dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

abemaロードが終わるらしい

まあ、なんとなく予想はしていましたけどね。

第一、日曜日の夜に映画を流すということがよく考えたらアレなわけですよ。明日仕事ですよ、仕事。そんなテンション激落ちなときに映画見せられても困るんですよ一般ピープルは。いや知らんですが。

とはいえ私の幼少期は日曜洋画劇場で大作を観ていたりしてたわけで、そういうあれこれを考えると「いつでも観れる」ということは「ずっと観ない」ということでもあるのだろう、娯楽や生活様式が多様化した昨今では。90年代や00年代のようにテレビで流せば観るというわけでもないし、パソコンやスマホをいじっているのであれば映画じゃなくて別のことをする人間が大半だろうし。

ていうか、コメントを打つのもメリット(がそもそも自分には思い浮かばない。見ている最中に解説とかされるのもなんか嫌だし)はあるのだろうけど同じくらいデメリットもあるだろうし。

 

とかなんとか、観た映画とは関係ないことを書き綴ったのは、それなりにアベマの日曜ロードは観ていたので終わるのが寂しくないと言うと嘘になるので、少しくらい書いておこうと思ったのです。ま、こっちとしてはこの時間を別のことに使えるようになるのでプラマイで言えばややプラスでもあるわけですが。基本、映画を観るのが好きな一般人でしかないので、何よりも映画を優先することは私には難しいですし。

ここ数週間は劇場行けてないしなぁ・・・。

 

6月最後のアベマでやっていたのは「サニー 永遠の仲間たち」という映画でした。

韓国映画。ぶっちゃけ韓国映画を劇場で観たのは「アシュラ」が初めてなくらい疎い。

いや、面白いんですけど、戯画化がすごいですな。吹き替えの感じも洋画系で聞くようなシリアスリータイプとは違って、どちらかといえばアニメとか昼ドラな聞き心地でしたし。ぱっと見ただけだとゼロ年代の邦画最悪時代を思わせるくらい(例を挙げ出すとキリがないので書き出しませんが)ベタベタでコテコテ(それゆえにヒットしているのでしょう)なのですが、パンで時間を遡ったりカットバックだったり「過去と現在のイム・ナミがひとつに…(もやし)」な演出だったり(個人的にはやりすぎな気もしますが)エモーショナルな演出は上手い。どうせなら時間の逆行の入りを丁寧にやるなら出るのもやってくれたらいいのに、とは思う。

80年代の韓国の高校生たちの服装とかは知らなかったんですが、あんな小学生じみた服がおしゃれだったんですね。

7人全員をさばききれていたかどうかは微妙なところですが、それぞれ個性は立っていたきはします。しかし高校時代のイム・ナミが高校時代の知り合いにそっくり(シム・ウンギョンの方が可愛いですが)で笑う。その知り合いはイモトに似ていることからイモトと呼ばれていたんですが、確かにシムも似ている。

なんだかんだで青春と現在の対比やそれが最後に同化していく(エンドロール込で)のは来るものがある。ちょうど今日「キッズ・リターン」のことを思い出していたりしたのもあって、相乗効果があったのかも。

 

ただ、相変わらずこの辺はこの映画に限らず軽視されがちなところなんだけど、もともとハ・チュナと仲の良かったシンナー吸ってた子の扱いね。

いや、わたしも名前を忘れてしまっているので大声では言えないのですが、扱い軽すぎ。何度も書きますが、こういうキャラクターのこういう扱いを見るたびに「大いなる西部」がいかにクズや雑魚に優しい映画かということを再認させられる。

いや、「大いなる西部」にいたっては少女時代のリーダー(からコミックリリーフさを薄めて下衆さを増加したくらいのキャラ)を抱き込むくらいの勢いではあるので、さらに凄まじいのですが。

ま、日陰者の妬み嫉みなないものねだりではあるのですがね。いや、好きですけどねこの映画。それに、どちらかというと学生時代は日向に身を置いていましたし、なんだかんだでああいう馬鹿をやったりもしましたし。今の自分はその反動というか、併存しきれなかった陰の部分の発露みたいなものですし。

 

DC版も観てみたい気はしますが、そこまでては伸びないだろうなぁ。

どうでもいいんですが、こういうグループ構成が7人というのはなぜなのだろう。やっぱり「七人の侍」にあやかっているのだろうか。

 

