dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

それでもこれは、どこかの誰かの話なのだと思える

まいった。

オールタイムベストに届くか届かないかといったぐらい、自分の好みの映画だった。

「25時(原題:25th hour)」

何が好みなのかって、それはまあ「マンチェスター・バイ・ザ・シー」的な、と言えるかもしれない。あそこで描かれるマンチェスターの町並み以上に哀愁の漂う(というか人物たちが漂わせているのだけれど)ニューヨークという街が、すごくたまらない。ちょっと、というかかなり違うけどちょっと近い感覚としてGTAで雨の降る夜の時間帯の街を車で走っているときのような。

何が言いたいのかというと、「夜明け前の空が白んでいない時間の尊さ・儚さ」みたいなものがこの映画の全編に渡って支配しているというか。始まりからして真夜中(と思われる)の道路を車で飛ばすノートンですからね。もちろん朝や昼間のシーンもあるのだけれど、それでもやっぱりミッドナイト感がある。

けれど、言葉として言い表すにはどうにも難しい類の「情感」や「雰囲気」や「距離感」といったものばかりで、まとめのほうに押し込まず単独でポストしたものの文字数がかなり少なくなりそうな予感。

 

主張しすぎず、物悲しさをそれとなく演出する音楽もいいし使いどころもいいですよね。無常観というか。

 

あと役者ね。ノートンがこの役に選ばれたのって「ファイト・クラブ」の影響っていうか、その反動もあるんじゃないかなーってくらい、すごくやさぐれていて萌える。まあ豚箱に行くまでの25時間の物語だから当然っちゃ当然なんですけど、自暴自棄に「何もかもくそくらえ!この街もあいつもこいつもどいつもこいつも全部クソだ!そんなこと

 を考える俺が一番クソだ!」といったやり場のない憤りや後悔といったものが、あのトイレの鏡の前で一気に吐き出す演出と相まって切なくなってくる。周りに当り散らすのは、何よりもそれが自分の自業自得が原因であることを理解しているから。それでも当り散らさずにはいられない、そんな葛藤まみれの独白に心を揺さぶられないわけがない。時事ネタでいえば、アベンジャーズ絡みだと「シビル・ウォー」で社長がファルコンを撃ったときにも近しい感情があって良かったなーと思い出した。

バリーペッパーのあの小生意気で下世話で下品だけど、友情に厚い有情な役柄なんかもいいですよね。最後のほうで泣きながらノートンを殴るシーンのどうしようもなさややりきれない気持ち。

多分、本編のあとに一番しれっと社会に溶け込むタイプではあるのだろうけど、内心ですごく抱え込んで自殺しちゃいそうな危うさもある。

それとシーモア・ホフマン。ちょっとマット・デイモンに似ているんですよね、この人。なんというか、何事もなさなかったverというか。踏み出す力より踏みとどまらせる自律心が勝ってしまう人間というか。

そういう意味では、この人もかなり危うい場所に立っている気がするんだけれど、ノートンに尺が割かれているのでその後にどうなったのかが描かれないのが惜しい。最初は「130分とか長いなーだるいなー」なんて思っていましたが、見終わった今となっては「あと10分だけでいいからホフマンのその後を!」と思う。

まあでも、この世界だとこの人の行動の結果はよろしくない方向に向かいそうではある。あとねー細かいところですけどバリペとチャーハン食ってるときにね、手が震えてるんですよ、色々言われて。彼はすごく繊細なんですよ。すごく繊細で、だけどノートンみたいな悪友とも仲がよくて、おそらくは彼なりの葛藤があったはずなのですよね。

 

けれど、遠目からのショットとバストショットをうまく使って一定の距離を保っている感覚とかもあって、決してウェットになりすぎない大人な振る舞いが活かす。

スパイク・リーの傑作だと思う。

SI PUO FARE!他者はすべてイカレているということ

イタリア映画「人生、ここにあり!」

 精神障害者に焦点を当てた、いわゆる社会派な映画ではあるんですが、内容はそこまでかしこまってはいない。むしろ、普遍的なテーマ性を持った映画で、誰が見てもわかりやすい物語になっている。観賞した印象としては理想8:現実2といったバランスなのですが、一応は実話ベースの話ということらしい。マジですか。

精神病者を扱った映画といえば「レナードの朝」(はちょっと違うかな)や「カッコーの巣の上で」「17歳のカルテ」などがありますが、そレらに比べると重苦しい空気はない。少なくとも表面上は。これはイタリアという国柄なのかどうかよくわからないけど、悲壮感がない。人死にはありますが、なんだか重く見せかけてはいるけれど軽いし。悪いとか良いとかではなく、単純にそういう作風である、と。
 
