根っからのファンタジー(の視線)でできているからだ。

この感覚は絵本を読んでいるときのそれに近い。

 

単純なキャラデザではあるけれど、しかしドゥーニャの髪に込められた寓意はめちゃくちゃスケールがでかい。彼女のもっさもさの黒髪には、彼女の名前が指し示すように世界=宇宙が内包されている。もちろん、あの無数のこまごまとした白い斑点は髪の毛の艶表現でしかない。おばさんにもそれがあるように。

しかし、彼女の母親から受け継いだその髪毛は、夜の名を持つライラの髪の毛を宿したドゥーニャ(世界)=の髪の毛にこそ表象される。そして、ある意味ではこの世界にファンタジーを彩っているのは彼女の想像力それそのものだということすらも暗示している。

これが私の妄言ではないと確信したのは、やはりキービジュにおける描かれ方だった。2種類のキービジュのうち、どちらともからそれは読み取れる。

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まあ変に大仰なこと書きましたけど「ナスのジャムを作るのに一晩月の光で焼く」とか「満月の夜にピスタチオの殻が開く」とか言い具合にポエティックなセリフがあってよござんす。

「持ちましょう」→「めちゃくちゃ重いっ」の流れとか地味に笑える部分もあるし。

もし国内でもテレビシリーズをやるなら観たいかな。

 

マン・オン・ザ・ムーン

ミロス・フォアマン監督か。にしてもこの映画、すげぇ怖いんだけど。

話としてはオオカミ少年のそれと同じ。あるいは、藤子・F・不二雄とかミステリーゾーンとかそういう系譜に連なるのだろう。

それにしてもこの時期のジム・キャリーの作品選びというか、彼に向ける大衆の視線(を利用した作り手の作為)というものがどういうものだったのか、「トゥルーマン・ショー」と合わせて考えると中々えげつない気がする。ジム・キャリーはたしか双極だったと思うのだが、さもありなんというか。

ほとんど脅迫症的に現実を茶化そうとする営みは、本当に癌だと発覚した後ですら往年の女優を死から生還させるというショーを披露してみせたときに極を迎える。

所々でアンディの死に対する恐怖の吐露(スピった怪しい施術も含め)も、それまでのすべてが彼による作為であることを見せつけられた観客にすら本心なのかどうかと猜疑心を喚起させる。

この映画がエンドロールから始まり、そのエンドロールすらも茶化すことから始まり、その映像がかけられながら彼の死によって完結(死に顔のトランジッションがまたゾッとする)する。まるで虚構のアンディが現実のアンディ(の死)を茶化すように。

幼児期のアンディが壁に向かって芸の練習をしていたのも、「トゥルーマン・ショー」で最後に壁の向こう側へと越境したトゥルマン(ジム・キャリー)のことを思うと、そこに現実と虚構の彼我のボーダーを見出したくなる。彼は結局、虚構の中でしか生きられない人間だったのだ。父親に言われて人の目の前で芸の練習をするにしても、妹を自分の部屋に連れ込んで見せるという「壁」の中でこそ行われるわけで。

ある意味でこれはコメディアン(アンディ的にはそう呼ばれるのは好ましくないのだろうが)の「現実(の出来事)を茶化す」という営為…レーゾンデートルのまさに体現なのではないかとすら思えてくる。

サウスパーク」と違ってアンディ・カウフマンは現実の真っただ中にいながら現実をパロディ化するという空恐ろしい無間地獄のような戦いを挑んでいた。

トゥルーマン・ショー」を含めメタフィクションの構造を持った本作だけれど、散々書いてきたようにこれはアンディ=ジムの切なくなるほどの必死さ、家族にすら疑われるほど現実に抗うその姿に胸を打つ映画なのでは。

 

「回路」

 

2023/11

マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙

はたしてサッチャーを人間として描くことに意味があるのかどうか、というよりも少しとっ散らかってしまっているような気がする。

たとえばそれが男性社会へコミットするための過剰適応の産物としてのアイアンレディなのかとか。

黒いスーツの中で揉まれるスカイブルーのスーツ。女性の視点から描かれる「異性だらけの空間」の恐ろしさ。そこをもっと突き詰めればあるいはフェミニズム的にもっとうまみのある映画になったのだと思うのだけれど。