私はあなたのニグロではない

有楽町というか、ああいう夜の都会の喧騒は好きだけど怖い。

有楽町自体、実のところ「バケモノの子」の試写会で行ったことがあるくらいだし。

そんなわけ初・有楽町のヒューマントラスト行ってきた。下の階の中華料理屋さんが滅茶苦茶うまそうだったですぞ。

しかし私の入った箱のスクリーンが思ったより小さかったのとか右端の席がやや窮屈なのは若干気になったけど、雰囲気はよし。

 

前から気にはなっていたんですが、近所にやっているところがなかったので二の足を踏んでいたのですがトークライブつきだったのと水曜で安かったので行ってきた。基本、守銭奴で貧乏性な私は何らかの付加価値が付くことによって足を運ぶことが少なくないのですよね。「早春 DEEP END」とかもそうですし。

 

さて、今回の「私はあなたのニグロではない」は面白い映画ではない。というのは説明するまでもないか。そういう類の映画ではないし。ただ、それでも観に行くのは、書くまでもなく私がブラック・カルチャーや黒人の歴史について疎いからだ。

マルコムXは多少知っていたし、マーティン・ルーサー・キングも教科書で名前を聞いていたりはした(ここを深く突っ込まないというのがやはり日本の教育の浅さだとは思うが・・・とはいえカリキュラムの都合もあるだろうし)。が、今回のメインとなるジェームズ・ボールドウィンについてはほとんど知らなかった。

 

これまで、このブログでは「ゲット・アウト」「ヒドゥン・フィギュアズ」「デトロイト」「カラーパープル」「ブラック・パンサー」(それ以外にも黒人と白人の関係性への言及をした記事はいくつかあると思うけど)などで黒人について触れることはあったけれど、読んでわかるとおり私は彼らのことをほとんど知らない。

だからこそ観た。そして、身につまされることもあったし、自分の学習分野とダブる部分もあったりで、色々と考えることは多かった。

 ただ、やはり映画であるだけに映画としてのある種の複雑な構成を内包しているだけに、伝わりやすい反面わかりにくい部分もある。特に時系列に関しては当時のボールドィンの音声を使いながら現在のアメリカの状況を映し出していたり、ボールドウィンの引用(過去)ではありながらもサミュエルのセリフ(現在)で過去が語られたりしていて、何というか時間軸の錯綜・・・もといヘプタボット的にすべてのタイムラインを同一円上に並置しているような感じなのです。

過去の言葉を、現在を生きる者に語らせることの意味とは。アメリカの過去と現在を多少なりとも知っていればわざわざ書き起こすまでもない。

エンディングの演出や音楽もしっかりつけられてるし、編集もかなり意図されている。この複雑さは、アメリカという国の抱える複雑さではないのだろうか。そう思ってしまうほどだ。だから、映画を反芻したいのであればシナリオが再録されているパンフレットを買うことをおすすめする。

前から思っていたことがあった。「アメリカってかなりモザイク国家に似ているような」と。中東のように国家規模での武力闘争ではないだけで、それこそボールドウィンの生きていた時代から今現在に至るまで問題提起は連綿とされてきた。この映画で引用される映像・画像のように。しかし、彼が言うように身勝手な恐怖から安心感を得るために白人は黒人を「黒人」という軛に繋ぎ留め、あたかも融和しているかのように見せかけていた。

 

あとサミュエルね。普段の(ていうか映画に出てくる)サミュエルを知っている人ほど、今回の彼の声には驚かされるだろう。深く静かな声に。

 

 

 

 

いやあしかし、「犬ヶ島」の記事はイツニナルンダコレ

欺瞞母子

ポン・ジュノ。わたくしの御多分に漏れず、知名度や評価は知っていつつもなぜか観たことのなかった監督のひとりが彼なんですが、ちょっとびっくりした。

ポン・ジュノ、ちょっと凄まじい欺瞞の炙り出し方をしていて驚いた。
一言で書くとエントリーのタイトルどおり欺瞞に満ちた母と子の話なんですが、その欺瞞の描き方が凄まじい。

そもそも、わたしはウォン・ビン知的障害者の役という時点で「はい?」となったわけです。いわゆる知的障害者というのは、基本的には遺伝子の問題なので人種にかかわらず顔が似てくるわけです。が、この映画でウォン・ビンが演じる知的障害者(という設定を与えられたトジュン)は、ウォン・ビンなのでイケメンなのです。キムタクと山崎賢人を足したようなイケメンなのです。

それゆえにトジュンという役に対して当初わたしは「存在そのものが嘘くさい人物だなー」と思っていたわけです。振る舞いなんかも「知的障害者のように振舞っている」ように(本編を見終わった今となっては)見えるし。
そう。そしてポン・ジュノはそれを理解している。理解し、その設定を存分に使いメタ的に欺瞞を暴いていく。

