dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

アメリカ=クリーという図式

IMAX3Dで観るとブリー・ラーソンの顔面ドアップが色々な意味で迫力があって「俳優業の人も大変だなぁ」とどうでもいいことを思ったり。4Kって本当にタレント(この呼び方嫌いなんですが)殺しな気が。

開幕10割、とは言いませぬが冒頭でピークを持ってこられた。
今回の「キャプテン・マーベル」ですが、おなじみのマーベルスタジオのロゴがキャラクターではなくスタン・リーになっていて、直後の「THANK YOU STAN」でもう涙腺が危うかった。
 

なんというか、今回の「キャプテン・マーベル」を観て思ったのですが、なんだかんだでやっぱりMCUはすごいのだなぁ。

何がすごいって、MCUそのユニバースそれ自体が多様性に富んでいるところでせう。
実写化として陳腐にならないようなリファイン、それに耐えうるポテンシャルを秘めた豊富なキャラクターを前提に時代に合わせたリフォーマットを行い、様々な物語を魅せてくれる。

さらにはそれらのキャラクターたちを同一の世界観の中に収めてしまっているのだから、ヒーロー映画のバブルが云々というスピルバーグの言説や映画単一作品としての完成度云々という議論はともかくとしてやはり10年かけて積み上げてきたものは強いと思う。コンテンツとして。


キャプテン・マーベル」では作品の設定として時代が95年ということなんですが、舞台もさることながら作品の雰囲気も全体的に80年代後期~90年代中盤の洋画臭がします。いや、悪い意味ではなく。

戦闘機のパイロット二人がイチャイチャ(曲解)する様は「トップガン」(あんなにホモ・セクシャル一歩手前なソーシャルではありませんが)のウーマンス版とも言えるし、宇宙船のドッグファイトは「インデペンデンス・デイ」だし、サミュエルの演技もこれまでのMCUみたいにシリアスなものではなくて、それこそ90年代80年代のサミュエルっぽい砕けた演技ですし。あるいは地球に侵入してきた宇宙人をコンビで対処する雛形の「メン・イン・ブラック」なんかも挙げられるでしょう。
実際、ファイギは「本作は『ターミネーター2』やストリートでの戦闘やカーチェイスなどといった90年代のアクション映画のオマージュを含んでいる。1990年代のアクションのジャンルはまだマーベル・スタジオが探求してこなかった分野だ」と述べ、また本作の大部分が宇宙空間で展開されることも明かした」と言っているし、猫のグースは「トップガン」からの引用らしいですし。

前「時代」そのものを取り入れらという意味では、80年代をフィーチャーしつつリファインした「ガーディアンズ~」っぽくもある(脚本にGOTGの共同脚本であるパールマンもいるし)んですが、しかし「ガーディアンズ~」がアイキャンディの楽しさを詰め込んだ純化された作品であったのに対し、「キャプテン・マーベル」はもっとイデオロギーや政治的な側面に言及し、その時代が帯びていた無邪気さを顧みている。

そう、80年代~90年代アメリカの「ブロックバスター」ムービーは無邪気だった。上記に上げたような日本でも知られる代表的な大作たちは(出来の良し悪しはともかく)単純な二元論的図式の下、アメリカの持つ力がエイリアン(宇宙人的な意味でも異邦人的な意味でも)を打ち負かすものだったし、それが受けていた。

しかし「キャプテン・マーベル」はその図式には陥らない。むしろ、その90年代性を使いつつ「世界はそんなに単純ではなかったし、今も単純ではない」と自己言及的に描いている。(そう考えると、「ブロックバスター」というレンタルビデオショップにヴァースが穴を開けるというのは意味深である)

すでに多くの方が指摘しているだろうけれど、前半までヴァースの敵として描かれるスクラル人が実は安住の地を求めていただけの避難民であり、クリー人による支配から脱しようとしていただけだったことが明かされることが指し示すのは、現代の難民の問題でしょうし過去(そして現在の)のアメリカの行いを自省しているかのようである。

クリー人はほとんどアメリカそのものとして描かれている。だからロナンの爆撃が湾岸戦争のソレとダブる人だっているのも当然でせう。

この映画がトマトあたりで荒らしにあっているのは、フェミニズムを称揚しているからだけでなくそういうアメリカンな単純なまちづもを否定する形になっているからオルタナ右翼の地雷を踏んでしまったのでは。

しかし「FはファミリーのF」が前時代的な家族関係を描くだけでそれが滑稽なギャグになってしまうように、そういった価値観はもう笑いながら後ろ指をさすくらいじゃなきゃいけないんでしょう。

 

何気にMCU作品でも上位に食い込むくらいの出来栄えだと思います、これ。
まあ、元から空軍パイロットになれる才能の持ち主が「有能・無能」を論じるっていうのはいささかアレな気もしますが、それでも何度も立ち上がってきた彼女の姿が被せられて覚醒するシーンのカタルシスは鳥肌もの。

クリー人の遺体の局部を確認するシーンだとかグース周りのシーンは笑えますし、ユーモアもアクションも詰まっているし、90年代洋画の洗礼を受けてきた人もそうでない人も楽しめるかと。

君が成れる!君がヒーロー!

スタン・リーだけじゃなくてディッコにも向けているのがなんか嬉しかった。

 

近所の映画館ではIMAX3Dと4DXしかやってなかったのでIMXAで観たんですけど、やっぱり全然違いますわ。見慣れたはずの「バンブルビー」の予告編でめちゃくちゃ興奮しましたもの。

 

で、本編についてですが、

やはりアニメーション映画であるのですからアニメーションについて書かねばなりませぬでしょう。とりわけ、ここまで革新的なことをしているアニメーションであればなおのこと。
これはほとんどアニメにおける「マトリックス」と言っても過言ではないのでは、と個人的には思う。つまり、映像表現における革新。
 
映像表現としてかなりハイレベルなことをやっているのですが、しかしそのキッチュでダイナミックな(ドラッギーですらある)手法におんぶにだっこになるのではなく、一つ一つのアニメーションが綿密に描かれている。マイルズが父親のパトカーから降りるときの車体の軋み具合の些細な部分から派手な戦闘シーンに至るまで。
ぐいんぐいん動くカメラワークは、しかしマイケル・ベイのように(なんか毎回悪例としてこの人を挙げてる気が)わけがわからなくなるようなことはなく、計算された人物配置によって観客の混乱を招くようなことにはならない。

