dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

10月の

2本しか見てないのでまとめもくそもないんですが・・・一応。

 

 

アメリカの友人」

 そういえば初ヴィム・ヴェンダース。講義でちょこっと「ベルリン・天使の詩」は観たことありますけれど。

 なんだか不思議な空気の漂う映画でしたね。ともすればガイリッチー方面のアクション系に行きがちなこの設定でありながら、スタイリッシュとはかけ離れたダサすぎる男ふたりの犯罪。ともすれば陰気なバーホーベンというか、卑しい人間をそのまま描いたらこうなったという感じで。これ、編集次第で全然コメディにもできるような気もするんですけれど、冒頭から不穏なBGMを流していたりするのを考えるとノワール寄りではあるのでしょうか。

 あとは「早春 DEEP END」を思い出しました。なぜかはわからんのですが、なんとなく色の混じりけ具合が。

 

「逃亡者」

MGS3のあのシーンの元ネタのシーンだったはず・・・がある映画。

ハリソン・フォードとトミーリージョーンズが出ているというおっさん好きには堪らない映画。

oz三連

この間、BSプレミアム小津安二郎のデジタルリマスターが3日連続でやっていて、どれもまともに観たことがなかったので録画して見てて思ったのは、エロいんですよね。

以前、「秋刀魚の味」についてはちょろっと書いたのですが↓

三連単:二発目 - dadalizerの映画雑文

基本的にはどの作品でもそんな感じがする。

「早春」ではすごく表現主義的というか露骨にライティングなんかで寂寥感みたいなものを表現しているシーンがあって、むしろそういうことをするんだなぁ、という印象を受けたり。ちなみに杉山くんの転勤が決まって一人で酒を飲んでるシーンだったかと思います。やっぱり白黒だと影がすごく強く見えるので、背後の壁に掛かっている絵だったかなんかだったかの影がすごく侘しいんですよね。

あと、以前は画面の奥行きについて書いたんですが、これって要するに視覚的なレイヤーが存在しているってことなんですよね。

あと岸恵子がキュート。あの八重歯とか、ワンナイトスタンドでスキスキオーラぶちかましてくるウザさとかね。

 

実はまだ3本のうち2本しか見てないのでまた追記するかもですが、このともすれば退屈にも受け取れそうな日常風景が、しかしどうしてここまで引き付けるのかと考えると、そこには関係性のエロスがあるのではないかと思うのです。結局、岸恵子津島恵子が本人のポテンシャル以上に可愛くキュートに見える(そしてその女優たちと対置させられる男優たちが滑稽で愛おしく見えるのも)関係性が醸成するエロスなのだ。

「早春」において、岸恵子池部良は、不倫と言ってもそこには淡島千景を巻き込んだ昼ドラ的なドロドロ愛憎というものはなく、危うい橋を渡るようなフックはない。つまり、関係性によって規定されうるロールモデル(ステレオタイプと言ってもいいかも)・役割期待を絶妙に外してくるところに関係性萌えのエロスがあるのではないか。

「お茶漬けの味」にしても、佐分利信津島恵子の叔父と姪という関係性からあわや逸脱してしまうのではないかと思わせるシーンがある。もちろん、表面的にはいたって清潔な関係性ではあるのですが、やりとりの妙だったり、という部分からどうにもそう見えてしまうのですな。

秋刀魚の味」でも思ったのだけれど、岩下志麻笠智衆という実の親子という関係をまっとうしつつも、そこはかとない男女の関係を予感させる。

そのくせ話のオチはかなり予定調和的というか、家族の再興に帰着するあたり、かなり妙な作りになっているのではないかと思うのです。

で、書いていて思ったのだけれど、この点においてわたしは小路啓之との共通性を見出してしまっていたりする。まあ自分でもどうかと思うのですが、小路啓之の作品はどれも「愛」や「関係性」についてめちゃくちゃ遠回りにぐねぐねこねくり回したあげくに至極まっとうなところに行き着く漫画であると思っていて、そこが自分が小津を楽しめるところなのかな、と思ったりする。まあ、小路啓之の場合は表現メディアが漫画であるという部分でかなりカリカチュアされていたりするんですが。イハーブなんか、実の父親を男として見ている娘が出てきたりしますし。ただ、小津の場合はそこまで禁忌的に描くことはしないので、その端正さ・上品さはむしろ対極にあると思うんですけれどね。

 