トジュンの無実を信じて疑わない彼の母(キム・ヘジャ演)は、映画後半でしかしトジュンがやはり真犯人であったことを知るのです。そして、そのあとに取る彼女の行動がトジュンが真犯人であることを知るその人を殺すこと。母の欺瞞は、しかしここでまだ極に達していない。

その彼女の元に刑事がやってくる。「真犯人が見つかった」と。真犯人であるトジュンを拘留しているにもかかわらず。
そして、わたしはその「真犯人」の顔が画面に映ったときにポン・ジュノの恐ろしさを知った。

そこに映し出されたのは、知的障害者の顔を持つ男だった。確かに彼は殺された女子高生と性的な関係を結んでいただろう。彼の服に血痕が残っていたというのも本当だろう。しかし、彼女と性的な関係を持っていたのはほかにも少なくとも30人はいたし、血痕がついていたのはその女子高生がよく鼻血を垂らす体質だったからだ。

ここに来てウォン・ビンの顔を持つ真犯人トジュンと、知的障害者の顔を持つ「真犯人(役名忘れてしまいました・・・)」が対比される。ここには劇中で描かれる様々な社会的問題も内包しているのですが、それ以上に際立つのはトジュンという人物の欺瞞さ・嘘くささにほかならない。

なぜトジュンがウォン・ビンでなければならなかったのかが、ここで判明するわけです。あまりに臆面もなく突きつけてくるその怜悧さは、恐ろしくさえある。

そこからラストの母が腿に針を刺し踊りだすことで、この映画は存在そのものが欺瞞に満ちたトジュンという息子と、それを知りながら踊り狂う(踊り狂おうとする)母の欺瞞によって幕を閉じる。

伏線や布石となるものが随所に仕込まれている周到さは、ほかの人が散々ぱら書いてるだろうし面倒だから割愛するけれど、かなりレベルの高いことやってます。

しかし、母の針を拾っているあたり、あるいはトジュンは知的障害者ですらないのかもしれない。もちろん、軽度であればつつがなく意思疎通を行うことができる(この辺は制度とかの兼ね合いで何とも言えないので深くは突っ込みませんが)わけではあるのですが、そういう話ではないわけで。

 
なんだか胸がざわざわする傑作でした。

遅ればせながら観てきましたぞ

話題になっている割にあまり大々的な公開はしていない「バーフバリ 王の凱旋」の完全版を観てきました。

 前作も世界公開版も観ていなかったのですが、なかなかどうして滅茶苦茶楽しかったです。

いや、インターミッションなしのぶっ通し3時間でまったく退屈しない映画っていうだけで、集中力のない私にしてみればとてつもないことなんですよ。

友人曰く「決めゴマしかないマンガぶっ続け3時間」という表現をしていましたが、割と本当に言い得て妙だと思いました。

ひたすら楽しいのです。

わたしがこの映画を観ていて思ったのは「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」「十戒」といった往年の大作の名作であった。この映画は、それほどの迫力を備えている。もちろん、絵ヅラとして砂漠が出てきたり動物が牽引している車輪の乗り物が登場するだとか、そういう部分もあるだろう。しかし、この映画が過去の名作を想起させるのはやはり絶対的なエネルギーを有しているからにほかならない。

そしてそこにザック・スナイダー的なケレン味溢れるスローモーションの使い方。

CGは確かに粗というかモーションの違和感などもある。しかし、それに何の問題があろうか。この映画は必要最低限の演出でもって話を強烈に話を牽引していく。それゆえにギャグスレスレの展開ではある。過剰とも思える演出(顔アップからの効果音とか)は、しかしこの「バーフバリ 王の凱旋」にあっては過剰さこそが適切である。おかしなことになっている。

正直、言語化するのが億劫なほどにこの映画は面白い。ただひたすら面白くて楽しい。

完全版で追加されたというダンスシーンにしたって、むしろそれがなければ物足りないのではないかと思うくらいであるのだ、完全版が初見の自分にとっては。

歌もBGMも最高である。ここまでテンションの上がる曲と歌で埋め尽くされているのにまったくくどくない。それはこの映画の持つ熱量に適切だから。そのくせサントラもスコアも出てないでやんの!こちとらCD派なんですよ!カラオケで配信するよりそっちが先だろう!

