dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

やはりブラッド・バードは才能の塊である。

劇場で見逃していたのをふと思い出し、そのまま「観るか」と思い立って「インクレディブル・ファミリー」を観る。

「トゥモロー・ランド」でケチがついた(私はあれ結構好きなんですけど)ように思われるブラッド・バードですが、あんな作品を作るだけあって才能はやっぱりあるんですよね。

無論、ピクサーという集合知に依拠している部分もかなり多いのでしょうが、ほかのピクサー作品のほとんどが骨子たる脚本(監督も)を、少なくともクレジット上においても複数体制を取っている中で監督・脚本ともに前作も「レミー~」もブラッド・バードが単独クレジットしているぐらいですから、そういう意味ではやっぱり色が出ている。

前作は「ウォッチメン」だとか言われたり今回は「シビル・ウォー」じゃんとか言われている「インクレディブル」シリーズですが、そのへんで提示したテーマは割とうやむやだったりするんですけど、別にそんなことはお話にならないほど楽しいアクション映画なんですよね。

これがヒットする理由はよくわかる。だって単純に楽しいんだもの。

 

特殊能力モノとしての能力の見せ方、画面のレイアウト、話の会話のテンポ、飽きさせないフックの作り、細かい演出、音楽の流し方、あらゆる点で映画という運動の連続を見せるメディアの魅せ方が卓抜している。

 

能力で言えば、本作のメインを務めるヘレン(ボンキュッボン(死語)なエロさを放つキャラデザ)の能力は体が伸びるという、元ネタであるゴームz・・・ファンタスティック・フォーのリードが登場した60年代からある手垢のついた能力(それゆえにサブ役に回されがちだったり)を、能力それだけでなくそれを生かすガジェットやシチュエーションで見せてくれる発想力と、それを切り取る画面のレイアウトの見やすさ。

ほかにもポータルな能力の見せ方の応用力。落下による運動エネルギーを重力に逆らうように使ったり、バリアの中に入り込んだりと、能力の使い方が上手い。

 

細かい演出で言えばキャラクターの表情・所作の一つ一つにそれは現れている。育児に追われてやつれるところなんかもそうだし、洗脳されたヘレンとフロゾンとボブが船であいさつをする際に、彼らと交流がある大使が地味に不審がっている挙動を見せていたりもする。

 スクリーン・スレイヴァ―なんて名乗りながら、彼女が現場(現実としてのメタファーともとれる)を視認するのは往々にしてモニター越しであったりするアイロニーなども気が利いている。

 

テーマ的な部分では、色々とテクノロジー・ヒーロー(に耽溺する人)への耳が痛い言及があるわけですが、それを忘却の彼方に追いやってしまうような優れた映画でそんな高説を垂れたところで、宮崎駿的な面白い作家性の中に収斂されてしまう結果にしかならない。

そういう愛嬌が、時に大衆蔑視だのカリスマ・才能・持つものとしての立場を表明しつづける嫌な野郎との誹りを受けるブラッド・バードを好きになってしまうところでもあるのかもしれない。

自分ですら掲げたテーマ放置してるし。

 

 

ロクレンジャイ!と公的制裁者たち/大詰め

「シャザム」を観た翌日に「エンドゲーム」という流れ。

 

「シャザム」

こういうサクッと観れてそれなりの満足感を得られる映画で良いのだとようやくDCは気づいたようです。

 

フレディくんどこかで観たことあると思ったら「It」で喘息持ちのエディくんを演じていたザッカリーくんだったんですね。2年でだいぶ成長してますね、彼。

シャザム状態ではやけにノリノリなのにビリーの状態だと不機嫌だったりするあの双極みたいな心理はどういうことなんでしょうか。
増長はライミの蜘蛛男3でも描かれておりますし、完全にオンとオフを切り替えられるというのはある意味でその落差を強烈に体感してしまうということでもあるのでしょう。

欲を言えばペドロとの絡みが薄いことや実母のくだりの茶番感とかもあって「家族」というテーマはやや浮薄な感じもするんですが、それでも上手くまとまっている方ではありましょう。別に大して気にならなかったですし。
むしろ、そういううじうじした(フレディの吹替が緒方恵美なあたり、やっぱり碇シンジ君的なものを狙っているのだろうか)ものをパパっと済ませていこうという心意気こそが適度な軽さをもたらしてくれているのでは。


バースの設定を維持しているおかげで、ヒーローという存在を本作においては認知されていることによる説明や超人的な力への混乱といったものが省けているのも何気に上手い。
この辺は、というか全体的に(エンドクレジットのお遊びといい)ホームカミングを想起させるのですが、あちらのように先達のヒーローがいるわけではなく他者としての家族とのかかわりの中で自覚していくという点は異なるのかな。

それにしても血縁=家族の否定はGotGあたりからも描かれていますが、本作では主人公だけでなくヴィランまでそれを体現しているという徹底ぶり。
そこにグラデーションがあるのもまた面白い。
 

個人的にはダーラちゃんとマーク・ストロング(サデウスではなく)が萌え萌えだった。マーク・ストロングがここまでストレートに「ちからこそぱわー!」なヴィランを演じることはあまりないので、キャラクターとしてはクリシェもいいところですがマーク・ストロングが演じることで俺得な楽しさがある。

何気に次回作でも続投してくれるフラグが立っているので、是非ともまたマーク・ストロングを見せてほしいですな。

 
ラストのスーパーマン登場は驚きよりも笑いが。「お前出るんかい」というたぐいの。

 

で、「アベンジャーズ/エンドゲーム」

 

めちゃくちゃ熱狂している、というわけではありませんが、リアルタイムで追い続けたシリーズということでやはり感慨もひとしおでございます。


アベンジャーズ」は今やかつての(って書くと怒られそうですけど)スターウォーズがそうであったような一種の祭事であるからして。馴染みの祭りが今回で(一応の)最後なので見届けようや、という思いもあったり、まあ「乗るしかない、このビッグウェーブに」という思いはやはり否が応でも表出してくる。

こういうお祭り映画というのはそうそうあるものではありませんし。

真田広之氏も「参加することに意義がある(意訳)」とおっしゃっていましたし、この心地よい熱狂に身を任せて純粋に映画を楽しむのが一番良いのかも。
とはいえあんな三下な悪役でいいのか、真田氏。まあ新キャラに尺を割いている余裕はありませんから、ダメ押しのサプライズとしてはあれくらいがちょうどいいのでしょう。

真田さんの演技はかなり大仰というか舞台的というか、決して下手というわけではないのですが日本語での演技がアメリカナイズされているので、やっぱり文化によって演技って違ってくるのだなぁと感じる場面でもありましたね。「ライフ」での英語の演技は全然違和感なかったですし。

