dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

初カキコ…

ども…
俺みたいなへたれでグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
今日の利用客の会話
あの流行りの発達障害のカキタレかわいい とか タランティーノ云々 とか
ま、それが普通ですわな
かたや俺は電子の砂漠で連なった人間を見て、呟くんすわ
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
好きな音楽 ヴェルディの「鎮魂歌」
尊敬する人間 ヨーゼフ・ハイター(虐殺行為はNO)
なんつってる間にエンドロールっすよ(笑) あ~あ、インディ系の辛いとこね、これ

 

はい。以上が茶番になります。本当は少女漫画とかドタバタラブコメディ風のあらすじ紹介に仕立てる導入法も考えたのですが、さすがにそこまでの気力はなかったのでコピペ改変して書いた。公開はしたが後悔はしていない。

これでも結構、薄らいだほうだと思います。グロ成分が。

そんなわけで大多数の人が「シン・ゴジラ」を見ているであろう中、わたしは「ムカデ人間2」を見ていた。まあ、シンゴに関しては劇場で5回見てるしBDも持っているからわざわざ見る必要もなかったし。ていうかIMAXで2,3回観たせいで家の機材で見てもイマイチ迫力が足らないというのがある。

 

一応、前作の方もアベマで観賞済みではあったのですが、これといって書く事がなかったので(というか忘れてた)・・・。いや、演出は優れていたし決してつまらない映画ではなかったんですけどね。笑える部分もあるし地味に感動できる場面とかも結構あるし、やっぱりグロいし。

そこにくると「ムカデ人間2」はまあなんというか、自分にとっては本当に色々な意味で嫌な映画だった。まずグロ。1のグロも結構、自分にはキツかったんですが、2は本当に気分悪くなってしまっただ。グロは苦手なんで劇場の大画面じゃないことを感謝しつつ、細かい部分が見えにくいというのもあってすごくジレンマだったり。シンドラーオマージュの糞の色もすごくわかりづらかったし。

 

とまあ、前置きはともかくとして、相変わらず演出はうまい。

映像は見せず、声だけでマーティンが赤子のときに性的虐待を受けていたことを示していたり、医者もまた父親と同じような性倒錯者でありマーティンにとっては忌まわしい存在であることを頭を撫でたときの声のエフェクトや腿さすりで表したり。

母親も母親でwaspじゃないけど、邪険に扱っていたり。まああんな息子がいたらわからないでもないですが。というか、わかりすぎるくらいにわかりますが。

マーティンのキモさというか逸してる感も凄まじく、ローレンス・R・ハーヴィーの肉体がまずもうキテる。あと顔。まともに言葉は話さないのに、あのでかい目だけで見せるのは菅田将暉福士蒼汰にもできまいて。

ローレンス氏は大変な親日家(というかジャパニーズマイナー文化に造詣が深いらしい)ということで、 なんかこう、マーティンを観たあとだとすごい複雑な気持ちになる。

 

グロばかりが前面に出ているのでややほかの部分がどうでもよくなってきてしまいそうですが、わたしはむしろトム・シックス監督の作劇に注目した。や、グロが苦手なんで必死に別のベクトルを探っていただけなんですが。

で、その作劇っていうのが、笑えることにマーティンに感情移入させようとしているんですよね、あきらかに。変態医師から始まりご近所騒音問題に猛毒親によるマーティンの被虐を描いているわけで。前作のハイターにはそういった過去を背負わせることなく自己完結したアーティストとして描いていて、その異常性に根拠を与えることはしていない。だからこそ、自分にとっては「2」ほどには情動がなかったのだと思ふ。

感情移入も、まあその程度ならいいんですけど、あまつさえマーティンの射精=童貞卒業で感動させようとさえしているのがまたなんとも言えない。で、ハゲの解説を勘案するとトム・シックスは彼に自己投影しているのかもしれないわけで(笑)。これはまあ善し悪しというレベルの話ではないので、わたしの出る幕ではないのですが。

ただ、このマーティンの描き方が自分にとってはかなり嫌なものである。

フリークス擁護派の自分にとって、これは(これにかぎらず、そういうのはあるものですが)かなり悪魔的な作品である。なぜならフリークスをフリークスとして、闇落ちしたーーいや、闇落ちというのではなくそもそも論として闇を持っているだけの話であって、「2」はそれを描いたに過ぎないーーフリークスの悪辣さを目も当てられないグロさで描写しているからだ。

