dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

引っ越し大名

観てきた。タダ券もらったので。もらってなかったら、多分観に行ってなかっただろうなーとは思ったので、こういう機会で観れたのは良かった。

楽しかったし。

しかし金持っていくの忘れてパンフレット買えなかったのはちょっとショック。

 

個人的に、時代劇ものって苦手なんですよね。何故なら歴史(と数学と英語と理科と国語)が大の苦手だから。時代劇って割と固有名詞がバシバシ出てきたりするし、それこそWhat if?ものだったりすると歴史の流れとか把握してなかったりしないといけないし(そういう意味では「ブラック・ヴィーナス」とか「チャーチル」とかも割と苦手な部類ではある、ジャンルとしては)。

時代劇って、そういうのが顕著な気がして。大納言とか中納言とか「あずき?」と思ってしまうわけで。

まあ食わず嫌いもいかんということで最近はBSでも時代劇を見たりしているんですが、白黒時代のだとそもそも聞き取りづらいとか色々と弊害はあるのですが、ただまあ楽しめないということはないなーとは思いつつもやっぱりどこかで苦手意識があったりする。最近は公式サイトなんかで事前に単語の意味を掲載していたりするので、無問題なんですけど。

 

だから「引っ越し大名!」もどうかなーと思ったんですけど、よく考えれば星野源が主演という時点でそんなお堅いものになるはずもなかったわけで、まあ杞憂ですよね。

星野源ってすごいテレビドラマ的なトレンディな俳優でしょうし。そんな俳優をメインに据えてガチガチの時代劇をやるわけもなく、というか宣伝からしてそうだったし。ミッチーというのも思えばそんな感じだすなぁ。

で、案の定というか星野源一人だけ徹頭徹尾、時代劇的な演技ではなく現代人をそのまま引っ張ってきた感じ。それに比べて他の俳優陣はかなり声を張っていたりしていたりして、最初はそのちぐはぐさに困惑しつつも「ああ、そういうリアリティラインね」といった感じで慣れてしまえばむしろ観やすくなったり。

個人的には高橋一生ってああいう声の出し方できるんだーという驚きが。今回の高橋一生は腕っぷしが強い役回りということで、好きだけど別に熱心に追っているわけではないという私程度のファンからすると結構新しい視点かなーと楽しめました。

わたすは星野源より高橋一生が好きなので、高橋一生が出ずっぱりなだけで割と満足していたりするんですよね。ミーハーなもんで。や、もちろん出てれば全部楽しめるってわけではないですが。

あと高畑充希の顔がすごいハマってる。この人の顔ってストレートな美人じゃないよなーと思っていたんですけど、時代劇に合う顔なんじゃないかしら。

 

出番はそこまで多くないというかフィーチャーされないけれどもしっかりと脇にもいい役者を配置しているので、メインが星野源と適度に軽く、けれど脇はどっしり構えているので軽すぎず堅すぎず良い塩梅です。

話自体もブラック企業的な問題意識だったり、現場レベルの人間の苦悩だったりといった具合で全然普遍的で観やすいですし。

 

ところでこの映画、「引っ越し大名!」というタイトルの通り引っ越しの映画なんですけれど、実のところ遠足映画でもあります。

遠足映画というのは「遠足はそれ自体よりも前日(の準備とか)が一番楽しい」というような、ある目的に到達するまでのプロセスそのものの楽しさを描くタイプの映画です。全部そうじゃん、と言われるとアレなのですが、プロセスを面白く描くというよりは元からある種の楽しさを含んでいるプロセスを描く、というか。

あるいは「文化祭は準備している間が一番楽しい」というタイプ。私が勝手にカテゴライズしただけなんですけど、最近では「ナイトクルージング」がまさにそういう映画でございました。

実際、この映画は引っ越しの準備にその時間の大半が注がれていますし、道中の物語的なイベントは一つだけで、それが済んでしまえばもう移動のシーンはないですしね。

 

引っ越しの準備にあたってみんなでワイワイガヤガヤしながら資金を集めたりできる限り費用を抑えるために物を売ったり、そこで知恵を働かせたりするシーンは多幸感でホクホクしつつ、一方では首を斬らなければならない苦しい場面あり、酸いも甘いも嚙み分ける引っ越し準備のシーンはやっぱり観ていて楽しい。

 

いざ引っ越し!となるのがラスト30分くらいで、その道中で立身出世のためにミッチー大名を暗殺せんと画策していた西村まさ彦と通じていた隠密の輩との戦闘があるんですが、まあこの戦闘は物語的にそこまで盛り上がるわけでもないしアクション自体も別に目を見張るものはないのですが、ここで我らが高橋一生が活躍するわけですからいいのです。

アクション自体はアレでも、中々ほかではお目にかかれないケレンミ溢れる巨大な槍が観れるんですよね。御手杵の槍を振り回す高橋一生が観れるだけでわたしゃもうOKです。戦隊ものでもここまでてらいなくはやらないと思う。

しかも勇者パースですよ勇者パース!いや、正確には向き違うしアングルももっと仰ぐべきなんですけど、それでもあれは勇者パースなんですよ!

高橋一生が天下三槍を持って勇者パース!もうこれだけで殺陣のへぼさとかどうでもよくなりますた。ええ、どうしようもないなと自分でも思いますが。

ウィキによるとこのシーンは撮影の数日前に松平家の家宝の話を聞いて急遽取り入れたらしいのですが、いや本当にグッジョブとしか言いようがない。

 

最後もしっかりと約束を果たしましたし、問題はない。

いや、15年も待ったのだから彼らは不平不満の一つぐらい星野源にぶつけてもいいだろうとは思うのですが、ちゃんと死者を思ってくれる大名がいて、それ自体を締めに持ってきたのでOK。

小澤さんってバラエティ番組だと結構ふざけた感じの人に見えたんですけど、こういう重みのある演技もできるのだなぁと感心しました。

ピエール滝もそうですけど、この辺の解雇された武士たちは直接的に描かれないだけに待っていた15年の重みを感じさせる役者じゃないといけまへんから、ナイスな采配。

 

うん、結構楽しめました、私。

 

まあ映画というよりはテレビドラマを観ている感覚でしたけども(演出のダサい部分とか)、割と丁寧にやっている部分(武士を呼び出して解雇通知をするシーンで、山里一朗太のときだけ高橋一生が刀を脇に置く=信頼の表現とか)もありましたし、なんだかんだああいうのは泣けますし、個人的には満足。

 

ハッチ月

「100万ドルのホームランボール 捕った!盗られた!訴えた! 」

まさかこんな醜悪な世界があるとは思わなんだ。

原題は「UP foR GRABS」でチャンスは誰にでもある、といったようなニュアンスのイディオムなんですね、これ。うん。邦題のセンスはまさに馬鹿そのものなので、ある意味ではこの映画にふさわしくはある。

 

それにしてもたかがボール一つでここまで醜い争いを展開できるとは。

ここで描かれるのは人間そのものの醜悪さであると同時に人種差別の視線もある。エコノミック・アニマル、という蔑称も最近は聞かなくなりましたけど当時ではまだ通じていたのでしょうし。

この映画のつくり自体がパトリック・林の話を聞こうとしないあたりも凄まじい。僅かに彼の主張(というか反応)をインサートするけれど、あまりに多勢に無勢で。

彼を擁護する白人の青年もいるのだけれど、何故か彼だけコンビニの店内でインタビューに答えている。ホワイトトラッシュとまではいかないけれど、些か虚仮にするようではある。そういう白人に擁護される日系人という構図を作っている。

このまま一方的な口撃が続くのかと思いきや、30分あたりで今度はアレックス側への反撃が開始される。

まあアレックスは最初から胡散臭い人間として描かれてはいましたけど、アレックスが明らかに三下の悪役の動きをしていて、後半はもう笑うしかない。

ところどころで流れる歌も皮肉が利いていてよろしい。アレックスが金髪ブロンドをナンパしている場面とか、あれヤラセじゃないのかと疑うくらい品性の欠片もないんですけど、カメラの前であんなことするもんなんだろうか。

落札価格が決まったときのアレックスとパトリックのツーショットの顔も最高じゃありませんか。

いやもうね、最後のオチに至るまで最高に面白いです。なんかもう、本当この話一つで教訓が出来上がっていますし。

笑えるドキュメンタリーって何気に自分としては新鮮ですし、人間の滑稽さを堪能したいのであればこの一本は最良でございますな。

えーところでエンドクレジットで登場した彼は一体どういう経緯で登場したんでしょうか。しっかりとクレジットにも名前乗ってるし。

 

オレゴン魂」

ネイティブ・アメリカンや中国人の添え物感といい、全体的に古めかしい。

あーでも若い女性じゃないところはいいかも。

しかしウルフくんめちゃくちゃイケメンじゃあありませんか?

あと音楽は大いなる西部っぽい。

 

「ミッドナイト・ラン」

あーすごい良いですこれ。

デニーロ主演でこれくらい軽く観れて軽い感じで楽しめる映画って割と珍しいのでは?

バディものにちょっとひねりをくわえてロードムービー風に味付けした感じ。

後半のパトカークラッシュの大盤振る舞いとか「ブルス・ブラザーズ」っぽくもありつつ「テルマ&ルイーズ」っぽくもあるんですよね、最後のたたみかけ。

結構とぼけた感じなのにふざけ切っているわけでもないバランス。デニーロが出ててマフィアとか殺し屋とか出てるのにメインキャラに死人が出ないという。

バディものとしてはかなり気軽に観れて良い。

 

アダムス・ファミリー

夏だしホラー映画(?)でも観ようかと思い20数年ぶりに観直す。

いや、今更何か書き加えることがあるというわけではないんですけど、すごい続き物みちなノリで始まっていて結構驚く。

ラウル・ジュリアとかクリストファー・ロイドとか、クリスティーナ・リッチとか、キャストを観て「あーこの人出てたんだ」となる。

監督がMIBシリーズでおなじみのバリー・ソネンフェルドっていうのも納得できる出来栄え。

ハンドとウェンズデーが萌え。

 

ザ・ギフト

山田悠介の罰ゲーム感。

元々は俳優として結構活躍していたジョエル・エジャートンの長編監督デビュー作ってことらしいんですが、中々の良作。

しかもゴードン役をジョエル本人が演じるというあたりのプロデュース力もあるというか。未見ですけど「ある少年の告白」もこの人が監督してるってあたりに、マイノリティというか社会的弱者とされる人たちに向けた視線があるような気がする。「ザ・ギフト」のラストを観るに。

中盤あたりで立場の逆転が描かれる様は、偏見の覆しでもあるわけで、その期待を良い意味で裏切ってくれる。

あの終わり方も後味が悪くてすごくいいんだけど、せっかくレベッカ・ホールをキャスティングしたのにこの人が単なる受け身の狂言回しになってしまっているのがもったいない。まあ確かに彼女はなんというかこう、添えるだけ、っていうタイプに見えなくもないんだけども。

そういう意味では、男二人は両方とも屑なわけでありますので、ぜひパート2を作って二人の血みどろの嫌がらせ合戦をしてくれると面白いことになりそうではある。最後は同士討ちか辛うじてゴードンが生存するものの、みたいな感じだとこの映画の因果関係にも則ってるので。いや半分冗談ですけど。

しかし500万ドルも製作にかかってるってどの辺にそんな金かかってるんだろう。

 

「ミッドウェイ」

 テレビ欄を眺めていてやたら戦争関連の番組が多い(特にNHK)なぁと思ってたんですけど、そういえば八月ですものね。

しかしこの映画を流すのはどうなのだ。

いやまあ、ヘストンがメインという時点でうっすらとザ・正義なにほひが漂ってはいたのですが、アメリカをカッコよく描くために日本側がまるで有能かのように描かれるのは凄まじい違和感が。

三船の顔のおかげで日本軍のメンツが保たれている(多分、話に訊く限りでは三船ってもっと現場で動くタイプっぽいというか、アレですけど)けれど、まあ大本営発表の事実なんかを知っているとどうしても欺瞞に。いや、この時点では有能だったのかもしれませんけど。

 

それにしてもアメリカのストーリーに貢献するために敵は美化され日系アメリカ人との恋愛模様を盛り込んだりと、凄まじいまでに日本という国が持つ敵性を利用していて、最後にはチャーチルの言葉を添えて締めるという徹底っぷりに米国のライトウィングの徹底ぶりを観てしまう。

