dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

果たして彼女は感動ポルノとして消費されて終わるのか、それとも

選択というのは些細なときにその重要性が浮き彫りになったりする。

自分の場合は「愛と哀しみの果てに」と「ソニータ」との選択でありました。実は「愛と哀しみの果てに」を観ていたのですが、一時間ほど観てもまったくもって何の感慨もなく、このまま観ていてもいいものかと悩みながら番組表を見ているとBSで面白そうなドキュメンタリーが放送されることを知ってそちらを切り上げて「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」を見ることにしたのですが、もしもダラダラと「愛と哀しみの果てに」を観ていたらどうなっていたのだろうか。「愛と哀しみの果てに」はアカデミー賞を取っているみたいなんですけどね。不思議なこともあったもんだ。

 

さて、それではアカデミー賞作品を蹴ってまで選んだ「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」はどうだったかというと、まあ「愛と~」なんかよりよっぽど有意義な時間だったことは断言できますな。

えー感想の前にいくつか備忘として記述しておくと、わたくしが観ました「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」なんですが、NHKBSでやっていた50分のドキュメンタリーなのですが、どうも21日からクラウドファンディングによる出資で「ソニータ」という題名で劇場公開しているらしい。で、公式サイトと見てみたら本編は91分だった。説明を見る限り内容は一緒みたいなんですが、BSのほうは本編をカットしているのか、それとも何か本編からカットした部分などをよせあつめていたりするのかとか色々気になりだした。でもかかってる映画館1箇所だけだしほかにもみたいのがあるからなぁ・・・。

というわけで、とりあえずBSのほうでやっていた「ソニータ ~アフガニスタン難民 少女ラッパーは叫ぶ~」について書いておこうと思う。

 

とりあえず公式サイトから引用しておくと↓のような作品になっちょります。

 

イランで暮らすアフガニスタン難民の少女が、慣習に従って親が決めた結婚を拒否し、ラップ音楽で成功するという夢を追う。サンダンス映画祭審査委員賞などを受賞した作品。

反政府武装勢力タリバンの影響力が強まるアフガニスタンから隣国・イランに逃れ、NGOの支援で暮らす18歳のソニータ。母親は古くからの慣習どおり見ず知らずの男性に娘を嫁がせようとするが、彼女にその意志はない。「なぜ自分の人生を選べないの?」。友だちが次々と結納金と引き換えの結婚を強いられるなか、ソニータアフガニスタンの少女たちが抱える怒りや悲しみをラップ音楽にぶつけ、次第に才能を開花させる。

 

えーそこまでドキュメンタリー映画を見ているわけではないので、これから言及することが果たして異様なことなのかどうかということなんですが、番組(あえて映画とは言いませんが)の途中でですねー撮影スタッフが映し出されるんですよ。一人は音声で、母親がソニータをだしに施設から金をせびろうとしていることをわかているのか、と施設の女性に問い詰めたりディレクター(だったかな、忘れた)とその施設の女性が話し合っている部分が映し出されたり、あるいはソニータが番組スタッフのカメラを使いたがり、そのカメラでディレクターを映しだしたりするのです。

これがまず、自分にとってはひどく不思議な感じがした。というのも、わたしが「ドキュメンタリー」というものに対して抱くものは「一つの記録映像でありレンズに収まる事実をありのままに使うことで制作者の意図や主観を含まぬ事実を描写しつつ、しかしそのフィクションや劇映画に比べて現実としての純度を非常に高く保ったまま監督の意図を重ね合わせるフィクションである」であって、そこに製作者を登場させてしまってはフィクションとして成立しないのではないかと考えていたからだ。

ある意味で「デッドプール」のように第四の壁を破っている、ある種の禁じてとも思える手法を普通に使っていることに驚いてしまった。

さらに驚くことには、スタッフが2000ドルの支援をしたということがでかでかとタイプグラフされることだろう。

映像の中で施設の女性も言っていたが「(番組スタッフたちは)彼女の人生に介入するのはよくない」という旨のことを告げる。そりゃそうだ。一人を救ってしまったら、ほかの子どもたちはどうなる。たまたま(ではなく、もちろんソニータがドキュメンタリーのの対象となった理由は明白なのだけれど)選ばれた一人を救うということは、それはスタッフたちの主観と独善によってソニータ以外の子どもを切り捨てたということの裏返しでしかない。

