dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

大いなる西部

傑作である。

順位をつけたりっていうのはしてないんですけど、今年観た映画の中でベストスリー。どころか、生涯ベストに入るかもしれないってくらい。

監督は「ローマの休日」「ベン・ハー」のウィリアム・ワイラー。テーマ曲はジェローム・モロスで、おそらく何かしらで一度は聞いたことがあるであろう有名なテーマであるわけですが、劇中での使われ方はかなり皮肉な気がするんですけどね、ラストを除くと。この間オードリー・ヘプバーンのドキュメントがNHKでやっていて、出世作である「ローマの休日」関連でちらっと彼の名前も出てきたのですが、フィンチャー並にリテイクするらしく、当時の現場を知っている人が「やりすぎだよ」と臆面もなく言ってのけていたのが笑えるのですが、「マキシマムスリー」だか「サードマキシマム」だか「カッティングスリー」だか忘れたけど「役者が最も演技力を発揮できるのは3テイクまで」という業界的な見方があるらしく、それを論拠にしていた。まあ、普通に考えればわかることですが。

 しかしよく考えてみると、これが個人的に傑作である理由はメインとなるテーマとは若干異なる部分にあるというのが我ながらお笑いである。

そもそもこの映画のピントは、グレゴリーペック(彼の優男な顔つきがすごいピッタリ)演じるマッケイという個人と戦争とレスポンシビリティに当てられているわけで、わたしが一番感動したバックの部分は割と余剰ではあるわけですが、その余剰にすら愛情をもって描いてくれたからこそ私の中で傑作になったわけです。

もちろん、焦点を当てられている部分もすんばらしいです。

 どうしてマッケイは人前で自らの武勇を晒すことを忌避するのか。それこそ妻になるはずのパットに恥をかかせてしまうかもしれないというのに。スティーブ(チャールトン・ヘストンが演じているわけですが、男根・アメリカンパワーの象徴である彼が後半に銃で撃たれて血を流したり、マッケイと虚しい殴り合いをしてたことを考えると結構意味深に見える)にパットの目の前で因縁をつけられ喧嘩になりそうな場面で退いたことがきっかけで二人は別居するのですが、ジュリーに諭されパットがマッケイのもとに謝りにきたところで、マッケイがなぜそこまで人前で勇敢さを見せつけることを避けているのかが明かされます。

「『血なまぐさい争い』が嫌だ」という理由が述べられていたのですが、日本語字幕で訳されていたこの「血なまぐさい争い」は原語ではシビルウォーと言っていました。つまりマッケイは、南北戦争の体験からワンサイドの利益のために動くことの愚かさを知っているからこそ、勇敢さを見せつけるということを避けていたのです。一見すると巨視的で自軍のためという大義があるように見えても、その実は利己的であるというどうしようもない戦争の結果を知っているから。だからこそ、スティーブをヘストンに演じさせたんじゃないのかなと。

あくまで自分の、自分だけの問題として処理したがっているからこそ、人前で勇敢さの証明などという体裁のための振る舞いを良しとしていない。責任を個人に収束させることで全体を救う、ワンフォーオールの精神。そして、本作で描かれる村同士の諍いの集結も個人の闘争の枠に収束させることで決着を迎えます。

両者相討ち。これは、至極当然の、須らく、こうなるとしか言いようのない幕引きなのです。この幕引きこそが、この映画が健全な魂を持つことの証左です。

決闘を、その幕引きを、なんという望遠の俯瞰したショットで捉えていることか。バカバカしさを超えて、それがどれだけ虚しいものであるかを伝えるのに十分すぎます。実は、中盤でマッケイとスティーブが殴り合う場面があるのですが、ここもかなり遠景から撮っているカットが多いです。所々で二人に寄ったカットはありますが、それは本作があくまでマッケイに寄り添っているからであり、そしてそのマッケイの思いを汲んでいるからこそ「殴り合い」という争いを大自然の中の矮小なこととして描き出しているのではないでしょうか。

面白いのが、当初のマッケイのコミュニティである少佐の村こそがむしろ意図的に行き過ぎた行動として描かれ、対立コミュニティであるルーファスの村はむしろ良心的に描かれています。もちろん、先に手を出したのはルーファスの息子たちではあるのですが、被害者であるマッケイは彼らの行動に不愉快さを示しこそすれ復讐などということは考えていません。それに、やりすぎとはいえ確かに度の過ぎたイタズラというレベルで収まらないというわけでもないですから。

むしろ、少佐とルーファスを比較するとルーファスの方がまだ理知的であり正々堂々を重んじていますし、少なくとも卑劣な行いをよしてしていません。それでも最終的に両者が斃れるというところに、この映画が大人であり誠実であることを表しています。

そして、やはりルーファスと彼の愚息であるバックの物語がわたしは最も感動し、目に涙をためていました。

バックは、出番の最初からどうしようもないやつでした。本当に最低で臆病で卑怯でエロ猿な勘違い野郎で、強姦未遂までして決闘なのに先に引き金を引いて、撃たれそうになると恥も外聞もなく地面に転がって、逃げ出して、そのくせプライドだけは高くて卑劣にも決闘で負けたあとに銃で奇襲しようとするゴミクズな人間です。

けれど、救いようのない彼の馬鹿さはときにコミカルでわたしを笑わせてくれましたし、ピエロとしてしか存在できない彼に哀しくも愛おしさを感じました。

何より、彼はわたしたちの写し鏡でもあるのです。そして、そんな救いがたい徒輩を父であるルーファスは撃ち殺します。当然です、バックはまごう事なき卑劣漢であり、こうなることはわかっていたのですから。

しかし、ルーファスは彼を撃ったあとに涙ながらに抱き締めます。だから言ったろう、と。

こんなことは父であるルーファスにしかできないことです。ただただ愚昧で卑近な悪漢でしかない彼を、それでもルーファスは愛していたのです。愛してくれていたのです。そんな人並みはずれたことを、父親以外の誰にできるというのでしょう。

バックの愚かしさは、とりもなおさず我々のうちにあるものです。それでもルーファスは、ウィリアムワイラーは、悪であると叫びながらも愛し抱き締めてくれるのです。

卑俗な悪役として描かれながら、凡百の映画とは一線を画す、愛ある最期を描いたウィリアムワイラーに、わたしはただただ感謝したい気持ちになりました。

バックを愛してくれてありがとう、と。