ベトナム戦争の前後だし、戦意高揚というか贖罪意識の払拭というか、アメリカ建国200年にしみったれた映画なんか作れるけぇ!という思惑があったのかはわかりませんが、まあそういう戦争(というよりは戦闘によってサクリファイスとかそういう戦争にまつわる色々な美学)を肯定したかったのかなぁ。

それをこの時期に流すNHKというのも中々にとぼけているというか。

 

それにしても音楽がジョン・ウィリアムズってとこがなんかまたすごいメンツだなぁ。

 

「野火」

ジャンルとしては戦争映画・・・なんだろうか。しかしこれまで観てきた戦争映画とは違う。とりわけ、ハリウッド製のものとは。

それは多分、戦争という状況(あるいは状態)の中に人間を放り込んでいるのに対して、ツカシンの場合はむしろ個が状況に先立っているからなのかもしれない。

カメラがあまりにも個人に寄っているという部分がまさにそうなんだけど、その個人からしか状況を観ることができない。だから状況を認識することができない。

そういう意味では、戦争映画というよりはむしろ戦闘映画では。所々で畏怖を感じる風景がおどろおどろしいBGMをバックにインサートされ個人の顔にトランジッションしていく。ことほどさように、顔で繋いでいく映画ではある。

ツカシンが殺したあの女性の声と顔が、後にツカシンを追いやることになるその顔の強さががが。

 

しかし佐川兄弟という本物を観た後で作り物である(いや、それこそが大事なことではあるのですが)これを観ると、多分そんなに複雑なものでもないんじゃないかと思ってしまう。

人が人を食う、ということに対して余計な知識を搭載しているわたしは禁忌とか人としての一線とか、そういうの以前に「クール―病になっちまいませんか」と思ってしまったり。

 

状況と個が渾然一体となり、両者が分かち難く結びつく中で状況と同期し人を食うことを選ぶか(選ぶ、なんて言葉を使うとまるで能動性があるかのようですが)、同期に失敗してしまうのか。あるいは失敗したと思い込んでいるだけなのかどうか。

その差は、遺伝的な基質もあるだろうし、それ以外の営みによる個々の違いもあるだろう。

 

が、程度の差はあれど、あの可能性を誰もが内在しているということは努努忘れてはならぬのでしょう。幸い、今のところはあのような状況にこの国はならずに済んでいますが。

 

「ゾンビ・クエスト」

ボンクラ+ゾンビ=楽しい。この方程式の例にもれず、この映画も楽しかったですよ。それなりに。B級映画なりの佇まいとして。滅茶苦茶で。

なんか聞きなれない言葉だなぁ、と思ったらオランダの映画だったんですね。

徹底的におバカなキャラクターしかいないので逆に安心できるという。

着信数競い合ってるのが笑えすぎる。

ファーストエンカウントがカートに乗ってる老人というのも、それを警官が射殺するというのもなんかこうハチャメチャな勢いがあって、その勢いに乗れるのであれば楽しめる。

 無意味なコンビネーションプレイで華麗に決めた直後に自分にスタンガン撃って感電したり。

てっきり「ワールズエンド」みたいに全員生き残るタイプかと思ったんですけどね。

ゾンビになりかけた友達を一思いに殺そうとするも、中々殺せずにかえって苦しませることになってしまうくだりとか、唐突な体力バーの表示とかは「スコット・ピルグリム~」的だったりしますし、なんかとりあえずやりたいことぶっこんだというか。それ以降の登場は特になかったりするあたりの「やりたいからやりました」な潔さ。なぜかガトリングの掃射で発火するゾンビ。いやなんかもう、ここまで知能を低くしてくれるのはそれはそれでアリ。まあどうせこんなもんでしょ、という予想を斜め下に上回っていく(?)。

ただ一ヵ所、翻訳のせいかわたしの理解力のせいか元からなのかわかりませんが、ややギャグでわかりにくいところがあるというか。いや、黒人が車泥棒云々という偏見はわかるのですが、自分から車を盗もうとか言いだして運転席に乗ったらそりゃ車を弄れるのかと思うわけで・・・。

目的であるはずのプリンセスがああなるのは、まあ警官とのフラグが立ってましたから察しはついてたけど雑すぎて笑う。

 

トロール・ハンター

モキュメンタリー。ファンタジック陰謀論。ムー案件。

ホラーというよりはオカルト風SF陰謀論というか。

聞くところによると、最後の大統領の会見映像?は本物らしく(あそこでの「トロール」は油田を指しているとか何とか)、そうなるとあの発言から逆算した一発ネタなのじゃないかと疑ってしまったりするんですけど。

クリス・コロンバス製作でハリウッドリメイクするという話で予定では五年前から撮影開始という話だったらしいのですが、どうなんですかこれは。

いや、そんなものは珍しい話でも何でもないと思いますけど。

 

 

ヴァレリアン 千の惑星の救世主

 大画面で観てたら評価もっと違ってたかも。

ロリk・・・リュック・ベッソンマスターベーション映画とでも言えばいいのだろうか。これだけのビッグバジェットであれだけ物語を右往左往させて「で、今何やってるんだっけ?」「翻訳機持ってなかったっけ?」といったような疑問符が生じてくるというのは逆にすごいぞベッソン。なんというか、カットのタイミングとかカメラワークとかも所々で気の抜けたような編集があって、なんかもう一点突破の映画ですよ。

あれだけの壮大な絵面に反して「スターウォーズ」のような宇宙の広がりを感じさせなかったり、キャラクターの造形がいまいちよくわからなかったり、という部分がノイズになってしまうのも当然。キャラクターを描く前に状況がどんどん進んでいき、それが脇道にも逸れているように見えてしまっていたりするのが、その辺の要因だとは思いますが。

 

が、しかしガジェットの使い方、そのアイデアについては滅茶苦茶楽しいでございます。徹底的にオーバーテクノロジーなのではなく、絶妙に手間がかかるあのポータルガンみたいなキューブ上の物体2つの連なりのガジェットとかね。

リアーナの一連のシーンとかまさにベッソンマスターベーションの最たるものだと思いますし、どうせあんなにやるならもっと徹底的にダンスをエロくやったりせんかいとか色々とあるんですが、ベッソンの超高額の自慰行為を楽しむ感覚があるかどうかで楽しめるかどうかが分かれるよなぁ、と。

 

わたしはデハーンとガジェットのくだりで結構いけた。途中で退屈しなかったと言えばうそになるけど。

 

 

アイム・ノット・ゼア

 チャンベールの声高。

 

ミュータント・クロニクルズ

なんか設定とか美術の感じとかがゲームっぽいというかアミューズメントっぽいと思ってたら、原作があったんですね、これ。ロン・パールマンなんて大物が出ているあたりの予算の組み方もその辺が関係しているのだろうか。

わざわざ「シンドラー~」っぽく血を見せたがる拘りなんかは好印象ですけど、いかんせん総集編じみていて。

ドラマシリーズとかならもっとうまく描けたのでは。

 

「溺殺魔 セバスチャン・ドナー」

フレディ感。監督のフィルモグラフィーから察するにホラー映画作家という感じなのでしょうか。

怪異と水が直接的にかかわるという点ではバーサスのジェイソンぽくもあると言える。ていうか、その辺のオマージュもあるのかもしれない。

 

うん、いや、結構いいんじゃないですか、これ。まあ、水でいえば「ほの暗い水の底から」とか、別に水を扱ったホラー映画は珍しくもない、というか直接的に人間の「生」と結びついているものだけに、この映画ほどメインに据えずとも往々にして水場のシーンがホラーにはあるわけで。

ただ、本作はそこに能力モノっぽさを付け加えているのが面白い。セバスチャンの能力って、ジョジョとかハンターハンターでありそうですもんね。

飲んだ水を吐き出させて、それでできた小さな水たまりに引き込まれる(スマホの本体が先に引き込まれるというのも上手い)のとか、中々上手いじゃありませんか。

でもああいう引き込む、っていう描写ってどちらかというとJホラーの、それこそ「呪怨」がメジャーにしたような印象があるんですけど、やっぱり監督はJホラー要素も取り入れているのだろうな、と。

エレベーターのくだりのギャグなんかはちゃんと笑えるし、その辺のセンスもまああるのでしょう。

まあ娘の設定は活かしきれていたのかわかりませんが、結構な良作でございましたよ。

 

 

「シンクロナイズド・モンスター」

怪獣映画というより怪獣が出てくるカウンセリング映画というか。

そういえば、模型を作るっていうのは向こうではメジャーな工作授業なのかしら。シンプソンズでもああいう感じの模型を作っていた覚えがある。

どうして韓国なのかというのは劇中で明言されてなかったけれど、やっぱりグロリアとコリアのスペル的な語感で選んだのだろうか、彼女は。最後の韓国の酒場の人って、もしかして冒頭の女の子だったりするのだろうか。とかとか、色々と考えてしまった。もっと馴染みのある人が観ればそういうことをごちゃごちゃ考えなくてもいいのだろうけど。

 

イデアは面白い(まあ子どものころのごっこ遊びをそのまま持ってきただけとも言えるんだけど、発想自体は)しハサウェイの佇まいとかオスカー役のジェイソン・サダイキスの、あのやばげな光をたたえた目とかも素晴らしい。ていうか「モンスター上司」のときと結構役柄違ったのでああいう二面的なやさぐれた役をするとは思わなかったので最初気づきませんでした。

あの役、アフレック兄弟とかベネチオ・デルトロとかがやってたら多分怪獣バトルじゃなくてリアルファイトでハサウェイを撲殺してもっとダークな方に傾いてたりしそうだな、とか妄想したり。

 

怪獣っていう強烈なフックはあるけど話自体はとても単純。せいぜい怪獣と二人の関係性がバーチャル世界(=ネットに当て込むことは容易)と現実世界の人間の在りようそのメタファーとして観れる、というくらい。実際、怪獣を観る時は(物理的な距離があるから)ネットを通じてしかリアルタイムで確認することはできないし。

オスカーのルサンチマンがヴァーチャルを介することでのみ発散されえず、そこに他者(の痛み)を感じ取る機能が決定的に欠如しているがためにあのような振る舞いができてしまう。

というのは、かなり現代的なテーマ性を帯びている。

物理的暴力に対して智慧によって男を打倒する(しかしそこには物理的な怪獣とロボットという対等性もある)、という点でフェミニズムというか、女性を鼓舞するような視点もあるし、グロリアの自立を促す側面があるのはまごうことなき事実でせう。

ルールの裏を突いて勝つというのも、勝利の方法としてもなぜ勝利したのかという理由も明白でわかりやすくはある。あるのだけど、確実にオスカーは死んでいますので、それでいいのかと小一時間問い詰めたくはなる。

そう、問題はそこんですよね。楽しいんですけど、いかんせんグロリア以外のキャラクターについてモヤモヤするものが残る。

まずあの二人以外のキャラクターを持て余しているし。大体、呑気にテレビ観てる場合じゃないでしょジョエルくんは。止めに行きなさいよ、あんた全貌知ってるんだから。

ある意味でセカイ系というか、アンチセカイ系的としては、やはりオスカーが投げっぱなしジャーマンなのがいただけませぬ。

グロリアのダークサイドとしてのオスカーのラストは、というか根本的な解決になっていないという点において、私はむしろあそこは思いっきり食ってやることこそが揚棄として機能しえたのではないか。

あと韓国に行くところの尺の都合感ががが。

そういう惜しいところがありつつも割と好きな映画ではある。

 

 「エンドレス・フィアー」

ラスト10分くらいの壮大な、というか悪辣な(作り手が良きものとして作っているのも含めて)種明かしがされるところがやはりこの映画の白眉でござんしょ。

何が? そりゃもちろん、こんな人道にもとる戸塚ヨットスクール的なリハビリをさも感動的な話かのように描いている作り手のサイコパスっぷりが。

いやほんと、中々のサイコパス映画ですよこれ。

この手の映画にしてはそこまでつくりが荒くない、という意味でも面白いんですが、やはりラストのいかにもなBGMがかかり始めるあたりからエンドクレジットに入っていくまでの狂いっぷりは爆笑もの。

もしも意識的にああいうつくりにしていたのであれば監督は中々な策士だとは思いますが、あれは多分ナチュラルだよねぇ・・・。

 

ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」

 結構面白いのに興行的には大こけだったんですねこれ。

どうなんだろう。時期的なことを考えれば色々と要因はありそうだけど、あの時代にニュートンみたいな人がいたとは。

ゲイリー・ロスってどことなく雇われ監督っぽいというか、すごい無難に仕上げてくる気がする。

投票のところで共和党の瓶に何票も入っているのに字幕で明らかにその票数よりも少ない2票と表示されているあたりとか、皮肉が利いてて字幕芸としていいと思うんですけれども。