やっぱり思ったのは小津って日常系の鬼なのではないか、ということですよね。どれもこれも話が驚く程に卑近なのですな。もっとも、当時の、ということではあるので社会の構造が変化した今見て全面的に同意できるかどうかは定かではありますんが。

 

追記

「東京暮色」観ました。

前2つと違って、こちらはあまり関係性エロスは感じなかったかしら。エロスの代わりに、切なさのようなものがががが。

とりあえず小津作品で共通していることとしては独特な音楽使いというのはあると思う。すごい感覚的な部分なんですけど、なんというか音楽と画面の位相のズレ、みたいなものを感じるんですよね。劇中で流れている音ともBGMとも思えるような。

なんてことを考えているうちに、半年前に学習院大学の研究発表会で博士課程の学生が映画音楽研究で小津の劇伴について発表していたのを思い出したんですな。

ciniiとかにはなかったんですが、A3変面印刷の資料2枚が手元にあって、その資料には「小津調を特色づけている楽曲的要素としては、(中略)一定不変の軽快なリズムとテンポ、旋律の単純な繰り返し、明るい長調で書かれていながら一抹のペーソスが含まれていること(を挙げることができる)」という前川道博の「古きものの美しい復権・小津二郎を読む」からの引用があったり、「(サイレント映の音楽のように)シーンの持続時間を埋める為にひたすら反復しているように感じられる」(正清)とか「このような音楽は結局、無声映画の伴奏音楽であり(中略)、心のこもっていない甘ったるい音楽の膜がゆるやかに場面を覆っていくという皮肉さは異化効果だと言うこともできるだろう」(リチー)だったりと、まあそのネームバリューからうかがい知れるように小津の音楽については研究されているっぽい。

 

個人的にはこの資料の中で引用されている吉田喜重の「似たような映像が「反復」しながら少しずつ「ずれ」ていく(映画である)」という記述と長谷正人の「観客は同じようなショットの「反復とずれ」によって、ある「時間」が経過している間に(中略)とりかえしのつかない出来事が起きてしまったことを強く感じるのである」という記述がまさに自分の思っていることを見事に言語化してくれている気がする。

しかしこれまで観てきた小津映画で直接的な結果をここまで劇中で描くことはなかったのでちょっと驚いた。ていうか有馬稲子可愛すぎ。ウィッキーさんによると元々は岸恵子がやるつもりだったらしいけど、有馬さんまかなりいいと思う。本作の劇中では笑うってことがなかったので、有馬さんのほかの演技を見てみたくなったでござんす。

 

 

 

ボヘみ

クイーンは世代からやや離れているのですが、曲はまああらゆるメディアを完全に絶っているとかでなければ誰もが知っているわけで。

フレディに関してはおそらく、巷の人たちの理解とわたしの理解はほとんど相違ないと思います。つまり、そこまで熱狂的に支持しているわけではないが歌は知っているしそこそこ好き、という。

そんなわたしでも大変楽しめました。どこまでが本当の話なのかとかは置いといて、こういうバンドものに限らずチームものだと軋轢が生じて一度挫折してからの復活という様式美がありますが、それを見事に踏襲しているので普通にアガれます。

サウスパークでカイルとスタンが(ゲームの)バンドを組んで新メンバーと交代して、という似た話と基本プロットは同じ。

また、挫折というかメンバーとの軋轢もフレディのセクシャリティと社会の理解との隔絶によるものだったりとか色々あるわけで。

音楽を作っていくそのプロセスが劇中でいくつか描かれるのですが、そのどれもが楽しい。

なんかあまり言葉にするようなタイプの映画ではないような気もするんですよね。

フレディ・マーキュリーという人物、クイーンというバンドを認識している程度の人でも、認識すらしてない人でも楽しめる映画だと思いますよ。

 

山猫は死なず、ただ立ち去るのみ

 本当は11月のまとめにぶちこもうと思ったのですが、ちょっと個別にエントリーしたくなったので。

「山猫」

栄枯盛衰。その枯れ始め衰え、老いていくところから始まる映画。

すごく侘しくてやるせない。

バートランカスター演じるファブリツィオはの佇まいはほんの少し、北野武映画におけるたけしとかぶる。けれど、決定的に違う。武映画は画面全体から乾いているのに対して、こちらはむしろ豪奢で瀟洒な城内で世界を構築することで、より一層ファブリツィオの情感を強調しようとしているように見える。どちらも諦観のようなものを抱いているのは確かなのだけれど、おそらくは立場や環境の違いから生じる差異によって決定的な違い(断絶と言ってもいいかもしれない)が現れている。それこそ、たけしに比べればファブリツィオの抱いている諦念などはいい気なもんだと一笑に付すこともできてしまいかねない。

