dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

マンチェスター・バイ・ザ・シー(あとローガンも少し)

時間ギリギリで汗だらだらでした。いや、映画館に間に合わなそうだったんで、自転車飛ばしたんで、予告編がかかってる間に生き整えるので精一杯でした。

今日観てきたのは「マンチェスター・バイ・ザ・シー」です。もともとはマット・デイモンが主演と監督を務める予定だったのを、親友であるベン・アフレックの弟のケイシー・アフレックに譲ったらしく、おかげで今回のアカデミー主演男優賞をケイシーが獲得する運びになりました。あと脚本賞も。一応本作での制作はやっていたみたいですが、マット・デイモンはその代わりに?レジェンダリーの「グレート・ウォール」で主演を務めていましたね。いわゆるシネフィルとか映画ファンっていうより「趣味:映画観賞」みたいな自分はケイシー・アフレックのことはほとんど知らず、「グッド・ウィル・ハンティング」でちょっと出てたなー程度にしか認知していなかったのですが……正直、スマンカッタ。いや、普通にいい役者ですぞ、この人。偉大なるベン(略して大ベン)アフレックの弟ってことで顔とかはやっぱり似てるんですけど、彼とはまた違った影とか弱々しさを湛えているんですが、それが作品に大きく貢献していると思います。これ、マット・デイモンじゃなくて良かったような気がします。マット・デイモンは役者の中でもかなり好きだし作品選びも割と安定しているの(グレートウォールだって決してつまらない映画じゃないですぞ!)で、この人が主演の映画は観に行っちゃうくらいなんですが、この作品の主人公であるリーを演じるには少し顔がゴリラすぎるというかポテンシャルが漲りすぎている気がする。だいたいジェイソン・ボーンが海辺の町でやさぐれるかって話ですよ。

そういえば、インターステラーにもケイシー出てたみたいなんですけど、どこに出てたのかまったく分からなかったんでググったらマシュマコノヒーの息子の年取ったverやってたみたいですね。そりゃあんなちょい役じゃ思い出せんわ。あの頃は今みたいに映画もそんな観てなかったし。

断言しておきますが、これはいわゆる「感動もの」といったカテゴライズされるような作品ではありません。そもそも、カテゴライズという行為そのものがある種の矮小化・単純化だと思うのですが、それでもあえてわかりやすく一言で表すのならば「日常系」と呼ばれるものだと思います。はい、「日常系」と聞いてそこいらの深夜アニメを連想したあなた。あなたの発想はすでにからしてカテゴライザーどもに汚染されています、即刻その考えを捨て去りましょう。

この作品はそういった「田舎の風景移しときゃそれっぽいべ」「高校生がわいわいわちゃわちゃしてればいいべ」的な思想が透けて見えたり、大人(あるいは子ども)や男(あるいは女)を排することで現実そのものをデフォルメしアニメーションのなんたるか忘却した低俗なセーフティポルノとは違います。現実に存在する人の日常を真摯に切り取り、フレームに収めた作品です。いわゆるアメコミヒーロー映画と呼ばれるようなキャラクター優先でフレームワークに収まったキャラクターも登場しません。この作品、このマンチェスター・バイ・ザ・シーと呼ばれる街に現れる人々は、現実に、この作品の中に生命を持って人生を歩んでいます。その歩みの千差万別さ、それを観る映画と言ってもいいのではないでしょうか。

映画の冒頭、リーとボストンのアパートの人々との交流から始まります。とても交流とは言えないコミュニケーションを演じるケイシー・アフレックは、おちくぼんだ目の陰りや兄にはない弱々しい声でやさぐれたリーという人物に人間を吹き込みます。バーでナンパされるところの頬が緩んでしまう感じと、その直後にリーが因縁をつけてほかの客に暴力を振るうシーンを見て、観客は「なんだこいつ」と思うことでしょう。なぜなら彼の過去はこの時点で一切明かされず、ただ「便利屋」という職業に就いていることだけしか情報を与えられません。それはとりもなおさず、アパート住人でありバーでナンパしようとした女性であり、因縁をつけられた男たちと同じ視点なのです。

そんな折、リーは兄が死んだことを知り、マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ることになり、彼の過去と人々とのかかわりが描かれます。