ただ、映像のキレがスピーディで編集による情報量も多い(それこそ、言語による情報量で圧倒し、それ自体を無化するシン・ゴジラに迫る)だけでなく、それに合わせてキャラクターの動きも(緩急がしかりついているとはいえ)比例していくため、画面内の情報量がすさまじく「なんだかすごい映画を観たな」という漠然とした感想にしか出てこないくらいでした。

実際、作品に参加した若杉さんは「作っている最中は、「この映像だと、90分間お客さんが観た時に疲れないかな?」と不安だったんです(笑)。でも完成した作品を観たら、そんな不安は吹き飛んでいました。ジェットコースターに乗ったみたいに、気付いたら90分経っていましたね。「あれ、もう終わり?」みたいな感じでした。テンポもすごく早くて個人的にも好みの映画でした。」
とおっしゃっていますので。私的には、もちろん楽しかったんですが疲れもしましたし。
そういう意味では、吹き替えで観るのがいいかもしれません(吹き替えまだ観てませんが)。良くも悪くもBWで目立ってしまっていますが、アニメのX-menを筆頭にアメリカのアニメのローカライズ演出を多く手掛けている岩浪さんですから、その辺は上手い具合に調整してくれているでしょうし。いや、観てないので憶測ですが。


しかしまあ、クレジットの長さとは≒で資本力の違いなわけで、毎度のことながらアメリカ製アニメのエンドロールの長さには驚かされます。そしてその圧倒的な資本力によってのみ実現可能なアニメーションであるということを嫌でも思い知らされる。

日本のアニメーションではデジタル作画とはいえ手書きによるものをメインに補助的にCGを使うことが多いですが、本作はその逆として補助的に2Dの手書きを使っている。それは、文字だけではただの反転のように思えますが、それが莫大な資金と才能の人海戦術によって全力で実行されるとき、それは新たなアニメーションの地平を見せてくれる。

たとえば2Dアニメで、走っている時に足が何本も見えたりパンチのスピードが速すぎて腕が2本に見えるような表現も、今回のような3DCG作品で表現するために2Dっぽさを出すために実際に腕を2本入れたり、モーションブラーの残像線を手書きで入れたりと、コミックの手法でありCGのように完全に統御されたものではないムラやゆがみを表現するためにあえて手間をかけたりと。しかもそれをすべてのフレームにおいて導入しているという。

もちろん、全体の統制の下には細かい部分での調整の支えがある。
たとえば、日本のアニメスタイルのルックであるペニー・パーカーの造形に関してのアニメーションにおいて、CGアニメーターが動きを作り、それを平面的にして、さらに手描きを加えて日本のアニメ的な動きを作り、その段階から意図的にリミテッド・アニメーションの手法を取り入れるなど過去の技術を現代にコーディネートし(スパイダーマンノワールが現代=マイルズの世界に現出しように)、新たな表現のために新たなテクノロジーを一から作る(ペニー・パーカーがそのテクノロジーでもってグーバーを作り出したように)。しかもペニーに関してはほとんど手書きによる作業ですらあります。ほかにも被写体のブレをすべて手書きでやっていたりと、徹底して表現へのこだわりを見せている。

そのような工程をスパイダーマンノワール、スパイダー・ハムなどそれぞれのオリジナリティをきちんと再現したうえで、リアリティをもって同時にスクリーンに存在させなければならないのですから、フィルたちが通常の作品の4,5倍の労力をかけたというのも誇張ではないでしょう。

犬カレーのように、その位相の違いを意図的に際立たせることによるキッチュさとは真逆であり、ある意味で真っ当な表現をしようとしているのがなんとも面白い。

従来のCGアニメでは実写と同じで1秒24フレームであるところを、あえてその半分を基調とし、よりアニメ的な動きを再現しつつもキャラクター単位や場面単位ではフレームを調整してもいるため、それによって動きとしてのメリハリが強調されています。それこそ、マイルズがピーター・パーカーの戦いに巻き込まれるシーンの動きの妙はクレイアニメを観ているようですらあり、場面ごとに異なるモーションをしているのに、それが世界観を壊していないという奇跡的なバランス。
細かいことはわかりませんが、別々のキャラクターデザインのキャラを同居させるために、それぞれのライティングの調整もかなり細かくされていることでしょう。

 だから、場面場面を一つ一つ切り取ってここがいい、というのが難しくもあります。それでも、ライミ版スパイダーマン2のあの有名シーンがリスペクトされていたり、マイルズがスパイダーマンとしてニューヨークの街に飛び落ちていくシーンの美しさなど突出した決めのシーンがあったりするのですが。

 

もちろん、物語としてもこの映画は実に誠実です。

アニメという、それもコミック的な演出という抽象度の高い表現技法において描かれるのは徹底した理想と願望。ある意味で、というか真っ当に「岬の兄妹」のような冷酷な現実の描出の対局にあるといっていいでしょう。

アメリカが直面する(そして我が国も)多様性について、表現そのものから肯定する。異なる世界から異なるスパイダーたちが単一の世界に集う。これが我々が生きる今ここの世界の鏡像でなくなんなのでしょうか。

それぞれにデザインの異なったキャラクターたちが、しかし違和感なく画面に同居していることは逆説的に我々が逃れがたく異なる世界(=文化と置き換えるのも容易でしょう)の他者と共存している・しなければならないことの暗黙の了解でもある。

だからこそ「スパイダーバース」は理想を、それこそバカバカしいと一笑に付されるような理想を、声高に語るのです。この世界のだれもがスパイダーマンなのだと。

エンドクレジット(ここの異様な作りこみも観ていて楽しい)に無数のスパイダーが登場するように、スパイダーバースにおけるスパイダーは我々一人一人そのものにほかならない。
なぜスパイダーマンなのか。これがアイアンマンやバットマン(そもそもバットマンは会社が違うだろ!とかそういうことではなく)やほかのヒーローでは成立しえないのは、それはスパイダーマンが親愛なる隣人だからだ。