それでも、ファブリツィオがとても物悲しく見えるのは、彼自身はすでに足掻くことを放棄しているようにも見えるのに、なまじ彼が貴族としての振る舞い礼儀作法をマスターしてしまっているがために適応できてしまうところだろう。そして、その振る舞いが人を呼び寄せてしまう。本人の望まぬ才覚によって本人の望まぬ好機を引き寄せてしまう。本人は、むしろ貴族という重責を苦にしている節すらあるというのに。少なくとも今の彼は。

そしてまた、彼をそうさせている一つの要素としての老い(=衰え)も明確に描かれる。彼自身が「娘が恋をする年になって、老いを自覚する」というようなことを発言していることからもそれは明らかだ。

 何が言いたいかというと、自分の人生の中心から自分が排他されていく感覚、というと強すぎるきらいもあるのですが、主体性というか主役性の希薄化みたいなものが描かれているのではないか、ということ。

画面のレイアウトからも、そのような印象を受けるんですよね。特に後半の舞踏会場面。ファブリツィオの顔のアップやバストサイズの画面では、画面の中央に据えることなく絶妙に中心から逸らし空間的余剰を与えそこに背景としての人の往来や豪華な城内を映し出している。

そして、それが極に達するのが最後の2カット。アンジェリカたちを乗せた馬車が画面中央のトンネル(?)に吸い込まれていくのに対し、ファブリツィオはウェヌスへ祈ったあとに画面中央からややそれた薄暗い路地へとやや遠目のショットで消えていく。

もはや、彼の人生・彼の時代において中心は彼になくなってしまったのだろう。でも、彼にしてみればそれは何も不幸なことではないのかもしれない。その先には、ウェヌスとの永遠があるのだから。

それよりも、この世界で描かれるファブリツィオの栄枯盛衰は、彼にだけ言えることなのかという疑惑がある。実のところ、彼と同じ道をタンクレーディがたどるのではないかと暗示するように、やはり彼のバストサイズのショットのときに彼を中央に据えていなかったり、あるいはもっと彼の気質的なところで嫉妬深いといったところから、衰えを予感させる。美貌の妻アンジェリカを嫁にし、うまく立ち回り立身出世をし栄える盛るタンクレーディの姿は、若きファブリツィオの姿なのではないか? 逆説的にいえば、妻に対してああ言っていたファブリツィオが7人の子どもを成したのも、タンクレーディとアンジェリカのように燃えていたからではないか?

だとすると、山猫がそうだったように、ジャッカルや羊がいずれそうなるのかもしれないように、タンクレーディもいつかは告解を神父から求められる立場になるのかもしれない。

そうやってこの映画を見ると、メビウスの輪のように円環をなしているようにも見えてしまう。いや、円環というよりは無限の連続性といった方がニュアンスは近いかもしれない。

決して荒事があるわけでもないのに、すごく心を波立てられる傑作でした。

 

 

ニコラス・ケイジvsジーザスフリークスの試写会行ってきた

というわけで「マンディ 地獄のロード・ウォリアー」の試写会行ってきました。

上映後のトークも結構面白かったです。

カルト団体(というか集団)のボスを演じるライナス・ローチの父親がガチのカルト団体のボスだったり、劇中で用いられる曲がライナス自身が手がけてカップリング曲が16分あってその台本をやはりライナスが書いていたりとか、冒頭のポエムは実は大それた殺人鬼とかのではなくちょっとした殺人犯のものであったりとか、この映画のインスピレーションのもととなった映画が「マジック・クエスト 魔界の剣」と「SFコンクエスト/魔界の制圧」だったり、劇中の年代設定である83年は監督のパノス・コストマスが一番カルチャーの影響を受けた年であるとか、劇中で登場する斧のデザイン元がなんとかっていうバンドのロゴをもとにしているとかなんとか。

それにしても思ったより変なバランスの映画でビックリしました。

ニコラス・ケイジというとスーパーマン狂いで最近落ち目、というような印象を抱く方もおわすことでしょう。というか、私もそんな感じ。だからというわけではないのですが、今回も色物映画なのかしらと思っていたのですが、色物は色物ではあるんですがちょっと見たことないバランスの映画でしたよ。

