dadalizerの映画雑文

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痛痒しかないセイ春の映画として:ハートストーン

今更になって「・」の大切さを噛み締めたというか。やっぱり意味合いが異なってくるのだなと。「ハートストーン」と「ハート・ストーン」だとやっぱり違うんですよね。もうちょっと意識してタイピングするようにしなければ。

 というのも、今回の映画「ハートストーン」は原題がアイスランド語の「HJARTASTEINN」というのですが、これは「ハート」と「ストーン」の造語らしく一つの言葉としてあるわけですね。そうなると「ハート・ストーン」ではタイトルと違ってきてしまうわけで、これまで何気なく記述していたものも、実はそういう意味合いがあったりなかったりするんじゃないかと考えたわけです。という自戒はこの辺にしておいて、感想をば。

 この日は2本連続で映画を見たのですが、朝っぱらから1時間以上もチャリを漕いで劇場に向かうという蛮行もとい愚行のせいで体力を大幅に消費した状態だったため、正直眠かったのです。前日にもレイトショーで「パワー・レンジャー」も見てたので。それでもまあ「ハートストーン」に関しては1本目だったのでそこまで眠気とかはなかったのですが。

 なんというか、思春期・成長期の嫌な部分だけをかき集めて集約させた映画にも思えるのですが。ここまで観ていて痛々しい映画ってあんまりないんじゃないだろうか。タイトルに青春映画とか記述してしまったけれど、青春というカテゴリをするにはあまりに酸味が強すぎる。

しかしまあドグマ映画みたいだなぁと。ここまで大自然の閉塞さというものを描いた映画も珍しいんじゃないですかね。日本なんかは自然に囲まれた田舎を描いた作品というと割と牧歌的だったり、反対に「丑三つの村」なんていうものもありますけど、自然そのものをここまでフィーチャーするっていうのも中々珍しい気がする。遠景のショットで見せられる画面いっぱいの自然が、作品の内容によって広大無辺な牢獄にも見える。もちろん自然の雄大さや慈母的な包容力というものもそこにはあるのですが、それが漁村という閉塞的なコミュニティと同じ位相に同居することで、シームレスな牢獄感を発しているというか。

この映画では外界との接続手段がないんですな。現代的な文明の利器というものがせいぜいトラクターくらいで、車は廃棄場みたいな場所にあるものだけ。携帯電話なんてでてきませんし。というか固定電話すら出てなかったような(いや出てたか?)。出てこない、というと少し語弊があるかもしれませんね。みんなが集まるバー?のような場所の店長がノートPCでエロ画像見てるシーンがありますから。それからすると、携帯電話や電話というコミュニケーションツールは意図的に排斥しているのでしょう。そりゃもちろん外界との接続を絶たれていることを絵ヅラとして表象しているのでしょう。

ここの廃車でソールとクリスティアンが遊ぶシーンで猟銃が登場するわけですが、見終わった後だと後の展開の暗示になっていたのだなーと。銃口を向けられてあれだけビビってた猟銃を、まさかあんな形で使うことになるとは…という感じで。というか所々で銃が登場していたのからして、ある意味であの帰結は必然だったのかも。あと車を破壊する音がやたらと大きかった気がするんですが、あれは何か音声編集しているのかしら。

それにしても痛々しい。それは多分、参照すべき先達としての大人が皆無であることも起因している。

この時期って、中々他人のことを思いやることができないんですよね。子どもと大人への中間地点にあって、子どもの無邪気な暴力性と大人になろうとする身体性や心理的な憧憬に翻弄される。それをある意味で道しるべとなるべき大人がいない。それゆえに子どもの稚拙さ・良くも悪くも素直である部分というものが全面に押し出され、見てるこっちがいたたまれなくなる。

映画冒頭でソールを含めた子どもたちが醜い顔の魚を無意識に無残に扱うことが、クリスティアンへのそれと奇しくも同じなのですね。しかもそこにクリスティアンもいるというのがなんとも言えない(同族嫌悪の表し方に唾を吐きかけるというのも中々エグい)。でも、多分、クリスティアンのハンナへの行いもおそらくは彼女を思っての行動というよりは、やっぱりアイデンティティの認識とか性的好奇心という側面が強くて、それはやっぱりエゴであってラブではないのだと思うから、そういう意味ではクリスティアンにもまったく非がないわけではない。少なくともソールに向けていたそれほどには、ハンナへの愛というものは感じ取れなかった。バイセクシャルなのではなく、ホモセクシャルだと思うし。だけどやっぱりソールの鈍感さがねー、許せんのですよ。いやね、恥ずかしさとかそういうのもあるとは思うけど、大げさに口拭うなや、と。で、そういうことを言いたくなるのは、多分、自分もソールと同じ年だったらそうしていたに違いないから。

後ですね、姉の描写が超リアルです。わたし自身も姉がいるのですが、「あるある」という感じの振る舞いというか接し方があって、すごいソールに共感してしまってすごい嫌な口角の釣り上がりかたをしてしまいました。

