dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ポセイドン・アドベンチャー

これセットすげぇんじゃないの。だって逆さまですよ、逆さま。セット作るの大変でしょこれ(映し出される「転覆した豪華客船の船内」を眺めながら)。船内に閉じ込められるパニック映画ってまあ色々あるとは思うんですが(知らんけど)、まさか四十年前にこんなもんがあるとは思わなんだ。「ただ波に飲まれるだけじゃつまんねーな。そうだ、船をひっくり返そうぜ!」となったかどうかは知りませんが、それは正しい選択なのだと思います。見慣れた(少なくともエンタメの中では)風景をただひっくり返す。それだけで日常的光景は異界と化し、発生するアクションに説得力を持たせる。足をつけている床、というか天井から電灯が突き出ている異様さ、階段を登る苦労。転覆した船内という状況の中でこれらの障害は観客に異論を許さない。

あとボーグナインね、ボーグナイン。「ワイルドバンチ」で知ってから顔の濃さとかすごい好きだったんですけど、「ポセイドン・アドベンチャー」でも良いキャラもらってますよーはい。こっちでは最後まで生き残るし。あと牧師が神様に文句言うところ、ベタベタながら燃えました。ジーン・ハックマンって名前は知ってるんですけどあんまり印象に残らなかったんですが、今回のハックマンはいい感じです。ただ、ああいう状況でドクターや船員よりも牧師について行くっていうのは「ミスト」とか思い出しちゃいますよね。ただこの牧師は牧師から倦厭されているということらしいので、牧師らしからぬ牧師っていうことなんで納得できます。

四十年以上前のパニックアクション映画ですが、噂にたがわぬ面白さでした。ただなんというか、最後の最後まで「朝」とか「太陽」ってものを排除してたんで、救出された瞬間に差し込む陽の光はもっと執拗に描いたほうがカタルシスあると思うんですけどね。ただ救出されてすっぱり終わりっていう潔さは好みなんですけどね。ビッグバジェットエンタメ大作でいちいち引っ張られてもねぇ? そういう意味だとやっぱりトランスフォーマーシリーズっていうのはあんだけ雑な脚本でごちゃごちゃやっておきながら最後はオプティマスが(無理やり)締めるっていうのは潔いですよ。開き直っているとも言えますが。

そうそう、マンチェスター・バイ・ザ・シーの記事ですっごいどうでもいいことを付け加えたいんですけど、雪の積もる町、ランディというネーム、口が悪いという共通点からなんとなくサウスパークを連想しました。ローガンに関してもひとつだけ連想したのがあって、ギャグマンガ日和に出てくる「グリーンエンペラー」って特殊能力があるんですけど、まんまそれのミュータントがでてきて笑いました。

そんだけです、はい。

マンチェスター・バイ・ザ・シー(あとローガンも少し)

時間ギリギリで汗だらだらでした。いや、映画館に間に合わなそうだったんで、自転車飛ばしたんで、予告編がかかってる間に生き整えるので精一杯でした。

今日観てきたのは「マンチェスター・バイ・ザ・シー」です。もともとはマット・デイモンが主演と監督を務める予定だったのを、親友であるベン・アフレックの弟のケイシー・アフレックに譲ったらしく、おかげで今回のアカデミー主演男優賞をケイシーが獲得する運びになりました。あと脚本賞も。一応本作での制作はやっていたみたいですが、マット・デイモンはその代わりに?レジェンダリーの「グレート・ウォール」で主演を務めていましたね。いわゆるシネフィルとか映画ファンっていうより「趣味:映画観賞」みたいな自分はケイシー・アフレックのことはほとんど知らず、「グッド・ウィル・ハンティング」でちょっと出てたなー程度にしか認知していなかったのですが……正直、スマンカッタ。いや、普通にいい役者ですぞ、この人。偉大なるベン(略して大ベン)アフレックの弟ってことで顔とかはやっぱり似てるんですけど、彼とはまた違った影とか弱々しさを湛えているんですが、それが作品に大きく貢献していると思います。これ、マット・デイモンじゃなくて良かったような気がします。マット・デイモンは役者の中でもかなり好きだし作品選びも割と安定しているの(グレートウォールだって決してつまらない映画じゃないですぞ!)で、この人が主演の映画は観に行っちゃうくらいなんですが、この作品の主人公であるリーを演じるには少し顔がゴリラすぎるというかポテンシャルが漲りすぎている気がする。だいたいジェイソン・ボーンが海辺の町でやさぐれるかって話ですよ。