ウィッキーさんの情報があまりにテキトーすぎるので、今回はDVDのパッケージに記載されているあらすじをしっかり書きますです。


舞台は1983年のイタリアーーーミラノ。型破りな活動で労働組合を追い出された熱血男・ネッロが行き着いた先は、精神病院の閉鎖によって社会に出ることにあった元患者たTの協同組合だった。お門違いな組合の運営を任されたネッロは、精神病の知識が全くないにも関わらず、持ち前の熱血ぶりを発揮。個性が強すぎて社会に馴染めない元患者たちに仕事でお金を稼ぐことを持ちかける。うぐに手が出るキレやすい男、彼氏が100人いるという妄想を持つ女、UFOが年金を支給してくれていると信じる男…そんな一筋縄ではいかない面々とネッロは、ドタバタなトラブルを巻き起こしながら、無謀ともいえる事業に突っ走っていくがーー。

1978年、イタリアでは、バザーリア法の制定により、次々に精神病院が閉鎖。それまで病院に閉じ込められていた患者たちを外に出し、一般社会で暮らせるような地域づくりに挑戦いた。この物語は、そんな時代に起こった、ある施設の夢のような実話を基にした作品である。

 

今から10年近く前の映画が、さらに30年前の出来事に端を発する実話を下敷きにした映画。ではあるのですが、実のところこれは現代の先進国(とりわけ日本)が直面している問題でもあったりする。
 というのも、精神障害者はなるべく病院や医療施設に頼るのではなく地域全体で、地域中心という方針が政府主導で現在進行形で行われているからだ。
なぜ病院を廃止するという法が成立したのかというのは、まあ一応わたしの専攻している部分であるとはいえここで説明するとかなり長くなってしまうし、半可通な知識で書くとあらぬ誤謬を生みかねないのでごくごく単純化してしまうけれど、簡単に言えば「人権擁護の観点から拘束したり強制入院させたりするのはどうなの?」ということである。たとえば「宇都宮病院事件」なんかは日本でも特にその機運が高まる理由の一つであるし、最近でもNHKのドキュメンタリー「ある青年の死」でも精神病院のスタッフの暴行によって死んだ青年のことが取り上げられていたりしたことからも、決して過去の出来事ではない。

NHKドキュメンタリー - ハートネットTV「ある青年の死」


 ほかにも兵庫県の事件に代表されるように私宅監置の問題なんかもからんでくるのだけれど、先刻承知ながらそこまで突っ込むほどの知識はまだわたしにはないのでとりあえずは「そういう歴史がある」とだけ。

兵庫・長男監禁 5年前親族が市に2回相談(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュース

だから「精神病院を廃止する法」というのは決して患者を見捨てたとかそういうのではなく、むしろ世界的な流れとしてノーマライゼーションを目指した動きの一つなのだろうと思う。1975年の「障害者の権利条約」に少なからず影響を受けているのだろうけれど、イタリアどころか日本の障害福祉に関して学び始めたばかりの自分にはその詳しい背景はわからないので、今現在どうなっているのか詳しいところまではわかりませんが2016年時点では施行されている状態だった模様。

まあ病院を廃止するというのは福祉的にはともかく医療的には色々とぶっ飛びすぎなきらいもありますが、少なくともこの映画に登場するネッロのような人間がいれば成立し得るのでしょう。逆に言えば、こういう人間がいないとこの映画に登場していた人たちはずっと冒頭のように狭苦しい場所で薬を飲まされ切手貼りみたいな細かい作業を延々と続けていることになる。

 

基本的にはあらすじに書いたようなことから、精神障害者の人たちと関わっていくうちに初めは戸惑いがちだったネッロが、紆余曲折を経て彼らの置かれた現状を理解していくにつれ、彼らに相応しい仕事をともに担い、一定の達成をするというもの。
その仕事はある種の「こだわり」から生じる特殊な技能に関わっていたりするわけで、それがひょんなことから成功に繋がっていくというのは実に映画的お約束なのだけれど、どこまでが実話なのだろうか。
 仕事を請け負うことで健常者とも接し、ある精神障害者との恋に発展するという展開が映画の後半にある。最終的には悲劇に繋がっていき、それがネッロを挫折に追い込みはするけれどもみんなの行動によって再起する。
とてもシンプルでわかりやすい。ただ、この映画はちょっとした深い(とか書くと途端に浅く感じる不思議)台詞がある。「誰だってイカれてる」という台詞。結局のところこれが真実なんですよね。精神病者には彼らの理屈があって、それを理解できない・理解しようとしないことから排他・排斥という手段を取ってきたにすぎない。

無論、相手を理解しようとすることはかなり難しいし大変なことだし傷つくこともある。だから楽な方に流される。ぶっちゃけその気持ちはわかるし、先にあげた事件の加害者側のスタッフの行動にしてもわたしは批判できない。究極的に言えば、わたしたちはどちら側にもなりえるのだから。
というか、ネッロもその洗礼を受けるし。
だからこそ、ネッロがある人物から「イカれてる」と言われるシーンは、感動的でもある。ようやく彼が精神病者と同じように見られるくらい彼らに共感・同調できた証左だから。