スパイダーマンは誰も殺さない。いや、彼ほどの歴史を持つキャラクターではありますし、中にはそういうスパイダーマンもいるんでしょうけど、しかしそのオリジンは等身大の青年であることにある。だからこそ、その等身大の先にある可能性の一つとしてピーター・B・パーカーが登場する。

叔父が死んでも先達たるピーターが殺されても、しかしスパイダーマンというアイコンは決してヴィランを殺したりはしない。なぜならスパイダーマンは私やあなたと同じような隣人であり続けるからだ。黒澤清の「クリーピー」とか、ああいうのはとりあえず脇に置いておいて。

重要なのは超能力ではなく、それとどう向き合うかということだ。
だからスタン・リーは超能力の有無だとかそういう表面的なことではなく本質的なことについて語るのです。「スーパーヒーローとは困っている人を助けることのできる者」だと。

スーパーヒーローとは、文字通りヒーローを超えたものだ。チャップリンが「一人殺せば悪党(villain)で、百万人だと英雄(hero)だ」と述べたのは、もちろん、アイロニーとしてなのだけれど、ヒーローという偶像にはそれを想起させるだけの暴力性を内包している。なればこそ、スーパーなヒーローとは読んで字のごとくヒーローを超(スーパー)越したものでなければならないのです。

まったく青臭くて、高2病の人や自分のような擦れたひねくれた人間には素直に受け止めることは難しい。
けれど、90歳のおじいちゃんが臆面もなく言えたことを、私たちが言わずして誰が言うというのか。


もしあなたが「スーパーヒーローなんて」と思うのなら、是非ともこの映画を観るべきだ。バカバカしいと思うかもしれないけれど、これほど誠実な映画はそうはないから。

 

とんだ埼玉

寝ちゃった。久々に映画観てて寝落ちしてしまった。

まあ友人と一緒に観にいってたので寝てた間のパートは教えてもらえたのですが。

ていうかまあ友人に誘われなきゃ「翔んで埼玉」は確実に観に行かなかったでしょうが。

まあ「テルマエ・ロマエ」とかの監督なんで映画としてではなくテレビのコントとして観れば憤らずに済みます。なので別に映画館に観に行かなくてもいいです。ただまあ、「銀魂」よりは笑えるポイントはありましたけど、その笑いというのもかなり限定的というかローカルネタでしかないので、地方出身の人はほんとうにつまらないと思います。というか事実、友人の友人で地方出身の人はつまらなかったそうです。

学校のクラスヒエラルキーで田無や八王子出身が最下層(東京都の人間としては)という部分とかは笑いましたけど、まあ基本的にはそういうローカルネタの集積でしかないので・・・。話もあってないようなものだし。

ただ、茨木出身の50代の知人が話してくれたエピソードだと、上京してきたときは東京の人にさんざんいなかっぺと馬鹿にされたらしいので、そういう年代の関東圏の以外から来た人が見たらどんぴしゃりとハマるのかと。

まあ色々と謎なのは男の設定の役どころをなぜ二階堂ふみにやらせたのか、ということだが。演技が完全に舞台というか戯画化されているので映画の演技として観るのは無理ですが、でもあの演技なら声優とかめっちゃ上手そうではある。ていうかもう何かでやってそうだけど。ただ二階堂ふみと聞くとほぼオートで新井浩文の顔ががが。

個人的には麻生久美子が観れたのでまあ、なんとか観れた。あと友人と一緒だったから退屈さをため込まずにんすだというのもあるけんど。

お腐れポイント的には伊勢谷とガクトのキスシーンがあったのは、珍しいものがみれたので良かったかな、と。

それこそ二階堂ふみじゃなくて高杉真宙きゅんが麗の役だったら良かったんだけどねぇ。

ゾンビ×おくりびと×500日のサマー÷短編的空気感

といった感じ。

 

これ今までのゾンビ映画で一番好きかもしれない。コメディ路線だけれど「ショーン~」よりも全然好きかな。てっきり「ゾンビーバー」みたいな出オチだったりネタ路線一直線かと思ったんですけど(この直前にZMフォース観てたのものあったからかな)、いや全然良い映画ですよこれ。良いっていうか、好きな映画。

しかも、「マギー」(シュワちゃんのアレ)のようにエモすぎないという、良い感じのバランス。あっちもあっちで悪くはないんですが、いかんせんしめっぽすぎて。

 

やさしくて笑えて毒もあって、しかも(自分にとっては)新しいゾンビ像を提示してくれてもいる。まあゾンビ映画そんなに観てるわけじゃないんですが。

身近な人を亡くした人に向けて、あるいは失恋した人に向けて、おどけてみせながらもやさしく肩を抱いてくれるそんな映画。

かといって温かみ一辺倒かというとそういうわけではなくて、ロメロやその精神を受け継ぐ作家たちがそうであるように、批評精神(まあ社会問題ではないかもしれませんが)も持ち合わせている。ような気がする。

 

何気にキャストも結構いい。日本版ウィキが作られていない監督作の割にデイン・デハーン様(!)が主役だし、「スコット・ピルグリム~」でジュリー役をやったときはこんなに可愛い顔だったかしら?と思うくらい今作ではコミカルかつキュートな役どころのオーブリー・プラザ(余談ですがこの人コメディアン畑の人だったんですね)に、ジョン・C・ライリーががっつり絡んできたり、同じく「スコット~」のアナ・ケンドリックもちょい(だけど割と大切な)役どころで出ていたり。

ていうかまあ、デハーンね。デハーンが好きなんですよね、個人的に。

 

このブログではゾンビ映画をまともに?扱ったのはヨン・サンホの「新感染~」と「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」くらいだし、実を言えばロメロの初期作品すらほとんど未見なくらいゾンビ映画には疎いのであまり突っ込んだことは書けないんですが・・・。

それでも、映画好きの間では現代的なゾンビの始祖たるジョージ・A・ロメロを筆頭に、ゾンビは往々にして社会的な問題を孕んだメタファーとして用いられることが多いことは知っております、ええ。