戦争の描写もこの規模の映画ではかなり攻めているし、現代のアメリカではない背景や美術などは、少なくとも異邦人の目からすれば達成できていると思います。役者も軒並み良いし。ダニエルについてのアメリカの病理をほじくっていますし、モーゼスと彼の背後から迫ってくる連中をぐるぐる回るカメラワークで見せていくのもセンス感じますし、結構凝っていると思うのですけどね。

 

まあ図星を突かれてしまったから、ということなのかもしれませんが。

 

コクーン

どう見ても天国です本当にありがとうございました。ジャックだけいかないし。デヴィッドもマッチポンプしてまで行かせまいとする世界の力が働くし。

といっても内容自体は「E.T」のそれとほぼ似通っているんだけれど、多分意図的にやっていて、「E.T」を「本当は怖い~」風に解釈し直したといった風情。

「インデペンデンス~」の元ネタと思われる印象的なカットがあったりするあたりは流石ロン・ハワードというか。

 リック・ベイカーやらILMやらが参加していたり滅茶苦茶豪華。

 

コクーン2 遥かなる地球」

わざわざBSで2も流したのはお盆だからか。

1で天国行った彼らがお盆なので帰ってきた、という話。向こうにそんな文化ないだろうけど。他にも子供より先に親が死なないと~ってくだりとか賽の河原っぽい価値観があったり、というのはわりとどこでも共通なのだろうか。

全体的にさらに「E.T」じみた描写が増えたというか、そういえ①ではやってなかった「E.T」的なアレこれやっておきたいというような感覚が。

 

ジョバンニの島

画面が忙しない。

常に画面内の何か(人物であったり影であったり波であったり)が、そうでなければ画面そのものが動き音も絶えず響き続ける。パン、ズームイン、ズームアウト、SE、ボイス…。

ともかくこの映画には静と動の緩急というものがおよそ存在しない。ひたすら動の連続で、それだけを延々繋いでいる。

本作の作監である伊東伸高さんが同じく作監を務めている湯浅政明監督の作品と比べてみればその差は一目瞭然なように、それはひとえに監督の采配によるものでせう。

だからというべきなのか、アニメーションとして眼を見張るものがあるのかというと、そんなことはない。

無論。先に書いたように作監は伊東伸高さんだし表情や運動のアニメーションそれ自体が悪いわけではない。ただ、それが快楽に繋がることがないのでせう。

それに加えて、それを捉えるカメラそのものである画面自体の揺れは、まるでパワポのアニメーションのように全部が全部一様で手抜きと謗られても反駁しづらいほど。

要するに退屈なのです、この映画は。

 

ただ島を離れたあたりから、慣れによるものなのかその運動の無化とでも呼称したくなるような画面に違和感を抱くことがなくなってきて、主人公の声が仲代達也になったあたりでようやく静と動の緩急が立ち現れてくる。

それは本当に僅かな間で、何が始まるというわけでもなく、ただ少年時代に途切れた過去を再開しこの映画は幕を閉じる。その直前まで、というか動き続けたままエンドクレジットへと続く。

止まることのない一定の間隔・・・ひたすら振りっぱなしだから間隔ですらないのかもしれない。それは多分、日常の時間。「盆唄」における祭りという概念の逆転とでも言うべきか。

 

日常にあるがゆえに意識することのない日常アニメ(日常系というアレではなく、サザエさんとかクレしんとかアンパンマンとかの、日常として実生活に馴染んだアニメ)の延長として、この映画は在るように思えてならない。それは夕方のアニメで見慣れたキャラデザであったり動きだったり、というものから導出される印象でしかないのだけれども。

 列車はCGなのに銀河鉄道はちゃっかりCGじゃなかったり、波が打つアニメーションとか好きな場面はあったりしますけど、それらがこの退屈さを突き崩すことはない。ただの動きのアナログな連綿の中で無化されてしまうから。

 

ひたすら退屈を描くこの映画は傑作などではない、と思う。問題提起も葛藤もないに等しい。

けれど、そのキッチュさや日本のアニメーションだからという理由だけで称揚されがちなエキゾチシズムな異邦人の視線が渦巻く昨今の潮流の中にあって、このアニメ映画の持つ退屈さというのはかけがえのないものなのかもしれない。

 だからこそ、このアニメ映画持つの平凡さや画面の平板さは退屈でこそあれ、不要なものなどではない。

むしろ、この退屈さというのは慈しむものだろう(私には難しいけれど)。

 

だって平和って退屈の最たるものだろうし。

 

 

そんな私が一番面白く感じたのは声優:仲間由紀恵というところでしょうか。

いや、これは極めて愚劣な笑いでしかないのですが、ラピスのときからずっとこの人の声って本当に仲間由紀恵でしかないなぁと。下手くそというわけではない、というのがまた。

 

「チャッピー」

この人って本当に同じ話話ばっかり描いてるなぁ。いや好きですけど。

 

エリジウム」から思ってたけど、プロムガンプってやっぱりテクノロジーと人間の関係についてすごく「当たり前」の視線に貫かれている。だからああいう越境をさらりと描いてしまえるんだなぁ。

だって奥さん、人型ロボットが担架で運ばれてくるんですよ? そんな風にロボットを人として描くことに少しの躊躇もなく、一方でロボットであることにも臆面がないというオプティミストなプロムガンプ。

チャッピー型のロボットを盾にしながら移動する陣形とか、そういうロボットだからこそ可能なことを罪悪感とかもなしにやってしまう(このシーン滅茶苦茶カッコイイんですよね)。

そうやってロボットをロボットとして描いていたかと思えば、ロボットがRPGを喰らって吹っ飛ぶところはスローで、仰々しく描く。それこそエモーショナルに。それが人間だったら、とでもい言うように。実際、その横では人間が待機していて、そういうことを想像させるように見えるんだけど。

そもそも人型だし。プロムガンプ作品は全部人型か人体の延長としてのテクノロジーだから、やっぱりそこには人間の身体をベースにしたテクノロジーへの眼差しがあるのだろう。

(このへんの眼差しは、人形論とかセックスドールとかあの辺と絡んできて個人的には垂涎ものの話になりそうなんですが、とりあえずはさておく)

わざわざ戦闘に最適化された「機械」としてのロボットから教育が必要な人間としての「機械」=チャッピーにするという手間を踏んでまで人間と機械(テクノロジー)の境界線を曖昧に融解させていき、最後にはその逆まで描くという大胆不敵さ。

もっとも、それはプロムガンプの映画すべてに通底していることなのだけれど。

 

で、そういうテクノロジーと人間の関係について凄まじく楽観的なプロムガンプは実にロボットらしいロボットを用意しているにもかかわらずアシモフの三原則の葛藤なんておくびにも出さない。

さもありなん。プロムガンプはチャッピーをロボットとして(だけ)描いてなんかいないんだもの。

そもそもチャッピーがやってること(車強奪とか)ってロボットである必要がない。アメリカとNINJAだけでできることだ。足がつかないとか、あんだけ顔が割れてる時点でなんの意味もない。その時点で、冒頭のロボットを盾にして、というようなロボットならではのものを全く機能させていない。

これ、監督にそういう意図があるわけではないお思いますけど、逆説的に人間が大量生産のロボットと差はないことを証明しているようですらあるんですよね。

そういう、創造者(メーカー)が意識していないダークな部分が見えてくるのがプロムガンプ映画の面白いところでもある。

 

で、もうそういう人間とテクノロジーの関係や葛藤というものがおよそ存在しない(だから人間側のしょぼい嫉妬なんかで無理やり映画を引っ張るしかない)から、面白いことが起こる。だって人間用のニューラルメットでチャッピーの意識を解析できてしまうあたり(まあ2回解析不能という結果はでるけど)とかもう、普通に考えたらもっと練り上げるところですよ。そこからの「ワイルドバンチ」ウォークという勇みっぷり。

「意識」を巡る問題を提起なんかしない(些細な葛藤はあるけど)、だからこれはSFとして観るよりファミリー映画として観るのがいいのか。というより、「アイアンジャイアント」を見るような目線が必要とういか。といっても「アイアンジャイアント」はかなり設定に対してビークルなどもしっかり練られているので、その辺はブラッド・バードは流石というところなんですけども。

 

このヘッドギアを巡る件で言えば、ムースについても。まあジャックマンをキャスティングしてあんな程度のキャラに落とし込んだのはギャラがもったいない気もするのですがそれはともかくとして、あのヘルメットは視界以外の要素ほとんどないんじゃないですかね、レバーガチャガチャしてるあたり。だけどチャッピー陣営にとってはやたらと重要な機能を担わされていたり、そもそもからしてその技術さえあればチャッピーのAIとかよりも相当に高度な発明してると思うんですけど。

なんかこういうディティールの詰めが甘いあたりなんかも、まあ愛嬌といってもいいのかもしれないけれど、どうなんだプロムガンプ。

 

へぼいサクリファイスとか、なんか後半から一気に臭くなっていくんですけど、ギャングの頭の足りなさやファミリー感みたいなものの愚劣さなのだと割り切れないこともない。

だとしても後半の明らかに巻いているたたみ方はどうにかならなかったのかと思いますが。まあでもチャッピーの「ノーファイティング!(物理)」とか散々暴力振るってからの「許す」発言とかのうざみゆ並みの天然デストロイヤーぷりは笑えたので良しとします。可愛いし。

 

 

ちょうど久方ぶりに「ハーモニー」を読んだ直後ということもあって「プロムガンプ…あんた…いくらなんでもこのご時世にそれは…」という思いも多分にあった。それ30年前の初代TFと言ってることもやってることも同じだからね。アレも歴史に残る天然バカアニメだったね。チャッピーのように作為性のある天然バカなキャラクターはあの作為性のない天然バカさだから突き抜けた楽しさがあって大好きなんですよ、どうでもいいけど。

ラストの展開、一応冒頭に伏線は貼っていたけども、そういう問題ではないと思うよプロムガンプ監督。

 

まあでも、プロムガンプって最初からああいう風に境界をやすやすと越境してきていたし、そういう意味ではその大前提などガン無視するという天然ぷり(単に無関心なだけだろうけど)はいつも通りではあるんですよね。

そういう無関心さが「エリジウム」からこっち目立つようになったのは、単に「第9地区」では「宇宙から来たエイリアン」という未知未知未っ知ゃんなオーバーすぎるテクノロジーと人間以上の他者性によって脱色されていたからに他ならない。

今どきSFで心や意識を形而上物として扱うのは無理があるし、そもそもプロムガンプはその上か下かという問題を棚上げしているので、この先にどういう方向に舵を切るのかは興味深くはあるんですよね。

 短編シリーズはまだ観てないのでなんとも言えませんが。

 

そうそう。いつもの、といえば階層構造もそうでしたね。

上と下の人間。そして、どちらでもいいけどそのどちらかのコミュニティから逸脱してしまった者がキーパーソンになっていくというプロムガンプの様式。というのはまあ物語としてあるあるだけど、ここまで同じだと笑う。まあ、オチになるけど。

第9地区」で変貌の過程をまざまざと描き切ったから、もういいだろうという感じなのかな、あのオチは。吹っ切れたのかもしれない。こっちは納得いかないけど(笑)。

 

 

ヘリコプターからカーゴの上に4体・・・ではなく4人(とあくまで数えますが)のチャッピーが着地するカットのカッコよさとか、外連味あふれる絵作りとかはさすがに上手いし、新作出れば普通に観たいんでそろそろ映画作ってくれないかなぁ。

 

余談。

 NINJAの「テンション」ズボンで大爆笑。

あとギャング側のあの金髪の女性の声がアニメ声でやけに萌える。

というか全体的にギャング周りの描写は妙なリアリティがあって笑う。監督の出身を考えればなんとなくわからないでもないけど。

 

ザ・グリード

なんか、はるか昔、遠い彼方の幼き頃、この映画をテレビで観たような観たことないような・・・。

これ傑作でしょ。今見るとキャストが結構見覚えがある。「X-men」のジーンで知られるようになったファムケ・ヤンセンとか、サブではありますがジャイモン・フンスーとかもいるし。

 

