dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

消化録と消化不良を引き起こす名作

「許されざるもの(1992)」「月曜日のユカ」「男の出発」

許されざる者」は正直、まとめて消化するには若干重い映画で困っている。

とりあえず「月曜日のユカ」から行きますか。こちらも、結構面白い映画ではありましたから。

まず冒頭の三ヶ国語ごっちゃ+日本語字幕が横浜という街の雑多性をユーモラスに表していてるのがすごい新鮮だった。あとオープニングが面白い。いわゆるオープニングのためのオープニング映像かと思いきやユカ(加賀まりこ)の撮影だったというのがアイデアをきかしていてハッとさせられる。ほかにも、所々でサイレント映画というかチャップリン的というか、コミカルな音楽に早送りのモーションをつけたりしていて、時代を感じたりはしますが画面に注意を向けてしまう。あと、ああいう編集をかけるときは必ず画面が縮まっていくんですが、あれはそういう仕様になっているのだろうか。

それと全体的に贅沢なフィルムの使い方してるなーと。人物や顔をカメラに収める位置なんかもすごい独特で、人物を収めるときに空間的余白を持たせたり、耳だけをアップにしたり、加賀まりこの顔面アップ長回しとか、ともかく印象的な画面が多かった気がする。

話はなんというか、フェミニスト(笑)が見たらちょっと怒りそうな内容ではあるかもしれない。ユカは無邪気というより何も知らない愚者で、常に目の前の男に全力で男を喜ばせることに喜びを感じているということに偽りがない。だからああいう顛末になるのだけれど、あれはあれで吹っ切れた感じがあって良いのかもしれない。最後のカットもフランス映画っぽくて洒落ている。

 

「男の出発」。出発と書いて「たびだち」と読ませるセンスの審議はここでは置いておくとして、なんかこれ、新人の通る道みたいなものを見せられてい感じがしてすごいもやもやする。ガンマンになりたい少年がガンマンの一行に加入し、いびられ・ミスして怒られ・人を殺し(許されざる者を観たあとだったので色々と思うところがあったりする)・最終的に別のコミュニティに属することになるという。

観ていてすごいムズムズする映画でした。

 

イーストウッドの「許されざる者」は結構ズシンとくるタイプの映画だったりするんじゃなかろうか。

パーフェクト・ワールド」のときもそうだったけど、イーストウッドはかなり怜悧な視線で物事を睥睨しているような気がするのですよねー。特に本作に関しては主人公のウィルに結構な思い入れがありそうなんですが(マニーと同じ年齢になるまで制作をストップしていたくらいだしbyウィキ)、それにしてはやはり冷静に俯瞰しているような。内容的にウェットになるんですけど、やっぱりどこか一線を引いているというか。冒頭と最後の説明字幕はぶっちゃけどうかと思うんですが、あれくらいの線を引いてマニーがどういう人物だったのかということを周知させる必要があったのだろうと思う。そうすることでマニーの悲哀やそれゆえに情感が伝わりやすくなっているというか。つまり、マニーの感情や行動原理に根拠付けをするために合理的な演出を行っているというか。

それが際立つのは、西部劇というものを本作が相対化しているからじゃないのかなーと。これまで数多くのガンマンを演じてきたイーストウッドが主演と監督を務めていることにもかなりの寓意というか意味があるはず。

どういうことかというと、西部劇という当然のように銃が登場しあっさりと人が死んでいくジャンルそのものへのアンチというか問いかけに思えてならない。それほどまでに、この作品においてマニー側(あえて「ヒーロー側」と呼びますが)の連中は人を殺すことに躊躇している。そこには過去の自分に対する禍根だったり、そもそも人を殺したことがないことからくる「殺す」こと「死ぬ」ことへの恐怖があるからだ。劇中でもマニーがはっきりと死ぬことが怖いと明言しているシーンがありましたから。

もちろん、というべきなのか。演出もピカイチですよねー。キッドが殺人の処女を切ったあとに酒に逃避し、それを促す。それ自体も、マニーが過去の自分と重ねているのだろうと思いながら見ていると親友のネッドが死んだことを告げられて自身も酒を口にし出すところとかさり気なく気が利いている。

