dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

続・消化録

てなわけで見たものを整理

まずWOWOWの「ザ・ウォーカー

アポカリプスもの。ウォーカーなんていうからゾンビ映画かと思ったんですけど、別にそんなことはなかった。デンゼル・ワシントン主演でジョエル・シルバーが製作ということ(デンゼル・ワシントンも製作に加わっている)でそこそこ期待していたんですが、まあ可もなく不可もなくといったところでしょうか。

紀里谷和明ザック・スナイダーを足してジョエル・シルバーで割ってラノベかマイナー漫画をかけたような作品で、画面の色調とかコミックを置き換えたようなアクションとかまさにそんな感じ。

ぶっちゃけ中途半端に地に足つけたような設定にするんだったら聖書にスーパーパワーを持たせて悪魔なりモンスターなりを動員させてローファンタジー路線にすりゃもっとよかった気もしますが、絶対に予算足らなくなるだろうな、うん。公開されたものでさえ予算の都合を感じさせていましたし。

まーでも、そうしたら「サラマンダー」になってしまうか。あれは2002年の作品にしてはCGも頑張ってたし結構好印象ではあったっけ。チャンベールとかマコノヒーとか大物も出てたり意外と侮れない。

いや、バカ映画なんですけどその「バカさ」によっかかって開き直るようなことはせずしっかりと画面は作りこんでくれているので見ごたえはありますからね。

といっても、なんの変哲もない現代の街の地下からサラマンダー復活→人類数十億単位で死亡。という、舞台を作るための理由はバカバカしいにもほどがあるのですが。

なんか「サラマンダー」の話になってしまった。

まあ2千万ドルも制作費が「サラマンダー」より上ならもうちょいがんばれただろう、と。

 

「ウォールフラワー」

ウォーカーの流れで地上波をまわしたらフジテレビの「ミッドナイトアートシアター」なる番組枠でやっていたのでそのまま観賞。次回の放送が12月ということから、おそらくは月一の枠なのだろう。

どういう映画かまったく知らなかったのですが、エマ・ワトソンエズラ・ミラー(たぶんジャスティスリーグの公開に合わせたんだろう)が出ていたのでとりあえず観ることに。開始10分以上が過ぎていたのですが、まあ話を追っていくことはできたのでセーフ(何がだ)。

エズラ・ミラーは意外とやんちゃらしく、バロウズみたいな思想を持っていたりクィアを肯定(それ自体はともかく、「当事者の時代」における日本人的な思想に裏打ちされていそうなのが・・・)していたりと割とダークな部分がある。だからファンタビであの役だったんでしょうが、その美貌(個人的にはイケメンだとは思いませんが、星野源に系統は似ているやも。)ハガレンコスプレや自費で日本滞在を引き伸ばしたりということから日本人ファンを容易く懐柔してしまった。

マリファナ関連の発言はまあ、映画の役に入り込んだからといえなくもないかもしれないけど。

あとエマってどの映画でもやたらと胸元が空いてるシャツばかりな気がするんですけど。

そんなエズラエマ・ワトソンが義兄妹役ということで、エロ同人ばっかり読んでいたり深夜アニメばかりみている不逞之輩は変なことを考えそうな設定ですが、どっこい本作の主人公はローガン・ラーマン演じるチャーリーという冴えない影のある少年が主人公なのですな。ローガン・ラーマンはホントにまったく知らなかったんでウィキってみてもやっぱり知ってる作品はなかった。

けど、役柄には結構ハマっていました。

内容としてはまあ、チャーリーの背負ったトラウマを義兄妹とその仲間との青春を通じて超克するって感じです。原作小説を書いた原作者が監督ってことで、どんな感じかなぁと思って観ていましたが、まあ所々好きなカットはあったけどそこまで胸にくるようなものではなかったかな。

よく言えばテンポが良くて、悪く言えば端折りすぎ。「映画監督でもある」小説家ということですが、「ザ・サークル」と同じでどうもメディアの置換に際して最適解を選んでしまったがゆえに佳作になってしまっているような。

103分だし。

エズラがゲイ役だったりとか、まあいろいろ見所はありますが。

 

で、イーストウッドは「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」。

両方とも130分という二時間超えの作品なのですが放送枠は115分でcmが15分以上あるので実質100分あるかないかというところ。だとすると130分前後の映画の30分以上も本編がカットされているということなので、やはりBSプレミアムは偉大なり。

それでも両方とも普通に楽しめましたが、相変わらず教科書的な話の運び方や撮り方をするというか。

ミスティックリバーは大学の授業の中でイマジナリーラインがどういうものか、ということの参考資料として見せられたのは覚えていたんですが、全編は見たことがなかったのでこんな感じだったとは思わなんだ。