そういえば、インターステラーにもケイシー出てたみたいなんですけど、どこに出てたのかまったく分からなかったんでググったらマシュマコノヒーの息子の年取ったverやってたみたいですね。そりゃあんなちょい役じゃ思い出せんわ。あの頃は今みたいに映画もそんな観てなかったし。

断言しておきますが、これはいわゆる「感動もの」といったカテゴライズされるような作品ではありません。そもそも、カテゴライズという行為そのものがある種の矮小化・単純化だと思うのですが、それでもあえてわかりやすく一言で表すのならば「日常系」と呼ばれるものだと思います。はい、「日常系」と聞いてそこいらの深夜アニメを連想したあなた。あなたの発想はすでにからしてカテゴライザーどもに汚染されています、即刻その考えを捨て去りましょう。

この作品はそういった「田舎の風景移しときゃそれっぽいべ」「高校生がわいわいわちゃわちゃしてればいいべ」的な思想が透けて見えたり、大人(あるいは子ども)や男(あるいは女)を排することで現実そのものをデフォルメしアニメーションのなんたるか忘却した低俗なセーフティポルノとは違います。現実に存在する人の日常を真摯に切り取り、フレームに収めた作品です。いわゆるアメコミヒーロー映画と呼ばれるようなキャラクター優先でフレームワークに収まったキャラクターも登場しません。この作品、このマンチェスター・バイ・ザ・シーと呼ばれる街に現れる人々は、現実に、この作品の中に生命を持って人生を歩んでいます。その歩みの千差万別さ、それを観る映画と言ってもいいのではないでしょうか。

映画の冒頭、リーとボストンのアパートの人々との交流から始まります。とても交流とは言えないコミュニケーションを演じるケイシー・アフレックは、おちくぼんだ目の陰りや兄にはない弱々しい声でやさぐれたリーという人物に人間を吹き込みます。バーでナンパされるところの頬が緩んでしまう感じと、その直後にリーが因縁をつけてほかの客に暴力を振るうシーンを見て、観客は「なんだこいつ」と思うことでしょう。なぜなら彼の過去はこの時点で一切明かされず、ただ「便利屋」という職業に就いていることだけしか情報を与えられません。それはとりもなおさず、アパート住人でありバーでナンパしようとした女性であり、因縁をつけられた男たちと同じ視点なのです。

そんな折、リーは兄が死んだことを知り、マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることになり、彼の過去と人々とのかかわりが描かれます。

この作品は、大人も子どもも関係なくそれぞれを一人の人間として扱います。それゆえにパトリックという子どもが有する「一個人としての強さ」や、リーという大人が持ってしまった「一個人としての弱さ」を描きます。子どもの視点からも描かれる大人はスーパーマンではありえず、子どもは純粋無垢で庇護されるものでも物語の要請で成長させられるものでもありえません。物語が優先するのではなく、人物を描くことでそこの物語が生じるのです。

後半になって、映画の最初の方でリーが捨てていたチェアーが何だったのかを我々は知ります。

ラスト近く。坂道を登りながらのキャッチボール――と言うにはあまりにぶきっちょで拙いボールの投げ合い。ワンバウンド=ワンクッションを置かなければ相手にボールを届けさせることができないもどかしい距離感。それでも二人は最後の最後にボートの上で釣りをします。

この映画は観終わったあとにスッキリするようなものではありません。第一、リーに救いはありませんし、救われることを誰よりも拒んでいるのが彼自身である以上、安易な救済による幕引きがないことは映画を観てきた観客は知っています。哲学的な問いを投げかけてくるような重苦しいものでもありません。この作品のそこかしこに散りばめられたユーモアを受け取ったあとで、哲学的なテーマに議論を持っていきたいのであれば、それはナルシズムか衒学者の素質があるのでしょう。哲学なんかではなく、もっと卑近で野卑な人生という現実に向き合うことになる映画です。