 なんだか作品そのものに割いた字数が少ないですが、映画としてはどうこうというのは置いておいて悪い映画ではありませんです。

 

あれはメカゴジラというよりキングゴジュラス(verバイオゾイド(そんなのないけど))では

あれはメカゴジラというよりキングゴジュラス(verバイオゾイド(そんなのないけど))では・・・しかし立ち方とかはゴジラスギガっぽいし、顔はギャレゴジっぽくもある。よく考えたらどれもモチーフは同じだしキンゴジュにいたっては元ネタがゴジラみたいなものだし似てるのも当然なのでしょうか。とか思ってたら秘宝の寄稿で手塚昌明が同じようなこと書いていて笑った。西川伸司(3式機龍のデザイナー)は生賴範義ポスターverのメカゴジラをベースにしているのではということを仰っていましたが。
ガンダムはそのままなのにメカゴジラはどうしてあんなにアレンジきかせたのだろうか。

割と遅めの回ということもあってか、IMAX3Dにもかかわらず(だからかな?)半分も席は埋まってなかったかな。まあ入れ替わりで出てくる客の多いこと多いこと。みんな「アベンジャーズ」観てきたんでしょうね。
こういうお祭り要素の強い映画っていうのは初日の初回に行って「うおおおおおお」となるのがもっとも愉快な楽しみ方であるということを「シン・ゴジラ」のときに痛感いたしましたが、今回は出遅れましたハイ。思えば、「シン・ゴジラ」を5回も劇場に観に行ったのはそういった熱気に浮かされていたというのもあるのかもしれない。BDを買ったけどメイキングを観て本編は一回も通して観てないし。ミリオタの庵野秀明が大きく顔を出している映画なので、大画面+大音量が一番正しい見方であって、家の画面で見るのとは結構体験として違うものがありますですからね。IMAXの後に普通の上映形式で観たら「あれ、こんなんだっけ」という肩透かしを食らったし。内容はもうわかっていたから、というのもあるのだろうけれど。

前置きが長くなりましたが、「レディ・プレイヤー・1」
なんかもう映画秘宝でFBBが言っていることがほとんどわたしの感想のすべてなんで書くのもアレな気がするのですが。

 とりあえず最初に吐露してしまうと、めちゃくちゃ盛り上がっている人には申し訳ないのだけれど、そこまで乗れな買ったかなーと。お祭りに乗り遅れた僻みとかそういうのではなく、純粋に乗れなかった。
というのも、この映画、実のところスピルバーグはこれといって思い入れがあったというわけではなさそうだからで、この映画にはむしろそういった思い入れが欠かせないはずだから。ぶっちゃけいつものスピルバーグ映画である。つまり、映画として面白くてまとめてあって、どこか異質な感じがある。そして、それゆえに乗れなかったのだと思う。仏作って魂入れずではないけれど、これ、原作は未読だけどおそらくは映画よりもかなり自分は乗れるんじゃないかと確信に近い自信を抱いている。それは尺の都合だとか権利上映画には登場させられなかったイースター・エッグがあるから、ということではなく、(聞きかじっただけだけれど)原作はオタクのオタクによるオタクのためのオタクの愛による(むしろそれだけでできているはず。基本プロットが映画と変わらないのなら、SF的な楽しさや新鮮さといったものははっきり言って皆無に近いから)小説だという印象を受けるからだ。

企画が先にあって脚本もある程度出来上がった状態でスピに提案されたということからも、あくまで雇われ仕事であることはわかる。

しかしスピルバーグの映画で心が震えたことがあっただろうかと思い返してみると、最近の作品ではそういうのはあまりなかったような気がする。それこそ「E.T」や「魔宮の伝説」(「カラーパープル」と「ジュラシック・パーク」も入れていいかな)といった80年代の作品まで遡る必要がある。好きな映画にまで広げれば「宇宙戦争」とか「マイノリティ・リポート」とかありますが。たんなる懐古じゃんと言われそうですが、そうではないと断言できるのは、「E.T」を去年になってようやくちゃんと観たからです。
で、既述のとおりスピルバーグはあくまで雇われ仕事でこの映画をこれまでと同じように手早く撮り終えた。無論、そこはスピルバーグですからその才能でもって楽しいエンタメ作品に仕上げてきている。脚本的には色々と言いたいところもなくもないのだけれど、一冊(ていうか文庫だと2冊)の小説を1本の映画に収めるにはかなり削らなければいけない部分もあっただろうし、そこは仕方ない。
が、こと「レディ・プレイヤー・1」というコンテンツに関しては、才能よりも愛情が必要だったのではないかと思う。それこそ「パシフィック・リム」のような拘りに拘りぬく情熱が。
だからといってスピルバーグを責めるつもりは毛頭ない。「レディ・プレイヤー・1」の愛情の源泉やその対象が当のスピルバーグに向かっているというのもある程度はこの映画を撮る上で作用しているだろうし、町山が指摘しているように本人がそれらのコンテンツ・時代を作り出した以上は、どれだけのエゴを肥大化させたとしてもそれは結局のところ自己愛にしかなりえないわけで。様々なところのインタビューを読む限りだとスピルバーグはむしろ積極的に原作にあったスピルバーグへの言及点を別のに置き換えているようだし。
ただ、その点で言えば「シャイニング」パロのシーンだけは愛情度というか本気度がかなり違った。元々あそこのシークエンスは「ブレードランナー」を使う予定だったのが権利的な問題で変更することになったとはいえ、わざわざ「シャイニング」をぶち込んできたということはそれだけマジだったということでしょうから。あそこは本気でビビリました。
スピルバーグキューブリック愛は周知の事実(自分は知らなかったけれど)ですし。だから、「シャイニング」シークエンスはやけに面白かったのでしょう。