その前提を踏まえて、本作においてはしかしゾンビはきっちりと死者として描かれている。怠惰に消費する(時代的にはウェブレン的ですらない、ボードリヤール的消費に邁進していた時代)の生者のメタファーとしてあった「ゾンビ」のゾンビのようなものではなく、死者のメタファーとしてのゾンビという。なんとも二度手間感を覚える描かれ方をしている。でも、それがしっかりと意味を成している。

この映画におけるゾンビは、生者にとって都合の良いもの(あるいは彼らが死者に投射する欲望――というよりは願望――の反射としての都合の悪いもの)として描かれている。だから劇中でゾンビは基本的に何もしない。人を襲ったりもなんてもってのほか。

それが露骨に強調されるシーンがいくつかある。

一つはオーフマン家の先祖(ゾンビ)や元家主(ゾンビ)がオーフマンの家に押しかけてくるシーン。ひたすらビビりまくるザックの兄貴(銃を撃つのが夢で警備員になったとかいうアレな人)に対してゾンビ勢はあっけらかんとしている。ビビった末にゾンビに向けって発砲するのにも、まったく動じないでザックのパパとソファーに座って駄弁り出すほど。

またこの直後の場面。このゾンビの件にかかわっているのではないかとモーリーが雇っていたハイチ出身のお手伝いさんのところへザックが訪れる場面で、そのお手伝いさんの親戚からモーリーがセクハラ糞おやじだということを知らされ、後を追いかけてきたモーリーによってザックが昏倒させられ路上で一晩眠りっぱなしになるシーン。目を覚ましたザックの目の前にゾンビが佇んでいるのですが、しかしそのゾンビは一切何もせずただザックを見下ろしていただけで、彼が恐る恐る車に乗って逃げようとする際にも何らアクションは起こさない。おそらくそのゾンビは一晩中そうしていたのでしょう。

ゾンビ=死者を死者として描いている本作においては、生者のメタファーとしての他のゾンビ映画のゾンビのように現世に干渉することはできない。だって、死んでるんだもの。

この映画では、ゾンビが人を襲うシーンも人を食べるシーンもない。ゾンビ第一号であるベスが人を食べた、と言及されベスもそれを肯定するのだけれど、明らかにベスは望んで食べたわけではなくザックによって押し付けられた思考(死者=ゾンビは人を食べるものという固定観念)を吹聴されたことやザックの不審な態度への当てつけでしかない。

ラストの方でニュースキャスターの目の前を何もせず通過していくゾンビ(だよね、あれ)だってそうだ。(ギャグ的にベスが墓を破壊したり、郵便配達員のゾンビが郵便受けを轢き壊していったりする描写はあるんだけど)。

それどころか、ゾンビは被害者ですらある。ザックの兄が家に押しかけたゾンビの死体の山を築き、銃をもって追い立てる描写がされる一方で、ゾンビが人を襲うシーンはない。

徹頭徹尾、此岸に立つ者たちの願望の延長線上にしかない。

だからこそ、より生者が相対化される。

 この映画において何かをする(しでかす)のはすべて生きている者だ。作中で発生するハプニングの直接的な要因は、すべて生きている者によって引き起こされている。

青臭いことを書かせてもらえば、ベスが墓から蘇ってきたのだって「戻って『きてほしい』」という死者に対する願望によるものだろうし。そう、語弊を恐れず書けば死者というもはや何もなすことができない無力な存在に縋り、彼らに求めるその姿勢こそが死者の安寧を妨げているのです。

 もっと深く読み取ろうとするのであれば、蘇らされた(と私は解釈しますが)ベスを家にとどめさせようとし執拗なほど写真を撮るスロカム家も、ベスを外に連れ出して歌を聞かせようとしたザックの行いも、当人たちの悪意や善意の有無はさておき極端に言ってしまえば生者側が、死者たるベスをいいようにしたいだけだ。

ザックがベスに歌をささげるシーン。これは頭のほうにある字義通りのマスターベーション(未遂)シーン以上のマスターベーションだ。

あそこは確かにギャグとしてベスがザックの歌をなじり最低最悪だと罵倒する(謎の発火とか暴れっぷりが面白い)のだけど、それはとりもなおさずベスというゾンビ=死者を使ってザック自身の感情の憂さ晴らしをしているからにすぎない。歌の出来栄えがどうのこうのではなく、それを聞かせるという死者をオナペットにした生者のマスターベーションに対する怒りの表出。死者を冒涜する、生者のモラルの欠如への憤り。

我々生者にとっては救えない話ですが、死者はそんな比じゃないほどに救えないのだから我儘は言えません。何度も言いますが、だって死んでいるんだから。

まあ、私事になりますが彼らの気持ちは痛いほどにわかるので書きながらダメージ追っているわけですが。

 

 

つらつらと書いてきましたが、そもそもこの映画は何を描いているのか。

死んだ彼女のマフラーでマスターベーションしようとするくらい未練たらたらに過去の恋愛に囚われたザックが、新しい恋に進んでいく話として表面的には描かれる。

けれど、この映画にはもっと広い裾野があると思う。今は亡き者=過去と折り合いをつける、今を生きる人の話であり、死者に対するモラルの話といったような。此岸に立つ我々が、彼岸に佇む彼らと共生する話と言ってもいい。

死者は生者の慰みものじゃない。それを理解し、死者の望みを果たす――折り合いをつけることで、ようやくザックは前に進むことができたように。

 

そして、その「前」としてザックの先にあるのがエリカなのでせう。

中盤、レストランで彼女と邂逅し新たな恋を予感させるシーンがある。けれど、ここでは明らかにザックが軟派で浮薄な人間のように描かれている。いや、その行為自体(頬に触るとか)以上に、彼の行動を浮薄に見せているのはひとえにその時点でザックはまだベスとの折り合いをつけていないからだ。

それを示すように、レストランでエリカと別れてザックが車に乗り込んだ直後にエリカが現れる。ここでエリカを轢いてしまうシーンは笑ってしまうのだけれど、ザックの無神経さの表れでもあるわけでして(そうなのか?)。

