dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

幼子われらに生まれ:家族という組織、その歯車である個人と潤滑油として機能しうる血縁

久々にきました。「マンチェスター~」「20th~」「ゴーン・ガール」(え?)に続くリアル人間関係もの。しかもそれが邦画でその上傑作だったのですから、わたくしの筆も進むというもの。

 

 邦画をリアルタイムで観るのはなにげに久しぶりのような気がする。まあ観たい映画が洋画に集中しているというのもあるんだけれど、単純に観たい邦画が近所の映画館でかかってないというのもある。

 

 出不精で守銭奴のわたしはどうしても近所の映画館優先になってしまうので、見逃してしまうものが多くなってきてしまう。

 

 そんなことが気になって感想を掘り返してみたら、最後にここに書いた邦画のリアタイ感想は「こどもつかい」だったし。おいおい、これではいかんだろうと思ったわけではなくて、単純に気になっていて見に行ったのが「幼子われらに生まれ」でした。監督のこともまったく知らず、浅野忠信だからという理由でとりあえず観に行ってみようと思っただけなのですが、思いがけない傑作に出会ってしまったですな。

 

 洋画・邦画も大作偏重のここ最近のシネコンにおいて、この作品を公開してくれたイオンシネマには感謝したい。イイヨイイヨ~こういう映画もっとかけてちょーだいイオンシネマさん!

 

 

 

 で、本題。

 

 

 

 ほとんど誰もが生まれながらにして所属する絶対的なコミュニティである「家族」。では、誰もが所属しながらも千差万別のそのコミュニティにおいて、出来上がりの時点ですでに「家族(家庭)」が最初から不安定だったとき、そこに所属するメンバーである「個」としての家族人たちってどーなるの?。というのを、主に父親の視点から描き出していく。それが本作「幼子われらに生まれ」である。ちなみに家族というコミュニティをパワーゲームとして描いているという点で先ほど「ゴーン・ガール」を挙げただけで、作劇はまったく違いますので(笑)。

 人間関係を、普通でさえ少なからず軋轢が生じる「家族」というコミュニティの中で、しかも最初からその「家族」に歪みを持たせたらどーなるの。最近の気になることで人間というものはやっぱり特定のルーティンの中でしか生きられないんじゃないかと思いはじめてたこともあり、これも前述の仮定のシミュレーション映画として語ろうかとも思ったのだけれど、あまりに情動を揺さぶられたのでもっとエモーショナルな感想を書くことにしました。ていうか、家族ってさっきも書いたように千差万別で一様じゃないし、なんでもかんでも抽象化して類推するのもつまらんですしね。こじつけになりかねないし。

 

 

 離婚経験があり前妻との間の実娘である沙織(鎌田らい樹)と楽しそうに遊園地で遊ぶ浅野忠信演じる信。この時点では明言されているわけではないのですが、遊園地の前で待ち合わせをしていたり会話の端々やら「パパ」と「お父さん」の使い分けによって関係性を自然に提示する手法がスマートです。

 

 で、家に帰ると現妻である奈苗(田中麗奈)と彼女の連れ子である長女の薫(南沙良)と次女の恵理子(新井美羽)が待っているのですが、もうこの時点で薫の態度から異父であることの問題があらわれている(笑)。ただ、それにはしっかりと理由があって、奈苗と信の間に新しい子どもができたことを奈苗が薫に言ってしまったことが露骨なまでの不機嫌さとして表面化してしまったわけですな。

 

 個人的には、奈苗のお腹に子どもがいることを知らされる前の薫と信のやりとりというものを見てみたかった気はする。もっとも、子どもができたことはきっかけであって大差なかったとは思いますが。

 

 この作品、薫と信に見られるように全編にわたって「気まずさ」が張り詰めているのですが、特にこの二人(そこに奈苗が加わる)のやりとりは真に迫るものがある。これは監督がエチュード的な演出手法を使ったという発言をしていることから、意図せずけれど狙ったとおりの結果をうまく引き出せていると思う。