これもフリークスなのだ、と。崇高なアーティストでもないという点が、フリークスとしてしか見れない作劇が本当に辛い。マーティンがアーティストであれば、そういうふうに見ることでフリークス性を薄めることもできるのだろうけど、残念なことに彼がアーティストでないことはその不完全な出来栄えのムカデ人間からも、そしてそれに満足していることからもわかる。この点で、前作の完璧主義のアーティストな博士とは違う、徹頭徹尾卑俗で野卑なフリークスであることが強調されているわけで、フリークス擁護派としては彼をフリークスとして見る以外にないのが辛い。

つまるところ、排斥された者として彼を心の底から受け入れなければ自分の器を止揚できないということなので、それを直視しなければならないというのは本当に辛い。

 

シンプソンズでマーティンくんを見るたびにローレンスの顔がちらつきそうで怖い。

 

クボとかぐや姫って似ている

この間の「クボ」の感想で書きそびれたことなんですが、「クボ」における月と高畑勲の「かぐや姫の物語」における月には通じるヴィジョンがあるのではないかと。

どういうことかっていうと、要するに理解の外にある世界としての月。

かぐや姫」ではそれが死の世界の暗喩として描かれていて、最後にかぐや姫に訪れるあのあからさまで有無を言わせない無言でドンチャン騒ぎな音を奏でる死の使者の描写は、つまるところ理解の外にある死の世界として描いているわけで。

「クボ」の月の帝も、死による物語の完結を拒もうとする、物語である人間を拒絶しているわけで、表面的には違うけれど根底は通じている気がする。

理解の外であることを描くために、あえて月の世界を描いていないという点でも共通している。理解できないものが描けるわけないですから。

という考察をしていたのですが、完全に抜けていたというのをブックオフで本を物色しているうちに思い出した。

 

そういえば今日はシンゴジが地上波でやるんでしたっけね。まあBD持ってるし見る必要もないんだけど、アベマで深夜からエヴァをやるのはちょっとみたいかもしれない。でも明日は「ザ・サークル」を見に行きたい気もするから夜更かししたくはないんですが・・・アベマといえば「ムカデ人間2」もやるし。グロは苦手なんですけどね。

 

あと積ん読本が尋常じゃないことになってきていてやばい。映画の時間削らないとやばい。

サントラ案件

 気づいたらレディプレイヤーワンの公式サイトができていたので(といってもトレイラーしか情報ないけど)アクセス。

タイトルロゴもオリジナルから引っ張ってきてその下に「レディ・プレイヤー1」って明朝体っぽいフォントでフリガナふってあるだけなのがこう、なんも決まってない感があって笑える。

 ティザーを改めて見直してたんだけんど、なんでスピルバーグってあんなCGの質感にしてるんだろう。スピルバーグなのにまったく話題にならなかったBFGなんてPS4のムービー観てる感じだったし、レディプレイヤーワンもBFGほどではないにせよそんな感じ。予算の都合なのか表現として意図したものなのか。なんならジュラシックパークのほうが物質感は強い気さえする。タンタンは観てないけど、スピルバーグとCGでいうとジュラシックパークよりはあの辺に何かありそうではある。A.Iはワガンネ。

それはともかくティザーの音楽がすごくよろしいのでサントラ、ていうかスコアがほしいんだけど、最近はビッグバジェットの作品でも日本だと入手しにくかったりするから困る。お前だよトランスフォーマー

別にこのご時世だし聴けないっていうことはないけどプレイヤーの中に入ってたほうがいいしねぇ。

これの出だしの「デー↑デー↑デー↑」がたまらない。

音だけ抽出しただけだから普通にSE混じってるけど、いいわーこれ。

 

 

 

 

軽めのカーペンター

「ゴーストハンターズ」である。

なんていうかこう、カーペンターというと「ゼイリブ」とか「遊星からの~」とか「ニューヨーク1997」とか「要塞警察」とか、ああいう割とシリアスなムードが漂う真面目(っぽい)映画ばかりが印象として強いせいで、こういうごった煮バカ映画を撮るような人とは思わなかったです。

しかし、フィルムメーカーズ(だったかな。忘れた)でゼイリブのあの長すぎる格闘シーンを撮った理由が「やりたかったから」という極めて純粋な理由から撮ったことを考えると、「ゴーストハンターズ」もそういう願望があってそれを実現させただけでそれ以上の何かを見出そうとすることは野暮なのかもしれない。

邦題がこれなのは「ゴーストバスターズ」に乗っかるためという極めて卑俗な理由なのかもしれないですが、内容とか特殊効果とか特殊メイクとかそのへんの塩梅というか抜けっぽさも割とバスターズに寄っているような気がしなくもないので見終わったあとだと違和感がないという。

