dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

痛痒しかないセイ春の映画として:ハートストーン

今更になって「・」の大切さを噛み締めたというか。やっぱり意味合いが異なってくるのだなと。「ハートストーン」と「ハート・ストーン」だとやっぱり違うんですよね。もうちょっと意識してタイピングするようにしなければ。

 というのも、今回の映画「ハートストーン」は原題がアイスランド語の「HJARTASTEINN」というのですが、これは「ハート」と「ストーン」の造語らしく一つの言葉としてあるわけですね。そうなると「ハート・ストーン」ではタイトルと違ってきてしまうわけで、これまで何気なく記述していたものも、実はそういう意味合いがあったりなかったりするんじゃないかと考えたわけです。という自戒はこの辺にしておいて、感想をば。

 この日は2本連続で映画を見たのですが、朝っぱらから1時間以上もチャリを漕いで劇場に向かうという蛮行もとい愚行のせいで体力を大幅に消費した状態だったため、正直眠かったのです。前日にもレイトショーで「パワー・レンジャー」も見てたので。それでもまあ「ハートストーン」に関しては1本目だったのでそこまで眠気とかはなかったのですが。

 なんというか、思春期・成長期の嫌な部分だけをかき集めて集約させた映画にも思えるのですが。ここまで観ていて痛々しい映画ってあんまりないんじゃないだろうか。タイトルに青春映画とか記述してしまったけれど、青春というカテゴリをするにはあまりに酸味が強すぎる。

しかしまあドグマ映画みたいだなぁと。ここまで大自然の閉塞さというものを描いた映画も珍しいんじゃないですかね。日本なんかは自然に囲まれた田舎を描いた作品というと割と牧歌的だったり、反対に「丑三つの村」なんていうものもありますけど、自然そのものをここまでフィーチャーするっていうのも中々珍しい気がする。遠景のショットで見せられる画面いっぱいの自然が、作品の内容によって広大無辺な牢獄にも見える。もちろん自然の雄大さや慈母的な包容力というものもそこにはあるのですが、それが漁村という閉塞的なコミュニティと同じ位相に同居することで、シームレスな牢獄感を発しているというか。

この映画では外界との接続手段がないんですな。現代的な文明の利器というものがせいぜいトラクターくらいで、車は廃棄場みたいな場所にあるものだけ。携帯電話なんてでてきませんし。というか固定電話すら出てなかったような(いや出てたか?)。出てこない、というと少し語弊があるかもしれませんね。みんなが集まるバー?のような場所の店長がノートPCでエロ画像見てるシーンがありますから。それからすると、携帯電話や電話というコミュニケーションツールは意図的に排斥しているのでしょう。そりゃもちろん外界との接続を絶たれていることを絵ヅラとして表象しているのでしょう。

ここの廃車でソールとクリスティアンが遊ぶシーンで猟銃が登場するわけですが、見終わった後だと後の展開の暗示になっていたのだなーと。銃口を向けられてあれだけビビってた猟銃を、まさかあんな形で使うことになるとは…という感じで。というか所々で銃が登場していたのからして、ある意味であの帰結は必然だったのかも。あと車を破壊する音がやたらと大きかった気がするんですが、あれは何か音声編集しているのかしら。

それにしても痛々しい。それは多分、参照すべき先達としての大人が皆無であることも起因している。

この時期って、中々他人のことを思いやることができないんですよね。子どもと大人への中間地点にあって、子どもの無邪気な暴力性と大人になろうとする身体性や心理的な憧憬に翻弄される。それをある意味で道しるべとなるべき大人がいない。それゆえに子どもの稚拙さ・良くも悪くも素直である部分というものが全面に押し出され、見てるこっちがいたたまれなくなる。

映画冒頭でソールを含めた子どもたちが醜い顔の魚を無意識に無残に扱うことが、クリスティアンへのそれと奇しくも同じなのですね。しかもそこにクリスティアンもいるというのがなんとも言えない(同族嫌悪の表し方に唾を吐きかけるというのも中々エグい)。でも、多分、クリスティアンのハンナへの行いもおそらくは彼女を思っての行動というよりは、やっぱりアイデンティティの認識とか性的好奇心という側面が強くて、それはやっぱりエゴであってラブではないのだと思うから、そういう意味ではクリスティアンにもまったく非がないわけではない。少なくともソールに向けていたそれほどには、ハンナへの愛というものは感じ取れなかった。バイセクシャルなのではなく、ホモセクシャルだと思うし。だけどやっぱりソールの鈍感さがねー、許せんのですよ。いやね、恥ずかしさとかそういうのもあるとは思うけど、大げさに口拭うなや、と。で、そういうことを言いたくなるのは、多分、自分もソールと同じ年だったらそうしていたに違いないから。