ちょっと北野武の映画と似ている部分があるなーと思うのは、仁義というか義理という概念が物語の運動を促し、それそのものが人間(とそれが構築するコミュニティ)のシステムであると言い切っているようなドライで俯瞰したような部分があるのだと思えるのですよねー。どちらとも一発撮りをすることで有名ですが、そのへんも実は通底するものがあるかさこそなんじゃないかーと思う。うん、これは間違いなく傑作でしょうね。

それにしても「荒野の七人」を先に観ていて良かったですよ、ほんと。「許されざる者」を先に観てたらあんなに楽しい映画を素直に楽しめなかったはずだから。

 

 

 

 

 

アウトレイジ最終章(と録画消化録)

アウトレイジ面白かったよーイェイ。

で、その前に録画で観たものにも軽く触れておこうかと思います。

まず「ネイビーシールズ:オペレーションZ」。ワールドウォーZと同じでZの示すとおりゾンビ映画です。うん、まあタイトル以上のものが出るということはないんですけれど、92分という短くまとまった小品としてはまあまあかなと。それでも長く感じる部分がなくもないんだけど、ながら見するには割と最適なのかもしれない。チープな部分もあるし目新しいところがあるというわけではない(運転するゾンビは割と笑えました)んですけど、なにか色々とゾンビの可能性を模索しようとして考えなしに詰め込んでみて悉く失敗しているような愛嬌があってそんなに嫌いではなかったりする。ながら見しつつ、ちょっとしたポイントとかで「おっ」って思う絵ヅラを楽しめればいいかと。

次は「ザ・ロック」。ベイの作品で、相変わらず爆発する。ただ、もはやルーティーンと化したトランスフォーマーシリーズに比べるとピタゴラスイッチな破壊表現は観ていて楽しい。路面電車のところとか。あとショーン・コネリー出てるから、それで結構十分楽しめる。あと吹き替えで見るのがいいかなーと思う。なんでって加藤精三の声が久々に聞けたからとか、ほかにもおっさん・おじさん声優がてんこ盛りなんで。

最後は「荒野の七人」。今更とやかく言うつもりはなく、単純に楽しい作品。七人の侍のエッセンスを短くまとめてエンタメ特化として作った西部劇映画。スティーブ・マックイーンチャールズ・ブロンソンジェームズ・コバーンといった俳優たちの活躍が見れますし、原作にはなかった子供たちとのやり取りとかもあって普通に楽しめる作品になっている。マグニフィセントセブンはこの作品の正式なアップデートって感じで良かったですが、こちらのほうが幾分かテンポが良い気がする。BSでカットされていたからかな。

 

 

では本題の「アウトレイジ 最終章」。ふっつーにネタバレしますのでご承知を。

公開前のメディア展開からもかなり大衆向けにして盛り上げていたのは知っていましたが、わかりやすいエンタメになっていながら前作までにはなかったたけし節がより感じられる作品になっていました。

まず全体的に画面がブルー。アウトレイジシリーズは初期のたけし作品に比べると画面はそこまで色合いが青々しくなかったように思えるんですが、本作はしょっぱなからブルーです。パンフレットの写真と見比べるとどれだけ青くしているのかがわかりますですよ。

あとやっぱりカメラワークがすごい独特。パンの仕方とか、カット割らないのとかすごい独特。

話はシンプルですが、群像劇としてそれぞれの人物たちの思惑と行動がしっかりと結びついていて物語の推進力になっているのはさすが。ある人物の行動が別の人物の行動を誘発していくので自然と話を運んでいくのがクールですよねー。

色々な媒体でも言及していましたが、劇中で描かれているのは実社会のやりとり・構造を転写したものですから、誰しもが楽しめるというのはそのとおりだと思います。

えー今回は西田敏行演じる西野が前作の小日向演じる片岡の役割を少しになっていて、出番が多くなっている。その分セリフも多ですが罵倒とか仕草とか笑える箇所がかなり多くなっています。それと塩見三省演じる中田も西野と花田(ピエール瀧)と野村(大杉漣)の橋渡しとなっているので出番セリフともに多いのですが、この両名は病体だったためにぶっちゃけ前作の勢いが結構なくなっているのが惜しい。特に塩見三省は前作で声張って怒鳴りちらしていたので、今作では声がかなり弱々しくなっていたのが仕方ないとはいえ口惜しいですな。

ピエール瀧の変態でマゾでだらしない肉体を晒すしょーもないヤクザや、岸部一徳の腹の底が見えない部下とかフィクサーの張を演じる金田とか山王会のぼんくらなりにそれぞれ考えているのとか、それぞれに言及していると結構面倒なくらいいい連中がいますね。