言語周りでいえばジェレミー・レナ―の日本語が訛り強すぎて何言ってるか聞き取れなかったんですが、あそこだけ日本語の会話になったのはやっぱり日本舞台だからなのだろうか。「アウトレイジ」を観ればわかるように(これ観てわかった気になるのも頭悪すぎですが)、昨今のやくざというのはインテリも多く英語を喋れる人もいるらしいので、英語で良かったんじゃないかなーと。

でも一緒に見に行ったジェレミー・レナ―ファンの友人はこのシーンも含めて大満足だった様子。冒頭からバートンだし、割と出ずっぱりでしたからジェレミーファンは必見かも。単なる偏愛だと思いますが、そういう偏愛をしたくなるキャラクターの映画ということなのでしょう。
しかし私も好きな役者ではありますけど、まさか泣くとは思わなんだ、友人よ。
今回出番があまりなかったキャラクターはまだ続編が残っているから、ということなのでしょうし、最初のアベンジャーズメンバーへの手向けということで割り切ってるのでしょうね、製作陣も。
だからバートンが出ずっぱりでも問題ないのです、ええ。


タイムパラドックスについては色々と説明がされてましたが、正直なところけむに巻かれたという感じが・・・まあ、そのへんはご愛嬌ということで。
他にもガントレット作れるんかい、とかまあ色々と細かい部分で気になるところはあるんですが、そんなものは熱量に比べれば無問題でしょう。

前半のコミカルケイパーものは笑いつつ泣きつつ、後半の畳みかけサノス戦に大興奮。

ソウルストーンのくだりはIWのときからもちょっと「くどくないかな」と思っていたのですが今回もちょっとくどい(笑)。気持ちはわからなくもないですが、キャラクターを中心にしているため話運びがいささか鈍重ではあります。それでも飽きさせないように心配りされているので問題はありませんが。

フェミニズムな視点の盛り込み方とかも少しこれ見よがしな上に「意気込みはわかるけど・・・」な気もするのですが、スパイダー坊やの危機に大集合というオネショタハーレム状態な絵面なので静かに首を縦にふるしかありません。

大乱戦でのガントレットリレーも楽しいし、久々に童心に帰って楽しめました。

MCU作品のオマージュや原作からのオマージュもたくさんあるのでしょうが、それを一つ一つ取り上げていくときりがなさそうなので割愛ということで。

 
とにもかくにも、MCUの始まりである アイアンマンが決着をつける、という流れもやはり涙なしには観れない。まあ、本編の閉め自体はキャップなのですが、それはそれでやはり最初のアベンジャーとして本編を締めくくるのは嬉しい。
ただ、それやっちゃったらシャロン・カーターとのキスはどうなるのよ、と。童貞のくせにやり捨てたぁ、さすがはアメリカのケツである。ドラマは追ってないので、何かしら補完されているかもだ。

クレジットの後の鉄を叩く音。あれはアイアンマンへの鎮魂歌なのかなぁと思うとまた涙が。

 

April

「ヴェラクルス」

ベン×ジョー。

西部劇って今見返すと表現として危ういものが結構あると思うんですけど、これはまあそういうのを抜きにしてベンとジョーの関係性に耽溺できていい。オチも併せて尊い

監督がロバート・アルドリッチということで私なんかは「何がジェーンに起こったか?」を想起してしまうんですよね、二人の関係性。

 

初恋のきた道

轍で始まり轍で終わる。

チャンツィーの素朴な可愛さがここまで全面展開されるのもそうないのでは。

 

 

「マッキー」

ハエ男。クローネンバーグではなく。序盤の展開からまさかの転生。しかもハエに。しかも異世界ではなく。

超カラフル。いや、いつもと違うテレビで観たから、というのもあるのかもしれませんが。あと後から調べてわかったんですけど、ラージャマウリ監督だったんですね。初のインド映画が「ロボット」だったので、インド映画というのは大体ぶっとんでいるものなのかと思っていたんですけど、特にラージャマウリ監督のはそれが強いかも。

率直に言って面白い。いやぁ面白すぎる。なんというか、日本の恋愛映画もこれくらいぶっ飛んでくれた方がいいよ、ほんと。

大体、主人公もそのライバルも本質的にはストーカーであって、何故スディープではないとだめなのかという明確な理由とかも特にないため、恋愛模様を真面目に見ていられるかというとそういうわけではない。

えーこれはなんというか、一種のシミュレーション映画として捉えた方がむしろいいのでは。要するにハエ+人間の自我÷リベンジ。といっても、そこまで綿密なシミュレートではなく、ある程度、というかかなりのレベルで戯画化されてはいますが、むしろだからこそフォークロア的なグロテスクさを持っているともいえる。

たとえばハエのCG、あれを雑なCGと捉えるよりはむしろこのバカバカしい内容にピッタリな塩梅と捉える方がいい。第一、こんな話で作り込まれたグロいハエを見せられても困るわけで。

 

にしても、やっぱりコミカルに描いているのにしっかりと流血していたり、肉をかみちぎるシーンをてらいなく描いていたり、やっぱりどこかおかしい。

ノイローゼになるよ、あんなの。事故らされてるし。グロいし。普通にホラーでしょ。

 

ヒトラー暗殺 13分の誤算」

やるせない話だった。

これが実話ベースというところがまた、小説のようにはいかないのだなぁという感慨が。だからこそ「イングロリアス・バスターズ」みたいに痛快無比な作品が生まれもするのだろうけど。

 

 

ガンカタ

もといリベリオン

中二病全開で大変よろしい。カルト映画とはこういう突き抜けたものである、ということの証左である。

みんなそろいもそろって感情むき出しなあたりの隙だらけっぷりなど、ガンカタの前には些事なのである。

 

「ザ・トーナメント」

全然ノーマークだったんですけど面白い。バトロワのパクリ、ジョン・ウィックの成り損ないとか、揶揄しようと思えば揶揄できましょうが。

ライライ可愛いし、アクションもかなり気合入ってますよね、これ。何気に予算もあるみたいだし。セバスチャンのパルクールアクションなんかかなり見ごたえありますし。

午後ローでやってたらかなり当たりの部類でしょう。

 

「ウォーターワールド」

これがコケたというのが前々から不思議ではあったんですが、決してつまらないわけではない。と言い切れないところもまた何かモヤモヤするのですが、そう考えるとなんだかんだでほぼヒットさせているマイケル・ベイというのは何やつなのだろうか・・・。

マッドマックスとインディジョーンズと、あとなんだろう。

午後ローでおなじみのあのテーマ曲は上がりますけど。

 

タバコ・ロード

23歳の年増というワードがあまりにも悍ましすぎてびっくり。いや、あくまでコメディなので本気なのかどうか判断しかねるのですが。

貧すれば鈍する。ではありませんが、テンションと勢いだけで笑わせてくれるカーアクションが最高でした。

なんというか、白痴的といえばいいのだろうか。

そろいもそろってテンションが高くて整合性のあるボーボボを観ているようですらある。

くそリアリズムのカリカチュアとしてもかなり嫌な後味。

 