後ですね、姉の描写が超リアルです。わたし自身も姉がいるのですが、「あるある」という感じの振る舞いというか接し方があって、すごいソールに共感してしまってすごい嫌な口角の釣り上がりかたをしてしまいました。

ただ、この辺のソールの姉妹まわりの描写に関しては監督の発言に矛盾を感じている。というか、実体験上の真に迫る描き方をしたせいで結果的に矛盾が生じてしまったといえばいいのだろうか。監督はインタビューでこう言っている。『前略~強い女性を登場させたのも私にとって、彼女たちはお手本であり大きな存在でした。自立心にあふれた強い女姉妹と母に囲まれて育った私にとって、彼女たちはお手本であり大きな存在でした。ですから従順な女性キャラを理解するのはかなり難しい』と。確かに、母親のふしだらな行いを咎めて面と向かって「アバズレ」と呼ぶのは凄まじいことだけれど、それは確立した自我から生じる自立心によるものではなく、単なる子どもの視点からの憤りにすぎない。ほかにも姉が家でホームパーティを開く場面などは、能動性を描き出そうとしている場面とも受け取れる。けれど、それら全ては結局のところ「母親」という存在に依存しているがゆえのものでしかない。自立とは程遠く、そして従順でないということでもない。簡単に言えば「くっころ」のそれだ。「口では嫌がってるけど体は喜んでるじゃねえか(ゲス顔)」というアレに近い。つまり、心身相関がもっとも顕著なこの時期の少年少女にあって、彼女らの身体は母親という絶対権力者に従順にならざるを得ないのです。どれだけ心が反抗の意思を示していようと。朝食を作ってもらい、画材を使うことができ、家でホームパーティを開く。これらはすべて母親の働きによる産物を享受しているに過ぎない。監督はインタビューで「子どもと動物の映画しか撮ったことがない」と言っている(まあ質問が質問だけに素直に受け取るのも危険なのですが)。それゆえに、監督は子どもに寄り添ってしまったがゆえに姉妹を子どもという軛に落とし込み、ソールの寄る辺としても描いたがために「自立した」・「従順でない」女性としての姉を描き損なっているように思える。多分、これはわたしに姉がいるから、深読みしすぎているという部分も無きにしも非ずだとは思うのですが、母親に関しても別れた夫から自(分の足で)立(つことが)できずにいるという点でも自立した女性とは言い難い。これも多分、大人に対する反感あるいは経験則からくる投影かもしれませんが、ともかく一つの自立した女性とは言い難い。

そしてまた、大人に対するその反感や憐憫のせいで、大人というものが絶対に必要であるということを意図せず(いや意図してるのかな)浮かび上がらせてしまった。もちろん、大人が完全に存在しない世界なんてものはどんなファンタジーにしたって中々難しいものですし、そもそもこの映画は大人なしには描くことができないのですが、監督は大人を忌避しているように思えてしょうがない。だからこそ必要悪としての大人がそこにはあって、それがあるからこそ子どもたちの自由さを描いているのだけれど。

多分、そのスタンスは、監督の嫌う大人なスタンスだと思う。まあでも、監督は大人を嫌っているというより、この映画に出てくるような大人を嫌っているだけなので大人そのものに対する嫌悪というものではないのでしょうが。

うーん、そも子どもしか出てこない映画――に限らず創作物――ってあるのかしら。描き方の力量は別として、やっぱりどんなに子どもをメインに据えても大人というものは必然的に生じてきてしまうものなんだろう。大人って要するに子どもの先にあるものでしかないものねー。物語に関する根幹的で体系的な話なんてできるはずもないので、この辺にしておこう。

 

さて、ここまで自分で書いていて思ったのだけれど、これって性格が碇シンジくんな犬丸継男の物語でもあることに気づいた。クリスティアンがその矛先を村に向けていた場合の話が「丑三つの村」で「八つ墓村」じゃんすか。常に危うい空気感が漂っている作品だなーとは思ってたんですけど、それって一歩間違えたら丑三つの村にもなり得たということをなんとなく感じ取ってもいたからなのかしら。そう考えると、これはセクシャリティの話というよりも、もっと根本的な理解と受容(思いやりと言ってもいいかも)の話なのだろう。パンフはLGBTの視線でばかり語られているけれど、性的マイノリティの話ではないんじゃないかしら。それはモチーフ的・アイコン的に使用されているだけで。そうじゃなきゃ、異性愛者のわたしがここまでこの映画について語り得るはずがないし。