ただ、今回の騒動のきっかけとなった花田や暗躍した西野が普通に昇進しているのが人によっては「えー」となる部分かも。「たけしは花田を殺さずに自殺しちゃっていいのかよー」と。わたくし自身はたけしーーっていうか大友のボスである帳が話をつけてしまった以上、これ以上の迷惑はかけられないという部分と、それでもせめて舎弟の敵はということでケリをつけるというのは納得のいく部分でもあります。それに、実際に騒動の元凶がのうのうと生き残るというのは実社会でも全然あることでしょうから、不自然なことではないし。

暴力表現はやや減ったものの楽しい惨殺シーンもありますし、出所祝いのところか笑いながらも幻想的な仕上がりになっているので良いのでは。

 

 

あとパンフレットも良かったです。オフィス北野の制作体制だからこそのパンフに掲載されているであろうプロデューサーインタビュや音楽や音響を担当した鈴木慶一と柴崎憲治がどこをどのように音の使い方を意識していたのかとか、普通のパンフレットにはあまりないような内容が載っていたりして、かなり充実しています。通常よりも100円高いですが前二作の総括だったり最終章に関する三浦友和へのインタビューだったり内容は充実していますので、観たあとで「そういえば前作のあいつらってどんなんだったっけ」「劇中に出てる人の前回までの立ち位置とかって?」となっているのでオヌヌメ。あとあと、中原昌也氏のレビューも中々私的かつ詩的(そのくせちゃっかり分析してみせているのが笑える)なので「最終章面白いけどドライすぎ〜」と思ったかたはウェット成分を氏のレビューから摂取するが吉。

 

たけしの次回作は自身の処女作である「アナログ」の映画化を考えているようですが、アウトレイジのシリーズとしても張会長の成り上がりとか大友の過去話とかもできるなーとか言っていたので、それはそれで観てみたいかもです。

初めてシネマート新宿に行ってきた

だって「アンダー・ハー・マウス」がやってるの東京ではシネマートだけなんですもの。

スクリーンでかいのに通路小さいっていうね、シネマート新宿。でも雰囲気はミニシアターっぽくて(ていうかミニシアターなのか?)いい感じ。

で、何を見に行ってきたかというと前述した「アンダー・ハー・マウス」っていう映画でした。「アウトレイジ」を真っ先に行きたかったんですが、友人に誘われたので明日にして今日は公開館数が少ない映画を見に行ってきました。まー同性愛を扱った映画は人並みに興味がありましたし、そういう映画をリアルタイムで観てみるというのも色々と見聞を広める上で重要だと思ったので。

 自分としては珍しく、こういうミニシアター系の映画でパンフレットを買わなかったなー、そういえば。なんでだろう、自分でも理由はよくわからない。

 

 

で、どうだったか。

うーん、なんというか「1に感情2に感情、3・4がなくて5に感情」という作りの映画になっていて、人物に感情移入できないとわたくしみたいに終始映画そのものや同性愛の分析に没頭することになるかも。ぶっちゃけ、恋愛はわたくしの人生の中でほとんど重要視されている要素ではない(少なくとも今は)ので、今回みたいな恋愛映画って実はそんなに興味があるわけじゃなかったりする。「愛」ならともかく「恋」は正直、それだけを延々と見せられるのは結構キツいんだけど、この映画はまさにそれでした(笑)。突き抜けるぐらいの純粋さとか、そういうのがあればまだしも、正直なところ監督の意図とは裏腹に「アンダー・ハー・マウス」はかなりクリシェ的な映画になってしまっていると思う。なんでそうなってしまったのか、っていうのは、まあ無知なパンピーの当て推量で言わせてもらえば「ジェンダーレス」という部分に監督自身がとらわれすぎてしまったがためなんじゃないかなーと。おそらく、スタッフが全員女性というのも、原因だと思うんですよねー。マイク・ミルズ監督の「20th century women」があれだけの完成度を誇っていたのを思うと。いや、あっちは同性愛を描いた作品ではないんですけど、人物を定型化せず生きた人間として描いていたのと、女性がメインということで引き合いには出したんですけど。まあその辺の、女性だけで作った同性愛者の映画という部分に関する考察はかなり長くりそうな気がするのでここでは書きませんが。