 

プーと大人になった僕

( ;∀;) イイハナシダナー

「ぼくが消えないうちに」を大人の視点から再解釈した映画といえばいいのでしょうか。

吹き替えで観たのですが、堺雅人をキャスティングしたのはやっぱりクライマックスの展開の「倍返し」感のせいなのだろうか。

「何もしないをする」というのは実はシャーマンキングにおける葉くんのスタンスと同じで、(VSアイスメン戦で)アンナが「葉は何もしないをした」的な発言をしていたのにも通じる。まあ、あっちとはニュアンスは異なるんですけれど。

そういう意味で、何か新しい発見があったというわけではない。プーさんが「僕は何もしないをするよ」と発言したときは「お?」と思ったのですが、よく言えば「現実と上手く折り合いをつけた」という決着ではあります。ところがぎっちょんてれすくてん、逆に言えば「現実には勝てなかったよ・・・」という敗北宣言でもある。

そりゃそうです。娘も妻も家庭も仕事も、結局はどうしようもない現実であるわけで。もちろん仕事と家族を同列に語るのは大間違いですが、結局のところは会社に留まるという帰結はやはり回収とも受け取れる。まあ、部下をコミカルに描いていたことからも会社をほっぽり捨てるという選択は劇映画的に在り得ないとは覚悟していましたが。

 

ハーヴェイ・ミルク

名前は知っていましたけど、こうして何か彼に関連するものを読んだり観たりするのは初めてだったんですが、ユーモアのある人だったんですね。握手のくだりなんかは思わず吹き出してしまいました。

それと裁判に関しては、やっぱりなぁと思う反面「A3」の読後ということも相まってオウム関連の裁判の写し鏡として見ていたり。

 

「降霊」

大学時代、レポートのために黒沢清関連の資料をちょっとだけ漁ったことがあったのだけれど、そういえばと思いだして観る。

段ボールをはねていく車のシーンも、そういうアクションとして機能させようとしていることを考える。

それはそうと面白い。黒沢清の映画を観てると、画面に奥行きがあるだけでもう不安になってくる。カットを割らないで決定的な瞬間を捉える。

哀川翔のちょい役(約2分)というのも、色々と笑える。草薙君も出番は少ないのですが、黒沢映画には結構合っているテンション。

面白いのは霊が何か決定的な干渉をしてくるわけではないということ。ただ「いる」というそれだけで、生者を追い込むには事足りるのでしょう。もちろん、そこにはしっかりとした因果があるわけですが。

そういう意味で、これはホラー映画というよりは心霊映画と言える。や、演出はホラーですけお。

 

「彼女をHにする方法 ダメ男のために恋愛マニュアル」

「セックスなんてスポーツみたいなもんだと思ってた」と矢野くんはおっしゃっていましたっけ。いや、逆説の論法なのでそのあとに「神聖なものだったんだ」というわけですが。

セックスをコミュニケーションだとするならば(よく考えるとこの辺って壮大な矛盾をはらんでいるような気もするのですが)、この映画は一種のマニュアルにはなる。

ドイツ人らしい生真面目な映画であるんですけれど、ちゃんと笑える部分がある(そこがまた生真面目というか)。

まあでもあそこまでセックスに真面目になれるというだけでうらやましいというか、ヒッキー・キモオタな自分からすると恋人がいることがまるで所与のようにして描かれるこの映画には相容れぬのでござる(血涙)

 

「デイズ・オブ・サンダー」

トップ・ガンだこれー!

GotGでおなじみの若きマイケル・ルーカ―が地味に新鮮。

 

 

「女優霊」

三宅SDが言うところの心霊映画ではなかろうか。生理的に悄然させられるのですが、しかしこの類のオブセッションというのはいつごろから植え付けられたのかがわからない、という極めてジャパニーズ風俗というか文化レベルで根付いているもののような気がする。

ラストの引き込むところで、ドアを開けると煙が出てくるというのはやりすぎではなかろうかとも思うのだけれど。

「じゃあ自分が観たアレは何だったのか」という、過去に遡って恐怖を抉り出されるという因果は、一見すると不条理とは対極にるようにも思える。が、しかしよく考えたらその遭遇そのものが事故的であり不条理そのものであるわけで、女優に関しても転落死は不条理以外のなにものでもない。

Jホラーの恐怖というのは、何か派手に死ぬところにあるのではなく、むしろ唐突に平然と死ぬ、そういう現実の不条理の体現みたいなところにあるような気がする。

だから、女優霊の最後だったり、あるいはリング以降のJホラーのサービス精神のようなものというのは、一種のわかりやすさのような気もする。

 

 

セルラー

若きクリス・エバンスが出ているので観たんですが、このころからキャプテンな素養があったのですなぁ。

混線してしまうくだりとか、そもそもセルフォン自体が懐かしいんですけど、2004年にしては90年代な趣がある。

前半のけん引力は中々なんですけど、刑事が絡んでくるあたりからちょっと無理しすぎているような気もしますが。それにしてもすでに「スナッチ」や「トランスポーター」などで大物メインを務めはじめていた時期にもかかわらずどさんぴんな悪役をやるというのは結構好感触。

午後ロー感を強めた「ダイ・ハード」的、というか。

 

オズの魔法使い

授業とか資料とかでちょいちょい観てたことはあるんですが、通しで全部観たのは初めてですた。

豪奢なセットは、豪華な学芸会を観ているようですらある。言ってしまえば「セット」であることに臆面がないのですね、今の目で見ると。

別にそれが悪いというわけではないのです、決して。その異界感を楽しめるかどうかがこの映画のキモなわけで。

ドロシーが扉を開けてオズの世界に入る瞬間の映像。あそこは本当に鳥肌が立つ勢いでした。色あせた世界から千紫万紅の世界へと至る、あの高揚感。

夢みたい、というのはこういうことなのかも。

 

「顔のない天使」

ちょうど伊藤のメル・ギブ論(というかどこが好きかという話)を読んでいて、彼の求めているメルとは真逆のメルが本作で描かれるわけですが、いやこういうのも全然アリだと思いますよ。

チャックが誰かに似てるなぁ、T3のコナー君だ。と思った本当にニック・スタールだった。T3で落ちぶれたコナー君を演じていましたが、どうもウィキを読む限りだと私生活でもドラッグ漬けらしく、実はT3での犬用の薬を飲むくだりとかはガチだったのではと思いなおしたり。

本作ではカルキンにも似た愛嬌のある顔ではあるものの、やはりその転落を予感させるようなアへアへな顔を披露してくれてもいる。

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機能不全、とまではいかないもののやはり平均的な家庭に比べると問題を多く抱えるチャックの家。そこで描かれる姉弟妹のやりとりが「20th century~」に勝るとも劣らないリアリティで笑う。