吹替だとバカっぽさに拍車がかかっているのもポイントが高い(?)。

あと可愛いカートラッセルが見れるから、それだけで結構イケるっちゃイケる。

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試写会から帰還


そんなわけで「クボ 二本の弦の秘密」の吹替完成披露試写会に行ってまいりました。

本編の前にはゲストとして、日本語吹替版の主題歌としてビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」を三味線カバーverを担当した吉田兄弟が登壇し、生で「Fusion」を演奏していただきました。いや、ビビった。三味線てあんなにいろんな音色が出るんだなと。叩くような音とか、旋律とか、ちょっとあれを生で聴けるというのは試写会の前座としてはかなり豪華な気がします。あと、やっぱり三味線を演奏している二人の動きを見るのも楽しいです。同じ譜面を奏でるときのシンクロっぷりが「瞬間、心重ねて」かと思うほどだったりとか。

ちなみに日本版の主題歌に関しては日本の配給会社あたりの浅薄なものではなく(笑)スタジオライカから吉田兄弟への直接の依頼だったそうな。

その後にカメヨというキャラクターの吹替を担当した小林幸子が登壇したりとかなり豪華でした。吹替全然違和感なくてびっくり。キャリア積んでるだけあってかなり馴染んでます。

 

そんなわけでかなり充実した試写会だったわけですが、本編はいかに。

 

開始数分で目に涙が溜まってしまいました。純粋に、アニメーションに。命なきものに命を吹き込むアニメーションという映像表現の手法それ自体、そしてそれが持つダイナミズムへの感動に。わたしはアニメオタクでもなければ熱心なアニメファンというわけでもありませんが、そういった、もはや自己嫌悪性を失った蔑称を恥ずかしげもなく自称するくせにその実は記号に耽溺しているだけの奴輩よりは、アニメーションの快楽は多少なりとも心得ているつもりです。

クボの母が大波を切り・飲まれ・海底の岩に頭をぶつけたときのあの心底痛そうな「アニメーション」にわたしは気づいたら涙を溜めていました。「この世界の片隅に」ではボロボロ泣きましたが、あれとは別種のアニメーションの持つ力に涙腺を緩まされました。

ディズニーピクサーのCG的のように滑らかに動きながら、それでいてストップモーションならではの動きの感覚の妙に。こればかりは、映像の技術的な部分はまったくわからないので感覚としてしか伝わらないのでしょうが、ともかくストップモーションを感じさせないのに確かにストップモーションであるというのが、なんともはや堪らない快感をもたらしてくれる。これはシンゴジラにおけるゴジラの着ぐるみなのにCGというあの絶妙な質感にも似た感覚です。

これはなんの論拠もない完全な私見ですが、ストップモーションアニメが通常のCGやセルアニメーションと違って、その性質としてライブアクションとしての要素を持っていることなのではないかと考えています。つまり、物質として実体を持つ点でライブアクションでありながら、極度に抽象化・戯画化を行うアニメーションとしての質両方を併せ持つハイブリッドとしてベン図的に両方の交わる部分にあるのではないかと思うのです。

そして、それは両者にはない特殊な映像的質感を持っているのではないでしょうか。それが、涙の理由なのではないかと思います。

なんて書くと「CGで再現できるでしょう」という論駁をされそうな気がします。実際、「レゴムービー」や「サウスパーク」(はまあ切り絵とはいえそもそもが二次元的であるので微妙なところですが)といった例を挙げるまでもなくCGによってライブアクション(実写)の定義が揺れ動いているのは確かです。「コングレス未来学会議」における風刺を地で行くような「ローグワン」におけるキャリーフィッシャー(あれはちょっと不気味でしたが)のCG使いがありましたが、CGであればもはやなんでも再現できるだろうと。それは、ストップモーションの動きも再現ができるということなのではないかと。

実際、できるのかもしれませんが、技術的な面に関してはトーシロもいいとこなので何も言えません。たしかに、映画はスクリーンに映し出されるものがすべてですから「そう見える」のであればCGだろうがストップモーションであろうがどちらでもいいのかもしれません。現に、本作においても背景合成などをふんだんに使っていることは予告のメイキングなどからもわかりますし。

けれど、映画を見たわたしは、少なくともそんなことに軽々しく判断を下せるほどには浅慮ではありません。ただ、この映像的快楽を味わってほしいのです。

ともかくアニメーションの一つ一つ が素晴らしく、4800万種類の表情を持つクボの顔の動きはもはやデジタルではなくアナログな領域であり、実際の人間ともはや遜色がありません。