つって、わたくし自身はヘテロで「趣味:映画観賞」な一般人ですので、同性愛者の方々、とりわけレズビアンの方々がこれを観たらまた違う感想になってくるのやもしれませんが、映画そのものの出来栄えとは別に語らにゃいかんですし。あくまで感想ブログですから。

少女コミックとかラノベ・横文字っぽい系の小説をベースにした恋愛映画は好みではないのですが、この映画は結構そっちに寄っている気がする。かといって、ああいうのみたいに「ABCのAまで」で終わるような内容でもなく(これ18禁だし)、普通に生々しい部分を見せる、というかほとんどベッドシーンだから。レディコミック的と言えばいいのでしょうか。ちょうど、前述したシネコン恋愛映画とレディコミックの中間のバランスの映画だと思う、内容的には。レディコミック的な殺伐とした空気や生々しさもあるんだけど、それは実のところ表面的な部分だけであって、一方ではコテコテの恋愛を捨てきれずにいる。ぶっちゃけ青い。

 

とりあえず、ストーリーを公式サイトから引用しておきます。

心身ともにたくましいダラス(エリカ・リンダー)は、昼間は大工として働き、夜は毎晩のように違う女性と関係を持っては、自分の居場所を探していた。 ある日、屋根の上で作業をしていたダラスは、仕事現場近くに住むファッションエディターのジャスミン(ナタリー・クリル)を見かける。 ひと目見た瞬間、麗しいジャスミンに惹かれたダラスは、彼女に熱い視線を送るのだった。 ジャスミンは婚約者のライル(セバスチャン・ピゴット)と順風満帆な生活を送っていたが、彼が出張中のため、女友達と夜遊びに繰り出し楽しんでいた。 そんなとき偶然入ったバーで、ダラスと再会する。

誰からも縛られない自由な生き方をしているダラスの凛々しい姿に惹かれていくジャスミン。次第に、二人は固い絆で結ばれていくようになる。 身体を重ねるごとに互いに気持ちが高まっていくふたり。しかし、結婚を控えたジャスミンにとって、今まで通りライルと添い遂げる人生か、ダラスとの愛に生きる人生か彼女の中で葛藤が生まれ初めていた。 果たしてダラスとジャスミンがくだす決断とは――

 

こんな感じですね。

エリカ・リンダーはたしかにかっこいいしスタイルも抜群で腹筋割れていて「いいなー」と思ったんですけど、彼女が演じるダラスは正直魅力的とは言い難い。だってさー、彼女自分では「もっと複雑」とはいいますけれど、描かれ方は紋切り型もいいところでしょう。やってることと言えば大工仕事(なんかすごい抽象的)かバーでひっかけるかセックスしてるか、それらだけで彼女の個人性というものがまったくもって立ち現れてこないんですもの。彼女自身の口から親に対する恨み言のようなものは語られますが、それが彼女の現在の生き方にどう関係しているのかということが見えてこない。かなりきつい言い方ですけど、リンダーに男的な衣装を着させておけばいくらか「そう」見えるというレベルでダラスの人物造形の作り込みが止まっているんじゃなかろうか。身体的には女性として生まれながら男性的な志向を持っていることを示すために大工の仕事をさせ、オーバーオールを着させジャケットを着させ、トップキック(違ったかもしれん)を運転させる。これがクリシェではなくてなんなのだろうか。

ジャスミンに関しては、監督のインタビューから察するに潜在的バイセクではあったものの男であるライルと付き合っていて、ダラスとのキスによって芽が出たという感じかな。この辺は、結構うまかったとは思う。たぶん普通は女性が女性にキスされたからってあそこまで感情的にはならない。でもジャスミンは感情的な反応をしてしまう。なぜなら、それがライルへの不義=恋愛感情であるから。ここをセリフではなく反応で描いたのはいいと思う。その反応自体がちょっと過剰かもしれないけど、意識していなかったものが自分の中にあったということに気付かされればああもなるだろうし。

でも、残念なことにこれ以上はジャスミンのセクシャルとアイデンティティは絡み合うことはなく、陳腐な恋愛模様の中に沈められていってしまうんですよね。言いたかないけど、主役二人が異性だったら話題にすらならなかったんじゃないかなぁ。ポリコレの褌を使った卑怯者でもあり、ポリコレによる犠牲者でもあるというか。悪い意味でセクシャリティやポリコレを意識しすぎてしまったんでは。手段が目的になってしまっているのではないか。

