dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

國村(コクソン)隼

 なんだこの映画・・・というフレーズを何回か使っているため、これ以上使うとテクノロジー同様に陳腐化してしまう恐れがあるんでボキャ貧をどうにかしたいところではあるんですが、なんだこれ。

 韓国映画のコクソン。結構話題になっていたのですが近所の映画館ではやってなかったので、ようやく見たんですが、「感想ブログ」という体裁で良かったとつくづく思う。なんでってそりゃーよくわからなかったからですよ(爆)。

 ちょっと自分の中で答えを探りにくかったのと、深夜に見ていたこととかパンフの欠如とかスマホで見ていたとか冒頭(ここが最重要だったらしい)をちょっとぼんやり見ていたせいでラストまで観ても「あれ…?」となってしまった。

 これはいかん。何がいかんって映画から自分が何を見出したのか自分がわかってないってことですからね。このコクソンに関しては個々の要素を発見できてもそれが有機的に結びつかなかったことが映画への理解がお粗末だった理由なんですが、韓国では多いらしいキリスト教が符号しなかったこと(これはもう言い訳の余地がなく自分の無知)と、やっぱり冒頭の「ルカの福音書」の引用を映画鑑賞中に完全に頭から排除していたことでしょうな。

 つーかこれ、自分にかかわらず宗教に疎い大半の日本人は分かりづらいんじゃないでしょうか。リドリーなんかもエイリアンの中に当然のように(というかアメリカじゃ当然の知識なんでしょうが)聖書の引用をしてきますし。

 もちろん、普通の人(普通の人ってかなりアレな表現ですが)よりは映画に触れていると自負していますから、まったく気付かなかったということではないですよ、ええ。明らかに村社会には浮いているキリストモチーフ(神父とか)「偏見」と「差別」(とまあ村社会も含めていいかしら)によって人が引き起こす結果という部分はわかるんですが、それが作品としてどう重要なのかってことを、ほかの人のブログうとか読んでみてようやく腑に落ちたところがあったわけです。

 まあでも、言われてみれば、なんで娘が急に魚を貪り始めたのかと思ったけど、魚ってキリストのメタファーとしては有名ですな。

 とはいえ、いくつか参考にしたブログの中でも「それってこじつけじゃねーか」とか「いくらなんでも飛躍しすぎでは」と思う分もなくもないし、あんまりほかの人の意見を取り入れすぎるとどこまでが自分のものだったのか分からなくなってきてしまうので、初見の印象でいこうと思う。

 

 そもそも映画としてどうだったか。うん、オモスレーっちゃオモスレーですよ。韓国映画ってレベル高いのは分かってますけど、日本人に欠如している前提となる文脈がわからなくてもエンタメしてくれるのがいい。いや、それでも宗教的背景をわかってないとちんぷんかんぷんな部分はあるんだけど、それでも「ホラー」としてのフォーマットがあるゆえにわたしのような日本人はJホラーの持つ「気味悪さ」「気持ち悪さ」「得体の知れなさ」としての色眼鏡で咀嚼することができるため、そこに込められた宗教的意味がわからずとも情動的に楽しむことができるわけどす。

 ていうか、日本人の宗教に対する考えと同じではなかろうか。宗教ってなんだか得体がしれなくて怖い、という。大体、宗教とカルトを同一視してる節がありますからねー日本人って。オウムの一件とかもあるんでしょうが。

 あと、宗教というフィルターには気づかなくても、そこに込められた真意はわかる。ていうか、周到に村社会を使っていて、わざわざ韓国人が日本人をこんな役にキャスティングするというところからもそのスタンスが覗える。つまり、韓国人の抱く日本人への考えというものを監督はすごく理性的にカメラに収め、そこから人に対する偏見と差別意識というものを浮き彫りにしていくということ。それがもたらす、これはたぶんキリスト的な解釈なのかもしれないけれど、悲惨な結果。

 それはさておき序盤から中盤にかけては笑える場面がすごく多い。真面目に祈祷してる場面なんかもちょっと笑えるんですが、ラストまで見るとその笑える場面がちょっと物悲しくなってしまったり。

 メインとなる警官のおっさんジョングを演じるクァク・ドウォン。この人、アシュラでも嫌な刑事役やってましたけど、相変わらず嫌な奴です。というか、ダメなやつ。

 

 わたくしの感想としては、宗教云々は抜きにしてマトリックスリローデッドをつい最近見たばかりということもあってか、この映画を観て思ったのが差別っていやーねーというものと、「選択」と「結果」の残酷さ。ホラーというとバッドエンドが常ですが、こうしてありありと見せ付けられると「選択」の重要性というものが浮上してきますねー。