dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

復讐するは彼にあり

てか公開遅すぎ、日本だけ。そのくせ「ジョーカー」に被せてくるとか大丈夫か配給は。

通例、世界同時公開や本国同時公開が行われるのはワーナー、ディズニー、ソニー、フォックス、ユニバーサル(東宝東和)、パラマウント東和ピクチャーズ)など日本にも直属の配給会社があるメジャー作品のみ。『ジョン・ウィック:パラベラム』のライオンズゲートはアメリカではハリウッドメジャーの一つだが、日本ではポニーキャニオンKADOKAWAなど作品ごとに配給をおこなう会社が異なる。その際、配給業務のスタート時点で既に日本国内の邦画メジャーと洋画メジャーの自社作品に劇場が押さえられていて、作品の規模にふさわしいスクリーン数を確保しようとすると、公開日が先送りになってしまうことが多々あるのだ。

ということらしいので、まあ仕方ないっちゃ仕方ないんですけど。今回はユナイテッドシネマで公開してくれたので良かったと言えばよかったのですが、どうにかこの構造はなぁ。

 

それはともかく「二人はジョン・ウィック」と記事タイトル迷った。それくらいハル・ベリージョン・ウィックしてた。犬のこととか、聖印を押し付けられるあたりとか。

 

ジョン・ウィック:パラベラム」、今回はもう「マトリックスVer20.19」みたいな感じでござんす。

グリーンの色使いとかそういう色彩設計や美術などが明らかに変化し、露骨にアジアンテイストを盛り込んできていたりするし。それを言ってしまえばローレンス・フィッシュバーンが加わった「チャプター2」からすでにそうなってはいたけんども、しかし一番マトリックスに近づいている部分というのはシステムそのものと対立しなければならない点でしょう。

たしか池田さんは主席連合(今回で気づいたんですけど「High table」を主席連合って訳してたんですな)を「コンチネンタル(=大陸的)」を統御しようとする無国籍=多国籍資本主義連合とみていたけれど、私はもっと拡大解釈的に主席連合をシステムそのものだと解釈したかなぁ。

まあマトリックスアーキテクチャーほど無機質で抗いようのないも無慈悲なシステムではなく、交渉の余地があるという点やルールは絶対であっても絶対的なルールはないといったバランスは人肌を感じさせるのですけどね。

そう考えると主席連合の首領との対話なんかまさにアーキテクチャーとの対話のオマージュにも見えてくる。どっちを選んでも・・・という二者択一も。
ネオ・・・もといジョン・・・もといキアヌはその聖人性から背徳的な行動は取れないので、あれは必然なのですけど。


でもね、これ結局のところ終わりはないのではないかしら。コンテンツというメタな視点からも。
たしか「チャプター2」のときはあのラストを煉獄と書いた気がするのだけど、その意味では「宮本から君へ」とも通底しているテーマがある。

ただ「宮本~」のような比喩としてではなく、主席連合のトップとの会話の中であるように妻の思い出を抱き続けながら「生きる」かここで「死ぬ」かという、比喩でもなんでもなく敗北・即死を意味するあたりは取り付く島もないのです。

この世を生きること、それ自体が煉獄であるということ。
その悪辣な人の営みを戯画化して描いたのが「ジョン・ウィック」の世界なのだろう。
その世界におけるジョン・ウィックとは何者なのか。

たとえばラストの下剋上(ていうか都落ちしたキングなので下剋上ではないかもですが)の下層階級の復讐の代理人としのジョンは、やはりというか神的存在としてあるように見えて仕方ない。

結局のところ、ジョンの行動原理は多くの殺し屋連中が怜悧な資本システム=拝金主義や権力を希求して行動するのとは真逆に、人の情によってのみ帰結させられる。それはもちろん、自分自身の情も含む(というかそれが「ジョン・ウィック」という煉獄シリーズの口火だった)。

一作目が己の情、二作目が権力を志向する他者の情念、三作目においてはシステムそのものを引き受けたように、段々と有機的なものから無機的なものへとシフトしている。

面白いのが、そうやって無機的でありながらもそこに通底しているのは血の通った人間であるというのがマトリックスの機械とは違うところで、それがSFオタク的なウォシャウスキー姉妹とアクションスタントという肉体を引き受けたチャドとの違いなのではないかと思う。


そして、二人(というか三人)の監督の情念を引き受けたのがほかならぬキアヌだった。ジョンのように。というか順番は逆か。
思えば、キアヌ・リーブス(の人生も含め)はそういう代理・代償の人だった。
人はそれを救世主と呼ぶ。そう、彼はネオのときから救世主だった。
人々のキリストが人々の罪を背負ったように。神が「復讐するは我にあり」と言ったように。

もちろんそれは半ば冗談なのだけど、ここに来てネットミームのジョークが(といってもそのジョーク自体がキアヌの聖人性から導出されたものなので、演繹的で循環的なんだけど)「ジョン・ウィック」にまで顔を出してきているような気がするのはしかし気のせいではなさそう。
ジョン・ウィック」シリーズはキアヌもかなりアイデア出しをしているようだし、その辺のミームも引き受けているというのはあながち間違いではなさそうな。


あとはゼロ役のマーク・ダカスコスさんのバックグラウンドが凄まじく壮大だったり「ザ・レイド」の最強ハゲことヤヤン・ルヒアンと「ザ・レイド GOKUDO」のセセプ・アリフ・ラーマンの殺陣とか、ステージごとにその場その場の道具を使って人殺すあたりは相変わらず楽しい(っちゃ楽しいですけどゲームチック)んだけど、馬はどうしても「トゥルーライズ」が脳裏を掠めてしまいまする。ええ、午後ロー脳なので。

 

 

 

 

 

嘘つきはジョーカーの始まり。笑いで世界を吹き飛ばせ

やっぱり、どう足掻いてもバットマンとジョーカーは切り離せないんだなぁ。バットマン出てこないけど。

何気にこのままDCユニバースに食い込んでも実はそこまで問題はなさそうでもあるというバランスの(時系列はよくわからないけど)「ジョーカー」。

 

このタイミングでジョーカーというヴィランが単独でスクリーンに現れたのは、もちろん偶然などではない。

本来ならヒーロー(善)の対置としてのみ存在を許されるヴィラン(悪)が、ここまで堂々とした佇まいで、ヒーローという拠り所を持たずにステージを独占しているのは「ジョーカー」においてジョーカーはある種の善性()を付与されているからだろう。

その点で、純粋な悪(意)そのものだった「ダークナイト」のジョーカーとは明確に異なる。そもそもヒースのジョーカーは最初からジョーカーだったわけで。

そうはいってもジョーカーはジョーカーで、その表象が担ってきた行動を起こす。つまり世界を覆う欺瞞を暴き出そうとすることだ。

「常識的に考えて」などという正気を抑圧した楔を引きちぎる存在として、ジョーカーはある。

ただなんというか、ホアキンジョーカーというのは彼自身がジョーカーそのものというよりも、ジョーカーの意思に操られている個人としてあるように見える。

それはアーサーという、ジョーカーとは異なる側面を与えられているからかもしれない。

 

ヒースのジョーカーが人間の善悪を超越した人間の本意本質を抉り出そうとしたのに対し、ホアキンのジョーカーは徹底して世界から疎外された者としてのフリークに肩入れし(そういう意味ではバートンのバットマンに眼差しは近い)、彼らの存在する下層世界で煮詰まった負の感情を起爆させる。

善悪それ自体を問いかける起爆装置をその手に握っていた、世界に対してメタな存在であったヒースジョーカーに対し、ホアキンジョーカーは自身を世界の外から見下ろすメタ存在ではなくその世界の中でもがく演者の一人として置かれ、自分自身を起爆装置としている。まあ「タクシードライバー」オマージュなんてささげてる時点で彼が世界を超越した視線を持っているはずもないわけで。

 

だからジョーカーに超越性を見出す人が「ジョーカー」を認めたくないという理由も分かるし、正直に言えば自分にもその気持ちはある。いや、認めたくないとまでは言いませんが、観るまではそっちに行くのかぁという気はしてた。

しかしこの映画のタイトルは「ジョーカー」だ。たぶん、劇中でジョーカーを語るアーサーとこの映画のタイトルがさしているジョーカーは異なる。

タイトルとしての「ジョーカー」はジョーカーというヴィランそのものを指し、その中の一つとしてホアキンジョーカーはあるのではないか。ベン図的、とでも言えばいいのだろうか。

「ジョーカー」に置いてホアキンジョーカーは映画世界の中の人物でしかなく、世界そのものを外側から揺さぶるヒースジョーカーとは異なる。

しかし、アーサーがテレビ局に向かう場面、電車での騒動のシーンを思い返してみると、そこにはいかにもジョーカー的な悪意の表出がある。

ウェインに対し暴動を起こさんと、貧者たちがピエロのマスクを着け一致団結しているかのように見えるあのシーンは、しかし大量生産の産物であろうそのマスク以外にこれっぽっちの結束などは見えない。そして、それを証明するかのように流れ弾ならぬ流れ拳が飛んできたことでいともたやすくピエロたちはお互いを殴りつけ合い、その中でポリスを巻き込んでいく。

ホアキンジョーカーは結果的にせよ彼らを煽り彼らに煽り返され、同質化し(そしてまさに電車のぎゅうぎゅう詰めが示すように押し込められていた)ていたはずなのに、その様子を睥睨するホアキンジョーカーの視線は極めて怜悧だった。

「何やってんのお前ら?バカじゃねぇの?」とでも言いたげに。それまで散々一緒になって煽っていたのに、急に手の平を返し、その手の平に乗っていた大衆を奈落の底に叩き落す。まるで釈迦の掌の上の語空の逸話のように。

あのシーンのジョーカーだけは、「ジョーカー」のジョーカーが憑依していたと思う。ホアキンジョーカーではなく。むしろ、ホアキンジョーカーすらも笑い飛ばしてしまう巨大な概念としてのジョーカーが顕現した瞬間だっただろう。

その一点だけで、この映画がホアキンジョーカーを弱者の一人として描きつつも、映画それ自体の視線はやはりジョーカー的なものだったというのは分かるから、溜飲が下がった思いではありました。

「こんな(ホアキン)ジョーカーに感化されて、バカじゃないのか?」というささやきが聞こえるようですらある。

 

とはいえ、ホアキンジョーカーに作り手が「寄り添っている」というのは否定できないところだろうし、いま述べたような巨大なジョーカーの視線というのはホアキンジョーカーの行動を無限定に肯定してはいけないという自戒みたいなものなのだろうな、というのも理解できる。

 

 

 

 

なんとなく、この映画には三つのレイヤーが存在する気がする。

一つはまったき現実で、

一つは悲しい空想。

一つはカメラ越しの世界。

 

そして三つのレイヤーが折り重なるとき、オーディエンスはテレビの前の傍観者ではなく同じホアキンジョーカーと同じ空間にいる当事者に引きずり降ろされる。

遂に人々の前に現出したジョーカーは、閾値を超えた瞬間に構造を逆転させる。逆転というより、大衆が祭り上げた道化に大衆が呑み込まれてしまうという反復による増幅が双方を肥大させ合う。その極限がパトカーの上での一連のシーンなわけで。 

 

そういう風に、この映画におけるホアキンジョーカーは大衆――愚衆の理想の体現としてある。

だからこの映画はちょっと危険かもしれない。ホアキンジョーカーにばかり目が行ってしまうから。

もっと大きな悪意=もっと大きなジョーカーの視線に気づかなければ、世界がアーカムアサイラムからゴッサムになる日はそう遠くないのではなかろうか。

 

 

 

Q月

「アンロック/陰謀のコード」

リアル路線かと思ったら全然そんなことなかった。

有能ではないキャラクターを配置する(というか話の展開のさせ方がキャラクターを無能に見せている)ことで物語を展開させていく、というのが一昔前の連続ドラマっぽいというか。

どいつもこいつも安易に銃ぶっぱしすぎだし。

なんかMI5(だっけ?)の人もMぽいし、いくらチョッキ着ててもそんな清々しい顔してるってどんだけ痛みに鈍感なんすか。

一般人に犠牲出しすぎだし。ノオミ・ラパスはテロを防げなかったことでメンタルダメージ追ってる割には尋問相手とか本当に一般人の知人を任務に引き込んで殺してるしで罪悪感ってよりは単なる完璧主義者としか見えまへぬ。しかもそのトラウマも実は勘違いっていうか彼女に原因がないから彼女の物語としては面白みに欠けてしまうし。

あと雇われ傭兵っぽいのに忠義に厚いヒットマンとか、アホの子マイケル・ダグラスとか、カット割りのテンポのせいで緊張感出てなかった李とか、まあ色々とおざなりではある。