役者としてはともかく、こういう心温まる(笑)タイプの映画をメルギブが監督しているとは思いませんでした。とはいえ、ラストに至る以外では人間関係や町とマクフライの関わりなど割と苦汁をなめるような展開も続くのですが。

あのロケーションの自然が多い感じも含めて、恐ろしいほどストレートな物語。王道ってこういうものなんだろうなぁ、と思いつつも現代でこういう物語がどこまで通用するのか(回顧以外で)気になるところではある。

原作は読んでないので「トゥー・フェイス」のくだりがオリジナルなのかどうかわかりませぬが、あそこはナイス。

 

「テス」

この時すでにテスを演じたナスターシャ・キンスキーに手を出していたことを考えると、なんだかよこしまなことを考えてしまう。

あるいは、それが罪と知りながらそれでもなお愛を貫こうとする話は彼自身の性的倒錯に通じてしまうように思えてならない。

テスは徹底して被害者であって、クレアとの結婚あたりのいざこざはほとんどクレア自身の個人的な問題だ。まあそういう価値観は今も蔓延しているのだろうけど、最終的にアレックスを殺して彼女が処刑されるにいたることを考えると、彼の葛藤というものが陳腐に映る。それまで画面にはテスの苦境が描かれ続けたわけだし。

赦し赦されるというのは、クレアの苦悩を描いて初めて成立するトレードだと思うんですけど、まあこれ以上長くなっても困るわけで。

結果的にクレアの「あの男が死なないと~」という発言をテスは有言実行してしまうわけですが、徹底してクレアは何もしないんですよね。まあ彼自身のドグマと葛藤していたというのは、彼の親との対立が描かれているからわかるんですけどね。

これを良い映画、と言い切ってしまうと女性に対してあまりにも不健全な気もするのですが、「それでも好きだ!(大林一郎)」な倒錯したメンタリティは嫌いではないのです。

ストーンヘンジの隙間から太陽が昇ってくるカットの徳の在りそうなシーンとか好きですし。

 

 「The EYR アイ」

中華ホラー。

霊能力者の目を移植したら見えるようになっちゃった; (ゝ∀・*); 

という映画。

「インファナルアフェア」でも少し思ったんだけど、ジャンルに限らず安っぽいモーションブラーを使うのはちょっと。

あーでも、黒い影のCGはかなり良かった。いや、発想それ自体はかなりクリシェというか「本当にあった怖い話」とか「答えてチョーだい」とかのシリーズで腐るほど見飽きたーイメージではあるのですが、その質感が黒沢清というか「ALWAYS」の背景に映りこむCGの人みたいで結構怖いです。

 

 「雨あがる」

犬HK、徴収やくざ、偏向報道などなどのそしりを受けながら良心を見せるBSプレミアム

黒澤明が構想してたVerよりも終わり方は本編Verの方が良い。

三沢伊兵衛を演じる寺尾さんが最高。最近は映画にあまり出演しておらずドラマでの活躍が多いためあまり見かけなかったのですが(「キャシャーン」とか「博士の愛した~」以来じゃなかろうか)、やっぱりいいですな。

初めて意識したのはキムタクの「CHANGE」での黒幕だったので「悪い人だなー」という印象があったのですが、この「雨あがる」ではむしろ真逆のキャラクターなんですな。

元々の顔つきはどちらかというと温和な感じなので、こっちの方がストレートといえばストレートな適役ともいえるわけで。

あと三沢たよを演じる宮崎美子の佇まいも、今のクイズおばさんからするとちょっと驚くんですが。一歩引きつつ、しかし揺るがない芯を持ったキャラクターで素晴らしい。

それと辻月丹を演じる仲代達也がですね、一瞬本当に三船かと思うような顔と声の張り方でですね、びっくらしました。いや、普通にしゃべるときはそんなになんですけど、力のこもった発声をするときの声が結構三船に似ているんですよね。

ていうか、その辺はやっぱり狙っているんじゃないかなぁと。

この映画で描かれているような人としての振る舞いというのが今こそ必要なのではないかと。

ことに「慣習」というものに対してディスを放り込んでくるこの映画の在り方、伊兵衛という人間の立ち振る舞いの美徳。

伊兵衛の素晴らしいところは、人の厚意を受け入れることはあっても決して権威に固執したりはしないところです。藩主とのかかわりの中で彼はその人柄と剣の才覚を発揮し、その気質を気に入られ上下の関係ではなく個人と個人の合意によって指南役に任命される。だからこそ慣習や通念的なモラルというものが否定されるのでせう。

賭け試合自体も、本質はそれそのものではなく理由こそが本質にある。あるいはそれを義理人情とか呼んでもいい、ともすれば古臭く青臭い価値観のだろうけれど、ソーシャルジャスティスを振りかざす現代に蔓延する空気を穿つために必要なものなのかもしれない。

ともかく寺尾聰のいい顔が観れるというだけでも観れて良かったどす。

 

 

 

 

 

 

キャプテン・・・ではなくコーポラル・アメリカ(ドイツ血清性)(※ゾンビ)ウィンター・ソルジャー

JJ製作、『ガンズ&ゴールド』(未見)のジュリアス・エイヴァリー、『ハンガーゲーム』や『キャプテン・フィリップス』のビリー・レイと『レヴェナント:蘇りし者』のマーク・L・スミスが脚本の「オーヴァーロード」っちゅー映画を試写会で観てきました。

 

私の場合、特に映画のジャンルとかは選ばずにただで応募できる試写会には作品を確認せず応募して当選して都合が合えば観に行くというスタンスを取っているので、直前までほとんど本作の情報を仕入れてなかったんですね。

で、いざ観始めたらびっくり。

これ、スペース汐留のスクリーンが割と大きめだったり、音響が整ってるからというのもあるのでしょうが、心臓に悪い人が観たらちょっと危ない気がするんですけど、その辺は抽選の際に考慮してるのだろうか。いや、そもそもそういう持病がある人は応募しない(・・・のか?)。

まさかのグロホラー(スプラッターってほどではないかも)でちょっと面食らった。

いやね、やけに女性のしかも十代の観客が多くてびっくりしたんですけど、明らかにターゲット層が違うのでは。そういえば日曜なのに制服着てたJK(本作R15なのでJCはあり得ないはず)のカップルがいましたし、駅でもちょいちょい制服の人がいましたが、今日も学校あるんだろうか。部活にせよそうでないにせよ、大変だなぁ。

 

上映後のトークショーは時間の都合でなくなった。残念。

 

以下あらすじ

 

1944年6月、ヨーロッパを圧政するドイツを駆逐するため、連合国遠征軍によるノルマンディー上陸作戦が開始された直後、第101空挺師団は、ある重要な密命を帯びていた。彼らの任務はドイツ占領下のフランス・シエルブランという村に降り、連合軍の通信を妨害している教会の電波塔を破壊することにあったのだ。だが戦闘機は敵兵からの激しい攻撃をくらい、兵士たちは敵の領土へと散り散りに落下していった—。
地上に降り立った師団のひとり、エド・ボイス二等兵(ジョヴァン・アデポ)と、