 

また、アニメーションそのものもさる事ながら、作品そのものの完成度も高いです。まずアメリカ人監督が日本を舞台に映画を作るというと、ヘンテコ日本を連想することが多くあると思いますが、本作はそんなノイズは一切ありません。

もちろん、カリカチュアされていることや舞台そのものが本筋的には背景として描かれているということもありますが、そこには入念なリサーチがベースになっているからでしょう。わたしは、作品を見ている間にこれが外国産の映画であることを完全に失念していました。それほどに違和感が脱色されています。公式サイトのプロダクションノートを確認すればわかることですが 、製作陣はむしろ我々以上に日本の、少なくとも特定の部分に関しては詳しいはずです。

そしてそれは、作品の描き方に夜部分も大きいのではないかと思います。なぜこれほどまで違和感なくすっと入ってくるのかと考えたときに、それは宮崎駿がヨーロッパ文化を取り込み印象主義的に描いたことと同じ作劇だからなのではないでしょうか。

だから、ともすれば脚本単体としてみればあまりに性急でご都合主義的にも思えるダイジェスト的なその旅路も、慣れ親しんだ民謡・民話として(そしてそれを絵として見せることによる説得力)すんなり受け入れることができたんじゃないかなーと自分なりに解釈しています。いや、それでも月の帝が特撮怪人さながらに巨大化+怪物化するのはなんかこう「巨大化は負けフラグ」のような感じで笑えてしまうのですが。

 

灯篭流しを持ってくるセンスやそれをストップモーションとして見せる手腕、盆踊りのシーンに90歳の日本人振付師を呼ぶ黒澤リスペクト(笑)な完璧主義なまでのこだわりなど、細部に言及していては枚挙に暇がないのですが、ともかくこれは大人が見ても子供が見ても純粋に楽しめる作品です。

戦闘シーンは多めですし、キャラクター同士の掛け合いも笑えたり泣けたりします。大別して二度ある戦闘シーン(特に猿の剣技)はやや短調ではありますが、ジャパニメーション的なケレン味をストップモーションという異化された位相で見ることができるだけでもかなりの感動があります。

ただ見ているだけでも、十分に楽しいことは間違いないでしょう。

 

ですが、何よりわたしが心を動かされたのは「物語」です。

伊藤計劃は自分に死が迫る中、WALKの「人という物語」という寄稿エッセイでこう書いています。「人はなぜ子供を持とうとするのだろう。勿論、人は死ぬからだ。人は死ぬから、死んで消えてしまうから自分自身を残そうとする。しかし、自分自身を残すとはどういうことだろう。子の肉体に宿る遺伝子は目にみえはしない。そこにあるのは育てた者のきおく。共に過ごした時間のきおく、そしてさまざまな性向や仕草、癖だ。それは物語だと言っていい。人は自らの物語を残すため、子を育てる。というより、人間は物語としてしか子に自らを遺すことはできない。何故なら、人間は物語でできているからだ。」と。

これは、まさに本作の描いていることではないか。

伊藤が死を意識する中で見出した人という「物語」のあり方。「クボ」はその諸行無常の中に物語としての人の美を見出そうとわびさびこそが本作の魅力ではないでしょうか。死を捨てることで物語の敵として立ちふさがる月の帝を、物語として母上とハンゾー(父)を継承したクボが、祖父である月の帝を人として生まれなおさせること。新たに町民の言霊によって人として物語を紡がれる祖父(ここはまあ、HEROESシーズン3のラストか!という感じの気味悪さを覚えなくもないのですが)は、もはや死を避けられない人となってしまいます。

それでいいのでしょう。なぜなら、そこにある美を見出して描き出しているのが「クボ」なのだから。

 

日本でももっとストップモーション作品が増えてくれないものだろうか、と思ったりしたわけですが、 もちろん日本にだってストップモーションアニメの土壌はありますし現に作っている作家はいます。 比較的メジャーでいえば村田朋泰クラウドファンディングで映画のプロジェクトを進行していますし、個人的に傑作だと思っている「眠れない夜の月」を監督した八代健志もそうです。

けれど、これはストップモーションに限らず日本ではどうしてもインディーズの体制にならざるを得ず、それゆえにできることも限られてくるのです。だからこそリミテッドアニメという手法が選択され、あるいはその制限の中で工夫を凝らすことで独自の生態系を作ってきたことが結果的に先鋭化されることにつながったわけですし。