カット割りで鏡に写る老いた自分の不意打ち感とか、良い感じの演出はあったのだが。それ自体がまあ、セクシズムとルッキズムの合わせ技一本を内面化させられているという批判もアリだろうが。

幼い息子に対するあの不可思議なノスタルジー描写はなんなのか。娘は普通に出てきてるし、まるで死んだような扱いの息子だが、別に死んでるわけではないらしいのだが。これ、やっぱりサッチャーを母親として描きたかったのかなぁ。デモの人から「母じゃなくてMONSTER」とか言われてたし。まあそれは考えすぎか。

幻聴・幻覚パートってあれサッチャーは晩年そういう感じだったとかってことなのだろうか。存命中に公開したってのがちょっと面白いんだけど、日本に置き換えて考えるとまあこういう映画が作られるということ自体がちょっとうらやましい。

日本で単独の政治家を扱った劇映画ってあっただろうか。しかも存命中に、本人として。ま、それが日本の弱さってことなのだろうけど。

それはそうとサッチャーに必要だったのはウーマンスなのではとこの映画を観て思ったり。それに一番近接していたのは娘だったが、なんか絶妙にサッチャーに作用を及ぼさない距離に留め置かれてるのがすげぇもやもやする。

しかし保守党が女性を、というのが面白いなぁ。

 

蒲田行進曲

なんとなくメタな話だなーと思ったらマジでメタな話だったという。

そう考えると明らかに印象表現(天候の変化とか)なんかも少し見方が変わってくる。ちょいちょいメタなアングルを意識させるカメラワークがあったりしたので「もしかして」という匂わせ自体はあったからびっくりと言うよりは得心。よく考えたら総出で出迎えるというのおかしな話だし。

それはそれとして人情ものとして普通に面白かった。しかし、それをあえてこういう構造で描いたところに作り手の恥ずかしさみたいなものをちょっと感じたのだけれど。それは深作の自意識なのだろうか。

 

「パウパトロール ザ・ムービー」

地上波でたまたまやっていたから観た程度のにわかもにわかでテレビ放送のシリーズの方は追っていないのだけれど、ニコロデオンということで要するにアメリカのアニメだということは先刻承知していた。というか、玩具界隈の情報をそれなりに追っているので玩具方面からはその存在は認知していた。

メリケンらしくでかいものから小さいものまでそろえているあたりの資本力はさすがといえる。

で、本編についてなのだけれど、設定がいまいちピンときていない。まあこういうのに細かい設定を求めるのはお門違いというものなのだろうけど、ケントだけは正直謎なのだ。身寄りないのかなんなのか…レスキューチームの人間は彼一人だけなのが。あと本国版の声優事情はよく分からないのだけど10年で3人が彼を演じているというのがちょっと日本だとない感じで驚いた。

しかしこの辺の余談ばかり拾ってたらあまりにもアレなので少しは真面目に話すが、テレビの方をちょっと確認した感じだとさすがに今回の劇場版ほどのクオリティではなくて安堵したというか。さすがにテレビの方はチャギントンくらいの作りこみだったので、流石に週間であのクオリティだったらやばいよな、と思ったので。

まあ同じCGアニメだとメカアマトとかは頭一つ抜けてるけど。

これがどういうコンセプトで立ち上げられた企画なのかは知らないが、見たまんま受け取るのであれば犬(カワイイ)+ビークル(かっこいい)の超わかりやすい足し算の図式である。メインターゲットはおそらく男児なのだが女児にも訴求したいというころのなのだろうか。

単純だがそれゆえに効果的ではあるかもしれない。なんだかんだで10年選手のアニメだし。

しかし、まあこれはこのアニメに限った話ではないのだが、犬だけが人間と同様の知性を与えられている(なにせ話す上に乗り物を乗りこなしあまつさえ人命救助にあたるのだから)一方で、ほかの動物はその一線を越えはしない。劇中で登場したほかの動物だけで言っても亀と猫がそうだ。どうでもいいけどニコロデオンで亀となるとタートルズを思い出すのだが、まあ関係はないだろうデザイン的にも。