いや、ちょっとこれはヤバイです。

こんなに楽しくて面白い映画はちょっと観たことないです。確かにこれは「バーフバリ! バーフバリ!」と口にしたくなる気持ちはわかる。性格的にそういうことはしないですけど。

 

頭空っぽにして楽しむというのは、つまるところそれだけ作品に没頭させてくれて安心してその世界を信じさせてくれるということだと思うのですが、その点において「バーフバリ」は私たちに一切の疑念を挟ませる余地を与えない。

 

久々に胸を張って言える。「頭空っぽにして観れ」と。 

 

5月のまとめ

インサイド・マン

スパイク・リーの映画。「25時」と同じロケーションが出てきたり、なんというかシンクロニシティというかデジャヴュというか。

デンゼル・ワシントンの現実的な正義漢らしさとかいい味出してる。ていうかテーマはかなり真面目だし強盗の手法としてもかなり手が込んでいるので真似されたりしないんだろうかと思う。ないか。

 

ザ・スピリット

バットマンダークナイトリターンズ」「シンシティ」「デアデビル」などでお馴染みフランク・ミラーの初単独監督作。

お馴染み、とか書いておきながら彼のアメコミを一つも読んだことがないのですが、この「ザ・スピリット」はなんだか奇妙な映画でした。

この「ザ・スピリット」自体がウィル・アイズナーのアメコミを原作にしたものらしいのですが、すっごいバランスが変。

デュラララ+ボーボボを真説ボーボボで割ったみたいな。かっこつけたいんだかふざけたいんだかわからない、という意味では銀魂とも近いかもしれませんが、あれとは違って本当にメリハリのボーダーが曖昧で、そういう意味では本当にボーボボみたいではある。

あとサミュエル・L・ジャクソンね。これを見て思ったのは、mcuでフューリーの吹き替えを竹中直人が担当した理由がわかった気がする。

 

ジュリアス・シーザー(1953)」

マーロン・ブランドが若いのにカリスマを発揮していて笑った。さすが「スーパーマン」でクレジットを最初に飾っただけはあります。

話自体はシェイクスピアですし有名だしでこれといって特筆する部分はないかなぁ、と。あとブルータスの影がやや薄いというか、前半でもうちょっと彼に尺をさいてもよかったのでは、と思う。

 

泥棒成金

ヒッチコック映画。

007のパロディみたいな作風だなぁ、と。ヒッチコック映画を実はほとんど見たことがなくて、せいぜい「鳥」「ファミリー・プロット」とか授業でちょっと観た「北北西~」くらいですし。「鳥」は確かに怖いというか異様さが強く印象に残ってはいるのですが「ファミリー・プロット」はコミカルだったよなーという印象くらいしかなかったりする。「めまい」も「サイコ」も観たことがないというのは自分でもちょっとあれだなーとは思う。この「泥棒成金」は、しかし「ルパン三世」とかあの辺の定型としてあるような気がする。

 

「フラッシュダンス」

"Flashdance... What a Feeling"の主題歌でおなじみのゴキゲンな映画。万人向けにいじくり倒してハッピーエンドにした「ショーガール」みたいな。それもう「ショーガール」じゃないんですけど。

ブラッカイマーが製作に入っているというのも、中盤の恋愛パートらへんのくどさとか関係してそうなしてなさそうな。

恋愛パートとかはアレですが衣装の雑なエロティックさとか、ダンスシーンは観ていて楽しい。ラストのオーディションで街中の人たちの動きを取り入れていたりするのも上がりますしね。欲を言えば、恋愛パートを削ってストリートダンサーや交通整理の人と一緒に踊りの練習をしている部分を加えればもっと「元気玉感」が出たんじゃないかなぁ。

愛という闘争

まずい。

犬ヶ島」の感想を出だししか書いていないのに新しい映画を観て、あまつさえ「犬ヶ島」を後回しにしている始末。進研ゼミで今月分のテキストが終わっていないのに次の号が送られてきたときのような焦りに似たものが沸き上がってくる。

 

と、ここまでファントム・スレッドを観た日に書いた部分。

ここからが6月に入ってからの文なり。

 

えーどうしたものか。大声は言いにくいのですが、この「ファントム・スレッド」観ている間は楽しめたんですけど、こうしていざ感想を文章に書き下そうとするとあまり書く事が思い浮かばない。パンフレットの柳下毅一郎評がかなりうまく言語化しているので、不誠実ながらそちらを是非、とオススメして終わりたい気持ちもなくもない。

しかしやはりそれではあまりに不誠実なのである程度は書く事にします。

で、観て思ったのは「愛vs愛」。お互いが異なる愛し方でもってお互いを愛そうとすることによって生じる闘争が、この映画で描かれていることなんじゃないかと。面白いのは、監督自身が「この映画において、ファッション界やドレス作りは関係ない」と言っていること。つまり、これは特定の世界において特定の人たちだけの間で生じる闘争ではないということ。

