dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ありがたくないトニ・エルドマン

昨日、三本連続で映画を観てきたのですが、まー疲れるわ疲れるわ。感想を書こうにもいかんせん頭が働かず日をまたぐ結果に。

 さて、そんなわけで一本目が「ありがとう、トニ・エルドマン」なのですが、色々とすごい映画でした。各界、各映画関連サイトや批評家連盟などが大絶賛していたというだけはある。どーでもいいがジャック・ニコルソンがエルドマンがハリウッド・リメイクでエルドマンの役をやりたがっているという話ですが、彼がやってしまうと確実に違う種類の危険な狂気しか出てこないような気が。

 個人的に類似する映画としては「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」があるのではないかと思う。どこか似てるんだっていうと、戯画化されていない生の人間を描いているということです。そして、この三作は同じような世界の描き方をしていながら、ピントを異にしているために別々のものを描いているという点で自分の中では三位一体を成しています。ただ、前の二作に比べると、ヴィンフリートことエルドマンの取る行動や彼の娘であるイネスが最終的にはっちゃけたときの爆発力は現実的ではないというか、「マンチェスター~」と「20th」とは異なる可笑しみなのです。それなのにまったく作品そのものとの齟齬がなく実在感を伴っているのは、その「現実的」な生活に縛られていることへの映画的飛躍による問いかけであるからにほかなりません。その問いかけにしたって、人間を地に足付いた人間として描かなければ問いかけそのものが成立しえないのです。地に足付いたというのは、つまるところ人間が持っている雑多な複雑さです。

 父親と娘という繋がりから生じるどうしようもない「あーもう、まったく!」といった感じ。様々なニュアンスを含む「あーもう、まったく!」を描くことで、現実を生きているわたしたち観客は共感をするのです。ドイツ人的な感性なのか、カット割が少なく1カットあたりの持続する「間」や手ブレ・どことなくドキュメンタリータッチの撮り方のおかげで、より一層の実在感を映画に持たせています。

 そしてなにより人物に命を吹き込む演技巧者たち、とりわけイネスを演じるザンドラ・ヒュラーの顔のニュアンスが凄まじい。父親といるときの顔が含む多種多様な感情の渦をセリフなしに表現してみせてくれます。

 中盤以降はほとんど親子ゲンカの様相を呈しているようなお互いの主張のぶつけあい。そして、父親に触れ最終的にイネスが取る行動を見れば「血は争えない」と誰もがいうことでしょう。

 笑えるのに笑えない、この複雑怪奇さこそこの映画の真骨頂なのかもしれない。

 

 ps

同日に観た「地獄愛」でも言及しますが、モザイク処理についてちょっと気になる。プリディスティネーションでも局部にモザイクがかかっていたんですよねぇ、そういえば。あそこはこれまで女として生きてきた人間が男として生きていかなければならないということを鏡越しにまざまざと見せ付けられるというシーンなので、(BS・CSの無料放送だから仕方ないとはいえ)モザイク処理はどうなのよと思ったのですが、劇場公開でもモザイクってかかるんですね・・・なんかがっかり。