もちろん、犬と人間は進化の過程においてほかの動物にはない双方向的な作用を及ぼしてきたことを考えれば、犬をほかの動物よりも人間側にコミットさせた存在として描くことは理解はできる。犬と見つめ合うとオキシトシンが分泌されるくらいだし。

気にかかるのは本作における猫の扱いである。どう見ても猫派と犬派の対立煽りだろこれ。

パウパトロール面々の、というか市井の人々の民意を蔑ろにして放縦な振る舞いをしてみせる市長が猫をたくさん侍らせ、その猫たちの高飛車もといお高く留まった感じなどは明らかに対比的である。「007」を筆頭に、というかそれとあとはポケモンくらいしか思い浮かばないが悪の組織のボスキャラはイスにふんぞり返って猫を撫でているというイメージがあるのだが、本作はその人口に膾炙した(してるのか?)イメージを明らかに引用している。

日本における猫の扱い、とりわけ女性作家が描く猫とはまた違うというか、なんだか犬と猫を巡る(個人的には猫の取り扱いが凄い気になるのだが)創作における表象というのは一考の余地がある題材なのではないかと思ったり。

話自体は犬の主役であるチェイスがある種のトラウマと乗り越えるという話で、オーソドックスな作りで特筆すべきことはないのだが、犬のくせに嗅覚の性能がオミットされるあたりの擬人化と言う名の作劇の都合に合わされる感じなどは、特権的地位を与えられることでむしろ種としての性能に枷をかけられているというなんだか奇妙な犬たちの描かれ方に面白みを感じてしまうのだが。

これ、テレビシリーズの方だとほかの動物はどうやって描かれているのだろうか。

 

大統領の執事の涙

なんというかこう「それでも夜は明ける」をどうしても想起してしまったのだけれど、これ公開時期見たら同年だったので驚いた。

個人的には「それでも~」の方が好きというか技巧を凝らしている感じがあるのだが、こっちもこっちで悪くはない(何様だ)。

座り込み運動のシーンなどは瀟洒ホワイトハウスに整然と並べられた白いテーブルとカトラリーと白人、そのサイドに立ち並ぶ黒人の執事とファミレスの椅子に横一列に並んで座る黒人のカットバックによる対比は見事だったし。

そこには当事者として白人に殺される恐怖を実体験として知る大人であるセシルと、それを知らないわけではないがそれでもなお蛮勇的に旧態依然とした制度に抗おうとする息子ルイスとの世代的な対比。このあたりの親子の確執というのが後半まで残るのだがお互いを認めるというよりは互いにそれぞれの道を突き進んだ先に合流(まあセシルが折れた感じはあるのだが)し、その合流地点が拘留所というのはクスッと来るあたりである。シーンの切り替えも上手い。

 

ジョンソン大統領の描かれ方のひどさはそのまま評価に直結しているというのはわかるが、それにしてもいいとこなしで笑ってしまう。

あとグロリアの顔をどこかで観たと思ったらオプラだった。

 

「いちご白書」

相変らずNHKの現場スタッフは世相を見ながら作品チョイスしているなぁ、という。

しかし、学生ストを描いたこの映画を日本のウィキではアメリカン・ニューシネマの一つとし位置づけているのだが(編者の主観が多分に含まれていることを前提に)、しかし本当にそうだろうかとかなり疑問を持ちつつ、同時にそれらの映画が本質的に持つモラトリアム(の終点に対する抵抗)の反映と自己陶酔感を浮き彫りにしているような気がする。

それは大雑把に括ってしまうなら青春だろうか。アメリカン・ニューシネマとは成熟を否定し、死によってその青春を永遠に延長することにあるのではないだろうか。

この映画がその政治的主張よりも部活動や恋、それにかかわる人間関係による喜怒哀楽を描いていることでそれが如実に示されている。

冒頭の厭味ったらしい文言にしても、そこにはともかく怒りが先行した文面になっている。事程左様に、これは政治的主張をガワにした青春映画なのだ。カートで坂を下るシーンに象徴されるように。

これに比べれば「旅立ちの時」の方がよほど政治的な映画だろう。