dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

普通に面白い作品たち

地上波での放送がかなり早かった「キング・オブ・エジプト」

なんていうかこう、頭空っぽにして楽しめる映画としてはこれかなり良いんじゃないかしら、と。

金ピカ瀟洒な画面とか、神と人間の差を表すのにわざわざサイズ変えてたりとか。

地味に、というかかなりエピックだし。

吹き替えのヒロインはちょっとアレでしたが、オカリナとかハマってましたね。

あとホルスの「パパごめん」とか萌え要素があって良い。神サマがパパ呼びっていうのギャップ萌えですよね。

 

インファナル・アフェア

個人的に一番好きなスコセッシ作品である「ディパーテッド」のリメイク元の作品。

話はもちろんエレベーターとか屋上とか、ほとんどそのままで吃驚。まあスコセッシの方がバイオレントだったり余計な回想がなかったりと洗練されてはいるし、役者の顔もちゃんと意味付けさせていたりするわけですが、小説の件とかは割といい感じ。

ていうか「ディパーテッド」の方は好みの役者が好きすぎる。ディカプリオ、デイモン、ニコルソン、ウォルバーグとか。

インファナル・アフェア」では個人的には警視が一番好きだったりする。

どうも続編にあたる「無間序曲」は「インファナル・アフェア」の過去編みたいなのでまた警視が見れるんだろうし、見ねば。

 

 

「スラムドッグミリオネア」

ダニーボイルが監督だったんだこれ。

手法としては、出題に対してなぜその問題の答えを知っていたのかという経緯を明らかにしていくというもので、「500日のサマー」に結構似ている。アカデミー賞編集賞も取ってるのは納得。

冒頭の時系列をわざとわかりにくくしていく編集とかも楽しいし。

アメスパ、ジュラシック・ワールドインフェルノと地味に大作に出ているイルファーン・カーンも個人的に好きな俳優なので、善良な役ではないけど良かった。

強いて言えば兄貴はもうちょっとどうにかなりそうな気がする。まあこれに限らず、兄弟が出てくると大体の場合は弟の方が善性があったりとかメインを務めたりするパターンが多い気がする。戸愚呂兄弟しかり、うちは兄弟しかり、ほかの作品でも割と多い気がする。とか書いておきながら下の「ミクロキッズ」ではまさにその逆なキャラ付けになっているんですが。

でもまあ、テレフォンの部分とか引き付けるのはやっぱり上手いし、全然楽しい映画ではありますな。

最後のダンスはいらないけと(笑)

 

ミクロキッズ

「縮みゆく人間」「ミクロの決死圏」に代表されるように、昔から人間縮小ものは小さいながらも一つのジャンルとして結構な数がある。それこそ、シリーズの中の単発の話に限ればそれこそ大量にあるだろう。「アリスインワンダーランド」も地味にそういう描写あったりしましたっけ。

ていうかちょうどアレクサンダー・ペインの「ダウンサイズ」もやっているし(近所の劇場でやってねーでやんの)、まさかそれにかぶせてきたんだろうか。

最近だと「アントマン」がかなりこれに近い(蟻も登場しますし)ですが、ぶっちゃけ「アントマン」よりも好きかもしれない。あっちはあっちで面白いんだけど、今見ても「ミクロキッズ」のSFXはすごいですよ。セットも作りこまれてるし、むしろ実在「感」としてはこちらのほうが没入できるというか、異界を見せられている感覚が強いと思う。

水滴とかレゴとか、そういうアイデアをちゃんと作りこんで見せてくれているから今見ても観賞に耐えるのでしょう。常に先端技術を取り入れていくのは、さすがはディズニー(というかILM)といったところでしょうか。まあ特殊効果に精通しているジョー・ジョンストンだから、なのでしょうが。

蜂(蠅?)の視点飛び回るシーンとか、そういう特撮を楽しむ映画でもあるんですが、ジュブナイルアドベンチャー的な側面もあるだけじゃなくて怪獣特撮でもあるという。

いや、これは娯楽系の映画の満漢全席(は言い過ぎにしても)としてかなり良い映画ですよ。純粋な楽しさで言えば「グーニーズ」よりもこっちのほうが好きかなぁ。まあ子どもたちの、特にCV堀絢子の弟メガネのキャラは少し弱いかもしれませんが、サリンスキー弟CV野沢雅子の口が達者な悪ガキとか好みですし。

