「100万ドルのホームランボール 捕った!盗られた!訴えた! 」
まさかこんな醜悪な世界があるとは思わなんだ。
原題は「UP foR GRABS」でチャンスは誰にでもある、といったようなニュアンスのイディオムなんですね、これ。うん。邦題のセンスはまさに馬鹿そのものなので、ある意味ではこの映画にふさわしくはある。
それにしてもたかがボール一つでここまで醜い争いを展開できるとは。
ここで描かれるのは人間そのものの醜悪さであると同時に人種差別の視線もある。エコノミック・アニマル、という蔑称も最近は聞かなくなりましたけど当時ではまだ通じていたのでしょうし。
この映画のつくり自体がパトリック・林の話を聞こうとしないあたりも凄まじい。僅かに彼の主張(というか反応)をインサートするけれど、あまりに多勢に無勢で。
彼を擁護する白人の青年もいるのだけれど、何故か彼だけコンビニの店内でインタビューに答えている。ホワイトトラッシュとまではいかないけれど、些か虚仮にするようではある。そういう白人に擁護される日系人という構図を作っている。
このまま一方的な口撃が続くのかと思いきや、30分あたりで今度はアレックス側への反撃が開始される。
まあアレックスは最初から胡散臭い人間として描かれてはいましたけど、アレックスが明らかに三下の悪役の動きをしていて、後半はもう笑うしかない。
ところどころで流れる歌も皮肉が利いていてよろしい。アレックスが金髪ブロンドをナンパしている場面とか、あれヤラセじゃないのかと疑うくらい品性の欠片もないんですけど、カメラの前であんなことするもんなんだろうか。
落札価格が決まったときのアレックスとパトリックのツーショットの顔も最高じゃありませんか。
いやもうね、最後のオチに至るまで最高に面白いです。なんかもう、本当この話一つで教訓が出来上がっていますし。
笑えるドキュメンタリーって何気に自分としては新鮮ですし、人間の滑稽さを堪能したいのであればこの一本は最良でございますな。
えーところでエンドクレジットで登場した彼は一体どういう経緯で登場したんでしょうか。しっかりとクレジットにも名前乗ってるし。
「オレゴン魂」
ネイティブ・アメリカンや中国人の添え物感といい、全体的に古めかしい。
あーでも若い女性じゃないところはいいかも。
しかしウルフくんめちゃくちゃイケメンじゃあありませんか?
あと音楽は大いなる西部っぽい。
「ミッドナイト・ラン」
あーすごい良いですこれ。
デニーロ主演でこれくらい軽く観れて軽い感じで楽しめる映画って割と珍しいのでは?
バディものにちょっとひねりをくわえてロードムービー風に味付けした感じ。
後半のパトカークラッシュの大盤振る舞いとか「ブルス・ブラザーズ」っぽくもありつつ「テルマ&ルイーズ」っぽくもあるんですよね、最後のたたみかけ。
結構とぼけた感じなのにふざけ切っているわけでもないバランス。デニーロが出ててマフィアとか殺し屋とか出てるのにメインキャラに死人が出ないという。
バディものとしてはかなり気軽に観れて良い。
「アダムス・ファミリー」
夏だしホラー映画(?)でも観ようかと思い20数年ぶりに観直す。
いや、今更何か書き加えることがあるというわけではないんですけど、すごい続き物みちなノリで始まっていて結構驚く。
ラウル・ジュリアとかクリストファー・ロイドとか、クリスティーナ・リッチとか、キャストを観て「あーこの人出てたんだ」となる。
監督がMIBシリーズでおなじみのバリー・ソネンフェルドっていうのも納得できる出来栄え。
ハンドとウェンズデーが萌え。
「ザ・ギフト」
山田悠介の罰ゲーム感。
元々は俳優として結構活躍していたジョエル・エジャートンの長編監督デビュー作ってことらしいんですが、中々の良作。
しかもゴードン役をジョエル本人が演じるというあたりのプロデュース力もあるというか。未見ですけど「ある少年の告白」もこの人が監督してるってあたりに、マイノリティというか社会的弱者とされる人たちに向けた視線があるような気がする。「ザ・ギフト」のラストを観るに。
中盤あたりで立場の逆転が描かれる様は、偏見の覆しでもあるわけで、その期待を良い意味で裏切ってくれる。
あの終わり方も後味が悪くてすごくいいんだけど、せっかくレベッカ・ホールをキャスティングしたのにこの人が単なる受け身の狂言回しになってしまっているのがもったいない。まあ確かに彼女はなんというかこう、添えるだけ、っていうタイプに見えなくもないんだけども。
そういう意味では、男二人は両方とも屑なわけでありますので、ぜひパート2を作って二人の血みどろの嫌がらせ合戦をしてくれると面白いことになりそうではある。最後は同士討ちか辛うじてゴードンが生存するものの、みたいな感じだとこの映画の因果関係にも則ってるので。いや半分冗談ですけど。
しかし500万ドルも製作にかかってるってどの辺にそんな金かかってるんだろう。
「ミッドウェイ」
テレビ欄を眺めていてやたら戦争関連の番組が多い(特にNHK)なぁと思ってたんですけど、そういえば八月ですものね。
しかしこの映画を流すのはどうなのだ。
いやまあ、ヘストンがメインという時点でうっすらとザ・正義なにほひが漂ってはいたのですが、アメリカをカッコよく描くために日本側がまるで有能かのように描かれるのは凄まじい違和感が。
三船の顔のおかげで日本軍のメンツが保たれている(多分、話に訊く限りでは三船ってもっと現場で動くタイプっぽいというか、アレですけど)けれど、まあ大本営発表の事実なんかを知っているとどうしても欺瞞に。いや、この時点では有能だったのかもしれませんけど。
それにしてもアメリカのストーリーに貢献するために敵は美化され日系アメリカ人との恋愛模様を盛り込んだりと、凄まじいまでに日本という国が持つ敵性を利用していて、最後にはチャーチルの言葉を添えて締めるという徹底っぷりに米国のライトウィングの徹底ぶりを観てしまう。
ベトナム戦争の前後だし、戦意高揚というか贖罪意識の払拭というか、アメリカ建国200年にしみったれた映画なんか作れるけぇ!という思惑があったのかはわかりませんが、まあそういう戦争(というよりは戦闘によってサクリファイスとかそういう戦争にまつわる色々な美学)を肯定したかったのかなぁ。
それをこの時期に流すNHKというのも中々にとぼけているというか。
