dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

玩具物語EP4:ウッディの解放

そういうわけでここ最近やたらと続編製作意欲を見せ始めたディズニー・ピクサーの新作を観てきましたよ。

トイ・ストーリー4」を。

 

 

トイ・ストーリーにはそんなに思い入れがあるわけではない。これまでのシリーズにしても、一作たりとも劇場で観てないし。

もとからそんなにお熱だったわけではないことに加え、少し前に一部界隈で盛り上がったウッディ玩具にまつわるエトセトラのせいで、ウッディというキャラクターに「変態」というラベリングが私の中で施されてしまい、トイ・ストーリーという作品とは別の次元で半笑いになってしまっていたりもしたのですが。

ともかく、キャラクターは知っているけどトイ・ストーリーというコンテンツにはそれほど関心がなかった、という極めて一般庶民的感覚。 
3,4年前に地上波で放送された「トイ・ストーリー3」を観て「うわ、ナニコレ超面白い」となり、「トイ・ストーリー4」がアナウンスされたので「あの傑作の続編なら観てみようかな」と思った次第でございます。とはいえ、3以外はほとんど内容を覚えていない。ついでに言えば3についても細かいところは覚えていない、という始末なんですけど。

なので、ほぼ「トイ・ストーリー4」だけの印象で書きますので、盛大な間違いを犯しているかもだぜ(なっち)。
 

そういう軽い気持ちではあったんですけど、私のような軽薄な者も熱心なファンにも少なからず共通する認識はあったと思う。

「え、トイ・ストーリー3の続編やるの・・・? だって、あれだけ綺麗にシリーズを完結させたんだよ?」という。

私のような一般観客は、というか普段から熱心にトイ・ストーリーに思いをはせているわけではない一般観客こそが、むしろそう思っていたと思う。

けれど、今回「トイ・ストーリー4」を観て気づかされた。もしかしたらトイ・ストーリークラスタの間では昔から言われていたのかもしれないけれど、少なくとも私は今回の「トイ・ストーリー4」を観てから気づかされた。

そう。正にタイトルの通り、トイ・ストーリーというのは「『トイ』・『ストーリー』」なのだと。まかり間違っても、アンディのストーリーでもなければボニーのストーリーでもないのだと。
これは、アンディら玩具こそが主体の物語なのでせう。
そこに「おぉ」となる反面、後述しますが、だからこその落胆もあったりするんですよね。結局、描かれていることは人形の皮を被った人間の話という、至極真っ当なメタファーに回収されてしまうので。
 

それに加えて、ちょろっとネット上の感想を観て「自立」というワードが出てきたりするのを眼にして、少し自分との齟齬を感じたのもそのあたりにあるのかも。(後述するような私の考えと同じような考えを持つ人もいましたけんど)
もちろん、そういうメタファーを含んでいるのだろうけれど、私からすればそれは些か人間側の論理に引き寄せすぎているような、傲慢さのようにも受け取れてしまうし、あまりに物語が矮小化されはしないか、と思うのです。
だって、ウッディたち玩具は人間じゃないし、人間や他の動物のように親という概念は知っていても彼らは持ちえない概念なわけですし。

いや、自由とかアイデンティティとか、そういう極めてあいまいで普遍的なワードとして人間と玩具をくくることはできるのでしょうし、それは作り手の意図でもあったのだろうけど。

未だに玩具で戯れる私は、そんな風に思ってしまう。まあ、すでに述べたようにトイ・ストーリーシリーズは3を除いてほとんど記憶がないので、もしかすると1と2でそういう描かれ方をしたのだろうけど。

ただやっぱり、私はそれよりも自立とか巣立ちとか空の巣症候群とか、そういう話というよりも、もっとこう「玩具」という、生物とは異なりつつも魂を持った者たちの「自由(意思)」についての、もっと言えばレゾンデートルについての話だと思うわけで、そこに人間を重ね合わせてしまうこことに抵抗を感じなくもなくもない。
いや私がぎゃーぎゃー言っても監督がはっきり「エンプティ・ネスト」って明言してたんですけどね。レゾンデートルに関しては少なからず作り手の意図と一致している部分はあるでしょうけど、でもやっぱりそれについても人間のメタファーでしかないのが辛いところ。

しかしやはり、既述のような難癖を別にしても、結局のところ自由意思なる概念が脳みの電気信号でしかない以上、有機物ではない無機物であるところの玩具の自由意思ひいては魂みたいなものを並列してしまうことには安易さを感じてしまう。
かといってわかりやすい理由付け(魔術とかオーバーテクノロジーとか)が欲しいかというとそういうわけでもないし、ていうかその辺は突き詰めてしまうと世界観が崩壊してしまうので語り得ない場所ではあるんでしょうけど。

これって、まあ程度の問題ではあるけど擬人化しただけであって(それでも玩具が意思を持って動くことのアクションは視覚的に面白いので映画的にはよろしいのですが)、玩具の意義とか、ひいては玩具のもたらす「遊び」そのものについての語り口がないのが、悶々とする原因なのかも。つまり私の悪癖である「ないものねだり」です。

生命ではない。魂はあるけど。そんな言い回しになるけど、そういう考察を深めるタイプではありません、というのが口惜しい。何度も書きますけど、これは作品の瑕疵なんかではまったくなくて、私個人のないものねだりなんですけど。


 えーここいらで切り上げないと本編に辿り着かないので、この辺はまあ気になる書籍とかもあるのでそこらへんでセルフカバーすることにします。

それになんだかんだ言って、面白いからいいんですけど。

 
で、本題。
今回の物語が動き出すの導入としてあるイベントがボニーの家族旅行なんですけど、同時にウッディにとってはもっと大きな、旅の話になってるんですよね。

ボニーという人間にとっては旅行であっても(しかし、新しいコミュニティに入るための、一種通過儀礼的な予感を孕むものではある)、ウッディのように人間よりもずっと小さな人形にとっては、世界はより大きく見える。だから、ボニーにとっての旅行も、相対的に世界が拡大されるウッディにとっては、それは旅と呼んで差し支えないものになる。実際、ウッディは大きな変化を遂げる。

で、それに説得力を持たせるのはウッディたちの視点で描かれる世界。
思えば、ピクサーは世界を異化する視点から始まっていた。ピクサーの始まりでありまさに「トイ・ストーリー4」のオリジンでもある「トイ・ストーリー」もそうだし、2作目の「バグズ・ライフ」もそうだった。
その視点自体は「ミクロの決死圏」なり「縮みゆく男」なり昔からある古典的なネタだけれど、それをCGによる最新鋭のテクノロジーでもってそれまでは技術的に不可能だったリアリティを再現したことにピクサーの偉業というのはあるわけで。もちろん、今の技術に比べれば見劣りするものはあるかもしれないけど、すでにこの段階から「トイ・ストーリー4」の種は撒かれていたとも言える。
 
そんなウッディたちにとって拡大された世界で主に描出されるのは、移動遊園地という屋外空間。
これまでのシリーズでも、もちろん屋外は描かれてきた(はず)。でも、基本的にはアンディの部屋だったり、ゲームセンター(超うろ覚え)だったりと、ともかく物事が躍動するのはほとんどが屋内だった(はず)。

何故なら玩具とは往々にして(特にウッディたちのような人形に類する玩具は)屋内で遊ばれるものだし、屋内で邂逅するものだから。

だからこそ、今回は『外』だったのでしょう。
冒頭、屋外でのラジコン救出の話が展開されるんですけど、ここでいきなり屋外=「外」の世界への恐怖をあおるかのように雷が鳴り雨が囂々に降っていて、ウッディの不安を予感として掻き立てつつ、今回のメインであるところのボーとの離別も描かれる。あ、構想の順序としては逆かな。
 

ちょっと本筋からズレるんですけど、気になったことが。
ボーが陶器製(ポリストーン?)なのに滅茶苦茶動くということについて。
他のキャラは素材や構造に合わせた可動域しかないのに(それゆえに楽しい)、彼女(の一味)はそういう法則性を無視してやたら動く。ずいぶんテカった表現がされるていたり、歩く音がちょっと他に比べて高いから素材が気になってはいたんですけど、腕が折れるところでようやく材質に気付き、その材質であんなアクションしてたんですかい、と気になったんですよね。
そもそもアレってオモチャなの?と化色々な疑問も無きにしも非ずな一方で、ボーを筆頭とするスカンク号組の、明らかに可動域や素材に極端な制限が加わりそうなのに、やたらと動く様子を見るにつけ、私はフェミニズム的な視点を見出した。
スカンク号組のキャラクターって全員、性別が女性(雌)ですよね。これって、素材や構造といった自分の意思の介在しない外界からの所与の制約に屈服することのない存在として描かれているのでは。その制約を男尊女卑の社会構造として、それによって不当に貶められ続けてきた女性の軛の破壊の表象として、彼女たちがやたらと動き回っていることの意味合いを導けるのでは、と。

 
本筋にもどりましょう。
過去作でも、もちろん屋外に出ることはあった。と思う。けれど、それはもっぱら屋内の延長としての庭だったり、屋内の場所から場所へ移動する過程としての「道」でしかなかったように思える。

だけども、今回はセカンド・チャンス(意味深)というアンティークショップなる屋内と、上述の移動遊園地という空の下に晒された屋外空間で話は展開される。

この移動遊園地というのがなんとも言い難い塩梅で、明確に囲いこまれた箱庭的空間でありながら、しかしあらゆる場所へと訪れる移動性を兼ね備えているという屋内・屋外の両義性を保持している空間にも見える。これの意味するところは、最後に触れますけど、多分それこそ多様性の担保みたいなことなのではないかと思います。

もちろん、ここでいう屋内は新しい世界としての外界であり、その新世界を知るグルとしてボーが登場し、彼女らの助けと野良玩具という新たな価値観の提示によってウッディは己の(というか玩具の)至上命題だと考えていた持ち主に尽くすという価値観を揺さぶられることになる。

ここで面白いのは、ウッディはボーを助けるつもりでセカンド・チャンスに入ったのに、その実は彼こそが彼女に助けられているという事実。それはフォーキーのこともそうですし、既存の価値観に拘泥するがあまりボニーからの愛情を受け取れない空しさに対する新しい価値観の提示による救い、という意味でも様々な助けになってくれています。

これ何気ないので気づきにくいですけど、ジェンダーロール的な逆転が起きているんですね、実は。従来の女性は助けるべき・助けられるべき無力なプリンセスという謬見を、展開的に極めてシームレスにウッディとボーの立場を逆転させることでイヤミなく描いているんでげす。

ウッディがボーを助けようとしたこと自体は仲間意識への思いやりではあるのだけれど、そこにジェンダーの視点を取り込むことで、それ自体が一種男性が無意識のうちに刷り込まれている誤ったレディ・ファースト精神みたいなものへの一考をくわえさせているようにも捉えられる。

現に、ウッディはボーの現在の暮らしぶりを知らないまま「助けなきゃいけない」と思って先走ってしまったわけで、理解よりまず先に行動に出てしまっていますし。そのせいでフォーキーが囚われてしまうわけで。

まあ観ている間はそういうことを考えていたわけじゃなく、書いているうちにシーンの描かれ方を思い出して解釈を加えただけなんですけど。

 
多分、1~3までは上で書いたような屋内=箱庭的な優しい世界での話が展開されて、今回ウッディはそこから逸脱して外の世界で生きることを選択したので、過去作を否定しているというように受けとって怒っている人がいるんでしょう。なんとなく、怒っている人の反応から察するに。

確かに、これまで描かれたテーゼのアンチになっているのでしょう、過去作全然覚えてないのであくまで憶測ですけど。

だども、ウッディではないもう一体のキャラクターを追っていけば、「トイ・ストーリー4」が過去の3作を全否定するものではないことはわかる。
言うまでもなく、そのキャラクターというのはバズ。だって、一緒に屋外=外の世界を冒険したもう一人の主人公であるバズは、それでもなおボニーの元に留まったんですよ。
それはバズがウッディと違ってボニーに愛されていたからだ、とも言えるわけですけど、別にそれは反論にはなっていないですよね、普通に考えて。