さもありなん。レイノルズの自閉的なこだわりにも近い服への愛の注ぎ方はフィギュアを愛でるオタクのそれ。とはいっても、映画監督であるポール・良い方・アンダーソンがクリエイティブな世界に目を向けたのも必然ではあったわけで。

そんなオタクでヒッキーな天才レイノルズ(こうやって書くと「なろう」みたいだなぁ)は行きつけのカフェで働くお転婆(でもない)なウェイターのアルマ(ヴィッキークリープス演)を口説く。飛び抜けた美貌やスタイルを持っているわけでもない彼女を選ぶというのが、すでにからして通念的な価値観とは違うことがわかる。しかし、それはレイノルズが生み出すの服のマネキンとして価値を見出しているのであり(これはレイノルズにとっては愛なのだろう)、アルマからしてみればそれは彼女の愛とは違う。それゆえに齟齬が生じてしまい完全だったレイノルズの生活にヒビが入り始める。

しかし、完全であることはそれ以上はありえないということであるとブラックでマッドな研究者が申しておりましたように、アルマのおかげで飲み込んでいた不満を解消することさえできたわけです。

それによって二人の間の結びつきはより一層強まっていくのですが、それがさらに両者の愛の違いを如実に浮かび上がらせていく。

そして、そのズレがはぜたときに、巨大な揺れが発生する。アルマ地震である。これとかけているわけでは断じてありませんが、めちゃくちゃカメラが揺れるカットがありましたね。

「バケモンにはバケモンぶつけんだよ」

ということで、アルマはレイノルズの変態的バケモン的な愛に自身の愛を打ち勝たせるために毒を盛ります。

そして弱りきったマザコンハートを懐柔することで彼女は勝利を収め夫婦関係というトロフィーを獲得するのであった。

ところどころでヒッチコックを思わせるシーンがあったりするのも、わたしが上記のように思った要因としてあるかもですが、やっぱり本質的に恋愛って戦いなのですよね。

誰かが「恋愛ってスパイスにはならんよな、物語を暴力的にドライブさせはじめて、それ以外の要素を彼方に追いやるから」と申しておりましたように、それに集中してしまうのは、やはりそれが駆け引きを含む闘争であるからではないかとレイノルズとアルマを見て思いました。

レイノルズに一番近い存在である姉のシリル(レスリー・マンヴィル演)にさえ「彼女が好きよ」と言わせるアルマの魅力とは。というより、アルマに好意を抱くという逆説的な妙ちきりんさがウッドコックの血なのかもしれない。

でもまあ、なんだかんだでうまくやっていけそうかもね、この二人なら、といった感じで終幕。

しかし完璧主義者を据えて完璧の否定を描くというのはかなり屈折しているような、実はそれ以外に方法はないような、そんなよくわからない感覚に陥る。

 

しかしわたしが今作で一番好ましく思ったのは衣装!ていうかマーク・ブリッジスの仕事!

何を隠そう、わたしが衣装に目を向けるようになったきっかけが「イエスマン」のズーイー・デシャネルのドロドロゲロリンな可愛さにやられてしまったからなんです。もちろん、それはズーイーの本来の可愛さもあるんですが、その潜在能力を120%引き出すブリッジズの衣装が最高なんですよ。「イエスマン」の中では衣装を取っ替え引っ替えするんですが、家でのタンクトップとか黒メインの赤いアウトライン(ウォーゲームのオメガモンみたいな)のコートとかキラキラしたドレスとか、もうともかく「イエスマン」はズーイーのひとりパリコレ的な側面もあって、ともかくそれ以来マーク・ブリッジスには注目していたんですが、まさかこんな格調高いドレスのデザインまでできるとは思わなんだ。

まあ彼のウィキを見直したら「そりゃそうだ」という納得をしたんですが、ともかく彼の仕事がかなり生きていると思いますね、これは。

 

 

「正しくない」ということは「間違い」でも「誤ち」でもない。だからといって、字面以上の意味があるわけでもない救いのなさ

 

やたらとフジテレビで特集(という名の映画とはあまり関係のない企画)が組まれていたと思ったら資本入ってたんですね。まあ、こういうところで出資してくれるのはありがたいのでじゃんじゃん(金だけ出して口出しはしないで)やってほしいものですね。

 