作戦の指揮をとるフォード伍長(ワイアット・ラッセル)たちは森でクロエ(マティルド・オリヴィエ)という名の女性と遭遇する。彼女は、ナチスの科学者が“研究”と称し、村の住民たちを教会に送り込んでいるのだ、と言う。
イムリミットまで、残された時間はわずかしかない。教会の内側から塔を破壊するため、ナチスの目をそらし、フォードとボイス、そしてクロエは基地へと進入する。しかし、そこで彼らの前に立ちはだかったのは、今まで見たこともない敵だった。

 

ナチスってほとんど絶対悪ですね、もう。

なんていうか、冒頭の「プライベート・ライアン」の空中版をやりたかったんでしょう?感とかB級映画をビッグバジェットでやっている感じといい、エピゴーネンとまではいいませんがスピルバーグっぽい部分が。メインであろうグロ要素も、あそこまで露骨に露悪ではないにせよスピルバーグリスペクトなのかもしれませぬが。

脱出の長回しとか、JJらしく流行りに敏感というかファッショナブルというか。

それでも抑えるところはしっかり押さえていて、アナモフィックレンズでの撮影や地下のライティングなどは結構いい感じ。

ただまあ、この映画の前後に別の映画を観ていてその印象が未だに強烈に残っているというのがあったりで、純粋に観れてはいないのはある。

 

展開としては「武器人間」が近い。あれをゾンビにした感じ。それと「トロピックサンダー」のような勢いで仲間が死んでいくのはほぼギャグなんですけど、音とドッキリ感覚で驚かしにくるので、若い女性の観客はしょっちゅう驚いていました。

ただ、意外なタイミングでくるとかそういうことではなく、むしろ予想できるタイミングで身構えていてもどうしても生理的な反応としてびっくりしてしまう。

 

しかしこういう映画の割には脚本が意外と破綻していない。いや、細かい部分ではもうちょいどうにかならんですか、という部分はなくもないんですけど、納得できない形ではないというくらいには。

何気に伏線や布石みたいなものも組み込まれているんですけど、いかんせん驚かせにかかりすぎてちょっと疲弊するんですよね、こっちが。

まあウェルメイドを気取らないその無邪気さみたいなものはこの映画にとってプラスにこそ作用すれマイナスには作用しないんですけど、それにしたってグロ・ゴアをやりすぎなきらいはある。

そのやりすぎ感はちょっと深作の「バトルロワイヤル」っぽくもあったり。一応R15ですけどグロ耐性がない人はちょっときついかも。

いやーな痛い表現が多いので。

 

でもまあ、B級映画が好きな人にとってはかなりいい具合に楽しめるとは思う。

 

ところでジュリアス監督、「フラッシュ・ゴードン」のリメイクの監督もするとか。ゴードンのリメイクという発想自体が結構驚きなんですが、どうなんでしょうかね。

 

 

 

ちぐはぐ

 原恵一作品は基本的に原作ありきというわけで、今回も柏葉幸子の児童文学「地下室からのふしぎな旅」をベースにしているらしいのですが、例のごとく未読。

 

以下ストーリー

誕生日の前日−自分に自信がないアカネの目の前で地下室の扉が突然開いた。そこに現れたのは、謎の大錬金術師のヒポクラテスとその弟子の小人のピポ。「私たちの世界を救って欲しいのです!」と必死でアカネに請う2人。「できっこない」と首を振るが、好奇心旺盛で自由奔放な叔母のチィにも押され、アカネが無理やり連れて行かれたのは——骨董屋の地下の扉の先からつながっていた<幸せな色に満ちたワンダーランド>!クッキーが好物のクモやまん丸な羊、巨大な鳥や魚と、アカネたちとそっくりな人達が暮らすその世界は色が失われる危機に瀕していた。ここは、あらゆることを水から命を得ており、その不思議な国の色を守る救世主がアカネだと言われアカネは冒険に巻き込まれていく。一方、命の源の水が湧く井戸を破壊しようとするザン・グたちは着実に計画を進行していた。井戸の前で対峙したザン・グとアカネが下した人生を変える決断とは?一生に一度きりの、スペシャルでワンダーな誕生日に感動の冒険がいま始まる—!

以上ストーリー。

 

原恵一が色彩について特に気にかけていることは、2,3年前の下北沢トリウッドで上映された「カラフル」トークイベントのときに話していたことからもなんとなくわかっていたのですが、今回の「バースデー・ワンダーランド」は今までの現実ベースの世界観がゆえに堅実な色彩設計だったのと打って変わって、ファンタジーな世界観であるがゆえにアッパーな方面に炸裂している。

 

世界観としてはスチームパンクSF×ワットイフ×ファンタジー×RPGを6くらいで割って-0.5SFしたような、というか。

ワットイフだと思ったのは、ソコビエの町のおじいさんとの会話もそうですけど、ナミブ砂漠(マッドマックス怒りのデスロードのあれ)とか、バーミリオン・クリフ国定公園にあるコヨーテ・ビュートのザ・ウェーブをベースにしたてであろう地形だったり、というのがあるから。

それに、SFよりもいわゆるファンタジックな要素の方が強く出てくるから、というのもありましょう。

錬金術と魔法が別扱いというのも中々不可思議ではありますが、科学と自然・魔法と錬金術といったものをどことなく対比的に使っているような節がある。

そういうわかりやすさはあるんだけど、一方で説明的なものはない。

リアルサウンドのインタビューでもこんな風に語っている。

子どもは子どもで感じてくれる何かがあればいいし、大人は大人なりの気づきを得てもらえると嬉しいです。特に今回はお客さんの想像力を信じたいと思っているんです。近年、説明が多い作品がすごく増えている気がしていて。そういうのをなるべくなくして、感じてほしい。無駄な説明は潔く削ぎ落としました。だから見た人の感想がバラバラでも全然構わないと思っているし、お客さんの想像力で埋めてくれればと思っています

 

ただ、それは台詞上で明かされないだけで映像の中では強烈に(しかしさりげなく)示されている。

一番露骨なのは600年前の緑の風の女神について。

ケイトウのムラのポポ村長の家で見かける、緑の風の女神の絵。その服装の色とほくろの位置が冒頭の母親の服装と一致しているし、最後に明かされる現実とワンダーランドの時間の流れの説明の中で、アカネの母親がアカネと同じような年ごろのときにワンダーランドを訪れたということを示している。

たしか、現実の一時間がワンダーランドの一日ということでしたから、ワンダーランドの600年前は現実時間の25年ということになり、かなりそれっぽく一致する。ていうかお母さんの名前「ミドリ」というモロだしっぷり。