そうそう。パンフといえば、パンフレットの情報が薄すぎですよー。作品そのものに関する情報は公式サイトの文章の完全なコピペですよ。あとはLGBT映画の歴史とか日本在住の40歳のゲイの方の寄稿(大島渚の「御法度」に触れているあたりはなんというか本物なのだと感じますが)とか、ちょーっと映画そのものに関する情報の薄さを濁しているとしか思えませんですよ。せめて俳優のこともっと詳しく書いてよ。

俳優の情報これだけですよ、これだけ。

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ハンナとベータ、ソールの姉二人なんてどう考えても店主よりも必要でしょうが。んーやっぱり北欧の映画だとハリウッドとか英語圏よりもやっぱり情報集めるのが難しいのでしょうかね。そもそも本編も英語じゃないですし、翻訳のレベルもいまいち分からんのでどこまで信頼していいのか完全に分からんですし(翻訳家がなっちレベルだとしても気づかないわけで)。とはいえシナリオ再録は評価していいでしょう。これのおかげで冒頭のシーンでわたしが盛大な勘違いをしていたことに気づけましたし。よく考えたらソールだけがカサゴを逃がしたことが最後の最後の展開につながるわけなので、ソールがカサゴを弄んでいたというわたしの勘違いはアレなのですが。とはいえ、名前からしてもソールに加虐性がないわけではないのですが。

それと金原由佳さんの神話モチーフの部分に関しては参考になる部分が多かったです。別にそういう深い意味があるということを知らずとも陰毛のシーンとか鏡にキスするシーンとかは思春期経験者にとっては迫るものがあるとは思うのですが、神話的モチーフがあるということをわかった上で見るとまた違ってきますしね。ソールの名前に関しては露骨といえば露骨ですが。

全体に渡って印象的なシーンが多い映画だったなーそういえば。

見たときはそこまでだったけれど、こうして書きたいことがいっぱい出てきたということは、何かしら思う部分があったのだろう。だからということを決して意図していたわけではないけれど、こういうことがあると映画の感想を書いていて良かったと思う。

愛のある家父長制度

 うん。中々どうして面白い作品でしたよ、「k-19」。

 監督さんはジェームズ・キャメロンの元妻にして「ハート・ロッカー」でアカデミー賞を取ったキャスリン・ビグロー。例のごとくファースト・コンタクトなり。

BS日テレ枠ということで117分な上にCMもバンバン挟まれるので、午後ロー並にカットの嵐。本編138分なのでおそらく40分くらいはカットされているのであろうことがすごい惜しい。

  ロシア(ではなくソ連ですか)の原子力潜水艦k-19」の話なのですが、全編が英語なのですな。字幕がなっちということで色々とアレなところもあるのですが、個人的にはそこまで気にならなかった。というか、英語でこの映画を語ることに意味があったんじゃないかなと。

 つまり、戦後の映画におけるソ連の扱いというのは無機質で恐怖の対象としてしか見られることがなかったわけで、それは多くのホラー映画で描かれている通りです。ですが、この映画に出てくるロシア人たちはみんながみんな血の通った「家族」として描かれます。ディズニーのポリコレではありませんが、ソ連という国を改めて「英語で語り直す」ということに意味があったんじゃないかなーと好意的解釈をしてみたくなったりする。んまー、それこそアメリカ一強故の傲慢さとも受け取れなくはないのですが(というか普通に製作側が興業的なウケを狙った配役なのでしょうけれど)。

 副艦長のリーアム・ニーソンを長男、艦長のハリソン・フォード父親とした家父長制とした原子力潜水艦というアネハ建築の家で行われるドタバタ家族劇と言えば分かりやすいかしら。実質的な主導権というか能力を持ち現場を仕切るニーソン。そこに権力だけは持っている野心家ハリソンパピーがやってきて指揮を始めるのですが、これが家族の反感を買うばかり。そんなこんなでk-19は出発するのですが、炉心がががが・・・。