下衆の勘繰りですが、今回のスピルバーグの来日のコメントとかが明らかにリップサービスっぽいのとかも、なんというか「とりあえず日本の有名どころの名前出しておけばリスペクト感出せるだろう」という気がするのですな。だって、これまでスピルバーグって宮崎駿に言及したことありましたっけ。だいたいいつも黒澤か三船でしょう。そこで口にするのが「千と千尋~」というのもなんだか「アカデミー賞獲ってるジブリ映画だし」という気がしなくもない。
言うまでもなく、ゴジラや怪獣特撮(宇宙戦争での来日時なんかはそれがよくわかる)への愛情や特定の日本映画に対する思い入れはガチなのだけれど、今回に限ってはそういうのとは違う気がするのです。今回の映画は日本のコンテンツへのリスペクトが多分にありますから、ぶっちゃけマーケティングとしての意味合い以上のものはそこまでないのではないか、と。それでもアバターの見た目を三船敏郎にしたり、ちょいちょい遊び心を表現したりはしていたけれど。

あーあと乗れなかったというのは、この映画が「オタクが(オタクの)世界を救って彼女もゲットして金持ちになってヒャッハー」(完全に「トランスフォーマー」です本当にありがとうございました)なガワなのにメッセージ的には「それではいかんですよ」というオタク否定というかたしなめる映画でもあるから、なんですよね。しかもそのオタクを生産しているのがスピルバーグ本人というのもタチが悪い。ハニートラップよりよっぽどタチが悪い(笑)。
大人としてのスピルバーグなりの矜持なのでしょうが、そんなスピルバーグみとうはなかった!
まあ、あとは強者が当然のように勝つのとか彼女が美女だとか、オタク特有の葛藤がない(バートンかわいいよバートン)のも不満要素ではあるですな。

  散々っぱら文句のようなものを書き連ねてはきましたが、決してつまらない映画というわけではなく、むしろ超楽しい映画であることは変わりない。
ラストの大乱戦はやっぱり観ていて楽しいし、ゴジラのテーマアレンジは超上がるし鳥肌立ちましたし。ガンダム・・・は自分はそんなに知らないんであれですが、メカゴジラを応援しつつもアイアンジャイアントを応援したりと、まあともかく楽しいです。
リナ・ウェイスがゴールドバーグに似ているとか、そういうどうでもいい部分の感想はありますが、ともかく楽しい映画ではあります。
 
もし観るならIMAX3Dがオヌヌメです。アベンジャーズの公開でIMAXシアターを回す回数が減ってくるでしょうから、見たい人は早く劇場に行くが吉。

あんなの(熊)なんて飾りです。宣伝マンにはそれが分からんのですよ。

午後ローは本当に侮れないのです。

カット祭りで繋ぎがよくわかんなくなっていたりすることは多々あります(だったらそもそも放送枠に合うような尺の映画を選べという話ではあるんですが)が、それでもこういう微妙に話題にならないようなものをやってくれるので助かるのである。基本はおバカ映画ばかりやっている印象ですけれど。

 

で、その侮れない映画というのが「ザ・ワイルド」。このタイトルの潔さに「ワイルド・スピード」の原題以上のワイルドさを感じる。

どれくらいこの映画が好きなのかと言われるとまあ自分でもよくわからないのですが、少なくとも「まとめ」のほうに投擲するよりは単独で記事をポストしたいという欲求に駆られる程度には好きなのである。

この映画、午後ローのコマーシャルからは「ホプキンス翁vs熊」という珍味な映画として、一部の好事家やホプキンスファンが楽しめるようなものなだと思っていました。しかしまあ、よく考えてみればただの動物パニックもといサバイバル映画に出る(出す)はずもないわけで。