あとサリンスキー兄が、あの時代にしてはマッチョ系じゃなくてちょっとナヨナヨした、それでも芯のあるキャラクターというのが、作り手の優しさを感じた。

クリス・コロンバスがヘタレた今、ジュブナイルSFはジョー・ジョンストンに任せるべきなのかもしれない。

 あとフランク・ウェルカーは動物系の声やりすぎ。

 

「モンスター」

シャーリーズ・セロンがやばい。

メイクの力もあるんでしょうが、とんでもない顔面力。ほほの肉のたるみとか。

話は「テルマ&ルイーズ」のバッドエンドルートといったところでしょうか。主役二人がどちらもガキすぎて、それゆえにあの破滅ルートを辿るという。

セルビー役の女優をどこかで見た記憶があったんですが「キャスパー」とか「アダムス・ファミリー」に出てたんですな。

まーじゃっかんクリシェに陥りそうなきらいはありますが、それでも観ていて面白い映画ではあるかも。

基本的にはシャーリーズ・セロンのための映画ですが。

 

 

あと「ビガイルド」見てから試写会に行ってきたので今日にでも書きます…。

グレイテスト・ショーマンより断然フリークの話ですた。

シェイプ・オブ・ウォーター」観てきました。

編集騒動でちょっとバズってましたが、一箇所のぼかしはマイケル・シャノン演じるストリックランドとその妻のベッドシーンのほんの一瞬でした。

ぼかしが入ると笑っちゃうから本当はこういうのはやめて欲しいんだけど、「プリディスティネーション」に比べればこの編集はそこまで問題視するほどじゃないとは思う。

だから、某ネットサイトのライターみたいに劇場鑑賞を忌避する必要はないでしょう。

 

こと世界構築という点において、ギレルモ・デル・トロは「ブレード・ランナー」「グラディエイター」のリドリー・スコットに匹敵するといっても、まあそこまで異論はないでしょう。ファンタジーとリアルという方向性の違いはるけれど。

 

これは「そう生まれてしまったモノたち」の物語であり、実はその点においてマイケル・シャノンですらフリークと読んでも差し支えない気がする。ぶっちゃけ、日本の企業体質を知っている人からすると、シャノンに感情移入してしまってもおかしくはない。それくらい、軍という組織のシステムの中でシャノンは苦しみ、あそこまで強権的に振舞わなければの組織の中で生き残ることができなかったのだから。上からの命令に不満を抱きつつもそれに従うしかないあの姿は、はっきり言って児童向けアニメの悪役の下っ端そのものです。

むしろ、この映画における一番の被害者はシャノンの文字通り男根主義を表現するためキャンバスとしてしか役割を与えられない妻(ローレン・リー・スミス演)かもしれない。ほとんど描写がされないという、メタな意味でも。もちろん、これは冗談だけれど、そういう見方もできる。

対置されるイライザとストリックランドの性描写などからもわかるように、この映画が物語っているのはやはり「RAW~少女の目覚め~」(傑作)にも共通する、同類の相克性がある。イライザのオーガズムのメタファーとして卵が頻用されているが、単純に生殖器としての卵(らん)だけではなく、デルトロだけにエジプト神話・ヒンドゥー神話・ギリシャ神話あたりからの意味の付与もありそうだ。

だから、この映画に出てくる登場人物たちは「そう生きるしかなかったモノたち」であり、けれどそれゆえに惹かれあうことができたのだ。その意味ではストリックランドですらやはりフリークであるといっていい。現に、彼は劇中で指を半魚人に指を食いちぎられ欠損することで、イライザと同じくフリークの形象を表出させる。

終盤のアメちゃんへのこだわりのシーンなんかは、特にそれを表すのに顕著かと。

そして、その生き方や考え方は国や人種という垣根を越える。本作が冷戦時代を舞台にしたのは、単に怪獣=生物兵器化という安易なフレームを流用したかったからだけではないだろう。米ソという巨大なイデオロギーに支配される中でも、そのイデオロギーを超えて一人の「個」としての愛という自我の発露を描きたかったからに違いない。