すべてを計算した上で淀みなく感情移入させ淀みなく泣かせ淀みなく映画に没入させる。ミスティックリバーで言えば敵という敵はおらず、すべてを過去の因果に集約させることに力動が働いているために真犯人の処理の仕方が実に簡素で作法的な気がするし、ミリオンダラーベイビーの方ではむしろ敵を明確にしていたり。

なんていうかこう、映画の生理のようなものを掌握していてあとはそれを道筋立てて整理しているというのがイーストウッドの作品に関して毎回感じるものなのですが、今回もそんな感じで泣けそうで泣けないんだけど、実はそのボーダーを部分的に壊しているんじゃないかなぁと思ったり。

 

どうでもいいんですけど、すごいちょい役にマイケル・ペーニャアンソニー・マッキーがいた。ペーニャにいたってはセリフすらなかった(カットされたのかもしれないけど)り、アンソニーMCUでファルコンやっているとは思えない弱い者いじめするようなボクサーだったり、どうでもいい部分に目がいったりもした。

大いなる西部

傑作である。

順位をつけたりっていうのはしてないんですけど、今年観た映画の中でベストスリー。どころか、生涯ベストに入るかもしれないってくらい。

監督は「ローマの休日」「ベン・ハー」のウィリアム・ワイラー。テーマ曲はジェローム・モロスで、おそらく何かしらで一度は聞いたことがあるであろう有名なテーマであるわけですが、劇中での使われ方はかなり皮肉な気がするんですけどね、ラストを除くと。この間オードリー・ヘプバーンのドキュメントがNHKでやっていて、出世作である「ローマの休日」関連でちらっと彼の名前も出てきたのですが、フィンチャー並にリテイクするらしく、当時の現場を知っている人が「やりすぎだよ」と臆面もなく言ってのけていたのが笑えるのですが、「マキシマムスリー」だか「サードマキシマム」だか「カッティングスリー」だか忘れたけど「役者が最も演技力を発揮できるのは3テイクまで」という業界的な見方があるらしく、それを論拠にしていた。まあ、普通に考えればわかることですが。

 しかしよく考えてみると、これが個人的に傑作である理由はメインとなるテーマとは若干異なる部分にあるというのが我ながらお笑いである。

そもそもこの映画のピントは、グレゴリーペック(彼の優男な顔つきがすごいピッタリ)演じるマッケイという個人と戦争とレスポンシビリティに当てられているわけで、わたしが一番感動したバックの部分は割と余剰ではあるわけですが、その余剰にすら愛情をもって描いてくれたからこそ私の中で傑作になったわけです。

もちろん、焦点を当てられている部分もすんばらしいです。

 どうしてマッケイは人前で自らの武勇を晒すことを忌避するのか。それこそ妻になるはずのパットに恥をかかせてしまうかもしれないというのに。スティーブ(チャールトン・ヘストンが演じているわけですが、男根・アメリカンパワーの象徴である彼が後半に銃で撃たれて血を流したり、マッケイと虚しい殴り合いをしてたことを考えると結構意味深に見える)にパットの目の前で因縁をつけられ喧嘩になりそうな場面で退いたことがきっかけで二人は別居するのですが、ジュリーに諭されパットがマッケイのもとに謝りにきたところで、マッケイがなぜそこまで人前で勇敢さを見せつけることを避けているのかが明かされます。

「『血なまぐさい争い』が嫌だ」という理由が述べられていたのですが、日本語字幕で訳されていたこの「血なまぐさい争い」は原語ではシビルウォーと言っていました。つまりマッケイは、南北戦争の体験からワンサイドの利益のために動くことの愚かさを知っているからこそ、勇敢さを見せつけるということを避けていたのです。一見すると巨視的で自軍のためという大義があるように見えても、その実は利己的であるというどうしようもない戦争の結果を知っているから。だからこそ、スティーブをヘストンに演じさせたんじゃないのかなと。

あくまで自分の、自分だけの問題として処理したがっているからこそ、人前で勇敢さの証明などという体裁のための振る舞いを良しとしていない。責任を個人に収束させることで全体を救う、ワンフォーオールの精神。そして、本作で描かれる村同士の諍いの集結も個人の闘争の枠に収束させることで決着を迎えます。

両者相討ち。これは、至極当然の、須らく、こうなるとしか言いようのない幕引きなのです。この幕引きこそが、この映画が健全な魂を持つことの証左です。

決闘を、その幕引きを、なんという望遠の俯瞰したショットで捉えていることか。バカバカしさを超えて、それがどれだけ虚しいものであるかを伝えるのに十分すぎます。実は、中盤でマッケイとスティーブが殴り合う場面があるのですが、ここもかなり遠景から撮っているカットが多いです。所々で二人に寄ったカットはありますが、それは本作があくまでマッケイに寄り添っているからであり、そしてそのマッケイの思いを汲んでいるからこそ「殴り合い」という争いを大自然の中の矮小なこととして描き出しているのではないでしょうか。

