dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

レミニッセンティアを観てきた

 記念すべき初投稿の記事は現在一部劇場で公開中の映画『レミニッセンティア』です。日本人監督による前編ロシア語ロシアロケによるインディペンデント映画になります。

 どうして初投稿の記事がインディペンデント映画の感想文なのかというと、書いてみるかと思い立ったからで、それ以上でも以下でもありません。いやまあ、なくはないのですが頭にもってくるようなことでもないですし、さっさと本題に入りましょう。

本題に入りましょうと書いておきながら前置きをしようと思います。あくまでこれは感想文であって評論というわけではないということです。そもそも評論なんてしたことないですし、しようと思ったら文献やら資料やら漁らないといけなくなってくるわけで、そんな面倒な(爆)ことをしたくありません、はい。そういうのは専門家に任せておけばいいのです。そんなわけで、この『レミニッセンティア』を観て自分がどう感じたか、できる限り読んだ人が楽しめるように書いていきたいと思います。

 

 あらすじ(以下チラシより引用)

ロシアのとある街、小説家のミハエルは愛する娘ミラーニャと二人で暮らしていた。彼の元には悩める人々がやってくる。

「私の記憶を消して欲しい。」

ミハエルは人の記憶を消す特殊な能力を持っていた。小説のアイデアは彼らの記憶を元に書かれてたものだった。そんなある日、娘との思い出の一部が無いことに気づく。過去が思い出せず、悩み苦しむミハエルは教会に行き神に祈る。すると、見たものすべてを記憶する超記憶症候群の女性マリアに出会う。彼女は忘れることが出来ない病気に苦しんでいた。そして、ミハエルと同じく特殊な能力を持っていた。その能力とは記憶を呼び起こす能力だった。ミハエルは彼女に取引を持ちかける。

「記憶を消すかわりに、娘との記憶を取り戻して欲しい。」

彼女の能力によりミハエルは記憶のはざまへ落ちて行き、そこで、衝撃の真実を知ることとなる。

 

 ぶっちゃけ、あらすじ書きながら「あらすじとか書く必要あるかなー余計なお世話じゃないかなー」とか思っています。まあ最近はうっかりWikipedia見ようものなら、あらすじに物語の結末まで書いてあったりするのである種の防衛網になってたりするかもしれないし……そういう意味では必要か。いやしかしこんなブログ読む人なんていないだろうしry

 

で、感想。

 実のところ、パンフレットを読むまでこの映画がどういう内容なのか、全く知らなかったんですよね。だから劇場でストーリーを知ったときは「おっ」となりました。というのも、人の記憶や自我というものに関する考察は、最近の自分のトレンドであるからです。自分の場合はもっと電脳とか人工知能とかの科学的なアプローチに興味があるわけですが、少なくとも本作の題材には関心を持つことができたので、そこは素直に良かったかなーと思います。ラーメン食いたい時にショートケーキ出されても困りますからね。

 どうなんだろう、これ。若干ミステリー要素が入っているからネタバレはなるべく避けたほうがいいのかもしれないけど、それなしにはこの作品の感想を書くのは難しい気がする。

 簡単に言ってしまえばファイトクラブとか、フジテレビの天海祐希主演でやってた刑事もののドラマにおける生瀬勝久とその弟の物語であり、直近で言えばシャマランのスプリットともある意味で被ってくる部分がある(スプリットの場合は極めて表層的な部分なんだけれど)。

 つまり、自分の見ている世界が果たして他者にとって同じ世界であるかどうか、ということ。手垢のついたテーマと言えばそこまでなんですけど、にわかにSF小説を読み始めた自分はドツボなわけですね。イーガンなんかはそこに科学的アプローチと専門用語を混ぜて読ませてくれるので毎度毎度読んでいて度肝を抜かれるんですが、この『レミニッセンティア』はどちらかというと自然科学ではなく人文科学の領域で語ろうとしています。

自分の場合は(文系ということも起因してるのか)科学的でありながら創作物の持つダイナミズムによってありえそうで実はありえない予想外の結論に導いてくれるイーガンのような作品に垂涎するわけですが、本作のように超能力という架空の(宇宙消失も一種の超能力ものですが、そこに明確な科学的アプローチで読者を信じ込ませるのがイーガンの手法)モノを使う語り口も好きです。ていうか一番回数見てる映画がトランスフォーマーシリーズって時点でわたくしがポンコツであることは自覚しているわけで。

 これはタルコフスキー映画でもあります。つまり、眠気を誘う作品でもあるということ。さよなら人類も眠かった。あれはカット数を極端に減らしている上に夢を見ているような感覚に陥るという点ではある意味正しいのかもしれないけれど。まあ故伊藤計劃タルコフスキーは寝れると申していますし。