 

エロだったりグロだったりしますが、キュートな場面もたくさんある。たとえばリストラ(おそらくはホモセクシャルであることで)イラストレーターのジャイルズ(リチャード・ジェンキス)とイライザのソファーに座りながらのタップ。最後にお互いの足をタンッと合わせる部分まで含めて、ここをGIFで延々と観ていたいくらい愛らしい。

あるいは、イライザが「彼」とメイクラブした翌日の浮かれポンチっぷり。童貞捨てた男子中学生並みのボケっぷり(ご丁寧に赤い服装してるし!)なんか微笑ましい。

即落ち2コマのようにストリックランドが車を買うシーンや、キズモノにされるシーンまで含めて。

些細な描写も気が利いていて、特にジャイルズの描写はほとんどはつ恋で浮かれる中高生のそれ。好きな人と話たいがためにまずい食物を買って、まずくて食べられないから冷蔵庫にたくさん余ってるのとか、「キャー喋っちゃった」みたいなキャピキャピとした反応とか。おっさん萌え。

あと毎度のことながらオクタヴィア・スペンサーの保護者感とか。

それ以外にも、「彼」とストリックランドのイライザへ喉の触れ方の違いや、意趣返し的なストリックランドの最期などなど。

 

あと色に対するこだわりもすごいです。今回は全体を緑色(ではなくティール色ですか)の世界観に統一しているのですが、日本語字幕まで色味がティールがかっています。日本語字幕スタッフの配慮がにくい。

 

奇形の美しさを堪能する映画として、これは傑作でせう。

 

 

余談

デルトロの作品で言えば「パシフィック・リム」が一番好きなのだけれど、あれは特定の部分にパラメーターを全振りしているわけで、それはすなわち特定の層にとってのマスターピースになるということにほかならない。その特定の層に含まれる自分にとっては「パシフィック・リム」は殿堂入りのようなものだから揺るぎようがない。

なぜなら、「パシフィック・リム」は映画そのものが奇形だったからだ。あんな一点突破型でマスに向いていない映画がビッグバジェットで作られるというのが、そもそも歪であり、だからこそメジャーなカルト足り得たのだから。

 

関係ないことですが、博士と半魚人は絶対にデルトロ自身の投影なはず。映画観てるシーンとか、怪獣への愛とか。

 

 

 

レベッカ・ファーガソン(※じゃなくてローレン・アレッド)の歌唱力半端ない

グレイテスト・ショーマン」と呼ばれる映画をようやっと観に行ってきた。

昨日から「シェイプ」「15時17分、パリ行き」「ブラックパンサー」と大作・話題作が公開されているし、そろそろ分散されてくるだろうと思ったら平日の昼から結構な席が埋まっていたでごわす。

ほとんど女性客で年齢層も広かったんですが、やっぱりミュージカル映画って女性の皆さんはお好きなんですかね。それとも「ラ・ラ・ランド」スタッフという売り文句の効果でしょうか。まあミュージカル好きなんだったら是非「ジェリーと恋と靴工場」を観てもらいたいものです。はい、こういう道連れ思考はよくないですね。

実在のショーマンでありバーナム効果のp.t.バーナムをモチーフにしたミュージカル映画ということで、まあ当然というべきかフリークスがたくさん出てきます。

今ちょうどフリーク関係の本を読んでいるんですが、親指トムヴィクトリア女王の関係とかは特に本編で言及はされなかったですね。どうでもいいけど親指トムの話って日本人にどれくらい馴染みがあるのだろうか。ギリギリ名前で察せられないこともないけど、親指トムの話を知っていないと微妙に分かりづらくないかなーとか思ったり。

 

導入を派手なミュージカルシーンで引き付ける手法は「ラ・ラ・ランド」でもやっていましたが、今回はまあ色々な制約もあったのでしょうがカットをかなり割るので「ラ~」ほどの上がりっぷりはないのがちょっと残念といえば残念か。あれのレベルを毎度毎度期待するのがそもそもアレなのですが。ある意味で功罪とも言えるのかしら、これは。