それにしても音楽がジョン・ウィリアムズってとこがなんかまたすごいメンツだなぁ。
「野火」
ジャンルとしては戦争映画・・・なんだろうか。しかしこれまで観てきた戦争映画とは違う。とりわけ、ハリウッド製のものとは。
それは多分、戦争という状況(あるいは状態)の中に人間を放り込んでいるのに対して、ツカシンの場合はむしろ個が状況に先立っているからなのかもしれない。
カメラがあまりにも個人に寄っているという部分がまさにそうなんだけど、その個人からしか状況を観ることができない。だから状況を認識することができない。
そういう意味では、戦争映画というよりはむしろ戦闘映画では。所々で畏怖を感じる風景がおどろおどろしいBGMをバックにインサートされ個人の顔にトランジッションしていく。ことほどさように、顔で繋いでいく映画ではある。
ツカシンが殺したあの女性の声と顔が、後にツカシンを追いやることになるその顔の強さががが。
しかし佐川兄弟という本物を観た後で作り物である(いや、それこそが大事なことではあるのですが)これを観ると、多分そんなに複雑なものでもないんじゃないかと思ってしまう。
人が人を食う、ということに対して余計な知識を搭載しているわたしは禁忌とか人としての一線とか、そういうの以前に「クール―病になっちまいませんか」と思ってしまったり。
状況と個が渾然一体となり、両者が分かち難く結びつく中で状況と同期し人を食うことを選ぶか(選ぶ、なんて言葉を使うとまるで能動性があるかのようですが)、同期に失敗してしまうのか。あるいは失敗したと思い込んでいるだけなのかどうか。
その差は、遺伝的な基質もあるだろうし、それ以外の営みによる個々の違いもあるだろう。
が、程度の差はあれど、あの可能性を誰もが内在しているということは努努忘れてはならぬのでしょう。幸い、今のところはあのような状況にこの国はならずに済んでいますが。
「ゾンビ・クエスト」
ボンクラ+ゾンビ=楽しい。この方程式の例にもれず、この映画も楽しかったですよ。それなりに。B級映画なりの佇まいとして。滅茶苦茶で。
なんか聞きなれない言葉だなぁ、と思ったらオランダの映画だったんですね。
徹底的におバカなキャラクターしかいないので逆に安心できるという。
着信数競い合ってるのが笑えすぎる。
ファーストエンカウントがカートに乗ってる老人というのも、それを警官が射殺するというのもなんかこうハチャメチャな勢いがあって、その勢いに乗れるのであれば楽しめる。
無意味なコンビネーションプレイで華麗に決めた直後に自分にスタンガン撃って感電したり。
てっきり「ワールズエンド」みたいに全員生き残るタイプかと思ったんですけどね。
ゾンビになりかけた友達を一思いに殺そうとするも、中々殺せずにかえって苦しませることになってしまうくだりとか、唐突な体力バーの表示とかは「スコット・ピルグリム~」的だったりしますし、なんかとりあえずやりたいことぶっこんだというか。それ以降の登場は特になかったりするあたりの「やりたいからやりました」な潔さ。なぜかガトリングの掃射で発火するゾンビ。いやなんかもう、ここまで知能を低くしてくれるのはそれはそれでアリ。まあどうせこんなもんでしょ、という予想を斜め下に上回っていく(?)。
ただ一ヵ所、翻訳のせいかわたしの理解力のせいか元からなのかわかりませんが、ややギャグでわかりにくいところがあるというか。いや、黒人が車泥棒云々という偏見はわかるのですが、自分から車を盗もうとか言いだして運転席に乗ったらそりゃ車を弄れるのかと思うわけで・・・。
目的であるはずのプリンセスがああなるのは、まあ警官とのフラグが立ってましたから察しはついてたけど雑すぎて笑う。
「トロール・ハンター」
モキュメンタリー。ファンタジック陰謀論。ムー案件。
ホラーというよりはオカルト風SF陰謀論というか。
聞くところによると、最後の大統領の会見映像?は本物らしく(あそこでの「トロール」は油田を指しているとか何とか)、そうなるとあの発言から逆算した一発ネタなのじゃないかと疑ってしまったりするんですけど。
クリス・コロンバス製作でハリウッドリメイクするという話で予定では五年前から撮影開始という話だったらしいのですが、どうなんですかこれは。
いや、そんなものは珍しい話でも何でもないと思いますけど。
「ヴァレリアン 千の惑星の救世主」
大画面で観てたら評価もっと違ってたかも。
ロリk・・・リュック・ベッソンのマスターベーション映画とでも言えばいいのだろうか。これだけのビッグバジェットであれだけ物語を右往左往させて「で、今何やってるんだっけ?」「翻訳機持ってなかったっけ?」といったような疑問符が生じてくるというのは逆にすごいぞベッソン。なんというか、カットのタイミングとかカメラワークとかも所々で気の抜けたような編集があって、なんかもう一点突破の映画ですよ。
あれだけの壮大な絵面に反して「スターウォーズ」のような宇宙の広がりを感じさせなかったり、キャラクターの造形がいまいちよくわからなかったり、という部分がノイズになってしまうのも当然。キャラクターを描く前に状況がどんどん進んでいき、それが脇道にも逸れているように見えてしまっていたりするのが、その辺の要因だとは思いますが。
が、しかしガジェットの使い方、そのアイデアについては滅茶苦茶楽しいでございます。徹底的にオーバーテクノロジーなのではなく、絶妙に手間がかかるあのポータルガンみたいなキューブ上の物体2つの連なりのガジェットとかね。
リアーナの一連のシーンとかまさにベッソンのマスターベーションの最たるものだと思いますし、どうせあんなにやるならもっと徹底的にダンスをエロくやったりせんかいとか色々とあるんですが、ベッソンの超高額の自慰行為を楽しむ感覚があるかどうかで楽しめるかどうかが分かれるよなぁ、と。
わたしはデハーンとガジェットのくだりで結構いけた。途中で退屈しなかったと言えばうそになるけど。
「アイム・ノット・ゼア」
チャンベールの声高。
「ミュータント・クロニクルズ」
なんか設定とか美術の感じとかがゲームっぽいというかアミューズメントっぽいと思ってたら、原作があったんですね、これ。ロン・パールマンなんて大物が出ているあたりの予算の組み方もその辺が関係しているのだろうか。
わざわざ「シンドラー~」っぽく血を見せたがる拘りなんかは好印象ですけど、いかんせん総集編じみていて。