最後普通に殺すんだ…というあたりはもう完全に笑ってましたよ。

エンドロール入りのBGMもちょっとMOBYのエクストリームウェイっぽいし、全体的にいろんなスパイアクション映画の要素を盛り込んで仮分数になるくらいわり算しちゃって表層的な部分だけが残った感じ。

それでもまあ、オーランド・ブルームが良い感じに老けていたりマルコヴィッチの張っちゃケ具合だったりアホの子ダグラスは観ていて楽しいので、そういう風に観れば割と楽しめる。

 

「ゾディアック」

そういえば、フィンチャーの映画って色々観たつもりになってたけどあんましまともに観たことないじゃん、と思い立って観る。

デビュー作にしたって午後ローの大幅ばっさりカットが初見だし。まともに観たのってそれこそ「ゴーン・ガール」くらいじゃなかろうか。あ「セブン」もか。

というわけで「ゾディアック」を観たんですが、まず長い。

が、この長さの映画を観ると私の場合は途中で集中力が持続しないのですが、なんでかフィンチャーの映画ってどれだけ長くても全然飽きない。

ゾディアックが作り出した状況、それに飲まれていく(というか自ら飲まれこんでいく)ジレンホールという図式。相変わらずこの人って世界と対峙するっていうかなんていうか。

今観るとメインの3人がMCUのメイン級であることに不思議な感慨が。

 

帝都物語」「帝都大戦」

というわけで観る。

帝都物語の方はひたすら世界観に浸ることができる映画でかなり良かった。

だいぶ端折ってるし明らかにそこは描写しとくべきだろうという部分はオミットされていたり、かなり大胆な脚本ではある。

とはいえ、それが瑕疵になっているかというと別にそういうことではなく、なぜなら昭和も明治も大正も、それが日本であろうとももはや別世界の話であるからして、その世界にはそういう道理があるということさえ頭にあれば後はその世界に浸るだけでこの映画は楽しめるのであるからして。

ギーガーデザインの護法童子とかやたらと豪華だったり、セットの作りこみや言語的な響き(東亜なんて言葉が堂々と使われる世界)による異世界の現出といい、そういう世界を自然に堪能できる映画って何気に少ない気がする。

まあ加藤がだいぶ持って行ってる映画でもありますよね、これ。あの人形を抱えて走るシーンのカッコよさとか、かなりすさまじいと思うんですけど。

あとは声も重要でっしゃろな。渋沢を演じるあの人は言わずもがななんだけど、大塚芳忠とか立木文彦とか繁千葉とか中村大樹とか、明らかに声の力も意識している。

そういう色々なレベルでのデザインによって組み上げられたのがこの帝都物語の世界なわけで。

むしろ外連味だけで造られている映画と言っても過言ではないのではなかろうか、これ。石田純一でさえあんなにいい顔ができるとは思わなかったけど。

 

帝都大戦の方はまあなんというか、だいぶ外連味が減ったなぁ、という印象。呪術合戦の印を結んだりしていたあの楽しさがなくてギャグマンガ日和の気功合戦の話みたいなしょっぱさになっていたり。まあ明らかに指向性が違う映画ではありますので、あれなんですけど。

野沢さんで盛大に笑ったので割と満足ではあるんですけど。

 

 

「デスプルーフ in グラインドハウス

タランティーノの映画は好きでも嫌いでもない、というのが「レザボア~」や「ヘイトフルエイト」や「パルプ・フィクション」を観て思ったのだけれど、「ジャッキーブラウン」は結構好きな方で、この「デスプルーフ~」は多分タランティーノ映画で一番好きかもしれないという具合。

画面の質感がどうこうとか、まあそういうのは置いておいて、オマージュとかそういうのは置いておいて、タランティーノのいくつかの映画でやたらと会話が長いのは、その永遠とも延々と続く会話や掛け合いというのは要するに緩慢ではあるものの退屈ではない、多幸感とは言わずとも幸福な時間がだらだらと繰り広げられる時間なんだなぁ、と。

それと対を成すように、一瞬の出来事がある。それがテキサスの事故のことであるのだけれど、その緩慢なダラダラとした時間というのはその一瞬の出来事(悲劇)との構造的な対になっているのだな、と。

どうでもいいけど、本作のカートラッセルと後半の女性グループのまさに白黒な対比というのはタランティーノの心象の具象そのものなんじゃないかと思ったりするんだけれど。しかし後半は笑えるしスカっとするしで、割と本気で好きな映画だったりするかもこれ。

 

「DUNE/砂の惑星

コケたという話ばかりが取りざたされていたので身構えてたら思ったより全然楽しめた。いや、まあ、お話のダイジェストな編集は目立つんですけど。

そういうのはどうでもいいくらい映像的スケール(お話ではなく)が楽しい。ダラダラ流しながらBGM的に観ていたい感じ。

あと浮遊という動作において、この作品が今まで観てきた映画というか実写作品の中で一番しっくりきた。

 

十三人の刺客

やっぱり伊福部音楽はいいなぁ。使い回されてるけど。

この間の謀略もそうだけど、こうチームものってやっぱり最低限の面白さがある気がする。

これラストの殺陣、全然美しくないんですよね。場面場面での一進一退に角に隠れて不意打ちとか、切り合いというよりはどっちも鬼の鬼ごっこ(そんなもんないと思いますけど)に近い。まあ、タッチはすなわち斬ることになりますから、必死にもなる。

汚いなさすが侍きたない。

その目的を果たさんとする生き汚さこそがこの映画の楽しいところであり、そうやって非常に徹しようとすればするほどに浮き上がってくる人の情念があのラストに結実する。

いやこれ、全然情緒ありまくりですよ。

十三人側が全員キャラ立ってるか、というとまあどうかと思いますが敵側にもしっかりと半兵衛という美味しいキャラを配置しているし全然楽しい。

 

ランペイジ 巨獣大乱闘」

筋肉+怪獣=(゚д゚)ウマー。

もはやシュワの後継者と呼んでなんら差し支えない筋肉理論を大展開するロック様。

シュワちゃんの時代にCGが発達していたら多分同じような映画が作られたのだろうなぁと。

若本ボイスの人があんな登場しといて株爆上げしてくる人だとは。妙にボンクラな映画なのに良い意味で裏切ってくれるしキャラクターを上手く生かして変に湿っぽくせずに締めるあたりもよい。

いや、普通に全然楽しいです。「コマンド―」が好きで怪獣が好きで「AVP」が好きな

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      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |
     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

な人には最高のポップコーン映画。

「コマンド―」みたいに変にサイコでもないあたりに間口の広さを感じる。

ていうか「カリフォルニア・ダウン」の監督だったんですね。超納得。

 

ブレードランナー2049」

 いや「ブレードランナー」の楽しいところってそこではないですか?という感じがしなくもない。

むしろこう、「ブレードランナー」の世界とか言われてもどちらかというとあの寂びれた廃墟の印象などは「トゥモロー・ワールド」的というかデッカードとKの水泳シーンなんかは「ガタカ」オマージュっぽかったり、全体的に別の映画の世界に浸っているというか、ブレランに別の映画の変数を代入したことで奇妙な不一致感が出ているといえばいいのでしょうか。

これがブレランの続編でなければもっとすっと入ってきたのだろうけれど。

 

いや、ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家性というか霞がかったイメージが頻発していて面白かったんですけどね。

Kくんの貴種流離譚かと思ったらそんなことはなかったでござるの巻とか、恋人を踏みつぶされるところとか、哀愁が漂いすぎていて。

思うに「最後のジェダイ」が正当に(しかしバッドエンドの方向で)描けていたらこういう感じになったんじゃないかなぁと思う。

 

「ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦」

これ、自分が戦争という状況の在り方に対して抱く危機感をそのまま映し出している。

それは戦争という状況の常態化。それに寄与しているのは上映時間の長さと、起承転結のなさ。戦争という状況に置かれた個人の物語も、戦争の状況の進退が描かれるわけでもない。

ただひたすら戦争という状況があり、そこに参加する人間の活動が切り取られるだけ。

戦争が日常化したとき、我々が日頃の全てに鈍感になっているように、戦争という特殊な状況にすら感慨をいだくことがなくなる。

ほかの戦争映画で描かれるのは往々にして日常からかけ離れた戦争の凄惨さやそこに放り込まれた人間のタガが外れていく様などの非日常。

しかし、この映画ではそれすらも日常化してくる。

ひたすら戦争という状況とそこで活動する人間を描く(ときにはドキュメンタリーちっくなカメラワークで)のだけれど、情動を惹起することがない。もちろん、飛び出た内臓を押し戻す兵士の姿や家族に営為が描かれる場面では少なからず思うことはあるのだけれど、戦争が個人に死を迫らせる状況であり、その反動としての生への執着としてのセックス描写の片手間さといい、この映画は個の云々を描こうとはしない。

そういうツカシン的なものではない。

あれだけの銃撃、血液、死体、爆発が描かれながら、しかし戦争を緩慢で弛緩した時間に落とし込もうとするこの映画によってそれらは単に「そういうもの」として、日頃わたしたちがめもくれない道端の石のような他愛ないもの、当然あるからこそ意識を向けることすらないものへと転化される。

とはいえ、それでも生理的な嫌悪を催す場面があるのが救いというべきか。

戦闘、風景、休息。その反復だけが描かれるこの映画は、唐突に終わりを告げる。

だって、個人にとって戦争なんて大きな状況に翻弄される以外にはないのだから。それは劇的に肉体が欠損したり心が変貌したりもせず。

なんだか恐ろしい、この映画。や、この映画というよりは、この映画を通して見せつけられる認識というべきだろうか。

 

 「座頭市二段切り」

勝新太郎はいいなぁ。ご飯の食い方って、やっぱり映画で観るぶんには小奇麗なのよりも貪り食う方が気持ちいいですよね。ブラピとかもそうですけど。

話自体は義理人情の勧善懲悪、やけに長回しだったり90分もないランニングタイムだったりとか、今だからこそっていう感じもある。

やっぱ冒頭のおむすび食べるところが最高だなぁ。

 

「ガジュラ」

テレビ映画の割に結構なバジェットを感じさせる作り。さすがゴジラへのあてこすり(語弊)だけはある。

モンスターのデザイン、というかアニマトロにクスが何気にすごい奇妙な塩梅で困る。かわいいなぁ、このモンスター。お土産屋さんのパチモン怪獣みたいで。

アフレック兄弟入りしても違和感のない顔のアダム・ボールドウィンが主役だったりするし、その吹き替えが鈴置ボイスだったりと割に楽しめるというのが。

個人的にこの監督のアステロイドが気になる・・・。

 

「ルーキー」

ブルーサンダープラスMIBってとこでしょうか。

相変わらずのイーストウッドというか、元の脚本からなのかどうかわかりませんが、本当に無駄に無駄のない描き方というか。

普通だったらなぜいきなりあのレストラン?を突き止めたりする捜査の過程を描いたりするところを「どうやってあの場所を?」→「それが仕事だから」と切り捨てる。

後々に情報屋から仕入れたものだとわかるんですけど。

やっぱりイーストウッドってイーストウッドだせう。

 

「マーニー」

観たことはあったけれど久々に観直すとほとんど記憶から抜けていることに驚く。

しかし 倒錯してるなぁ・・・。

コネリーはコネリーで人でなしな目をしているし、相変わらず。

しかしズームアップ・アウトのあのシーンとか今見ると結構キツイものがあったりする。

いや、全体として面白いことに変わりないんですけど。

 

大列車強盗

クライトンなんですね、これ。

コネリーの頑張りは観ていて萌えるけれども・・・。

 

「エンジェルウォーズ」

頭空っぽにして観られる映画が観たいな~と思ってザックの映画をチョイスするというのも割かし失礼な気がするのですが、そういえばこれは観てなかった~と思い出して観賞する。案の定というか安心のザックでござい。

これは何というかザックのやりたい部分(JK(正確には違うけど)ドンパチ)を違和感なく(違和感がないかどうかは別として)見せるために設定が用意されているわけで、そういう意味では「マトリックス」の電脳世界だからオールオッケーを妄想(の中の妄想)だからオールオッケーという何ともこうトーキングヘッズの執筆陣が白けそうな設定に置き換えた「キル・ビル」というか。