この作品は、大人も子どもも関係なくそれぞれを一人の人間として扱います。それゆえにパトリックという子どもが有する「一個人としての強さ」や、リーという大人が持ってしまった「一個人としての弱さ」を描きます。子どもの視点からも描かれる大人はスーパーマンではありえず、子どもは純粋無垢で庇護されるものでも物語の要請で成長させられるものでもありえません。物語が優先するのではなく、人物を描くことでそこの物語が生じるのです。

後半になって、映画の最初の方でリーが捨てていたチェアーが何だったのかを我々は知ります。

ラスト近く。坂道を登りながらのキャッチボール――と言うにはあまりにぶきっちょで拙いボールの投げ合い。ワンバウンド=ワンクッションを置かなければ相手にボールを届けさせることができないもどかしい距離感。それでも二人は最後の最後にボートの上で釣りをします。

この映画は観終わったあとにスッキリするようなものではありません。第一、リーに救いはありませんし、救われることを誰よりも拒んでいるのが彼自身である以上、安易な救済による幕引きがないことは映画を観てきた観客は知っています。哲学的な問いを投げかけてくるような重苦しいものでもありません。この作品のそこかしこに散りばめられたユーモアを受け取ったあとで、哲学的なテーマに議論を持っていきたいのであれば、それはナルシズムか衒学者の素質があるのでしょう。哲学なんかではなく、もっと卑近で野卑な人生という現実に向き合うことになる映画です。

とはいえ、前述のとおりこの作品にはユーモアがあり、カラッとしているので観ていて辛いということもありません。ただ、ぱっと思い出せるようなインパクトの強いギャグだったり画面だったりということではないです。それは「笑い」というよりも日常の中に潜む「可笑しみ」だからです。それゆえに、この「可笑しみ」は作品を通して観なければ気づけないものなのでしょう。この作品が凡百のお涙チョーダイや感動巨編といったものとも違うのは、作品全体に漂うベタつかない空気のおかげなのだと思います。

パンフに記載されたプロジェクトノートでも「ユーモアがない人生は意味がない」と言っていますし。

あと、印象的なカットも多かったです。人物の会話をとくに限定空間(弁護士の部屋だったり友人の部屋だったり、あるいは病院の受付の内側だったり)とか、去っていく救急車を見つめるリーの背中などなど。

マンチェスター・バイ・ザ・シー」。思いがけず大切な作品になったこの映画、もしかするとBD買うかもしれない・・・。

 

あと「ローガン」も観てきました。うーん、ちょっと期待値上げすぎた気がする。色々と言いたいことはあるんだけど、アメコミものってやっぱり子どもを射殺する描写ってダメなのかしら? ラストの方の森林での駆けっこの嘘くさたるや。リーダ格の子が一発食らったけどすっげーあっさりしてたし傷とか分かりづらいし「欺瞞じゃのぉ」と。いやまあつまらないとは言いませんけど、なんかこうx-menシリーズってパッとしないんですよねぇ。ファーストジェネレーションとデッドプールはすごい良かったんですけど、mcuみたいに平均値も高くて一年に一つは大当たりをぶち当ててくるし、DCはDCで悪い意味で盛り上げてくれたりはするんですが、フォックスのマーベルはパッとしないですわ。X-menに関しては豊富な作品を持ってこれるmcuと違うんで単純に並列はできないにしても。ローガンーじじいとオヤジと時々ムスメ。そもそもローガンクローンを作る理由って何よ? ローガンのクローン作れるなら別の強いクローン作れるっしょ。と思ってしまうのはやっぱりアメコミ映画というカテゴリに収まってしまっている弊害でもあるのだろうけれど。光る目を彷彿とさせるシーンがあったなぁとか、そんな散漫な感想も結構あったりはするんですけど、いや楽しいですよ。ただもうちょっと良くなるポテンシャルがあると思うんですよね、題材的に。ジジイとオッサンが好きなわたくしとしては、パトリックとヒューを観に行ったようなものですし、最初からある程度の満足感は担保されているのですけど。

しかしオッサンと少女の組み合わせってどうしてここまで感応を刺激するのでしょうかね。だってオバサンと少年ってそこまでメジャーじゃないし(精霊の守人もオバサンと呼ぶには若すぎるし)作品数の少なさからいってもそこまでウケるもんじゃないのだろうけれども。だって男女問わずオタって好きでしょオッサンと少女(偏見)。

あーポセイドン・アドベンチャーもすごい良かったから感想書きたいんだけどどうしようかしら。