とはいえ、前述のとおりこの作品にはユーモアがあり、カラッとしているので観ていて辛いということもありません。ただ、ぱっと思い出せるようなインパクトの強いギャグだったり画面だったりということではないです。それは「笑い」というよりも日常の中に潜む「可笑しみ」だからです。それゆえに、この「可笑しみ」は作品を通して観なければ気づけないものなのでしょう。この作品が凡百のお涙チョーダイや感動巨編といったものとも違うのは、作品全体に漂うベタつかない空気のおかげなのだと思います。

パンフに記載されたプロジェクトノートでも「ユーモアがない人生は意味がない」と言っていますし。

あと、印象的なカットも多かったです。人物の会話をとくに限定空間(弁護士の部屋だったり友人の部屋だったり、あるいは病院の受付の内側だったり)とか、去っていく救急車を見つめるリーの背中などなど。

マンチェスター・バイ・ザ・シー」。思いがけず大切な作品になったこの映画、もしかするとBD買うかもしれない・・・。

 

あと「ローガン」も観てきました。うーん、ちょっと期待値上げすぎた気がする。色々と言いたいことはあるんだけど、アメコミものってやっぱり子どもを射殺する描写ってダメなのかしら? ラストの方の森林での駆けっこの嘘くさたるや。リーダ格の子が一発食らったけどすっげーあっさりしてたし傷とか分かりづらいし「欺瞞じゃのぉ」と。いやまあつまらないとは言いませんけど、なんかこうx-menシリーズってパッとしないんですよねぇ。ファーストジェネレーションとデッドプールはすごい良かったんですけど、mcuみたいに平均値も高くて一年に一つは大当たりをぶち当ててくるし、DCはDCで悪い意味で盛り上げてくれたりはするんですが、フォックスのマーベルはパッとしないですわ。X-menに関しては豊富な作品を持ってこれるmcuと違うんで単純に並列はできないにしても。ローガンーじじいとオヤジと時々ムスメ。そもそもローガンクローンを作る理由って何よ? ローガンのクローン作れるなら別の強いクローン作れるっしょ。と思ってしまうのはやっぱりアメコミ映画というカテゴリに収まってしまっている弊害でもあるのだろうけれど。光る目を彷彿とさせるシーンがあったなぁとか、そんな散漫な感想も結構あったりはするんですけど、いや楽しいですよ。ただもうちょっと良くなるポテンシャルがあると思うんですよね、題材的に。ジジイとオッサンが好きなわたくしとしては、パトリックとヒューを観に行ったようなものですし、最初からある程度の満足感は担保されているのですけど。

しかしオッサンと少女の組み合わせってどうしてここまで感応を刺激するのでしょうかね。だってオバサンと少年ってそこまでメジャーじゃないし(精霊の守人もオバサンと呼ぶには若すぎるし)作品数の少なさからいってもそこまでウケるもんじゃないのだろうけれども。だって男女問わずオタって好きでしょオッサンと少女(偏見)。

あーポセイドン・アドベンチャーもすごい良かったから感想書きたいんだけどどうしようかしら。

マスク・オブ・ゾロ

監督がトマトで酷評の嵐を受けたあの「グリーン・ランタン」の監督ということでどんなものなのかと思ったのですが、別にそんな悪くないですよね。怪傑ゾロって名前は聞いたことがある人もいるでしょうし、バットマンのオリジンにも絡んでくるものですからネームバリューとしては本国ではかなりあったのでしょう。そういうのを差し引いても義賊の話って大衆ウケしやすいですから、続編が作られる程度に面白かったですよ。まあ心に残るような感じではないですけど、そういう意味じゃパイレーツ・オブ・カリビアン的でもありますね。

フォークロアというか童話的というか、まあそういう話なんで細かい部分に突っ込むような野暮な輩でなければ普通に楽しめるでしょう。アンソニー・ホプキンスのゾロ姿とか執事衣装とか眼福ですし、炭鉱のセットとかラファエロ邸の瀟洒な内装とか、美女と野獣とかもそうですけど、ああいうのってやっぱりビッグバジェットじゃないと見れないですし邦画のキツキツ予算じゃ今でもできないでしょうから、観ていて「わーい」ってなりますよ、ええ。もっとも、塚本晋也監督の「野火」を観ると工夫次第である程度までできそうな気はするんですけどねぇ・・・自主制作だからあそこまでできるっていうのもあるんでしょうが。