面白いのが、当初のマッケイのコミュニティである少佐の村こそがむしろ意図的に行き過ぎた行動として描かれ、対立コミュニティであるルーファスの村はむしろ良心的に描かれています。もちろん、先に手を出したのはルーファスの息子たちではあるのですが、被害者であるマッケイは彼らの行動に不愉快さを示しこそすれ復讐などということは考えていません。それに、やりすぎとはいえ確かに度の過ぎたイタズラというレベルで収まらないというわけでもないですから。

むしろ、少佐とルーファスを比較するとルーファスの方がまだ理知的であり正々堂々を重んじていますし、少なくとも卑劣な行いをよしてしていません。それでも最終的に両者が斃れるというところに、この映画が大人であり誠実であることを表しています。

そして、やはりルーファスと彼の愚息であるバックの物語がわたしは最も感動し、目に涙をためていました。

バックは、出番の最初からどうしようもないやつでした。本当に最低で臆病で卑怯でエロ猿な勘違い野郎で、強姦未遂までして決闘なのに先に引き金を引いて、撃たれそうになると恥も外聞もなく地面に転がって、逃げ出して、そのくせプライドだけは高くて卑劣にも決闘で負けたあとに銃で奇襲しようとするゴミクズな人間です。

けれど、救いようのない彼の馬鹿さはときにコミカルでわたしを笑わせてくれましたし、ピエロとしてしか存在できない彼に哀しくも愛おしさを感じました。

何より、彼はわたしたちの写し鏡でもあるのです。そして、そんな救いがたい徒輩を父であるルーファスは撃ち殺します。当然です、バックはまごう事なき卑劣漢であり、こうなることはわかっていたのですから。

しかし、ルーファスは彼を撃ったあとに涙ながらに抱き締めます。だから言ったろう、と。

こんなことは父であるルーファスにしかできないことです。ただただ愚昧で卑近な悪漢でしかない彼を、それでもルーファスは愛していたのです。愛してくれていたのです。そんな人並みはずれたことを、父親以外の誰にできるというのでしょう。

バックの愚かしさは、とりもなおさず我々のうちにあるものです。それでもルーファスは、ウィリアムワイラーは、悪であると叫びながらも愛し抱き締めてくれるのです。

卑俗な悪役として描かれながら、凡百の映画とは一線を画す、愛ある最期を描いたウィリアムワイラーに、わたしはただただ感謝したい気持ちになりました。

バックを愛してくれてありがとう、と。

 

誘惑、そして一シ報いる

 

 クロード・シャブロルの「いとこ同志」という映画。世のマジメくんや私立大学の主に文系学生に見せたい映画ではあったかな(笑)。

50年代のフランス映画ということでどんなアート映画だろうか(偏見)と身構えていたら、意外や意外、普通に面白い映画でびっくり。寡聞にしてこの監督のことは知らなかったわけですが、戦前に生まれてゼロ年代に没しているのでかなりのキャリアがあって、やはり作品数も比例して多いのですが、どれも見たことないという体たらく。かろうじて「石の微笑」は耳にしたことがあってTSUTAYAで借りようとしたこともあったという程度(しかしTSUTAYAに在庫がなく断念)。

そんなクロード初心者(というか大体の映画についてはトーシロ)なわたくしですが、「いとこ同志」はそういうのを抜きにしても全然面白い。

大学で法学を学ぶために田舎から都会に引っ越してきたシャルル青年が、いとこのポールのアパルトマン(まったくの余談だがエルでこの単語を知った)に同居することになるのだが・・・ポールは放蕩の限りをつくし、きっかけさえあれば部屋で乱痴気騒ぎの日々を過ごすような男だった。そんなわけでポールに大学の案内をされるうちにフローランスという美女に出会い相思相愛の中になっていくのですが、最初からポールの部屋にいた親友のクロヴィスことジャンという男の誘惑によって三人(といっても実質はポールとシャルル)の世界に、当初からあった歪みがやがて隔絶へと繋がっていき、あの衝撃の(でもないけど)ラストに帰着する。

演出に関しては光による時間の経過描写やパンで空間を繋いだりする手法などは素直に面白いところではあった。なんとなく、部屋の感じや男女の関係性が伊丹の「ゴムデッポウ」っぽいなーと思ったり窓から覗く景色の感じが「天国と地獄」っぽいなーと思ったりしたのですが、まあ白黒映画で印象に残っているからというだけでそこまでの関連性はないでしょう。

 