これが鬱だとか言う輩がいてほんと片腹痛いのですが、ザック・スナイダーなので本質は精神病院の方ではないことは明らかなわけで。

しかしあれですね、ここ数年、特に10年代に隆盛になってきた美少女(JK)に何らかの要素をぶち込んで売り出すコンテンツって、「エンジェルウォーズ」を観ているといかにそれらが良くも悪くもバカバカしく抽象化されたアニメ(絵柄)であるから許容されているかというのがありありとわかる。何とは言いませんが、最近じゃ玩具市場にもそういうのが目立ってきてて、なんだか「それでいいのか」という気もしなくもないのですが。(バン〇イとかグッ〇マとかコトブ〇ヤとかね。そういう意味じゃ海〇堂の変わらないオタク的なスタンスというのは希少ではあるのかもしれない。価値があるかは別として)

でもザックの年代的には「BLOOD THE LAST VAMPIRE」あたりなのかな。制服の感じとかからも。ていうか寺田さん起用してるし。

それはともかく「エンジェルウォーズ」にしたって前述した妄想という設定があればこそ成立しているわけなんですが、JK+αのジャパニメーション作品の類というのは「アニメである」ということ以外に根拠を持たないあたりはやっぱり怠惰だよなぁ、と思うのですが。

にしたって「エンジェルウォーズ」もいくら妄想の中とは言え1950年代って話なのにそういう意匠を用意してこないあたりは、まあ音楽がアレだしそもそも再現しようとかそういう意図はないからなぁ。

幕が上がってスタートとか、しょっぱなからノローグあったりするし、まあやりたいことはすごくわかるんだけどね。

 

その辺のことはローカライズ担当者の吹替えキャストのチョイスからも何となく察せられるんですけどね。

おかげで最初はノイズがひどかったんですけど、まあモノローグは甲斐田さんだし、ギリギリ許容できる範囲ではあるんですけど、叫びとかアクションのときの声が吹き替えられてないから俳優のオリジナルの声と吹き替え声優の声質が違いすぎて妙な笑いが。

 

とまあこんな感じではありますか。他は特に、ザックだなぁという印象。

 

アーつだけ気になるのはエミリー・ブラウニングはストレートに可愛いタイプじゃないので、あの白金髪はどうかと思います。

あとオスカー・アイザックが出てたことに驚き。この人って良い感じの人を演じるときよりやばい感じの人の方が良い味出してると思うんだけどなぁ。

 

 「アダムス・ファミリー2」

あーいい。こういう軽く観られてほんわかぱっぱする映画っていいですよね。

バートンみたいに胃もたれしないし。

日本だとこういうのってほとんどアニメが担っている気がしますしねー。

結婚式委はヘビメタとかでもよかった気がしますけど、それはそれで露骨ですかね。

でもこんな軽い映画だけど使ってるワードとか赤ん坊を落下させるとか、未だとすごいクレームがつきそうな表現がたくさんあるあたりは流石というか。

子供向けではないエグイネタがあるから日本じゃできないかもですなぁ。

ブロンド信仰というか、カーストの皮肉とかもきいてるし。

変質者と殺人鬼カード欲しいなぁ・・・

 

「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」

イーストウッド映画。30年前から爺さんだったのに未だに現役で爺さんやってるって改めてそのすごさを感じる。よく考えたら50年代からキャリアスタートしてるわけだし、本当にこの爺さんは存在が強いです。

あと「許されざる者」よりも前の作品なのに「許されざる者」よりも老けたように見えるのはどういうことなんでしょうか。

 

相変わらずテキパキと進んでいくのはイーストウッド。部下が一人死んだくらいで湿っぽくならないし、リーコン部隊の結束の描き方にしたってどこか他人目線というか距離感があるし。唯一、殴り合うところでのカメラが今までと違う感じはしましたけれど。

そういえば、はねっかえりと継承みたいなものが見え隠れし始めたのってもしかしてこの辺なのかしら。いかんせん追い切れてないから分からないんですけど、それが極に達するのが「グラン・トリノ」というのは多分間違いなくて、その後は何かこう彼岸(を垣間見た人々)みたいなものに魅入られ始めているような気がする。「インビクタス」はよく分からないんだけど。

「運び屋」を見逃したのは痛いなぁ・・・今度観なきゃ。

 

クレジットカードのくだりは「トランスフォーマー」にもありましたな。そんな昔からあの手続きってそのままだったんですねぇ。

 

「テラー・プラネット in グラインドハウス

「デスプルーフ~」とすごい手法が似ているなーと思ったらニコイチ作品だったのですな。ロバート・ロドリゲスの映画はそれこそ「スパイ・キッズ」しか知らないくらいなんですけど(これ意外とシリーズあるんですね)、なんというかこう、割とグロテスクなものが好きな人ではあるな、と。

だからこの映画の企画というのはぴったりだったわけで、いわゆるB級ゾンビ映画の発展系といいましょうか。いや、発展系という謀のコード」

 

リアル路線かと思ったら全然そんなことなかった。

 

有能ではないキャラクターを配置する(というか話の展開のさせ方がキャラクターを無能に見せている)ことで物語を展開させていく、というのが一昔前の連続ドラマっぽいというか。

 

どいつもこいつも安易に銃ぶっぱしすぎだし。

 

なんかMI5(だっけ?)の人もMぽいし、いくらチョッキ着ててもそんな清々しい顔してるってどんだけ痛みに鈍感なんすか。

 

一般人に犠牲出しすぎだし。ノオミ・ラパスはテロを防げなかったことでメンタルダメージ追ってる割には尋問相手とか本当に一般人の知人を任務に引き込んで殺してるしで罪悪感ってよりは単なる完璧主義者としか見えまへぬ。しかもそのトラウマも実は勘違いっていうか彼女に原因がないから彼女の物語としては面白みに欠けてしまうし。

 

あと雇われ傭兵っぽいのに忠義に厚いヒットマンとか、アホの子マイケル・ダグラスとか、カット割りのテンポのせいで緊張感出てなかった李とか、まあ色々とおざなりではある。

 

最後普通に殺すんだ…というあたりはもう完全に笑ってましたよ。

 

エンドロール入りのBGMもちょっとMOBYのエクストリームウェイっぽいし、全体的にいろんなスパイアクション映画の要素を盛り込んで仮分数になるくらいわり算しちゃって表層的な部分だけが残った感じ。

 

それでもまあ、オーランド・ブルームが良い感じに老けていたりマルコヴィッチの張っちゃケ具合だったりアホの子ダグラスは観ていて楽しいので、そういう風に観れば割と楽しめる。

 

 

 

「ゾディアック」

 

そういえば、フィンチャーの映画って色々観たつもりになってたけどあんましまともに観たことないじゃん、と思い立って観る。

 

デビュー作にしたって午後ローの大幅ばっさりカットが初見だし。まともに観たのってそれこそ「ゴーン・ガール」くらいじゃなかろうか。あ「セブン」もか。

 

というわけで「ゾディアック」を観たんですが、まず長い。

 

が、この長さの映画を観ると私の場合は途中で集中力が持続しないのですが、なんでかフィンチャーの映画ってどれだけ長くても全然飽きない。

 

ゾディアックが作り出した状況、それに飲まれていく(というか自ら飲まれこんでいく)ジレンホールという図式。相変わらずこの人って世界と対峙するっていうかなんていうか。

 

今観るとメインの3人がMCUのメイン級であることに不思議な感慨が。

 

 

 

帝都物語」「帝都大戦」

 

というわけで観る。

 

帝都物語の方はひたすら世界観に浸ることができる映画でかなり良かった。

 

だいぶ端折ってるし明らかにそこは描写しとくべきだろうという部分はオミットされていたり、かなり大胆な脚本ではある。

 

とはいえ、それが瑕疵になっているかというと別にそういうことではなく、なぜなら昭和も明治も大正も、それが日本であろうとももはや別世界の話であるからして、その世界にはそういう道理があるということさえ頭にあれば後はその世界に浸るだけでこの映画は楽しめるのであるからして。

 

ギーガーデザインの護法童子とかやたらと豪華だったり、セットの作りこみや言語的な響き(東亜なんて言葉が堂々と使われる世界)による異世界の現出といい、そういう世界を自然に堪能できる映画って何気に少ない気がする。

 

まあ加藤がだいぶ持って行ってる映画でもありますよね、これ。あの人形を抱えて走るシーンのカッコよさとか、かなりすさまじいと思うんですけど。

 

あとは声も重要でっしゃろな。渋沢を演じるあの人は言わずもがななんだけど、大塚芳忠とか立木文彦とか繁千葉とか中村大樹とか、明らかに声の力も意識している。

 

そういう色々なレベルでのデザインによって組み上げられたのがこの帝都物語の世界なわけで。

 

むしろ外連味だけで造られている映画と言っても過言ではないのではなかろうか、これ。石田純一でさえあんなにいい顔ができるとは思わなかったけど。

 

 

 

帝都大戦の方はまあなんというか、だいぶ外連味が減ったなぁ、という印象。呪術合戦の印を結んだりしていたあの楽しさがなくてギャグマンガ日和の気功合戦の話みたいなしょっぱさになっていたり。まあ明らかに指向性が違う映画ではありますので、あれなんですけど。

 

野沢さんで盛大に笑ったので割と満足ではあるんですけど。

 

 

 

 

 

「デスプルーフ in グラインドハウス

 

タランティーノの映画は好きでも嫌いでもない、というのが「レザボア~」や「ヘイトフルエイト」や「パルプ・フィクション」を観て思ったのだけれど、「ジャッキーブラウン」は結構好きな方で、この「デスプルーフ~」は多分タランティーノ映画で一番好きかもしれないという具合。

 

画面の質感がどうこうとか、まあそういうのは置いておいて、オマージュとかそういうのは置いておいて、タランティーノのいくつかの映画でやたらと会話が長いのは、その永遠とも延々と続く会話や掛け合いというのは要するに緩慢ではあるものの退屈ではない、多幸感とは言わずとも幸福な時間がだらだらと繰り広げられる時間なんだなぁ、と。

 

それと対を成すように、一瞬の出来事がある。それがテキサスの事故のことであるのだけれど、その緩慢なダラダラとした時間というのはその一瞬の出来事(悲劇)との構造的な対になっているのだな、と。

 

どうでもいいけど、本作のカートラッセルと後半の女性グループのまさに白黒な対比というのはタランティーノの心象の具象そのものなんじゃないかと思ったりするんだけれど。しかし後半は笑えるしスカっとするしで、割と本気で好きな映画だったりするかもこれ。

 

 

 

「DUNE/砂の惑星

 

コケたという話ばかりが取りざたされていたので身構えてたら思ったより全然楽しめた。いや、まあ、お話のダイジェストな編集は目立つんですけど。

 

そういうのはどうでもいいくらい映像的スケール(お話ではなく)が楽しい。ダラダラ流しながらBGM的に観ていたい感じ。

 

あと浮遊という動作において、この作品が今まで観てきた映画というか実写作品の中で一番しっくりきた。

 

 

 

十三人の刺客

 

やっぱり伊福部音楽はいいなぁ。使い回されてるけど。

 

この間の謀略もそうだけど、こうチームものってやっぱり最低限の面白さがある気がする。

 

これラストの殺陣、全然美しくないんですよね。場面場面での一進一退に角に隠れて不意打ちとか、切り合いというよりはどっちも鬼の鬼ごっこ(そんなもんないと思いますけど)に近い。まあ、タッチはすなわち斬ることになりますから、必死にもなる。

 

汚いなさすが侍きたない。

 

その目的を果たさんとする生き汚さこそがこの映画の楽しいところであり、そうやって非常に徹しようとすればするほどに浮き上がってくる人の情念があのラストに結実する。

 

いやこれ、全然情緒ありまくりですよ。

 

十三人側が全員キャラ立ってるか、というとまあどうかと思いますが敵側にもしっかりと半兵衛という美味しいキャラを配置しているし全然楽しい。

 

 

 

ランペイジ 巨獣大乱闘」

 

筋肉+怪獣=(゚д゚)ウマー。

 

もはやシュワの後継者と呼んでなんら差し支えない筋肉理論を大展開するロック様。

 

シュワちゃんの時代にCGが発達していたら多分同じような映画が作られたのだろうなぁと。

 

若本ボイスの人があんな登場しといて株爆上げしてくる人だとは。妙にボンクラな映画なのに良い意味で裏切ってくれるしキャラクターを上手く生かして変に湿っぽくせずに締めるあたりもよい。

 

いや、普通に全然楽しいです。「コマンド―」が好きで怪獣が好きで「AVP」が好きな

 

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           ///)

          /,.=゙''"/

   /     i f ,.r='"-‐'つ____   こまけぇこたぁいいんだよ!!