とはいえ、歌はどれも素晴らしいし、演出もかなり計算されて工夫も凝らされている。チャリティとバーナムが結婚に至るまでの一連の流れ。特にバストアップでダンスを撮っていたカメラが引いていくとチャリティのお腹が膨れているのとか、そういううまい繋ぎ方が結構あった気がする。

 

でも、せっかくフリークショウなんだから可愛い女の子のアン・ウィーラーをフィーチャーするより大男とか双子とか、それこそ大佐にもっとスポット当ててもいいと思うんだけどねー。そういう意味では髭女とカーライルをくっつけるのが良かったようなきもするが、ダメなのですか。

いや、わたくしもアン・ウィーラーを演じるゼンデイヤ(どっかで見た顔だと思ったらトムホのスパイディに出てましたね)には魅了されましたがね。カーライルとのロープアクションもといワルツ的空間はもすごい良かったし、ここだけ抜き取れば文句ないんだけれど。結局、ほかのフリークたちにほとんどスポット当たらないのがねー。

ミュージカルシーンの双子のダンスとか、かなりアクロバットなことしてるんだけど、どうしても大勢の中で埋もれてしまいがちだったりするし、そもそもキャラクターとしては造形されないし。

 

本当に正直に言ってしまえば、個人的に一番の収穫はレベッカ・ファーガソンですた。「ローグ・ネイション」での二重スパイ役が光っていましたが、まさかこんなに歌が上手いとは思わなんだ・・・。

ここで一番鳥肌立ちましたですよー。特に最後の公演における同じ「ネバーイナフ」の歌い方の違いとかもねー。これって劇中バージョンはサントラに入ってるのかなー。

そんなわけで、普通に見る分にはフッツーに楽しめる。

※4/8追記:レベッカ、歌ってないってよ

歌の部分はローレン・アレッドっていう歌手だそうな。

 

しかし、やっぱりミュージカル映画は割と苦手なジャンルかもしれない。どうにも歌と踊りでケムに巻かれている感覚になってしまう。だから、あまり何度も観に行く気にはならないかしらしらしら。

 

あーあといくつか録画してた映画観たのでそれぞれ一言だけ添えていきますか。

「ジャージーボーイズ」

イーストウッド映画。

シンプソンズのビーシャープスとかサウスパークのカイル・スタンのペアが音ゲーのあれの原型的なお話。まあまあ面白い。

「LIFE/ライフ」

なんかすっげー普通。ベン・スティラー主演でベン・スティラーが監督してるっていうから結構ぶっ飛んでんのかなーとか思ってたんだけど、何をいい感じの映画に仕上げちゃってんのよーといった感じ。「トロピック・サンダー」とか「ズーランダー」くらいぶっ飛んでくれたら面白かったんだけどね。

いや、面白いっちゃ面白いんですけど。

あとクリスティン・ウィグって普通にキレイめな女優として見れるのが以外。

「私は二歳」

ヒッチコックの「鳥」みたいなシーンでワロタよー。

観たものまとめ

ブルーベルベット」と勘違いしてたらウディ・アレンの映画だった。

それはともかく面白い。

ケイト・ブランシェットの急に独白する演技の本当に病んでる感じとか最高。

そういえば「シェイブ・オブ・ウォーター」のサリー・ホーキンスも出てましたね。まだ観てませんが、「シェイプ~」の方の役どころからはおよそ逆算できそうにないホワイトトラッシュなキャラを演じています。

ニュースの天才」のピーター・サースガードも出てましたな。

基本的にはコメディ映画だし、個々のディテールは笑える(金ないのにファーストクラスとか)んだけど、実はよく考えると全然笑えない部分があったりする。ていうか、帰着の仕方からしてかなりシニカルだし、むしろ「だめだこの姉妹早く何とかしないと」的な余計な気遣いまでしたくなるくらい。

たとえばジンジャーの子どもたち。劇中では割とコミカルに描かれてはいたけれど、再婚するであろうチリが果たして本当に子どもたちを愛してくれるのか、とか。だってそこらへんの交流は描かれてませんからね。