だって、そもそもがこれは今の状態に行き詰まっていたウッディが、思いがけず新しい世界(=価値観とか場所とか仲間とかとかとか)を知ることになるという話ですもの。
ていうか、自分にとって居心地のいい場所があればそちらに行くでしょう、普通。
あまりそういうものと結び付けるのも安直なのでどうかと思うんですけど、日本の観客が4に関して否定的なのと過労死とかの問題とかってすごいリンクする気がするんですよね。日本人の、よく言えば忠義、悪く言えば奴隷根性みたいな、個々の考えよりも既存のコミュニティへの所属(ていうか隷属)と調和(というか逸脱せず右に倣え精神)を優先させようとするところが。

そうやって、ウッディと同じ旅をしたバズが、それでもなおボニーの元に留まったことで、持ち主に遊ばれること、というウッディがこれまで抱いていた価値観(それは、とりもなおさず1~3で描かれたことでしょう)である玩具の幸福を否定せずに、肯定したわけでもあるわけですよ。

既存の価値観に一度疑義を呈し、新たな価値観 と対置させ、それでもなお取捨選択ではなく双方を包含する。

あうふへーべんしますた、ってな具合に落とし込んだのが「トイ・ストーリー4」なのだと思いましたまる

まあ、個人的な見解としてはフォーキー♂とフォーキー♀は遠からずゴミ箱に送られることになると思いますが。子どもって、結構その辺はシビアですし、飽きたらポイですから、ええ。

 

本筋に関しては大体そんな感じです。特にトイストーリーに思い入れはないですけど、面白かったです。


で、以下は本題とは別で思ったこと。

 

・ ブルズアイを正面からとらえたカットがオチョナンさんみたいで怖い。
・3が抜けた青空で終わったのに対して夜の月で終わる、というのもなんだか対比的というか、一筋縄ではいかないものを感じる。
・ボニーを心配するがあまり、思いがけず外の世界に旅をすることになる、というボニーへの忠誠というウッディのキャラクターを生かした物語の導入になっていて感嘆。
ミクロマンサイズくらいのG.Iジョーっぽい3人衆のハイタッチ空振りネタを本編の外のラストで回収してくる笑わせ方など、最後までサービス精神たっぷりでたいへんよろしい。
・もしかしたら過去作で描かれてるのかもしれませんけど、ウッディとかバズって大量生産の商品? だとしたらアイデンティティ・クライシスに陥ったりしないのだろうか、と気になったり。というのもボーをアンディ家にあったボーであると看破したことが不思議だったんで、大量生産されたものだったら、一見しただけじゃ普通わからないよなーと思ったので。

・ギャビーのラストについて。
いきなりあんな人形があんな姿勢で座ってたら私は恐怖で失禁する自信があるんですけど、迷子だったあの女の子は大丈夫? 特にギャビーって結構ホラーテイストな趣ですし。幼いころからメリーさんとか日本人形とかで調教されたせいかもしれませんが。

・吹き替えのプログラム数が圧倒的で吹き替えでしか観てないのですが、ゲスト声優のチョコプラが普通に上手でびっくり。特にダッキーだかバニーだか忘れましたが大きいウサギ?の方の声は、加瀬さんぽい声質でありながらコミカルな感じでよござんした。
あと戸田さんはまあ、ジョディ・フォスターとかシガニー・ウィーバーとか(大体テレビ放送版なんですけど、わたくしは金ローやら午後ローやらで吹き替え調教されていますので)やってますので、毅然とした芯のある女性の演技はぴか一なんですけど、今回はもうちょっと優しさもあるキャラなんで、そこもイヤミなくハマっていたのが素晴らしかったです。ギャビーの新木優子さんも、あのキャラの哀愁が声質とマッチしててよかったどす。
原語版のデュークがキアヌというのが気になるのですが、いかんせん字幕版のプログラム数が極端に少ないのでタイミングががが。

・追悼されてたアニメーターのアダム・バークさん、「アイアン・ジャイアント」にも参加してたんですねーと後から惜しむ。まだ40代だったのに残念。


とまあこんな感じで。

美しき兄弟愛(ただし当人たちにのみ理解可能)

 

ずっと気になってた(といってもここ数ヶ月だけど)「カニバ/パリ人肉事件38年目の真実」を観てきましたですよ。

 

アルバトロスでもトランスフォーマーでも配給できなかったらしい、というくらいなのですが、まあわからないでもない。
東京ですら1館でしか上映していないという小規模公開で一日一回の上映というキツイ上映プログラムになっております。


映画とは別でロフト?でトークショーもあって、私は現地には行けず生放送のタイムシフトで観たんですが、和やかなムードの中でまさかの流血沙汰があったり、こちらも色々と衝撃でした。
ライブ配信の映像にボカしがかかって、まさか映画とのリンクをするという「奇跡」まで起こる。まあ流血というのは、佐川純さんが映画で見せた「アレ」のその先をさらに開花させたせいであって……ともかく色々と凄まじいことになっていました。

このトークショーでは色々と映画では知れない情報が登壇者の口から飛び出すのですが、中でも根本敬さんの、佐川一政のあの姿はあの時期だからこそ撮影できたものであり、あの奇跡的なハッピーエンドも、今では無理なのだろうということも暗に言及されていたり、ほかにも佐川純さんが事件当時のことを話すときに涙ながらに嗚咽したりせき込んだりと感情の発露が観られたりする、貴重な場面ばかりでございました。

とまあトークショーの話を延々と垂れ流すのも面白いのですが、それだけでもかなり量を使うことになってしまうので早々に本編について書いていきましょう。

 
 これ、海外ではドキュメンタリー映画の賞を獲得していたりするのでドキュメンタリー映画として観るのが正統なのかもしれませんが、しかし画面に現出する(柳下氏が言うところの)異形さはほとんど劇映画的なフィクションの領域にも踏みこんでいるような気がする。私が寡聞なだけといえばそれまでのことではありますが。
けれど同時に、その異形さが明確に映し出される瞬間はやはり劇映画(=作りもの)を観る時に担保される観る者の理性的なセーフティを、ドキュメンタリーでありまさにカメラの前で嘘偽りなく行われているがゆえに容易に超越してくる。

この映画は、二人プラス一人の顔以外を映したりはしない。これは比喩とか誇張ではなく、始まった瞬間から終わりの瞬間まで登場人物の顔のドアップだけしか映し出さない。佐川兄弟の幼少期のホームビデオや佐川一政が出演したアダルトビデオの映像がインサートされたりはするのだけれど(そして、それのみがほぼほぼ私たちがシンパシーを感じることのできる僅かなものである)、ほとんどは佐川兄弟の顔面のクローズアップのみだ。

ところがぎっちょんてれすくてん、この映画の特徴的なところは、顔のドアップだけではない。むしろ、その顔にフォーカスが合わないことにこそある。
それが意味するものとは。端的に言って、理解不能性ではないだろうか。あるいはその不能性から逆算的に導かれる些少な理解可能性というか。

多分、監督は最初から佐川兄弟を理解しようとなんてしていないのではないか。じゃなきゃあんなにソフトフォーカスしっぱなしにならない。

もちろん実際のところはわからない。当初はその正体をあばこうとして、その過程で方向転換せざるを得なくなったのかもしれない。理解の外にあると。それでも、わからないなりにもときたま監督が解釈を加えようとしているのではないかと思う場面がある。

たとえば、佐川一政が何かを「口にする」場面がいくつかある。ほとんど常時ソフトフォーカスなこの映画にあっても、その瞬間はどれも恣意的なソフトフォーカスでボカされる。そして、最初の何かを食したシーンの後に佐川一政の唇を観ると黒ずんだものが付着していることがわかる。

フォーカスがかかっているとはいえ、会話などからチョコレートを食べたことやお茶を飲んでいるということはわかる。しかし、フォーカスが合わないことによって誰もが意識することなく生きるために行う「食す」という行為が、まるで観てはいけない不可解なもののように切り取られる。

人間はおろか動物であればだれもが生存のために平然と行う営みであり、それ自体は理解可能なもであるにもかかわらず、「佐川一政が」「食す」となると不穏な意味が付与される。もちろん、その理由は明白で、だからこそ監督はこのように描いたに違いない。

 
それでも、時にカメラがそうするように観客が佐川に近接する瞬間はある。
兄弟愛を捉えた場面、佐川純が「まんがサガワさん」(佐川一政が自ら事件当初のことを描いた漫画)について倫理(にもとること)を語る場面がそうだ。

そこに映し出されるのは我々にも共感可能なものだ。しかし、カメラが、佐川に寄り添い観ている側が彼(ら)を解きほぐそうとすると、近づきすぎるがゆえにそのフォーカスはテクスチャを、顔の表象を失い抽象的な絵画然としたものに変容していくように、近づくこと=理解可能性が高まるがゆえに、より彼らの理解不能なその異形さが際立つ。

完全に理解を拒むものであれば、むしろここまで複雑なものにはならない。しかし、どれだけ異形であろうと佐川兄弟は人間であり、シンパシーを抱く余地がある。それがより二人を不可解な存在へと押し上げている。


本作を撮った二人の監督は、インタビューでこんな風に答えている。

ラヴェル:前略~映像の焦点を合わせたり、あるいはボカしたりしているのは、我々がその撮影現場に居ながらも、日本語がわからないことで”不在”であることを示しています。この手法こそ(観客)が佐川氏の世界に入り込んだり、抜け出したりする感覚に思っています。

キャスティーヌ=テイラー:前略~もしも私たちがこの映画をミディアムショットや典型的なドキュメンタリーのスタイルで撮影していたら、観客は主人公との距離を感じてしまうと思ったのです。カメラを物理的に近づけることで、精神的にも密着して不快感を生じさせている。つまり、観客は主人公との間に快適な距離感を保てないことで、強制的に佐川氏のアイデンティティーと自分との区別を強いられることになるのです。

佐川兄弟の顔だけでない。彼らの言葉すらベールの向こう側に追いやられる。そして、画面を通してしか佐川兄弟を観聞きすることができない我々観客も当然同じレイヤーに留まることしかできず、理解から遠のいていく。
そう。だからこそ、この映画の画面には佐川兄弟と、兄にその存在を認められる里見瑤子の顔(と彼女の胸)しか映らない。なぜなら、この二人と一人の共有する世界観に他者の入り込む余地はないから。

だとしたら、それは異邦人である二人の監督だけの話では決してない。なぜなら、先に述べたようにこの映画は佐川兄弟の世界(とそこに寄り添うことを許された一人の女優)の話であり、兄弟のような異形という言語を持ちえない我々にも理解できないものであり、やはり監督と同じように観客も不在になってしまうから。


さて、ここまでカニバリズムを実行した佐川一政のみならず、かいがいしく彼の介護をする弟の佐川純を佐川兄弟として一緒くたにして語ってきたのだけれど、では佐川純はカニバリズムを実行したり人を殺したりといった犯罪を犯したりしたのかというと、別段そういうわけではない。

が、間違いなく弟の佐川純も異形である。むしろ、この映画はそれを白日の下にさらすことこそが目的だったのではないかとすら思える。

もしかすると、監督も当初は想定していなかったんじゃないか。撮影を進めていく中で「アレ」を目撃してしまい、弟にも関心が向いたのではないか。(トークショーで里見さんが言うには、監督が「アレ」を目撃したとき、凄いものが撮れたと興奮してたらしいですし)
それで兄を撒き餌に、カニバという異形性ゆえに隠れていた弟の異形性を白日の下に晒そうとしたのではないか。化物の正体を掴みに行ったら別の化物に遭遇したのだと。