冒頭からクリーチャー視点をぶっこんで来てからのタイトルドーンな気前の良さとか、B級っぽくも(あくまでぽいだけですが)サービス精神にあふれている。

セットも割と凝っているし、「ポセイドン・アドベンチャー」を彷彿とさせるスケール感が(ジャンルは違うけど)あって大変よろしい。

キャラクターも描かれているし、中々どうしていい映画ですな。

監督のフィルモグラフィーハムナプトラシリーズとかG.Iジョーとか非常にほっこりする映画を手掛けている(オッドトーマスそういえば観てないなぁ・・・アントン主役だから観たいんだけど)という。

あと音楽にジェリー・ゴールドスミス、クリーチャーにロブ・ボティーンとかいう豪華なメンツ。

トレマーズ」の海版ともいえる良作。

 

「キラーコンドーム」

作り手が笑いに転化させようとしているのにこうやって真正面から真面目に見据えるというのも失礼というか無粋なことは承知なのですが、私にはこれを真正面から語る以外に語り口が見当たらないのでご勘弁を。

それに、戯画化されてはいるけれどこの映画で描かれるフリークス(とマジョリティからみなされる者たち)に対する抑圧はあまり笑えたものではなかったりするし。

いや、少なくとも前半部までは笑える要素が詰まってはいるんですよ。マカロニの同室の患者が背後で心電図の音で死んだことを示唆してたり(それが展開とまったく絡まない、という点でシンプソンズっぽい)とか、ほかにもいろいろと笑えるディテールはある。

ただ、多分、その笑いの質・・・というか笑い方には違いがあるのかもしれない。

そもそもあのホテルでのドタバタというのをヘテロな私はキッチュなものとして笑って観ていたけれど、もしかしてゲイにとってはあるあるな笑いだったりするのではなかろうか、と。いや、ゲイカルチャーについては知らないし、ましてコンドームにちんこを食いちぎられるのがあるあるなんて異世界すぎますし。

でも、あの出会いがしらに発展する恋とかは、やはりギャグめかされてはいるけどゲイにとっては割と日常風景なのでは、と知り得る限りのゲイに対する自分の中の認識としてはある。どうなのでしょう、ゲイの方々的には。

 

ことほどさように、この映画ではゲイとかおかまといったフリークスの目線から語られる世界が描かれる。それはつまり、ヘテロから抑圧の視線を受ける対象として客体化されたフリークスではなく、フリークスが主体となって抑圧者としてのマジョリティを見つめ返す構造になっている。

ゲイであるマカロニが、多くの映画においてヘテロであることが自然とされる中で、まるでゲイであることが「当然」かのように描かれるというのは、実はかなり先進的ではある。多くのゲイ映画が「ゲイである」ということを問題にしているのに比べると、その差は一目瞭然でしょう。無論、これまでの歴史を考えればそうやって問題提起することは重要なことではあるのですが、この「キラーコンドーム」はその先、ゲイであることがヘテロと同様に特別視されないというスタンスで描き切っている。

とはいえ、フリークスの映画ではあるし、ラストの展開が示すように被抑圧者としてのゲイ意見表明をするのは逃れられない。あと、まあ、ともすれば被抑圧者の怒りをはぐらかしているとも取れなくはないんだけど。

 

登場人物は常に真面目で、ふざけている様子は一切ない。いや、「サイコ」パロとか「ジョーズ」パロとか、実物を映せないから影を使った巧みな巨根描写とか、ニューヨークでドイツ語とかアメリカ大統領候補(名前がディック)がドイツ語で演説?してたり、その大統領がちんこを食われて新聞記事の見出しで「Dickless Dick」呼ばわりされてたり、遊んでいる部分はあります。

そういうのも含めて真面目にふざけたことをしているから、そのギャップで笑いを導くという全体を貫く笑いの手法を徹底しているけど、誰一人として登場人物たちはふざけてなどいない。

そりゃ32㎝のペニスとか、13本だぞ!とか、そもそもコンドームに食われたとか、大真面目にそういう現実から乖離した(認定されているペニスのサイズは32センチよりデカかったりするので、サイズに関しては実は現実的ではあったりするのだけど)台詞や展開が生じさせるシュールな笑いはあるし、それ自体意図されたものではある。けれど、そういうメタ的な視点を廃してマカロニたちに感情移入して彼らの視点から世界を見据えると、まったく笑い話ではない。

だって、己らのペニスが捕食されるか否かというセイシに関わる問題ですからね。

まあ、ラストの展開が全てを物語っていますけど、要するにゲイ(を筆頭としたフリークス)がマジョリティによって去勢される恐怖の象徴としてのキラーコンドームなわけでして。

マカロニは敬虔な?クリスチャンでありますが、同時に彼はゲイである。そして、ゲイ(だけじゃないけど)が安全にセックスをするためにはコンドームは必要なものです。しかしカトリックではコンドームを教義解釈的に使用を禁止していますし(事実上は違うでしょうけど)、そもそも女医が言うように同性愛を禁じるような解釈がなされてきたわけで。20年以上前の映画であることを考えると今以上にその抑圧は厳しかったでしょうし。

そんでもって、コンドームという彼らにとっての盾を、逆にキラーコンドームという殺すものにするというマジョリティのフォビアとファッショ。ここにギーガーのデザインが合わさるというグロさ。

しかし最後にはその抑圧をはねのけ、クリスチャンでありゲイであることの葛藤を乗り越えビリーを親に紹介するとまで最後には言う。

ボブは不憫でございますが、それも含めて笑えるコメディリリーフとしてあるので大丈夫でしょう(てきとう)。

ありがちなモンスターパニックのつもりで観たのに、思ったより胃もたれする映画でした。

 

なんかすみませんね、こんなふざけた映画でこんなに真面目くさった書き方しちゃって。もっとこうチンコ連呼して面白おかしく書けたら良かったんですけど。この映画のスピリット的にも。

 

ひろしま

 その昔、幼き頃、核の脅威に怯えていた時期が私にもありました。

某国が盛んに核実験を行っている時期で、わたしも学校の図書室ではだしのゲンなんかを読んだり「核兵器」が何かというものを理解できる年ごろだったこともあり、外で遊ぶとき、空から聞こえてくるヘリコプターや飛行機の音にめちゃくちゃビビって、その音が聞こえてくるたびに水を飲む振りをして建物の影に隠れた記憶を思い出しました。はだしのゲンで、建物の影に隠れていた人はピカドンの光を喰らわなかったから助かった、という描写があったからです。

核兵器にまつわる個人的な恐怖については自分の容姿のコンプレックスを茶化してその恐怖をごまかしたりと色々と歪んだものがあったのを思い出しつつ、やっぱりその根底には恐怖があった。

この時期になると戦争にまつわる色々な情報がメディアを通じて流れてくる。風物詩といってもいいだろう。

思うに、それは記憶を風化させないということに関しては適切なのだろうと思う。一方で、それを日常化してしまうことは恐ろしくもある。喉元過ぎれば熱さを忘れるというけれど、常に戦争や核の脅威を意識するということはそれを日常のものとして取り込んでしまうということだ。

それは多分、忘却してしまうことよりももっと恐ろしいことなのかもしれない。常に意識し続けるということは、翻ってルーティーンにしてしまうということになりえるからだ。ルーティーンとはアルゴリズムな、型通りの対応しかできないということであり、戦争という極めて特殊な(特殊でなければならない)状況を思考し続けるにはヒューリスティックな思考を要するからだ。

そのためには第二次世界大戦とか原爆とか、そういう過去のことについて常に新しい情報を摂取し続けなければならない。

そのために、発掘されたこの映画を今観ることは新しい情報に他ならない。 

 

「ARQ:時の牢獄」

「オール・ユー・ニード~」と同じネタで、予算がないのか極めて限定的な空間と短いループ時間設定を使っているのは上手く工夫したとは思いますですが、これ長編はきつくないですか。

中短編で小さくまとめればもうちょっと良くなったと思うけんど。これもあれですね、世にも奇妙な物語とかトワイライトゾーンとか、あの枠でやるのが吉。

「オールユー~」の方はタイムループのネタそのものに迫りそれが興味を持続させ、なおかつそれ自体がトム・クルーズの成長と密接に繋がっていたからよかったのですが。

どうでもいいけどヒロイン役レイチェル・テイラーじゃんすか!「トランスフォーマー」のときに比べてだいぶ老け込んでいるので調べるまで分からなかった・・・。

まあメイクと撮り方もあるだろうけど、それにしてもなんか痩せすぎてるような。

 

「スポーン」

リメイクが決まったということなので改めて観返してみる。

MCU、もっと言えばライミのスパイダーマン以前のアメコミを原作とした映画って、なんとなくそのマインドがどうしてもコミックであることを下敷きにしてしまって映画であるということをそこあで意識していないのではないか、と思う節がある。

一本の映画を作る、というよりもあくまでアメコミをライブアクションに置き換える、という強いというか。もちろん、そっこには技術的な制約があったりしたことはたしかだけれど、しかしライミのスパイダーマンとそう時系列的に離れていない「スポーン」がいまいち午後ロー感が抜けきらないのはそういうところにあるのではないかと思う。

まあでも、今のアメコミ映画ではバイオレーターのキャラクターをあそこまでくどくどしく描くことはないだろうし、個人的にはこのバイオレーターが一番楽しめた部分なので、こういうちょっとハズれた描き方を楽しむことができるというのは割と貴重な気がする。今となっては。

 

「TERROR EYES」

えーなんかこれ邦題がないのか「テラーアイズ」で検索すると「テラーアイズ/恐るべき瞳」なるおそらく別の映画がひっかかるくらいほぼ日本語の情報がない。IMDBで検索してようやく出てくるというマイナーな映画っぽいのですが、まあこんなのがメジャーに出てこられても困りますよね、といった具合。

なんか後半のは明らかに別のカメラで撮ってるでしょう、あれ。

出だしはまあ、死の未来を綴った本というのはありがちだしセットですらないのかカメラアングルがシットコム並みに限定されてはいたりするのですが、それでもまあ最序盤はまだ良かった。

それが夢落ちと分かる寸前の死に方あまりに唐突だしもっと「ファイナルディスティネーション」的に殺してくるのかと思いきや怪奇現象だし。全体的にスモーク焚きすぎだし。

そして最後はフェミニストのお姉さんがSASUKEをするという。頑張れば脱出できそうな隙間の檻といい、もうどうでもよくなってきますね。

本編よりも「死霊のえじき2」と「ヘルダミアン2」の予告(宣伝?)の方が楽しい。ていうかそこがピーク。

ダニエル・ローバックが出てるなぁ、と。

 

ロンメル軍団を叩け」

なんか青春スポコン映画のような趣が強い。いや「特攻大作戦」を筆頭に?チームものというのがそういう空気を醸成するというのはあるのでしょうが、それにしてもこの「ロンメル~」は戦争の真っただ中な感じがしない。どっちが先かは知りませんが。

切手のくだりとかもはや「オーシャンズ」シリーズじみてすらいる。 

かと思いきやクライマックスからラストにいたるまで割とエグい。

 

「ナーヴ/世界で最も危険なゲーム」

イマ~い(死語)。

こっちよりも同じ監督の作品である「catfish」の方が気になったりするんですけど、まあそれはさておき。

この時期の映画って狙ったようにPC画面をフィーチャーした作品が多い気がするんですけど、何故。青い鯨の事件とほぼ同時期なのもシンクロニシティでかなり興味深い。

ただ日本ではあまり取りざたされることはなかったような気ガス。

タイトルからてっきり電脳世界ものかと思ったんですけど、別にそういうことはなかった。いや確かにネットの世界は関係あるけど、全然「いま」の話でした。

とはいえ、やっぱりネットの世界を異界的に表現したいという思惑はあるようで、ヴィーが初めてゲームをスタートするときのファミレス?の色彩設計はネオンサインがビンビンで現実感を剥奪しに来ていますし、ことほどさように(現実の友人などが絡まない)ゲームのトライ中はそうやって地に足を着いてないように見せてくる。イアンのバイクから青い光が放たれていたりするし。

バイクのチャレンジ中に流れるBGMが「トロン/レガシー」ぽいのは笑いましたけど、なんだか全体的に音楽や編集の方法がポップでまるでコマーシャルみたいなんですよね。そういう、観客を傍観者にするような、現実感を希薄にするような撮り方をしているのはある。