そのまま レストランの前でベスと言い合いになってしまい、店から出てきたエリカと鉢合わせてしまう。

この修羅場のシーンで、エリカ突っかかるベスに対してベスは「あなたひどい臭いがするわよ」と言う。まあ見た目がゾンビに近づいているし、その発言自体はことさら取り上げることではないのだけれど、ここで気になるのはなぜザックはベスに対して「臭う」と言わなかったのか、ということだ。

ベスとは初対面のエリカが(明らかに敵対的に描かれているとはいえ)臭いを指摘するくらいなら、ザックがそれを先に指摘していた方が自然だ。

ではなぜ、後から会話に参加したエリカがベスの臭いを指摘したのか。

 

それは、エリカにとってベスは風聞程度の完全な見知らぬ他者でしかないから。単なる死者でしかないがゆえに、はっきりした隔絶が描かれる。

一方でザックにとってのベスはいまだに尾を引く存在として、悪い意味でというか感情的な作用よりも根深いところで「痘痕も靨」的な、もっと臆面もなく言ってしまえば呪いにも似たしがらみがあるからだ。

 ここで一旦エリカとの関係が途切れてしまうのですが、既述のとおりベスとのしがらみを振りほどけていないのですから、さもありなんといったところ。三宅風に言えば「過去の清算」ができていないから当然であり物語的必然であるといえる。

 

映画の終盤、ゾンビ化がさらに進行したベスはオーブンに鎖で繋がれた状態でザックの前に姿を現す。ていうかザックがスロカム宅を訪れるとそういう状況になっていたんだけど。

ここでジーニー(ベスの母)との会話でベスがモーリーを食ったことが明かされる。

この場面は母親が指を食わせるという馬鹿っぷりに笑いながら、死んでもなお我が子に生きてほしいという想いに泣けてしまう。部屋に戻すより病院行ってもらいたいんですけど。

ここでザックはベスとの約束を果たそうとする。ハイキングの約束を。

そんなわけでオーブンを背負ったままハイキングに行こうとする二人の前に、トリガーハッピーの兄貴が現れてベスを射殺しようとする。そこでひと悶着ありつつ、兄貴を説得して、ケリをつけろと銃を手渡される。

ハイキングに繰り出し崖の上でとりとめもない話をした後、ザックは引き金を引く。オーブンを背負いながら転がり落ちていくワンカットは絵面は面白いのに不思議と胸に来るものがある。

そうして過去を清算ししがらみと決別したザックが家?に戻ると家族が全員いて、避難していたエリカとの再会も果たす。

この場面で、テレビに映るニュースキャスターが言う。これは限定的な地域の現象だと。限定的な地域とはもちろん身近な人を亡くした残された人たちの周辺のことだ。

それが示すようにこの映画で描かれる世界はひどく狭い。ひどく狭いけれど、開けてはいる。

 

この後の墓参りのシーンでベスの墓標に刻まれている文字が笑えたりするのですが、何はともあれこうしてザックは最後のカットで新たな恋に踏み出すのであった、と。

 

だからこの映画は「ライフ・アフター・ベス」なのでせう。

ベス亡き後のザック(とその家族やスロカム家)の、色々な意味を含んだライフ。

「(500日)のサマー」においてサマーと別れ自分の夢を歩みだしたトムがオータムに出会ったのと同じように、ベスという今は亡き彼女との過去を清算し、エリカとの関係に踏み出すのだ。

 

温かみのあるように見えて、結構割り切った映画だと思う。

映画の冒頭でベスが死んでその葬式を開いたあとの、モーリーとザックとの掛け合いの中で「良い思い出だけを抱いていこう」というような科白があるのですが、これはこの映画を通じて伝えていることなのかな、と思える。

ベスを殺した銃を捨てるというのも、ある種の割り切りとも受け取れるし。

死者との「嫌な思い出も含めて思い出なのだ」とか、そういう「あうふへーべんしようぜ」な感覚ではなく。

 

ただ、ぶっちゃけ文化的なものなのかよくわからにところもあった。ゾンビたちが屋根裏を好む理由やスムースジャズで落ち着きを取り戻す理由はわからないんですけど、もしかすると死者の安寧を得られる空間や音みたいな含みがあるのかしら。

 

伊藤がスピルバーグを論じたときのような死者の帝国という怜悧でスケールのでかい死者=彼岸の世界の捉え方も魅力的だけど、こういう人間味があるのもやっぱり捨てがたいな、と思う今日この頃。

 

私たちの見たくないノイズを放つ

前回「女王陛下のお気に入り」を観に行った時に予告編がかかって「これ絶対観に行かなきゃ」と思ってたんですよ。余剰的にとはいえ自分が学んでいた分野を題材にしたものだったから、というのもあるんですが単純に傑作のにおいがしたから。

傑作でしたよ。どうしようもないほどの。

 

傑作でした。どうしようもない。

パンフレットは情報薄いですが、麒麟の田村の寄稿は読んでいいと思います。ぶっちゃけ、私に書いたことをうまくまとめているので。

予算的にもセット組めないしロケ撮影なのだろうなとは思ったのですけど、三浦半島や横須賀、家の中は川崎と、意外に移動箇所が多いのはびっくり。という程度なので、パンフはまあカンパの気持ちで買うのがいいかと。

以下本題。
 

おそらく「岬の兄妹」の予告編を見た人のほとんどが感じたでしょうが、是枝監督の描き続けてきた「現実」を切り取る系譜の映画です。そして、それ自体が欺瞞を暴き出しているという意味で、片山慎三監督が師事した形になるポン・ジュノ監督の「母なる証明」にも通じています。

どうしようもない現実を、この映画は一つは音によって私たちのような「(幸運にも)普通に暮らす(ことができている)」人間に向かっていなないてくる。

冒頭、良夫の足元を映し出した画面から始まるこの映画は、すぐに耳障りな音を拾い上げる。そのノイズとは良夫がびっこをひく音だ。ずっと、ワンカットで彼を追っていき、その間足を引きずる音が絶えず響いてくる。

良夫が足を引きずる理由は説明されず、物語に直接関係してくるわけでもない。それを理由に造船所を解雇された、というような含みもあるのだけれど、それだけが理由かどうかというとちょっと違うとは思うし。