それを示すかのように、この映画は佐川一政ではなく弟の佐川純の顔から始まる。ところが、「アレ」が明らかになるまで、佐川純の存在は佐川一政の陰に隠匿されている。それは演出上も明らかで、たとえば佐川純が喋っているにもかかわらず当人の顔は映らずに佐川一政にフォーカスされていたり、あるいは佐川一政の頭によってその奥で話す佐川純の顔が覆い隠されたりする。

 中盤、佐川兄弟のホームビデオが数分に渡ってインサートされる。70近い佐川兄弟の幼少のホームビデオだから、60年以上も前の映像だ。

そのビデオに映っているのは無邪気に、そして同じ服で戯れる佐川兄弟。ブランコを漕いだり相撲を取ったり、ともかく仲がよさそうだ。「右腕」に注射をされる佐川兄弟の反応の違いも、ともすると予兆だったのかとも思えてしまう。針を刺された瞬間ちょっとだけ顔を歪めるだけで特に関心はなさそうな佐川一政少年に対し、針を刺されることに過剰に反応していた佐川純少年。

二人が違うのはその反応くらいで、それ以外のほとんどはまるで双子のように同じ装いで仲睦まじい様子だけが延々と流れる。まるで二人が同質の存在であるかのように。

そして、ホームビデオの場面から暗転すると、兄の影に隠されていた弟の肉体がクローズアップで映し出される。有刺鉄線(鉄条網?)を自らの右腕に巻き始める姿が。

明らかな自傷行為はそれにとどまらず、包丁を3本ほど束ねたものをやはり自らの右腕に刺し始める。佐川純は自分の右腕から流れる血を頬張って啜り始める。射精まではしないが、性的な興奮を覚えるのだとカメラの前で事も無げに述べて見せる。

そして、そういう欲求を満たしたいがために、それを満たしてくれる女性との絡みを求めて自傷行為を捉えた映像を何回か送っていたことも明らかになる。
その映像は、目をそむけたくなるものばかりで、やばいです。千枚通しのようなもので腕を突いたり有刺鉄線を巻いてその上から仏壇用の熱い蝋燭で熱していたり、この辺は直視できない映像ばかりで配給会社が避けた理由もわかりすぎるくらいないわかってしまう。

そう、嗜好が違うだけでやはり二人は同じ異形を有している。ホームビデオはその伏線として機能しているのでせう。

それを補強するように、佐川兄弟と親交の深い根本敬の寄稿に、映画では描かれないが重要な佐川兄弟のやりとりがある。

佐川純と根本敬の誕生日をとんかつ屋で祝っている席で佐川一政が「悪かったな、俺のためにお前の人生だいなしにして」と言ったらしい。それに対して佐川純は「兄ちゃん、それは言わないでくれ、あのことは俺ちっとも気にしていない」と本気できっぱり言い切った(ように根本敬の目には写った)と。

映画本編を観た今、その言葉に偽りがないことは明々白々だ。

さもありなん。既述のように、表出する形は違えど兄と同じ異形である弟は、自身が内包していたものと同じものを感じていたはずだからだ。

いや、佐川純の言葉が本当ならば、それが明確な形で発現したのはむしろ佐川純の方だろう。なにせ、3歳のときには内なる異形を自覚し60年以上にわたって「刻み」続けてきたのだから。

そうして弟の異形性を暴き、ともすれば彼が主役にも思える中で、しかしやはりこの映画は佐川一政を主に据えていることが、里見瑤子の登場によって思い返される。

献身的に佐川一政に寄り添う彼女の挙動言動は、まるですべてを佐川一政に貢献しているかのようにすら思えてくる。彼女が「人を食うゾンビ」を演じた話を語る場面などは、まるでカニバを佐川一政と里見瑤子の共通言語化しているかのようにも見えてくる。

彼女が「メイド服を着ていなければ話の内容も変わっていただろう」と述べている。そしてメイド服を着た理由も考えると、それは偶然の積み重ねによって生じた奇跡的なやりとりなのだということを思い知らされる。まさに佐川一政自身が「奇跡以外のなにものでもない」とつぶやくように。


確かに奇跡だとは思う。そんなことを言い出すと、事件当時の誤訳によって不起訴処分になり国内外で裁かれることがなかったことも奇跡なのだけれど。

まあ、そもそも佐川兄弟に限らず他者を理解すること自体が不可能なのだとわたすは愚劣なシニカルさでもって考えるわけですが。

蜷川ファミリー劇場に迷い込んだ大馬鹿な子

平山夢明原作と聞いて観に行ってきました「ダイナ―」。

まああの変な人の作品は実のところ一作しか読んでなくて、それが滅茶苦茶面白かったのと、過去の作品の書評を読んでるとずっと同じタイプの小説を書いてきたのかと思ったので「ダイナ―」もそういうタイプなのかと思ったんですけどね。

 

なんだよファミリー映画じゃないかよー。期待したものと違うものだったよこれ。

 

で、まあ、例のごとく「ダイナ―」原作は読んでないけど、コミカライズされているのを最初の数話だけ読んだ感じだと、導入部分とかの展開はほぼ同じだしこりゃ原作も同じ感じなのでしょうかね。

原作もオチ同じなのだろうか。だとしたら、なんかこっちが勝手に平山夢明を勘違いしている可能性が高いんだけど。

なんかモヤモヤするものがたあったから、映画観た帰りに図書館寄って借りようと思ったら貸し出ししてましたよ、ガッデム。

ウィキも「ダイナ―」と「テラフォーマーズ」のノベライズしかページ作られていないあたり、なんか色々モヤモヤするんですが。

 

というのもこの「ダイナ―」、なんかもう中二病患者が考えたような設定だからなんですよ。で、そういうたぐいの作品だけウィキの記事がある、というのがモヤモヤするのですね。

ま、一作しか読んでいない私があれこれ言うのもアレなんですけど、「ヤギより上、猿より下」を読んだ人間からすると、あの人間の底辺の底辺のどぶ底をさらったようなものを見せてもらえるかと思ったので、そういう意味で期待してたものと違ったというわけなんですね。

平山夢明にしてはかなりメジャーな作風であるから、ここまでメディアミックス展開ができたのかもしれないし。本人も本人で変人狂人の類のくせして「ゴッド・ファーザー」フリークなので、王道みたいなものはちゃんと外さない人なのだろう。

 

前置きはこの辺にして、映画本編について吐き出していきますか。

原作読んでないので何とも言い難いのですが、ウィキ読んだ感じだとキャラクターの設定はだいぶ弄られている気はする。

監督は蜷川実花ってことで、わたくしは沢尻エリカの「ヘルタースケルター」は観たけど「さくらん」は観ておらず。ただ、本質的にやってることはそこまで変わってはないのかな、と。

てか蜷川監督9月にも映画公開するんですね。しかも太宰治の女性関係の話。まあ普通に「人間失格」と同じような話になりそうですが、どうなんだろう。「人間失格」は結構前に生田斗真主演で浦沢義雄が脚本に参加したものがありましたっけ。観てないけど。生田斗真小栗旬を並べるとイケメンパラダイスを思い出しますね~。

 

ちょっと脱線した。

まず言えるのは、この映画は映画というよりは舞台みたいなんですよね、全体的に。

一つは俳優たちのオーバーアクト合戦。藤原竜也を主演に据えている時点で予想はできていましたし、ヒロイン役の王城ティナ(なんかこの人の名前ってAV女優っぽい)も繊細な演技ができるタイプではないし。

窪田くんはどっちもイケるタイプですが、今回はクールな立ち振る舞いのときもどこか戯画化されたような演技でしたし、後半で自殺しようとするあたりのハイテンションぶりも明らかに過剰。

本郷くんとか斎藤工とかも言わずもがな。あとは真矢みきとかも、繊細さとか器用な演技をするタイプというよりは、やっぱり舞台向きの演技をするタイプでっしゃろ。

あとはライティングとか。すごい露骨だし、冒頭のカナコのモノローグで本当に舞台に立たせていたり、人込みの動きを過剰に演出してみせたり、ああいうのってあまり映画ではやらないでしょう。

セット(だよね? あの店の内装とか)のけばけばしさも、ほとんどリアリティを欠いていると言っていい。それこそ「ヘルタースケルター」みたいに。

あとはそう、カナコのモノローグもそうだけど全体的にCMみたいな絵作りというか編集が多い。そういう意味では中島哲也監督あたりとも割と同タイプな気がするので、好き嫌いははっきり分かれるだろうなぁ、というのは想像に難くない。

 

ただ、あの世界観を邦画のライブアクションで表現するには、これくらい画面全体を過剰にしてカリカチュアしないと無理だろうな、というのはわかる。中途半端にこの世界観から逸脱するようなリアリティを持ち出してこないあたり、監督もその辺のバランスはわかってるんだと思います。

 

しかし楽屋落ちというか身内ネタというか、あの辺とかもすごい賛否分かれそうですよね、あからさますぎて。すでに死んでいる大ボスに蜷川幸雄をあてがったり、藤原竜也に「ボス(蜷川幸雄)が俺を拾って育ててくれた」云々を言わせるくだりなんか、あからさまでしたし。小栗旬がしょーもない死に方する(というか、しょーもない死に方をする役に小栗を当てたんだろうけど)のとか、あのあたりも身内のノリを感じる。

蜷川ファミリーのことに大して関心がないけど事情は知っている、という程度の自分は割と「あはは、バッカだなぁ」と笑えるバランスではありましたけど。

 

クライマックスの二人でお料理は突拍子もないように見えますけど、あからさまなセックスのメタファーなので、命の危機に瀕した二人が性交渉云々という理屈としては一郎成立するんですよね。これ年齢制限もないみたいですし。いや、原作でも料理してるのかもしれないけれど、コミカライズ見る限りだと普通に性的な表現もあるっぽいので。

話自体は大人よりはむしろ中高生男子あたりが好きそうな題材ですし、全年齢向けという狙いはわからなくもないのですが、そのおかげでエロさやグロさというものが脱色されてしまい、代わりに導入されたのがポップでキッチュな蜷川節なので、本来あるはずのものが挿げ替えられているという点でどう足掻いても賛否分かれるような作りになっているのだなぁ、と。

 

全体としては、私はどちらかと言えば好きではある。

假屋崎省吾みたいな小栗旬とか、三下雑魚の武田真治とか、斎藤工キタエリの馬鹿っぷりバカップルとか、身体合成された本郷奏多とか、そういうバカバカしい笑っちゃうキッチュさがある一方で、真矢ミキと土屋アンナがすんごいちゃんとかっこいい人がいるんですよ、これ。

正直、真矢ミキをここまでカッコよく思えたのは初めてかも。さすがは宝塚といったところでしょうか。ていうか、上司とかお母さん役よりもこういう役の方が真矢さんの本領だと思うんですけど、むしろ今までなぜこういうのが私のような情弱の目にも触れるような場所に出てこなかったのが謎。

あと土屋アンナ。この人の劇中での言動とか立ち振る舞い自体ははっきり言って「どこの三流ラノベから持ってきたので?」と思うくらいなんですけど、黒ブラに花魁っぽい服装の土屋アンナがキマりすぎている。

超カッコエロいいんす。元から土屋アンナは黒髪の方が良いとは思ってたんですけど、今回はまさに我が意を得たりといった感じ。

正直カッコイイこの二人が観れただけで個人的には元取った感じ。

あと菊千代。見張り役という名の番犬でちゃっかり最後まで生き残る菊千代萌え。

何気にかなり違和感のないCGで驚き。

 

 

どうでもいいんですけど「あるてぃなんちゃらかんちゃら」とかいう色々な肉のパテを使ったハンバーガー滅茶苦茶美味そう。

あとはバカップルとカナコが吊るされる工場みたいなところ、あそこの雰囲気もいいなーと。あれセットなのかロケなのか、どっちなんでしょう。

 