はっきり言って、話自体はそれこそ午後ローにありがちというか復讐物なんです。ではなぜ、90分で済むようなそんな深みもクソもない話に120分もかかるのか。それはもうひとえに編集によるものが大きい。B級娯楽映画のプロットにアート表現をぶち込んだ結果、こんなおかしなものが出来上がったという。

音楽の使い方もほとんどBGM垂れ流しだったり、極端な原色の使い方とか。あれ、地味にセットとか照明とか小道具とか、かなりお金かかってそうな気がするんですけど。

正直、ストーリーの貧弱さに比べて演出が特殊すぎて脚本とかもはやどうでもいいレベルです。だから、あのトレーラーハウスに住んでた黒人のおっさんは何なんだよとか、どうして唐突に銀の斧を鋳造し始めたり、あのライダー三人は結局人間(ラリった)なのか魔物的なアレなのかとか、まあそもそも説明の必要はない部分とかもあるんですが、ともかく異質ではある。どことなくヘルレイザーぽい気もするんですよね、あの三人組。

そう。この映画は演出がかなり異質。ていうか変。言葉にしてしまえば「(いつものように)森を歩いていたマンディを目撃したカルトのボス・ジェレマイアが手下とかドラッグとかを使って篭絡しようとするも自作の音楽を聴かせながらフリチンで迫ったらマンディに爆笑されてプッツンして焼き殺し、それを目の前で見ていたレッドがリベンジ開始」という至極単純で、それこそ笑いすらある。

が、リベンジが始まるまでの演出はもう本当に異質でしかもくどい。長回しも多いし、めっちゃゆっくりズームアップしていくカットがあったり、幻惑的な表現が過剰で誇大にすることで、本当にジーザスフリークスたちが魔力じみたものを有しているように見えてしまう。いや、最後のあれを見るにあえてどっちかわかりづらくしているのかもしれないんですが。

個人的に、めちゃくちゃ編集凝っているなーと思ったのはジェレマイアがマンディをかどわかそうとするシーンでふたりの顔面ドアップがワンカットでシームレスに繋がり、両者の境界が曖昧になっていくところ。あそこは素直にすごいと思いました。多分、絶妙に動きを残しているからギリギリ気づけるようになっているようですが、あれは本当にハッとさせられましたね。

しかしアンドレア・ライズブローの妖艶さは凄まじい。ストレートに美しいというタイプではなく、「地獄愛」のロラ・ドゥエニャス的な魔女っ子的魅力なんですよね。

それにしても公式サイトのアンドレアさんの顔怖すぎ。

で、これはほとんどアート映画に近いんですけど、所々で笑わせようとしてきている気もするんですよね。マンディが殺された直後にバスルームでワンカットで酒を飲みながら絶叫するシーンのカメラワークとかね。実際、あそこで試写会の会場は笑いに包まれてましたよ。いや、本当はあそこ悲しいシーンでもあるんですが。ほかにもブラックライダーの一人を倒す時のカンフー的な止めでカメラ目線だったり、ドラッグ決めてハイになるケイジとか。あと大阪のオバチャンが来てそうなトラのシャツとか。クソダサいのに妙に欲しくなるのはなぜなのか。

最後の車のシーンで変顔見せてくるのとか。わたしは地味に客へのサービスも意識しているように思えました。しょーもないグロとか、チェンソーバトルとか日本家屋っぽい場所で日本っぽいAV垂れ流される背景で繰り広げられるバトルとか。

バカバカしいところも愛嬌あっていいと思いますよ、ええ。

 

しかしヨハン・ヨハンソンの最後の仕事がこれというのもなかなか面白いというかなんというか。あとこれがトマトで98パーセントというのも笑える。

 

まあ、これはさすがに万人向けではないのですめちゃくちゃオススメするということはないですが、個人的には結構好きかもです。

 

トム・ハーディのアイドル映画:監督・脚本マイケル・ベイ

いや本当に、展開の雑さとか爆発とかスローとか何やってるのかわかりづらい戦闘シーンとか。どこのトランスフォーマーですか、というところ。

いきなり余談なんですが、トラヴィス・ナイトの「バンブルビー」の予告編で一作目「トランスフォーマー」のバリケードvsバンブルビー発電所バトルのオマージュと思われるシーンがあったのですが、ここまで差がはっきりでると当て付けとも思えてくるほどでした。

 

で、「ヴェノム」について。

いやもうエントリータイトルで全て完結しています。

原作ファンじゃなくても物足りなさを感じる人は一定数いると思われる出来栄えでございましょうが、むしろMCUではここまで一点突破型の映画はできないでしょうから、そういう意味ではまた異なった魅力があって面白いと思います。少なくともトム・ハーディが好きな人は絶対に観るべき。