そんなわけで「万引き家族」の先行ロードショーを観てきました。いや、観てきてしまいましたと書くべきか。「犬ヶ島」「ファントム・スレッド」を書くと意気込んでこの体たらくは本当に申し開きのしようがない。

 

是枝作品をよく知っている人であれば(自分はそんな知らないけど)、この「万引き家族」を観てまっさきに思い浮かべるのは「誰も知らない」だろう。それは表面的に「虐待を受けた子ども」というものが描かれているからというよりも、もっと抽象的な「見向きもされない人たち」を描いているからにほかならない。あるいは呉美保監督の「きみはいい子」「そこのみにて光輝く」とも共通している。ていうか、「万引き家族」はそれらを一度に混ぜ込んで落とし込んでいる。
是枝監督と呉美保監督はどっかで対談していた気もするし、気質として似たものがあるのでしょう。また、似た設定としては「ごっこ」もありましたね。虐待を受けている女の子をロリコンニートが救い出して死んだ父親の年金を不正受給して生活するという部分なんか、かなり設定として共通項があるし。もっとも、あの人の場合は基本的に恋愛の方に向かいがちなのでジャンルがそもそも違いますが。行き場のない子どもでいえば「バケモノの子」も近いかもですね。「誰も知らない」といえば、今作で脚光を浴びた子役の城桧吏の顔が当時の柳楽くんに似てるんですよね。造作というよりは雰囲気とか。多分メイクでちょっと肌を黒っぽく見せているのもあるのでしょうね。
ただ、一つ言えるのは「誰も知らない」から間違いなく進化(時代に適応しているという意味で)し、子どもに寄り添っていた視点から離れより問題を掘り下げたという意味において深化してもいます、この「万引き家族」は。

 

今回はBGMなどはかなり少なく抑えられているのですが、その分冒頭とクレジットで流れる音楽が際立っている。細野晴臣がかなりいい仕事をしています。この音楽というのがまさにこの作品の内包する危うさを端的に示していて、優しげな音の中に挟まれる不協和音が観客の不安を煽ってくるんです。
冒頭でいえば、「誰も彼らをみていない」という状況に怖気がした。映画が始まってすぐ、リリーフランキー演じる柴田治と城桧吏演じる柴田祥太が連携してスーパーで万引きをする場面から始まります。そして、遠目俯瞰気味でスーパーの店内を映し出しながらタイトルバックになるのですが、ここで誰ひとりとしてこの二人に気づかず、ただレジの音が鳴るという「無関心あるいは無知覚の音」とでも言うべき寒々しい場面に。

 

万引きをしたと思えば商店街の店でコロッケを普通に買う。そのコロッケを食べながら帰る途中でベランダに放り出された女の子(佐々木みゆ)を保護するんですが、隙間が少なく狭い形状をしている柵に囲まれているんですね。ここの撮り方がとても意味深で、小さな隙間から覗くようにしているんですよね。まるで、ぎゅっと目を凝らして見ないと見落としてしまうのだと暗に伝えたいかのように。そのわずかな隙間に、彼女のような少女がいるのだと。どうしてもそう受け取ってしまうのは、わたしの思いすごしだろうか。

 

じゅりを連れて治と祥太がボロ屋に戻るとそこには誰ひとりとして血の繋がりのない家族が待っている。血縁がないことは後々に判明することではあるのですが、なんとなく血縁らしさがないことはわかるんですね。だというのに、ここに限らずこの家族のかけあいがすごく自然で(セリフの最中に画面外からほかの柴田家の人物が喋っている演出も含め。ただ、そのせいでセリフがかぶって聞き取れない部分だったり、単にふごふご喋っている樹木希林のセリフが聞き取れなかったりする)本当の家族に見えてくる。

 

 当初は誘拐として騒がれることを恐れたり、おねしょするじゅりに苛々していたり、一度は親元に返そうと信代(安藤サクラ)と治でゆりが元いたマンションの前まで行くも、彼女の両親の口論を聞いて思いとどまるんですが、ここで信代がゆりを抱いたままその場でへたりこむんですよね、無言で。信代もそれを知っているのでしょう。

そうして柴田家に迎えられることになったじゅりは信代から「凛」と新たに名付けられるんですね。この映画における名前というのは、個々の人間の繋がりを示す重要なファクターであったりもしますよね。子どもを産めない信代から新しく「名前をつけられる」凛は言わずもがな、「父さん」と呼ばれたい治とか、血の繋がった妹の名前を勤め先のJK見学店で源氏名として使う亜紀(松岡茉優)とか、治に彼の実の名前をつけられた祥太とか・・・。

 