でもやっぱり、これはかなり嫌いな人がいてもおかしくないだろうなぁ。

私の場合は一周回って面白いと思いましたけど。

 

 

 

アラバマストーリー

アラバマ物語

7月のまとめにぶっこむつもりが文章量多くなったので単独ポスト。本当に考えなしですね、私・・・。

 

あらすじをちょろっと読んでから観たので、てっきり法廷ものかと思ってたら予想と全然違ってちょっと面食らいました。

でもこれ、黒人差別に対する問題意識はそこまでないように見える。人種差別的な問題というのは、むしろメインとなる「娘から父親に対するシンパシー」の一つのファクターでしかない気がするんですよね。

 

自伝小説の映画化ということで、例にもれず私は未読なんですけど、日本版のウィキを読んでいると大部分はそのままで、細かい部分でアレンジされている様子。

たとえば「アオカケスは撃ってもいいけど、マネシツグミは殺してはいけない」云々の部分は、原作ではモーディ嬢(ローズマリー・マーフィ)の言葉らしいのですが映画ではアティカス(グレゴリー・ペック)が子どもたちに発言したことになっている。

 (逆に、あくまで表面的な物語上はそこまで必要ではないディルはそのまま残していたりもする)

 

事程左様に、この映画は父権主義に寄り添っているように見える。しかし、バランスとしては父権主義というよりも一人の男=アティカス(グレゴリー・ペッグ)に対する眼差しではある、というのがなんともはや不思議な味わいをこの映画はもたらしているところかと。

 

まず一つには、この映画は(原作が自伝だからでしょうが)スカウト(メアリー・バダム)の回顧という形で進行するところ。ぶっちゃけ、原作を読んでみてからじゃないとスカウトがどのような価値観を有していたのか分からないので、映画化にあたって脚色されたものが原作者と映画の作り手との間でいかほどに乖離しているのか不明なんですが、でもやっぱり、白人女性(おそらく回顧している時点でスカウトは成人している)に父親の苦悩を慮らせている以上、ある程度は白人成人男性の価値観を忖度してしまったということなのでしょう。

いきなりメタ的な話ですけど、幼少のスカウトとそれを回顧するスカウトと作り手の視線という3層のレイヤーに分けて観ることができると思うのですね、これ。

結局は同じ神の視点である作り手の視線が全てのレイヤーを刺し貫いているので、アティカスに強烈なシンパシーをもたらしていることに変わりはないんですけど、その描き方がすんごい遠回りというか予防線を張っているというか、ともかくなんか面白いんですよね。

だって「スカウト(6歳の娘)」の視点から「スカウト(成人した娘)」の視線・ナラティブを通して「作り手(白人成人男性)」の欲求を描いているわけですからね。

この多層性、男根主義の免罪というか許容みたいな効果を生んでいるような気がするんです。

語り部のスカウトのレイヤーではそこまでですけど、やっぱりそのもう一段上のレイヤからメタに観ると、この映画で描かれているのって当時のアメリカの社会(今も続いているけど)が有していた男根主義の肯定・・・とはまではいかなくとも、何かこう「父親という存在にエールを送りたい」という意識の、無意識の発露のような(だってグレゴリー・ペックだもんね~)。

 

冒頭に書いたように、黒人差別の問題がこの映画の主題でないというのは、前半のほとんどにそのような要素が表立ってこないからなんどす。

台詞の端々には、アティカスが黒人であるトムの弁護を担当することになり、それによって町の住民との間に軋轢が生じ始めていることを描いてはいるんですけど、6歳のスカウトの視点から描かれるために、具体的な問題というよりは少女である彼女の「日常に不穏な影が差し始め、その中心に父親がいる」という極めて個人的な問題に凝華(この言葉をこういうような意味で使うことはないと思いますが)しているので。

 

この映画は自伝をベースにしているため、スカウトが見聞きしていないことは本質的に描けないという構造を内包している。だからレイプをしたとされる被告人の黒人であるトム(ブロック・ピーターズ)がまったくフィーチャーされず、法廷の場面(まあこの法廷の場面は結構長いんですけど)でしか登場しない。

繰り返しますが、この映画は結局のところ彼女が感じたものでしかなく、積極的に差別の問題を浮き彫りにしようとしているわけではない。少なくともわたしにはそう観える。

とはいえ、書くまでもないことですが、だからといって差別の問題を提起しないというわけではなくて、6歳当時の少女の感性から黒人差別に対する違和感を覚えていた、ということを成人した彼女が振り返る形で細述しているんでげしょうし、人生においてこの部分を取り上げたということは問題意識があったということですから。

 

が、しかし! 幼い少女の(ナラティブの)背後には、大人の男のエゴが暗躍していた! 

というのはすでに書いたわけですが、そういう傀儡(って書くと印象すごい悪いけど)としてのスカウトを排除したときに浮上してくるのは、「大人」とゆーか「白人男性」の視点からザ・男としての父親の威厳や苦悩を知らしめる話のように見受けられるんですよね。

てか、アティカス本人がスカウトに「誇りを保てなくなる」云々って言ってるし、あれは仕事上のことというよりは信念として、でしょうし。

しっかしまあ、そんなアティカス役にグレゴリー・ペックという配役となると、これはもうアメリカンな猪突猛進な正義が浮かび上がる。

彼に関しては「大いなる西部」(大傑作)で見せたようなイメージが強くあるわけでして、懊悩しつつも正義()に邁進する根っからの主人公(ヒーロー)気質な男優、というのがわたしの印象なのです。

正義か悪かで分断されるとき、彼はいつも正義側であり続ける。

そんな男が優男的に描かれつつも実は射撃の腕が一流で、法廷の内外で過ちたる事柄に対して徹底的に立ち向かい、その過ちの枠の中に自らが否応なしにカテゴライズされるにもかかわらず糾弾しつづけ、道を誤った者の思いを汲み(しかしその悪事はしっかり責めるという「罪を憎んで人を憎まず」の体現のような振る舞い)、しかしそれだけのパワーがありながら非暴力を貫く。いや、パワーがあるからこそ、でしょうか。強者の余裕というか。いや、アティカスのメンタルはそこまで余裕があるタイプではないと思うんですが、本人の好むと好まざるとにかかわらないレベルで、彼(=白人男性)はパワーを有しているので。

 

しかしこの正義の正論を振るうアティカスには「イヤミか貴様ッッ」と思わず叫びたくなるほどです。この映画のグレゴリー・ペックを観ている間、ずっとスーパーマンがチラついていました。それくらい、彼はもう「ザ・正義」。

社会問題を提議しつつ正論を突き付ける。しかし、どこか釈然としない。それは多分、事実や時代とかは別にして、黒人であるトムの権利を白人であるアティカスが代弁しなければならないという、社会の構造上の歪さが、この映画自体の構造と同じ(黒人=娘、アティカス=白人男性)だからだろう。「あなたはわたしのホワイトではない」というか。

そうなんす。本質的に黒人はパワーを得られず、パワーを持つ者の同士の争いであり弱者の入り込む余地がないんです。

それがスカウトの回顧の形を取っているというのも、つまり過去を変えることはできないという上述の構造と同じように「力なき弱者」の立ち位置に甘んじているところともダブる。

まあ「青カケスは撃ってもいいけど、マネシツグミは殺してはいけないよ、彼らは私達を歌で楽しませる以外何もしないのだから」という台詞を使った時点で、パワーを持つ者から持たざる者への優位性に無頓着であろうことはなんとなくわかる。

我ながら嫌なものの見方ですねぇ、これ。

ただ、あの時代にあそこまで正面切って言わせるのは驚いた。あそこのシーンはほとんどワンカットだったし。

 

父親の威厳を再認させる映画であれば、まだ「ジングル・オール・ザ・ウェイ」の方が子どもの視点に寄り添っていると思うのですよ。寄り添っているというか、寄り添おうとして空回りしちゃっている、というのを楽しむところなのだと思いますが、あの映画は。

 

あとは本筋とは関係ないところで色々と思ったこと。

1.タイヤ転がし楽しそうだけど危なくない? 娯楽のない田舎のじゃりン子が考えた感じがあって面白い。

2.ブーさんこれ「グーニーズ」だー!

3.5ドルで映画20回←何それうらやましい。

4.全部ハリウッドで作られたセットとはたまげるねぇ。

5.スカウトを演じるメアリー・バダムってジョン・バダム監督の実妹だったんですね・・・最近のBSプレミアムジョン・バダムの監督作を放送してますけど、こんなとこでもジョン・バダムに所縁のある作品を持ってきているのは謎。

会議で「ジョン・バダム特集やろう!」とでも言いだした人がいるんだろうか。

6.スカウトのドレス姿に対して、実はその姿をバカにしているジェムこそがもっとも彼女らしさを理解している場面にほっこり。だって学校指定のドレスがスカウトの性格(お転婆で活動的)と全くマッチしていないし本人もそう思っているのに「着させられている」という状況のミスマッチさを笑っているわけですからね。

ここはほっこりすると同時に学校というコミューンが有している監獄性みたいなものがそれとなく見えてくるシーンでもありますね。あるいは、女性は女性らしい服を着なければならないという抑圧。

7.トムの証言のあとにグレゴリーの髪が乱れてるのが最高。髪もしたたるいい男。

8.お前ロバート・デュバルだったんかい!

 

要約:結構面白い映画でした。

6月

「ピーター・ラビット」

公開当時の評判がよく分かった。吹き替えで観たんですけど千葉くんのピーターも小生意気(ってレベルじゃないけど)さが出ていてかなりはまり役ではなかろうか。繁の方の千葉さんも鶏のやかましいイメージにピッタリで笑ってしまいました。ああいうタイプの笑わせに来る感じはそんなに好きじゃないんだけど台詞と言い回しで普通に笑ってしまった。

ひたすらアクションアクションな上に(人間目線での)不条理系スラップスティックコメディで面白い。他者との折り合い云々とかそういう部分で語る余地もありそうですが、そういうのはどうでもいいくらい楽しい。

ワイルドバンチ歩きもあるしこれは確かに血が出ない(ブラッドベリ―で代替)だけでアクション映画ですわこれ。

マクレガーがドアノブに手をかけて吹っ飛ぶシーン、わざわざワンカットで見せてくるこだわりっぷりは勢いも相まって大爆笑してしまいました。奇声発してるし。ラストの方でも天丼するし、最近で一番笑った映画かもしれない。

これに腹を立てるというのもまあわからなくはないですけど、それはそれでちょっとエゴが大きいせいではないかとも思います。そういうの抜きにして純粋にアクションを楽しむ映画ですしおすし。

 

余談ですが鹿のくだりはイギリスにある「蛇に睨まれた蛙」的な諺らしいですね。

 

 

勝手にしやがれ

 大学の講義で中途半端に観て以来だったので改めて見直す。

なんというか所々で観られるジャンプカットやら手持ちカメラの長回しを白黒の映画で観ているとがすごく不思議に映る。それはまあ、当時としては映画の文法から逸脱したものだったからなのでしょうね。まあ、昔の映画をそんなに観ているわけではないのではっきりとしたことは書けませんが。

しかしポワカールのしょうもない小悪党ぷりは観ていて清々しさすらある。ああいう男いるよね~。ベッドでのピロートークの長さとか、本当普通に観てたら尺としておかしい気もするんですけど、あのポワカールのキモい(あれで篭絡される女性というのがわからない)ナンパ師みたいなワードセンスのおかげで聞いていられるという。

 

「トライアングル」

 ループものとしては何気に良作では、これ。

重要なのは夢と繋がっているところでしょうか。繋がってましたよね、確か・・・?

