dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

したたかさと正直さとブロマンス

というのが「ショーシャンクの空に」を観て思ったことだった。

ウィキを読んでいて面白かったのが同年公開された「フォレスト・ガンプ」にアカデミー賞を持ってかれた部分。北野武が割と堂々とディスっていた映画がアカデミー賞を取っていることと、自分が「ショーシャンク」と「フォレスト」に似て非なるものを見出したりとかゼメキスについてだとか、色々と考えることが多くて、そういう意味でも結構楽しめた。

フランク・ダラボンは監督作がかなり少なくて劇場映画に限ると4本しかないという(日本語版ウィッキー参照)寡作な作家なのですが、どれも結構な話題になっている気はする。もっとも、原作が原作だけに、という部分もあるにはあるのでしょうが「ミスト」のラストに関してはキングも「そうすりゃよかった」と言ったくらいですから発想力はあるということでしょう。脚本クレジットを外している作品がいくつかあるのを考えると、かなりこだわりがあるのだろうという推量をすることはできるけど、本作とは直接関係があるわけではないので脇に置いておくとして。

 

名作と言われるだけのポテンシャルは確かにあったんですけど、なんか思っていたのと違っていてびっくりした。

もっとこう、それこそ「フォレスト~」みたいに徹頭徹尾情動に訴えるような作品なのかと思っていたら、もっとしたたかさを含んでいて、それでありながら人の情をも含んだ、ぶっちゃけ「フォレスト~」よりも高次の作品な気がする。そんでもって、演出もこっちのほうが優れているような。いや、まあ、「フォレスト~」というかゼメキスの場合はこうマスに向けて臭気を完全に脱臭して「イイ映画」にするのがすこぶる上手な映画監督であるような気がするので(評論家諸氏の評論の孫引きですが)、「フォレスト~」がウケたのはまあわかるわけで。

でも、男優賞はモーガン・フリーマンに渡すべきだと思うんだけどなぁ・・・あの抑えた演技なのに表情だけでしっかりと情感が伝わってくるのはトム・ハンクスの演技よりも好ましいし。役者としてはトム・ハンクスの方が好きではあるんですけどね。というか、この「好き」が「フォレスト~」がウケた理由だろうという気が。

 

それに比べると、「ショーシャンクの空に」はストーリーそのもののギミックを役者の演技と演出で魅せる、まさに映画的な映画だと思う。

冤罪で牢獄に入れられた男が牢獄の辛い生活に適応し、そこで友情を育んでいく話と簡単にあらすじを説明できなくもないけれど、これでは不十分であることを映画の終盤になってようやく思い知らされるわけです。それがまずストーリー的なギミック。で、それをさらに役者の迫真の演技と演出が一層盛り立てる。

まずはもう、何を隠そうモーガン・フリーマン。特定の場面を取り上げるということができないくらい、場面場面での表情の機微がすごく絶妙。

ティム・ロビンスも牢に入れられた直後までは諦念を思わせながら、それでも決して湛えている何かを絶やすことはないのだということをボッグズらに襲われても抵抗していることが表している。ここではモーガン・フリーマン演じるレッドのナレーションで「アンディはレイプされるときもあったし追い返すときもあった(意訳)」と綺麗事ではない事実を述べる。しかし、アンディがレイプされる描写はない。これはつまりアンディが「屈していない」ということを表すためにあえて省略した部分なのではないだろうか。現に、このナレーションの間アンディはボッグズたちに反抗している場面しか画面には現れない。もちろん、単に制作上の都合ということかもしれないし、あるいはレイプされる中でも決して屈していないことをあらわすこともできなくもないのだろうけど、レイプされるという行為そのものが屈服という解釈をダラボンがしていたのであれば、その描写を排除したことは見解の違いでしかない。というか、グダグダ言ってはいるけれどここの演出が映画に貢献こそすれマイナスな要素にはなっていないわけで、やはり演出として上手い。

そんでもって、実はアンディの行動の一つ一つが最後の展開に結びつくように仕向けられていた(ストーリー的ギミック)りするわけで。それも、アンディとレッドの最初の接触の時点から。

演出が本当にハッとするような場面が多い。アンディが建物の中に入っていく瞬間を彼の主観と思われるショットで真下から仰ぐように撮ることで刑務所の閉塞感や圧迫感を描写していたり、同じ構図・場面を何度も繰り返し使うことでその変化を際立たせていたりするのはすごくうまい。たとえばレッドの仮出所を判断するためのシーンが三回出てくるわけですが、初回と二回目と三回目、それぞれに意味合いが異なっていて味わい深い。構図だけでなく、キャラクターそのものも対比的に置いている。ブルックスとレッドという人物の辿る道というのもすごく印象的で、もしもブルックスとレッドの生まれた時間が違っていたら・・・と考えたりすると面白い。