 それにしても、一見するとハートフル(自分はそう見えなかったけど)な装いの割に、この映画で提起した問題に対する明確な答えはないし(そもそも出せない)ほとんど救いらしい救いはない。救いに関しては最後のシーンの解釈によるけど、どうもノベライズ版を読めばはっきりしそうな感じもある。

家族の中心だった初枝(樹木希林)は死ぬし亜紀はいかがわしい店で働かなくてはならない(全年齢向け映画でここにそれなりの時間を割くあたり、やはり監督なりの正義感のようなものがあるようにおもえる。あと単純に松岡茉優が好きなんでしょう。いやらしい!)し足折ったのに労災は降りないし善意で子どもを匿ったら同僚に脅されて仕事辞めなければならないし勃起しはじめの年なのに学校に通えないし、それでも笑って暮らせてたのにそれすら社会の力に引き裂かれる始末。


特に子どもにも容赦がないと思ったのは、祥太と信代とのやり取りの中で祥太が万引きの是非を信代に問うシーン。ここで信代は子どもである祥太に対して現実と正しさの間で葛藤する中で「店が潰れなければいい」と、彼の中で芽生えつつある罪悪感を軽くしようとするのです。けれど、物語の後半で祥太が常習的に盗んでいた駄菓子屋が潰れてしまうのです。ここの駄菓子屋の店主を塚本明が演じていて、出番自体は少ないのですが祥太が万引きをしていることを知りつつそれを見逃し続けていて、ある日凛に万引きをさせたときに「妹にはさせちゃいけない」と諭されお菓子をただで渡されてしまう。
そんな店主の店が、自分の万引きという行為で潰れてしまったのだと、気づかされてしまう。もちろん、大局的に見れば祥太の万引き以上の問題があってそれらが集積した結果であるわけですが、それで彼の行為が許さるわけでもなければ一因でないとされるわけでもない。10歳かそこらの男の子にはあまりに酷だ。

 
くわえて初枝が死んだあとの描写の生々しさ。経済的な理由や正式な手続きを踏んでいない柴田一家にとって彼女が死んだことは隠匿しなければなりません。かといって夏場に死体をそのままにしていられるはずもなく、そうなるとどうするか。はい、そのとおり「冷たい熱帯魚」コースです。もちろん、直接描写されることはないのですが、一瞬だけ赤い色が飛び散った白いタンクトップを来た信代が映るんですよね。
ここまで描写しなければならないのだと監督が考えたのは、表現者としての責務のようなものがあったのだとしか考えられない。おためごかしや誤魔化しではなく、徹底的に「そうしなければならない人々」を描き出す。

やがて、直接的ではないものの彼女の死をきっかけに家族は瓦解していく。駄菓子屋のおじいさん(塚本明)に諭されたことで揺らぐ祥太の治に対する信頼。手際の悪い凛を庇って捕まりそうになって足を折ってしまう祥太。そんな彼を病院に残し夜逃げしようとしたところを見つかって柴田一家は御用になります。

 

そして歪な家族は離散し、信代と治の過去の前科が暴かれたり凛は結局血のつながった家族のところに返されたり(この辺のマスコミの描き方が、本当にこんな感じなのでしょうが無言の批判のようなものを読み取ってしまうのですね、わたしのような人間は)バラバラになってしまいます。
ここに至るまでにもこの一家はそれぞれに辛い目に合っている。安藤サクラと仲の良い同僚のどちらかを切らなければならないという選択を、まさにその二人にさせる無責任という残忍さ。あるいは、松岡茉優樹木希林が保護した理由が実は損得勘定に根付いているのではないかという揺さぶりをかけて答えを明示しないのとか。
ほかにも些細な演出ですが、ランドセルを背負って通り過ぎる小学生を見て「学校は家で勉強できないやつが行くところ」という強がり(強がりではなく本当にそう考えているとも取れるのですが)をつぶやく祥太とか。ここをあくまでバストとかではなくそっけなく、撮るのが上手いバランスだったりしますよね。ほかにも、信代と祥太が一緒に歩いているところで本当に背景としてすれ違っていく小学生の姿とか、さりげなくダメージを与えてくる。

まったく、世知辛い世の中である。

 

ここまで至るとほとんど終盤なのですが、ここから登場する社会正義側の人間に高良健吾池脇千鶴が登場してびっくり。その前にも、亜紀の客として「生きづらさ」を抱える池松壮亮が出ていたり、脇に至るまで演技派な俳優陣で固められているあたりにこの映画の隙のなさがうかがい知れる。