辛うじてライルに対してはそこまで悪い印象はないんですけど、あんまり登場している場面が多くないからなんですよね・・・。でも一応、彼が差別主義者ではないということは提示されているから、って部分もあるか。彼女が女に寝取られたってミソジニーは真剣に怒ったりしないはずだから。だって相手は女であって恋敵にはなりえないとタカをくくっているから。同性愛そのものを侮蔑する輩もいるだろうけれど、少なくともライルはそういう描かれ方をしていない。それと、全体的にシーンの見せ方が悪い意味でCM的。

 

あと、これは限りなく偏見に近いイメージではあるんだけど「同性愛者は肉体関係を優先する」っていう印象が自分の中にはある。ほら、ハッテン場とかもそうだし銭湯とかでやるようなゲイがいるらしいですからね。もちろん、ヘテロにもそういう連中はいる。

で、ここを至極当然のように描いてしまったことも結構問題があるような気がする。前述したとおり、ゲイなんかはともかくそこらじゅうで誰彼構わず(好みの問題ではなく)セックスするという印象が自分の中ではあるのだけれど、そういうことをする人たちにはちゃんとした理由があって、そうじゃない肉体関係よりも精神的な繋がりを重視する人もいるんじゃないかってずっと思っていた。だけど、この映画ではそれをそもそもの大前提として描き、どうして「肉体を優先するのか」という疑問はそもそも提示されない。それを所与として描いているから。

監督はギズモード・ジャパンのインタビューで「LGBTコミュニティをいまいち知らない人たちが描いている場合があまりにも多いんです。リサーチをしたり、なんでも聞ける友達がコミュニティに属していればいいのですが、そうでない場合は「こうなんじゃないかな」「こういうもんだろ」と想像しながら表現を作ってしまっています。その一つの例が『アデル、ブルーは熱い色』。これは完全に男性側からみた「女性同士ってこうなのであろう」というファンタジーなんです」と答えている。

この発言にはおそらく批判的なニュアンスも含まれているのだろうけれど、ファンタジーは悪いことではない。いや、最初からそういうふうに描く意図があって作品の中で上手く機能しているのであれば、ということだけれど。この意趣返し的にリアルなLGBTを描こうとして肉体優先が自然なものとして描いているのだろうが、だからといって映画のクオリティに寄与するかというのは別問題だ。

むしろ、束縛した母へのあてつけとして同性とのセックスに明け暮れているといった理由付けのほうがパーソナリティにつながっていくじゃんすか。

LGBTの普遍的なリアルをただ持ち込むだけでは、LGBTを定型的な枠組みに押し込むだけにしかならない。で、本作は多少なりともそうなってしまっているのではなかと思う。この辺はバランスが難しいというのはあるだろう。それに多分、ヘテロとか同性愛とかに偏見がない-ーというかその差異の理由に興味はあっても差異そのものへは関心がない-ー自分がフラットに見すぎているというきらいもなきにしもあらず。だから、見る人によってはこんな面倒なことを考えたりはしないのかもしれない。

 とはいえ、やっぱり彼(女)らのうたう純愛というものはどうにも浮薄に感じてしまう。だって恋愛ってそもそも性欲だから。性欲を恋愛という形で言い換えているだけにすぎず、純愛っていうのはその先にある肉体を超越したものだと思っている自分にしてみれば、今回の描き方は「あ、やっぱり同性愛者って心よりも肉体が優先しているのだろうか」と思わせかねない。セックスから始まる純愛を否定するつもりはないし、ダラスが冒頭でセックスしていた女の元を訪れてセックスしてしまったのも本当にジャスミンが好きだったからむしゃくしゃしてやってしまったというのも感情としては理解できる。だからこそ、それが青いということであって肉体や遺伝子に対する理性の敗北ではないかという気がして乗れないんだす。

 

初回だったんでルウト氏とアキラ氏(両名ともまったく知らない) という方々のトークイベントも観れたんですけど、このトークの内容からも色々とヘテロとの差が浮き上がってきて色々と興味深かったです。

 

まあ、そもそもからして自分に向いている映画ではなかったということで一つ。

 

試写から帰還

そういうわけで試写会に行ってまいりました。

で、何を見たかというと「アトミック・ブロンド」ですた。「The Coldest City」というグラフィックノベルという原作があるらしいのですがこちらは未読。

えーと、まだ未公開ということで万が一検索でこのサイトに引っかかってしまった哀れな人のために、ネタバレありとだけまえがきしておきますか。

 