ただ、この辺のソールの姉妹まわりの描写に関しては監督の発言に矛盾を感じている。というか、実体験上の真に迫る描き方をしたせいで結果的に矛盾が生じてしまったといえばいいのだろうか。監督はインタビューでこう言っている。『前略~強い女性を登場させたのも私にとって、彼女たちはお手本であり大きな存在でした。自立心にあふれた強い女姉妹と母に囲まれて育った私にとって、彼女たちはお手本であり大きな存在でした。ですから従順な女性キャラを理解するのはかなり難しい』と。確かに、母親のふしだらな行いを咎めて面と向かって「アバズレ」と呼ぶのは凄まじいことだけれど、それは確立した自我から生じる自立心によるものではなく、単なる子どもの視点からの憤りにすぎない。ほかにも姉が家でホームパーティを開く場面などは、能動性を描き出そうとしている場面とも受け取れる。けれど、それら全ては結局のところ「母親」という存在に依存しているがゆえのものでしかない。自立とは程遠く、そして従順でないということでもない。簡単に言えば「くっころ」のそれだ。「口では嫌がってるけど体は喜んでるじゃねえか(ゲス顔)」というアレに近い。つまり、心身相関がもっとも顕著なこの時期の少年少女にあって、彼女らの身体は母親という絶対権力者に従順にならざるを得ないのです。どれだけ心が反抗の意思を示していようと。朝食を作ってもらい、画材を使うことができ、家でホームパーティを開く。これらはすべて母親の働きによる産物を享受しているに過ぎない。監督はインタビューで「子どもと動物の映画しか撮ったことがない」と言っている(まあ質問が質問だけに素直に受け取るのも危険なのですが)。それゆえに、監督は子どもに寄り添ってしまったがゆえに姉妹を子どもという軛に落とし込み、ソールの寄る辺としても描いたがために「自立した」・「従順でない」女性としての姉を描き損なっているように思える。多分、これはわたしに姉がいるから、深読みしすぎているという部分も無きにしも非ずだとは思うのですが、母親に関しても別れた夫から自(分の足で)立(つことが)できずにいるという点でも自立した女性とは言い難い。これも多分、大人に対する反感あるいは経験則からくる投影かもしれませんが、ともかく一つの自立した女性とは言い難い。

そしてまた、大人に対するその反感や憐憫のせいで、大人というものが絶対に必要であるということを意図せず(いや意図してるのかな)浮かび上がらせてしまった。もちろん、大人が完全に存在しない世界なんてものはどんなファンタジーにしたって中々難しいものですし、そもそもこの映画は大人なしには描くことができないのですが、監督は大人を忌避しているように思えてしょうがない。だからこそ必要悪としての大人がそこにはあって、それがあるからこそ子どもたちの自由さを描いているのだけれど。

多分、そのスタンスは、監督の嫌う大人なスタンスだと思う。まあでも、監督は大人を嫌っているというより、この映画に出てくるような大人を嫌っているだけなので大人そのものに対する嫌悪というものではないのでしょうが。

うーん、そも子どもしか出てこない映画――に限らず創作物――ってあるのかしら。描き方の力量は別として、やっぱりどんなに子どもをメインに据えても大人というものは必然的に生じてきてしまうものなんだろう。大人って要するに子どもの先にあるものでしかないものねー。物語に関する根幹的で体系的な話なんてできるはずもないので、この辺にしておこう。

 

さて、ここまで自分で書いていて思ったのだけれど、これって性格が碇シンジくんな犬丸継男の物語でもあることに気づいた。クリスティアンがその矛先を村に向けていた場合の話が「丑三つの村」で「八つ墓村」じゃんすか。常に危うい空気感が漂っている作品だなーとは思ってたんですけど、それって一歩間違えたら丑三つの村にもなり得たということをなんとなく感じ取ってもいたからなのかしら。そう考えると、これはセクシャリティの話というよりも、もっと根本的な理解と受容(思いやりと言ってもいいかも)の話なのだろう。パンフはLGBTの視線でばかり語られているけれど、性的マイノリティの話ではないんじゃないかしら。それはモチーフ的・アイコン的に使用されているだけで。そうじゃなきゃ、異性愛者のわたしがここまでこの映画について語り得るはずがないし。

そうそう。パンフといえば、パンフレットの情報が薄すぎですよー。作品そのものに関する情報は公式サイトの文章の完全なコピペですよ。あとはLGBT映画の歴史とか日本在住の40歳のゲイの方の寄稿(大島渚の「御法度」に触れているあたりはなんというか本物なのだと感じますが)とか、ちょーっと映画そのものに関する情報の薄さを濁しているとしか思えませんですよ。せめて俳優のこともっと詳しく書いてよ。

俳優の情報これだけですよ、これだけ。

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ハンナとベータ、ソールの姉二人なんてどう考えても店主よりも必要でしょうが。んーやっぱり北欧の映画だとハリウッドとか英語圏よりもやっぱり情報集めるのが難しいのでしょうかね。そもそも本編も英語じゃないですし、翻訳のレベルもいまいち分からんのでどこまで信頼していいのか完全に分からんですし(翻訳家がなっちレベルだとしても気づかないわけで)。とはいえシナリオ再録は評価していいでしょう。これのおかげで冒頭のシーンでわたしが盛大な勘違いをしていたことに気づけましたし。よく考えたらソールだけがカサゴを逃がしたことが最後の最後の展開につながるわけなので、ソールがカサゴを弄んでいたというわたしの勘違いはアレなのですが。とはいえ、名前からしてもソールに加虐性がないわけではないのですが。

それと金原由佳さんの神話モチーフの部分に関しては参考になる部分が多かったです。別にそういう深い意味があるということを知らずとも陰毛のシーンとか鏡にキスするシーンとかは思春期経験者にとっては迫るものがあるとは思うのですが、神話的モチーフがあるということをわかった上で見るとまた違ってきますしね。ソールの名前に関しては露骨といえば露骨ですが。

全体に渡って印象的なシーンが多い映画だったなーそういえば。

見たときはそこまでだったけれど、こうして書きたいことがいっぱい出てきたということは、何かしら思う部分があったのだろう。だからということを決して意図していたわけではないけれど、こういうことがあると映画の感想を書いていて良かったと思う。