監督はリー・タマホリ。タマときてホリという、語尾に「♂」をつけたくなる名前ですが、この人の関わった映画ではかろうじて「戦場のメリークリスマス」を知っているくらいでしょうか。戦メリでは助監督をやっていたらしく、ほかの有名どころタイトルでいえば「007 ダイ・アナザー・デイ」でしょうか。寡作な人なので年齢の割に作品が少ないので、機会があればちょっとほかのも観てみたいかも。

主役の富豪チャールズ・モースには我らがアンソニー・ホプキンス。そのチャールズの、モデルである妻役としてエル・マクファーソン。彼女の専属カメラマン役にアレック・ボールドウィン。そのアシスタントにハロルド・ペリドー・ジュニア。チョイ役に「少年と犬」の監督であるL・Q・ジョーンズと、絶妙に有名どころなキャストも揃っていたりして、この時点でただのサバイバル映画ではないことが察せられる。あと熊もどうやらむこうでは有名な動物俳優らしくバートという名前らしい。

音楽もジェリー・ゴールドスミスだし。

 

そんな一見すると豪華な映画ですが、とはいえキャストや音楽だけは一丁前で映画自体はポンコツというものは少なくありません。しかし、この映画に関してはそういう部類に入らないんじゃないか。

そう思ったのは、この映画にはウィリアム・ワイラーの大傑作「大いなる西部」に通じるものがあったからで、わたしがこの映画の感想を単独で書こうと思ったのもそこにある。

以前に「大いなる西部」についての感想を書いたので細かい部分を参照してもらうとして、簡単に言えば「クズすらも受け止めてくれる懐の大きさ」でしょうか。

dadalizer.hatenadiary.jp

 

ていうか、熊との対決部分とかは割りとあっさりというか「え、それでいいの?」と思わない部分もないわけではない。もちろん、手持ちの物資が限られている中で熊とどう戦うのが正解なのか素人のわたしにはわかりませんが、ややおざなりな感じは否めない。ま、竹槍持たせて戦車やら戦闘機やらと戦わせようとしていた国の人間が言えたことではないのですが。

この辺が雑に思えるのは午後ローのCM地獄カットというよりは、そもそも作り手が注力していなかったのではないかと思う。あくまで熊との遭遇は人間の数あるペルソナを引き出すための試練というか道具でしかない、と割り切っているような。道具というか、状況でしょうか。それゆえに「なぜ熊…? ほかにやりようがあったのでは?」と首をかしげたくなったりもするのだけれど。ただどうやって撮影したんだこれーと思うくらい熊の行動とか距離感とかはあったので楽しめはしたんですけどね。(既述のように熊も俳優だったというオチですが)。

熊が舞台装置的な役割でしかないとここまで言い切れるのは、熊を倒した後にこそドラマが展開されるからなのですよね。

熊をホプキンスとボールドウィンが二人で倒したあと、小屋を見つけてそこで体を休めようとするのですが、ボールドウィンが酒を飲みながら猟銃に弾を込め始め、ホプキンスを殺そうとするんです。なんでそうなったのかというと、割りと最初の方からほのめかされていたりホプキンスの台詞なんかからも読み取れるんですが、ホプキンスは妻とボールドウィンがデキていて共謀して自分を殺して遺産を手に入れるつもりなんじゃないかーとか思っていたわけです。それを指摘されたこともあって、ホプキンスを殺そうとするボールドウィン。しかしボールドウィンはホプキンスを殺す直前に落とし穴にはまって重傷を負ってしまい、助けを懇願する。

ホプキンスじっちゃまはそれを受け入れて助けるんですな。たった今自分を殺そうとしていた人間を。

結局、その落とし穴の傷が原因で救出直前にボールドウィンは死んでしまうわけですが、その間の二人のやりとりがこの映画の白眉で、どうしても泣けてしまう。

クズな人間が死を目前に罪を懺悔し赦しを請う。それは、ともすると情けなくて、アクション映画なんかではその直後に主人公に撃たれて死んでしまったりするわけで。

けれど、この映画はそれをホプキンスに受け入れさせ、赦しを与える。神にではなく、不義理を働いた本人に向かって赦しを求め、それをその本人が受け入れる。こんな単純なことだけれど、それを素直に描くことは案外難しい。それに、ここではウェットでありながらもジョークを交えているから、余計な臭みがない。それに過剰な音楽的な演出もない。だからいい。

「熊である必要性が云々」とは書いたけれど、それまでの二人のサバイバルな状況がなければこうはならなかったはずで、二人にとっての試練という意味では必要なものであるということは言える。

 

午後ローカットなしで見たら、またちょっと違うかもですが、結構いい映画だと思いますですよ、これ。

なぜ二回も爆発させたのか+左利き

休日に体調を崩すことほどテンションの下がることはない。

しかし面白いことに土曜日に健康診断を受けてこれといって問題はなく問診にも異常はないと答えて20時間も経たないうちに喉が痛くなり鼻のかみすぎで水分が体から抜けていき頭がグラグラするという始末。