ではなぜ、良夫は足を引きずっているのか。徹底して現実を描き出すこの映画ですから、てらいなく恐れず言えば真理子という存在が彼の足かせになっていることのメタファーとして読み取ることもできるでしょう。現に、良夫はいなくなった母の代わりに真理子を養わなければならなくなったわけですから。

でも、メタファーというよりもそれは良夫にとっての単なる現実としてあるように思える。それが何かドラマティックな過去の出来事に装飾されるのではなく、ただ「そうあるがゆえにそうなのだ」という残酷なまでの現実として、彼の片足はああなっているのではないでしょうか。

その残酷なまでの現実が地面をこする音というのは、とりもなおさず私たちの生きるこの現実の一つの側面としての叫びなのです。彼の足音だけではありません。真理子の足につながれた鎖の音もそうだし、良夫が真理子をたたく音もそうだし、真理子が仕事をしたいと住宅の密集する道のど真ん中で泣き叫ぶ音もそう。

もちろん映画という総合芸術のメディアであるために、音だけではなく画としても強烈な現実を浚いあげる。それは汚さだ。
そう、徹底して欺瞞的な「綺麗」ごとを排除しているために、この映画には見事に汚いシーンばかりです。

そもそも、兄が自閉症の妹に売春をさせているということ自体が汚穢としてほとんどの人が嫌悪するでしょうし、嫌悪されてしかるべき行いなのでしょう。

しかし、ほんの一瞬の過去の回想からもわかるように、真理子は小さいころから性に関して関心があったわけで、当人はセックスすることに関してはむしろ積極的ですらあるのです。その意思をないがしろにして、またそうすることでしか生きていけない兄妹を前にして、溝口くんのような正論を振りかざすことが正しいことと言えるのかどうか。

これは「パーフェクト・レボリューション」で描かれたような障碍者と性の問題をにも直接連なります。たとえば、もしも真理子が自閉症ではなかったら、溝口くんはあんな風に怒ったでしょうか。そう疑義を唱えたとき、義憤に由来するその怒りは反転しないだろうか。

確かに、自閉症スペクトラムのことを考えれば、兄である良夫は彼女の認識能力・判断能力を考慮しなければなりません。それができなかったからこそ、真理子は妊娠してしまうわけですから。

けれど溝口くんの、ひいては社会の抱えるその怒りとは、かなり、それこそ宗教的なドグマによるところが大きいのではないでしょうか。つまるところ、私が常々言っているような、障碍者の神格化=非人間化と性の秘匿・穢れ化の合わさった歪んだ価値観。キリスト教だけではなく儒教や仏教もそうだけれど、人間が生きていくうえで不可避的な(と書くとノンセクシャルとかアセクシャルの人を貶めかねないので注意が必要ですが)性にまつわることを忌避してきた。そのくせ、障碍者などを自らの都合の良いように聖なるものとして解釈しなおしたりと、そういう長きにわたってきた文化的な因習がまとわりついているのではないか、ということだ。

 
少し話が逸れるのだけれど、相模原の事件の責任が社会にあるというのは、そういう風に障碍者を神格化したその反動でもあるのではないか、という意味で議論を棚上げしてきた責任があるのでは、と思います。処女崇拝思考がもたらす非処女嫌悪のようなもの、というか。

 

 けれど、汚穢として忌避される(と小綺麗な私が思いたがっている)行為によって救われる人もいる、ということを描いているのが単純化された一面的かつ欺瞞的な現実を良しとしない片山監督の周到なところでしょう。

だから、兄妹の商売相手として登場する高校生のグループは多層性を帯びているのです。
不良二人がメガネの男子生徒を羽交い絞めにして「〇〇ちゃんでオナニーしました」と言わせた動画を撮影している(どことなく、編集のつなぎ方からてっきり私は良夫の過去を描いているのかと思ったのですが、そういう意図はあったのかどうか)ところに、良夫が作って配って回っていたピンクチラシ(というか名刺)を拾ってきた別のいじめっ子がやってきて・・・というふうにいじめられっ子がセックスをさせられるという構図になっているんですけど、その現実的な現実の複雑さゆえに、この場面の最後には意味合いの逆転が起こる。

また生き「汚さ」という点で言えば、ここでもそれは描かれます。
真理子といじめられっ子がセックスしている間の待機中の良夫から、不良学生たちがやぱり羽交い絞めにして金を奪おうとするわけなのですけど、ここで良夫は脱糞してそれを学生たちの顔面に投げつけるんです。

文字通りの汚さでもって、窮地を脱する。彼には美学なんてものはないし、ポーチの中身の有無が誇張でなく死活問題である以上そうやって最低な手段を使わなければ生きていけないのだから当然でしょう。しかし、綺麗に生きることを許された私に彼の当然が実行できるのか。

どんな汚いことでも生きるためならいとわない、というのを美学としてとらえることもなしではないですが、それを決めるのは当人以外ありえないと私は思いますし、これを美学としてとらえることにはやはり抵抗がある。

不良三人(くにお筆頭)+(ダメだと分かっていても付き従うしかない)舎弟的な男子生徒(ゆうじ)一人を追い払った良夫は、セックスを終えたいじめられっ子(さとし)が清々しい顔で「生きてれば良いこともあるんですね」と嬉しそうに差し出す手を握る。良夫の手にはうんこがついているんですが、そのあとのリアクションを省略するユーモアも片山監督は上手い。

ここのシーンだけを切り取っても、描かれているものがいくつもあるのがわかります。

さらっと書いたように、加虐側の生徒にその行いが悪いことだと理解していて躊躇しつつも、そうしなければ自分がいじめの対象になってしまうと理解しているがために付き従うしかないゆうじが、それでもやはり良夫のようにそうしなければ生きていけないことの提示や、さとしが強制させられ(そして真理子もまた構造的に良夫によって強制させられている)たセックスであっても、両者は満たされているということなどなど、一筋縄ではいかない複雑さを映し出している。

また、生徒たちの服装に注目すると、加虐側の生徒は全員シャツ出しだったりYシャツのボタンを全開にしているのに対し、いじめられっ子と舎弟ぎみの生徒はしっかりとシャツインしていたりと、そのへんの気も効いている。