冒頭を少し睡魔と格闘しながら見てたのではっきり覚えてないんですけど。

夢と現の境目を曖昧に、というか「ファイナルデスティネーション」的なワンクッションとしての夢を置くことで、現実感を薄めてくれている。

記憶が正しければ、船の中には3パターンのジェスが存在していて、その三人でループを構成しているからトライアングルなのかなーと(バミューダ的な意味合いもあるかも)。一人目というか三人目のジェスを船から落としたジェスがパターンを変えようとしたものの、それ自体がループに組み込まれているという罠。

そもそもジェスは船に乗らない(というか離れる)こと、つまり船がループを構成しているためにそれがループに陥らないための条件だと考えていたわけですが、無線のくだりもそうですし、第一あんな超常的な風景が顕現している時点で(あの空を覆っていく雲のシーン良いですよね)船の外からすでにループは始まっていたといえる。

つまり、どう足掻いたところでループの中に取り込まれているという時点で、抜け出すルールなんてものはない。どうもリスポーン地点(事故ったところ)で記憶と肉体がリセット(というか再出現)されてるみたいだし。要するにゲームというより単なるシステムなんですよね。

シーシュポスの神話の話が出てくるのは、あの話は岩を延々と運ばされるというループを示しているのと同時に不条理についての話でもあったわけで(ああいう示唆的なことを明言しちゃうとちょっと不条理性が逆に薄れるから、本当にさらっと描くくらいがちょうどいいとは思いますが)、その不条理とはループにはまってしまったことではなくループに抗うことができない上記のような絶対的な不条理システムにジェスが組み込まれているというところにある。「異邦人」も「シーシュポスの神話」も一応は読んだけど、正直理解はしていないのでわかったようなことは書きませんが。

これって観客はゲームシステムをメタ的に捉えられているから、もしかすると「どうしてジェスはみんなを説得したりしないん?」と思うかもしれませんが、上記のように絶対的なシステムに隷属するしかない以上、そもそも論としてそういう行動は取れないわけです。ADVのゲームで出てくる選択肢以外の行動がとれないのと同じで。

というか、2パターン目のジェスが行動を変えようとして変わったと思ったらそれもループの一環だったと判明するわけで。そこで彼女は未来の彼女の言うことを鵜呑みにするしかない以上は仲間を殺す行動に走るのも仕方ないし、息子の死の記憶もおそらくは曖昧ながらも継承(強くてニューゲーム的に)しているだろうから息子に狂って息子のために仲間を殺すこともいとわない行動に出るのもおかしくはない、という概観的にシステムを俯瞰せずとも一応のパーソナルな理由もあるわけで。

 

船の存在やあの幽霊船然とした船も、夢がブリッジしてくれているおかげで違和感なく受け入れられる。

死体山積みなところとか、良いシーンもたくさんある良作なり。あとヘムズワースがいました、ソーじゃない方の。

 

 

「グレイヴ・エンカウンターズ1と2」

ファウンドフッテージモキュメンタリー。アルバトロスだと思ってなめてかかってたら中々面白かった。

怖いっていうよりはわちゃわちゃする感覚を笑って観ていたというのが正しいんですが、もしかすると吹き替えのせいかな。

女性の霊とファーストコンタクトした際に「テープに撮ったぞ」とかのたまう余裕とか、変な魔法攻撃くらったみたいに吹っ飛ぶのとか、笑っちゃうんですよね。

白石監督みたいな演出だなぁと言ってしまえばそれまでなんですけど。

主人公たちをあの精神病院の霊と立場を逆転させるというか追体験させるというか、そういう機能を果たしている側面はあるかも。

 2も別につまらなくはないけれど、記憶には残らないタイプ。

 

リプリー

マット・デイモンジュード・ロウの濃密な絡みが観れるのかと全裸待機してたら思わぬ方向に話がシフトしていってビビりました。

名前の使い分けによって状況をかいくぐっていくというのはミステリーとかサスペンスとかクライムものにはかなり疎いので新鮮でござんした。

何気にパルトローとシーモアホフマンも出ているという。しかし80~90年代までのシーモア・ホフマンは割と嫌なタイプの人間を演じていたんですねぇ。

あと明確に因果応報的な結末にならないのも新鮮でした。いや、ようやく出会えた人を自分で手をかけなければならないって時点でバッドエンドではあるんですが。

 

「アイスブレイカーズ 超巨大氷山崩落」

B級精神の横溢するタイトルからの実話ベースの話という触れ込みで観たんですけど、別に面白くはない。

ていうかタイトル詐欺も甚だしいのですが、冒頭からハプニングを起こしてくれるもんだから結構期待してたらディザスター映画ではなかったというオチ。

すごい間延びするっていうか、不必要と思われる展開ががが。

コミュニケーションは大切にね。

犬は可愛い。

 

「はじまりのうた」

ヘイリー・スタインフェルドって真っ当な美人というよりもややブサ可愛方面のキュートさなのではないかと思ったり。割と太ましい。だからカーリーにぴったりではあるんですけど。

なんか既視感があるというかどこかでこの映画と似た雰囲気を感じたなーと思ったらジョン・カーニー監督ですか。

全体的にオサレなCMみたいなカットが多くて「うーん」と思ったりもしつつ、しかしやはり音楽のもたらす力にほんわかぱっぱするのでありんす。

プレイリストを見せ合うところとか、音楽を使った胸キュン描写は本当に上手いですね、ジョン・カーニー。

あと音に対する音の描写というか、クラブ?の中にいるのにイヤホンから流れる音に合わせて踊る二人のシーンは「シング・ストリート」において自分を取り囲む劣悪な家庭環境が発するノイズ(音)をかき消すためにヘッドフォンで音楽を聴くのと同じで(ニュアンスは違うけれど)、一貫しているというかなんといういか。

せっかくの映画出演なのにディスられるアダム・レヴィ―ンに吹き出したり。

ジョン・カーニーの映画は路上音楽というところで通底しているものがあって、それは要するに産業としての音楽へのカウンターとしてありつつも、マーク・ラファロのことを考えるとスタンスは割と中庸なのかもしれない。しかしキーラ・ナイトレイのバンドこそが路上での録音など行っていて、それに対して彼女たちと相対(敵対ではなく)しているアダム・レヴィ―ンのアルバム名が「オン・ザ・ロード」というのがもうアダム・レヴィ―ンの不憫なことよ。ラストも含めて。

まあ誰に向けている歌か、というのを一瞬で判断するあたりの凄まじい恥ずかしさ(ナタリー・ポートマンディオールのCM見てるような)があったりするんですけど。

でもいい映画ですこれ。エンドロールまできっちり楽しませてくれるし。

しかしラファロにけんゆーさんって組み合わせ珍しいような。

 

「ボン・ボヤージュ 家族旅行は大暴走」

楽しい映画、という意味では「ピーター・ラビット」と同じくらい笑いました。

登場人物が軒並み問題を抱えている人ばかりで、行動という行動が悪手になってどんどん事態が悪化していくコメディ映画なんですけど、あの車の撮影って結構危ないはず。下手なアクション映画よりもカーアクションがあるという、なんかこうバスター・キートンとかあの辺に先祖返りしている感すらある。

マイケル・ベイのテンションで「パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト」風味というか。

いや本当に。ボウガンの矢が特に悪いことをしているわけではない人(やや語弊はありますが)の足に刺さったり、車内でゲロを吐く人がいたり、その辺を惜しげもなく見せてくるあたりは邦画では見られませんからね。そもそもあのカーチェイス撮るのも不可能でござんしょ。

フランス製の映画というとどうしてもアート寄りを想像しがちですが、こういうコメディ映画もコンスタントに撮れる裾野の広さがあるというのはうらやましい限りでございますな。

 

「ぼくたちの家族」

町田くんの世界」を劇場予告で観て「おや、これはどっちに転ぶんだろう」と期待と不安入り混じる感覚で二の足を踏んでいたのですが、「ぼくたちの家族」を観るとイケるような気がしてきました。どうしよう、観ようか観まいか迷う(6月11日現在)

序盤の色彩の暗さ(あれほとんど室内撮影のときって照明使ってないんじゃないですかね?)は「おいおいアマゾンズか」と思うくらい彩度が抑えられていたり、些細ながらカメラを揺らしていたり、やや遠目からのアングルだったり、その辺はむしろ露骨というかオーソドックスな観心地すら感じるのですが、細部に拘っているのは好印象。

中華料理屋での親父の振る舞いとそれを宥める妻夫木君の居心地の悪さは笑えるくらい身に覚えがありますし、母親の病状を察している二人に対して能天気で無思慮な振る舞いで料理やに入ってくる池松くんとか、あの辺の観てて居た堪れない描写の実在感は良い。

キャラクターが一面的でないのが世に蔓延るこの手の映画と違うところで、それがこの映画の魅力であるといっていいでせう。ある人物に対するある人物の好悪のスペクトラムな思いを、物語の展開の中で描いていっている。
たとえば池松くんが当初は黒川芽以に「妊娠3ヶ月なんだから来れるでしょ」というややキツい(正論と言えば正論なんですが)評価を下していて、彼女と妻夫木くんのやりとりの中で「ああ、そういうこと言われても仕方ない女かも」と思わせつつ(なんたって一人称が自分の名前で、「こんな体じゃいけないと思う→でももしものことがあればみゆきちゃんと行くから」という弁明。のちの展開を見るに偽りではなかったわけですが)、しかし「自分の家族」を守るということで考えれば全く責められることではないというバランス感覚。
実際、彼女はそういう義母に対して冷酷なわけではないという描写もあります。お金のところで急に敬語になったりするのとか、確実に性格ブスな一面はあるでしょうけどね!(誉め言葉)
しいて言えば、そこまで意固地に妻夫木君側の家族を批判して「私は自分の子にお金のことで苦労させたくない」と台詞として言明させるのであれば、ほんとに少しでいいのでお金で苦労した経験みたいなものを描いた方が説得力はあったのでは、と思わなくもない。というのも、彼女側の家族は1シーンしかなく、そこでは特に問題があるようには描かれていないからなんですよね。それを入れたら入れたで臭くなりそうではあるので難しいところではあるんですけど。

で、紆余曲折を経て彼女が病室に来て5人ではなく6人が一堂に会してからの「ぼくたちの家族」というタイトルが出てくるあたりの「グラビティ」的な演出で終わる締まりの良さもいい感じ。


このタイプの映画にありがちですが、物語的に大きな起伏があるわけではない(病気発覚、借金発覚と台詞上ではあるもののそれによって生活が一変するとかそういうわけではない)ので、そこをどう見せるかというというのが監督の腕の見せ所だと思うのですが、この映画で言えば間違いなく役者の力に大部分を依拠しているといっていいでしょう。
や、もちろん人物を描くにあたって池松くんはスマホなのに妻夫木くんはガラケー(このあたりのひきこもってたが故の時間の停滞感というか)だったり、その二人の通話シーンから親父の電話シーンに繋ぐ家族の描き方とか、その辺はしっかりしているんですけど、それもこれもやはり役者の力だと思うんですよね。
それくらい役者がすばらしい。

長塚京三の頼りない父親の顔面力や原田美枝子のすっとぼけた演技(叫ばせるのはやりすぎではと思いつつ、認知症のうちの祖母は嫌なことがあると奇声を発したりするのである意味でリアルに見えるのですが)は言わずもがな、何といっても妻夫木くんと池松くん。

特に妻夫木くん。母親の病気が発覚した直後あたりの、あの髭の絶妙に剃り残しがある疲労感ある顔だったり、「全力で笑ったところがイメージできないよぉ」と思える元ひきこもりという設定に迫真さを持たせる表情だったり。あの卒アルの陽キャとは思えない陰々滅滅とした人物になっていてちょっと驚きました。一瞬、山中崇の顔に見えるときもあったり、ウォーターボーイズからこうなるのかと思うと感慨深い。

また池松くんって決して演技の幅が広いわけではないと思うんですけど、毎度のことながらキャラクターの実在感を持たせる喋り方とか間の取り方とか上手いです。朝の占いに感化されて黄色の服着たり番号札観ていい感じの表情したり、新しい病院での判断を聞いた直後に手すりをとんとんやって嬉しそうに廊下を歩ていたいり、ああいう描写も割と好ましい。

あんなちょい役で市川実日子を持ってくる采配。あの市川実日子、個人的には市川実日子史上(そんなにこの人のこと知らないけど)で一番好きかも。「シン・ゴジラ」のよりも。
あとユースケ・サンタマリアの上司もいい人でね~。外回り扱いにしといてやるって気遣いを見せつつ、妻夫木君に気負わせないように「その代わりキャバクラに付き合えよ」という行き届いた気遣いをしてくれたりね!