そしてまた、わざわざ新しくエントリ作るほど印象に残ったわけでもない映画について書こうとしているのも問題ではある。新生活で時間がカツカツとはいえ最低でも週に1回はこのブログを更新したいとは思っているので、それでも無理やり書くのです。

まあコンディション整えないでレディプレ観に行くのは避けたいしね。

 

そんなわけで今回観たのはチャッキーでお馴染み「チャイルド・プレイ」だったりする。別にレディプレにチャッキーが出ているからとかではなく、本当に思い立って観ただけなのですが、ということを「チャイルド・プレイ」を見終わってこれを書いている今思い出す。

チャッキーといえば映画は見たことないけど知っているキャラクターとしてポップアイコン的に扱われている気がするけれど、わたくしめもそんな一人であった。

で、こうして改めて見るとどうなのか、ということ。ちょうど30年前の映画だけれど、いや、面白いですね、これ。面白いというより、すごい。

チープといえばチープだしB級感は拭えないのだけれど、ホラーなお約束は守っているし、なんだかんだと最新作が作り続けられるくらいに初代のインパクトがあったということではあるし。

そのインパクトというのは、なんといってもチャッキーのアニマトロニクス。とはいえ、所々で「これ絶対に人が演じてるだろう」という部分ではやっぱりセットのサイズを大きくしてアクターに演じさせていたり。

このアニマトロニクスが人形という題材に見事にフィットしているというのが大きい。確かに生きていると感じさせつつも、人間の動きとしてはどこかぎこちなく、それこそが人間の魂の乗った人形というチャッキーの存在と直結している。

だから、今見てもまったく違和感がないのだろう。まあ脚本は正直なところB級ホラーの域を出ないのですが、脚本の秀逸さを求めてこれを見る人はまあいないでしょう。

個人的には冒頭の魂の乗り移った部分というのを丸々カットして、チャッキーをよりわけのわからない存在にした方が怖さという面では際立つと思いますが、それでは表現としてのアニマトロニクスと「人間の魂の乗った人形」の設定との間に分断が出てしまいそうな気もしなくもない。まあ後出し的に開示することは可能でしょうが。

まだ1しか観てませんが、続編も早いうちに観たいと思いますです。

ちなみに、二回も爆発、というのは冒頭のトイショップと空家みたいな家をセットごと爆発させたことで、そんなことをする余裕のあるバジェットだったのだろうかという疑問があったからですね。冒頭はまあ掴みとしてわかるのですが、中盤の爆発は別にあれをやる必要はまったくないので・・・いや、サービスとして素直に受け取っていいと思うんですけれども。

 

で、「サウスポー」も観ました。観ている間にティッシュ一箱使い切ってしまいました。そんな最悪のコンディションでも上がる映画ではあります。物語はオーソドックスですがボクシング映画で変にひねられてもそれはそれで困るというもの。

監督はフークワということで最近は割りと評価か固まってきていますので、安心して観れる監督ではあるので。彼の作品の中では「トレーニング・デイ」が今のところ一番好きなのですが、今回の「サウスポー」は普通に上がる映画ではある。

しかしギレンホールは「ドニー・ダーコ」から近作の「ナイトクローラー」や「ライフ」に至るまで妙にクセの強い映画に出ている。まあどこか虚ろな目をしているので癖のある映画には合っているといえば合っているのでしょう。

フークワがボクシングに一家言あるとかないとかで、ちょいちょいドキュメンタリーちっくというか試合をそのままテレビで見せられているような絵ヅラなんかもありましたな。

 

ジュマンジ

ザスーラ」には触れないんかい、というのをとある「ジュマンジ」ファンの感想を聞きながら思ったのであった。「ザスーラ」はどことなく影が薄いのは「ジュマンジ」がロードショーでいっぱいやっているからなのか、ロビン・ウィリアムズの力なのかはわかりませんが、ジョン・ファブローが監督しているので結構面白いんですけどね。

まあ対抗がジョー・ジョンストンという時点で分が悪いというのはあるんですが。

それはさておき「ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」面白かったです。ドウェイン・ジョンソンをメタな批評でやっていったりするのが面白いし、全体的にバカバカしくて大変よろしい。

カレン・ギランとジョンソンのキスシーンとかね、TSのお約束的反応とか。あまり緊張感とかはないですし、頭空っぽにしつつもホロリとくる映画ではあるので誰が見ても楽しめるでしょうね。