 ダメなハリソンパパをリーアムニーサンが支えて父の威厳を復権させる話。その中にハリソンの連れ子のピーター・サースガードの成長を描いたり、父の無能さに耐えかねて叛旗を翻しニーサンを頂点に据えようとする三男との軋轢とか色々。

 無機質(に描いてきた)なソ連という国の中における、エモーショナルな団欒と絆を描いた作品でした。これ結構好きですわ。

 

 余談

 キャッチコピーが「世界なんか、一瞬で終わる」らしいのですが、いやこれ世界云々じゃなくて巨大な組織という渦における極めて小さな一つのコミュニティ=家族の物語でしょうよ。「たかが世界の終わり」みたいな意味合いを「世界」という言葉に持たせているわけでないのは作品を見ればわかることですし、冷戦・原子力潜水艦炉心融解という作品の部分的要素を取り出して宣伝した方が売れると思ったのでしょうが、いやー違うでしょ。

 あと、無能な(というか有能ではない)ハリソン・フォードが見れるという点でも必見でしょう。

ダンサー・イン・ザ・ダーク

Q.なぜいまさらこの作品を・・・?

A.今日見たから

 

というわけで、一般人は知らないだろうけど趣味で映画を観る人ならば普通は知っているであろう映画監督ラース・フォン・トリアーの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を見たでごんす。

当方、これが初トリアーでございます。映画の情報に触れていると割と頻繁にこの名前を見かけるのですが、気が向いた本日になってようやく観賞と相成りました。まあなんとなく気が向いたから、という感覚で観るもんじゃなかったです。

まああれですな、シン・ゴジラのキャッチコピーで使われていた「現実対虚構」というフレーズがそのままぴったし当てはまる映画でした。ていうかシンゴの方はそれっぽいキャッチコピーなだけで、別段本編はそういった題材をテーマにしているわけではないという気もしますが。

似たような映画として吉田大八監督作品に通じる部分があるなーと。つまり、現実に対するカウンターとしての空想・夢想・虚構=映画という構図。ただ、トリアーの方が現実シーンでドキュメンタリー風に撮りつつ空想の場面ではデジタルカメラをばしばし使って色んなアングルから撮りまわす(空想だから何でもアリ)という手法とテーマの一致という意味ではより技巧的であると言えるかも。

本作の主演を務めるビョークは世界的に有名なシンガーソングライターというか音楽家らしいのですが、恥ずかしながら自分は本作を見るまで知りませんでした。でもまあ確かにこの人の歌声がなかったら成り立たんでしょうな、この映画。そりゃー「こんな歌うまい人なら歌で食っていけるでしょ。目が見えない音楽家なんて日本にもいたでしょ、佐村河内とか」とかいう野暮な突っ込みをすることもできるでしょうけれど。

伊藤氏が絶賛していた理由もよくわかる。ただ、わたしは本作が素晴らしい映画でありその理由も重々承知しつつも個人的なイデアから乗り切ることができなかった。というとかなり語弊があるのですが、ビョークが演じるセルマにどうしてもエゴを見出してしまうのである。

才能のない私は思うのです。夢を見ることの力とは、つまりはどこまでもエゴの持つ力であり、夢を持つことができることすら一つの才能であり、それゆえに才能なき私は惨めであるのだと痛感させられるから。

「病気が遺伝することを知っていながら、どうしてあの子を産んだ」

「抱きたかったから」

これがエゴでなくてなんなのか。そしてそのエゴゆえに彼女は悲劇に巻き込まれていくわけですが、エゴの力がなければあのラストには至らなかったのもまた事実でしょう。ある意味で究極のマスターベーションとも言えるような気がします。

ただ、やっぱり、最後の最後に現実で歌いだすラスト。あそこで勇気をもらえないわけはないのです。だってあそこは、夢想が現実に歯牙を食い込ませる場面なのですから。どうしようもない現実に対抗しうる夢としての映画。

それがこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」なんじゃないかしら、と。

 

 

うーん、あとなんかでドグマ95って単語を目にした気がするんですが、地獄愛だったかしら?