あと、基本的に姉妹は何かを学んで再スタートを切るというわけでもなく、

これ、日本でやったら間違いなく無理やりハッピーエンドっぽく仕立て上げられそうですな。しかしタイムラインを意図的にわかりづらくしている編集など、なんというか映画の構造自体が少し意地の悪いものなので、かなりブラックコメディの類だと思いますです。

 

「孤独のススメ」

原題は「Matterhorn」ということで、おそらく「孤独のグルメ」のパロディとしてこの邦題を付けたのだろう。「~はらわた」やら「26世紀青年」やら「バス男」やら、日本の配給会社や広告代理店のセンスたるや動かざること山の如し。

LGBT映画祭で色々な賞を取っているらしい。あんまりLGBTっぽくはないと思うんだけどねぇ。明らかに、そういうセクシャリティみたいなものを強調していないし。でもまあ最後の歌のシーンとか「チョコレート・ドーナツ」ぽくもあったりはするか。

話自体はかなり奇妙なバランスになっていて、なんか女性漫画家の短編とか同人にありあそうな感じといえばいいだろうか。

ジジイ萌えする人は観てもいいかも。小汚いおっさんのウェディングドレス姿が観れるというのも珍しいし。

 

「ハートロッカー」

ビグロー作品。「デトロイト」から遡る形だけんど、こうして観るとかなり演出の地続き感がすごい。

ウィッキーの作品解説の文中に共存する「低予算」と「16億円」という、日本人的感性からすると「それっておかしくね?」な字面。まあハリウッドからしてみれば20億円に満たない予算など低予算扱いなのだろう。ベイも「ペイン&ゲイン」のときに20億円くらいの予算を低予算と言っていたし。

ただ「デトロイト」に比べるとスロー演出の多用なんかがベイっぽかったり、表現の仕方にまだフィクショナルな方法を用いている気がする。

や、これは普通に面白い映画でしょう。

大佐の死亡フラグの立て方とか、トラウマを和らげようとしてトラウマ植え付ける無能っぷりとかは笑ってしまうんですが。

あと子どもの死体から埋め込まれた爆弾を取り除くシーンはMGSを思い出しますが、小島秀夫はこの辺を参考にしてたりするんだろうか。作品自体には言及しているし観ていることは間違いない(そもそも小島秀夫アカデミー賞作品を観ていないわけがないのだが)し。

ジェレミー・レナーの戦場以外での無能っぷりは、分野は違えど本多猪四郎を彷彿とさせますな。

 

イコライザー

たまたまテレビつけたらやってたよ! 前から観たいとは思いつつも次々に観たい映画が増えていって埋もれてしまっていたのですが、ちょうどいいタイミングで観られた。さすが午後ロー。

期待値を上げまくっていたせいでそれを越えることはなかったけど、デンゼルかっこいいしそれで十分だろう。個人的にはたまたま観た「トレーニング・デイ」の方が好きだったりしますが。

まあ午後ローなのでおそらくコマーシャルを除いた本編の放送時間は90分前後。しかしノーカットだと130分を超えるわけで、CM明けに「え、場面すごい飛んでるな」なんてことはかなりあって、まあちょっとモヤモヤしたものもあるんですがね。

それでも、作風としてあえて過程を省き結果を後から見せるという手法は少年漫画なんかでもありがちではありますが、やはり燃える。個人的にはラストのプーシキンの部屋から出てくるカットはワンカットで屋敷中に死体が転がっているのを見せるくらいの大胆さがあってもいいかなーとは思う。

全体的に少年漫画っぽいというか、いわゆる「なろう」系ぽさもあるんだけど、それを裏打ちする演出・デンゼル力があるので素直に「カッコイイ!」と観れるわけですな。

 

騙されません、観るまでは

ビガイルド観れば良かったかなぁ。

グレイテスト・ショーマン」か「ビガイルド」か「blank13」かで迷っていたんですよ。でもまあ、こういうリアルタイムの機会でもないとインディ映画なんて観ないし(そんなこともないけど)?、高橋一生好きだし? 斎藤工ってかなりのシネフィルらしいし? もしかしたら大傑作の可能性もあるし? ということで「blank13」観に行ったんですがね。

うーん・・・微妙かな、これ(爆)