懸命な監督であればあるいは自らのその行動を「アフガニスタンの抱える社会問題をソニータという個人を通して描きながら、結局のところ製作者も一人の個人であるということから逃れられずソニータ個人にのみ収斂してしまった」というような作品そのものを俯瞰させるメタな構造になるよう選択するかもしれない。

だが、この番組はスタッフが支援した金で難を逃れたソニータが自ら撮影したMVをYouTubeに上げ、それを見たアメリカのスクールが音楽の養成コースに奨学金で通わないかという打診をし、ソニータはそれを受け入れビザを嬉しそうに取得し(おそらくアメリカの)小さなステージの上で歌を歌いながらエンドロールが流れていく。

 

一人の少女の成り上がりの事実としてみれば感動的だろう。否、はたして本当に感動的なのだろうか。少なくともわたしには、ソニータと笑いながら35歳の男と結婚させられてしまうという話をしていた少女の顔がまとわりついていて、その残酷な現実にただ打ちひしがれるしかなかった。

上で述べたように、ソニータにはドキュメンタリーの対象として選ばれるだけの素質がある。それは「大きな夢」とその目標に向かって努力する「行動力」とその行動によって成果を上げることのできる「歌唱力・作詞力・演出力(もっとも、歌唱力に関しては劇中で力量の不足を指摘されている部分もあったけれど)」それらすべてをひっくるめて「才能」があったからだ。

では、番組の中で出てきたほかのソニータたちと同じ境遇の少女はどうなる?

確かに、ソニータの歌は彼女たちの心情や境遇を代弁している。現実を訴えている。だが、それによって救われるのはソニータだけだ。あるいは、この番組を見て・彼女の歌に感化されて動き出す観客や視聴者に波及することを促しているのかもしれない。けれどやはり、触発された人たちが焦点を合わせているのはソニータであって(そうなるように制作側が仕向けているから)「選ばれなかった才能のない少女たち」は排斥されているように思える。結局のところ、ソニータという「才能を持った選ばれし少女」に収斂されてしまいほかの少女たちの影は有耶無耶になっていく。

そしてなにより、こういってしまうと身も蓋もないのだけれど、ソニータが歌を歌ったところで現実問題としてアフガニスタンの少女たちが救われることはないだろう。少なくとも向こう数十年は。そうでなくとも、今現在少女であるカメラに収められた彼女たちが救われることはない。

それはどうしようもな現実だ。才能のないものはソニータのように自ら環境から脱することなく、結局のところは悪しき風習に取り込まれ男尊女卑の世界に飲み込まれていくしかない。

トゥモローランド」よりもよっぽど残酷な現実だ。だが、作り手はその現実を直視させようとすらしていない。それがこの番組の問題点だ。

 

だからこれはまごう事なきドキュメンタリーであり、だからこそ「ソニータ」というタイトルなのだろう。だが、そうなると決して目を背けることができない問題が色濃く浮かび上がってきてしまう。それは「はたしてアフガニスタンの抱える問題を彼女の才能の背景として無遠慮に使ってしまっていいのだろうか」ということだ。

ソニータ」がソニータという一人の才能ある少女のドキュメンタリーであることは間違いない。だが、そのせいでアフガニスタンの社会問題が彼女という物語にとっての乗り越えるべき障害=舞台装置としての悪役として極端に現実の純度が下げられフィクションにされてしまってはいないだろうか。

これを見てソニータに何かしらの情動を覚える人がいても不思議ではない。けれど、これを見てアフガニスタンの現実を痛感させられたなんて言う人がいたら、その人はフィクションを現実として誤認しているにすぎない。もちろん、フィクションは現実背負わされることもあるだろう。けれど、この作品で描き出されるアフガニスタンの問題というものはエンタメ娯楽映画の敵役以上の現実性を持っているとは思えない。

あるいは、その構造を対比的に置くことで選ばれなかった子どもたちに目を向けさせようというのだろうか。いや、もしそれを狙っているのだとしたら尚更エンドロールで流されるべきはソニータではなく選ばれなかった少女たちだろう。どちらにせよ、作品として選択を誤ったように思える。

 

この点において、「ソニータ~」はドキュメンタリーでありながら、どこまでもフィクションな番組だった。

ちょっとね、本編がどうなっているのかかなり気になり出してしまったぞえ。番組ようにかなりの編集を加えていて、実はまったく違う終わり方をしてるのではないかと思うほど。

だからあえて「番組」と書いて、本編を劇場で観るまでは保留にしているのですが、果たしてどうなることやら。