 結局、最後のシーンのアレを考えると娘は実在したのかとか、全く触れられなかった(マトリョーシカを使って婉曲的に言及していましたが)母親(妻)の存在とか。まあ色々考えられる作りになっているので観たあとに誰かと話し合うのに向いてる作品だと思いますです。自分は一人で観に行ったのでこうして文にして自分なりに整理しているわけです。ええ。

演出とか撮影とか録音とか。

 人の喋る声とBGMのボリュームのバランスが普段見ているような映画とは違う感じがしたのですが、マイクの問題なのか意図的なものなのか。パンフを読む限りだと機材的な制限はかなりあったようですし、自分は編集作業によってどの程度まで音や映像に手を加えることができるのか知りません。しかし、ラ・ラ・ランドも試写の段階では受けが悪かったのを編集によって変貌させたということからも、作品の出来栄えを大きく左右するものであることは間違いないでしょう。実際、パンフには編集に一年以上かけたとの記述もありましたし、作り手がそれを意識していなかったということはないでしょうから、意図的にそうしたのかしら。自分にはその意図を汲み取ることはできませんでした、一回観るだけでは。

音に関して言えば、セリフにザーとした環境音のようなものが入っているような箇所があった気がしたんですが、あれはなんだったんだろうか。ミハエルがベッドでミレーニャに話しかけてるシーンだったかな。

あとBGMの感じとか映像的演出は――こういっていいのであれば――良くも悪くもCM的だったりテレビドラマ的なように感じる部分が多かったです。特に娘を被写体にブランコさせたり花に囲ませたりしているところはキャノンのカメラのCMとかでありそうだなーと。そういえばミレーニャちゃんが公園?の道を歩いているところ(ほかにもあった気がするけど)、多分カメラそのものに関することだと思うのですが、4Kで見ているような画面の質感になった部分はすごく違和感があった。いや別にこれは単なる慣れの問題なんですけど、そういった画面の質感がちょいちょい映画的でないものに変わるカットがいくつもあった気がする。これを意図的な演出と、あるいは下手な演出と断定できるほど自分は映画に対するリテラシーはないんで、そういう違和感を抱いたと言及するに留めます。

 でもオレンジジュースとか視線とか、あざとくなく割としっかりした演出を観るとやっぱり意図的なものなのかなと。あーでも明らかに不自然なカットの繋ぎとかもあったのがなんとも。

 ロケーションとキャスト。これに関してはパンフにも記述があったので監督もSFを撮るにあたってロケとキャストをロシアにしたことの効果を狙っていたのでしょう。

伊藤計劃も言っていましたが、日本人の顔はSFに向いていないというのはやはりそのとおりだと思っています。押井守がアヴァロンをわざわざポーランドで撮影したのもそれが理由ではあるわけですし。これは突き詰めると文化的な側面とか色々含んでいるような気もするんですが、まあそれは置いておきましょう。だから、SFをロシア人とロシアの土地で撮影するという井上監督の判断は正しいのだと思います。

しかし、この『レミニッセンティア』において撮影されたロケーションには、SFを観るときの異界感はないような気がします。それは、そもそも本作が厳密にはSFではないからでしょう。SFではないというのはどういうことかというのは、正直自分の中で言語化して表出するにはあまりに面倒なので省きます。まあ観た人なら感覚的に分かると思いますが、本来なら私のような日本生まれ日本育ちの日本人がロシアの土地を目にするとき、そこには異なる世界を見るわけです。が、どうして本作ではそう見えないのかと言えば、老いたロシア人の作家であるミハエルの中に異界的風景が閉じ込められ、日常化されたロシアの風景を見てしまうからではないでしょうか。そりゃロシア人がロシアにいたって、それは日常以外のなにものでもないわけですよ。

というか、SF要素を打ち出すために井上監督は貨物列車置き場やロシア正教会ヴォルガ川ソ連時代からのガス工場などの古い建造物を出したとのことですが、私にはどうにも見覚えのあるものにしか見えませんでした。そりゃあ厳密にはこれSFじゃないわけですし、それは間違った見方ではないと思うのですよ。いやーどうなんだろ。大学時代にロシア語とロシア文化について少しだけ勉強してたからっていうのもあるんだろうか…?

ロシア人が見た場合はどういうふうに映るのか、ちょっときになりますね。実際、劇場にいたロシア人と思しき女性二人組のリアクションと日本人である自分とのズレを感じましたし。

一回しか観てないので見落としている部分は多々ありますが、とりあえず映画を観た感想はこんなところでしょうか。前情報をいれた上でもう一回観たらまた印象も変わってくるんでしょうが、またお台場まで行くのはさすがにキツいし・・・守銭奴だし、わたくし。

 こういうインディペンデントで低予算の映画を観ることで、逆説的に普段当たり前のように観ているハリウッドビッグバジェットのスペクタクルな映像を作ることの大変さというものを痛感した気がする。

 

あとチラシのイッセー尾形の寄稿文。これ褒めてないでしょ(笑)