こんなことなら、エル・ファニングが脱ぐであろう(希望的観測)「ビガイルド」にすりゃ良かったヨー。半分冗談ですが、それでも「霊的ボリシェヴィキ」を観た後ということを差し引いても、これはちょっとどうなのでしょう。

 

映画を観ている気がしない。かといって映画を越えたものを観ているかというとそういうわけではなく。なんていうかこう、抑えた部分はちゃんとしているのに、羞恥心からくるふざけみたいなものが目立ってしまっているせいで、全体的にテレビドラマとかコント番組見てるような気になるんですよね。

佐藤二朗、お前だよ。あと本当に笑わせるためだけに登場する野性爆弾のくっきー。悪いけどね、この部分は本当に「銀魂」並みですよ。もちろん、全編通してそれだけを見せる「銀魂」のようなクソとは違いますけどね。自信がないのか本当にそれを入れることが効果的だと思っているのか知らないけど、自分の作った世界に疑いを挟むのは監督が一番やっちゃダメなことなんじゃないでせうか。

雀荘に蛭子能収とか杉作J太郎がいる、というああいう笑いはいいんだけどね。あそこに爆笑問題の田中がいたら多分もっと評価上がってたかもしれん。

で、この笑わせシーンもさることながら、この短い尺の中で不要なシーンがあったりする。高橋一生松岡茉優の二人の出会いのシーンっていらなくないですか。正確には出会ったシーンじゃなくて、出会ったであろう経緯を示すシーンなんですけど。台詞とか冗長なシーンで見せないのは良い。が、そもそもからしてこの二人の出会い(であろう経緯が読み取れる現金下ろし)の部分とか不要でしょう。この映画内においてなんら必要性がないのではないでしょうか。実在感を出そうという意図があるのかもしれないけれど、はっきり言ってしまえば「so what?」。だって、それが何か貢献するのかといえば、そんなことはまったくないから。松岡茉優の父親にもう一回会えという説得も、役者の俳優力に頼ってばかりでその背景が読み取れないために「なんでそんなこと言われなかきゃいかんのですか」という気になる。

もちろん、余命幾ばくの実父と恋人が気まずいまま別れることが嫌だという、清潔で真面目な理由を忖度することはできる。まあ、そんな説得に簡単に折れるくらいなら、最初から行動に移せよ、ということも言えなくもない。

もっとも、これは高橋一生の父親に対する複雑な思いだとか、それゆえに面倒くさい態度を取ってしまうというカマチョであると考えれば違和感はないのですが、それだけの演出が十分なされていたかというと、ちょっと疑問かもです。

 

ちゃんとした役者陣は良い。良いんだけど、方針として後半部分は役者のアドリブに任せているせいで高橋一生の演技がちょっと過剰かなぁ。目の泳ぎとか、それ自体はいいんだけどギリギリでやりすぎかもしれない。演技自体がいいだけに、そこを過剰になりすぎないように制御するのが監督の仕事だと思うんですよ。でもまあ、ここは個々の感じ方によるかもしれませんね。

実際、アドリブ主体による役者たちの掛け合いのおかげで会話のリアリティは出ている部分もある。最初の葬式を間違えるシーンの松岡茉優の同じ台詞の反復なんかは、実際にありそうだし、高橋一生の不器用な感じ自体はいいし、役どころにぴったりだと思う。

前半の統制の効いた抑えた画面や演出は(どことなく短編映画っぽいけど)好印象なだけに、後半がボロボロなのがもったいない。

 

あと言葉への配慮が足りない。

台詞とかもうちょっとブラッシュアップしませんか。口語で「彼」や「彼女」が出てくるときの(それも、ある程度の親しさがある相手に対して)嘘くささは、文字メディアであればいいんですけど、生身の人間が発するとなると途端に嘘くさくなるんですよ。よしんば、ここはわたしの感じ方のせいだとしても、一箇所だけ明らかに不自然な台詞回しがある。

「大手の広告代理店」という台詞。そんな説明的な台詞をアドリブな自然体な演技の中で言わせると、ただでさえ嘘くさいセリフが一層のこと際立ってしまうんですよ。ここはたとえば架空の名前でもいいから自然になるような台詞に変えたりもできたはずです。