まあ、話の流れは途中から読めてしまうんですが、中盤までは本屋のくだりもあって「放蕩の限りを尽くす者は破滅する」的な警句でも伝えたいのかなーと思ったりしていたのですが、まあそんな日本の勧善懲悪ドラマみたいな展開になるはずがなく、かといって「努力が報われない」ってだけじゃあまりに「そんなもんわかっとるわい」という半ば経験則からのヤケクソな不満しか湧いてこないわけですが、さすがヌーヴェルバーグというべきか、感情の流れや伏線の回収がごく自然でかなり上手い。

何よりあのラスト。個人的には予想通りではあるし、そもそも見る人によっては解釈が変わりそうではあるますが、わたしは「真面目な馬鹿より色ボケな卑怯者が人生において有利である」といった悲観主義者のシニシズム(と言い切るには現実は酷であるわけですが)を肯定しつつも、そんな連中に決して寄り添っているというわけではなさそうな、けれど一矢報いることはできるということの証明ではないかと思っています。

 ポールも「やっちまった・・・」って顔してましたしね。

 誘惑者としてのクロヴィスの甘言に従うと堕落させられ色欲に溺れるわけですが、もしも彼を悪魔と仮定するなら(というかそんな感じで描いているような気もするんだけどなぁ)、もしかするとその誘惑を拒否し続け対比として本屋の店主の助言通り勉強をしてから「夜を明かし」て死んだことを考えると、少なくとも地獄には行かなかったんじゃないかとも取れる。

バルザックドストエフスキー、クロヴィスと結構ヒントになりそうなワードが出てきてはいるんですが思い過ごしかもしれないし・・・。

まあ、快楽の園が連想されたのも完全に推量ですし何とも言えんですが。

 

 

備忘録的に

どら平太」をちゃんと見ることができなかったのですが、半分が終わったあたりからちゃんと見だしたら普通に面白くてショックだった、というだけの話なので何もブログに書くだけのことでもないんですが。

市川崑といえば「犬神家の一族」ですが(というかそれぐらいしかまともに見ていない)、なんとなく笑いを仕込んでくるような気がする。2000年の作品ということもあってすでに映像からは21世紀の肌触りがそこはかとなく感じられつつ(というかたぶん役者陣の顔ぶれだろうけれど)20世紀のにおいがまだ深く染み付いていた。

今度ちゃんと見直したいなぁ。

あと松重豊がどこに出ていたのかまったくわからなかった。

消化録

ムカデ人間3

もはややっていることもやろうとしていることもサウスパーク(劇中でも「サウスパークでネタにされましたよ」とか言っているし)の領域で、バーホーベンっぽさもある。ただしメタ構造のライブアクションであるという部分がアニメーションであるサウスとも違うしあくまで劇中を一つの世界として完結させているバーホーベンの手法とも違う。

アメリカ国歌のアレンジ曲とか国旗とか、まあ色々とやりすぎている部分はあるんですが、あれだけの熱量と暖色で色彩設計しているのにラスト付近はTHX並みの寒々しさと上級国民(笑)同士のパワーゲーム的な愚かしい可笑しみもあって笑える。

あと人体に穴を開けて(傷を作って)そこに陰茎を挿入するというのは以前から自分も考えていたので、トム・シックスが同じ発想を持っていることに嬉しいようなそうでもないような複雑な共感をした。

 

トラ・トラ・トラ

当事者でない者の視点から見た感想なので、当時この作品を劇場で観た人とはかなり異なっていると思う。

当事者でないというのは、もちろん戦争を体験していないということでもあるし、それ以前に、この真珠湾攻撃直前およびまさにその瞬間を描いた映画が封切られた時代を知らないということでもある。つまり、その時代の名優たちを知らない(例外を除いて)ということは、とりもなおさず全ての俳優が均質化されることであり(そもそもの作劇方法として俳優の個性を前面に押し出すタイプの映画ではないこともある)、それゆえに真珠湾攻撃という状況に至るまでの歯車としての個・大流に抗おうとも結局は巻き込まれるしかない無力な個としての軍人を描いている者であると自分は受け取った。

劇中では様々な人物が様々な思惑を持って行動し、ある者は真珠湾攻撃を避けようとすらしている。そしてどうにもならず嚆矢として真珠湾の攻撃が開始され凄まじい特撮によって爆発が描かれ第二次世界大戦へと歴史を辿ることになっていく。

あるいは、状況も情勢も大幅に異なっているとはいえ、スタニスラフ・ペトロフが核発射に承認した場合とも考えることができる。や、単純な比較ができないことは大前提としてあるわけですが。 

 

「RONIN」

なんかこう、アクション映画の割に全然派手じゃないのはともかく長いカーチェイスとかの演出のバランスがよくわからない映画。BSで見たからかなりカットされてるみたいなんですが、どうもデ・ニーロのセルフオペシーンがカットされていたみたいです。ここもかなり尺を取っていたみたいですが、残念ながら見れず。