  /      /   _,.-‐'~/⌒  ⌒\

    /   ,i   ,二ニ⊃( ●). (●)\

   /    ノ    il゙フ::::::⌒(__人__)⌒::::: \

      ,イ「ト、  ,!,!|     |r┬-|     |

     / iトヾヽ_/ィ"\      `ー'´     /

 

な人には最高のポップコーン映画。

 

「コマンド―」みたいに変にサイコでもないあたりに間口の広さを感じる。

 

ていうか「カリフォルニア・ダウン」の監督だったんですね。超納得。

 

 

 

ブレードランナー2049」

 

 いや「ブレードランナー」の楽しいところってそこではないですか?という感じがしなくもない。

 

むしろこう、「ブレードランナー」の世界とか言われてもどちらかというとあの寂びれた廃墟の印象などは「トゥモロー・ワールド」的というかデッカードとKの水泳シーンなんかは「ガタカ」オマージュっぽかったり、全体的に別の映画の世界に浸っているというか、ブレランに別の映画の変数を代入したことで奇妙な不一致感が出ているといえばいいのでしょうか。

 

これがブレランの続編でなければもっとすっと入ってきたのだろうけれど。

 

 

 

いや、ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家性というか霞がかったイメージが頻発していて面白かったんですけどね。

 

Kくんの貴種流離譚かと思ったらそんなことはなかったでござるの巻とか、恋人を踏みつぶされるところとか、哀愁が漂いすぎていて。

 

思うに「最後のジェダイ」が正当に(しかしバッドエンドの方向で)描けていたらこういう感じになったんじゃないかなぁと思う。

 

 

 

「ウィンター・ウォー 厳寒の攻防戦」

 

これ、自分が戦争という状況の在り方に対して抱く危機感をそのまま映し出している。

 

それは戦争という状況の常態化。それに寄与しているのは上映時間の長さと、起承転結のなさ。戦争という状況に置かれた個人の物語も、戦争の状況の進退が描かれるわけでもない。

 

ただひたすら戦争という状況があり、そこに参加する人間の活動が切り取られるだけ。

 

戦争が日常化したとき、我々が日頃の全てに鈍感になっているように、戦争という特殊な状況にすら感慨をいだくことがなくなる。

 

ほかの戦争映画で描かれるのは往々にして日常からかけ離れた戦争の凄惨さやそこに放り込まれた人間のタガが外れていく様などの非日常。

 

しかし、この映画ではそれすらも日常化してくる。

 

ひたすら戦争という状況とそこで活動する人間を描く(ときにはドキュメンタリーちっくなカメラワークで)のだけれど、情動を惹起することがない。もちろん、飛び出た内臓を押し戻す兵士の姿や家族に営為が描かれる場面では少なからず思うことはあるのだけれど、戦争が個人に死を迫らせる状況であり、その反動としての生への執着としてのセックス描写の片手間さといい、この映画は個の云々を描こうとはしない。

 

そういうツカシン的なものではない。

 

あれだけの銃撃、血液、死体、爆発が描かれながら、しかし戦争を緩慢で弛緩した時間に落とし込もうとするこの映画によってそれらは単に「そういうもの」として、日頃わたしたちがめもくれない道端の石のような他愛ないもの、当然あるからこそ意識を向けることすらないものへと転化される。

 

とはいえ、それでも生理的な嫌悪を催す場面があるのが救いというべきか。

 

戦闘、風景、休息。その反復だけが描かれるこの映画は、唐突に終わりを告げる。

 

だって、個人にとって戦争なんて大きな状況に翻弄される以外にはないのだから。それは劇的に肉体が欠損したり心が変貌したりもせず。

 

なんだか恐ろしい、この映画。や、この映画というよりは、この映画を通して見せつけられる認識というべきだろうか。

 

 

 

 「座頭市二段切り」

 

勝新太郎はいいなぁ。ご飯の食い方って、やっぱり映画で観るぶんには小奇麗なのよりも貪り食う方が気持ちいいですよね。ブラピとかもそうですけど。

 

話自体は義理人情の勧善懲悪、やけに長回しだったり90分もないランニングタイムだったりとか、今だからこそっていう感じもある。

 

やっぱ冒頭のおむすび食べるところが最高だなぁ。

 

 

 

「ガジュラ」

 

テレビ映画の割に結構なバジェットを感じさせる作り。さすがゴジラへのあてこすり(語弊)だけはある。

 

モンスターのデザイン、というかアニマトロにクスが何気にすごい奇妙な塩梅で困る。かわいいなぁ、このモンスター。お土産屋さんのパチモン怪獣みたいで。

 

アフレック兄弟入りしても違和感のない顔のアダム・ボールドウィンが主役だったりするし、その吹き替えが鈴置ボイスだったりと割に楽しめるというのが。

 

個人的にこの監督のアステロイドが気になる・・・。

 

 

 

「ルーキー」

 

ブルーサンダープラスMIBってとこでしょうか。

 

相変わらずのイーストウッドというか、元の脚本からなのかどうかわかりませんが、本当に無駄に無駄のない描き方というか。

 

普通だったらなぜいきなりあのレストラン?を突き止めたりする捜査の過程を描いたりするところを「どうやってあの場所を?」→「それが仕事だから」と切り捨てる。

 

後々に情報屋から仕入れたものだとわかるんですけど。

 

やっぱりイーストウッドってイーストウッドだせう。

 

 

 

「マーニー」

 

観たことはあったけれど久々に観直すとほとんど記憶から抜けていることに驚く。

 

しかし 倒錯してるなぁ・・・。

 

コネリーはコネリーで人でなしな目をしているし、相変わらず。

 

しかしズームアップ・アウトのあのシーンとか今見ると結構キツイものがあったりする。

 

いや、全体として面白いことに変わりないんですけど。

 

 

 

大列車強盗

 

クライトンなんですね、これ。

 

コネリーの頑張りは観ていて萌えるけれども・・・。

 

 

 

「エンジェルウォーズ」

 

頭空っぽにして観られる映画が観たいな~と思ってザックの映画をチョイスするというのも割かし失礼な気がするのですが、そういえばこれは観てなかった~と思い出して観賞する。案の定というか安心のザックでござい。

 

これは何というかザックのやりたい部分(JK(正確には違うけど)ドンパチ)を違和感なく(違和感がないかどうかは別として)見せるために設定が用意されているわけで、そういう意味では「マトリックス」の電脳世界だからオールオッケーを妄想(の中の妄想)だからオールオッケーという何ともこうトーキングヘッズの執筆陣が白けそうな設定に置き換えた「キル・ビル」というか。

 

これが鬱だとか言う輩がいてほんと片腹痛いのですが、ザック・スナイダーなので本質は精神病院の方ではないことは明らかなわけで。

 

しかしあれですね、ここ数年、特に10年代に隆盛になってきた美少女(JK)に何らかの要素をぶち込んで売り出すコンテンツって、「エンジェルウォーズ」を観ているといかにそれらが良くも悪くもバカバカしく抽象化されたアニメ(絵柄)であるから許容されているかというのがありありとわかる。何とは言いませんが、最近じゃ玩具市場にもそういうのが目立ってきてて、なんだか「それでいいのか」という気もしなくもないのですが。(バン〇イとかグッ〇マとかコトブ〇ヤとかね。そういう意味じゃ海〇堂の変わらないオタク的なスタンスというのは希少ではあるのかもしれない。価値があるかは別として)

 

でもザックの年代的には「BLOOD THE LAST VAMPIRE」あたりなのかな。制服の感じとかからも。ていうか寺田さん起用してるし。

 

それはともかく「エンジェルウォーズ」にしたって前述した妄想という設定があればこそ成立しているわけなんですが、JK+αのジャパニメーション作品の類というのは「アニメである」ということ以外に根拠を持たないあたりはやっぱり怠惰だよなぁ、と思うのですが。

 

にしたって「エンジェルウォーズ」もいくら妄想の中とは言え1950年代って話なのにそういう意匠を用意してこないあたりは、まあ音楽がアレだしそもそも再現しようとかそういう意図はないからなぁ。

 

幕が上がってスタートとか、しょっぱなからノローグあったりするし、まあやりたいことはすごくわかるんだけどね。

 

 

 

その辺のことはローカライズ担当者の吹替えキャストのチョイスからも何となく察せられるんですけどね。

 

おかげで最初はノイズがひどかったんですけど、まあモノローグは甲斐田さんだし、ギリギリ許容できる範囲ではあるんですけど、叫びとかアクションのときの声が吹き替えられてないから俳優のオリジナルの声と吹き替え声優の声質が違いすぎて妙な笑いが。

 

 

 

とまあこんな感じではありますか。他は特に、ザックだなぁという印象。

 

 

 

アーつだけ気になるのはエミリー・ブラウニングはストレートに可愛いタイプじゃないので、あの白金髪はどうかと思います。

 

あとオスカー・アイザックが出てたことに驚き。この人って良い感じの人を演じるときよりやばい感じの人の方が良い味出してると思うんだけどなぁ。

 

 

 

 「アダムス・ファミリー2」

 

あーいい。こういう軽く観られてほんわかぱっぱする映画っていいですよね。

 

バートンみたいに胃もたれしないし。

 

日本だとこういうのってほとんどアニメが担っている気がしますしねー。

 

結婚式委はヘビメタとかでもよかった気がしますけど、それはそれで露骨ですかね。

 

でもこんな軽い映画だけど使ってるワードとか赤ん坊を落下させるとか、未だとすごいクレームがつきそうな表現がたくさんあるあたりは流石というか。

 

子供向けではないエグイネタがあるから日本じゃできないかもですなぁ。

 

ブロンド信仰というか、カーストの皮肉とかもきいてるし。

 

変質者と殺人鬼カード欲しいなぁ・・・

 

 

 

「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」

 

イーストウッド映画。30年前から爺さんだったのに未だに現役で爺さんやってるって改めてそのすごさを感じる。よく考えたら50年代からキャリアスタートしてるわけだし、本当にこの爺さんは存在が強いです。

 

あと「許されざる者」よりも前の作品なのに「許されざる者」よりも老けたように見えるのはどういうことなんでしょうか。

 

 

 

相変わらずテキパキと進んでいくのはイーストウッド。部下が一人死んだくらいで湿っぽくならないし、リーコン部隊の結束の描き方にしたってどこか他人目線というか距離感があるし。唯一、殴り合うところでのカメラが今までと違う感じはしましたけれど。

 

そういえば、はねっかえりと継承みたいなものが見え隠れし始めたのってもしかしてこの辺なのかしら。いかんせん追い切れてないから分からないんですけど、それが極に達するのが「グラン・トリノ」というのは多分間違いなくて、その後は何かこう彼岸(を垣間見た人々)みたいなものに魅入られ始めているような気がする。「インビクタス」はよく分からないんだけど。

 

「か運び屋」を見逃したのは痛いなぁ・・・今度観なきゃ。

 

 

 

クレジットカードのくだりは「トランスフォーマー」にもありましたな。そんな昔からあの手続きってそのままだったんですねぇ。

 

 

 

「テラー・プラネット in グラインドハウス

 

「デスプルーフ~」とすごい手法が似ているなーと思ったらニコイチ作品だったのですな。ロバート・ロドリゲスの映画はそれこそ「スパイ・キッズ」しか知らないくらいなんですけど(これ意外とシリーズあるんですね)、なんというかこう、割とグロテスクなものが好きな人ではあるな、と。

どうでもいいですけど「片腕マシンガール」より先だったんですね、これ。

 

だからこの映画の企画というのはぴったりだったわけで、いわゆるB級ゾンビ映画の発展系といいましょうか。いや、発展系というのもなんか違う気がする。志としては「キャビン」のそれに近いのかもしれないけれど、ああいう集大成のようなオチが待っているというわけではない。

むしろメタな構造を意識した上で大集合、というお祭り映画的なメガ盛りとはまた違って、「テラー~」の方はB級ゾンビ映画のディティールを詰めつつ(トム・サヴィー二による特殊メイク)それ自体を過剰にすることで超絶に楽しい映画に仕上がっている。いやほんと、割と本気で痛々しい場面があったりする(けれどそれはギャグとして機能させている)んだけどね。

ズームのカメラワークとか細かいジャンプカットとかもその一端。

「蟲毒~」のようなただ単に作為的にハチャメチャにしたところで結局はバカバカしいことにおんぶにだっこだったことで「はぁ・・・そうですか」といった萎えた感情しかもたらさなかったのに比べて、こっちの工夫を凝らした過剰さはその細部を再現しそこに過剰さを持たせることで(サヴィー二やタランティーノの扱いなんかを見ると自己言及的ですらある)独自の味わいをもたらしたのに比べるとその格の違いは歴然としている。

 

ヘリコプターでひき殺しとか、片足マシンガールな展開とかバカバカしい感動をもたらしてくれる。

 