そして、アカネもそれをたぶんわかっているからこそ、「誕生日プレゼントありがとう!」というセリフに繋がるのでせう。

それは別として麻生久美子ね。この人の存在が本当に好きなんですよね、個人的に。顔とか声とか佇まいとか。ミドリさんはそんなに出番は多くないけど重要な役どころではあるし、ここに麻生久美子を持ってくるのはやっぱり流石。

まあ声優陣は軒並み良いんですけど、麻生久美子と杏はチィとミドリのキャラクターと相まって本当にツボ。

 

今回、キャラデザ以外にも世界観やら小道具にいたるまでイリヤ・クブシノフが担っているらしいのですが、村長の家の食事シーンで使われるあのテーブルがめちゃくちゃいい。あれすごい機能的じゃないですか。あの段の部分に調味料とか置けるし。

フラスコっぽいグラスとか、あの辺にもちゃんと力を入れて設計してくれるから世界観に説得力を与えてくれますよね。洗うの面倒くさそうですけど。

 

話を戻しまする。

そういう、説明に色を使っているという部分もさることながら、単純に色を楽しむ(って書くとエロの方っぽくも聞こえるけれど)ことができるというのがこの映画の重要な部分だと思う。砂嵐が起こるシーンの大地と空の色使いとか、綺麗ですし。

あとですね、原恵一の映画って結構怖いところがあると思うんですけど、それもやっぱり今思うと色が関係している気がする。ことさら強調しすぎない影とか。

「カラフル」における死神との屋上でのやりとりとか曇った天気の日の鬱々としたものもそうだし、「大人帝国」にしても東京タワーのクライマックスの夕焼けの景色のシーンを観たときになんだか怖くなったのを覚えている。まあ、実際に死を意識させる場所にあの二人が立っているというシチュエーションがもたらすものでもあるとは思うんだけど。

 

そうやって台詞上の説明を廃し映画的手法によって説明をしていること自体はむしろ好ましい部分ではあるのだけれど、しかしそれによって世界を説明してしまっているがゆえに失敗してしまっている部分があるのではないかとも思うわけです。

すべてを説明しようとしているがゆえに(観客がそれを読み取れるかどうかは別にして)マスの方向を向きすぎて、すべてが現実の影に落としこまれているせいでワンダーランドという異「世界」が持ちうる理解を拒む圧倒的な「現実」力みたいなものを欠いている。

それは「ブレイブストーリー」の持つ退屈さに似ている。どことなく尺足らずな感じも含め。

自分が「千と千尋」を想起したのは、やっぱりそういうところにある。寝間着の感じが千尋の私服ぽいところとかは偶然かもしれませんが。

 

IGNの評で

ワンダーランドは確かに美しいものの、先述したレインボーマウンテンの描写のように、異世界の景色は現実にある景色にあまりにも近しいために、時折挟まれるファンタジーな展開とうまく繋がらないのだ。そして異世界のイマジネーションが現実世界のそれに強く依拠しているがゆえに、本作で原作以上にフィーチャーされている「異世界への旅によるアカネの成長」というメインテーマの説得力も減じてしまっている。

たとえば、アカネの世界を見る目が変化したというならば彼女の生きる現実世界の景色に多少の閉塞感があればわかりやすいのだが、正直なところ、冒頭で映し出される、ブランコと花壇で彩られたアカネの家の美術設計はこの作品の中で一二を争うくらいに美しく手が込んでおり、ワンダーランドの美しさと出会って彼女の内面に変化が起こったという事実が、ビジュアル的に今ひとつ理解しがたいのだ。」

という記述がある。

同レビューの中には「一昔前のアニメの科学技術批判」というワードがあるけれど、ザングだけが機械を使っているわけではない。アカネ一行だって鎧ネズミと同じ蒸気機関のくるまを使っている時点で単純な科学技術批判が説得力を持たないことはわかる。

科学技術を批判しているというよりは、トゥーマッチ批判の方が近い。鎧ネズミは明らかに行き過ぎているというのは無駄に(いや廃熱してるのかもしれないけど)動くパーツがあったり、ピンクフラミンゴの塔を突き崩そうとしたり(これが森林伐採のメタファーなのかどうかは知らないけど)と。

ナチュラリストな思想に近い部分は劇中の描写を観ていると思うけど。

 

それと「現実世界のそれに強く依拠している~」云々というのは、少し違う気がする。だって、そもそもすべてのフィクションは現実から生じるパッチワークで、それをどう組み合わせるかというものでしょうし。この映画における問題は、その世界観を現実の代替・メタファーとして用いているかそうでないか、そして「バースデー・ワンダーランド」は前者を選んでしまったという部分なんじゃないかと思うんですよね。

「バースデー・ワンダーランド」の劇中で、ワンダーランドというものが「科学の発達が停滞した世界(このへんの会話が科学批判的、ということなのでしょう)」であることが示されたり、チィの言葉から「多元世界ってやつ?」のようなセリフがありワンダーランドへの道が蜘蛛の糸でできた橋のような通路であったり出口が分岐していたりと、まったく異なる世界ではなくワンダーランドはあくまで現実のいまここと異なる地続きの可能性でしかないと思わされる。

 

 

 

すごく簡素に言えば、なんていうかこう、「ハウル~」の方法で抒情を描こうとして盛大に歯車がすっ飛んでいったというか。「ハウル」は最初から説明など一切を拒むただ厳然とある出来事をそれそのものとして、その世界の所与としてあるから説得力があった。

しかし「バースデー・ワンダーランド」は抒情としての物語でありながら「ハウル」の叙事としての方法論を取ってしまったがために、決定的にちぐはぐになってしまったのではないか。

 

 

 

 

ドロン・カッター

本当は4月のまとめの方に入れようと思ったのですが、思ったより熱が入ったので単独でポスト。

 

「暗黒街のふたり」

えー傑作でしょう、これ。

描かれるものがあまりにも現代的テーマ性を帯びていて(少なくとも今の日本では)、ちょっと怖くなる。

本編中だけで言えば「罪を犯した者への出所後の社会(規範)――体制側からの風当たりの強さ」を、当事者の生活をリリカルに描きつつ、その日常を浸食してくる様子を批判的に映しとっているのですが、森達也のAシリーズに直結する問題を孕んでいる。

それは冒頭のジャン・ギャバンのモノローグがすべてを物語っている。

司法の場においてリボフスカ演じる女性弁護士の答弁に対し裁判官は落書きし陪審員は居眠りしているというあたりは、もちろんある程度のカリカチュアライズされているのだろうけれどあまりにもひどい。これ、ムービーウォーカーのあらすじの書き方から察するにフェミニズム的な視点も入っているんでしょうか。

そんなわけで司法の空虚化という、森達也想田和弘がオウムの死刑にあたって主張してきたことに通じるものが描かれるわけですが、ラストに至るまでの作劇がまた無慈悲なんですね。