個人的にはどこまでがゲームのシステムによっているのか、というのを考えると面白そうだなーとは思うのですが、まあそれはいいか。

なんかそこまで書く事ないんですが、いや、普通に面白いですよこれ。

スタイリッシュ化というダサさ

どうして「トランスフォーマー」は監督が継続して「パシフィック・リム」は監督が継続しなかったのか・・・。「エイリアン」みたいにそれぞれに尖った部分があればまだしも。なんなら、一番評価の低い「エイリアン4」が個人的には一番好きだし。
ぶっちゃけ、「シェイプ・オブ・ウォーター」よりも「パシフィック・リム」の方が好きなので、「アップライジング」を観たあとだとどうしても「デルトロこっちやってくれよー」という思いがなくもない。
一応、クレジットにもデルトロの名前はあったから目は通しているんだろうけど・・・映画秘宝は読んでないし今回はパンフも買ってないからなんとも言いがたい。
 監督交代とか新しいイェーガーのデザインが公開したりフィギュアの情報が一番早かったあたりからなんとなく嫌な予感はしていたんですが。それにしても公式サイトもどうなんでしょう、これ。なんでキャストの情報なくてボイスキャストの情報が・・・?ていうか単純に情報量少なすぎでしょう。「THEATER、NEWS、POSTER、VOICE CAST」ですよ、主要なコンテンツ。ほかはほとんどがキャンペーンのバナーだし。

本編入る前に配給がユニバーサルだったのも違和感あったんですけど、よく考えたら前回はワーナーでしたからね。このロゴに遊び心があるのはいいんですけど、本編があの出来じゃIMAXのスースクみたいに「いや本編にもっと力入れてよ」という反応をせざるをえない。

ギズモードのインタビューも口止めされていたのか知らないけどほとんど作品について触れていないのも「おや」っと思ってはいたのですが、いやはや。
辛うじてイェーガーの動きについて言及しています。そこはかなり重要なところなので、気を遣っているというのはわかるのですが、わたしにしてみればあれでもまだダメですね。月で動いてんのかと思うスピード感で、正直なところデルトロほどには統御できていないのがまるわかりです。ていうか、そのためのエクスキューズとして「1作目から10年後なんでテクノロジーが向上してスピード出るんですわ」と言っているようにしか思えない。ていうかね、百歩譲ってイェーガーの動きはまだ許せるとしてもそこでパイロットがコックピットで速く動いているのを映すのはやっぱりセンスないなーと思います。おめーらランニングマシンの上で走ってるだろ、と思うほど。ヘビーなロボットとシンクロしているとはまったく思えない軽い動きにマイケル・ベイから習ったかのようなスロー演出の多用。

パイロットスーツもダメ。まず安っぽい。デナイトさん、デルトロのこだわりを何もわかっていない。マスクの顔面が露出しているのも、だったらメットかぶる意味ないじゃーん、とまでは思わないまでもちょっと意味わからない(なんか最後の方で思い出したようにホログラムが表示されるけど)。前作ではスーツを着る場面一つ取っても相当なこだわりがあるのは丸分かりなんですけど、今回はそういうのがまったくなく・・・。前作の何が評価されたのかといえば、実のところ巨大ロボットがライブアクションで戦うというところではなく、その戦い自体とそこに至るまでの細かいパーツにフェティシュを前回にしてディティールを詰めていたからにほかならない。

ところが、今回はそれがほとんどない。大体、10年でそんなに進歩するのかいなとか、パーツ単位で盗まれたところで技術が流出したわけでもないのに素人が作れるわけないだろーとか。それ以前になんで怪獣がいなくなったのにそんなにイェーガー作ってたんですかね。やっぱりあれですか、軍事力強化のためでしょうか。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ということなのか。前作は最初に観たときすごく興奮したんですよね。だからリバイバルで4DXがやったときも即座に観に行ったし、何度見ても冒頭の上がるBGMと出撃に鳥肌が立つ。それくらい好きなんですが、まあ今回はともかくケレン味がなさすぎてねー。ぶっちゃけ退屈ではありますよね、うん。まさか2PACのuntouchableの予告編が一番盛り上がるとは思わなんだ。

 