役者、特に女性陣が素晴らしい。猥雑なエロ押し(バストを強調しておいて「良い尻だ」とかいうのは流石に笑いましたが)な愛嬌はもちろん、そういうのとは別のところに強さがあって。ローズ・マッゴーワンマーリー・シェルトンが最高。

 

これかなり好きかも。

 

オデッサ・ファイル

ジャッカルの日」の原作であるフォーサイスの小説の映画化。

イギリス人のフォーサイスがこういう物語を書くというのは当てつけなのか彼なりの救いなのか、どうなのだろう。

 

男ですもの 女なんだよ 人間だもの(読み人知らず)

さーせん、先に断っておきます。

書きたいことをつらつら長々と7時間にわたって書いたせいで10000字をオーバーした上、推敲の体力が尽きていつも以上に雑然としたまま投稿してしまったので「来いよベネット! 時間なんて捨ててかかってこい!」という人だけ読んでくらはい。

うーむ・・・しかしもっと読みやすい良い文章書けるようになりたし。

 

 

 

 

まずはふざけたタイトルで記事をポストしていまって本当に申し訳ないと思う。でもかなりいい線いってると思うので謝りはしますまい。

 

ということでタイトルだけでわかっちゃう人はわかっちゃうと思うんですが、某氏が某メディアで勧めていたのと、いいタイミングで無料配信されていたのでドラマ版「宮本から君へ」を観、面白かったので劇場版を観る。

どうでもいいことですが真理子哲也監督、OBだったのかい。園子温といいあの大学の出身の人はテンションの高い映画を撮るなぁ。園さんの映画はあんまり好きじゃないんだけど・・・。

 

 というのは置いといて。 

最近の邦画の傑作・秀作には共通するものがあるんじゃないかと思う。それは人の足から始まる映画だ(自分調べ・根拠なし)。「岬の兄妹」しかり、「凪待ち」しかり。

そしてこの「宮本から君へ」しかり。

控えめに言って傑作である。

ここまで揺さぶられる映画は滅多に観られるものじゃあない。とはいえ私の日常回帰特性は凄まじく、マジックが続くのは2時間限定なんだけど、最近は2時間いっぱいを堪能させてくれるものは少なかったからなぁ。

 

 

ではこの映画が傑作である理由は何か。それは人間を臆面もなく描き切ったからだ。

ではでは人間とは何か、人間を描くにはどうすればいいのか。

その方法の一つは、人間という存在が依って立つ肉体を、身体性を描くことだ。

 

それはとりもなおさず、ドラマ版には不足していたことだった。

 

だからというわけじゃないけど、映画について書くにあたってドラマ版について触れないとモヤモヤするので、別のところでドラマ版について私が書いた思いと、映画版への期待みたいなものを引用しておきませう。

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「宮本から君へ」。面白いんだけど、妙な居心地の悪さがある。でも観てしまう。面白いから。

でもやっぱり宮本みたいなタイプは苦手だ。それは遠い昔遥か彼方の銀河系で・・・自分が持っていた遺産だからかもしれないし、ああいう直情なものを信じられないほどにひねくれてしまったからかもしれない。あとは今の自分の状況がそう思わせているというのもあるだろう。

だから、普通ならああいうのを見せられても(ていうかそもそも観ないだろうけど)斜に構えて批判的にヤジを飛ばすはず。嫉妬とか羨望とか、そういうものを自覚しながら。

けれど「宮本から君へ」は違う。なぜならこれは普通のいわゆる熱血ではないから。

もう一度書くけど、宮本は苦手なタイプだ。土下座すればいいわけじゃないし。

けれど、あそこまで過剰な思いの発露を前にして、あそこまでやって報われなきゃ嘘だとも思う。「シン・ゴジラ」において頭を下げた結果だけが描かれたのとは違って、「宮本から君へ」ではちゃんと過程が描かれていたのだから、その種の批判をするのは鬼だ。少なくとも私はそこまで鬼になれるほどしっかりした人間じゃないから、そういう批判を宮本には向けられない。

ていうか、そんな世界は間違っている。そういう全身全霊全力全開の思いの丈が過剰に過剰に沸々と煮詰まって沸騰しているのが「宮本から君へ」だと思う。

 

ただ、これを真っ当な人間賛歌と受け取れるだろうか、ドラマ版のラストを観てそう思える人は、正直言って羨ましい。

だって宮本は何一つとして成功体験をしていない。

これはむしろ煉獄だ。何度も何度も終わりのない敗北を繰り返し、何一つ成功体験を経ずに、それでもその行動によって宮本は成長を促される。促されてしまう。いや、もしかすると成長してさえいないんじゃないか。

哀愁なんてものはない。宮本はそういうものを背負うには熱血すぎる。けれどこれは、宮本以外の人間からすれば、宮本の人生はどう見たって煉獄そのものだ。

もちろん、宮本のような異様なまでの直情的な熱血漢は悩みこそすれ立ち直らないということはない。宮本という存在が宮本にとってのビルト・イン・スタビライザーみたいなものだから。殴っても殴っても立ち上がる(立ち上がってしまう)起き上がり小法師みたいなものだ。そこには自由意思を超越した法則や原理みたいなものすら見いだせてしまう。

けれど、私には宮本のような打たれ強さ(ともいうと語弊がある気がする。オートリジェネによって強制的に立ち上がってしまうようなものじゃなかろうか)はないし、ほとんどの人がそうだろう。

宮本はもはや人間じゃない。人間らしさを極限まで突き詰めた結果、人間から乖離してしまった超人と言って差し支えないのではないか。少なくとも私には宮本の持つあの過剰さはそう映る。だから、宮本はほとんどヒーロー映画のヒーローと同じような存在なのだ。つまりフィクションだ。創作物自体、現実逃避のフィクションなのだから、だからどうしたと言われると取り付く島もないのだけれど。

でもですね、「宮本から君へ」で描かれた社会の歪さはフィクションではなく(戯画化されているとはいえ)厳然と現実に存在して、その世界の中で私たち現実の人間は生きなければならない。宮本のような再生能力もそれに適応した強固な意志も持った超人になれないまま(だから人は自ら死を選ぶし、誰かを殺してしまうのだろう)、凡庸な人間として。現実の私たちにとって、宮本は不在の中心みたいなものだ。

そういう、途方もない悍ましいものが描かれているんじゃないだろうか、この作品は。

 

映画版はどうなるのだろうか。

 

島貫課長の前に立ち塞がり続けた・・・否、土下座塞がり続けた宮本のその後はどうなろうのだろうか。

そこまでやって、宮本は敗北してしまった。社会のルールに、あるいは無慈悲さに、あるいは彼自身の愚かさによって。

けれど敗北とは何だろうか。ようやく付き合えた女性が立った一日の出来事で元カレと元さやに納まったことだろうか?誠意を見せたにもかかわらずそれを蔑ろにされて競合他社に仕事を奪われることだろうか?

いや、そもそもこのドラマの延長としてあるべき映画に「敗北」などという概念は存在するのだろうか?

人はすぐに色々な数字を比べて勝ち組だとか負け組だとか腑分けするけれど。上下はあるにしても、勝ち負けってあるのだろうか。

全力でぶつかって、相手の全力を引き出して延々と殴り合う。それがドラマで描かれたことだ。

それは一見して戦いに見えるけれど、生きることは闘争だと喩えることはできるけれど、死ぬまで繰り返されるこの闘争に勝敗はあるのだろうか? 死んだら負けだろうか? いやぁ、死は闘争の終わりではあっても勝ち負けのジャッジにはなりえないでしょう。

「宮本から君へ」で描かれた生きること、その闘争は、格ゲーで言えばアーケードモードでもストーリーモードでもない(恐ろしいことに)、トレーニングモードなんじゃないかと思える。ほら、あれって延々と自キャラもCPUも立ち上がって技をかけあうでしょう? あれって、体力がゼロになっても継続されるわけじゃないですか。そもそも勝敗のカウントって表示されないでしょうし。いや、すべての格ゲーがそうとは言いませんが。

 

だとしたら、生きることに勝敗なんてあるのだろうか。

あるのだとしたら、ドラマで敗北し続けた宮本はどうすれば勝つのだろう。

ないのだとしたら、それをどうやって描くのだろう。

 

とりあえず期待して待つ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 映画を観終わった今でも、生きることに勝敗があるのかは分からない。

 上で書いたように、ドラマ版には宮本の過剰な内面の発露に対して身体性が追いついていなかった。とはいえ欠如していたわけではない。テレビというメディアの限界ゆえに描けなかったのだと思う。だからこそ、補助的にテレビ版はモノローグを入れたりしてたのだろうし。

ドラマ版の宮本はほとんど非人間存在だった。だから私は上のようにヒーローなどと、なかば揶揄として書いた。 だってほら、ヒーローって表面的な傷しか負わないでしょう? ヒーロー映画で肉体的な痛みが描かれたことってほとんどないんじゃない? 祭りに乗っかって盛大に楽しんだ観客としてこんなことを書くのはあれだけど、「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」のラストでヒーローたちが消えていくときの「どうせ復活するんでしょ? だってヒーローだもんね。そもそも続編アナウンスされてるしね」といったある種の欺瞞みたいなものを、ドラマ版の宮本に見出していたのである。

ヒーロー映画に限らず、少年マンガのバトルでは特にあるあるなんだけど、よくキャラクターの腕が切れたりもげたりする。意図は分かる。けれど、私がそういう表現を見るにつけ、いつも嘘くさいと思っていた。レイプがお手軽に絶望の表現として使われるように、そういう、身体性の欠如をドラマ版の宮本には感じていた。や、欠如ではなく不足ですけどね、「宮本から君へ」に関しては。

けれど、映画ではようやく表現が追いつき、その身体性を徹底的に(おかしみまで増大させ)描きだすことで、宮本はヒーローから地に足着いた人間になったと言えるんじゃないか。結構、ギリギリな気もするけど(笑)。

宮本が役者陣から一定の距離を置かれている(宮本を演じた池松くんすらも)というのは、やっぱりちょっとイッちゃってるところがあるからだろうし。

そのイかれ具合が違う方向に転んだら、それこそジョーカーみたいになるんじゃないかしら、という気がする。

あと、煉獄感はやっぱり引き続きあると思う。

 

で、この映画で描かれる身体性の発露は、それだけを抽出してしまえばほとんどクローネンバーグやツカシン的と言っていい。もっともっと言ってしまえば、これは自己と外界との係わりという点において「ファイト・クラブ」ですらある、かもしれない。

クローネンバーグやツカシといった作家は個人とその個人を取り巻くメディアや社会、あるいは戦争といった状況そのものであり、個人をエンクロージャーするものであり、その作用によって変質していく人間の変容そのものを描いていた。そういう意味では「宮本から君へ」とは異なるし、どちらかと言えば私はそっちの方が好きだったりする。テクノロジーの人間のかかわりって、やっぱりSF的で楽しいし。

でも「宮本から君へ」においては、それらマクロな世界ではない。宮本という個人はもっとミニマルなものと接続している。それは別なる個人、他者だ。

他者とは何か。もっと言えば人間とは、その存在の依って立つ肉体とは何か。別に道教とかを引用するまでもなく、みんな大好きMCUにおいて「アイアンマン3」のエクストリミスがわかりやすく説明してくれているようなことだ。すなわち人間とは、その身体とは宇宙である。世界そのものである。

もう分かるように、その思想から導出される他者とは、自分とは異なる別なる世界そのものなわけです。

何が言いたいかというと、社会とかメディアとか他者とか、人間の依って立つ身体と関わる異なる世界に規模の大小はあれ(そしてそこに個々人の好みはあれ)優劣はないということを言いたかったわけです。念のため。

 

この映画は徹底して肉体を、そしてその破壊を、他者との係わりにおいて描出しようと試みる。

いや、係わりなんて持って回った言い方は止めましょう。もうすでに書いちゃってるし、はっきり書いちゃいましょう。

これは闘争だと。

宮本と靖子と、裕二と、拓馬と敬三と。駆け引きも打算もない、ひたすらストレートを繰り出しまくる拳と拳の応酬だと。

個人と個人のエゴのぶつけ合い、欲望の押し付け合いだ(そう考えると「シグルイ」っぽくもある)。

これがあくまで「個人」のエゴの話であるのは、映画の冒頭とラストカットを比べればわかる。この映画は、最初にも書いたように宮本の足から始まる。そしてラストカットは彼の顔のアップで終わる。