ちょっと少年漫画チックでもあるんですよね。ホプキンスゾロが二代目ゾロとなる義賊崩れのアレハンドロを鍛えるシークエンスとか、モロに。

そうそう、本作のヒロイン担当のエレナを演じるキャサリン・ゼタ=ジョーンズがすごいよろしいです。ポルノ女優臭さを排したミーガン・フォックスというか、上品で美人なクリステン・スチュワートというか。いや、別にミーガン・フォックスはポルノ女優とかじゃないですしトランスフォーマー好きとして彼女を応援してはいるんですが(シャイアがアレな感じになりつつあるんで)。いやたしかに綺麗ですし昭和の少年漫画的お色気みたいなサービスとか嬉しいんですけど、ゼタ=ジョーンズがアップになるたびに特殊効果(今流行りのsnowとかいうアプリみたいに画面をぼんやりさせる感じの。あんなに露骨で下品じゃないですけど)使うのはさすがに笑っちゃいましたけど。テリーギリアムほどアイロニカルでもないですし、デートとかで観る分には向いているんじゃないでしょうか。

あとラストシーンのあの通路、ハリーポッターホグワーツにも似たような通路があったような気がしたんですけど

シング・ストリート良かった

なんかすごい中途半端なタイミングで観てるなー。この作品に関しては色々と書きたいことがあったはずなんですけど、なんだか別に綴る必要もないかなーって思えてきてしまいました。ともかく青春映画の一つの傑作であるということだけ言っておくか。これ見たのがあと一年後とかだったらしっかりと書く気になったんだろうけど、別にこれわたしが書く必要ないしなぁ。

 まあサントラ買っちゃいましたよ。日本版より輸入盤の方が一曲多いみたいですんでそっちをば。

結局、あの四人って宇宙人だったのか

 個人的には黒木(佐々木蔵之介)だけガチ宇宙人じゃないのかと。佇まいとか、あの人だけ常に超然としてたし、なんかサイコキネシスみたいなの使ってたし。その解釈すらも観た人によって変わってくるのが吉田大八作品ということなのかもしれない。

 言いそびれてましたが「美しい星」を観てきました。「桐島~」と「クヒオ大佐」しか観ていないにわかでありますが、この二作品に関しては現実に地続きに白昼夢が進行するのですが、それが非現実であることは比較的わかりやすく描かれています。ところがどっこい、今作に関しては大杉一家が覚醒してからの現実と非現実のバランスがひどく曖昧で、その曖昧さを保ったままエンディングに突入します。

 だから観終わったあとは「結局あれってどうだったんだっけ。だって、あそこであーなったってことはここはそーなってたわけで・・・」と考えてしまう。だけど、そこに明確な答えは存在しない。そういうふうに描かれているから。

 個人的にリリーフランキー演じる大杉十一郎が火星人としてカメラの前ではっちゃける場面にかかるノイジーな音楽とかすごい好きで、本人は一生懸命なんだけど受け手にはとても滑稽に映る感じとマッチングしていてサントラ欲しくなりました。金なかったんで劇場では買わなかったんですけど。

 そうそう、十一郎が天気予報士ということもあってスタジオ内での撮影シーンが多かったのですが、カメラ越しに映す演出は中々面白かったです。十一郎が火星人として鷹森に突っかかる討論シーンでは、劇中のカメラ映像に片方が映るともう片方はそのカメラから外れる。すでにこの二人は別々のフレームにあって、そもそもからしてこの二人は話が通じないのだということがわかる。それは本当に火星人なったからなのか、火星人になったと思い込んでいる狂人だからなのか、どっちにせよ地に足つけた「常人」である鷹森と話が噛み合わないのは当然なんですよね。リリーフランキーサウスパークでイエスキリストの声を吹き替えていましたし、それに比べたら宇宙人なんてわかりやすい気もしますが(笑)。

 あと橋本愛も良かった。この人の顔は別に好みじゃないんですけど、やさしくない目つきとか髪の毛の艶やかさとか、全体的に美麗な感じで良かったです。首長いから背筋伸ばしてるだけでも結構宇宙人ぽく見えるんですが、衣装もすごいマッチングしてました。不自然さがないというか。顔のゴツゴツした感じも幾分か和らいできましたし。