いや、本当によくわからないバランスの映画で困る。雰囲気はすごい真面目なんだけど演出の勘所が妙に戯画的なせいで笑えてくるのとか、中盤の短いカーチェイスでの街に入っていく車から街の全景を映すところの何とも言えないダサさとか、天然バカみたいな映画。

デ・ニーロとジャン・レノの組み合わせはまあまあいい。

したたかさと正直さとブロマンス

というのが「ショーシャンクの空に」を観て思ったことだった。

ウィキを読んでいて面白かったのが同年公開された「フォレスト・ガンプ」にアカデミー賞を持ってかれた部分。北野武が割と堂々とディスっていた映画がアカデミー賞を取っていることと、自分が「ショーシャンク」と「フォレスト」に似て非なるものを見出したりとかゼメキスについてだとか、色々と考えることが多くて、そういう意味でも結構楽しめた。

フランク・ダラボンは監督作がかなり少なくて劇場映画に限ると4本しかないという(日本語版ウィッキー参照)寡作な作家なのですが、どれも結構な話題になっている気はする。もっとも、原作が原作だけに、という部分もあるにはあるのでしょうが「ミスト」のラストに関してはキングも「そうすりゃよかった」と言ったくらいですから発想力はあるということでしょう。脚本クレジットを外している作品がいくつかあるのを考えると、かなりこだわりがあるのだろうという推量をすることはできるけど、本作とは直接関係があるわけではないので脇に置いておくとして。

 

名作と言われるだけのポテンシャルは確かにあったんですけど、なんか思っていたのと違っていてびっくりした。

もっとこう、それこそ「フォレスト~」みたいに徹頭徹尾情動に訴えるような作品なのかと思っていたら、もっとしたたかさを含んでいて、それでありながら人の情をも含んだ、ぶっちゃけ「フォレスト~」よりも高次の作品な気がする。そんでもって、演出もこっちのほうが優れているような。いや、まあ、「フォレスト~」というかゼメキスの場合はこうマスに向けて臭気を完全に脱臭して「イイ映画」にするのがすこぶる上手な映画監督であるような気がするので(評論家諸氏の評論の孫引きですが)、「フォレスト~」がウケたのはまあわかるわけで。

でも、男優賞はモーガン・フリーマンに渡すべきだと思うんだけどなぁ・・・あの抑えた演技なのに表情だけでしっかりと情感が伝わってくるのはトム・ハンクスの演技よりも好ましいし。役者としてはトム・ハンクスの方が好きではあるんですけどね。というか、この「好き」が「フォレスト~」がウケた理由だろうという気が。

 

それに比べると、「ショーシャンクの空に」はストーリーそのもののギミックを役者の演技と演出で魅せる、まさに映画的な映画だと思う。

冤罪で牢獄に入れられた男が牢獄の辛い生活に適応し、そこで友情を育んでいく話と簡単にあらすじを説明できなくもないけれど、これでは不十分であることを映画の終盤になってようやく思い知らされるわけです。それがまずストーリー的なギミック。で、それをさらに役者の迫真の演技と演出が一層盛り立てる。

まずはもう、何を隠そうモーガン・フリーマン。特定の場面を取り上げるということができないくらい、場面場面での表情の機微がすごく絶妙。

ティム・ロビンスも牢に入れられた直後までは諦念を思わせながら、それでも決して湛えている何かを絶やすことはないのだということをボッグズらに襲われても抵抗していることが表している。ここではモーガン・フリーマン演じるレッドのナレーションで「アンディはレイプされるときもあったし追い返すときもあった(意訳)」と綺麗事ではない事実を述べる。しかし、アンディがレイプされる描写はない。これはつまりアンディが「屈していない」ということを表すためにあえて省略した部分なのではないだろうか。現に、このナレーションの間アンディはボッグズたちに反抗している場面しか画面には現れない。もちろん、単に制作上の都合ということかもしれないし、あるいはレイプされる中でも決して屈していないことをあらわすこともできなくもないのだろうけど、レイプされるという行為そのものが屈服という解釈をダラボンがしていたのであれば、その描写を排除したことは見解の違いでしかない。というか、グダグダ言ってはいるけれどここの演出が映画に貢献こそすれマイナスな要素にはなっていないわけで、やはり演出として上手い。

そんでもって、実はアンディの行動の一つ一つが最後の展開に結びつくように仕向けられていた(ストーリー的ギミック)りするわけで。それも、アンディとレッドの最初の接触の時点から。