出所した後のアラン・ドロンの生活は元妻が死んだ後(このカークラッシュまでの一連のシークエンスも好きなんですけど)の右肩上がりに調子が上がっていく様が妙に抒情的なモンタージュで描かれていてちょっと半笑いなるくらいなんですけど、だからこそゴワトロー警部の執拗なまでの監視に対する憤りも共有できるし、それまでがエモーショナルに描かれてきたがゆえにラストのあまりにもとりつくしまのないカットとの落差に愕然と恐怖するんでしょう。

どこまでが実際のプロセスなのかわからないですけど、ワイシャツの襟を切り取ったりなんか飲ませたりするシーンが完全にカウントダウンで失禁しそうになる。

それに加えてアラン・ドロンの憔悴した佇まいも凄まじいく、そこから間を置かずに処刑台に連れていかれ、断頭直前にJギャバンとドロンの双眸のカットが入るのももう色々とやばい(ボキャ貧)。

で、断頭。あのカットが湛える無機的な質感と無情なスピーディさは、あそこだけを抜き出せば北野映画以上に渇いた人の死の描写だと思う。

ダンサー・イン・ザ・ダーク」のそれにも似た感覚ではあるんですけど、しかしあれはビョークの歌という救いがあるので似て非なるものではあるような気もする。

 

ウィキによると81年までフランスはギロチンによる死刑を行っていた(!?)らしいので、この映画が作られた73年はまだ現役だったということになる。あのリアリティは、当事者の放つ時代性からくるものなのかもしれない。

で、これが全然他人事じゃないのは、日本もいまだに処刑制度を、しかも絞首刑というものを採用しているところ。はっきり言ってこの映画で描かれることと大差ないでしょう、今の日本の司法制度と死刑制度は。

 

この映画を観た後では「それでも人を殺すのは悪いことだよね」という、巷間にはびこる言説に対して「お前それジーノの前でも言えんの?」という義憤にかられる。

そういう理性なき正義感というものが危険なのだと、今の日本で訴えなければならないのです。無論、それは自分にも言えることでせうが。

 

余談ですが、本編とは全く関係ないとこでツボったこれ。

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ホームカミングのYeah Spider-Man Guyに通じる笑いを感じる

異界を現出させる方法とテクノロジーへの反発

まったくノーマークの映画だったのですが、何かの拍子に予告編を目にしまして、その時点で「あーこれやばそう。観なきゃ」と思いuplink吉祥寺へ。

uplink系列は渋谷とか吉祥寺とか、オサレで人の多いところにあったり(渋谷の方はちょっと外れるけど)不必要に内装がオサレだったりするので、劇場までの道程とか劇場内での自分の場違い感とかを意識してしまって個人的に居心地が悪かったりするのですが。

いや、そういう極めて個人的な私情を除けばいい場所なんですよ。展示とか空間も凝ってますし。

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 (余談ですが、この撮影のあとに展示が撤去されていた)

あとはシネコンでは絶対知り得ないような映画の情報を仕入れることができるというだけでも、こういうところに来る価値はありますし。

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前置きはこの辺にして「阿吽」について書いていこうと思います。

 

20XX年。

都内大手電力会社に勤める男は ある晩会社にかかってきた電話をとる。

電話口からは「ひとごろし」という声がした。 幻聴か、現実か。 神経衰弱に陥った男の日常が徐々に揺らぎ始める。 救いを求めて彷徨い歩く男は、 やがて得体の知れない巨大な影を見る。

その正体は何なのか。 男の不安が頂点に達した時、 ついに“魔”が都市を覆い始める――

 

というのが公式サイトのストーリーなわけですが、まあここだけだと(サイコ)サスペンス(ホラー)やらミステリーやら、そっち方面なのかとも思えるわけですが、ホラーと言い切ってしまうとそれはそれで語弊がある気が。

はっきり言えば、よくわからない。観終わった後に振り返ってみても、やっぱり「あのシーンってどういう意味だったん?」と思うようなシーンもあったりで。

パンフレットの座談会(重要なワードや指摘が出てくるのでぜひ買うことをお勧めします。薄いですが200円ですし)で千浦さんはホラーだと感じたようで、もちろん私自身も似たような印象を受けたのですが、それはむしろシーン単位での印象で、全体を貫く印象としては少し趣が異なる。

楫野監督も「映画全体としてホラーを意識したわけではありません」と述べていますし。ただ、観る側の印象がホラーというのは確かにあると思います。

それでもものっそい強引に枠にねじ込むのであれば、個の視点を欠いた怪奇風ディザスタームービーというか。自分で書いててよくわからないんですが。

ただ、主観を廃しているというのは意図的なもののようで、座談会の中でこんなやりとりがある。

 

田村千穂「楫野監督の映画は、とても客観的ですね。後略」

楫野「映画をつくる際にいつも心掛けているのは、何かに肩入れするようなことはしないということです。平等というか……。」

千浦「平等をやると、残酷になるのです。」

楫野「人間の内面は描けない、映画では。けれども人間を描く、それはどういうことなのか。等しく撮るしかない。寄っても離れてもない面は撮れないという思いはあります。」

 

だから主人公(って書き方もすごい違和感がある)の岩田寛治の内的な部分はまったく描かれない。そのスタイルはあたかも想田監督の観察映画然とすらしているし、自分がイーストウッドに感じている観照的態度にも通じる。

起点として彼にかかってくる奇妙な電話や、ネットの書き込みを読んでノイローゼ気味になっていく描写はされている。彼が急に泣き出してしまう演出や街を彷徨う姿に観客は彼のメンタルを慮ることはできよう。

けれど、どのカットにおいても隔絶した一線を引いている。決して画面を揺らしたりドアップで寄っていったりはしない。「ただそうあるものをそう切り取る」と言わんばかりに。 だからこそ、彼が陰に呑み込まれていく過程と呑み込まれた後の行動は、観客の理解を拒むような突飛さがあるように見えるのでせう。

無論、再三にわたって述べていることですが完全な客観というものはありえない。寛治の恋人である志帆が別れた後に荷物を取りに来る場面は監督の体験をベースにしているという発言からもわかるように、そこにはどうしようもなく主観が立ちあらわれてくる。

私たちは主観を通してしか現実を認識できないのだから、どれだけ客観的に振舞おうと・演出しようとそこには主観による選択が発生する。

それを意識したうえでなのかそうでないのかはわからないけれど、スタッフ紹介の項目を読むに、それを分かった上でなお映画の持つ「無慈悲にも(そして無慈悲な)」そのままの「現実」を切り取りうる可能性を追求しているのかもしれない。

 

本作には、直接表現されることはないけれど、原発やら首都直下型地震やらゴジラやら、そして何より寛治が磨滅させられるという事実それ自体に対する、一種の社会問題的な視座はあるでしょう。