 亀梨和也もハマってたですぞ。多分大杉一家で一番まともなのは彼じゃないでしょうか。亀梨くんてイケメンちゃイケメンですけど、かなり卑俗なイケメンていうか大学生的な平凡イケメンさな顔なので、宇宙人に覚醒した中でもどことなく現実に触れている部分が常にある一般人的側面を持っているように感じました。

 中嶋朋子っていう人をまともに見るのはこの作品が初めてなんですが、怪しい水を売ってしまうような人間なのに家族の誰よりもまともでリリーフランキがパンフのインタビューで語っているとおり橋本愛演じる曉子の妊娠がわかったときに「地球人でも金星人でも、そういうことはちゃんとしなきゃダメ」って常識的なことを言うんですよね。そういう、怪しい水を売る商法に引っかかってしまい、あまつさえその連中に組みして売る側になって表彰されちゃうようなズレた人なのに、それでもやっぱり地球人的な普遍性を持っているというこの役にぴったりだと思います。メインというよりは準主役とか脇で輝く人だと思うのですよ、はい。

 この映画の宣伝文句に「人間賛歌」という言葉が使われていて、筒井康隆もチラシに「救い」という言葉を使って寄稿していました。けれどわたしは、むしろこの作品からは一種の諦観のようなものを感じ取りました。なんというか、いま直面している問題に真摯に向き合うことは、結局のところ道化的でしかないのではないかと。それは人間にはどうしようもないことで、だからこそ、地球規模の大きな問題というものは異星人(として振舞う)の立場からでしか語りえないのではないかと。だって、地球人である母親は地球のことではなく家族のことしか眼中にないですし、鷹森の意見はあくまで政治的主題を中心に環境問題を外縁に付随させているに過ぎませんから。もちろん、一貫して家族の物語ではあるのですが、あえて環境問題を取り上げたということはそこに監督の問題意識があるわけですし・・・。

 とはいえ、この考え方すら私個人の一つの見解であり、正解ではないということは作品を観ていただければわかると思います。実際に映画を観て、自分がどう思ったか。下手に批評を耳にしたり目にする前に観たほうがいいと思います。そんな作品だと思います。

 余談。実はわたくしU.F.O.を見たことがあります。小学生のときのことです。某遊園地のアトラクションに乗っている時に、すごい小さななんちゃらスキー型のU.F.O.を見ましたのですよ。一緒にアトラクションに乗っていた友達も目撃したので少なくともわたしひとりの幻覚ではないと思うのですが、すごい小さなU.F.O.でした。ラジコンみたいな。

ラストマン・スタンディング

一応、黒澤明の「用心棒」をギャング映画に翻案したということになっているんですがBSで観たのはとくにクレジットはなかった気が・・・。ていうかTBS系列なのにテレ朝吹き替え版だったのはなぜなんだろうか。いや、主演のブルースウィリスの吹き替えが今は亡き野沢那智だったり江原正士とか田中敦子とか郷里大輔とか稲葉実とか、シンプソンズとか洋画吹き替え常連の声が聞けたので良かったのですが。ていうかソフトに収録されてないんだったら録画してディスクに焼いておけばよかったかも。

 用心棒を下敷きにしているだけあって話の面白さは担保されているわけなんですが、アメリカンテイストとしてか弱い女性がスミス(ブルースウィリスの役名。偽名ですが)のモチベーションになっているところとか、やや感じますよね。弱者という部分は通底しているわけなんですが、より卑近な存在になっているので用心棒の三船より感情移入しやすい気がします。ていうか黒澤作品における三船ってベクトルはどうあれ超然的な人物として描かれることが多い気がするんですよねぇ。

さてさて、製作ではよく名前を聞くウォルターヒルの監督作品ということでどんな感じなのかと思ったのですが、それなりに楽しめました。しかし、これまでこのブログに綴ってきた作品で感じたような目新しさや違和感というものはあまりなかった気がします。手堅いというか、無難というか。佳作といった感じで。