演出が本当にハッとするような場面が多い。アンディが建物の中に入っていく瞬間を彼の主観と思われるショットで真下から仰ぐように撮ることで刑務所の閉塞感や圧迫感を描写していたり、同じ構図・場面を何度も繰り返し使うことでその変化を際立たせていたりするのはすごくうまい。たとえばレッドの仮出所を判断するためのシーンが三回出てくるわけですが、初回と二回目と三回目、それぞれに意味合いが異なっていて味わい深い。構図だけでなく、キャラクターそのものも対比的に置いている。ブルックスとレッドという人物の辿る道というのもすごく印象的で、もしもブルックスとレッドの生まれた時間が違っていたら・・・と考えたりすると面白い。

 とかいいつつ、最初の方はアンディにあまりにビギナーズラックが働いているようにも見えてしまう部分もちょーっとなくはないんですが、これは多分ヒネクレ者のやっかみみたいなものなので清い人はそう思ったりせず素直に見れるはず。

 

レッドとブルックスを対比的に置いている、と書いたけど、実のところ真の意味で対比的に置かれているのはレッドとアンディではないかと思う。というか、対比軸として複雑な角度を持つレッドがあって、その軸に平行する角度にそれぞれの人物を置いているというか。

ブルックスに関してはとてもわかりやすいから言及するまでもないんだけど、アンディとレッドというのはつまり別々の道を通りながら最終的に同じ場所にたどり着くという意味での対比的なキャラクターなのではないかということ。

別々の道とは何か。

アンディはレッドを含めた全員を欺き(といっても彼にだけはしっかり話していましたが)脱獄という法を犯すことで無実を証明し自由の身になったのに対し、レッドは法を犯すことなく自分に対して誠実に振舞う(三度目の仮釈放の審査におけるシーンの、それまでの審査シーンとの言葉の違いと振る舞いの違いを見よ)ことで仮釈放をもらい、最後に小さな違反をしてブルックスルートからアンディルートへと至るということ。

レッドとブルックスが同じ道をたどりながら最後は別の場所に行き着いたのとは異なるように。そう考えると、この三者はこの三者によって三位一体をなしているとも言えるかもしれない。

無実のアンディが自らの邪によって救われること、実際に人を殺し(本人が言及しているからではなく、作品の構造としてここはそうあることが必然なので)て罪を背負ったレッドが自らの正によって救われること。

この、作品全体として清濁併せ呑むことで弁証法的に救いを描いているのが「ショーシャンクの空に」なんだろうなぁと。

 

 そんなわけで、すんばらしい映画ではあったんですけど、ちょーっとモヤモヤする部分もあったりする。で、そのモヤモヤしている部分というのはおそらく今まで書いてきた部分の余波の部分だと思う。

つまり、アンディとレッドのブロマンスとして描かれるがゆえに、ほかの、20年の月日を共にした、あの屋根を一緒に塗ったほかの囚人たちが忘却されていることにモヤモヤするのである。もっとも、ハナからそういうものとして描いているので、どこに目を向けるかという個人の視点の問題でしかないわけですが、弱者やフリークスフリークであり間違いなくその他大勢の一人であるわたしにしてみれば、彼らが物語によってフェードアウトさせられるのを見ているのは(というか画面に現れなくなるわけで、見れなくなるということなんですが)モヤモヤしてしまう。結局のところ、その他大勢はその他大勢でしかないのか、と。だとすれば、映画という虚構の世界ですら「トゥモローランド」的な無慈悲な条理を覆すことはできないのか、と。

本題とは離れますが、わたしがSWシリーズで一番「ローグ・ワン」が好きなのはもしかするとそこにあるのかもしれない。いや、歴史に隠されたローグ・ワンの連中が頑張っているからではなく、ベイダーに立ち向い散っていく名も無きその他大勢を名も無きその他大勢のまま、あそこまで描いてくれたというのが自分の求めているものに近いからだったんだなぁと。あの中にギャレスいるらしいし。

 

まあね、そんな文句ブーブーたれパンダな自分ですけどね、本棚越しに会話するところとか、ブロマンスとしてかなりの萌えポイントだと思うし、やっぱり映画として面白いからいいんですけどね(それゆえに歯がゆいのですが)。

ていうかレッドのナレーションがある時点で彼の主観によるアンディ物語である(と同時にアンディの行動をアンディ側から描かないことで最後の展開に繋げる作劇でもある)ことは明白ですから、要するに毎度お馴染みの「ないものねだり」ということなんですけどね。

 

 「フォレスト~」を引き合いに出したのも、そのへんで比較したかったからでもあるし。ナレーションの使い方がこう、わかりやすさのためだけにあるのが「フォレスト~」ですからね。や、ゼメキスはそれをわかってやっているはずなので指摘するだけ無為なのですが。

ただ、「見せる」ことで「魅せる」まさに映像表現としての映画の魅力に溢れる映画である「ショーシャンクの空に」がわかりやすいことに特化した「フォレスト・ガンプ」にアカデミー賞を持って行かれたというのがどうも不思議なんですよねぇ。