宮本で始まり宮本で終わるこの映画は、宮本の「頭のてっぺんから足のつま先まで」で始まりと終わりを綴じているように、宮本という個人のエゴの話でしかありえない。

ではこの映画は宮本のエゴに終始するのだろうか? もちろんそんなことはない。すでに書いてきたように、この映画には他者が存在する。

さもありなん。ヒトが人ととして生きていくには他者の存在は不可欠で、エゴというものはその対象となる他者なしでは発露しえないのだから。闘争は一人でできるか? できるわけがない、だって他者がいないと戦いは起こり得ないのだから。

宮本という人を描くには、その巨大なエゴを描くには、他者が必要だ。それも、宮本の肥大した強烈なエゴをぶつけることのできるに相応しい他者が。唯々諾々と一歩下がってついていくような女じゃだめだ。手練手管で女を篭絡しようとする軟派な男じゃだめだ。

それが映画版においては靖子であり裕二であり拓馬なのだろう(敬三は多分、位相が違う。彼は拓馬によってボコられ、あるいは父親の反面教師として宮本とは直接接触しないところにいるから)。

 

昨今の共感やら相互理解やらレリゴー精神を謡う潮流とは真逆を行く、まさに時代逆行的と言って過言ではないものを「宮本から君へ」はスクリーンに映し出している(井浦さんは時代を縦横無尽に駆け抜ける人物として宮本を評していたっけ)。

あるインシデントを使って深刻ぶる白々しさ、それを恥ずかしげもなく描く作品があり、そこに現代的(笑)なメディアとの係わりを持ってきて薄っぺらな悩みを描くような映画が今でも映画館にかかっている。相手を大事にしよう、他者を尊重しよう、と。

翻って、この映画は誰も他者を慮ることはない。生きることってのは他者を思いやることじゃない、他者を屈服することだ!とでも言うように。

映画好きからは「ゴラァ! ブラッカイマーなんかと一緒にすんじゃねぇ!」と怒鳴られそうですが、それぞれがそれぞれの欲望に忠実に動き回るというこの構図だけを取れば、「デッドマンズチェスト」とも共通点がある気がする。

つまり楽しいのです、彼らの行動が。それが巻き起こす闘争が。

 

この映画は肉体と肉体が、唇と唇が、口と性器が、性器と性器が、拳と歯が、手と性器が、物質としてどうしようもなく存在する人間同士がゼロ距離で絡み合い他者を侵食し食いつくそうとする、人間の野蛮なエゴイズムを過剰なまでに(けれど現実的に立脚した過剰さである)盛り込んで混ぜ合わせたような映画だ。

宮本一人のエゴではなく、彼が全身全霊全力全開で他者にぶつかりに行くことで、その他者のエゴを引きずり出し、その衝突によって生じる軋轢や葛藤によって人間を紡ぎだしている「宮本から君へ」が、他の映画と一線を画すところはそれ自体の過剰さ、それが持つ野蛮さにある。

だから、ドラマ版で描かれた絶望をこの映画も引き継いでいる。

でも、それを極限まで突き詰めると、やっぱり反転して希望を見出したくなるものだ。

宮本の立ち振る舞いは、それがもたらす結果と行く先は絶望だけれど、彼の言葉はすべて彼の他者を慮らない=世界に忖度しない情念に裏打ちされている。というよりも、希望として、それこそ祈りとして、最初から宮本の言葉はあったんじゃないか。

それは、話題になっているグレタ・トゥーンベリさんが世界に発信するのと同じような感じじゃないのかしら。そんな気がする。

 

とか書くと、なんだかすごい大仰で大袈裟なものに聞こえるかもしれないけれど、本質的にこの映画はコメディです。

共感を前提にあーだこーだと深刻ぶった語り口をして「オチコンダリシタケドワタシハゲンキデス」とほほ笑んで、「ああ、そうですか…」といった反応しかできないような映画ではない。

この映画は天日干しでもしたようなカラッとした笑いに彩られている。実際、観客の多くは笑っていたし私もたくさん笑わせてもらいました(それと同じくらい涙腺ゆるゆるになりました)。

ドラマ版にもありましたけど、宮本のやけ&どか食いシーンは、それ自体がギャグであると同時に表現として身体性に寄与している。ツカシンを引き合いに出したから彼の作品と絡めるけれど、この「食」すシーンは「野火」における「食」のシーンと本質的には同じだ。シチュエーションもその深度も色合いも全く異なるけれど。

え、そこは池松くんと蒼井優が出てる「斬、」だろって? すんません、偉そうに書いておいてあれですけど観てないんです。

 

多分、人間の営為(というよりも、身体の生理)をあるシチュエーションに当てはめて、てらいなく描写すると笑えてしまうのだと思う。その笑いは「トロピック・サンダー」で地雷を踏んで死んでしまうのと同じだ。

1メートル先で靖子がレイプされているのに酒の飲みすぎでぐっすり眠っている人間の身体性、レイプされた靖子(というか宮本自身か)を慰めるために彼女を抱きしめているときに陰茎をおっ勃てる人間の雄の身体性。ラガーマンにワンパンKOされるのもそうだ。陣痛に苦しむ妻に吹っ飛ばされるのもそうだ。

レイプのシーンでいえば、靖子と拓馬と宮本の顔を一緒に収めるという無慈悲さ、と同時にその状況の滑稽さに笑えても来るのだけど、カットが切り替わって蒼井優の顔のアップになるとやっぱり悲惨なのですよね。

このシーンに代表されるように、ともかくこの映画はこっちの感情の起伏を細かく起こしてくるので、見終わった直後はかなりへとへとになります。自分の情動の上下に。

 

この映画は粗暴で野卑で荒々しい(いや、靖子の部屋の照明の陰と陽の表現とか、そこに立つ人物とか、金魚の寓意とか、豪雨の中で宮本がさす傘が小さくてカバーしきれないところとか、演出は細かいのですよ、ええ。為念)。

当たり前だ。血の通った肉に覆われた人間を描くならそうならざるを得ない。

 

だから私は宮本と靖子のセックスシーンで泣く。いや冗談とかではなく、文字通り泣いた。

裕二の闖入によって(まさに嵐のような登場&退場の仕方で笑う)靖子がその狡猾さを含めすべてを吐露し、それに対して宮本も思いの丈をぶつけ、お互いの全力がぶつかった末の感動的な――――とか書くとなんだか嘘くさい気がするので、ここはあえて「感情的な」と修飾しませう――――セックスに。

これは「RAW~少女の目覚め~(これも超傑作)」の姉妹対決シーンとも似たような感動で、言うなれば「河川敷で全力で殴り合った不良同士に芽生える友情」なのでせう。

そのセックスというのも生々しくて、ちょっとダルついた蒼井優の肉づきとか69に至る流れとか、本当にてらいがない。

これだけのセックスを描ける人がどれだけいるだろう?

世に蔓延る多くのエロ同人やアダルトビデオといった「抜く」行為の慰みものでしかない単なる消費的なメディアが描く、なあなあでセックスに至る陳腐な仮定が失笑や嘲笑しか生まないようなものでは絶対に持ちえない感動がこの映画のセックスシーンにはある。

(いやAV界隈にもバクシーン山下とか実録SEX犯罪ファイルの高槻彰とか、それこそ話題になった全裸監督とかいるけれども。日活ロマンポルノは全く知らないけんども。)

 

セックスシーンだけじゃない。全編にわたってこのセックスシーンのような描かれ方をしている、この映画の登場人物たちは。彼らのコミュニケーションは。

 

だから私はそのやりきれなさや無情さに泣くし、滑稽さや気まずさに笑う。

 

 でもどうなんだろう。やっぱり裕二になびく靖子をビッチだとか尻軽だとか呼ぶような輩が出てくるのだろうか。なんだか、そういうコメントが書かれる様が容易に想像できるのが世知辛いところだ。

靖子の痛みを理解できない、他者を、その肉体を認めず記号的な性を貪ってきたオタクとかが書きそうではある。ていうかまず、自分を内省できていないのだろうな、とは思う。いやそもそもそういう連中は観ないか。この映画を観て、わざわざ感想を書こうとする人はそこまで書かないだろうから。

守ると言った宮本が熟睡していた時点で、彼の言葉に言霊が宿らないことは明々白々だから、どっちが悪いとかって話ではないというか、しいて言えばどっちも悪いわけで。いや、あれは宮本の失敗だな!うん!やっぱダメだ宮本!

だって、大見得切って守ると言ったのに守れなかった男の台詞ですからね。彼女からすればここまで浮薄な言葉もないだろう。だから彼女は彼を責め立てるし、宮本にはない軽妙さゆえの強さを持つ裕二に救いを求めるのもうなずける。

やっぱり裕二ですよねー実のところ、二人にとってのキーマンって。

裕二ってクリシェな恋敵(とそれに類する都合の良いメンター的存在)ではない、ちゃんとした個人であるところが良いところですよね。

パンフの蒼井優のインタビューを読んでいて思ったのは、靖子と宮本のような直情型の人間にとって裕二がやりにくい相手なのは、二人にはないのらりくらりとした柔軟さがあるからなのだな、と。

柳に風、暖簾に腕押し。どれだけ靖子や宮本が風を起こしても腕で押しても交わされてしまう。現に、金的喰らった相手にも平然と話しかけられるし元カノ(ワン・オブ・ゼムだけど)を平然と助けようとできてしまうし。

そんな裕二だからこそ、宮本と靖子を上手い具合に仲立ちさせられたんだろうな、と。

個人的には、裕二のような生き方や人間性が一番理想だったりする。宮本よりも。ていうか宮本は無理。遠くから眺めている分には応援できるけど。

よく考えれば、あそこで裕二が乱入しなければ、というか裕二という存在がなければあそこまで宮本と靖子の関係は発展しなかっただろうし。

レイプとも実のところ全く関係ない場所にいますし、裕二。いや、ダメンズではありますけど、井浦さんが言うように男の一つの理想ではあるのでは。

 

登場人物でいえば、ドラマ版にも出てきた人たちはある種の安心感みたいなものだからか、今回は控えめではありましたね。松ケン神保とか好きな人物なんですけど、マルキタの人も含めほぼ出番はなし。

とはいえ拓馬を演じる一ノ瀬ワタルさんとか、その父の敬三を演じるピエール滝とかがしっかり光っているので問題なし。

特に一ノ瀬さんは何故か私が観ないような映画にばかり出演していてほとんど存じてなかったんですけど(「銀魂」は観てたけど本編の記憶そのものが消えている。「クローズ ゼロ2」も観たけど「頭割れたらセメダイン!」しか覚えていない)、30キロ増やしただけあってその体の威圧感たるやすさまじいものがあります。しかも拓馬の撮影、あのシーンが初日だったとか。おいおい。

 

ラガーマンのくせにスポーツマンシップみたいなものを持ち合わせていない不遜で慇懃無礼な役柄、めっちゃハマってました。運動部にはいるんですよねーああいう輩が。しかもフィジカルは強いからどうにもできないという。

 

あと佐藤二朗

俳優としての佐藤二朗は好きでもないし、むしろ悪性映画(主に福田映画。勝手に命名いたした)にばかりでているから印象は悪いんだけど、本作では出番はそこまで多くないわりにその使い方はかなり納得がいくし重要ではある。

というのも、観客のスタンスに一番近いのが佐藤二朗演じる大野だからなんですよ。いやーしかし本当に腹立つよなーこの人。顔から浮薄さがにじみ出ている。安全圏から分かったようなことを言う人(まさに自分に当てはまるからすごい痛いよー書いててダメージ喰らうヨー)、安全圏から眺める観客と立場が一緒なんですよ。

無論、そんなことでは宮本は止まらないんですけど。安全圏からセイロンティーをぶっかけるだけのような輩の言葉に宮本の自我が抑制される道理はない。

それでも、一貫しているのはどいつもこいつも自分の思うことをドストレートに相手にぶつけているということ。この腹の立つ大野でさえそうだし、知らないところで息子にボコられていた敬三もそうだ。

 

池松くんと蒼井優はなんかもう、書く必要がありますか? という感じで。

しかし「害虫」のころに比べてむしろネオテニーが進んではいまいか、蒼井優芦田愛菜が段々と蒼井優に近づいていく(顔がね)のを見るにつけ、蒼井優のベッドシーンというものに禁忌的なものを感じるのですが・・・という冗談はともかく、彼女が感情をあらわにするシーン、つまり映画で彼女が登場するほとんどのシーンでわたしゃ目に涙貯めてましたよ。

映画で、ていうか邦画でここまで全力で叫ぶのって本当に少ないんじゃないかしら。それを嘘くさくなく、作り物でなく見せるのって、アニメーションならともかくライブアクションでやり通すっていうのはかなりすさまじいことだと思う。少し前まで(今も?)邦画ではやたらと「叫ぶ」だけの映画がたくさんありましたが(個人的には「デビルマン」のアレが一周回って酷すぎて肴にはなるんですが)、どれもこれも臭いだけだった。

けれど「宮本から君へ」は違う。それがしっかりと人物の叫びとして、怒りとして入ってくる。

だって現実で貴様なんて言う人いませんよ。それを違和感を感じさせない熱量でもって成立させる池松くんと蒼井優

いやもう最高です。

ただなんていうか、これは映画本編とは関係ないところなんですけど、蒼井優の力を思い知るたびに「どうして宮崎あおいはああなってしまったのか」と悲しくなってしまったり。全く罪作りな映画だよ「害虫」は!