ドラマシリーズとかならもっとうまく描けたのでは。
「溺殺魔 セバスチャン・ドナー」
フレディ感。監督のフィルモグラフィーから察するにホラー映画作家という感じなのでしょうか。
怪異と水が直接的にかかわるという点ではバーサスのジェイソンぽくもあると言える。ていうか、その辺のオマージュもあるのかもしれない。
うん、いや、結構いいんじゃないですか、これ。まあ、水でいえば「ほの暗い水の底から」とか、別に水を扱ったホラー映画は珍しくもない、というか直接的に人間の「生」と結びついているものだけに、この映画ほどメインに据えずとも往々にして水場のシーンがホラーにはあるわけで。
ただ、本作はそこに能力モノっぽさを付け加えているのが面白い。セバスチャンの能力って、ジョジョとかハンターハンターでありそうですもんね。
飲んだ水を吐き出させて、それでできた小さな水たまりに引き込まれる(スマホの本体が先に引き込まれるというのも上手い)のとか、中々上手いじゃありませんか。
でもああいう引き込む、っていう描写ってどちらかというとJホラーの、それこそ「呪怨」がメジャーにしたような印象があるんですけど、やっぱり監督はJホラー要素も取り入れているのだろうな、と。
エレベーターのくだりのギャグなんかはちゃんと笑えるし、その辺のセンスもまああるのでしょう。
まあ娘の設定は活かしきれていたのかわかりませんが、結構な良作でございましたよ。
「シンクロナイズド・モンスター」
怪獣映画というより怪獣が出てくるカウンセリング映画というか。
そういえば、模型を作るっていうのは向こうではメジャーな工作授業なのかしら。シンプソンズでもああいう感じの模型を作っていた覚えがある。
どうして韓国なのかというのは劇中で明言されてなかったけれど、やっぱりグロリアとコリアのスペル的な語感で選んだのだろうか、彼女は。最後の韓国の酒場の人って、もしかして冒頭の女の子だったりするのだろうか。とかとか、色々と考えてしまった。もっと馴染みのある人が観ればそういうことをごちゃごちゃ考えなくてもいいのだろうけど。
アイデアは面白い(まあ子どものころのごっこ遊びをそのまま持ってきただけとも言えるんだけど、発想自体は)しハサウェイの佇まいとかオスカー役のジェイソン・サダイキスの、あのやばげな光をたたえた目とかも素晴らしい。ていうか「モンスター上司」のときと結構役柄違ったのでああいう二面的なやさぐれた役をするとは思わなかったので最初気づきませんでした。
あの役、アフレック兄弟とかベネチオ・デルトロとかがやってたら多分怪獣バトルじゃなくてリアルファイトでハサウェイを撲殺してもっとダークな方に傾いてたりしそうだな、とか妄想したり。
怪獣っていう強烈なフックはあるけど話自体はとても単純。せいぜい怪獣と二人の関係性がバーチャル世界(=ネットに当て込むことは容易)と現実世界の人間の在りようそのメタファーとして観れる、というくらい。実際、怪獣を観る時は(物理的な距離があるから)ネットを通じてしかリアルタイムで確認することはできないし。
オスカーのルサンチマンがヴァーチャルを介することでのみ発散されえず、そこに他者(の痛み)を感じ取る機能が決定的に欠如しているがためにあのような振る舞いができてしまう。
というのは、かなり現代的なテーマ性を帯びている。
物理的暴力に対して智慧によって男を打倒する(しかしそこには物理的な怪獣とロボットという対等性もある)、という点でフェミニズムというか、女性を鼓舞するような視点もあるし、グロリアの自立を促す側面があるのはまごうことなき事実でせう。
ルールの裏を突いて勝つというのも、勝利の方法としてもなぜ勝利したのかという理由も明白でわかりやすくはある。あるのだけど、確実にオスカーは死んでいますので、それでいいのかと小一時間問い詰めたくはなる。
そう、問題はそこんですよね。楽しいんですけど、いかんせんグロリア以外のキャラクターについてモヤモヤするものが残る。
まずあの二人以外のキャラクターを持て余しているし。大体、呑気にテレビ観てる場合じゃないでしょジョエルくんは。止めに行きなさいよ、あんた全貌知ってるんだから。
ある意味でセカイ系というか、アンチセカイ系的としては、やはりオスカーが投げっぱなしジャーマンなのがいただけませぬ。
グロリアのダークサイドとしてのオスカーのラストは、というか根本的な解決になっていないという点において、私はむしろあそこは思いっきり食ってやることこそが揚棄として機能しえたのではないか。
あと韓国に行くところの尺の都合感ががが。
そういう惜しいところがありつつも割と好きな映画ではある。
「エンドレス・フィアー」
ラスト10分くらいの壮大な、というか悪辣な(作り手が良きものとして作っているのも含めて)種明かしがされるところがやはりこの映画の白眉でござんしょ。
何が? そりゃもちろん、こんな人道にもとる戸塚ヨットスクール的なリハビリをさも感動的な話かのように描いている作り手のサイコパスっぷりが。
いやほんと、中々のサイコパス映画ですよこれ。
この手の映画にしてはそこまでつくりが荒くない、という意味でも面白いんですが、やはりラストのいかにもなBGMがかかり始めるあたりからエンドクレジットに入っていくまでの狂いっぷりは爆笑もの。
もしも意識的にああいうつくりにしていたのであれば監督は中々な策士だとは思いますが、あれは多分ナチュラルだよねぇ・・・。
「ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」
結構面白いのに興行的には大こけだったんですねこれ。
どうなんだろう。時期的なことを考えれば色々と要因はありそうだけど、あの時代にニュートンみたいな人がいたとは。
ゲイリー・ロスってどことなく雇われ監督っぽいというか、すごい無難に仕上げてくる気がする。
投票のところで共和党の瓶に何票も入っているのに字幕で明らかにその票数よりも少ない2票と表示されているあたりとか、皮肉が利いてて字幕芸としていいと思うんですけれども。
戦争の描写もこの規模の映画ではかなり攻めているし、現代のアメリカではない背景や美術などは、少なくとも異邦人の目からすれば達成できていると思います。役者も軒並み良いし。ダニエルについてのアメリカの病理をほじくっていますし、モーゼスと彼の背後から迫ってくる連中をぐるぐる回るカメラワークで見せていくのもセンス感じますし、結構凝っていると思うのですけどね。