細かいところだとインフォームドコンセントどうなってんのよ、と思ったりしたんですけど、再序盤の山々に囲まれた風景を見る感じ(あの似たような屋根が立ち並ぶ住宅街のサバービア的な地獄を想起してしまうのは私だけでしょうか)、割と田舎っぽい場所でありそうですし、ああいう病院の医者というのもいるのかなぁ。山梨県上野原市と神奈川の相模原、あとは原作者の地元で撮影したということですから、なんとなく納得。
とはいえ、医者に対する描き方も一面的ではない描き方をしたかったのかなぁと後半の展開を観るに思う。
まあ、だからというか、病気も含めて「~のための」描き方みたいに見える部分がなくもない(「500ページの夢の束」的な障害としての障害というか)んですけれど、良い映画です、これ。

本編とは直接関係ないですけど、問題は山積みなので「これからが本当の地獄だ…」と考えられなくもないので、ハッピーエンドとは言い切れないかもです。

 

「ワンダー 君は太陽

登場人物、全員善人。

いや、善人なんてものも悪人なんてものも実際はいないんじゃないかとも思いますけど。

しかし危ない、劇場で観てたら間違いなく泣いてた。まあ泣ける映画が良い映画とかってわけではないんですが、まあ泣いてたはず。ちょっと出木杉な気もしなくはないけれど、あれくらいやってくれなきゃね。

正直オギーくんの顔はむしろこう、猫っぽくて中途半端に可愛い気もするのですがどうでしょう。わたしだけでしょうか。

モンタージュでいじめられてたり、写真撮影の時にスッとよけられたり、何気ない描写が辛い。SW好きにしか通じない、暗号化された厭味とかもね。とはいえ、あの作風で描ける「程度」というのは多分あったのだろうなという意識を感じなくもないのだけれど。

姉ちゃんがせっかくマミーと良い感じになったところでオギーのことで呼び出されれおしゃかになってしまったりするあたりも、なんだかあまり他人事と思えない。

あとはまあ変身論というかコスプレ論みたいなものを展開してヘルメットのくだりについては色々と言いたいこともなくもないのですが、あまりうまく広げられる気がしない割に文字数多くなりそうなのでカット。

仲がいいとこっちが思い込んでいた相手が、実は本人がいない(と思い込んでいる)ところで悪口言うところね。あれ、私にも身に覚えがあるので他人事ではないのでげすけど、どうやって心理的に折り合いをつければいいのかわからなくて困るんですよね。まあ、この映画には向こうの視点があるのでアレですが。あの描き方だとちょっと言い訳がましく見えるんですけどね、メタ的に。

ゲームを通じての謝罪、というものを肯定的に描いているのも個人的には溜飲が下がるというか。面と向かって、というのがどうしても難しい場面ってあるはずだし、ワンクッション置くことでそれを可能にさせるのであれば、テクノロジー万々歳だと思うし。

 

原作の続編?だとジュリアンやシャーロットに焦点を当てているというのを聞いたのですが、「ワンダー~」の複数のキャラクターの視点ということも含めて、なんというか時代の流れを感じますね。

もちろん、現実としてはそれは極めて重要なことではあるんですけど、描かることで抜け落ちてしまうものもあるので、その辺はバランス感覚なのかな。

 

すごいどうでもいいことなんですけど、キノフィルムズってこういうタイプの映画の配給するの好きですよね。私が当たったキノフィルムズ配給映画の試写会が「凪待ち」「500ページの夢の束」そんでもって「ワンダー 君は太陽」ですからね。いや、サンプル3つしかないんで単なる経験則でしかないんですけど。

 

 

あとオーウェン・ウィルソンの顎ね。あの人の顎ってなんか独特で、あの人が喋って顎を動かしているのを観るとなんかすごく不思議な気持ちになる。独特なチャームがある気がする。

 

「Fire(PoZaR)」

デヴィッド・リンチの短編映画。映画っていうか、映像?

渋谷のGYREで開催されていた「デヴィッド・リンチ精神的辺境の帝国」展にて公開されていたものなんですけど、ほかにも展示があったり吹き抜けのオブジェがすごかったり、展示物は少ないながら見ごたえはありました。あと、小屋の中で映像を観るということを含めての作品であるので、動画だけ観ても同じ印象を受けるかというとちょっと違うと思いますです。

ところで白状しますとリンチ作品は一つも観たことなかったりする。

なので観たまんまの印象を書くしかないのですけれど、あの撮影ってどうやってたんでしょうか。なんか、背景が常に動いていて、それをそのまま撮影しているような感じだったんですけど。というかアニメーションのFPSが4Kみたいだったりしたんですが、あの辺はなんというかリンチというよりもアニメーションを担当したNORIKO MIYAKAWAさんの色が強いのかな。というかIMDB観るとツインピークスやインランドエンパイアのアシスタントエディターやってたりするので、アニメーターってよりは知己の編集者さんって感じかな。

リンチのドローイングを動かしているだけと言えばそれだけなのですけれど、しかしあの絵のおどろおどろしさは中々どうして目を引き付けられる。

あの鹿っぽくもカラスっぽくもある集団の動きや、黒い雨のようなものが降りだすと燃え出す家(?)と木など、なんとなく同展示の写真に収められたものと合わせてみると都市というかインダストリアルなものへの思いみたいなものを感じる。

この作品について、ちょっとしたサイトがあったので(英語だから完全に理解してないけど)一応参考までに→(https://letterboxd.com/film/fire-2015/

 

 

「張り込み」

 これすごい面白いんですけど。

冒頭の牢獄からの脱出シークエンスで一気に持っていかれた(なんか警備がちゃんとトラックの下を確認するのとか、「正気のを薬漬けにするのが医者のすることか」という発言とか、妙にリアリティがあったりする。この冒頭の脱獄シーンがスピーディな上にかなりシリアスムードなもんで(タイポグラフィーがほのかにブレードランナーっぽい)、このまま彼らを主人公に据えてシリアスな感じでいくのかと思ったんですが、全然そんなことはなかった。

すぐに彼らを追う刑事側に視点が移って、彼らが主役であることがわかるわけですが、冒頭のシーンに反して映画全体としてはどっちかというとコミカルなんですよね、この映画。

ジョン・バダム監督ってバディものが得意なんでしょうかね。いや、「ブルー・サンダー」しか彼の監督作は知らないので(有名どころは「ウォー・ゲーム」なのでしょうけど)何とも言えませんけど、あっちも割とそういう要素が強かった気がする。

 

これ、脚本が結構凝っているんですよね。実に自然に物語が有機的に絡み合っていくんですが、それが厭味ない笑いに繋がっていって本筋に絡んでいくという。

あとキャラクター造形が良いんですよね。クリス(リチャード・ドレイファス演)は彼女に振られたばかり(カーテン持ってかれてるのが笑える)で愛飢男状態なのに対して相棒のビル(エミリオ・エスぺデス演)はできた妻がいて、うまい具合に対比になっているし。

それがただ「キャラクター」というものにとどまるのではなく、そういうキャラクター性がちゃんと各々の行動原理だったり物語の進行に繋がっていくわけなんですよね。ビルは慎重でクビを恐れて踏みとどまる場面がある一方で、クリスはイケイケどんどんでどうどう行動に移していくタイプで、映画を牽引していってくれる。

あるいはいい感じに人好きのする厄介な張り込み仲間の同僚(フォレスト・ウィテカー!)チームとのやりとりなんかも、張り込みであるがゆえに単調で同じような場面が続くにもかかわらず退屈しない。ああいうユーモアやジョークを体制側であるはずの刑事の連中がやる、というのがまた良いんですよね、人間的で。トイレットペーパーはともかく冷蔵庫にうんこはやりすぎな気もしますが。

ちょっと「裏窓」感もあったりしますし、張り込みシーンは。

そしてマデリーン・ストーが可愛エロい。 エロさよりも可愛さが先に立つという、独特な味を出しているのがかなりポイント高い。しかしどこかで観たことある顔だなぁと思ったら「12モンキーズ」に出てたんですね。まあちょっとジュリアン・ムーアあたりの顔と似ている、というのもデジャブの要因だと思いますが。

 

あと魚の降ってくる中での殴り合いとか、丸太に溺死させられたりとか、ああいう面白いシーンが結構あったりするのもいいですよね。

なんというか、色々ひっくるめて割と「ダイ・ハード」的な面白みを感じたのですが、自分の感覚がおかしいのだろうか。

 

「張り込みプラス」

うえきの法則並みの続編タイトル。うえきの方が後なんだけど。しかしBSプレミアムはこういう憎いことをやってくれるから侮れない。

冒頭から大爆発で笑っちゃったんですけど、サービス精神が旺盛で非常によろしいことだと思います。

そこからのセルフオマージュもまあよござんす。

ただ、意外と話自体は結構違うんですよね。1作目は言うなればクリスがスタートラインに立って終わるわけですけど、2作目ではそのスタートが失敗してしまったところから始まる。というか、正確にはスタートしていなかった、という話なんですけど。

これって実は1作目で明言されていたクリスの女性関係が結婚に踏み切れない理由としての証左にもなっているんですよね。

で、しょっぱなからマリア破局してしまうわけですけれど、そのよりを戻すために2作目で何が描かれるのかと言えば疑似家族の形成なんですよね。

そうして疑似家族を体験し、その呪縛を経験したうえでマリアの元に戻ってくるという綺麗な着地をする。

細かい笑える部分も相変わらずあるので、綺麗な2作目としては「ターミネーター2」に匹敵するのでは。言いすぎか。

 

悪いことしましョ!(2000)」

前に冒頭部分だけちらりと観たことがあったなぁと観返しながら思い出す。

ハムナプトラ」の直後でブレンダン・フレイザーの全盛のときでしたか。なんかこの人ジム・キャリーと被るんですよね、出てる作品のタイプとか。

最近はあんま観ませんね、しかし。

この映画もなんだかいまいちパッとしない感じで、午後ローでながら見するくらいがむしろ正しい姿勢のような気もする。

全然キスしないところで笑って実はゲイってオチで二度笑いましたけど、それくらいですかね。

いや、別に悪い映画ではないですけどね。収まるところにピッタリ収まるというか、見事に紋切り型から逸脱しないというか。

 

「スノーデン」

さすがオリバー・ストーン

上官が実はデカい画面でのテレビ通話だった、という演出。欺けていたと思っていた相手が思っていた以上に巨大で厄介な相手だったという映像的演出に脱帽。ここでリンゼイのことも知っているということを示したり。

ルービックキューブで上手くデータを外部に持ち出してからのジョセフ・ゴードン・レビットの笑顔と影と強烈な光の演出。

最後の最後にスノーデンがスノーデンになる演出も憎い。 

ただこう、映画そのものが際立ちすぎて逆にテーマ性みたいなものが相対的に希釈されているような気もする。それは映画にとっては素晴らしいことなのだけれど、しかし作り手の本意からは離れてしまっているのでは。

いやね、まったくそんなものはこの映画の価値を損ねるようなものではまったくないんですけど。

 