そこに至る前に、やくざの縄張りと知らずにポン引き行為をしてしまうシーンの馬鹿っぷりへの眼をそむけたくなるような描写もまた、利口に生きてきた人間には羞恥にた感情を想起させる。

それと、このシーンに至る前に、すでに何人かの男性とセックスをしているんですが、その繋ぎの演出もすごいです。
まず最初の相手がおじいちゃんというのが、もうなんというか「描かれることのないマイノリティーな側面の現実」を描いてやろうという気概がするのですが、そのあとの疑似的なワンカットで三人の男性とセックスしたことを示す省略の手順(あそこでちんちんを起点に相手が変わっていく演出がキモい)の技巧。

ここで商売相手の中に小人症の人=中村くんが出てくるのですが、彼とのセックスが両者にとって幸福なセックスであることを示しているのが、なんというかシャマランの「スプリット」的というか。
ここでの中村くんの逆子として生まれてきたこと=どうしようもない現実への怨嗟が、中村くんを演じる俳優の中村裕太郎の身体と直結していて実に胸に来る。ていうかこれ、ほとんど演技じゃないでしょう、役名的にも。


でも、どんなに真理子が好きなことであっても、そこには逃れられない女性の身体性が立ち現れてくる。
そりゃそうだ。避妊をしなきゃ妊娠する。馬鹿でもわかる。正直なところ、こればっかりは良夫を擁護しようがないのだけれど、あるいはそれを付加価値としていたのだろうか。そうしなければ、真理子を売ることは困難であると。

妊娠したことが判明した直後、良夫は一度中村君のところに行って「真理子と結婚してくれ」と無理難題を懇願する。もちろん(と書かざるを得ないのが辛いのだけれど)中村くんはそれを断る。それ以外に良夫には手段がないとはいえ、中村くんも実は真理子のことが好きだったのだろうけれど、「結婚はできない」。それがこの映画で描かれるどうしようもなく途方もない現実だ。

その夜、良夫は夢を見る。むごいのは、最初はそれが夢だとわからないような演出がされていることだ。
彼が突然走り出したところから、すでに私は居た堪れなかったのだけれど、それに加えて子どもの集まる公園で子供に交じって遊具で遊びまわり楽しそうに笑う良夫を観せつけてくる。あまつさえ、それが夢であることがわかってしまうシーンで、夢から覚めると「妊娠した自閉症の妹」という現実が横たわっているさまを、そしてブロック塀で彼女を殺そうとするシーン見せつけてくれる。

たぶん、真理子の面倒を観なければならなかった良夫は、幼少期に遊びまわることができなかったのではないか。「ちづる」のように機能している家族の中での葛藤などではない、もっともっと難しい家庭だったのではないか。
だからこその、あの夢なのではないか。でも、あれだけ楽しそうな夢なのに、絵面が「おっさんが子どもに交じって遊んでいる」という隠しようのない「現実」の絵ヅラで、夢の中にまで厳然と浸食している様を観客に見せつける。そのうえ走り回り・遊びまわる夢から覚めた直後のカットに良夫の動かない足の裏を映すのだから、本当に監督は意地が悪い。いや、意地が悪くなければここまで現実を見据えることはできないのでしょう。


最終的に良夫は真理子に堕胎させるのだけれど、これもやっぱり真理子のことを考えると果たして正しいことだったのかわからない。確かに、良夫の涙を観て貯金箱(名前は忘れた)を差し出してはいるけれど、それは言い換えれば彼女自身を押し殺していることの証左なのだから。

だって真理子は、弥生(溝口くんの妻)の膨らんだおなかをやさしく触っていたし、産婦人科の窓から向かいの保育園(?)を眺めていたし、弥生の子どもに興味を示していたし、周りが意見を聞かなかっただけで彼女は子どもを生むことを望んでいたのではないのか?
堕ろす前に一度でも彼女と言葉を交わしたのか?

だから、彼女は最後にあの場所に立ったのではなかろうか。あの場所に立つ予感は、思えば冒頭に描かれていた。

最後まで見せることなく、この映画は幕を閉じます。けれど、徹底的に現実を射程してきたこの映画が、最後に救いをもたらすのだろうか。私は楽観視できないけれど、見る人によって最後をどう受け止めるかは変わってくるのでしょう。

 

苦味しかないこの映画ですが、笑えるシーンやスカっとするシーンもあります。既述のようにうんこの手で握手するシーンは笑えますし、金を手に入れたあとに家の窓に貼り付けていた段ボールを破り光を差し込ませるシーンやピンクチラシ(名刺)を高所からばら撒く桜吹雪のシーンなどは刹那的ながらカタルシスがある。
中村くんと真理子の幸せそうな、それこそアルバムに収まっていてもいいようなスナップ写真のように見える静止画のインサートカットとか。幸福な瞬間がないわけではないし、徹底して怜悧な現実を描いているからこそ、一瞬で些細なその幸福な瞬間が際立つ。
 

 また時間経過の描き方などは、妊婦の状態で描き出すという手法が「女は二度決断する」でもありましたが、そういう巧みさを見せつけてくれるあたり、情熱だけが先走る作品とは違う。

この映画は巧みだし考え抜かれている。
たとえば、友人である溝口くんが警察というのも示唆的ではないでしょうか。

徹底して正義の側にいる彼は正論によって良夫を糾弾します。それはそうでしょう、良夫が行っていることは犯罪なのですから、法の側にいる溝口くんは友人として責め立てざるをえません。

この映画が現実に肉薄しているのは、この警官たる溝口くんを悪役としては描いていないところです。それどころか、馴染みであるということでお金を貸したりもしますし、頼まれれば真理子を預かりもします。どちらかといえば助けになる人です。

けれど、兄妹の助けにはなっても決して救済にはならないのです。そんなことはわかっている。けれど人間二人をあのような状況から抜け出させようとすれば、文字通り人間二人分の生活費がかかります。妻もいて、その妻が身重ともなればなおさら自分の家庭のことに注力しなければいけません。だからといって、友人である良夫を放っておくわけにもいかない。だから香典から3万円を渡そうとだってする(弥生がそれを押しとどめるが)。