まあ図星を突かれてしまったから、ということなのかもしれませんが。
「コクーン」
どう見ても天国です本当にありがとうございました。ジャックだけいかないし。デヴィッドもマッチポンプしてまで行かせまいとする世界の力が働くし。
といっても内容自体は「E.T」のそれとほぼ似通っているんだけれど、多分意図的にやっていて、「E.T」を「本当は怖い~」風に解釈し直したといった風情。
「インデペンデンス~」の元ネタと思われる印象的なカットがあったりするあたりは流石ロン・ハワードというか。
リック・ベイカーやらILMやらが参加していたり滅茶苦茶豪華。
「コクーン2 遥かなる地球」
わざわざBSで2も流したのはお盆だからか。
1で天国行った彼らがお盆なので帰ってきた、という話。向こうにそんな文化ないだろうけど。他にも子供より先に親が死なないと~ってくだりとか賽の河原っぽい価値観があったり、というのはわりとどこでも共通なのだろうか。
全体的にさらに「E.T」じみた描写が増えたというか、そういえ①ではやってなかった「E.T」的なアレこれやっておきたいというような感覚が。
「ジョバンニの島」
画面が忙しない。
常に画面内の何か(人物であったり影であったり波であったり)が、そうでなければ画面そのものが動き音も絶えず響き続ける。パン、ズームイン、ズームアウト、SE、ボイス…。
ともかくこの映画には静と動の緩急というものがおよそ存在しない。ひたすら動の連続で、それだけを延々繋いでいる。
本作の作監である伊東伸高さんが同じく作監を務めている湯浅政明監督の作品と比べてみればその差は一目瞭然なように、それはひとえに監督の采配によるものでせう。
だからというべきなのか、アニメーションとして眼を見張るものがあるのかというと、そんなことはない。
無論。先に書いたように作監は伊東伸高さんだし表情や運動のアニメーションそれ自体が悪いわけではない。ただ、それが快楽に繋がることがないのでせう。
それに加えて、それを捉えるカメラそのものである画面自体の揺れは、まるでパワポのアニメーションのように全部が全部一様で手抜きと謗られても反駁しづらいほど。
要するに退屈なのです、この映画は。
ただ島を離れたあたりから、慣れによるものなのかその運動の無化とでも呼称したくなるような画面に違和感を抱くことがなくなってきて、主人公の声が仲代達也になったあたりでようやく静と動の緩急が立ち現れてくる。
それは本当に僅かな間で、何が始まるというわけでもなく、ただ少年時代に途切れた過去を再開しこの映画は幕を閉じる。その直前まで、というか動き続けたままエンドクレジットへと続く。
止まることのない一定の間隔・・・ひたすら振りっぱなしだから間隔ですらないのかもしれない。それは多分、日常の時間。「盆唄」における祭りという概念の逆転とでも言うべきか。
日常にあるがゆえに意識することのない日常アニメ(日常系というアレではなく、サザエさんとかクレしんとかアンパンマンとかの、日常として実生活に馴染んだアニメ)の延長として、この映画は在るように思えてならない。それは夕方のアニメで見慣れたキャラデザであったり動きだったり、というものから導出される印象でしかないのだけれども。
列車はCGなのに銀河鉄道はちゃっかりCGじゃなかったり、波が打つアニメーションとか好きな場面はあったりしますけど、それらがこの退屈さを突き崩すことはない。ただの動きのアナログな連綿の中で無化されてしまうから。
ひたすら退屈を描くこの映画は傑作などではない、と思う。問題提起も葛藤もないに等しい。
けれど、そのキッチュさや日本のアニメーションだからという理由だけで称揚されがちなエキゾチシズムな異邦人の視線が渦巻く昨今の潮流の中にあって、このアニメ映画の持つ退屈さというのはかけがえのないものなのかもしれない。
だからこそ、このアニメ映画持つの平凡さや画面の平板さは退屈でこそあれ、不要なものなどではない。
むしろ、この退屈さというのは慈しむものだろう(私には難しいけれど)。
だって平和って退屈の最たるものだろうし。
そんな私が一番面白く感じたのは声優:仲間由紀恵というところでしょうか。
いや、これは極めて愚劣な笑いでしかないのですが、ラピスのときからずっとこの人の声って本当に仲間由紀恵でしかないなぁと。下手くそというわけではない、というのがまた。
「チャッピー」
この人って本当に同じ話話ばっかり描いてるなぁ。いや好きですけど。
「エリジウム」から思ってたけど、プロムガンプってやっぱりテクノロジーと人間の関係についてすごく「当たり前」の視線に貫かれている。だからああいう越境をさらりと描いてしまえるんだなぁ。
だって奥さん、人型ロボットが担架で運ばれてくるんですよ? そんな風にロボットを人として描くことに少しの躊躇もなく、一方でロボットであることにも臆面がないというオプティミストなプロムガンプ。
チャッピー型のロボットを盾にしながら移動する陣形とか、そういうロボットだからこそ可能なことを罪悪感とかもなしにやってしまう(このシーン滅茶苦茶カッコイイんですよね)。
そうやってロボットをロボットとして描いていたかと思えば、ロボットがRPGを喰らって吹っ飛ぶところはスローで、仰々しく描く。それこそエモーショナルに。それが人間だったら、とでもい言うように。実際、その横では人間が待機していて、そういうことを想像させるように見えるんだけど。
そもそも人型だし。プロムガンプ作品は全部人型か人体の延長としてのテクノロジーだから、やっぱりそこには人間の身体をベースにしたテクノロジーへの眼差しがあるのだろう。
(このへんの眼差しは、人形論とかセックスドールとかあの辺と絡んできて個人的には垂涎ものの話になりそうなんですが、とりあえずはさておく)
わざわざ戦闘に最適化された「機械」としてのロボットから教育が必要な人間としての「機械」=チャッピーにするという手間を踏んでまで人間と機械(テクノロジー)の境界線を曖昧に融解させていき、最後にはその逆まで描くという大胆不敵さ。
もっとも、それはプロムガンプの映画すべてに通底していることなのだけれど。
で、そういうテクノロジーと人間の関係について凄まじく楽観的なプロムガンプは実にロボットらしいロボットを用意しているにもかかわらずアシモフの三原則の葛藤なんておくびにも出さない。