ざまあみ

本国ではあまり評判のよろしくない「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」を観てきたんですが、そこまで酷くないです。とはいえ面白くもないですが・・・個人的にはインデペンデンスデイリサージェンスとどっこいってとこでしょうか。

要するに、毎年量産されるハリウッド大味ビッグバジェットエンタメ映画ということですな。そんなもの慣れっこなはずだろうにどうして大きな批判の声がこっちまで伝わって来るのかというと、まあ単純に古典中の古典映画である「ミイラ再生」(1932)のリブート作品であったからということでしょう。あとはユニバース作ることを前提で話を進めてるから批判的に見られている部分もあるんでしょうな。

まーモンスターとか怪物とかは好きですがそもそも「ミイラ再生」を知らないわたくしとしては一本の映画として比較的冷静に観れました。で、上記のような感想になったわけですが。

まー色々とアレな部分があるのは否めませんな。まずカット割りすぎ問題。本編が始まる前に撮影風景をちょこっと使った予告が入ったりブランチなんかでも豪快にセットを作ってトムクルーズにアクションさせたことをアピールしてるんですが、カット割ってたり吹っ飛ばされるシーンのレイアウトのせいでもったいないことになってる。「96時間」ほどじゃないにしろ、もっと効果的に見せられただろうと。

こういうとこも含めて、なんか全体的にマイケル・ベイっぽい映画でした。役者の演技のテンションとかカットとかアクションの質とか色々。かといってベイほどぶっ飛んでるわけでもないのでなんだかなーと。脚本というか話の運ばせ方が強引なのもベイ映画を見てる感じがします。

だけんどトムクルーズがいい顔するんですよねー。ぶっちゃけ最初から最後までトムクルーズ映画なので、トムクルーズが好きな人は見に行くといいでしょうね。ビビリ顔とか胡散臭い顔とか、へっぽこガンショットとか見所はあります。

 ただですねー、めちゃくちゃ消化不良感が漂うんですよねぇ。ぶっちゃけ映像的に迫力があるのは予告で使われていた街中での砂嵐だけですし、あのシークエンスも目新しさはほとんどありませんから。トムのバスすり抜けはありますが。

最後のケリのつけ方とか、もうちょっとこう、ねぇ。

ただ、個人的な解釈として完全な悪としてのアマネットを善と悪を持つトムが倒すというのは中々いいのではないかと思います。文字通り飲み下したりしたらもっと映像的にも意味合いとしても良かったんじゃないかなぁ。バカっぽいですけど。

あとエンドクレジットのあとにおまけがなかったのがすごいショック。ユニバースを作るつもりならあれがなきゃいかんでしょうよ。

キングコングのどこに一番興奮したかって、エンドクレジット後のあれなんですよ!

 

まあトムクルーズが好きな人は見に行ってもいいし、そうじゃない人も暇なら見に行ってもいいんじゃないでしょうかね。

 

追記

字幕かなっちでしたが、そこまで気になることはありませんでした。リボーンを変身と訳すのはイミフですが。

 

あとイブサンローランも観たんですが、何となくイブと本多猪四郎かぶった。ある分野では突出した才能がありながらほかには何もできないってところが。

 

王になろうとした男

ジョン・ヒューストン監督の作品である。

名前はよく聞くよなーと思って調べたら色々作ってる監督で、赤狩りの被害に遭った人だったけとかあったんですけど、そういえばこの間もBSで「黄金」がやっていたことを思い出した。

許されざる者」の監督でもあるってことで、おそらくシネフィルの間では有名な監督なのでしょうが、わたしは前述の「黄金」と「王になろうとした男」しか見ていない。許されざる者は講義の中で部分的に観賞した記憶はあるんですが、講義の内容すら覚えていない始末。ノートは取っていた気がするんですがね。

王になろうとした男」はなんというか、寓話的というかフォークロアっぽいというか、警句的な内容だった。そういえば「黄金」もそんな感じだったなー。

二人の冒険家がカフィリスタンに行って村を救って王になってウハウハしようとする話なんですが、回想形式の話であって最初からバッドエンドであることがわかりきっている話だったりする。ただ、この二人というのが中々面白いというか、義理堅いというか変なところが真面目だったりするんですが、悪い人ではないんですよね。いや、やってることが侵略まがいの制圧みたいなもんだし、悪意なく悪いことしてるんだろうか。

ともかく、悪い奴として描かれるわけでもなく、むしろ制圧した村の人間を殺そうとする身内を諌めたりするあたり、慈悲深い部分はあるのだろう。それにしてもかたっぽ死ぬし、ショーン・コネリーだし。

セットとか道具とかロケとか、見所は結構ありんす。あとフリーメイソンを絡めてくるのとか最近の作品ではあんまり見かけないので割と新鮮ですた。

週末に色々観たので

金曜に「あの頃ペニーレインと」「銀魂」を見て土日に「カラフル」と「底のみにて光り輝く」と「八つ墓村市川崑ver)」を見たのですが、それぞれに感想を書いているとあまりに面倒なので雑然とすることを承知で感想を書いていきたい。