 

 南沙良は本作が初演技ということなのですが、むしろ演技者としての演技では今回のエチュード的作劇には合わないと思うので、臭くない自然体な振る舞いがグッド。浅野忠信もそういう演技でしたし。15歳(撮影時は14歳か)で小6を演じるというのは中々アレだと思うのですが(実際、劇中でも彼女は小6に見えないですし)、ああいう小学生っている。実際最近の小学生は早熟ですからそこまで違和感もない。

信の家庭内でのフィジカル・言語的なストレス表現が演技とは思えない感じだったのですが、浅野忠信のインタビューだと素がでていたようです。うむ、ドキュメンタリー出身らしい三島有紀子監督の素晴らしい采配です。

 パンフのインタビューを読むと、もともとの脚本には信の仕事のシーンはなかったようなのですが、監督が入れたらしいです。わかってるなーこの監督。こういう作品で、とりあえずスーツを着させてビジネスマン的な装いをさせるだけさせておいて仕事の風景を描かないという監督は結構いるのですが、それはあまりに嘘くさいんじゃないかと思っている自分としては映像化する上で実に懸命な判断だと思います。というか、この物語を描く上では必然的に浮かび上がってくるものだと思うのですが、もともとドキュメンタリー作家である監督の考えとして仕事というものが「当然あるべきもの」だったのじゃないかしら。

 それと女性側の掘り下げも脚本から手を加えた部分らしいです。三島監督は割と自立した女性っぽいイメージなのですが、奈苗の女性的女性の鬱陶しさの描き方がすごいリアルでマイク・ミルズ監督とは別のベクトルで女性を撮るのが上手い。

 子どもって存在そのものが免罪符的に描かれることが多いんですけど、本作ではそれを意識的に描いている気がする。実際、薫との関係をどうにか好転させようと励む信に肩入れして観ていると、薫のウザさたるや「このわからず屋ぁ!」と叩きたくなってきます。けれど、子どもってそういうものなんですよね。自分の気持ちと向かい合うので手一杯で、親のことなんて考えてられない。その上、信は実の親ですらない他者であって、実の父親に会いたいなんていうのも結局はそんなどうにもならないやきもきした思いに対する方便でしかない。信だって、本当のところは「家族」というコミュニティを安定させようとしているだけで、はたして薫という「個」を思っているのかどうかわからない。全員が全員、一面的にキャラクタライズされていない複雑さを持っている。だから、わたしはこの映画がとても好きなのです。

 

 好きな場面はたくさんあるのですが、個人的には沙織を危篤のお父さんの元へ車で届けるまでの一連の流れがすごい良い。この辺は、本当に信の実娘と継娘への思いの違いが絶妙に示されていますし、道中での沙織と恵理子のヒヤヒヤものの会話の気まずさ(とそれによって生じる可笑しみ)で、このまま事故ってしまうのではないかと思ってしまうほど。

 ここまで述べてきたように、この映画は演出が全体的にレベル高いです。特に上で述べた車の場面で如実にあらわれているのですが科白には気を遣っているので、意識して観るとなお良し。まあ意識しなくても場面が場面だけに印象に残るのでわざわざ意識しなくてもいいんですが。中でも「友達」という科白は劇中で色々な人物が口にしますが、それぞれが口にするときのニュアンスの違いがこれまた絶妙なり。

 また、カメラの距離感や手ブレがちゃんと信の心情と一致しているのが「映画を観ている!」という感じがして実によい。薫とのやりとりのところとか、前妻との回想のときとか揺れること揺れること。前妻との嫌な別れのきっかけとなった回想を挟んだ直後に前妻と会うところとか意地悪くてすごくいいです。監督はお綺麗な人ですが、なんとなくSっけを感じます。