別に北野武ほど「フォレスト・ガンプ」が嫌なわけじゃないし、むしろそれなりに楽しんだ自分がこんなことを言うのは後出しで姑息な気もしますが。 

 

 

33年前への提言

1984」を引き合いに出すまでもなく、管理者会ディストピアものというのはたくさんあるのでしょうが、一番メジャーなので引き合いに出してみた。

というのも、「ザ・サークル」はこの「1984」に至る前日譚的なお話であるからどす。

ぶっちゃけますとサウスパークですでに面白おかしく風刺しているものではあるので(前のシーズのハイディ関連とか、レミウィンクスの話とか、まあいろいろ)、そちらのほうが「ぶってない」ので気軽に見やすいです。

だからといってこの作品の価値が上下するということではないのですが。

 

今回はパンフを買わなかったので印象批評的になりますが、よく考えたらいつもそんな感じでしたな。

とりあえず、SNSが云々と宣伝は言っていますが劇中で描かれているものはちょっと違うし、公式サイトの「「いいね!」のために、生きている。」なんて寒いキャッチコピーなんか的外れもいいとこです。や、SNS(というかその使い方)批判をしたいというのはスクリーンから伝わってきていますから、前者に関しては間違ってはいないのですが、言い方のせいで問題を矮小化させているのがどうなの、と。

観りゃわかりますが、メイは何も「いいね!」を欲しいがためにサークルのプロジェクトを担当することになったわけではなく、家庭の状況やサークルという企業内システムに知らないうちに取り込まれてしまい、その成り行きの結果といった受動的な作用によっていますし。むしろ、彼女はこのプロジェクトに関しては両親のケアという側面を除けば割と否定的な感情を持ち合わせてもいます。少なくとも最初からノリノリというわけでもプロジェクトの最中もずっとノリノリというわけではない。そういう予告とかキャッチコピーにしたほうが客を呼べると配給が踏んだわけだろうし、別にいいんだけどそれでいいのかと思わないでもない。

まあ映画を見る目的は「騙されに行く」ことにあるので、メタ的に見ればかろうじて許容できなくもない。

サウスパークを引き合いに出しましたが、こちらも割とギャグいです。むしろ大真面目にやっているため(少なくとも劇中では)、シュールな笑いという意味ではサウスパークよりも上品ではあるし、実在の役者が演じるライブアクションならではの可笑しみというものもありますからね。入社から一週間したところで社内プロフィールを作成していないことを告げにくる二人の社員の、あの何とも言えない「わかってるのかわかってないのかもわからないような誘導の仕方」の畳み掛けは、かなりの笑いどころ。ほかにも終盤のトム・ハンクスのニコニコしてるのに焦ってる表情とか、細かい部分で笑えたりするし、ほかにもマーサーの事故のあとにメイが両親と通話していた直後に画面の外にいる人物から声だけの励ましをもらう部分の血の通わなさとか、上手い部分も結構あった。

原作・脚本を担当したデイヴ・エガーズが原案の「プロミスト・ランド」は結構面白かったし、基本的に社会派な作家ではあるのかな。「王様のためのホログラム」は見てないから全然わからないんだけど今回のとはかなり毛色が違う気がする。

 

演技者に関しては、まあ、小説を二時間の映画に収めるための取捨選択の結果として人物を物語の傀儡にすることを選択したのは無難といえば無難ですし、それゆえに大衆を牽引できるポップでキャッチなアイコンとしてエマ・ワトソンを起用したという狙いの意図も明確だけれど、その作劇プランによって物語による肉付けを欠きエマ・ワトソンという役者にメタ的に寄りかかっている使い方をしているために、メイの人間味はかなり希薄になっているのは残念といえば残念か。そっちは切り捨ててシステムに翻弄される社会(とか会社とか個人(といっても一人の人間としての個性というものではなく、全体の相対としての個)とか)を描いているので、ないものねだりではあるんですが、自分の目指すところとは違うのでハマるということがなかったのががが。

あと野暮ったい美人を演じるカレン・ギランは演技自体は素晴らしいんですけど色々と過剰すぎるきらいがあるので、この辺はもう少しセーブさせたほうがよかったように思う。

ジェニファー・ローレンスあたりに演じてもらってどんどん壊れていく感じで映画を作ってくれるか、メイ本人もそれを全部良しとしているような完全に狂った世界として描けばあるいは爆発力を持った作品になったかもしれないけど、このバジェットだと難しいだろうしそもそも原作ありきで原作者が参加しているとなるとそれは無理だったんでしょうな。ていうか、再三わたしが言及しているようにハナから監督はそういうものを描こうとしているわけではないし。

 