これって、私たちのような人間のスタンスそのものではないでしょうか。

日々流れてくるさまざまな社会問題のニュースを眺めては「大変だ」「許せない」「こんなことがあってはいけない」「どうにかならないだろうか」そうやって考えてはいても、考えるだけでしかない。

 
メタ的な見方はほかにもできる。エンドクレジットに。
劇中では名前で呼ばれることのない人物にもしっかりと名前が存在することを確かめてほしい。まあ全員、というわけではないけれど。

名前というのは、個を識別するためのものだ。そして、この徹底的に現実を描出しようとしている映画において、「名もなき人物」というモブは存在しない。一人ひとりが今この現実を生きている個別の人間として残酷なまでに存在していることを示している。不良も、チンピラも。

それはパンフレットにキャストの情報が2ページにわたって記載されていることからも明らかで、ここは間違いなく意識しているでしょう(いや単に嵩増ししてるだけかもしれないけど)。

にもかかわらず、ホームレスの男には名前がなく「ホームレスの男」とクレジットされている。そう、ホームレスというのは社会から排斥され何者でもなくなってしまった人物である以上、そこに個としての名前は存在しないのです。だからこそ「容疑者Xの献身」でホームレスがトリックに使われるのだから。

正直なところ私はあの生き汚さを、白石監督のように「美しい」と思うほどには割り切れないのだけれど(だって、その見方すらある種の権力構造による「持っている側」の取り込みに思えるから)、「もののけ姫」もこれに近いものを描いていることを考えると、スケールの問題でしかないのかも。

うんこを手に取って投げつけてまで生きようとする。それはたしかに生き汚く、ごみをあさって食べ物をあさる様は意地汚いと思ってしまう。けれど、それは「普通に暮らす」ことができている私を含めた人間だから言える特権的な立場からの見下ろした言葉に他ならない。

 だから、私たち「(幸運にも)普通に暮らす(ことができている)」人間からすれば、この映画で描かれる現実の音は耳をふさぎたくなるものしかない。


幾重にも存在するそれぞれの現実の衝突、そのような知りたくない見たくないの集積の傑作。

それでも、この映画は直視しなければならないのです。何度でも。

ぶっちゃけ、わたしはこの映画を何回も観るのはしんどいのですが・・・。

2時間使ってプロローグ

「アリータ」観てきましたよ。原作は一巻分くらいしか読んでないので何とも言えませんが、大体は原作に沿った感じでしょうか。

にしても、なんつーか長大なプロローグでしたね。続編やるとしたら彼は実は生存していてノヴァに改造されて敵として出てくるパターンでしょうね、ええ(適当)。しかし殺されるためだけに機械化されて蘇生させられるとかさすがに笑ってしまうんですよね。

ていうか最初から着地点をあそこにするつもりだったならもっと丁寧に描けただろうに・・・本当にキャメロンはメカ描写とかこだわる割にそういうところは雑な気がします。

しょっぱなから編集のタイミングがおかしくて、カット割るのとかも急いているように見えたんですけど、そのあとは結構グダグダしてたような気も(グダグダ、というかべたべたというか)。

それにしても監督のロバート・ロドリゲスが宣伝でほとんど出ないのが結構悲しい。少し前だったら「スパイキッズ」シリーズの監督として紹介されたりもしたんだろうなーと思うと時の流れを感じますし。でもやっぱりアクションに関しては上手いですし、この映画は脚本を堪能するものでもないのである意味ではそれでもいいのかな。

しかしまあ展開のための展開が多いというか、流れとか間とかそういうのはあまり考えず義務的に展開を広げていく感じが一周回って面白い。

 

それにこの映画の魅力は何といってもアリータでしょうし、彼女がかっこかわいく撮れてれば成功だと思いますし、実際わたしは「アリータかわいいかっこいい!」と思えたので成功でいいと思います。

あのトレーラーを初めて見たときは「きもっ」っと思ったものですが、中々どうして可愛いではありませんか。ちょっと歯が出っ歯気味なのもまた完璧じゃない隙があって萌えるんですよねぇ。あと彼の一輪バイク(このデザインのオリジナルって原作からなんですかね?)に乗った時に肩の部分をちょんちょんするのとか。

あと衣替えが多いのもよい。オシャレじゃなくてもっとラフな服装なんだけれど、かたっぽ肩だしてたりノースリーブだったりアーマーつけたりね。

 

ホットトイズはサイズ的にも顔の造形が劇中と違ってたり値段が高かったりと色々ハードルあっておいそれと手は出せないんですが、フィギュアを買いたくなるくらいにはアリータ可愛いかっこいい映画でしたよ!

 

 

最初の月のまとめ

下書きのままry

 

「眠れぬ夜のために」

ジョン・ランディス監督でジェフ・ゴールドブラム主演。ワスプでもまだまだ美貌を保っていたミシェル・ファイファーの若かりし姿が見れたり、コメディなだけあってところどころ笑えるんですが、全体としてはまあまあ。

助べえなことをしようとしたところに乱入して家を荒らしていく天丼とか面白いんですが、普通に人は死ぬし血は出るし乳は出るしで遠慮がない。

しかしゴールドブラムは相変わらず背が高いなぁ。

 

ジャッカルの日

昨今のスパイ風アクション映画のような派手なアクションはないものの、原作者のリサーチに基づく緻密なスパイの描き方が素晴らしい。

誰かが言っていましたが、この映画は確かに「スパイだったらこうす」の完璧なシミュレーションなんじゃないでしょうか。

ジンネマンだと「真昼の決闘」くらいしか見たことありませんでしたが、ホモの人の殺し方とか、やや引きの画で撮るところなんかちょっと北野武っぽくもあったり、目的のために寝た女を目的のために翌日に容赦なく殺していたり、ラストのオチなんかも考えるとヒーローとは真逆に位置する実にスパイらしいスパイと言えるのでは。

ガジェットの仕込み方や調整も丹寧に描いていたり(MIでコンサート会場で楽器に偽装した銃のガジェットの元ネタってこれじゃないのかしら?)、あとあの音楽がかかったままクレジットが流れ出すエンディングの淡泊さとかすごいクール。