たとえば

コウジ:○○(架空の企業名)で働いてる

雅人:○○って○○か? すごいな、大手じゃん。

コウジ:どうしてそんな大手に入ったかわかる?以下略

とか、そういう自然な台詞にできたはず。

あと冒頭の火葬についての字幕も「面積の狭い国」っていう、なんていうかこう、ダサい表現はどうにかならなかったのかと。ここはまあフェティシュの部分なのでそこまで突っかかるところでもないんですが、冒頭からそういう「ん?」と思う部分があると乗れなくなったりする。

もう少し言葉や文字というものへの配慮があったほうがよござんす。

 

所々に良いシーンとかカットがあるだけに(家族が多分、父親の死に気づいたのであろうとことか)もったいない。

 

最後に一つ。根本的に「それでいいのか」という疑義を呈したい部分もある。

原作のこともあるから、監督がどこまで原作との距離を取っていたのかということもあるし、おそらくはエンドクレジット後のアレを見るに原作の方に共感したからこそではあるのだろう。

しかし、もうちょっと美談な雰囲気に落ち着かせすぎではないかなぁ。どれだけ父親が実は他人を思いやる人だったとしても、家族を蔑ろにした上での、言ってしまえば自己満足な偽善でしかないわけで、だからこそコウジのあのラストの台詞なんです。

けど、その愛憎入り混じっているはずの(少なくとも台詞上は)この台詞の中には憎の部分がほとんど感じられないんですよね。

無論、元がマイナスからのスタートで、葬儀に来た人のおかげで相対的に評価が爆上がりしたからこそ、父の良い面を発見できたからこそではあるんだろう。

だけど、それで許せる程度の、言ってしまえば父親への憎さはその程度のものでしかなかったというだけなのです。深刻ぶってるくせに底が浅い、というか。

エモーショナルな映画なのに、当のメインとなるコウジのエモーション演出が少し弱いのかなーと。

 

スタッフとコメントの身内感がちょっとアレなのも・・・うん。河瀬直美がコメントしてるせいでこの映画への評価がブレそう(それくらいわたしの彼女への信頼が厚い)なんですが、大絶賛して手放しで褒めるような映画ではないと思いますです。

 

あ、でもパンフレットのデザインは良かったですね。香典風の表紙になっていて。80円高いけど!

 

別映画ですがソダーバーグの「コンティジョン」も録画で観た。パンデミックのシミュレーション映画としてはなかなか面白かった。ただ、どう考えてもすっとばされた過程で描かれるであろう部分が面白いことは想像できるので、映画じゃなく1クールだけのドラマシリーズとかにしてもっと過程を綿密に描いた方がいい気がする。そういう意味では連続ドラマ向けではあるかも。

ラストの原因解明&恐怖の継続を匂わせる音楽の使い方なんかは、どことなくホラーぽくもあったり。

登場してすぐ死ぬパルトローとか、頭皮めくられるパルトローとか、パルトロー好きでリョナ好きな人は興奮するポイントがありますな。

あとマット・デイモン。や、別にこれといってすごいというわけではないんですが、妻であるパルトローが死んだ直後の医師のやり取りとか、すごい動揺が表されていて良かった。

メインっぽい人が中盤で死んだりするあたりのスリリングさ(まあどうあがいてもフィシュバーンは死なないんだろうけど)とか、あれをもっと突き詰めて初期ウォーキングデッドみたいに誰が死ぬかわからない状況化で進めるともっとドキドキしそう。映画というメディアの性質上、それをやると絶対に収拾つかなくなるか人類アボーンな結末にしか向かわなそうではあるので、観客の感情移入役としてデイモンを配置するのは賢明ではあるのでしょうが。

 

異界と下界

霊的ボリシェヴィキ」を観てきたんだけど、どうしてこの映画を観たのか、本当に謎。

謎といえば、どうでもいいことだが、推薦コメントに上坂すみれの名前があることの違和感が半端ない。いや、この人は大のロシア(というかソ連?)スキーということで知られているので繋がりを見出すことは容易ではあるのだけれど、こんなインディ系映画にコメント寄せる映画好きとは思えないからだ。それとも自分が知らないだけで実はシネフィルだったりするんだろうか。