さもありなん。プロムガンプはチャッピーをロボットとして(だけ)描いてなんかいないんだもの。
そもそもチャッピーがやってること(車強奪とか)ってロボットである必要がない。アメリカとNINJAだけでできることだ。足がつかないとか、あんだけ顔が割れてる時点でなんの意味もない。その時点で、冒頭のロボットを盾にして、というようなロボットならではのものを全く機能させていない。
これ、監督にそういう意図があるわけではないお思いますけど、逆説的に人間が大量生産のロボットと差はないことを証明しているようですらあるんですよね。
そういう、創造者(メーカー)が意識していないダークな部分が見えてくるのがプロムガンプ映画の面白いところでもある。
で、もうそういう人間とテクノロジーの関係や葛藤というものがおよそ存在しない(だから人間側のしょぼい嫉妬なんかで無理やり映画を引っ張るしかない)から、面白いことが起こる。だって人間用のニューラルメットでチャッピーの意識を解析できてしまうあたり(まあ2回解析不能という結果はでるけど)とかもう、普通に考えたらもっと練り上げるところですよ。そこからの「ワイルドバンチ」ウォークという勇みっぷり。
「意識」を巡る問題を提起なんかしない(些細な葛藤はあるけど)、だからこれはSFとして観るよりファミリー映画として観るのがいいのか。というより、「アイアンジャイアント」を見るような目線が必要とういか。といっても「アイアンジャイアント」はかなり設定に対してビークルなどもしっかり練られているので、その辺はブラッド・バードは流石というところなんですけども。
このヘッドギアを巡る件で言えば、ムースについても。まあジャックマンをキャスティングしてあんな程度のキャラに落とし込んだのはギャラがもったいない気もするのですがそれはともかくとして、あのヘルメットは視界以外の要素ほとんどないんじゃないですかね、レバーガチャガチャしてるあたり。だけどチャッピー陣営にとってはやたらと重要な機能を担わされていたり、そもそもからしてその技術さえあればチャッピーのAIとかよりも相当に高度な発明してると思うんですけど。
なんかこういうディティールの詰めが甘いあたりなんかも、まあ愛嬌といってもいいのかもしれないけれど、どうなんだプロムガンプ。
へぼいサクリファイスとか、なんか後半から一気に臭くなっていくんですけど、ギャングの頭の足りなさやファミリー感みたいなものの愚劣さなのだと割り切れないこともない。
だとしても後半の明らかに巻いているたたみ方はどうにかならなかったのかと思いますが。まあでもチャッピーの「ノーファイティング!(物理)」とか散々暴力振るってからの「許す」発言とかのうざみゆ並みの天然デストロイヤーぷりは笑えたので良しとします。可愛いし。
ちょうど久方ぶりに「ハーモニー」を読んだ直後ということもあって「プロムガンプ…あんた…いくらなんでもこのご時世にそれは…」という思いも多分にあった。それ30年前の初代TFと言ってることもやってることも同じだからね。アレも歴史に残る天然バカアニメだったね。チャッピーのように作為性のある天然バカなキャラクターはあの作為性のない天然バカさだから突き抜けた楽しさがあって大好きなんですよ、どうでもいいけど。
ラストの展開、一応冒頭に伏線は貼っていたけども、そういう問題ではないと思うよプロムガンプ監督。
まあでも、プロムガンプって最初からああいう風に境界をやすやすと越境してきていたし、そういう意味ではその大前提などガン無視するという天然ぷり(単に無関心なだけだろうけど)はいつも通りではあるんですよね。
そういう無関心さが「エリジウム」からこっち目立つようになったのは、単に「第9地区」では「宇宙から来たエイリアン」という未知未知未っ知ゃんなオーバーすぎるテクノロジーと人間以上の他者性によって脱色されていたからに他ならない。
今どきSFで心や意識を形而上物として扱うのは無理があるし、そもそもプロムガンプはその上か下かという問題を棚上げしているので、この先にどういう方向に舵を切るのかは興味深くはあるんですよね。
短編シリーズはまだ観てないのでなんとも言えませんが。
そうそう。いつもの、といえば階層構造もそうでしたね。
上と下の人間。そして、どちらでもいいけどそのどちらかのコミュニティから逸脱してしまった者がキーパーソンになっていくというプロムガンプの様式。というのはまあ物語としてあるあるだけど、ここまで同じだと笑う。まあ、オチになるけど。
「第9地区」で変貌の過程をまざまざと描き切ったから、もういいだろうという感じなのかな、あのオチは。吹っ切れたのかもしれない。こっちは納得いかないけど(笑)。
ヘリコプターからカーゴの上に4体・・・ではなく4人(とあくまで数えますが)のチャッピーが着地するカットのカッコよさとか、外連味あふれる絵作りとかはさすがに上手いし、新作出れば普通に観たいんでそろそろ映画作ってくれないかなぁ。
余談。
NINJAの「テンション」ズボンで大爆笑。
あとギャング側のあの金髪の女性の声がアニメ声でやけに萌える。
というか全体的にギャング周りの描写は妙なリアリティがあって笑う。監督の出身を考えればなんとなくわからないでもないけど。
「ザ・グリード」
なんか、はるか昔、遠い彼方の幼き頃、この映画をテレビで観たような観たことないような・・・。
これ傑作でしょ。今見るとキャストが結構見覚えがある。「X-men」のジーンで知られるようになったファムケ・ヤンセンとか、サブではありますがジャイモン・フンスーとかもいるし。
冒頭からクリーチャー視点をぶっこんで来てからのタイトルドーンな気前の良さとか、B級っぽくも(あくまでぽいだけですが)サービス精神にあふれている。
セットも割と凝っているし、「ポセイドン・アドベンチャー」を彷彿とさせるスケール感が(ジャンルは違うけど)あって大変よろしい。
キャラクターも描かれているし、中々どうしていい映画ですな。
監督のフィルモグラフィーがハムナプトラシリーズとかG.Iジョーとか非常にほっこりする映画を手掛けている(オッドトーマスそういえば観てないなぁ・・・アントン主役だから観たいんだけど)という。
あと音楽にジェリー・ゴールドスミス、クリーチャーにロブ・ボティーンとかいう豪華なメンツ。