で、なんで退屈かといえば脚本と演出と構成がダメな気がする。

まず、どうしてニュートをあんなことにしたのか。ニュートはさ、言うなれば怪獣フリークとしてのデルトロの投影でもあるわけじゃないですか(そうなのか?)。そして、前作ではそれゆえに世界を救うキーとなるわけですが、今回はそれが危機を招くわけです。オタク映画であるはずのパシリムにオタクの(汚穢に満ちた)純心を弄ぶような采配にははっきり「わかってない」と言いたい。ここからはかなりやっかみに近い邪推なのですが、レジェンダリーの意向で脚本にちょっと手が加えられたりしたんじゃないかなーと思ったり。というのも、今回の話は順当にいけば無人イェーガーを推し進める大企業のトップであるジン・ティエンが黒幕であっていいはずなのです。怪獣をコントロールできる(と思っていた)術を持っているので、その技術でもって怪獣を複製して操作すれば自社の無人イェーガーを配備することができておいしいマッチポンプができるわけです。しかし、やはり怪獣はコントロールできずに暴走して・・・という感じでいけば本編の構造をほとんど破壊することなく、そしてニュートのキャラクターをオタク性を汚すことなく話を進めることができたはずなのです。ていうか、最後にスクラッパーを操作するのだって、本当だったらぽっと出な上にほとんどキャラ描写のされない女じゃなくてニュートがやるべきでしょう。だってこの女、後半になっていきなりキャラが変わったかのように積極的に手伝い始めるんですもの。いや、理屈はわかりますけど、それまで大して何もしてないどころか全世界に無人イェーガーを配備していた、いわば加害者側に立っていたはずなのになぜかこっち側にいるんですよ。なんだそれ。

まあ、本当にしょうもない邪推でしかないんですが、わたしが邪推をするのには理由がありましてね。このジン・ティエンという女優さんのフィルモグラフィ。「グレートウォール」「キングコング」そしてこれ。大して活躍しないけどなぜかメインにいるということが多いですね。「グレートウォール」に関しては出ずっぱりですが、これはおそらく中国側が主導していたからなのでしょう。「キングコング」ではなぜか顔が小奇麗のままだった、なんて言われてましたし。まあ真実はどうあれ、脚本はどうかと思う。

さらに言えば、全体的に緩急がない。急ばっかりな話の構成に加えて演出もそれに拍車をかけるばかりで、またくタメがない。いつの間にか場所を移動していたり、なぜか理論上だった話が後半でいきなり使えるようになっていたり。ていうか全体的にチャカチャカしすぎ。しかもこの技術、ただの推進ロケットなんです。ま、それはいいんですけど、この発進シークエンスにもなーんのタメがない。ちょっとパイロットの掛け合いをしてすぐピューンと飛んでいきます。別に空中戦をするわけでもなく、ただ移動するためだけに。しかも肝心の空飛んで移動するシーンがねーでやんの!デルトロだったらまずはブースターをイェーガーに装着するところを描くからね。

ラストバトルなんて本当にひどくて、戦いそのものが雑な上にキャラ描写が薄すぎてなんの思い入れもない奴らが死んでいったりする。勝手な行動をして死んだだけなのに悲壮感出されても困る。あと、間が持たないのか知らないけれどバトルの途中途中で司令部にいる人(実質二人)のバストショットと顔アップで繋ぎすぎ。

肝心な戦闘も退屈なのは本当に痛い。4体もイェーガーいるのに連携とかまったくやんねーでやんの。今回はどことなくエヴァンゲリオン、特に「瞬間、心重ねて」を思わせるシーンが多い(冷蔵庫の裏から撮るカットや、ラストの戦闘後のやりとりなんかは間違いなくシンジ君とアスカだし、イェーガーの顔が吹っ飛んで目の前に落下するのとかは「男の戦い」からだろうし)くせに、肝心のチームワークは描けていないという体たらく。

ラストの戦いといえば、別にブースターを手に溶接する必要はないのではないでしょうか。持てばいいんじゃないでしょうか。

一応、アマーラのトラウマをジェイクが払拭させるというような感じにはなっているのですが、いかんせんここもタメがなくあっさり手を掴む。まああそこでモタモタやられてても困るのですが。この辺は本当に言いたいことが結構あって、まだ成功していない段階から「世界を救ったんですもの」とか言っちゃうお気楽思考ね。そもそも、怪獣との戦いに緊迫感ないんだよ、この小娘。

もしかするとデナイトはドラマ畑の人間だから、2時間ちょいで話を収めきるのに向いてないのかもしれない。メンバーを掘り下げようと努力しているような場面は見られたので。

終わり方も「え、それで終わり」という感じだったし。
 

あ、でも良い部分もありましたよ。ジプシーアベンジャーのフィストを吸収してカット割らずに怪獣のカウンターパンチを繰り出すところはケレンミありましたし。マコとジェイクのやりとりもなんか人種や血を超えて通じ合うという部分に和みましたし(もっとここは多くて良かったよ)。あと怪獣のデザインはちょっとだけ異形感が増して良くなった。正直、前作の怪獣は怪獣というよりはモンスター感の方が強かったので。

あとボィエガね。この人は本当にいい役者で、墜落したヘリの元に向かって走っているときの感極まってしまっている表情なんか本当にうまい。

 

そういえば、マッケンユウどこにいたってくらいほとんど出番ありませんでしたね。

パシフィック・リムならなんでもいいの」っていう信者の人は観に行ってもいいかもだけど、前作の純粋なファンであるほど今回のにはがっかりすると思います。いわゆるハリウッド大作の一つとして観れば可もなく不可もなく「こんなもんだろ」と観ることはできますかね。