第一稿ではオリンピックを標的にしていたらしいですし、少なくとも原発に関しては監督本人がテーマとして掲げているし千浦さんの「『阿吽』の主人公は、いうならば、人間サイズのゴジラですよね。ただし放射能ではなく、人の精神のネガティブな力で怪物化して、加害者側にまわって暴れるという。」発言に対して(ネガティブな~の部分への回答はせず)「はい、ゴジラはけっこう意識していました。」と答えている。もちろん、ほかにも「吸血鬼」「ノスフェラトゥ」など監督自身が意識したと言及(認めた)したものはあるのだけれど、「ゴジラ」はかなり直接的なテーマを帯びているだろう。

もっとも、それは台詞上のものでしかない。

ゴジラという単語が劇中の女性キャラクター(志帆とその友人)の会話の中で出てくるのだけれど、それがもうゴジラを詳しくは知らない世間一般の通り一遍な会話なんですよね(ゴジラの身長は作品によって違うんだよ!)。彼女たちはゴジラを知っていても、その仔細は知らないことがこの会話の中で示される。

また、それと似たようなものとして地震の描写が何回か挿入される。すべての起点となる地震の描写(ここで寛治だけほとんど揺れていない気がするのは、彼が震源だからだろうか)からラジオによる放送、そしてまた女性キャラクターの「首都直下型地震こわいですよねー」という浮薄すぎる会話。

ここまでのことを考えれば、ゴジラ原発の隠喩としてくみ取ることは決して無茶ではないだろうし、そこに地震が結び付けばどうしたって「3.11」を想起せざるを得ない。本作にコメントを寄せる人たちの中でそれを意識したものがいくつもあるのは無理からぬ話だ。

そうなると、渚に映る風力発電の風車。あれは3.11以後の福島の海辺に建てられた原発の代替物としての風車なのだろうか、とも思ってしまう。本当のところはわからないけれど、あの渚では寛治から早苗に影(監督の言うところの「光」や「希望」なのでしょうが)の継承が行われたりするし、ある種のグラウンド・ゼロな空間性を見出してしまう。

この映画の不思議なところは、しかしそのような問題意識は映像の上では表現されないところにある。もしかすると、それが監督の言う「客観的」なのかもしれない。

 

ほかにも「阿吽」において重要なファクターがある。影。

最も印象的な影はもちろん寛治が呑み込まれていく大きな影とラストの陰。影に至るまでの過程で、神経衰弱に陥った彼はほとんど統合失調症的な挙動を繰り返していたのですが、監督はこの仕草を「人にとって大切な、希望であったり光であったり、そうしたものをつかまえようとしているのです」と表現している。続けて「現代においてはそういう気持ち――真実を追い求めるような――が、逆に人間を鬼にしてしまうのではないかと。」とまで発言している。まー平均的な凡夫から言わせてもらえばあれは虫をつかまえようとしているようにしか見えませんが(笑)。

希望を求めた末に鬼胎転じて鬼となる、というのはなんとも皮肉なことではありますが、現実的な視座を射程にいれている本作に何もまどマギ的な観念を導入する必要はないでしょう。

この希望というものを「人々が望む(二元論的な)正義」といったものに置き換えればかなり現代的に納得のいくものになる。

それを希求する流れが速く大きくなった先があの怪物であり、現代そのものなのではないか。森達也が「A3」で述べたブラックホールのようなものが、この怪物なのではないか。

その意味では、3.11より以前からこの流れは形成されていたのかもしれない。大きな分水嶺として3.11があっただけで。

 

 あと人を殺す描写がエグ怖い。最初の人殺しシーンの寛治の飛び出し方と殺しきるまでの過程を足首だけに託してワンカットで見せたり(そのあとにまた部屋から出てくるのが怖い)、あるいはその結果だけを淡々と見せていったり、殺人の予兆と結果だけを見せたり。扉の持つ空間の断絶性というか、「こっち」と「むこう」を感じさせる使い方で久々にぞくっとするものがありました。

また予告編にもあった、あのコンテナ?が積まれた人気のない通りで顔面を殴打しまくるシーンを遠目から撮っていたかと思えば、ぐちゃぐちゃになった男の顔が割と臆面もなく映されたりするその緩急。

逆に殺されない人がいる、というのも現実の無慈悲さというか不条理みたいなものを逆説的にあぶり出していてすごい好きなんですよね。おっさんが車を奪われるシーン。

 

 

上映後のトークショーで、なぜ80ミリなのかについてゲスト2名(中原昌也・田村千穂)から訊ねられていて、監督は「これまでデジタルだったから、フィルムをやってみたかった」という極めて原初的な「やってみたいからやってみた」という理由以外はあまり述べていなかったのですが、座談会でその辺はしっかりと言及されていました(これに対する千浦さんの言い換えは、ロメロの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」にも言えることのような)。

その一つとして「吸血鬼」「ノスフェラトゥ」の、あの死の雰囲気を出したいという理由があったらしい。

自分の無知を曝すのは恥ずかしいのですが、「吸血鬼」も「ノスフェラトゥ」も名前だけで実際に観たことは一度もないんで、雰囲気がどうというのは比較できない。

 

ただ、私なりに解釈するなら、死の雰囲気=異界の表現にあるのではないかと思うのです。

それはフィルムだけでなく、ショットやカットにも言える。会話シーンでバストサイズで人物を切り取っていたり、あまりカットを割らずにシーンを持続させたり、という撮り方自体も古典的な映画を想起する。

ここで見えてくるのは、現代(まあ設定としては近未来とも近過去とも捉えられるのですが、すくなくとも2000年代ではある)の日本の都市。現代という時代性を、古き手法で切り取るということで生じる異界感。それこそがこの映画の映しだしたものなのではないかと思うわけです。

現代的な風景、現代的な人物(その服装なども含め)、それら「いま、ここ」にある現実をアナクロな80ミリというレンズを通すことで「現代(いま)を過去で切り取る」という時代性の齟齬の、その気味悪さを現出させたかったんじゃないかなーと思う。

実際、観ている間、常に違和感があった。気色悪くすらあった。

ただ80ミリで撮っているだけなのに、ものすごく気持ち悪い。それは今を撮っているからだろう。しかし、なぜこれを今まで誰もやってこなかったんだろうか? 自分の中で生じたその疑問自体が、一種の現代という時代性(とそれに対する批判意識)を帯びているような気もする。

 

そういう意味で、この映画は現代という時代を顧みているのかもしれない。

 

 それと最後に、監督は「阿吽」というタイトルには「とても大きな意味があるんです」と言っているけれど、どういう意味があるのかまでは述べられていなかった。

で、パンフの裏表紙をみるとこんな画像がありまして。

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まあ、完全に深読みなんですけど(映画本編の外だしね)、寛治が「希望をつかまえようとする」シーンの画に「阿」、早苗がその希望を感染させられたシーンの画に「吽」の文字がプリントされているのは、やっぱりそういう意味なのかなぁ、と思ったり。

いや、ないか。