個人的には中盤のシドニーとの小競り合いをメインにキャットファイトを展開してくれた方が、より観客の傍観者としての愉悦を楽しむことができたような気がします。

終盤にかけての展開は正直「あぁ、そっちですか」という方向に進んでいっておバカすぎるスーパーハッカ―な描写で一気におバカ度が上昇してしまうあたりは流石にどうなのかと思ったり、どれだけ群集心理が作用していたってあのオン/オフはカリカチュアしすぎでは。伊坂幸太郎「魔王」の方が納得できますよ。

ていうかそれができるなら「最初からやれ」という話であって。いや、ナード君はあくまでヴィーに好意を寄せていただけでナーヴなんてどうでもいい、というスタンスであったという風に読み取れるし、それはこの映画で描かれる傍観者のスタンスとして当てはまるんだけれども。

ていうか君、ぼろ負けしたままハッピーエンドに仕立て上げられてるけどいいのか。ナーヴ壊滅の指揮を取った英雄であるナードくんが徹底的に無視される、というのはメタ的に観ればこの作品のテーマとかすっているとは思いますけど、あれは単に作り手のネグレクトなだけでぃわ・・・。

 

「リンゴ・キッド」

 こういう美学が通用した時代というのが羨ましいというか。

なんというかこう、縦横無尽というか。

 

 

 「ジオストーム

予告があまりに馬鹿映画だったのでそこまで期待せず観たんですけど、劇場で観ればよかったなーと。

大統領の「結婚しろ」とか、ああいう気の利いた台詞?とか入れてくれるのはポイント高い。

 

 「バグズライフ」

久々に観返して見て思ったのは、この時はまだ今のような集合知体制ではないためか、理詰めよりも情動優先している節がある。

ピクサーは世界そのものをアミューズメント化することに特徴があると思うのですが、本質的にはあまり変わってないんだなぁと改めて思う。

やたら怖かったりグロテスクなシーン(ホッパーがひな鳥にっ食われるシーンとか特に)があったり、どことなく「インディ・ジョーンズ」なアクション活劇な風味があったり、90年代のかほりがする。

ていうかのグロシーンの後にエンドロールでNGシーンというのは、なんというかこう、「女王の教室」に通じる「これはフィクションであり実際の団体と~」的なエクスキューズに思えて笑える。

しかしほぼ同時期のビーストウォーズをテレビで観て「すごいすごい」と言っていたじゃりんこたちは映画館でバグズライフを観てどう思ったのだろう。

単純に比較できないとはいえ、実にのどかだったのだなぁ。

 

「1.0(ワン・ポイント・オー)」

 後半でネタが開示されるから難解ってわけじゃないし、随所で出てくる台詞(分業化なんてのもそうでしょうし、ていうかファーム社とか露骨ですね、よく考えれば)やアレゴリー(機械の虫で故郷を思い出すというあれ)なんかも補助線として観ればむしろわかりやすい話ではあるとは思う。ていうかハワードの台詞が全部説明してるし。

ただね、その割にまどろこっしい(笑)。

まあ、そうやってまどろっこしくすることが1つの戦略ではあるわけですしテーマとも結びついているわけなので否定する気はないんですけど、ちょっとまどろっこしすぎて正直あんまり。

映像もくどいし、なんといいますか、なぞなぞみたいな映画はあんまり好きじゃないんですよね。往々にしてそれ自体に拘泥しすぎているきらいがあるし。世にも奇妙な物語とかの方が上手くまとめられるんじゃないの、こういうの。

 

真田幸村の謀略

そろいもそろって声が良すぎる。

梅宮辰夫ってあんなにカッコよかったっけ?とかガッツ石松の演技達者ぶりとか、俳優陣の魅力だけでもかなりのものなんですが、忍術描写は特殊効果をふんだんにつかっていて、それが今の方向性と違う当時特有のおどろおどろしい使い方だったりして。

いや、なんか歴史とか本当に壊滅的にできないんでアレですけど、そういうのとか抜きにして面白いです。

戦闘シーンとか普通にヤバいと思うんですけど。

 

スイス・アーミー・マン

うっわ~超エヴァっぽいよぉ~。テレビ版の最終話とまごころを~みたいな。

これを今更やるのかーと思いつつ、これが10年代後半に作られるというのも納得するというか。

あと観賞するタイミングが悪かったのもある。「来世~」の直後ということもあって、この映画に対して余計に諦念みたいなものが増幅していたというのはある。諦念というか萎えたというか。

 

一言で言えばオルターエゴとのセルフリカバリーあるいはセルフセラピーでせうか。それも極めて閉じた。

この映画は徹底して内向きなのは明らかで、だからその心象風景そのものと言える無人島(これが終盤でまさに自分だけの世界であったことが明らかになるわけですけど)に他者が不在なのは決して偶然などではない。

無人島に存在するのは、ハンクとそのオルターエゴであるメニ―以外には、彼らにとって理解を必要としない獣だけだ。

 

終盤の、シームレスにサラの家の庭に侵入するところのあまりにもあまりな厚かましさ。そこには理解不可能な他者という存在への境界がなく敬意もない。そこにいるのは徹底して自己の延長にある、ハンクの心のうちで象られた「フリークな自分に冷ややかな視線を浴びせてくる」都合の良い他者でしかない。

あるいはこれが自主制作のフィルムであったならば、ここまでこの映画を気持ち悪く思うことはなかっただろう。

この映画の気持ち悪さというのは、たとえるなら外でオタク()であることを自己開示し自己顕示する醜悪さと近い(以前に比べると好きなもの、それ自体が好きというより、それが好きな自分が好きという自我が肥大化しているように思える)。

好きなものを好きと言うのは自由だ。でもそれって、わざわざ他人に向けて言わなきゃならないことなのだろうか? まあ、この辺はSNSあたりの発達とかTwitterが内在する矛盾(あくまで自論ですが)とも関係してくるのでドツボになるのが目に見えているので書きませんけど。

レリゴーするのは自由。好きな服を着て何が悪いのか、好きなことをして何が悪いのか。そうやって己の自由を主張するとき、そこに他者の自由が、他者にどう思われるかという視点が慮られることはない。

だから、徹底して自己完結するこの映画がマスターベーションを強調して(しまって)いたのは当然の結末であるといえる言える。

さもありなん。他者の欠如しているこの映画に、恥の意識なんてあるはずがない。だから人前で屁をかませるのだ、ハンクは。

 

 「ハウンター」

リサ役の人、どこかで観たと思ったら「ゾンビランド」の妹でしたか。あと「マギー」の娘でもありましたね。

てか監督ヴィンチェンゾさんでしたか。割と面白い映画を撮る人ではあるんですけれど、なんかこういま一歩爆発力が。

しかし既視感の詰め合わせ感が「バイバイマン」よりありけり。

しゃれこうべの如何にもな作り物っぽさとか、もうちょっと作りこむ余地はあった気はします。

悪い映画でもなし、かといって特段優れた映画というわけでもなし。いまいち印象に残りづらい映画ではありました。

娘たちの鼻がやたらひくひく動くのは気になったけれども。

あーでもラストの幽霊対決は良かった。バカバカしいけど燃える展開で。バカバカしいけど。

急遽決まった試写会

に行ってきました。「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」

 

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いやほんとダメもとで応募したのでまったく予定にはなかったんですけど、ただで映画を観れる機会なので行かねばならぬと。

 

日本語吹き替え完成披露試写会ってことで日本語吹き替えだったんですけど、個人的にはこれは字幕で観た方がいいかもしれないと思いますです。

 というのは、この見慣れない世界設計の映画に対して、日本語ではなくフランス語という異言(というのはもちろん比喩ですが)を導入することで、言語というレイヤーをもう一段階用意したほうが、むしろ作品そのものと馴染むような気がするのですよね、日本語ネイティブとしては。

リップシンクとか、そういうのとは別の位相の話で、理解を補助する日本語吹き替えに違和感があるというか。日本語吹き替えが悪いということではなく。

つまり一種のロストイントランスレーションというか、むしろその逆かな。

 

国も違うし監督も違うので単純に比較するのもあれなのだけれど、ちょうど「ロング・ウェイ・ノース」のレミ監督が助監督・ストーリーボードとして参加した「ブレンダンとケルズの秘密」、それと「ソング・オブ・ザ・シー」は字幕で観たからこの映画に感じたような違和感がなかったのだなぁ、と今振り返って思ったり。

そもそも、あれらはトム・ムーアの統御の元であったし「ロング・ウェイ・ノース」に比べれば相対的に馴染みやすい作風ではあった。輪郭線もはっきり残っていたし、アニメーションの躍動感なんかはジブリに通じるし。

「ブレンダン~」は本当に観たのかどうかすら怪しいくらい本気で内容を思い出せないくらい印象に残ってないのでアレなのですが。

 

そういう「見慣れない世界」を「耳馴染んだ言語」で観るというある種の齟齬が生じているような気がして。そのせいかわからないんですけど、前半の5分はあまり頭に入ってこなかったです。喋っているのは日本語だし、内容がまったく入ってこないっていうことではないんですけど、なんだかすんごい変な感覚としか言いようのない変な感覚でした。

 

舞踏会の後あたりかららかな、ようやく慣れてきたのは。

 と思って観続けると、今度は話の作りというかバランスがちょっと違うんですよね。これはもっとこう、生理的な感覚に近いものかもしれないけど。

たとえば、ある理由でオルガの食堂でサーシャは住み込みで働くことになるんですけど、劇中で1か月という中途半端に短い時間経過をモンタージュで見せるのとか。

貴族の箱入りお嬢様が荒くれものの集う食堂での生活を通じ、世界を知っていくというイニシエーションであるというのはわかるのですが、何というかこう急かされているというか。1か月でそこまで馴染むものなのだろうか、という生理的な感覚がちょっと違う。試写会から家に帰ったらちょうどテレビでラピュタがやっていて、ちょろっと観ていてシータとサーシャの描き方の違いを見て、そう思ったり。

サーシャはなんかこう、急かされてるなぁ、という印象を受ける。

 

そういうのも含め、全体的に演出が妙。というか、やたらと目で語りたがる。

特にそれが顕著だったのは、負傷したルンド船長を置いていくかいかないかのシーンでのラルソンとのやり取りのところ。

あれ、本来なら観客側にラルソンの台詞がブラフであることを伝えるためにもっとわかりやすい演出をするのがオーソドックスだと思うのですが、この映画はそういうことはせず彼がカッチに向ける視線の誘導のみで表現される。でも、その視線の誘導が意味するところは絶妙に観客には、サーシャには伝わらない(だからサーシャは彼を非難する)。

ほかのシーンでも、キャラクターの目の動きはかなり細かい。

やけに目で語っているように見えるのは多分、キャラクターデザインにも起因しているはず。

日本のアニメではキャラクターのデザイン傾向は、たとえば京アニなんかがその最たる例だと思いますけど、どんどん細かく緻密に先鋭化していく方向に進んでいる。もちろんそうじゃない方向を目指しているアニメもたくさんあるし昔からあったけれど。

だから顔の情報が多い(まあ、その情報量というのはデフォルメ方向を指向しているわけで、それは実写の持つ顔の情報量の総体から見ても決して多いわけじゃないと思うんですが)いわゆる日本的なキャラデザは、どんなに表情を作りこんでも、その動きが顔の持つ情報と釣り合ってしまう。これは別に悪いってわけじゃなくて、むしろ動かし方としては適切なのだと思う。

けれどそれは、動き=表情が逸脱を、突出することを許さないということでもある。

翻って、この映画の登場人物たちのキャラクターデザインはとてもシンプルで顔それ自体の情報量は決して多くない。

その中で、「目の動き」の情報量だけが突出しているがゆえに、この映画は目で語る映画になっているのでせう。

瞬きの数、細かい黒目の震え、単なる視線の移動。背景と人物が同じように描かれ、画面全体が同質化していく中で、この人物の目の動きだけがそれを拒む。

そういうシンプルなキャラデザと表情の動きの持つ情報量の幅によってもたらされるものが、この映画のキモなんじゃないかな、と。

 

だから、目で語るこの映画のラストが、サーシャが遠くを眺める横顔(個人的にはこの直線のおじいさんとの横顔の対比が一番好きなんだけど)なのも納得がいくものではある。

それにしても「エンドロールにそれを回す?」という気もしなくもないのですが、これがサーシャとオルキンの物語であることを考えれば、帰還・再会で締める必要性というのはないけれども。

 

しかし感情移入や共感の映画であるのに、観客におもねらないというのは何気にすごいことやっているなぁ。

 