演技力は評価されつつも↓こんな感じでご尊顔が覆われていることをいつもネタにされており、この記事においては「ヴェノム」でも同じ感じに扱われているように思いがちですが、むしろ本編は顔出ずっぱりです。やったねトムちゃん!

www.scoopwhoop.com

 

個人的にはむしろヴェノムに完全変身せず部分変化させつつトムハの顔を露出させ続けてくれたらな、と。

監督も「ゾンビランド」のルーベン・フライシャーですから、バイクチェイス前後のトムハの変顔・奇行はやはり面白いですしね。基本的にヴェノムシンビオート周りは犬のくだりも含めて笑えるので、コメディとして観つつトムハに萌えつつヴェノ×エディに惑溺するのが一番正しい姿勢です。肝心のヴェノ×エディの関係性構築の描き込みが浅かったりヴェノムがいきなり良い奴っぽくなっているのが謎だったりするのですが、そこはまあ宿主のエディの正義に寄生した側のヴェノムが影響されてしまったとかで(だとしてもトムハは正義に燃える男っていう感じしませんでしたが)おもねることにすれば万事解決です。

だからアクションを期待して行くとがっかりしますよ。ヴェノムフルアーマー状態のときとか割と本当に何やってるかわからない部分ありますし、特にライオットとの戦闘は流体的なシンビオートの特性も相まって本当にわからんです。上で出したようにバリケードvsバンブルビー並み。

ドローン爆撃のバカっぽさとかもすごいベイイズムを感じるんですが、どことなくあのバイクと爆発の手触りがすごく日本特撮ぽくあって結構好きだったり。

 

スーパーマンネタぶっこんだり、edのロールシャッハ模様とかすごいDCへの言及があるのがくすっときたり(ロールシャッハは100割私のこじつけですが)

 

クレジットの後にカーネイジへの布石を置いたり、「スパイダーバース」の本編映像っぽいのを流したり、映画本編意外での情報量が多かったりもしますが、まあ普通にそれなりに面白かったです。

hafuボイルド

実習終わりにイベントに出てきた。

「HAFU」っていうドキュメンタリーの後に矢野デイビッド氏の講演があったんですが、ぶっちゃけ映画より講演の方が面白かった。

というか、この「HAFU」という映画自体はまあアレなので。本当にテレビでやっているようなドキュメンタリーではあるので。

までも、ミックスかハーフかとか、その辺の呼称の問題も当事者の個人によって異なってくるというのはやっぱりそうみたいで、劇中に登場するベネズエラとの「ハーフ」のエドさんは日本語の「ハーフ」はやっぱり「half」とは違っているからいいんじゃないかと言っていたりしてたし。

あとはインタナショナルスクールに関しても大井一家のアレックスくんは通うことになって割と上手くいってそうだったんだけど、通う前に同じハーフの知人の娘はなんか反応的にイマイチっぽかったり、この辺もやっぱり個人差があるみたいで。まあハーフの一枚岩ではないからな。ただこの大井一家に関してはメキシコから帰ってきたアレックスがスペイン語で母親と会話しているときの、サラのなんとも言えない表情が気になった。彼女はどう考えてるんだろう、と。

アレックスに関してはどもりが出てしまうほどにはやっぱり一般の小学校は合わなかったから、仕方ない(というよりはもうちょっと前向きなニュアンスだけんど)し。

ソフィアに関しては、まあそうだよね、という気持ち。しかしほいほい恋人作ってるあたりやはり自分のルーツを探りに海外に来るような人は積極性が違うな、と。

ちなみに映画に関しての情報はこちらに詳細が

映画について | Hafu

 

ていうか矢野さんの人生が壮絶すぎてね。児童養護施設での子ども同士の足炎上事件(これが話せるレベルの話というのがまた闇が深い)とか。

弟の名前の由来とかも面白かった。英名・英名ときて三男に和名というところに序破急的なオチを感じる。

あとガーナの子どもたちが3.11のときに見せてくれた涙とか。ただ、どうしても擦れた自分にはカメラに写ってしまっている時点で演技性が否応なく入ってきてしまっているような気がしてね。めっちゃアップで一人一人に寄っていくし。

いや、彼女彼らの流した涙は確かなのだと思いますが。それをああやって映像として見せられることの、なんというか歪みががが。