ただ、黒澤明作品のリメイクや原案にしたものを観ることで再認識したことがありますです。なんとなくのイメージですが、黒澤明という監督を語るときって、よく映像手法的なことが先行的に取り扱われる気がするんですよね。もちろんそういうこともあるとは思うんですけど、そういう技術的なこと以前に、物語が普遍的な面白さを持っているってんじゃないかということ。だから、あの人の作品って今の尺度で考えると平然と二時間半超えてくるような長尺作品が多いのにダレないんじゃないかなぁ。とはいえ、リメイク作品(最近だとマグニフィセントセブンとか)を観ているとそれでも冗長に感じてしまう部分があったりするわけで、そう考えるとやっぱり技術的な手腕や作劇というものが違うんでしょうね。

そうそう、バニシングイン60も先日観たんですけど、あれもすげーかったですよ。

あと上映時間の選択ミスってマンチェスターバイザシーを見逃した。ポイントで購入したから銭は手元に残ってるんですけど、普通にショックでした。

夜明け告げるルーのうた

夜は短しから二ヶ月連続で湯浅監督の作品が公開。ピンポンと四畳半神話大系のアニメからハマった新参者ですが、つらつら書いていきます。

 この人の作品って基本的にハズレがない(四作品しか観ていないが)よなーと思っていましたが、今回はあまり乗れなかった気がします。いや、面白いかつまらないかの二元的に判断を下せと言われれば面白いんです。まあ乗れなかったっていうのは自分の思想による部分が大きいので、それは後述するとして作品そのものに対して思ったことなどを。

 まず本作は前編をフラッシュで作っているということなのですが、そもそもそんなことができるのかというのが驚きでした。フラッシュと聞くとフラッシュ倉庫とかあの辺を思い浮かべるのですが、まさか長編映画でやるとは思わなんだ。映画冒頭の人物の動きになんだかCGのキャラクターのような動きというか、そういう違和を感じたのですがフラッシュだからだったのかな。水の表現なんかもフラッシュを使うことでかなり手間を省けたというし、今後もこの手法を使ってアニメーション制作ができるんじゃないかしら。

 アニメーションに関して言えば湯浅作品はもう本当に語源通り命を吹き込まれたようなダイナミックな動きを見せてくれるので、純粋に楽しいんですよね。中盤の浜辺でのダンスシーンなんか古き良きディズニーっぽくてメチャクチャ楽しかった。ルーニーっぽくもあったかな。

 あとキャラデザ。ルーを含め「歌(うこと)」に楽しさや喜びを少しでも抱いている人ってカエル顔なんですよね。セイレーンの三人は言わずもがな、カイのお父さんもふっきれるときの顔が動く瞬間なんかちょっと若返った感じしますし。ただしカイは素直になることができずにいて、少し目がきつめだったりする。

 個人的にはこの作品の中で一番思い入れてしまったのは爺さんだったりする。いやまあ声優に柄本さんを起用している時点で使い捨てではないと思ってはいたんですが、バケモノの子における広瀬すずの無駄遣いっぷりとかが頭をよぎったりしたんですが、上手く爺ちゃんを救済してくれたなーと。

 あと遊歩の好きなアーティストがユイっていうのも良かった。ユイって歌唱力は低いんだけど作詞と作曲は凄く良くて、歌うことが下手くそな遊歩が好きっていうのは凄い説得力があった。ていうか久しぶりにユイの歌聞いた。

 ただ、乗れなかった。青春映画っていうくくりでいいのだろうか、これは。ともかく乗れなかった。青春映画を観ていると、どうしても自分の中のルサンチマンとかノスタルジストが顔を出してくるせいで素直に楽しめないんですよね。それが楽しければ楽しいほどに。別に自分の学生時代を否定するわけではまったくないんですけど、中学生とか高校生が奮闘している作品って自分にとってはどうしようもない過去で、現実の現在に生きる自分とはそもそもパラダイムが違うというか。パンフにあるとおり、本作のメインターゲットはティーンとか子どもに据えているのだから、とっくに成人している自分がお呼びでないことは分かっている。自分のような人間はひねくれた性格破綻者であり、そんな面倒な奴に向けて作られた作品ではないのだから当然だろう。だけど劇場に来ている年齢層は(時間帯的なこともあるけれど)二十代から六十代くらいの人だけだった。もっと休日の早い時間に行けば子供連れがいるのだろうか。

 今作を観て改めて気づいた。基本的におっさんやおじいさんが活躍する話が好きなのは、多分それが過去じゃないからなのかもしれないと。