デスノート(2017)」

一度書いたんですけど、間違って更新かけてしまって「デスノート」の部分だけ消えちゃったよ。もう一度書き直すの面倒なので一言で集約すると「糞ダサい」。

まあ、そのダサさを肴に盛り上がることができるという意味では「デビルマン」「ドラゴンボール エボリューション」と同じ系譜であるとは言える。

 

「テスト10」

B級映画としては中々楽しめる良作。

治験、というのも中々ない設定ではありますがこの手のジャンル映画の導入としてはかなり自然ですし、何気に序盤の会話が後の展開の伏線になっていたり(プラシーボ効果のくだり)、首ちょんぱシーンをしっかり見せてくれたりとサービス精神もある。

再生力のせいで銃弾が体内に残ったまま摘出できず死んでしまう、というのも中々面白いギミックではありますし。無限の住人とかで似たようなのがあった気もしますが。

まあ、特殊部隊のムーブとか全然プロっぽさがなかったりはするんですが、何気にジュリア・ロバーツの兄のエリック・ロバーツが出てたりする。

ラストのオチの雑さ(っていうかテキトーさ)とかも、いい具合にB級映画な佇まいなのもポイントが高い。

 

パディントン2

さすがモンティ・パイソンの国。ってこれもキノフィルムズ配給なんですね。

イギリスの風刺精神は流石。

それにしても、今見るとパディントンって明らかに移民のメタファーの上に、これちょっと発達っぽいところがありますね。其のうえ愛くるしい熊ですよ。属性持ちすぎですよもう。

牢屋のくだりは「ショーシャンク~」的であったり。ここの牢屋の色彩設計とデザインが結構秀逸で、特別暗いわけじゃないんですけど、どことなく閉塞感が漂っていて、そこに囚人たちが整列しながらぞろぞろと並んで歩いていく動きというのうが「(外圧によって)能動的に統御されている被抑圧者の動き」を体現していて、この動きと背景のセットによってすさまじいディストピア感が醸し出されている。

このディストピア感は絶対に意図しているでしょうね。パディントンの独房(?)のデザインなんかまんま「未来世紀ブラジル」の仕事部屋のようですらありますし(まあ、単なる逆輸入でしょうけど)、あるいはプリズンだけではなく台詞で示唆される競争社会の原理に対する批判や「モダンタイムス」パロなどなど。

ともかくゲイリー・ウィリアムソンが良い仕事してくれてます。

そしてカメオ出演するバンブルビーくん。

「ピーター・ラビット」もそうでしたけど、可愛さの皮を被ったブラックな作品でござんした。いやぁ面白い。

 

またトニー・スタークですか

そういえばMCUの吹き替えを劇場で観るのは初めてでした。

劇場で観たのは、ってだけでMCUの吹き替え自体は何回も観ているので既存の吹き替えキャストにはこれといって文句はなし。
ただ今回、ネッドの恋人であり元恋人になるベティの声はちょっとアニメ声すぎたかな、と。水瀬いのりでしたっけ。アニメではよく聞くような気もしますが、そもそもここ数年はあまりアニメ観てないからわからぬ。
新しいAIであるE.D.I.T.Hのボイスも早見沙織だし(彼女の声質って花澤香菜が声低く演技してるときと結構似てるのね)。早見沙織は一ヵ所ブレスが気になる(AIという設定なので)ところがあった以外は問題なく。こうしてみるとアニメメインの吹き替えが多いですね。
もともとアベンジャーズの吹き替えは割とアニメっぽい感じがあるので特に気にはしてなかったんですけど、正直なところ水瀬いのりはちょっと気になる

あと、置換された台詞のところでも違和感があったり。
一ヵ所特に気になったのは「新たなフェーズに進まなきゃなりません」って台詞。原語なら違和感ないんでしょうけど、日本語で「フェーズ」って単語をさも日常で使うような素っ気なさで言われると凄まじい違和感。いや、MCUが新しいフェーズに入ることのメタ的なセリフであることはわかるんで、仕方ないと言えば仕方ないんですけど。

あと地名表示のときに出てくる日本語のフォントがダサい。パワポのデフォルトのフォント使ってんのかいな、と。「シュガー・ラッシュ」のときも(あっちは字幕じゃないからもっとひどいんだけど)思ったけど、下手に元の言葉消すくらいなら残してくれていいと思うんですよね。
いやね、元の英語のフォントもパワポのデフォなのかもしれないけど、日本人が日本語と英語を見るときの違いは考慮しなきゃいかんでしょう。吹き替えなんて、日本人のために作られてるんだし。

言葉を聞くことと見ることに対して軽すぎるかな、と。

あと本当にエンドロールの歌はひどいです。「東京喰種」のOPはそんなに嫌いじゃないんですけど、音響の問題なのかインストに完全に声量負けてんじゃんすか。そもそも曲(歌詞は全く聞き取れなかったので)もスパイダーマンに合ってないし。


逆に吹き替えで良かったところは、完全に好みの問題ですけどジェイク・ギレンホールの吹き替えが高橋広樹だったことでしょうか。まあ、元からほとんどギレンホールのフィックスみたいなものではありましたけど、「スパイダーマン」でも高橋さんだったのは地味にうれしい。洋画吹き替えで彼の(ほぼ)フィックスと言えばポール・ウォーカーくらいでしたけど、残念ながら亡くなってしまっているので、もっと高橋広樹の吹き替えが増えろ増えろと思っていたり。
ミステリオ登場の当初はやや高いのが段々低くなっていったような気がしたんですけど、あれは演技とかそういうこととは別なのかな。

 

で、本編。
「ホームカミング」のレビューでもライミ版とアメイジングとの違いに触れたような気はするんですけど、トムホスパイディの場合は子どもであることが強調されるんですよね。
それと対比的に悪(あるいは善)としての「大人」が顔面力というか演技力のあるおっさん(顔)俳優によって描出される。それはジョン・ワッツが「コップ・カー」から描いてきていることでもあって、それこそがMCUスパイダーマン」がこれまでのスパイダーマンと違うところだった。というか、ジョン・ワッツ以外のスパイダーマンの敵対者はどいつもこいつも哀愁を帯びすぎている。

前作では先達たるヒーローのアイアンマンに憧れヒーローを目指す物語で、その帰着として「アベンジャーズ」というヒーローではなく「親愛なる隣人」という中庸的な立ち位置に収まった。

けれど、「インフィニティ・ウォー」で宇宙規模の危機に陥った世界の要請によって、アベンジャーズとしてヒーローになった(なってしまった)スパイディは、さらに「エンド・ゲーム」で先達のヒーローであるアイアンマンの喪失に直面する。

「ファー・フロム・ホーム」はそこからスタートするわけで、どうしたって「親愛なる隣人」であり続けることに揺らぎが生じる。先達のヒーローが抱えていた重責と、ティーンエージャーとしての自我との葛藤に。
特に今回は、ヒーローになりたがるガキではなくもっと卑近で恋に恋してそうな思春期の少年としての側面が強く出ているため、よりスパイダーマンとピーター・パーカーとのギャップが生じやすくなっているような気がする。

よく考えれば「ホームカミング」はピーター・パーカーの自我が発する欲望の延長線上にヒーロー=スパイディがあったわけで、それと比べると今回はむしろ欲望の方向性は逆であるすらと言えるのでは。だって恋ですからね。ヒーローの指向は別でしょう。これはむしろ、サムライミ版のスパイダーマン的であるといえる。

まあそんなわけで前作と同じようにポカして大人に叱られたり・・・ってな感じで進んでいくわけです。

で、敵対者としての大人に今回はジェイク・ギレンホールが配置されているわけですけど、ギレンホールの魅力を十分に引き出せていない気がするんですよね。マイケル・キートンみたいに見るからに怖い顔面っていうタイプではないので。

今回も「ホームカミング」よろしく彼のアップとか寄ったショットがあるんですけど、なんかちょっとギレンホールの撮り方としては正攻法すぎるというか。
そもそもミステリオというキャラクター自体が割と陳腐というか秘めている野心が型通りすぎてギレンホールのポテンシャルを引き出せていないところはある。いや、あんな野心のためにあそこまでする、というのは確かに狂気ではあるんですけれど、ギレンホールの狂気ってもっと超怪しくて静かなのにネチネチした確かに何かを湛えている底知れなさみたいなものにあると思うので、キャラクターが俳優に負けている気がする。
かといってギレンホールのポテンシャルを引き出そうとすると「スパイダーマン」映画としてのバランスを崩さざるを得なくなるだそうし、そういう意味で彼はかなり異物な俳優の一人であるわけで、今回は采配を少し違えたと思わなくもない。キートンがハマっていただけに、というのもあるのかもしれませんけど、やっぱりこの二人はベクトル違うし。
レンホールが演じるにはせこすぎるし、そのせこさが常軌を逸したものであるならまだしもそこまで逸脱していないのが残念なところ。

あ、ただ最後の虚ろな目をして死んでいる顔はギレンホールの本領が発揮されていたと思います。最後にああいう仕掛けを用意してたっていうところも、したたかさの演出としてはアリだと思いますし。ま、そのしたたかさがどうしてもギレンホールのポテンシャル未満に思えちゃうのですが。

それとは別の問題もある。
ミステリオという存在が提示した、新たな脅威に対してスパイダーマンもといピーター・パーカーはどうするのか、という部分に関しては有耶無耶なまま親愛なる隣人に立ち戻っていること。今回はティーンエージャーのピーター・パーカーが描かれまくるので、ラストのスイングはそれだけでも結構胸に来るものもあるにはあるんですけど、やっぱり本質的に「今回は上手くいったけど、次からはどうするの?」という疑問が残る。その答えを、明確に提示したわけでは今回なく、うまい具合に美味しいとこだけ(スターク継承)つまんですり抜けたというか。

が、こっちから疑義を呈す前にエンドクレジットの後に正体がバレるというオチがあったので織り込み済みなのでしょうね。おかげで「ああ、次回作に引っ張るのね」というユニバース映画の煩悶としたものが残るわけですけど。

でもまあ、それを言ってしまえば「ホームカミング」でもそうだった気はするし、そういうあれこれとか関係なく我武者羅に(決して無分別や無思慮というわけではなく)頑張るというのが「スパイダーマン」なのかもしれない。
頑張ること。それ自体がある種、MCUスパイディというかピーター・パーカの本分なのでせう。

うーん、しかし、いつの間にMJのこと好きになったんだよー「ホームカミング」ではそこまで好意を寄せてる描写なかったじゃーんという気もしなくもなく、そのへんはもやっとした。デンゼイヤは可愛いので、それこそMJがからかいで「見た目だけ?」と言ったことがまるで図星かのように思われる隙が無きにしも非ず。

あとはそう、アイアンマンの継承という意味合いはわかるんですけど、ハッピーに「お前はアイアンマンじゃない」「誰もアイアンマンになれない」って言わせたあとにAC/DC流してトニーと同じことをさせるのはなんか秒速で矛盾しているような。まあツェッペリンとか言っちゃうトニーとのズレも表してくれていたりするのでセーフな気もしますが。
それを「アイアンマン」の監督であるジョン・ファブローの面前でやるというのが、リスペクトなのか喧嘩売ってんのかわからなくて面白い(?)。いや普通にリスペクトっつーかオマージュでしょうけど。


映像は所々でCG感が目立つところはあるものの、スパイダーウェブを使ったアクションがふんだんにあるので観ていて楽しくなる場面は前作より多め。
廃墟?でのVSミステリオ戦はどことなく「ドクター・ストレンジ」なトリップ感もあって楽しいですし。


最後の最後、あの役にJKシモンズを使ってくるというあたりの楽屋落ちな感じは嫌いじゃないけど、なんかこう、トビー・マグワイヤのスパイディが好きな人からすると結構モヤモヤしそうではある。