ですが、やはり優秀なアニメーターを大量に投入し、あらゆる物資や時間といったリソースを割くことでしか描けないものも厳然としてあるのです。

それが「クボ~」であったことに、わたしはとても喜ばしい思いです。それだけに、駄作量産しまくってるTFシリーズ、ひいてはハリウッドの魔手に飲み込まれないようにしてほしいものです。もっとも、「バンブルビー」は本筋とはかなり毛色の違った感じなので、TFの傑作にもなりえると可能性があるのでTFファンとしては期待半分不安半分といったところですが。

 

年末には「ズッキーニ」も控えていますし、ストップモーションの波が来てくれるといいなぁ。

 

ゴッホとか色々

色々と立て続けに見てたんですが、なんかこうどうも書く気にならなかったんで放置してものを軽く。

やっぱり映画を連続で見続けたりするのも考えものですなーと。

 

 

まずは「続・荒野の用心棒」。

これ、てっきり(というか当然だと思いますが)荒野の用心棒の続編かと思いきや日本の配給会社が便乗で勝手につけただけで原題は「ジャンゴ」でまったく別の作品ということらしい。そのおかげで後に出る正当な「荒野の用心棒」の続編が「夕陽のガンマン」なったんだとか。いや、いい加減にしてくれよと。

用心棒要素は確かにあるし西部劇映画ということでぱっと見のルックが似ているというのも結構悪質。

とはいえ、作品そのものは結構おもしろい。見終わるまで「用心棒」として見ていたのでジャンゴの弱さとかむしろ「そうなるのか」と思って面白かったです。

三船のあれはもはや仙人の域(赤ひげの印象とかもあるんだろうけど)で善悪飲み込んでアウフヘーベンして達観しているようなタイプであるのに対し、ジャンゴはある程度は飄々としているんだけどもっと情感豊かなのが別の方向にいい。何より棺桶に機関銃入れてるのがカリカチュっているのが馬鹿かっこいいし、てっきり銃の腕を根拠にしているのかと思えば機関銃を根拠にしているなんかちょっと虎の威を借る狐っぽい(いや、実際に銃の腕はあるんですが)とか可愛らしい。ていうかフランコ・ネロがかっこいい。

あと最後のカットが「ローガン」のラストのオマージュ元だったりするのかなーとか。

や、普通に面白くてよかったです。

 

次「シャンドライの恋」

ラスト・エンペラーの監督ということでどんな感じになるのかと思っていたのですが、なんかこうあまりに自分の食指が反応しなかった。

タンディ・ニュートンをどっかで見たことあるなーと思ったのと、彼女の乳輪がでかかったことくらいしか印象に残らなかったです。すみません。

 

駅馬車

言わずと知れたジョン・フォードの名作。大学の授業でちょっと見たのは覚えていたのですが全編通して見たのは初めてだったんですが、改めてアクションが凄まじい。いわゆる格闘的なそういうのではなくて、純粋に馬に飛び移っていくところや落馬していく場面、あるいは馬が全力で走っている映像が凄まじい。いや、馬が全力で走るなんていうのは競馬見てればいいじゃんということになるのかもしれんですが、そうじゃなくてアパッチが乗ってガンマンが乗って、そういう一連のシークエンスの中で映し出される大量の馬が走っている画面だけでなんかこうすごい。

あれはやっぱりライブアクションにしか出せない馬の動きだなーと。正直馬のシーンだけで十分すぎる気がする。

 

「炎の人ゴッホ

ゴッホに関しては「ひまわり描いた人だっけ」という程度の認識しかなくて彼についてはまったく知らなかったんですけど、むしろ知らない人が見たほうがすんなり楽しめるんじゃないかと。

ゴッホが元々聖職者を志望していたこととかも知らなかったし、そこから労働者たちに思い入れていくさまからのそれが作品に転写されていくまで、孤独と心を病むまでのほぼ生涯を描いているのですが、かなり作品にエネルギーを感じる。

エネルギーっていうのはもちろん熱力学とか量子力学とかそういう点で物質が持っているものという意味でもそうだし、もっと抽象的な陰陽のエネルギーとかがあると思うんですけど、そういうエネルギーが結構伝わってくるものだなーと。

特にゴーギャンとの生活とかは役者の熱が伝わってきて笑えてくるくらいでした。

 

とまあ、こんなとこでしょうか。

あとBSのドキュメンタリーの話しとかもあるんですが、それは気が向いたらで。