 とかいいつつ、最初の方はアンディにあまりにビギナーズラックが働いているようにも見えてしまう部分もちょーっとなくはないんですが、これは多分ヒネクレ者のやっかみみたいなものなので清い人はそう思ったりせず素直に見れるはず。

 

レッドとブルックスを対比的に置いている、と書いたけど、実のところ真の意味で対比的に置かれているのはレッドとアンディではないかと思う。というか、対比軸として複雑な角度を持つレッドがあって、その軸に平行する角度にそれぞれの人物を置いているというか。

ブルックスに関してはとてもわかりやすいから言及するまでもないんだけど、アンディとレッドというのはつまり別々の道を通りながら最終的に同じ場所にたどり着くという意味での対比的なキャラクターなのではないかということ。

別々の道とは何か。

アンディはレッドを含めた全員を欺き(といっても彼にだけはしっかり話していましたが)脱獄という法を犯すことで無実を証明し自由の身になったのに対し、レッドは法を犯すことなく自分に対して誠実に振舞う(三度目の仮釈放の審査におけるシーンの、それまでの審査シーンとの言葉の違いと振る舞いの違いを見よ)ことで仮釈放をもらい、最後に小さな違反をしてブルックスルートからアンディルートへと至るということ。

レッドとブルックスが同じ道をたどりながら最後は別の場所に行き着いたのとは異なるように。そう考えると、この三者はこの三者によって三位一体をなしているとも言えるかもしれない。

無実のアンディが自らの邪によって救われること、実際に人を殺し(本人が言及しているからではなく、作品の構造としてここはそうあることが必然なので)て罪を背負ったレッドが自らの正によって救われること。

この、作品全体として清濁併せ呑むことで弁証法的に救いを描いているのが「ショーシャンクの空に」なんだろうなぁと。

 

 そんなわけで、すんばらしい映画ではあったんですけど、ちょーっとモヤモヤする部分もあったりする。で、そのモヤモヤしている部分というのはおそらく今まで書いてきた部分の余波の部分だと思う。

つまり、アンディとレッドのブロマンスとして描かれるがゆえに、ほかの、20年の月日を共にした、あの屋根を一緒に塗ったほかの囚人たちが忘却されていることにモヤモヤするのである。もっとも、ハナからそういうものとして描いているので、どこに目を向けるかという個人の視点の問題でしかないわけですが、弱者やフリークスフリークであり間違いなくその他大勢の一人であるわたしにしてみれば、彼らが物語によってフェードアウトさせられるのを見ているのは(というか画面に現れなくなるわけで、見れなくなるということなんですが)モヤモヤしてしまう。結局のところ、その他大勢はその他大勢でしかないのか、と。だとすれば、映画という虚構の世界ですら「トゥモローランド」的な無慈悲な条理を覆すことはできないのか、と。

本題とは離れますが、わたしがSWシリーズで一番「ローグ・ワン」が好きなのはもしかするとそこにあるのかもしれない。いや、歴史に隠されたローグ・ワンの連中が頑張っているからではなく、ベイダーに立ち向い散っていく名も無きその他大勢を名も無きその他大勢のまま、あそこまで描いてくれたというのが自分の求めているものに近いからだったんだなぁと。あの中にギャレスいるらしいし。

 

まあね、そんな文句ブーブーたれパンダな自分ですけどね、本棚越しに会話するところとか、ブロマンスとしてかなりの萌えポイントだと思うし、やっぱり映画として面白いからいいんですけどね(それゆえに歯がゆいのですが)。

ていうかレッドのナレーションがある時点で彼の主観によるアンディ物語である(と同時にアンディの行動をアンディ側から描かないことで最後の展開に繋げる作劇でもある)ことは明白ですから、要するに毎度お馴染みの「ないものねだり」ということなんですけどね。

 

 「フォレスト~」を引き合いに出したのも、そのへんで比較したかったからでもあるし。ナレーションの使い方がこう、わかりやすさのためだけにあるのが「フォレスト~」ですからね。や、ゼメキスはそれをわかってやっているはずなので指摘するだけ無為なのですが。

ただ、「見せる」ことで「魅せる」まさに映像表現としての映画の魅力に溢れる映画である「ショーシャンクの空に」がわかりやすいことに特化した「フォレスト・ガンプ」にアカデミー賞を持って行かれたというのがどうも不思議なんですよねぇ。

別に北野武ほど「フォレスト・ガンプ」が嫌なわけじゃないし、むしろそれなりに楽しんだ自分がこんなことを言うのは後出しで姑息な気もしますが。