ただし、ラストをちゃんと(?)バッド・エンドにしてくれたのはすごい良かった。メイがラストでトム・ハンクスに仕掛けた仕返しは彼女個人にとっての一瞬の勝利(しかも幻想の)でしかないことを、その直後のメイのカヤックシーンにおけるドローンが示しているし、とどめの一撃と言わんばかりにマトリックスな画面に持って行ってからのエンドロールというのはかなりいい感じ。そりゃ監視サービスを提供する側のトップが極秘資料まで公開したということは逆に言えば完全に「透明化」されたということで、サークルへの信頼感が絶対的なものになるというわけで、あのラストに繋がるのは必然ではあるわけです。まあ、実際には極秘資料のやり取りの中にやましいものがあって追求されてオシャカになるというのが現実的なのかもしれませんが、そもそもからしてサークルをリアルな企業として描いていない(というかリアルなキャラがそもそもいない)のでそこはモーマンタイ。

そうそう、冒頭のカヤックシーンとラストのカヤックが対比になっているのも芸コマです。

 ちなみに

『エガーズ自らも参加して完成した脚本のラストは、原作とは異なっている。ポンソルト監督は、「デイヴと僕は、エンディングは小説の“テーマ”には忠実に従おうと話していた」と説明する。「小さな勝利と多大な犠牲を払って得た勝利、そのどちらもメイに与えた。メイ個人にとっては、破壊的な結果ではあるけれどね。それは、プライバシーのすべてを他者と分け合い、完全な監視社会へと足を踏み入れることを恐れない若い人々によってもたらされる未来だ。『プライバシーは過去の遺物よ』と言うメイを、“ヒーロー”と捉えるのは明らかな間違いだ。しかし、彼女が人を惹きつけるのもまた事実だ」』

とプロダクションノートでも言及されているとおりですから、完全にディストピアまっしぐらであることは意図しているところでしょう。

ここまで清々しいバッド・エンドは地味に「ライフ」以来ではなかろうか。

 

あと音楽も良かった。サントラちょっとほしいかも。

1984の前日譚に(そんなものがああれば、ですが)バトルランナーを少々といった塩梅の作品で、ぶっちゃけ佳作という感じではあるんですが、前述したように笑えたり上手い箇所があったりするのでどちらかといえば好きな映画ではあるし、あのエマドヤ顔幻想勝利が文明社会にとっては敗北でディストピア一直線なラストが結構ツボなので。

 

ただまあ、なんというか、SFでは描かない「その世界に至るまでの過程」を描いてしまったせいで(しかも極めて短いスパンで)、説得力を欠いているというのが難点かと。いや、そこを詳しく描いたらそもそも時間は足りないしそれこそ膨大な量の考証を重ねなければなりませんし、そもそもそれそのものが一つの大きなテーマとして扱われるものであるわけですから、基本設計の時点でやや無理があるポイントではあったのだと思ふ。まあ制作もそれをわかっていたからモンタージュで細かい過程を省いたんでしょうけど。それゆえにメイの感情の動きが掴みづらいという別の気になる部分が生じてくるというのもあるんですが。

え、1984だってすでに監視社会になっているところから始まりますし、監視社会でなくともたとえば「新世界より」だって呪力は所与として有している時点から始まるわけで、その世界に至るきっかけとなる起点に触れられることはあっても過程が描かれることがないのは、つまりそういうことでしょうし。や、SFにそこまで詳しいわけではないので探せばあるのかもしれないけど、少なくともわたしは知らん。え、「新世界よりゼロ年がある」って? あれは読んでない(爆)し、そもそも連載小説だから書けるわけで。しかも2011年から始まってまだ連載してるらしいじゃないですか。そんだけの時間をかけられれば貴志祐介なら描けなくもないんでしょうが、こっちは映画ですし。

それとSNS表現についてもう一つ。

監督はプロダクションノートにてこんなことを述べているが↓

「スクリーンにはSNSの画面が、そのまま映し出される。この編集テクニックの意図について、ポンソルト監督はこう説明する。「メイがプライバシーのすべてを24時間さらけ出す "透明化"を始めてからは、画面上のメッセージが物語の展開において重要な役割を果たす。だからメイのフォロワーから届く、圧倒されるほど大量のコメントを視覚的に表現したかったんだ。後略」

これはどう考えても不足でしょう。そもそもの表現として手垢が付いているということを考慮しても、画面上のメッセージの量は数百・数千万単位のウォッチャーがついている割にはあきらかに少ない。ここはもういっそ画面を埋め尽くすほどのメッセージでやったほうが面白かっただろうし、それがしばらく続くように仕向けてもいいとは思う。この規模の映画ではそんなアホらしい表現はできないのかな。 

 

そんなわけで全体的にはそこまで熱量があるわけではないけど、部分的には結構好きだしラストに関してはかなり好き、といった具合でした。