ハレ・ハレ・愉快な映画「溺れるナイフ」

本当は8月のまとめにいれようと思ったんですけど、8月は毎日一本映画を観るという夏休みの宿題を課していて、そのせいで量が多くなってしまったので、この映画を単独記事としてポストいたしました。

あとすごくどうでもいいことなんですが、4月に和歌山に一人で旅行?に行ったときにこの映画のロケ地を訪れていたことを映画観た後に調べて知りました。なんか既視感あると思ったんですけど、そういうことか。

でも特にPRとかしてなかったような。もうちょっとアピールしてもいいんじゃないかな、地元の人は・・・うん。

とかとか、そういう事情を除いても好きな映画なので、ちょっと書いておきたいな、と。

記事タイトルに特に意味はないです。

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それにしても、まさかこんなハレとケの映画だとは思わなんだ。火祭りだし。非日常と日常の映画というか。

この映画観てたら「恋空」ってやりようによっては傑作になったんじゃないかと思うんですけど。ダメか。原作のポテンシャルが段違いすぎるか流石に。

 

そういうわけで、ハレであるコウちゃんがあんだけ美しく撮られ(水中の撮影とか諸々)ケである大友くんがあんだけ凡庸にというか身近に撮られ(カメラ固定したまま長回しとか)ていて、もっぱら夏芽(最初中条あやみかと思ってこんな顔だったっけ?と思ったのはヒミツだ)とコウちゃんの耽美な空間を堪能し、その引き立て役(悲しい)としてのみ大友くんという存在がまします。それは決して雑に扱われているというわけでなく、むしろ丁寧に描かれているわけですが、そうやって丁寧に丁寧に「大友、君は『日常』だから」と描かれるほどになんというかこう・・・辛い(笑)。

ハレとケが不可分なものであるとわかっていつつも、その日常存在としての軛に収められてしまう彼の姿がね。

 

 

冒頭の「千と千尋~」感からすでに夏芽(小松奈々)にとってのハレを予感させる空気(今観ると「若女将は小学生!」も地味にこんな風景だったような)を充満させている。橋を渡る、という行為がまさに越境そのものなわけでして。

ただ同時に、夏芽にとってのハレっておそらく芸能界のことでもあるので、和歌山の生活というのはむしろコウちゃんと大友きゅんに象徴されるようにハレとケがたゆたう空間なのかな、と。

それにしても三つ編みの持つやぼったさ半端ないです。あれ中学生って設定じゃなかったら小松奈々でもキツイですよ。いや本当。三つ編みはともかくツインテールは本当によほどの童顔か二次元限定だなぁと思う次第でしたまる

あと役者の肉体在りきであるために前半部の中学生設定は結構キツい、というのはまあ野暮ですし、すぐに高校生になるのでそこまで問題はないのかもしれないですけど。

 

ハレ≒非日常であるコウちゃんとケ≒日常である大友くん。それとカナちゃんなんですけど、カナちゃんは大友くんともまた違うんですけど、違うタイプで徹底的にケ側の存在であって、彼女を演じる上白石萌音がもうね最高なんですよ。

何が最高って、観ていてすごい安心する。凄まじい日常感。クラスに一人はいそうな感じ。ていうか中学時代に似てる人いましたよ、もちっとふくよかだったけど。

付き合うなら夏芽、結婚するならカナちゃん。といった具合のバランス。このバランスはもちろんコウちゃんと大友くんと同様にハレ存在として(昇華する)の夏芽とケ存在としてのカナちゃんという対置でもある。

要するにカナちゃんというのは日常存在なんですね。

中学時代はあんなバタ臭い髪型してたのに、中学に入って妙に色気づいた髪型にしちゃうあたりも田舎娘の俗っぽさが出ていて大変よろしい。横髪を耳にかけちゃってほんとにもうアレすぎる。2回目の火祭りのときの私服とかも「高校デビュー」並みの高校デビューな服装というか。ませようとしている頑張りが逆にダサくてそれが良いというか。

個人的には階段でのくだりの視線とかちょっと意地悪い感じとか大好物だったりするんですけど。

だからこそ終盤のナイフの部分でのあの怒りをたたえた表情が生きるわけで。ただ、あの表情やあの怒りというのも、徹底して卑俗なものに括りつけられている。ただ、なんというか、彼女に関しては大友くんともまた違ったニュアンスを含んでいるような気もするんですよね。どちらかというと、ハレとケの境界面にいるというか、両者をつなぐ橋渡しというか、ケ存在がハレに捧ぐ人身供物的というか。

 そう考えると、上白石萌音が「君の名は。」であの役をやったというのもなんか妙にダブるところがあるというかシンクロニシティというか。

映画だと彼女の出番が大幅に削られているということなので、もしかすると原作はその辺がもっと仔細に描かれているのかもですが。

 

中学時代で言えばもちろん夏芽とコウちゃんの部分のやりとり。

ハレ≒コウちゃんに近づこうとする(邂逅からすでにそうだった)ことで夏芽自身がハレ存在へと至り、だからこそ広能(を演じる志摩さんも、他の役者と違う演技の感じで、それが広能のキャラとマッチしていてすごいハマってました)は彼女を撮ったというのも実にわかりやすい。

その写真集から関係が発展するんですけど、この交際中の夏芽が実にうざったい。「わたしたち付き合ってるんだよね」とか手をつなぐあたりのカマチョぶり。あの付き合い始めのティーンネージャー特有のうざったさは身もだえします。

ただまあ、あのうざったさというのはワシにも覚えがある(ホセ)わけでして、それゆえの身悶えというか。認めたくないものだな、自分自身の、若さゆえの過ちというものを。なわけです。

 

ところが、あの事件が起こるわけですね。ハレとケで言えばあのレイプ未遂事件というのはケガレとして見ることができませう。

そこで一度、夏芽とコウちゃんはケガサレてしまい(まあレイプですからね)ハレ存在としての力を失ってしまう。ケガレとはケ=日常生活を営む力が枯渇する状態であり、そこでケ存在である大友くんになびくというのは実は感情的な動きというよりも構造的なものだったりするのでせう(この辺は諸説あるのですけど)。

けれど、ケガレから回復するのに本当に必要なのはハレなんですよね。

だから再び広能が彼女を主演に据えて映画を撮りたいと和歌山を訪れた際に、彼女を見て明らかに萎えたのも当然なんです。だって広能はクリエイターで、ケガレたケ=日常=この時点の夏芽になんて興味がないから。

 

ここに来て、さんざん描かれた大友くんとのイチャイチャというのがハレ存在としての夏芽にとっての死(は言い過ぎかな)出の旅路である構造が明らかになる。悲しいかな。

しかしだ!大友君!

君はハレとしての夏芽という非日常的な存在を貶める存在でしかないよ!確かに君は彼女と結ばれることはできないよ!彼女がハレの、非日常の存在であり続けようとするかぎり永遠に結ばれることはないよ!

だけど君がいなければ、夏目は立ち直ることはできなかったんだよ!ケがあるからこそハレがあるように!

といった具合に、私は大友くんまわりに関してはかなり感情的に観ていました。

大友くんを演じる重岡くんの演技も絶妙なんですよ。なんか台詞をちょいちょい噛んでるテイクを使っている(だいたい長回しのとき)のは、あれはやっぱりアドリブなのかな。というか、そういう長回しが多くて、あくまで日常に括りつけようとする監督の強い意志を感じてさらに切なくなる。

この夏芽と大友くんの関係はあれです、仮面ライダーブレイドの剣崎と始の関係性と言えば美化できませんか?え、できない?さいですか。

いや、でも、本質的にはそれと同じことだと思いますよ、ええ。

 

にしてもガリガリ君て!もう一度書きますけどガリガリくんて!優男でイケメンなくせにどんだけやっすい日常存在でありつづけるんだ君は!?

しかも役名観たらフルネーム大友勝利って!敗北してんじゃん君!完全に名前負けしてるじゃんすか!

マニュキュアのくだりで、大友くんの表象である赤色のマニキュアを塗る指の数が青黒い(コウちゃんの表象)マニュキュアより少ないの!あんだけ好感度上げててこの始末ですよ!

そもそも椿て!赤い椿の花ことばって「謙虚な美徳」「控えめな素晴らしさ」「気取らない優美さ」らしいですよ?なんだか大友くんを観たあとだと慰めにしか聞こえないんですけお!?

いやね、一応それ以前は椿には邪気を払う力があるとか神聖視されてた(ケガレを払う大友くんにぴったりだね!(血涙))らしいですけども!アメノウズメまで引っ張ってくるのはさすがに強引だし違うかな。いや、確かにアマテラスを引っ張りだしてきたのを夏芽の再起と結び付けようとしたけんど、序盤のシーンで授業中にイザナギイザナミの話をしてたことを考えるに夏芽はイザナミだろうし。アマテラスじゃないじゃん!ってことになるので。

それにしたってお見舞いでは忌避され競馬では落馬を連想させるから忌避され武士からは頭が切り落とされる様に見えるからと忌避され、散々だよ!

妖刀マサムネ曰く「香りも無く主張も無い、散り方も無残で気味が悪い陳腐な花」な椿。

血も涙もない!血も涙もないよ山戸監督!どこまで追い込めば気が済むんですか(追い込んでるのは私か)!?あんた鬼だよ!

 

でもそういう扱いも含めて私は大好きだよ大友君!

 

そんな大友くんに夏芽は言う「大友はずっとここにいて」と。

もちろん彼はずっと居続けるでしょう。だって彼は日常だから。

あのカラオケシーン。ケからハレに、晴れ舞台に歩みだす夏目に捧ぐ応援歌(吉幾三というチョイスが絶妙に笑いを誘う)のシーンは、あの切実な演技もあ居間で涙を禁じ得ない。

 

それからコウちゃんと大友くんがちょっと話すシーンがあるんですけど、イカ焼きに青春をささげるとかいう悲しすぎる敗北宣言に涙を流しつつ、海をバックにハレとケの触れ合い(決して接触はしないのだけれど)に一抹の寂しさと感動を覚えたり。

それに続く2度目の火祭りのシーン。あそこは特にコウちゃんの髪型がすんばらしい。というか、全体的にこの映画は衣装の伊賀さんとヘアメアクの反町さんの仕事が作品と上手くかみ合っているというのはある。

先に述べた上白石萌音の髪型の変化もそうですし、コウちゃんの一連の髪型の変化もそう。

中学時代は、髪の毛がまっすぐなサラサラヘアーなんですよね(あの田舎で一人だけ金髪ですよ、しかもちょっとプリンなのね!)。で、レイプ未遂事件の後の彼の髪型はちょっとウェーブがかってるんですよ(ついでに事件直後のシーンの夏芽の服装が黒いセーラー)。こう、純粋だった神が堕ちたみたいなね。それが2度目の火祭りのときはもっと髪の毛がもわっとしてるんですよ。鬼神を思わせる怒髪でね。

しかしこう考えると大友くんって本当に変わり映えしないんだなぁ(しつこい)。

 

で、またも悪夢の再来か、というところでそれをコウちゃんが防ぐ(この辺の絵面がこじれた四角関係みたいでちょっと笑ってしまったのは内緒だ)。

個人的には、ケ側の人間としての意見では、コウちゃんが殺してこそ、という気持ちもなくもないのですが、まあ死体遺棄な時点で結構アレですし、何よりそれはケガレを背負うことになりますから、ハレ存在としての夏芽のハレで在るためにはああなるのもさもありなん。

 

で、最後に正に晴れの舞台に夏芽は立ち、スクリーンの中でコウちゃんと再会を果たす。綺麗な終わり方なことです。トンネルの中で終わるというのがどことなく不穏なんですけお。

あとレイパー未遂の人も良かったですね。キモくて。

 

とまあ、大体満足しているんですけど気になるところも。

 

一ヵ所ですね、夏芽とコウちゃんが高校生になってから再会するところで気になるショットが。

横になった菅田くんをほぼ真横?から抜いてるショットがあってですね、そのショットだと菅田くんののどぼとけが滅茶苦茶目立つんですよ。そこはもうちょっとどうにかならんかったんかいなーとは思いますです。

あそこはまあ、監督と私の価値観の違いなのかもしれませんし、菅田くんの身体性をフル活用したかったのかもですが、あそこまではっきりと喉ぼとけがわかるようなショットになってしまうと、あの「たゆたう」コウちゃんというのがなんか地に足着いちゃってる感じが出ちゃって気になる。

難癖っていうか、フェチの反転に近い欲望なのかもしれませんけど。

 