とかいうことを本編観ながらちょっと思ってしまって、途中で混乱しそうになった。というのもこの映画、時系列をかなり入れ替えて頻繁にカットしていくから、ちゃんと見ていないと置いてきぼりになりかねないんですよ。ちゃんと見てればそんなことはならないんだけど、私はそういう本編の外での雑念が入り込んでしまう隙があったので・・・。

 

本編の外といえば、本編観た人は分かるとおもうけど、予告編はのあの人のささやきはミスリードっていうか完全に予告詐欺でしたね。宮本は多分そのこと自体には悩まないというか、やっぱり本編で描かれたような決断をするだろうから、本質的には変わらないとは思いますけど、やり方が汚い。さすが広告汚い。

 

 あそこまで徹底して人間の身体をえがいた映画のラストに「男ですもの 女なんだよ」はストレートすぎてちょっと笑っちゃいました。てらいのない映画だとは感じてましたけど、最後の最後でそんなこと言っちゃうんだ、と。

言葉尻だけ捉えて批判するような輩が出る前に言っておきますが、これは精神論とかそういうのとは全く違う、男女の肉体性を一言で表し締めくくるものだ。

こう書けばわかりやすいだろうか。

「(勃起しますよ、)男ですもの 女なんだよ(、そりゃ孕みますよ)」と。男と女という、ジェンダー以前の身体性の問題として、生物的な雄と雌として、オブラートに包まない人間の素っ裸な表現としてこの映画はあるんだと。

そこを理解しないと、それこそ性別違和の苦痛だってわかりませんからね。

 

そういえばパンフによるとあの階段での格闘はガチらしいですな。まあ予算考えれば当然なのでしょうが、しかし前時代の東映ヒーローじゃあるまいし、今どきあんな無茶やらせてくれるんだなぁ。

それとパンフで言えばプロダクションノートの文面も時代に対する製作の河村さんのやるかたない憤懣が読み取れて面白いです。今までパンフレットはいくつか読んできたけど、ここまであけすけに自分の思いをプロダクションノートに書いてる人っていないんじゃなかろうか。

今まで読んだパンフレットのプロダクションノートで一番面白かったかもしれない、これ。

 

あと最後にこれだけ。

これ、好き嫌い以前に、人としてどうなのか、ということを試されるリトマス試験紙のような映画でもあるかもです。

私も随分と擦れて捻くれた人間で斜に構えて安全圏からヤジを飛ばすのを楽しむ人間ではあるけれど、この映画を心の底から堪能できるだけのものが残っていた。それを再認できるだけでもこの映画は価値があった。ほんと良かった、この映画を受け止めらるだけのものがあって。

オタク的なものにかつて拘泥していた身としては。

あの界隈は、今はどうか分かりませんけど本当に酷かったし。アニメやエロゲー理論武装して持ち上げるのはいいけど、そういう人ってちゃんとその気持ち悪さを語ってくれてるのだろうか。

 

 最後に愚痴ってしまったけれど、いやでもほんと、掛け値なしにこれ傑作なんで。

でもやっぱり宮本はキツイなぁ~。

 

SF好き文系アニオタが考える理想の恋愛シミュレーション映画

気づいたら2週間以上も劇場に足を運んでいなかった。

何かそういう気分にならなかったから、という程度のことでしかないのだけれど、まあ8月に毎日1本最低でも映画を観るというようなことをやっていた反動なのかな、と思ったり。

ていうか観たい映画の数に対して私の怠惰さや劇場に足を運ぶモチベーションが維持できないというのがネックなのかもしれない。

しかも近場の映画館でやってないようなのばかりが気になってね・・・かといって一日に劇場で2本見ると確実に疲弊するというのが分かっているし・・・。

 

とかなんとか色々考えながら、久々に近所の劇場に足を運んで観に行ってきました。

HELLO WORLD

予告編がどんな感じだったか覚えていないのですが、これって電脳世界で繰り広げられる映画ってことを宣伝してましたっけね。
いやまあ、「HELLO WORLD」(わざわざ英語表記ってあたりとかも)ってプログラミングを少しでもかじった人ならわかると思いますけど、この映画のタイトル自体がプログラミング入門における、いわゆる名前記入欄に「田中太郎」とか「山田花子」と記載されているようなテンプレ的な文言なので、タイトルで落ちているわけですよね。
だから表現として、電脳世界だからフルCGというのはわかりやすいところではありますし。

個人的にはまあまあ楽しめたんですけど、実はこうだったという展開があるにはあるんですが、そこまで驚くことではない(脚本レベルではどうか知りませんが演出的にはそこまで驚愕の展開!って風に見せようとしてないしね、そもそも)というか読める範囲なので、ある意味では安心感があるというか。
SF(ハードだけでなく)を全く読まない観ないという人ならまだしも、メジャーどころだけを抑えている人からすれば「やっぱりな」という感じではあるのではないでしょうか。

ラストの展開と表現についても「まあ全編(ラストを除いて)CGで世界を構築してるんだから真の現実を描こうとするならそうなるよね」という納得感が驚きより先に来るというか。
冒頭の入りからして「ディアスポラ」(というよりはむしろ明言されてる「順列都市」かな)的な電脳の構築感みたいなものが露骨ですし。
自慢じゃありませんがあのCGとドローイングの使い分けという発想自体は6年前の私にもありましたし(まあオチに使うほどではないと思っていましたけど)、アニメの監督もCGが登場してからその発想自体は持っていたでしょうから、それがようやく使える段階になったのだな―程度でしかない。

だからなんというか、観ていて何かが大きく逸脱する瞬間はあまりない。
その構造的な理由は、最後に欠きますが。
 

あとはそう、絵面と言い設定といいメジャーどころから引用多すぎでしょう、と観ている間に笑ってしまくうくらい臆面もなく引用するし、それに対して開き直っているところがまた笑える。
現にパンフ読むと作り手も無邪気にでかでかと引用元さらしてるんですよね(その割に明らかな「ガメラ3」への言及がないのは解せぬ!)。

割と序盤に直美の世界がシミュレーション世界であることがナオミから説明されるんですけど、その説明の感じが「イーガンですかい」とこっち思った瞬間に直美が「イーガンぽいな」って言ったりしますし、パラメーターの名前に「バタフライ・エフェクト」が使われていたりね。

イーガンっぽいといえば人間存在についてのオプティミスティックな視座もイーガンっぽい。というかこの感覚はむしろ世代的なものであって、そう考えるとプロムガンプっぽいかな。


とまあ、そういう明け透けにするあたりの根本的なメンタリティが相いれない部分があるから、この映画に乗り切れなかったというのはあるやも。無論、かといってそれが映画の傷になっているというわけではないのですけれど。
今さらですけど、私の文章はまかり間違っても評論なんて高尚なものじゃなくてあくまで感想ですから、良し悪しというよりも好き嫌いの語り口しか持ちえないのでね、ええ。

そもそも映画自体が引用の産物なので問題はないんですけど、それでも自分を晒すことに対する抵抗みたいなものが自分の中にあるのですよね、自分としては。それって極端に言えば「情報の開示」なわけですから。
だから「スイスアーミー~」のレビューに書いたことにも近いのかな、この感覚は。

 
引用について、直接的な表現で言えばドラッギーな描写は、まあ古くはそれこそ「シンプソンズ」とかからあるのでしょうが、でもあの感じはほとんど「リック&モーティ」あたりだろうし、カラスがしゃべりかけてくる論理物理干渉野なる空間のシンメトリーなレイアウトはキューブリックでしょうし、そこに至るまでのフラクタルな感じはモロに「ドクターストレンジ」あるいは「コンタクト」の跳躍シーンあたりでしょう。あとは虹っぽい空間を通っていくのは「マイティ・ソー」のワープだし(この辺はパンフで作品の名前が引用されているのでまず間違いない)。

設定、表現の両方とも「インセプション」あたりからもほぼまんま引用しているところはあるし(町なり世界が折りたたまれるというビジュアルイメージを始めて観たのは実はボーボボすごろくだったりするのですが、あれをギャグとしてインプリンティングされてるから驚きよりも笑いがこみあげてきてしまうという弊害ががが)。

設定面で言えば「Fate/Extra」(というかこれ自体が古典SFの引用ですが、まあなんというかプログラムを擬人化するあたりとかはね)はオタク臭さみたいなものも含めてかなり直系な気がします。オタ臭さでいえばカラス=ナビ的な存在に釘宮さんを当てるあたりもすごいアニオタイズムを感じますな。釘宮の通な使い方と言いましょうか。

まあそれはともかく野崎さんがおっしゃる通りだし前述したようにイーガンはかなり大きなモチーフではあるでしょうけど、あそこまで飛躍していく話ではないです。あくまで恋愛メインなので。

エヴァからの引用もあるなーそういえば。世界崩壊に巻き込まれる場面の直美の顔のカットがどう見てもシンジくんだしね。色彩といい完全にシンジくん。多分、破の。

他にも「ぼくらのウォーゲーム」において細田さんが電脳空間におけるキャラクターの線をオレンジ色で描いたようなものもこの映画で使われていますし、鼻血だすところは「サマーウォーズ」「時かけ」だし。まあ伊藤監督はまさにその辺の細田映画の助監督でしたから直接的な影響があるのも仕方ないのでかもしれませんけど、にしてもそのまんま過ぎて笑えます。

デジモン繋がりで言えばフルCGで表現したという意味でも世界が崩壊するイメージという意味でも「DIGITAL MONSTER X-evolution」なんか展開はかなり似ているかな。ただ世界の崩壊(というか修正?)のイメージとしては明らかなエージェントスミスなプログラムよりも世界そのものが消えていく「X-evolution」の方が無慈悲な感じがしてそっちの方が好みではあるんですけど、あれはまあひたすら逃げる以外に無いから仕方ないかな。

多分見落としているけど他にも引用してるところあると思います。なんか、それだけでできているといっても過言ではないので。


「それって一行さんをコピペするんじゃダメなんですかね?」とか「脳死してる人が復活するっていうのはどうなの?」ってあたりは、まあ最後まで観ればそれ自体がシミュレーションの中にあった、っていう「マトリックス」と「マトリックス エヴォリューション」なオチではありますので無問題ではあるんですけど、どうにも気になる。
我ながらつまんない観方してるなぁと思いますが。


あ、忘れてましたが個人的には露骨な「ガメラ3」引用が爆笑ポイントでしたな。
だって京都駅ですよ!? 何の脈絡もなく京都駅ですよ!? 敵もあからさまにイリスの触手みたいなもので攻撃してくるし。
あそこまでてらいなく「ガメラ3」を引用しているあたり、あの博士の風貌も観ているうちに樋口真嗣に見えてきてしまう。あんなに澄んだ目はしてませんが、樋口さんは。

 
だからまあ、そういう引用をキャッキャウフフと混ぜ合わせてある映画なので、そういう引用を楽しめるかどうかがかなりのキモな気がする。

お話自体はいわゆるセカイ系でありがちなものですし、あとはCGの質感にさえ慣れれば割とオーソドックスだし。


ただ本で殴るっていうのはどうなのですか? いや、言いたいことはわかりますけど、それはむしろ知性の退廃・想像力の欠如ではないのですか?本好きが本を武器(物理)にしていいのですか!? 確かに広辞苑で頭を殴られると痛いですけど(経験談)、本の本質ってそういうことじゃないでしょう!
もちろん、本の本質である「知」の発露としての表現はブラックホールに託されているわけですので、作り手もわかってはいると思うのですが。
でもそれをやるなら最初からやれ、という話な気もするし、スマートさの表現という理解をすることは容易いしそういう意図があったのかもしれないけれど、そのために本をああいう使い方するのはどうなのだ?本好きと謡う直美的に。
物理で殴る、を最後の最後で使われる大一番あるいは最後まで貫き通すというわけではなくてせいぜい雑魚をあしらうときに使われる程度でしかないことからくる不一致感の気持ち悪さなのかなーこれは。

 