 それと、もしこのブログを読んで見に行こうとする人がいれば(まあいないと思うけど)、公式サイトなりビラなりの人物相関図は確認しておいたほうがいいかもしれません。そうしないと、誰がどの陣営にいて何をしようとしているのかがわからなくなってきますから。それぞれのキャラクターの名前も日本人的にはどれがどれなのかわからなくなるとも思いますから。ええ、わたくしの理解力が乏しいだけですよ、はい。悪う御座いました。

最低限、東西冷戦のことを念頭に置いておかないとアレかも。といっても、ベルリンの壁あたりのことを理解しておけば問題ありませんが、結構頻繁に場所移動するので。

一つ面白い物語構造として、冒頭シャーリーズ・セロンの寒々しい入浴シーンから始まり、彼女がMI6の尋問から幕を開ける。しかもセロンの顔面はボロボロ。いったいどういうことなのか、と思えば尋問の中でセロンが尋問に答えていきながら起こったことを時系列的に追っていくという構造になっています。で、最後にどんでん返しが待っているわけです。たしかに、ジョン・グッドマンという配役は絶妙だと思う。あのラストを考えると。

シャーリーズ・セロンはモデル出身だけあって手足は長いは顔は怖いわでこの役柄にピッタリ。まあ別に特段彼女は好きでもないんだけど、やっぱり映えますわこの人。脇を固める役者にはガゼルたんことソフィア・ブテラ(AV女優の高橋しょう子に似ている気がする)やマカヴォイといった今をときめく俳優陣。ブテラのレズ艶とかマカヴォイのザコ敵っぽさの中に垣間見える不安定さやしたたかさとかよろしいですよ。マカヴォイはああいう多層的なキャラクターを演じさせるとピカイチですな。トビー・ジョーンズはあれか、ドイツが絡まない映画には出れない縛りでもあるのか(笑)

 前の方で相関図があーだこーだ言いましたが、やってることは「ブリッジ・オブ・スパイ」と同じです。あちらは政治的駆け引きと会話劇を巧みな演出力で現実的に描いた作品でしたが、こちらは計算された抜群のアクションで見せる非現実的な映画です。あ、でも「アトミック~」は要人(情報)回収に失敗しているな。まあ最後まで見ればわかるが、そこが最終的な目的ではないので構わないのですが。

ジョン・ウィック組の作品ということもあって暗い色調のネオンがずっと画面を覆っているんですけど、これは非現実感を増幅させるとともに後期の冷戦を背景にしていることも理由にあるんじゃないかなーと。あとMGSぽくもあるかなと。何がとは言えんけど、なんとなく。アトミック要素かな。

80の曲がかなりかかるのは予告編からもわかっていたんですけど、最近の映画は80S流すのが流行ってるのだろうか。ガーディアンズしかりスースクしかり、SINGなんかモロですし。どれもちゃんと意味合いがあって、しかもほとんどかぶらないっていうのは当時のヒットソングの層の厚さを感じさせますな。

で、やっぱり白眉は公式サイトにも記載がありますが中後半あたりのマンションの階段における七分半のワンカット戦闘シーンでしょうな。ここは半端ないです。デジタル撮影なのか「ラ・ラ・ランド」みたいにガチで一発撮りなのかはまだわかりませんが、ともかくこのひと続きのシーンはその幕引きも相まって緊張感からの「タスケラレナカッタ・・・」喪失感がすごいです。あの人、悪い人じゃないだけにねー。

ちょいちょい「仮にも間諜なのにそれってどうなのよ?」と思わないでもない部分もありますが、アクションが楽しくておまけ(ってほど微々たる要素でもないが)でスパイサスペンス要素もある映画なんで、普通に楽しめるんじゃないかしら。IMAXでもう一回くらいちゃんと観てもいいかなー。でもアウトレイジも控えてるしなー。

 

ちなみにセロン演じるロレインはバイセク設定ぽいのでソフィアとのまぐわいがあるしセロンは普通に裸晒してるしで露出度が高い映画でもあります。わたしとしては「スプリット」並にマカヴォイの裸も期待してたんですがね。

 