あとカットの呼吸がなんか合わない部分が一ヵ所あったのと、音楽が過剰かなーと思う。少なくとも歌で心情表現(ていうかほぼ解説ですな、あれは)はくどいかな、ってくらい。

 

それと演出が呉美保監督の「底のみにて光り輝く」まんまなシーンがあるのは流石に笑いました(あっちも菅田くん出てたし)。 しかも2回も使ってますし。あっちはSEだったけど、確か。

いや、別に悪いというわけじゃなくて、露骨すぎて笑ってしまった、というだけで。

 

余談ですが道端の花の蜜は東京でも吸いますよ。(学童クラブっ子)

 

 

でもまあ、なんだかんだだいぶ楽しめましたよ、私。ええ。 

まさか少女漫画の世界観をここまで実写化できるとは思いませんでしたし。

 

オンライン試写

オンライン試写会という奴に当たったので、家で映画を観る。

今回のは7分ほどの短編と長編1本というプログラムでござんした。まあ映画館で観るのとでだいぶ印象は変わると思うのだけれど、手間はかからないから楽ではある。

 

短編「くじらの湯」

短編アニメーション。

なんか凄いものを見てしまった気がする。

いや、日本映画に詳しいわけじゃないのでなんとも言えないのですが、実のところ女湯というものがここまでてらいなく描き出されたことってあまりないのでは?(しかもサウナまで!)男湯なら割と観る気がするのですけど、それにしてもここまでのものはない気がする。

女性が見ればあるある、男性から見ると未知の領域なのかしら。まあでもサウナ入ってるときの姿は男女問わずあんなものでしょう。サウナとかほとんど入ったことないですけど。銭湯も、そういえば近所にあった銭湯が数年前に潰れたちゃったっけ。
そう考えると、なんだかあのアニメーションのダイナミズムというのも妙にセンチなノスタルジーを惹起してくれるような気がする。

本当に、あそこまでてらいなく(これ重要)女湯と女湯の中の女を描かれるとそれだけでかなり圧巻(そのくせ妙にリズミカルなのが笑う)で、あの幼女の気持ちもわからないでもないというか。

ああいう他人の裸などというてらいのない他者の姿を見ることができるあの空間を、あのてらいないアニメーションで表現するっていうのは相性として抜群なのですなぁ。

 

 

 

「アボカドの固さ」

すごい。びっくりするくらい何も起こらない、窓辺系の映画でござんす。

そんで主役の前田さんが有田に似てる。くりぃむの。めっちゃ似てる。あとムロツヨシ。二人を足してくりぃむ上田の頭髪でわり算したような。

 
5年付き合った彼女に振られて未練たらたらな男が未練たらたらなままひたすら変化など起こさない終わるという。
 
じゃあまったくつまらないのか、というと、まあ個人的には何か所か笑ってしまうシーンもあったので、つまらないと言い切ってしまうことはできないんですよね。主人公がナチュラルにクズなのに、そこに自覚がないのとかも(人によっては苛々すると思いますけど)笑えましたし。


別れたあともああいうフランク(に振舞おうとしている)な関係性というのが有効なのかどうか知りませんけど、別れて数日後?に二人で飲みに行くシーンがあるんですよ。

このシーンの「居酒屋閉まっちゃってるね」からのくだりの居た堪れなさというか、主人公のポンコツっぷりは笑えます。
そのあと、彼女の方だけカメラからフェードアウトするんですよね、ちょっと。またすぐカメラに収まるんですけど。
ニトリで家具見てるときは二人の歩みはまあ揃っていたしカメラにもしっかり収まっていただけに、この関係性の崩れた感じが観ていて面白い。ニトリではフィックスだったけど、分かれたあとは手持ちでカメラ揺れてるしどんだけ動揺してるんだよ、というのが笑える。
 

そこからのハグ攻撃からのシミちゃんのATフィールド。まあこの辺からだいぶ主人公の行動が怪しさを帯びてくるんですけど、アボカド持った当たりのナチュラルにマッドな演出はさすがにこらえきれず爆笑しました。いやどんだけ引きずってるのよと。妄想の重ね掛けはヤバすぎて笑える。


で、仕事相手(CMディレクターかな?)の女性と良い感じになるんですけど、ここでもまた主人公のナチュラルクズっぷりと元カノへの未練が噴出します。
いやもうね、まず告白が不意打ちすぎるし、第一元カノについてのあのうざったすぎる話をされた流れて告白って頭おかしいでしょう。
案の定拒否される(というか彼氏がいると言われていて、にもかかわらず告白するという暴挙)んですけど、拒否された後の行動もまあクズ。
元カノに電話しろっていわれて半ギレになるのはまだ百万歩譲っても、そこからの人格批判からの創作物批判(しかも自分が出演している)というすさまじいまでのクズな立ち振る舞い。そこで逆切れしてとんずらこいたかと思えば直後にデリヘル呼ぶという。

デリヘル側はリップサービスのつもりで会話してるのにコミュニケーションが下手(多分本人はそこに自覚がないという恐怖)なせいで「何歳に見える?」に対してリアルに年齢をあてに行くのも本当にヤヴァイ。サービス業の人のリップサービス真に受けちゃってシミちゃんち行っちゃうし。
シミちゃんのお母さんもすっとぼけた感じで変な空気作るし事情知らないみたいだし。

しまいには花屋に因縁付け始めるし、小学生並みの「何で?」攻撃とか、あんなクレーマーって結構いるのかしら。そもそもサンダーソニアがなかったからより戻せなかったわけではないのに、花屋さんが哀れすぎる。
いや花屋さんには悪いと思いつつあまりに身勝手すぎる行動に笑っちゃうんですけれどもね、ええ。

そうこうしてたらなぜかシミちゃんに呼び出されるし。かといって何か起こるというわけでもなく。
別れ際のタクシーのところは「あいのり」の告白シーンな台詞の羅列で笑っちゃいましたし、全体的に笑って観ていたんですけど。

にしても、最後の家具のくだりの演出の意図はわかりますけど、そういう問題じゃないから。主人公のあれはそういう問題じゃないので、あれ完全にヤバい人なんで。


しかし散々指摘したそのヤバさクズっぷりというのは極めて日常風景のもので、はっきり言って映画で観るにはあまりに逸脱しなさすぎて退屈ではあります。アボカドのくだりだけはナチュラルに狂ってて面白いんですけどね。


映画で見るようなクズではなく、現実に、そのへんにいそうな卑近なクズっぷりであり、それ自体には笑えるのだけれど、それは映画として収めるには弱すぎるきらいが。だから私が笑ったというのも映画的どうこうという部分とはまったく別で、むしろそういう人間の生態を集めた映像集的に楽しんでいた、ということではあります。

まあ一切の成長を見せずにあそこまで身勝手に閉じようとしている、というのはこれが主人公の妄想というアレで決着していたりすればそれはそれで突き抜けられたかもしれませんけど。

 

 

 

 

吉岡里帆+座頭市+中堅ハチ公な試写会

もちろん半分冗談ではあるんですけど、座頭市に限らず盲目の方というのはやたらと超人的に描かれがちで(多分、感覚的に視覚的健常者の理解を超えているからだろうけど)はあるんですけど、トゥデイ本日今日の完成披露試写会で観賞いたした映画も、超人とまではいかずともかなりハンディキャップ()を負った方とは思えないムービングでございました。

いや、先天的とかならまだ納得はできるんですけど。盲導犬を連れてると、むしろ人間個人としての適応能力は退化してそうだし。

 

というわけで「見えない目撃者」の完成披露試写会に行ってきました。

ネタバレ全開でいくので「見えない目撃者」を100パー愉しみたい人はここから下は読まんといてください。

 

 

適当に試写会に応募して後から調べたんで知らなかったんですけど、これR15なんですね。

それを知った瞬間に吉岡里帆のエロエロエッサイム!?高杉真宙たんのエロエロエッサイム!?と勝手に興奮したのですが、よく考えたらそういうのがあるのはR18だしこのバジェットと吉岡里帆という多分に事務所のプロテクトがかかっていそうな(といってグラビアから転身したんでしたっけ、この人?)キャストでそんなの望むべくもないべ、と落ち着きを取り戻す。まあぶっちゃけ吉岡里帆にはそこまで関心はないんですけどね。

ていうかそもそも同タイトルの韓国映画のリメイクということらしく、当然未見。「サニー」とか「22年目の告白」とかとか、韓国映画のリメイクが割と大々的にプッシュされていますな。

まあ韓国映画の質は高いので、そのリメイクであればある程度のクオリティと観客動員が見込めるから企画が通りやすかったりするのかもですが。

実際、あんまり期待していなかったですけど、個人的には結構楽しめました。 

 

 

えー舞台挨拶つき完成披露試写会ということで出演者が登壇しての挨拶がありましたので、ちょろっとだけ触れようかとも思ったんですけど、思った以上に当たり障りのないキャスト陣の挨拶がほとんどで特に書くことがないという。

ああでも、司会進行役のお姉さんが投げる質問に対して高杉くんや吉岡さんの受け答えがどことなくバツが悪そうだったのは映画の本編を観てわかった。特に高杉くんに関しては(スケボーやってるの、ほとんど高杉くんじゃないんだろうなぁ。本当に高杉くんがやってたら顔映すべなぁ)という印象を抱くくらいスケボーシーンでは足元のショットばかりで、ちょっと思い出し笑いをしたり。いや、本当に。

まあスケボーって結構難しいですからね。私も友達に教わってどうにか平地で進むことまでは覚えましたけど、簡単そうに見えるああいう技も結構練習しないとですし。

あと吉岡さん演じるなつめの弟役で今回映画初出演という松山さんがいやに緊張していたり受け答えの歯切れが悪かったのも映画開始5分で納得。

あの登場時間と役割で舞台上に立つのは、私はむしろ羞恥プレイなのではと思ってしまいますし。

そんな感じで舞台挨拶自体は本当に内容が合ってないようなもので、とりあえず吉岡さんをヨイショする~という流れでした。

あとはそう、キャストの方々が「走った」と結構言っていたので走るシーンに期待していたのですが、割と本気で初老のおっさん(主にトモロヲ氏)の「いやぁ久々に走ったねぇ」というもの以上の印象はなく・・・。いやトム・クルーズ並みのを期待していたわけではないんですけど、アングルとか、もうちょっと気持ちのいい走る姿を見せてほしかった。

トモロヲさんは相変わらず話慣れてる感じでしたしね。大倉さんも左に同じ。

個人的に良かったのは國村さんの生声が聞けたことでしょうか。

挨拶も卒なくこなし卒なく笑いを引き出すあたりはもちろん、静かなのにはっきりと通る声で、正直これだけでも満足しちゃってました。

 

かと思いきやサプライズでパルちゃん盲導犬役の犬)が登壇し、一気に会場が沸く。

トモロヲさんがマイクを向けるとガジガジ噛みだすパルちゃん萌え。フォトセッションで國村さんに抱き着くパルちゃん萌え。カメラに向かって吠えるパルちゃん萌え。

本編では正直いてもいなくても特に問題ないパルちゃん萌え。

 

といった感じで多幸感あふれる舞台挨拶でございましたです。

 

 

ではそろそろ本編について。

一応、今回吉岡さんは元警官の視覚障碍者というキャラクターなのですが、これがもう警官(になるまでの過程)としてのなつめの時間はウルトラマンの地球上での活動時間よりも短いのではないでしょうか。と思うほどすぐに警官じゃなくなります。

冒頭のモンタージュで警官としての訓練のシーンがさらっと流されて証書を受け取って、いざゆかん、となるのかと思いきや夜遊びしている弟を車で拾い上げてそのままなつめのわき見運転でクラッシュ。

ここまで多分5分もかかってないのでは?