「トレマーズ」の海版ともいえる良作。
「キラーコンドーム」
作り手が笑いに転化させようとしているのにこうやって真正面から真面目に見据えるというのも失礼というか無粋なことは承知なのですが、私にはこれを真正面から語る以外に語り口が見当たらないのでご勘弁を。
それに、戯画化されてはいるけれどこの映画で描かれるフリークス(とマジョリティからみなされる者たち)に対する抑圧はあまり笑えたものではなかったりするし。
いや、少なくとも前半部までは笑える要素が詰まってはいるんですよ。マカロニの同室の患者が背後で心電図の音で死んだことを示唆してたり(それが展開とまったく絡まない、という点でシンプソンズっぽい)とか、ほかにもいろいろと笑えるディテールはある。
ただ、多分、その笑いの質・・・というか笑い方には違いがあるのかもしれない。
そもそもあのホテルでのドタバタというのをヘテロな私はキッチュなものとして笑って観ていたけれど、もしかしてゲイにとってはあるあるな笑いだったりするのではなかろうか、と。いや、ゲイカルチャーについては知らないし、ましてコンドームにちんこを食いちぎられるのがあるあるなんて異世界すぎますし。
でも、あの出会いがしらに発展する恋とかは、やはりギャグめかされてはいるけどゲイにとっては割と日常風景なのでは、と知り得る限りのゲイに対する自分の中の認識としてはある。どうなのでしょう、ゲイの方々的には。
ことほどさように、この映画ではゲイとかおかまといったフリークスの目線から語られる世界が描かれる。それはつまり、ヘテロから抑圧の視線を受ける対象として客体化されたフリークスではなく、フリークスが主体となって抑圧者としてのマジョリティを見つめ返す構造になっている。
ゲイであるマカロニが、多くの映画においてヘテロであることが自然とされる中で、まるでゲイであることが「当然」かのように描かれるというのは、実はかなり先進的ではある。多くのゲイ映画が「ゲイである」ということを問題にしているのに比べると、その差は一目瞭然でしょう。無論、これまでの歴史を考えればそうやって問題提起することは重要なことではあるのですが、この「キラーコンドーム」はその先、ゲイであることがヘテロと同様に特別視されないというスタンスで描き切っている。
とはいえ、フリークスの映画ではあるし、ラストの展開が示すように被抑圧者としてのゲイ意見表明をするのは逃れられない。あと、まあ、ともすれば被抑圧者の怒りをはぐらかしているとも取れなくはないんだけど。
登場人物は常に真面目で、ふざけている様子は一切ない。いや、「サイコ」パロとか「ジョーズ」パロとか、実物を映せないから影を使った巧みな巨根描写とか、ニューヨークでドイツ語とかアメリカ大統領候補(名前がディック)がドイツ語で演説?してたり、その大統領がちんこを食われて新聞記事の見出しで「Dickless Dick」呼ばわりされてたり、遊んでいる部分はあります。
そういうのも含めて真面目にふざけたことをしているから、そのギャップで笑いを導くという全体を貫く笑いの手法を徹底しているけど、誰一人として登場人物たちはふざけてなどいない。
そりゃ32㎝のペニスとか、13本だぞ!とか、そもそもコンドームに食われたとか、大真面目にそういう現実から乖離した(認定されているペニスのサイズは32センチよりデカかったりするので、サイズに関しては実は現実的ではあったりするのだけど)台詞や展開が生じさせるシュールな笑いはあるし、それ自体意図されたものではある。けれど、そういうメタ的な視点を廃してマカロニたちに感情移入して彼らの視点から世界を見据えると、まったく笑い話ではない。
だって、己らのペニスが捕食されるか否かというセイシに関わる問題ですからね。
まあ、ラストの展開が全てを物語っていますけど、要するにゲイ(を筆頭としたフリークス)がマジョリティによって去勢される恐怖の象徴としてのキラーコンドームなわけでして。
マカロニは敬虔な?クリスチャンでありますが、同時に彼はゲイである。そして、ゲイ(だけじゃないけど)が安全にセックスをするためにはコンドームは必要なものです。しかしカトリックではコンドームを教義解釈的に使用を禁止していますし(事実上は違うでしょうけど)、そもそも女医が言うように同性愛を禁じるような解釈がなされてきたわけで。20年以上前の映画であることを考えると今以上にその抑圧は厳しかったでしょうし。
そんでもって、コンドームという彼らにとっての盾を、逆にキラーコンドームという殺すものにするというマジョリティのフォビアとファッショ。ここにギーガーのデザインが合わさるというグロさ。
しかし最後にはその抑圧をはねのけ、クリスチャンでありゲイであることの葛藤を乗り越えビリーを親に紹介するとまで最後には言う。
ボブは不憫でございますが、それも含めて笑えるコメディリリーフとしてあるので大丈夫でしょう(てきとう)。
ありがちなモンスターパニックのつもりで観たのに、思ったより胃もたれする映画でした。
なんかすみませんね、こんなふざけた映画でこんなに真面目くさった書き方しちゃって。もっとこうチンコ連呼して面白おかしく書けたら良かったんですけど。この映画のスピリット的にも。
「ひろしま」
その昔、幼き頃、核の脅威に怯えていた時期が私にもありました。
某国が盛んに核実験を行っている時期で、わたしも学校の図書室ではだしのゲンなんかを読んだり「核兵器」が何かというものを理解できる年ごろだったこともあり、外で遊ぶとき、空から聞こえてくるヘリコプターや飛行機の音にめちゃくちゃビビって、その音が聞こえてくるたびに水を飲む振りをして建物の影に隠れた記憶を思い出しました。はだしのゲンで、建物の影に隠れていた人はピカドンの光を喰らわなかったから助かった、という描写があったからです。
核兵器にまつわる個人的な恐怖については自分の容姿のコンプレックスを茶化してその恐怖をごまかしたりと色々と歪んだものがあったのを思い出しつつ、やっぱりその根底には恐怖があった。
この時期になると戦争にまつわる色々な情報がメディアを通じて流れてくる。風物詩といってもいいだろう。
思うに、それは記憶を風化させないということに関しては適切なのだろうと思う。一方で、それを日常化してしまうことは恐ろしくもある。喉元過ぎれば熱さを忘れるというけれど、常に戦争や核の脅威を意識するということはそれを日常のものとして取り込んでしまうということだ。