試写会いってきます

えー本日の夕方に映画の試写会に行ってきます。

これって向こうのブログに書くべきなのかこっちに書くべきなのかわからんですな。

まあ一応映画の話題だし帰ってきたら感想は書くだろうからこっちでいいか、予告として。

あと再放送だけど例のごとくNHKBSのドキュメンタリーがやっていたので観ましたです。「ぼくがこの世界で生きる価値」というタイトルで、6月にやっていたものの再放送らしいです。個人的にはミシェルの方よりわかりやすかったかな。視聴者には意地悪な作り方にも思えるんだけどね、若干。

アラスカ=パーフェクトワールド

 イーストウッドと言えばウエスタンだったりダーティハリーだったり(性豪だったり)と血や暴力の匂いが充満する映画に出たり撮ったりしているイメージがあると思うんですが、「パーフェクトワールド」は毛色がそれらとは異なるように思える(どうでもいいんですけど来年に同名の邦画がやるらしく検索汚染が・・・)。いや、コメディよりの映画には前から出てはいましたけれど。

 

 脱獄犯と人質となった子どものロードムービーということで、「ROGAN」や「ペーパームーン」と同じ感じで自分の好みではあるんですが、なんだかそういう目線で素直に楽しんではいなかった自分がいる。それよりももっとこう、「トラジェティック・コメディ(悲劇的な喜劇)」としてメタ構造的に俯瞰して観ていた。映画的にはそういう作りにしていたわけではないんだろうけれど。もちろん、所々で感情を揺さぶられるシーンはあって、コスナーも大好きだし場面的にウルっとくる箇所もそれなりにあるんだけど、話の流れ全体ではやっぱりどこかこの映画に対して感情的になりきれない自分がいた。

 自分なりの理屈では「悲劇的」の部分はコスナー演じるブッチがフィリップに撃たれてから最期に至るまでのアイロニカルな部分(彼の過去も含め)で、「喜劇」とはその流れそのものにある。

 イーストウッドはともかく早く撮ることを第一に考えている節があって、「アメリカン・スナイパー」ではそのせいでCGの赤ちゃんが取り沙汰されたこともあった。これがどういうことかは推測の域を出ないのだけれど、個人的にこのイーストウッドのドグマがこの映画に感情移入をさせなかった要因なのではないかと思ったりする。

 つまり、効率的・理性的なイーストウッドの作家性が本来であればエモーショナルな作風である「パーフェクトワールド」において感情移入を許さない作りにしてしまったのだと。彼の監督作品ではないけれど、ダーティハリーにおけるハリーのしたたかさとは実のところ理性的に計算された暴力ではあるし、本質的にそういう怜悧な部分があるのだと思う。

 そして、それが故にあまりにも「腑に落ちすぎ」てしまっている映画がこの「パーフェクトワールド」なのではないかと思う。全てが論理的に組み立てられ定石通りに物語が進行していく様はある意味でとても綺麗な脚本でありながら箱庭的な気持ち悪さすら感じさせてくれる。人物の配置もおそらくは計算によるものだろう。ぶっちゃけこの事件に関してFBIという存在は削ってしまっても構わない。もちろん、最後の引き金を引く役割として重要ではあるのだけれど、それは何も同伴したFBIである必要はない。なぜならあの場にはFBI以外の警官も大勢いたからだ。それにもかかわらずなぜFBIという役割を負ったキャラクターを登場させたのか。それは多分、イーストウッド演じるレッドのコントロール外にある存在を配置させることで最後の悲劇に至るまでの流れを自然に見せるためだろう。その結果としてあまりに不自然になってしまっているのだけれど。だって、それまで何一つ物語に関わってこなかったFBIのスナイパーがここに至って引き金を引くというのはあまりに無機的だろう。

 これの意図するところは、レッドの善性を際立たせることでより一層計算的なエモーションを掻き立てるためなのではないか。

 BSでCMがめちゃくちゃ多くカットされた部分もかなりあるだろうから、もしかすると全編通して見るとまた違うのかもしれないけれど、少なくとも自分にはこの映画はとてもちぐはぐに見えた。つまらないとか面白いとか、そういうことではなく。

 

 まったく関係ないんですけどイーストウッドってもう87歳なんですね。去年の「ハドソン川の軌跡(まあこの邦題はサリー的にアレなのでしょうが)」も面白かったですが今年も「The 15:17 to Paris」が公開を控えていた入り、米寿に差し掛かった今尚健在のイーストウッドじいちゃんには是非長生きしてもらいたいところ。