でまあ、一応あらすじは知っていたので車に乗った瞬間からもう「このあと亡くなるんだよね・・・」という笑いがこみあげてきてしまう。

事故までの展開があまりにスピーディであることにも笑う(事故のSEがいやにデカいので音量注意)。それにくわえ、事故った際にトラック運転手のおっさんになつめが救出されるんですけど、なぜかそのままおっさんが自然とフェードアウトしていって「どこいくね~ん」というツッコミ待ちな絵面のまま弟が爆死するというあたりは本当に吹き出しそうになりました。

なので「ああ、そういう感じで進んでいくのね」といった姿勢で観ようと思っていると、割と真面目に作っている(まあ撮影の高木さんの手腕が大きいと思うんですけど)ので結構どういう心持で観ればいいのか迷う。

といっても細かい演出にはいろいろと「んー?」となりつつも脚本に目立った粗があるというわけではないですし、むしろ割と手堅くはあるんですけど、それが逆に2時間のテレビドラマスペシャルっぽくもある。ある一点を除いて(そしてその一点こそが本作のキモでありテレビドラマと一線を画す作品になっているともいえる)。

またサスペンスとして見せたいのであれば(というか真犯人のくだりはそういう意図があるでしょう)いささか真犯人の印象が薄いのが残念なところではありますかね。

犯人が判明したときに「お前が犯人だったのか!」と思えるキャラクターが真犯人でなければならないわけですけど、この映画で真犯人が明らかになっても「え、ああ、さっきのあの人か」という程度なので。

 

とはいえ、本質的にはこの映画はスプラッターホラーではあるので、その辺は割とどうでも良かったりします、個人的に。

むしろ真犯人が判明してからの怒涛の展開が面白い。

この映画、割とキャラの生き死に大してシビアなのですよね(思えばこれも2時間ドラマと異なるかな)。なのでそのへんは割と新鮮でした。とはいえ、イケメンバリアはありましたけど(笑)。

まあトモロヲが死ぬのは既定路線(いくら警察官とはいえ犯人+異常者だと確信している相手に対して背を向けるのは馬鹿すぎると思いますけど)として、いざ鎌倉!な勢いで敵地に乗り込んでおいて返り討ちに合う大倉さんとかのムービングは「ムカデ人間」の刑事のような無能っぷりで笑えます。しかも大倉さんの死にざまはかなりサービスされていて、すわ「DAWN OF THE DEAD」のフライボーイゾンビかと思うような頭のかち割られ方(一旦押し返してるのに結局負けるのも爆笑ポイントが高い)をしていて笑いました。

被害者救出の一連のくだりはまあ、色々と言いたいこともなくはないんですけれど、解体部屋(勝手に命名)の赤い照明のライティングとかあのアングルからの撮影とかは割とブキミで好きだったりしますし、何より浅香さんの真犯人のキャラクター、っていうか表情が良い。

絶妙に表情を崩さないまま淡々と作業に勤しむ感じとか、そういうかっこいい動きをしておきながら絶妙に下手をうつ(脚本の都合上)感じとか愛嬌がある。

というのは半分ジョークにしても、浅香さんの表情と動きはマジでいいです。まあ六根清浄のくだりを模倣したのは殉教したいからなのか、それとも本人が口にしたようにただ単に人を殺したかっただけなのかははっきりさせてほしかったのと、ここの問答は割と苦痛だったのだけはいただけないかな、と。

でも「ドント・ブリーズごっこからのなつめの射撃は(まあ、ぶっちゃけ予想はできてましたけどね。これ見よがしに音鳴らしてたし)しっかりと納得いく幕引きでしたよ。欲を言えば盛り上げてほしかったとは思いますけど。

 

ただ、私が何より好きなのは、殺された家出少女たちの遺体、の記録写真なのです。

写真と言わず、損壊した死体そのものがはっきりとアップで映るんですけど、不思議なことにそれよりも記録として写真に納まる彼女たちの遺体の方がグロテスクなんですよね。

でも「遺体写真」それ自体はそこまで珍しいというわけでもない、と思う。

ではなぜ、今回に限ってそれが印象に残ったのか。それは多分、フラッシュの具合によってそう見えるというのもあるのかもしれないけれど、それ以上に身体の一部を奪われた上になお(それが法的に正規の手続きであるとはいえ)撮られるという幾重もの略奪の構造を、てらいなく描出してしまっているからだろう。

ここは図らずも「撮る」という行為のグロテスクさを浮き彫りにしてしまっている。その無頓着な行為のグロテスクさが立ち現れてくるからなのかな、と。

ぶっちゃけ、ここがなかったらそこまで印象には残らない映画ではあったと思う。

 

あと切り取ったパーツをそのままささげてるのもポイント高い。下手に冷凍保存とかしないで、本当に供物として扱っている感じが。だからこそ「人を殺したいだけ」発言がもやるんですけど。

あと手首切断をズームで撮っているのを神妙な顔つきで國村さんが解説しているのも良き。

この映画、そういうグロテスクな描写のところが妙に凝っているので、そういう意味ではR15の映画の振る舞いとしては正攻法なのかもしれませぬ。

 

観終わったあと、「あれ、よく考えたらこれ犬いらなくない?」とか言わないように。可愛いは正義です。

 

 

 

処女ティモシー

エロい、カッコイイ、可愛い、最強エトセトラエトセトラ。

およそ考えつく容姿にまつわる肯定的な表現をわがものとしたことで有名なティモシー・シャラメを初体験してきました。いわゆる処女シャラメです。

と思ったら「インターステラー」でケイシー・アフレック(が演じた役)の幼少期を演じていたんですね。あまり印象に残っていなかった。

うーん、でも巷で言われるほどのイケ☆メンとは映らなかったですね、すくなくとも「ホット・サマー・ナイツ」では。まあ、イケメンというかその魅力でもってかどわかす役どころはシャラメではなくむしろハンター役のアレックス・ローとマッケイラ役のマイカ・モンローに託されているから、でしょうが。「君の名前で~」を観たらシャラメに悶絶できるのだろうか。

 

というわけで久々に恵比寿ガーデンシネマに行ってきたんですけど、やっぱりあそこの匂い好き。 

いきなり本編とは別件なんですが、本作のパンフレットが8㎝CD(なつかしい)のパッケージ風になっていて、めちゃんこおシャンティでございます。わざわざ角に折れを印刷していたり、中々に凝っていてすんごい良い。代わりに1000円とやや高めの値段ですが、本編のスチル(?)がブロマイド(?)風に十数枚収められていまして、むしろお得感がありますので余裕がある人は買って損はないかも。

 

もう一つ本編とは別に気になったことがあったんですけど・・・えー誰ですか、宣伝に「アオハル」なんて言葉使ったの。アオハライドとか雑誌のアオハルが元ネタなのか知りませんけど、こういういかにも広告屋が使いそうなワードをこの映画のい、カッコイイ、可愛い、最強エトセトラエトセトラ。

 

およそ考えつく容姿にまつわる肯定的な表現をわがものとしたことで有名なティモシー・シャラメを初体験してきました。いわゆる処女シャラメです。

 

と思ったら「インターステラー」でケイシー・アフレック(が演じた役)の幼少期を演じていたんですね。あまり印象に残っていなかった。

 

うーん、でも巷で言われるほどのイケ☆メンとは映らなかったですね、すくなくとも「ホット・サマー・ナイツ」では。まあ、イケメンというかその魅力でもってかどわかす役どころはシャラメではなくむしろハンター役のアレックス・ローとマッケイラ役のマイカ・モンローに託されているから、でしょうが。「君の名前で~」を観たらシャラメに悶絶できるのだろうか。

 

 

 

というわけで久々に恵比寿ガーデンシネマに行ってきたんですけど、やっぱりあそこの匂い好き。 

 

いきなり本編とは別件なんですが、本作のパンフレットが8㎝CD(なつかしい)のパッケージ風になっていて、めちゃんこおシャンティでございます。わざわざ角に折れを印刷していたり、中々に凝っていてすんごい良い。代わりに1000円とやや高めの値段ですが、本編のスチル(?)がブロマイド(?)風に十数枚収められていまして、むしろお得感がありますので余裕がある人は買って損はないかも。

 

 

 

もう一つ本編とは別に気になったことがあったんですけど・・・えー誰ですか、宣伝に「アオハル」なんて言葉使ったの。アオハライドとか雑誌のアオハルが元ネタなのか知りませんけど、こういういかにも広告屋が使いそうなワードをこの映画の宣伝に用いるのは的外れな気がします、内容的に。

もっとノワールな映画だし、これ。

 

前置きはこの辺にしておくとして、本題に。

過去の年代のブームというのが一定の周期で訪れる、というのはよく耳にする話でございますが、10年代がまさに70~80年代を舞台にした映画が多かったことを考えると、2020年を控えたこの年に明確に90年代であることを打ち出しているこの映画がフィーチャーされるというのは妙に得心がいく。

とはいえ、劇中で流れる曲は90年代のヒット曲などではなくバラバラの年代の曲だったりするのは、後述するように結局のところは監督のナラティブに他ならないからなのでしょう。というか、実際にインタビューで年代的な整合性よりも感情に寄り添った選曲をしてる、といった旨の答えを示してるし。

ナラティブでいえば、編集の感じとかどことなくマイク・ミルズ監督の「20th century women」に似ているなぁと思ったけど、あれもかなり個人的なナラティブ映画だったのを考えると、「ムーンライト」を筆頭にA24スタジオはこういうタイプの映画が好きなのかしら。

 

さて、劇中のドライブインシアターで「ターミネーター2」が上映され、ストリートファイターⅡの筐体が遊ばれ、湾岸戦争フレディ・マーキュリーの死など、90年代(というか91年にあった出来事)の事件がピックアップされ、ある少年によって語られる。ほかにも91年のパブ、とでも呼びたくなるようなモチーフは頻出するのですが、その辺はパンフレットの長谷川氏の解説に任せるとして、重要なのは既述した事件が「語られる」ことにある。

だから、同じくとある少年によって語られるこの映画の一連の出来事は、それらと並列されるべき91年に起こった大事件の1つとしてある。

そして、その少年とはおそらくこの映画の監督であるイライジャ・バイナムそのものだろう。87年生まれの監督だから、91年当時の体験そのものではないにせよ、大学で出会った2人の人物にインスパイアされたというから、注がれる視線というのはやっぱり極めてイライジャ監督のパーソナルなものだと思う。

あとは最大級の嵐であるハリケーン・ボブが91年だったから、それをクライマックスにぶつけることでよりとある少年=イライジャにとっての伝説的な物語を演出したかったのだろうというのもある。

最後の語りと、イージーライダーなあのカットも含めて。

最後の最後に「そして伝説へ…」的なテロップを入れても違和感ないような。

 

明らかに脚色に脚色を重ねているけれど、それでも事実をベースにした、と言い張るのはイライジャ監督にとってその脚色された美しい物語こそが事実だからだろう。だって別に、事実ベースであるなんて文言は必要ではないから。

 

確かに青春映画ではあるけど、同時に一種のファムファタールとしても見れなくはない。ないのですが、それはそれであまりに男性目線的でもあるんだけれど、まあ語り部のことを考えるとやっぱり間違いではないかも。

そもそも、この物語自体が語り部である少年が彼女の最後から逆算したとも言えるわけで。

だってマッケイラとかかわった男はみんな死んでますからね。なんか、ポップなモンタージュでさらっと流されてますけど。そういう観点から見ると、キャンディーの間接キッスは、そのファムファタールとの一線を越えてしまった瞬間に見えて(ワンカットだし)すさまじくドキドキしました。もっとねっとり糸を引いてたりしたらなお良かったですけど。

実兄のハンターにしたって、マッケイラの泣き落としがなければ、あるいはあの結末を回避できたかもしれないわけで。

 

劇中で多用される音楽は、個人的にはあまり印象には残らなかったかなぁ。いや、流すのはいいんだけどいつもフェードアウトするタイミングがすごいぶつ切りな感じで・・・私のリズムと合わなかっただけかもしれませんけど、「GoTG」が知らない曲でも印象に残るのと比べるとそこまで合っていたかというと、どうなのだろう。

音楽もそうですけど、全体的に露骨ではあるんですよねモチーフの使い方が。それを分かりやすいと捉えるかこれ見よがしと捉えるか。

 

役者は軒並みよござんした。メインとなるナウなヤング(死語)たち、個人的にはティモシーよりもハンター役のアレックスが良い。ジャック・レイナー的な脆さを湛えつつも、その脆さに裏打ちされた強さがしっかりあって、ハンターの田舎者間のカリスマという役柄にどんぴしゃりで。

若い役者陣はいわずもがななんだけれど、所々で顔を出す大人たちがそろいもそろって強面ばかりで、その辺のジョン・ワッツ的な大人の持つ恐怖と先達としての言葉の力(悪者も善人も)みたいなものがあって、大人の出てくるシーンは軒並み良い。

しかしデックス役のエモリー・コーエンが20代というのは詐欺でしょ。どう見てもおっさんじゃないですかー。あの雑魚っぽいムーブとそれでもやることはしっかりやるというのは、それっぽくもなくもないのかも。

 

個人的にはもう一つのイケメン映画の方が期待値が高い。