それは多分、忘却してしまうことよりももっと恐ろしいことなのかもしれない。常に意識し続けるということは、翻ってルーティーンにしてしまうということになりえるからだ。ルーティーンとはアルゴリズムな、型通りの対応しかできないということであり、戦争という極めて特殊な(特殊でなければならない)状況を思考し続けるにはヒューリスティックな思考を要するからだ。
そのためには第二次世界大戦とか原爆とか、そういう過去のことについて常に新しい情報を摂取し続けなければならない。
そのために、発掘されたこの映画を今観ることは新しい情報に他ならない。
「ARQ:時の牢獄」
「オール・ユー・ニード~」と同じネタで、予算がないのか極めて限定的な空間と短いループ時間設定を使っているのは上手く工夫したとは思いますですが、これ長編はきつくないですか。
中短編で小さくまとめればもうちょっと良くなったと思うけんど。これもあれですね、世にも奇妙な物語とかトワイライトゾーンとか、あの枠でやるのが吉。
「オールユー~」の方はタイムループのネタそのものに迫りそれが興味を持続させ、なおかつそれ自体がトム・クルーズの成長と密接に繋がっていたからよかったのですが。
どうでもいいけどヒロイン役レイチェル・テイラーじゃんすか!「トランスフォーマー」のときに比べてだいぶ老け込んでいるので調べるまで分からなかった・・・。
まあメイクと撮り方もあるだろうけど、それにしてもなんか痩せすぎてるような。
「スポーン」
リメイクが決まったということなので改めて観返してみる。
MCU、もっと言えばライミのスパイダーマン以前のアメコミを原作とした映画って、なんとなくそのマインドがどうしてもコミックであることを下敷きにしてしまって映画であるということをそこあで意識していないのではないか、と思う節がある。
一本の映画を作る、というよりもあくまでアメコミをライブアクションに置き換える、という強いというか。もちろん、そっこには技術的な制約があったりしたことはたしかだけれど、しかしライミのスパイダーマンとそう時系列的に離れていない「スポーン」がいまいち午後ロー感が抜けきらないのはそういうところにあるのではないかと思う。
まあでも、今のアメコミ映画ではバイオレーターのキャラクターをあそこまでくどくどしく描くことはないだろうし、個人的にはこのバイオレーターが一番楽しめた部分なので、こういうちょっとハズれた描き方を楽しむことができるというのは割と貴重な気がする。今となっては。
「TERROR EYES」
えーなんかこれ邦題がないのか「テラーアイズ」で検索すると「テラーアイズ/恐るべき瞳」なるおそらく別の映画がひっかかるくらいほぼ日本語の情報がない。IMDBで検索してようやく出てくるというマイナーな映画っぽいのですが、まあこんなのがメジャーに出てこられても困りますよね、といった具合。
なんか後半のは明らかに別のカメラで撮ってるでしょう、あれ。
出だしはまあ、死の未来を綴った本というのはありがちだしセットですらないのかカメラアングルがシットコム並みに限定されてはいたりするのですが、それでもまあ最序盤はまだ良かった。
それが夢落ちと分かる寸前の死に方あまりに唐突だしもっと「ファイナルディスティネーション」的に殺してくるのかと思いきや怪奇現象だし。全体的にスモーク焚きすぎだし。
そして最後はフェミニストのお姉さんがSASUKEをするという。頑張れば脱出できそうな隙間の檻といい、もうどうでもよくなってきますね。
本編よりも「死霊のえじき2」と「ヘルダミアン2」の予告(宣伝?)の方が楽しい。ていうかそこがピーク。
ダニエル・ローバックが出てるなぁ、と。
「ロンメル軍団を叩け」
なんか青春スポコン映画のような趣が強い。いや「特攻大作戦」を筆頭に?チームものというのがそういう空気を醸成するというのはあるのでしょうが、それにしてもこの「ロンメル~」は戦争の真っただ中な感じがしない。どっちが先かは知りませんが。
切手のくだりとかもはや「オーシャンズ」シリーズじみてすらいる。
かと思いきやクライマックスからラストにいたるまで割とエグい。
「ナーヴ/世界で最も危険なゲーム」
イマ~い(死語)。
こっちよりも同じ監督の作品である「catfish」の方が気になったりするんですけど、まあそれはさておき。
この時期の映画って狙ったようにPC画面をフィーチャーした作品が多い気がするんですけど、何故。青い鯨の事件とほぼ同時期なのもシンクロニシティでかなり興味深い。
ただ日本ではあまり取りざたされることはなかったような気ガス。
タイトルからてっきり電脳世界ものかと思ったんですけど、別にそういうことはなかった。いや確かにネットの世界は関係あるけど、全然「いま」の話でした。
とはいえ、やっぱりネットの世界を異界的に表現したいという思惑はあるようで、ヴィーが初めてゲームをスタートするときのファミレス?の色彩設計はネオンサインがビンビンで現実感を剥奪しに来ていますし、ことほどさように(現実の友人などが絡まない)ゲームのトライ中はそうやって地に足を着いてないように見せてくる。イアンのバイクから青い光が放たれていたりするし。
バイクのチャレンジ中に流れるBGMが「トロン/レガシー」ぽいのは笑いましたけど、なんだか全体的に音楽や編集の方法がポップでまるでコマーシャルみたいなんですよね。そういう、観客を傍観者にするような、現実感を希薄にするような撮り方をしているのはある。
個人的には中盤のシドニーとの小競り合いをメインにキャットファイトを展開してくれた方が、より観客の傍観者としての愉悦を楽しむことができたような気がします。
終盤にかけての展開は正直「あぁ、そっちですか」という方向に進んでいっておバカすぎるスーパーハッカ―な描写で一気におバカ度が上昇してしまうあたりは流石にどうなのかと思ったり、どれだけ群集心理が作用していたってあのオン/オフはカリカチュアしすぎでは。伊坂幸太郎の「魔王」の方が納得できますよ。
ていうかそれができるなら「最初からやれ」という話であって。いや、ナード君はあくまでヴィーに好意を寄せていただけでナーヴなんてどうでもいい、というスタンスであったという風に読み取れるし、それはこの映画で描かれる傍観者のスタンスとして当てはまるんだけれども。