 まず、ペニーレインから。青春映画として面白い。どうやらアカデミーの脚本賞だかなんだかを取っていたらしく、確かに評価にたがわぬといった感じ。監督のキャメロン・クロウの作品では「ザ・エージョント」もかなり面白かったのですが、この二作を見る限りだとある業界の裏方をまさに裏方の人間の視点から描いてるように思える。ペニーに関しては監督の実体験をベースにしているらしいので、エージェントよりエモーショナルな要素が強いのも頷ける。あとユーモア要素がちゃんとあるのが素晴らしい。

 余談ですが「あの頃ペニースインで」というパロッたエロコメディ映画があるらしい。ちょっと気になる。

 

お次は銀魂。まーぶっちゃけマイナスな意味での感想しか出てこないです。

佐藤二朗菅田将暉のボタンのくだりは笑えたけど他はもうエンタの神様を見せられてる気分です。一つ言うなら映画ではないですね、はい。

ただ反面的に気づかされたんですけど、今までコミックの実写化って色々ありますけど、銀魂に比べたらちゃんと考えてあるんだなって思いますよ。セリフの浮き具合とカットのテキトー感とか、映画見てる感じがまったくしなかったというか、カット一つの重要性がすごいわかった。まあ笑ってる人がいたからそういう人にはいいんじゃないでしょうか。ただ原作読んでない人は多分ついていけないので気をつけてほしい。

 

カラフル。これは監督のトーク付きだったのですが、普通に面白かったです。ていうか話がエグい。母親の不倫の描写の部分とか、婉曲とはいえいかんでしょうよあれは。

監督の話は色々と面白かった。尾崎豊の歌をどうしてもフジのプロデューサーに入れろと言われたので嫌いだけどねじ込んだとか、食事の描写とか色々。まーあの場所にはあんまり行きたくないかもしれないなぁ。オタクの醜悪さというか、それを隠そうとしないオタクのキモさみたいなものが集約された場所だった。ていうかオタクのメガネ率って偏見とかじゃなくてマジでそうなのだろうなー。

 

底のみ良かった。ちょっと疲労気味で冒頭とか見逃したりしたんですが、随所に見られる描写が良い。ハゲの前説は聞いてなかったんですけど、信号の対岸とか感情の高まりを鉄板の音で表現したりとか、オーソドックスながら手堅い。あと池脇千鶴の演技力とかぱないですね。

 

八つ墓村。うん、これはテンポ良くて面白いですよ。若い豊川悦司とか新鮮でしたし。

 

 

BSがすぎょい

ヒートとジャズ大名を見たんですが、いやはやなんというか映画の多様性みたいなものをあらためて認識したような気がしました。

 

 まずヒート。いや、なんとなく午後ロー映画だと思ってたんですよ、最初。チーム強盗ものみたいな感じで。午後ローを馬鹿にしているとかではなく、ねぇ? あるでしょう、色みたいなものが。

 ところがギッチョンてれすくてん。もっとシリアスな内容で驚き桃の木山椒の木ですよ。セリフが上手く伏線として機能しているし、あとガンアクション。市中での銃声の文字通り響く音。マイケルマン監督の作品はこれが初めてですが、ちょっと要チェックですわ。

 

 で、ジャズ大名筒井康隆原作で岡本喜八監督ということでハズレはないだろうと分かっていつつ、実は両名の作品をまともに読んだり観たりするといったことはなかったんですよね、恥ずかしながら。

 うん、ともかく楽しい。ケネス・ロナーガンがユーモアのない人生なんてクソだよクソ(とは言ってないが)と申していましたが、それからするとこの「ジャズ大名」はなんともユーモアに満ちた映画であることか。ともかくテンポや間の詰め方、人物の動作のタイミングなどで笑わせてくれます。いやぁ、観ていて普通に楽しいってこんな感じなんでしょうな。筒井的なかっぺディスも随所に見られつつ、音楽を奏でたままエンドロールにいく潔さよ。

 あと個人的に殿様と次女の松枝姫が好きです。特に松枝姫、別に顔が可愛いとかそういうわけじゃないんですけど、こう、女性らしくしているわけでもない、むしろ男性よりなのに平然としているところに愛嬌があるというか。これは今までにない感じの、すごいいいのです。