まあ、映画学校のスタッフがかなり制作に関わっているということで、おそらくは宣伝部の学生がロシアから連想したのが同世代のそういう方面に向かったのであろう。

上坂すみれのファンがこの映画を観に行くのかどうかは怪しいところではあるけど。

 

さて、そんなどうでもいいことからしてすでに謎なこの映画ではあるんだけど、正直なところ、映画的教養のない自分には言語として書き連ねるのがかなり難しい。ていうか、参考にパンフレット買ったけどパンフの内容自体は充実しているのに載ってる内容に聞き覚えのない言葉が多すぎて頭がフットーしそうだよぉ。

内容がパンピーな自分にはハードコアすぎてねぇ。しかし参照元を具体的に載せたり、映画内では説明されない人物設定を語り口調で記載していたりと、メタ視点にまで確定要素を持ち込まない用意周到さとか、色々と面白い。

いや、ここまで本編の話はまったくしてないんですけど、怖いですよ、これ。

何が怖いって、怖いシーンがほとんどないのに怖いのが怖い。

いわゆるびっくり系の恐怖ではなく(というか監督も吃驚と怖いっていうのは別だよねーと仰っていましたし)、もっと生理的な怖さではある。そういう意味では、気持ち悪い・気味が悪いという感情に近いだろうか。

 

本編上映後の武田氏と監督のトーク霊的ボリシェヴィキ映画の構造や発祥の話からしてすでにオカルティズムが潜んでいるような話がすごい面白かった。

ホラー映画を撮るか映画をホラーとして撮るか、という話や映画第7芸術宣言だとか色々な話がありましたが固有名詞に関してはほぼチンプンカンプンだったので困った。や、話の内容そのものは興味深いんですけどね。

 

あと「冷たい熱帯魚

うん、面白いですよ。笑えるし。相変わらず長回し好きだね、この人は。

ただね、どうしても「蠱毒~」と同じようなわざとらしさというか、あざとさみたいなのが気になるんですよねぇ。園子温で出血するタイプの映画はどれもあまり好きじゃないんですよね(つまらないとは言ってない)。そういう点でいえば、「気球クラブ~」が実は園子温の本音みたいな部分があったりするんじゃないかと思う。ていうか永作博美が好きなんですけど、単に。

 

神の街の日常

これ超面白い。

北野映画並みに人がぼろぼろ死んでいくし、それが大局的で二元的な善悪に無頓着な(というとやや語弊があるけれど)描かれ方をしていないのがすごいよろしい。

ともかく血は出るし年端もいかない子どもは死ぬし撃たれるし、温室育ちの方には不快になるシーンが多々ありまする。が、抜群に面白いし、編集や脚本も地味に工夫が凝らされていて観ていて飽きない。

それでいて話のトーンは妙に軽く、全体としてはデュラララや血界戦線のような雰囲気すらある。成田良悟の作品に北野映画の連中が現れて、ラノベ的な臭みを脱臭した感じ、といえば遠からずかな。神の視点(読者だったり、あるいは特定の狂言回しとしての人物に俯瞰させる)からそれぞれの人物の行動を見せていくのとかも。

まあ北野映画みたいな虚無性じゃなくて、もっと下町的な情感みたいなものはあるんで、そのへんはまったく違うんですけど。

カットやアングル、子どもを殺しとき殺したあとの銃に焦点を合わせてーのとか、やけに気が利いているというか工夫がされている。スプリットスクリーンの使い方も斬新で面白い。真説ボーボボの上下スプリットスクリーン的というか。

 

暴力が溢れているのだけれど、そこに善悪だとかあるいは虚無性だとか、そういうのではなくもっと卑近で日常的なものとして、それを内包する部分も含めて「シティ・オブ・ゴッド」という生まれ育った場所に対する思いみたいなものがある。

それを、狂言回したるブスカペのカメラから捉えさせる。

 

最後の長いカット。ブスカペと友人の背中を追っていったカメラは、画面左から現れ二人と交差する新たな支配者となった少年ギャング集団を追っていく。

 

「俺の地元ってさー」

そんな言葉から始まる、地元愛に溢れる映画。