ていうか君、ぼろ負けしたままハッピーエンドに仕立て上げられてるけどいいのか。ナーヴ壊滅の指揮を取った英雄であるナードくんが徹底的に無視される、というのはメタ的に観ればこの作品のテーマとかすっているとは思いますけど、あれは単に作り手のネグレクトなだけでぃわ・・・。
「リンゴ・キッド」
こういう美学が通用した時代というのが羨ましいというか。
なんというかこう、縦横無尽というか。
「ジオストーム」
予告があまりに馬鹿映画だったのでそこまで期待せず観たんですけど、劇場で観ればよかったなーと。
大統領の「結婚しろ」とか、ああいう気の利いた台詞?とか入れてくれるのはポイント高い。
「バグズライフ」
久々に観返して見て思ったのは、この時はまだ今のような集合知体制ではないためか、理詰めよりも情動優先している節がある。
ピクサーは世界そのものをアミューズメント化することに特徴があると思うのですが、本質的にはあまり変わってないんだなぁと改めて思う。
やたら怖かったりグロテスクなシーン(ホッパーがひな鳥にっ食われるシーンとか特に)があったり、どことなく「インディ・ジョーンズ」なアクション活劇な風味があったり、90年代のかほりがする。
ていうかのグロシーンの後にエンドロールでNGシーンというのは、なんというかこう、「女王の教室」に通じる「これはフィクションであり実際の団体と~」的なエクスキューズに思えて笑える。
しかしほぼ同時期のビーストウォーズをテレビで観て「すごいすごい」と言っていたじゃりんこたちは映画館でバグズライフを観てどう思ったのだろう。
単純に比較できないとはいえ、実にのどかだったのだなぁ。
「1.0(ワン・ポイント・オー)」
後半でネタが開示されるから難解ってわけじゃないし、随所で出てくる台詞(分業化なんてのもそうでしょうし、ていうかファーム社とか露骨ですね、よく考えれば)やアレゴリー(機械の虫で故郷を思い出すというあれ)なんかも補助線として観ればむしろわかりやすい話ではあるとは思う。ていうかハワードの台詞が全部説明してるし。
ただね、その割にまどろこっしい(笑)。
まあ、そうやってまどろっこしくすることが1つの戦略ではあるわけですしテーマとも結びついているわけなので否定する気はないんですけど、ちょっとまどろっこしすぎて正直あんまり。
映像もくどいし、なんといいますか、なぞなぞみたいな映画はあんまり好きじゃないんですよね。往々にしてそれ自体に拘泥しすぎているきらいがあるし。世にも奇妙な物語とかの方が上手くまとめられるんじゃないの、こういうの。
「真田幸村の謀略」
そろいもそろって声が良すぎる。
梅宮辰夫ってあんなにカッコよかったっけ?とかガッツ石松の演技達者ぶりとか、俳優陣の魅力だけでもかなりのものなんですが、忍術描写は特殊効果をふんだんにつかっていて、それが今の方向性と違う当時特有のおどろおどろしい使い方だったりして。
いや、なんか歴史とか本当に壊滅的にできないんでアレですけど、そういうのとか抜きにして面白いです。
戦闘シーンとか普通にヤバいと思うんですけど。
「スイス・アーミー・マン」
うっわ~超エヴァっぽいよぉ~。テレビ版の最終話とまごころを~みたいな。
これを今更やるのかーと思いつつ、これが10年代後半に作られるというのも納得するというか。
あと観賞するタイミングが悪かったのもある。「来世~」の直後ということもあって、この映画に対して余計に諦念みたいなものが増幅していたというのはある。諦念というか萎えたというか。
一言で言えばオルターエゴとのセルフリカバリーあるいはセルフセラピーでせうか。それも極めて閉じた。
この映画は徹底して内向きなのは明らかで、だからその心象風景そのものと言える無人島(これが終盤でまさに自分だけの世界であったことが明らかになるわけですけど)に他者が不在なのは決して偶然などではない。
無人島に存在するのは、ハンクとそのオルターエゴであるメニ―以外には、彼らにとって理解を必要としない獣だけだ。
終盤の、シームレスにサラの家の庭に侵入するところのあまりにもあまりな厚かましさ。そこには理解不可能な他者という存在への境界がなく敬意もない。そこにいるのは徹底して自己の延長にある、ハンクの心のうちで象られた「フリークな自分に冷ややかな視線を浴びせてくる」都合の良い他者でしかない。
あるいはこれが自主制作のフィルムであったならば、ここまでこの映画を気持ち悪く思うことはなかっただろう。
この映画の気持ち悪さというのは、たとえるなら外でオタク()であることを自己開示し自己顕示する醜悪さと近い(以前に比べると好きなもの、それ自体が好きというより、それが好きな自分が好きという自我が肥大化しているように思える)。
好きなものを好きと言うのは自由だ。でもそれって、わざわざ他人に向けて言わなきゃならないことなのだろうか? まあ、この辺はSNSあたりの発達とかTwitterが内在する矛盾(あくまで自論ですが)とも関係してくるのでドツボになるのが目に見えているので書きませんけど。
レリゴーするのは自由。好きな服を着て何が悪いのか、好きなことをして何が悪いのか。そうやって己の自由を主張するとき、そこに他者の自由が、他者にどう思われるかという視点が慮られることはない。
だから、徹底して自己完結するこの映画がマスターベーションを強調して(しまって)いたのは当然の結末であるといえる言える。
さもありなん。他者の欠如しているこの映画に、恥の意識なんてあるはずがない。だから人前で屁をかませるのだ、ハンクは。
「ハウンター」
リサ役の人、どこかで観たと思ったら「ゾンビランド」の妹でしたか。あと「マギー」の娘でもありましたね。
てか監督ヴィンチェンゾさんでしたか。割と面白い映画を撮る人ではあるんですけれど、なんかこういま一歩爆発力が。
しかし既視感の詰め合わせ感が「バイバイマン」よりありけり。
しゃれこうべの如何にもな作り物っぽさとか、もうちょっと作りこむ余地はあった気はします。
悪い映画でもなし、かといって特段優れた映画というわけでもなし。いまいち印象に残りづらい映画ではありました。
娘たちの鼻がやたらひくひく動くのは気になったけれども。
あーでもラストの幽霊対決は良かった。バカバカしいけど燃える展開で。バカバカしいけど。