 

あとスタークさんはもうちょっとこう、手心というか真心を近親者とかアベンジャーズメンバー以外にも向けてあげてください。

ていうか死んでもなおヴィランのモチベーションにされるスタークがかわいそう。もちろんメタ的な意味で。

【ハートフル】この世のすべてはあなたを追い詰めるためにある【ボッコ】

けれど救いはないわけではないのかもしれない。というバランス。

白石監督(和彌の方ね)の新作「凪待ち」の試写会に行ってきました。

ネタバレを気にするようなタイプではありませんが、一応公開前の作品につきネタバレ食らいたくない人は読まんといてくらはい。

 

 

白石監督の映画って割と話題になる作品が多い気がするんですが、私は「日本で一番悪い奴ら」しか観たことないっていう。「孤狼の血」も結局見逃しちゃったし。

でもまあ「日本で~」も面白かったしほかの作品も評価は高いしシネコンウォーカーで松久敦さんも推してたし楽しめるだろう、ってことで心置きなく観賞できましたよ。

しかし今年公開(予定)作品が3本もある上によく考えたら去年も3本撮ってるんですよね。しかもバジェットの差がかなりありそうで、なんというか自由闊達に映画作りしている感じがある。

 

本編の上映前に監督本人からのティーチインがあったので、それについて箇条書きで覚書。意訳あり。

・一か月石巻と女川町でのロケ

・いつもは加害者を描いていたが、今回は被害者を描いた。被害者を描くのは苦しかった。ただ、そうやって描くことで問題を浮き彫りにすることができた気がする。

・自分の中で「家族とは?」といった疑問があった。今までも、アウトローを描くと疑似家族を描いていたようなものだったけど、ちゃんと家族としての家族を描きたかった。自分の家族にもちょっと問題みたいなものがあって、弟が失踪したこととかあってそれを振り返ることができるようになったからとかなんとか。

・今まで転落した人は描いていたが、そこから這い上がるひとを描きたかった。

・それで用意した脚本が香取くんに合うんじゃないかと

・競輪は香取君がガチ勢で、ほかの映画のときにも競輪ネタを監督に押すくらいだったので、今回使ってみた。

香取君加藤さんは多分ギャンブル依存症(監督曰く)

・衣装合わせのときからアイドルオーラ消してきていた。

・いつものような暴力を抑えたかったが、ちょいちょい脚本にない部分とかにも暴力を盛り込んでしまった。でも香取君はちゃんと受けてくれた。

・今回は全員良い人にしようとした

・現地の話を取り入れた(フィリピン女性の再婚相手のところとか)

・過去は直接描かず台詞などで匂わせる程度にして、そういう重みは役者の人間力に担わせた。

・3.11の被災地にしたのは、やっぱり思うところがあったから。

といった具合でした。

あんな暴力的な映画を作ってる割に声とかは割と小さかったり、こじんまりしていてちょっとギャップがありましたね。

 

以下あらすじ

毎日ふらふらと無為に過ごしていた郁男は、恋人の亜弓とその娘・美波と共に彼女の故郷、石巻で再出発しようとする。

少しずつ平穏を取り戻しつつあるかのように見えた暮らしだったが、小さな綻びが積み重なり、やがて取り返しのつかないことが起きてしまう――。

ある夜、亜弓から激しくののしられた郁男は、亜弓を車から下ろしてしまう。そのあと、亜弓は何者かに殺害された。

恋人を殺された挙句、同僚からも疑われる郁男。次々と襲い掛かる絶望的な状況から、郁男は次第に自暴自棄になっていく――。

 

なんとなくここ1,2年の邦画の傑作の中に家族の様相(機能不全あるいは手前だったり)を描く映画が多かったですけど、この映画もそういう映画なんですよね。しかし是枝監督と白石監督でリリー・フランキーの扱い方の差にちょっと笑ってしまうんですが。

ところで、こうして公式のあらすじを読み返してみたら、亜弓(西田尚美 演)さんが死ぬことわかってたんですね。

いや、確かに不穏な臭いはチラつかせていましたし、ある意味で亜弓の「美波が変質者に殺されたりしたらどうするの」的なセリフとそれを真面目に取り合わない郁男(香取慎吾 演)のやり取りが呼び水となっていたのだなぁと今は思う。

 

役者に関しては金髪少年含め脇も手堅くメインキャストもみんなよかったです。

 

まずファーストカットですよね。香取君がチャリンコを漕いでいるところから始まるんですけど、これがもう(まあ偶然でしょうが)「岬の兄妹」ばりに足を映すんですよ。

小汚い服を身にまとった足でね~。そのまま競輪場に賭博しにいくわけなんですけれども、競輪場に入っていくときにカメラがほぼ真横になるくらいに斜めになっていくんですよ。随所で同じように(ショットは違うけど)カメラを斜めにする演出があるんですが、それはほぼすべてが郁男の賭博行為の前兆のように使われているんですね。不穏なBGMと共に。この、何か一線を越えてしまうような演出の仕方は、個人的に「こどもつかい」の異界表現にも似たそれを感じる。

 

でね、この競輪場が川崎なんですよ。川崎ですよ、川崎。川崎から石巻に引っ越すわけですよ。なんですかこれは。

はっきり言って、この川崎のパートは思い切りカットすることもできなくもないんですよ。いや、実はここでのナベさんを描くことでこそ後半の展開とか対比として機能したりするわけなんでカットできない理由はあるんですけど、別に東京にしても作劇上の問題はない。じゃあなぜ川崎なのかというと、もちろんそれは川崎であることで郁男の瘋癲ぷりにかなりの説得力を与えることができるから。

川崎の治安の悪さは有名ですが、川崎に務めている知人から色々と話を聞くとそりゃもうすごいです。生活保護関連のこともそうですしスーツを着た知的障碍の人が横断歩道で倒れていたり精神病院の横にやくざの事務所があったりとかそれはもう治安の悪さや濁った空気感は「デビルマン クライベイビー」やブレードランナーのプレミアムパーティの開催地であることなどを引き合いに出すまでもなく周知のとおりです(あくまで川崎区ですが)。まあ、だからこそ電脳九龍城みたいな娯楽施設ができたりもするわけですが。

で、そこからの石巻ですよ。3.11の被災地ですよ。川崎からの石巻。もうこの時点で救安易な救済がないことはわかりますよね。石巻の海も、赤色だったりもやがかっていたり、津波によって新しい海が云々という台詞があったり、整備されていたり、色々な表情を見せてくれるんですよね。

 

それでまあ、郁男のギャンブル友達であるナベさんと川崎競輪場でギャンブルをしつつ、ハロワに行ったり元の職場の後輩に因縁つけられたり、その帰りに酒飲んだり、本当に社会的に後ろ指をさされがちな人間の一日のサイクルを実践するわけです、この二人。

ここでのナベさんと郁男のやりとりは、実は石巻において立場の逆転という対比がなされる。たとえばナベさんが郁男に対して「どうして俺なんかにやさしくしてくれるの?」と言ったり、郁男が餞別と言わんばかりにロードバイクをナベさんにあげたりするわけです。このセリフ、石巻において今度は郁男がリリー・フランキーに対して同じようなことを言ったり、同じく無償に助けてもらったりする。

そういう風に人の情(善性みたいなもの)を強調するわけです。と、書きつつ、実はリリーとナベさんに関してのハートフルなエモーションというのは完全に郁男を追い込むための布石であったりするんですけど。

そういうわかりやすいハートフルの裏側にある暗いものによってリリーやナベさんが郁男を追い詰めるのに対して、反社会の人が最後の最後に(亜弓の葬式の時点であの人が来ていたので、実は最初から彼らだけは一貫しているんですね)義理を通すという反転があるんですよね。

いや、まあね、結局ノミ屋の彼らは反社だし一度はルール破って郁男をぼこぼこにしているのでまったくもって擁護のしようがなく、家に金を渡しにきたといってもそれは至極当然のことでありまして、そんな劇場版ジャイアンみたいなことをしたからといって赦していいわけではないわけです。皆さん騙されてはいけませんぞ。

ただ、救いであったはずの繋がりが一瞬にして反転し絶望に転化してしまうのと同じように(そして正反対に)、最低最悪の連中がやはり繋がり(みなまで言うのもあれですが、勝美の繋がり方ですよね)によって一縷の望みになったりするわけです。

人との繋がりを、白石監督は本作においてほとんどが郁男を追い詰めるためにしか機能させていないのですが、ただだからといって一面的であるかというとそういうわけではなくて、既述のような人たちもそうですし亜弓の元DV夫で美波の実父である村上竜次(音尾琢真 演)の描き方にしても屑っぽさもありつつ改心したように赤ん坊を眺めていたり。そういう一筋縄でいかない描かれ方をしているわけです。

亜弓にしても美波にしても、あの事件に至る過程やその後の関係性に軋轢が生じそうになったりするし。

印刷所の人間くらいでしょうかね、ほとんど良い面がない屑として描かれているのは(

ゲロの吐かせかたが迫真すぎてちょっと笑うくらいなんですけど)。それを言えばこぶつきの女性のヒモで金をくすねるような男なわけで郁男も郁男で屑と受け取れるわけですが、でも監督は郁男を屑としては描いていないでしょう。ギャンブルにしたってきっかけは郁男にはないし、亜弓の事件にしてもそれによって美波から糾弾される郁男の事情を観客はメタ的に把握しているわけで。

それゆえに、本人に落ち度がほとんどないがゆえにその追い込まれが理不尽なんですけれど。

 

だからこそ、亜弓の娘である美波や父である勝美と3人が並んで画面に収まるあのショット(香取君の泣き方とか恒松さんが服の袖掴むのとかね)にほんわかぱっぱするわけなんですよね。

 

そこからラストのエンドロールに合わせて、婚姻届けを沈ませた、どぶぞこを攫うような濁った海の映像が流れる。そういう安易な救いを提示しない終わり方で、郁男カワイソス。

どうでもいいけど、あの船のカギはどう見ても結婚指輪ですよね。そうですよね。亜弓はもういないけど。

 

 

そうそう。場面転換で気になったことがあった。場面転換の仕方が、強引というか一連のシークエンスの結果を端折ったような感じなんですよね。郁男がやーさんに囲まれた次のカットで何事もなかったかのように別のところにいたり、美波と亜弓が喧嘩しちゃったあとで亜弓が郁男の隣の椅子に座ると次の場面に移ってたりとか。本当なら、もっと描けるような気がするんですよね。

この辺は何かすごい感覚的なものなんですけど、どうだったのかなと。いくつか考えたことはあるんですけど、上手くまとまらないので書くのはよしときます。

 

 

 いやしかしですね、香取くん追い込むことに注力したせいでリリー・フランキーサイコパス()であることが露見したところで一気にホラーになりますがな。

亜弓を殺しておきながら何であんなことができるんだよ、という数々の恐怖がですね。もう本当にホラーの領域になってしまっています。抑えきれてねーじゃん白石監督!いつもの感じ出ちゃってんじゃん!

郁男が「俺なんか死んだ方がいいんだよ」という悲痛なナラティブとナベさんの事件(バット持ってたからもしやとは思ったけど)の直後に爆発しちゃうシーンの自暴自棄な感じとかにも私はちょっとウルっときたんですけどね、しかしナラティブを郁男から引き出し聞き受けたのがリリー・フランキーであるということを考えるとね、もう郁男のナラティブが云々とかそういう問題じゃなくて亜弓を殺しておいて平然とそんなことができるリリーのサイコっぷりが気になってしょうがなくなるわけですよ。

ちょっとこの辺は本当に本編のバランスを危うくさせかねない気がしますけど、大丈夫でしょうか。

 

 

 

白石監督はもうちょっとリリー・フランキーを統御しないといつか映画を食われてしまいますぞ。