仕事の場面になるとカメラが少し遠くなるわけで、仕事が信にとってどうでもいい(というと若干語弊がありますが)ことが科白以外でもちゃんとカメラで語ってくれる。ここもすごい映画的でイイ。まあ上司とのやり取りの中ですでに仕事に対する熱意のなさと家族への思い入れが語られてはいるので、わからないということはないですが。

アーティファクト好きとして、ロケーションとか電車の橋を線路から映すカットとかもすごいツボりました。もちろん、ちゃんと作劇として意味のある使い方をしているのですよ。映画冒頭、実の娘である沙織とはちゃんとした遊園地で遊び、物語終盤で血の繋がりのない恵理子とはデパートの屋上遊園地小路啓之デカダンスを感じてすごくツボった)で遊ぶ。この対比的な配置なんかを考えてもロケを意識しているのがわかりますしね。

ただ、それを差し引いても斜めエレベーターとか群をなしているマンションとか、配達物が積み上げられた棚とか、それだけで視覚的に楽しめちゃいます。これは完全にフェチですが。

 ちゃんと赤ちゃんを映してくれたのも良かった。英語版のタイトルが「DEAR ETRANGER」つまり異邦人というタイトルであることを監督が言っていたように、新しい異邦人である赤ちゃんを映すことは、やっぱり必要なことですからね。イーストウッドだったらCGにしかねないけど(笑)。

タイトルを最後に持ってくるのもよし。ゼログラ方式で、ちゃんとタイトルを最後に持ってくる意味があるからね、うん。洋画だと、だいたい日本版のタイトルが最初にくっついてることとかあるので、邦画でこういうことをしてくるのはやっぱり嬉しい。そういえばタイトル忘れてた!ってなるし、その意味もはっとさせられるし。

 

ただ、二箇所ほど気になった部分もあった。

映画の終盤も終盤、薫の頭上から桜?の花びらが舞うのですが、あのいかにもCGな感じはどうにかならなかったかなーと思う。そりゃ「ゴーン・ガール」の雪みたいにフィンチャー的完全画面制御しろとはいわないですけど、あそこだけ浮き上がってしまっているのが少し気になった。

それと、沢田(クドカン)のDV描写をガラス越しにしてちゃんと撮さなかったのはどういう意図があったのかしら?と。クドカンの蹴りとかなんか「ぷっ」ってなっちゃう感じでストレスを発散しているようには見えづらかったし。なんとなく黒沢清「叫」を連想するガラスの配置だったり、セルフモザイク的な使い方していて……あそこはしっかりと映すべきだと思うのですよ。沢田と奈苗たちの心理的距離を異なる部屋にいて家の柱を境界として描いている画面のレイアウトがイイだけに、なおさら気になった。この辺は、わたしが読み損なっているだけなのかもしれない。それがわからないような技量ではないと思うので。DVの結果である歯と血のところは良かったです。

でもあれって、そもそも回想なのかしら。

 

 ほかにもカメラマンとか美術とか編集とか音楽とか沢田と信のこととか、わかる範囲で書きたいこともあるのですが、まとめきれないので最後にマイベストシーンにだけ言及しておきたいどす。これはちょっと、本当にキた部分なので。

沙織が「パパ」である信から手を離し、「お父さん」である危篤状態の江崎(だったかな)の手を握る一連のシーン。血の繋がった元父親の「パパ」から血の繋がりのない現父親の「お父さん」へと向かうこの手のカットは、とても寂しいものでありながら、同時に信と継娘である恵理子と薫がそうなれるとい可能性を示唆する場面でもあるのです。その厳しくも優しいカットに、危うく泣きそうでした。実際、映画館で鼻をすすっている人がいましたし。

もちろん、このシーンが感動的であるのはその直前で信と沙織のカフェでのやり取りがあるからこそ引き立つわけで、情動を計算したシーンであることは言わずもがな。

三島有紀子監督の手腕に脱帽いたしました。監督のほかの作品も見なくては。