さて、そろそろ何故この映画が逸脱をしないのか、ということについて書きませう。前述したように、この映画は引用を楽しむ以外はほとんど予定調和的な展開しかなく、その意味でこの映画は過剰さも逸脱も有しない、と言ってよいと思います。

 古典力学において「三体問題」という用語があります(小説の方の「三体」ではないですが、多分小説の方もそれをモチーフにしてるはず、読んでないけど)。
もし宇宙に星が二つだけなら現代科学でも重力式からどのように運動するのか永遠に分かる(二体問題)が、星がもう一つ増えて三つになったら、それぞれの星の質量・速度・方向が完全に分かっていても全体としての完全な予測は困難になる、というものでございます。
まあ三体問題を持ち出すまでもなく、我々の存在する世界は三次元ですし図形を描くのに必要な点も三ですし、3というのはやっぱりナニかを形作るのには最低限必要なのですよ。

つまりセカイ系(と仮定して)であるこの映画において君(一行さん)と僕(直美)しか存在しえない以上、この物語が予測可能な予定調和であることは明々白々だったわけですよね。まあ私も観終わってから気づいたんですけど。
「いやいや、ナオミがいるじゃん」という指摘をされる方もおりましょうが、それは違う。何故ならどれだけ作り手がナオミと直美を分離しようとしていとも、二人は本質的に同一存在でしかなく、「君」と「僕」に影響を与えるほどの重力を持たず、その結果として物語はラグランジュ点のように予測可能な収まるべきところに収まってしまったのですから。

もしこれを逸脱しようとするのなら、真に予測不能な三体として何かを逸脱する瞬間を見せようとするのであれば、多分、それはナオミではなくアイドル的存在として登場しながら何一つ物語にかかわってこなかった勘解由小路美鈴さん(すごい名前だな)だったはず。

それを知ってか知らずか、制作陣は彼女をメインに据えているであろう小説版を「HELLO WORLD if ー勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする」として売り出している。
メディアミックスの一環としての経営戦略上のことだから、はっきりとは言えないけれど、ただ、もし映画本編とは全く違う領域で働いた力がこの映画の、コンテンツとしてではなく一つの映画としての「HELLO WORLD」の可能性を殺してしまっていたとするのなら、ちょっと悲しいことだなーと思います。

あるいは、作り手すらそのことに気づいていなかった可能性もありますけどね。
描き方から考えると、キャラにポテンシャルは感じていたけど、あくまで単体のキャラとしてのポテンシャルだけであって、トリニティの1ピースとまでは考えていなかったのかな。
だとすればキャラクターそれのみに耽溺する昨今の潮流を地で行っていることに。
 
それでもそれなりに(あくまでそれなり、でしかないけれど)に楽しめたは楽しめたんですけど、「リック〜」の後でこれを大真面目に観るのは些か気恥ずかしさもあるなぁ。

 

本編に関してはそんなところ。

 

以下余談箇条書
・パンフレットの子安の写真がややZAZELみがあって笑える。
・パンフのキャラデザページに載ってる直美の色なしの顔アップがハナハルっぽい。
・千古の目が年齢性別に比して完全に少女のそれでちょっとキモい。だいぶキモい。

 

SF好き文系アニオタが考える理想の恋愛シミュレーション映画でしたね。逸脱を許さない、という意味でも。

尿意との闘い

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を観る。

面白かった。面白かったんだけど、長い。ブラピがヒッピー村に行くあたりから尿意を催して正直「映画を観る」というよりも「トイレ行きたい」という生理的欲求が勝ってしまいまして・・・楽しみ切れなかった。

いや面白いんですよ、面白いんですけどね。タランティーノの映画では一番か二番目くらいには面白かったですよ。

ただ尿意が(残留思念)。

 

基本的にWhat if?のお話なので、シャロン・テートとマンソンまわりにについて知っていないと、というのは確かにある。

特にマンソンが登場したあたりは、あれマンソンを知っていないと「変なおっさん」が訪ねてきただけのシーンにしかならないし。逆に知っていると「ブラック・ヴィーナス」における総書記の登場と同質の「ヤバいモノを見てしまった」感を味わうことができるのですが。

このバジェットでそういう映画史(というかゴシップというか)やカルト方面の知識がないと楽しみ切れないという作りにしたのはかなり大胆だなぁ、と。

確かにブラピとディカプリオがメインだしキャラも立っているからそっち方面で売るというのはマーケティング戦略としては真っ当なのでしょうけれど、やっぱりこれはシャロン・テートの物語ではあるんですよね。

リックとクリフに比べて出番は少ないけれど、徹頭徹尾、この映画ではシャロン・テートは幸福のまま終わるわけですから。タランティーノの考えた「幸福なシャロン・テートの描き方」映画ですし。

 

しかし相変わらず緩慢でほんわかぱっぱする時間を垂れ流すのが好きですね、この人。それはタメではあるんで、クライマックスの盛り上げに必要なものではあるとはいえ。

ただ今回のタルさちょっと違う。前半部のタルさはこれまでの作品だと多幸感で占められているはずなのですが、今回はどちらかというとリック&クリフの悲哀や哀愁で占められていて、なんだか逆転した構造になっているな、と。

構造そのものが逆転しているわけではないあたりはいつも通りと言えばいつも通りかなぁ。それに前半部の湿っぽい部分はブラピとディカプリオに託されていて、多幸感はシャロン・テートに託されているのでそれまでの名残はあるんですけど、それはすでに書いたようにシャロン・テートを幸福にしたいというタランティーノの思慕からくるものでしょうし。

 

タランティーノらしいオマージュとかギャグとか色々あったわけですけど、本作に限らずこの人の映画ってなんか本当に「これがやりたいからこれやるわ」みたいな手触りがあって、あんまり技術的なこととか技巧とかを語るとかって気にならんのですよね

特にこの映画はそういう傾向が強い気がして。そういう映画ですから、なんかあまりこまごま書くのが気が引ける。野暮な気がして。

だから登場人物をひたすら見れ、というほかにない。

 

ただまあ、どちらかといえばエルではなくダコタ派な私としては、整った顔立ちの中に絶妙にぶちゃいく(ブサイクではない)さとやさぐれた感じのヒッピーが観れて良かったです。出番少ないけど、しっかり印象に残る撮り方してもらってるし。ロール的には大して目立たないし、知らない人からすればちょっとカーストの高いヒッピー程度の認識なのでしょうけど。

あの汚れた感じはエルにはだせまいて。

 

 

引っ越し大名

観てきた。タダ券もらったので。もらってなかったら、多分観に行ってなかっただろうなーとは思ったので、こういう機会で観れたのは良かった。

楽しかったし。

しかし金持っていくの忘れてパンフレット買えなかったのはちょっとショック。

 

個人的に、時代劇ものって苦手なんですよね。何故なら歴史(と数学と英語と理科と国語)が大の苦手だから。時代劇って割と固有名詞がバシバシ出てきたりするし、それこそWhat if?ものだったりすると歴史の流れとか把握してなかったりしないといけないし(そういう意味では「ブラック・ヴィーナス」とか「チャーチル」とかも割と苦手な部類ではある、ジャンルとしては)。

時代劇って、そういうのが顕著な気がして。大納言とか中納言とか「あずき?」と思ってしまうわけで。

まあ食わず嫌いもいかんということで最近はBSでも時代劇を見たりしているんですが、白黒時代のだとそもそも聞き取りづらいとか色々と弊害はあるのですが、ただまあ楽しめないということはないなーとは思いつつもやっぱりどこかで苦手意識があったりする。最近は公式サイトなんかで事前に単語の意味を掲載していたりするので、無問題なんですけど。

 

だから「引っ越し大名!」もどうかなーと思ったんですけど、よく考えれば星野源が主演という時点でそんなお堅いものになるはずもなかったわけで、まあ杞憂ですよね。

星野源ってすごいテレビドラマ的なトレンディな俳優でしょうし。そんな俳優をメインに据えてガチガチの時代劇をやるわけもなく、というか宣伝からしてそうだったし。ミッチーというのも思えばそんな感じだすなぁ。

で、案の定というか星野源一人だけ徹頭徹尾、時代劇的な演技ではなく現代人をそのまま引っ張ってきた感じ。それに比べて他の俳優陣はかなり声を張っていたりしていたりして、最初はそのちぐはぐさに困惑しつつも「ああ、そういうリアリティラインね」といった感じで慣れてしまえばむしろ観やすくなったり。

個人的には高橋一生ってああいう声の出し方できるんだーという驚きが。今回の高橋一生は腕っぷしが強い役回りということで、好きだけど別に熱心に追っているわけではないという私程度のファンからすると結構新しい視点かなーと楽しめました。

わたすは星野源より高橋一生が好きなので、高橋一生が出ずっぱりなだけで割と満足していたりするんですよね。ミーハーなもんで。や、もちろん出てれば全部楽しめるってわけではないですが。

あと高畑充希の顔がすごいハマってる。この人の顔ってストレートな美人じゃないよなーと思っていたんですけど、時代劇に合う顔なんじゃないかしら。

 

出番はそこまで多くないというかフィーチャーされないけれどもしっかりと脇にもいい役者を配置しているので、メインが星野源と適度に軽く、けれど脇はどっしり構えているので軽すぎず堅すぎず良い塩梅です。

話自体もブラック企業的な問題意識だったり、現場レベルの人間の苦悩だったりといった具合で全然普遍的で観やすいですし。

 

ところでこの映画、「引っ越し大名!」というタイトルの通り引っ越しの映画なんですけれど、実のところ遠足映画でもあります。

遠足映画というのは「遠足はそれ自体よりも前日(の準備とか)が一番楽しい」というような、ある目的に到達するまでのプロセスそのものの楽しさを描くタイプの映画です。全部そうじゃん、と言われるとアレなのですが、プロセスを面白く描くというよりは元からある種の楽しさを含んでいるプロセスを描く、というか。

あるいは「文化祭は準備している間が一番楽しい」というタイプ。私が勝手にカテゴライズしただけなんですけど、最近では「ナイトクルージング」がまさにそういう映画でございました。

実際、この映画は引っ越しの準備にその時間の大半が注がれていますし、道中の物語的なイベントは一つだけで、それが済んでしまえばもう移動のシーンはないですしね。

 

引っ越しの準備にあたってみんなでワイワイガヤガヤしながら資金を集めたりできる限り費用を抑えるために物を売ったり、そこで知恵を働かせたりするシーンは多幸感でホクホクしつつ、一方では首を斬らなければならない苦しい場面あり、酸いも甘いも嚙み分ける引っ越し準備のシーンはやっぱり観ていて楽しい。

 

いざ引っ越し!となるのがラスト30分くらいで、その道中で立身出世のためにミッチー大名を暗殺せんと画策していた西村まさ彦と通じていた隠密の輩との戦闘があるんですが、まあこの戦闘は物語的にそこまで盛り上がるわけでもないしアクション自体も別に目を見張るものはないのですが、ここで我らが高橋一生が活躍するわけですからいいのです。

アクション自体はアレでも、中々ほかではお目にかかれないケレンミ溢れる巨大な槍が観れるんですよね。御手杵の槍を振り回す高橋一生が観れるだけでわたしゃもうOKです。戦隊ものでもここまでてらいなくはやらないと思う。

しかも勇者パースですよ勇者パース!いや、正確には向き違うしアングルももっと仰ぐべきなんですけど、それでもあれは勇者パースなんですよ!

高橋一生が天下三槍を持って勇者パース!もうこれだけで殺陣のへぼさとかどうでもよくなりますた。ええ、どうしようもないなと自分でも思いますが。

ウィキによるとこのシーンは撮影の数日前に松平家の家宝の話を聞いて急遽取り入れたらしいのですが、いや本当にグッジョブとしか言いようがない。

 

最後もしっかりと約束を果たしましたし、問題はない。

いや、15年も待ったのだから彼らは不平不満の一つぐらい星野源にぶつけてもいいだろうとは思うのですが、ちゃんと死者を思ってくれる大名がいて、それ自体を締めに持ってきたのでOK。

小澤さんってバラエティ番組だと結構ふざけた感じの人に見えたんですけど、こういう重みのある演技もできるのだなぁと感心しました。

ピエール滝もそうですけど、この辺の解雇された武士たちは直接的に描かれないだけに待っていた15年の重みを感じさせる役者じゃないといけまへんから、ナイスな采配。

 

うん、結構楽しめました、私。

 

まあ映画というよりはテレビドラマを観ている感覚でしたけども(演出のダサい部分とか)、割と丁寧にやっている部分(武士を呼び出して解雇通知をするシーンで、山里一朗太のときだけ高橋一生が刀を脇に置く=信頼の表現とか)もありましたし、なんだかんだああいうのは泣けますし、個人的には満足。