池脇・高良の二人が主張する社会通念上の正義と柴田一家のそれぞれの「そうすることでしか生きれない」生き方とのコンフリクトが生じるのですが、柴田一家に感情移入すればするほどに社会正義側に憤りを感じてしまうでしょう。

いやまあ、そうでなくとも池脇千鶴vs安藤サクラのシーンの池脇の追い込み方は明らかに悪意があるんですが、しかし言葉上は間違ったことは言っていない。言っていないがまた腹立たしかったりするのである。清く正しく生きることができない人間にとっては。

その点では、この映画は「フォックス・キャッチャー」で描いていることにも通じるかもしれません。

 

最後に祥太と治の交流が描かれるのですが、バスを追っかけるというのはちょーとクリシェすぎないかなーとは思います・・・クリシェと自然な発露の問題は考えが詰めきれていないので書きませんが。
そして、凛のラストカットでこの映画は幕を閉じるわけですが、 この映画はクレジットに至ってまでなお、観客に安心感を与えてくれない。徹底して映画というフィクションの映像を通して私たちを現実に縛り付けようとする。

徹底して現実を炙り出そうとする。
 

だから、この映画を観て涙を流しちゃいけない気がする。こんなものを見せられて絶望する人もいるだろう。なにせ、この映画には何一つ絶対的な正しさなんてものは出てこないのだから。塚本明にしたって、あれは確かにほかの人々が向けなかった「見て見ぬふり」という優しさではあったけれど、子どもであろうと盗んだことを咎めるのが「大人としての正しさ」ではあるわけで。それ以前に、冒頭のシーンで顕著なようにこの家族を視界にすらいれないのが世間の目なわけで、それに比べればはるかに有情ではあるかもしれない。けれど、そこで立ち止まってはいけない。考え続けなければならない。「デトロイト」がそうであったように。


話もさることながらキャストが揃いも揃って素晴らしい。おそらく是枝監督が最も愛情を注いでいるであろう松岡茉優、と樹木希林

松岡茉優の肉体をあそこまで生々しく描く必要あったのか、と思う。膝枕のあともしつこく太もも撮ってるし、少年の性の芽生えを描くとはいえあんなドアップで胸を撮るとか、ちょっと私情入ってませんか、監督?

樹木希林のあの実在感はなんでしょう。死ぬ直前の老いた(入れ歯を抜いているような口)表情と前半の顔の違いなど、なんかもうやばいです。

リリーフランキーは正直言っていつもリリーフランキーにしか見えないんですけど、今回もリリーフランキーでした。いや、キムタクみたいにキムタクしか演じられないのではなくリリーフランキーリリーフランキーのまま色々な役を演じているんですけど。

子役も良かったですよ、自然で。既述のとおり脇役も素晴らしい。

しかぁし、わたし個人はこの二人以上に、安藤サクラが素晴らしいと思いましたです。

同僚に向かって「もしバラしたら、殺すよ」と脅す(正確には脅されているので脅し返しているのですが)カットの痺れるほどのかっこよさ。ここで「マジで殺るな、この女」と思わせるくらい素っ気なくも迫力ある声と表情だったのですが、後に本当に人を殺していることが判明するあたりなど、安藤サクラは最高です。最高すぎます。あと生々しいフランキーとのベッドシーン。からの子どもが帰宅して大慌てて服を着るあたりのギャグ感とかも含めて安藤サクラのシーンは全部よろしい。
汚い風呂で凛と傷の見せ合いっこするあたりや、地に足付いた生々しさがともかく安藤サクラの真骨頂だと思うのですが、今回はそれが遺憾無く発揮されていました。

 
いい映画だったけれど、でもこれ、日本に存在する問題ではあると思うと、やっぱり気が滅入る。

それにしても、最近の映画を見ていると本当に「善と悪」が概念でしかないのだなぁとしみじみ思う。 

 

 

怒りの余談

何でもかんでも人を神格化するのは気持ちが悪い。と、この映画のある人の考察を目にして思った。まして、この映画が回答だなんて思考停止もいいところでしょ。

どこかの誰かが言った、宗教は思考を奪うというのはこういう部分で意外とありがちなのかもしれない。それは信者だからということではなく。「それを知っている」という衒学的自己解答ありきで考察するのって、それこじつけじゃんすか。

いや、わたしも身に覚えはありますので声高には批判できないんですが、少なくともそうならないように気をつけてはいるつもりですしお寿司。

まあ、もし本当にこの映画がそういう構造を含んでいるのだとしたら、評価は変わらないまでも嫌いになるかもしれないなぁ。