dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

三連単:一発目

いやはや、困った。

ただでさえ一日に2本以上映画を観るのはきついのに(劇場であろうとそうでなかろうと)、それがどれもこれも面白いと感想として吐き出すのが面倒だったりする。

小津とマイク・ミルズとか、結構カロリー必要なんですが、それに加えて「トッツィー」なんていうダークホースまで連続で観てしまったもんだから、思考回路はショート寸前今すぐ泣きたいよー。

 

一本目は「トッツィー

セクシャリティを取り扱った映画としてはかなりの出来栄えではなかろうか。どれとは言いませんが変にセクシャリティを意識しすぎて作品として失敗した映画を過去に取り上げたことがありましたが、その点でこの映画はコメディ映画というベースをちゃんと保ったまま、しかし男女の差というものを相対化して描くことに成功していると思う。

というか、そういう社会問題的なものを抜きにしても普通にコメディとして面白い。

 

 監督はオスカー賞経験もあるシドニー・ポラック。よく考えたらこの人の映画はこれが初めてなんですが、この作品に限ればかなり好感触です。主役のマイケル・ドーシーとドロシー・マイケルズを演じるのはダスティン・ホフマン。あえて役名をわけましたが、その理由は後述するとして・・・ハーヴェイの余波で過去のセクハラが暴かれてしまい絶賛・好感度低下中(つっても本当にどうしようもないセクハラなので私の中では逆におっさんおっさんしていて微笑ましい)の彼ですが、相変わらず演技は良いです。

本作のヒロインには、この作品でアカデミー助演女優賞を獲得したジェシカ・ラング。自立した女性像を女装したおっさんに見出したり、女装したおっさんに感化されてお付き合いしてるお偉いさんと別れたり、女装したおっさんことマイケルに振り回されたり振り回したりと、社会と女性のあり方に悩む象徴的存在です。

 

売れない(演技力がないとは言ってない)役者のマイケルは、ひょんなことから人気ドラマシリーズのレギュラーの役を勝ち取るのですが、実はそれは女性の役であった・・・というとなんか偶発的に女性を演じることになったように見えますが、実際はもっと能動的であったりする。ひょんなこと、という表現がそもそも適切かどうかという問題もあるわけですが。仲間の女優がオーディションで無碍にされたことの役者魂に対する弔い合戦なので。

 

さて、似たような「ひょんなことから女装生活」映画としてはロビン・ウィリアムズ主演の「ミセス・ダウト」がありますが、あちらは男女を相対化するのではなく家族愛の再確認なのでかなり違う。ほかにも「ひょんなことから女装生活」ものといえば「プリティ・フェイス」なんていうラブコメ漫画もありますが、まああれは普通にラブコメだし股間さえ見られなければギリセーフといった感じでこれもちょっと趣が違う。

トッツィー」は男性を女装させることで男性の自我を保った男性がその身を持って女性と社会とを相対化させ、さらにーーこう書くと字面として大きすぎる気がするのですがーー性別を越えた一個人の人間としての尊厳がなんたるか、というということを意識的に描いた作品であるからです。

女装して誤魔化すという設定自体はエロ同人からラブコメまで古今東西でたくさん用いられてきた設定ですが、この設定自体をキャラクターの変化や状況と結びつけてこれほどまで巧みにストーリーテリングしているのはかなり珍しいのではないでしょうか。

性別を越えた人間の尊厳と書きましたが、要するに男性とか女性とかメトロとかゲイとかレズとかパンとか関係なく「そういうことされたら誰でも嫌です」ということを浮き彫りにしている、ということです。

で、それを説得力を持たせるのにこの設定がぴったりフィットしているというのが、この作品がほかの類似品とは異なるところではないでしょうか。

それが最初にわかるのは、マイケルがドロシーに扮して初めてエミリー(劇中ドラマ「病院物語」における病院理事の役名)を演じて撮影に挑むという場面。そもそも役を勝ち取った理由が勝気で挑戦的な屈しない女性であるという部分(マイケル・ドーシーのマイケルという男性性)にあったのですが、ノンケであるマイケルはブルースター医師役のジョン(ジョージ・ゲインズ)とのキスシーンでキスを拒否して台本にはない強い姿勢のアドリブを見せてしまう。もちろん、これはヘテロ・男性・マイケルゆえの過剰反応なのです。その反射的な反応の後付けとしてマイケルはキスを拒んだことを正当化するために自立した女性としてのドロシーという人格をでっちあげるわけですが、これが女性プロデューサーのリタに受けてエミリーという役はドロシーという偶発的な状況で必然的に生じた人格を付与されることになります。

で、同じ場面で看護婦役を演じていたジュリーも、リタと同じくドロシーに感銘を受け彼女(誤謬にあらず)と親交を深めようとし、ジュリーにお熱なマイケルもドロシーに扮して積極的に関わっていく。

同棲していた脚本家志望のジェフ(ビル・マーレイ)とのやりとりとか、教え子のサンディ(テリー・ガー)とセックスしてしまって関係がややこしくなったりとか、ジュリーの父親に惚れられてしまったりとか、ジョンにストーキングされてしまったあげくに家の前で歌われそうになったりとか、マイケルとドロシーの二重生活の中での紆余曲折を経て真実を打ち明けようとマイケルは決心します。

収録が間に合わず生放送で演技をすることになったマイケルとドロシーは、事此処に至ってエミリーと完全に同一化します。

マイケルはドロシー演じるエミリーという自立した女性病院理事が、実は男性であったという設定にして自らが男であることを生放送で暴露します。このシーンには重畳なものであると思っています。ドロシーという女性が男であること・エミリーという女性が男であることを同時に発露することによって、ドロシーという私生活の位相とエミリーという役柄上の位相が同時に重なり、しかもそこにはマイケルという男性が女性として生活してきた女性としての視線もあるということ。

うまく表現しづらいんですが、マイケルという男性性が/ドロシーという女性性が、ともかく抑圧されることへの乾坤一擲の反発を一度に示しているのがこのシーンなんじゃないかと思うのです。

そのあとはまあ、ラストに向かってある意味で一直線なので安心して見れるんですが、普通にウェルメイドな感じすらありますですよこれ。

まず笑える部分が多い。エージェントとのやりとりの「ゲイ」「レズ」のちがう、そうじゃないという噛み合わない会話とか、ジョンとジェフのくだりとか、ともかく笑える部分が随所にある。

個人的には「タクシー(高音)、タクシー(高音)、タクシー(重低音)!」が一番笑えた。

笑いだけじゃなくて、テーマに対する演出も優れていて、自立した女性を目指すジュリーに対して女々しく依存気味な女性を演じるサンディのキャラクターの対置もわかりやすいし。

あと伏線回収が地味に上手い。生放送とか。

そうそう、あやうく書きそびれるところだったんですが、マイケルとドロシーを分けたのは、作り手が両者を別々のキャラクターとして見ていたんじゃないか、と思ったからどす。 というのも、エンドクレジットを見れば確認できますがマイケル・ドーシーとドロシー・マイケルの役を「/」などで並列に表記せず、わざわざ別々にしてそれぞれにダスティン・ホフマンと振ってあったんですよね。まあ考えすぎかもしれませんが、描かれていることを考えると別人格として扱っている気はする。

 

そんなわけで思いがけに良作に出会ってご満悦だったのですが、 冒頭に書いたようにあと「秋刀魚の味」と「人生はビギナーズ」に関して書きたいことが残っているのと、トッツィーのあとで秋刀魚の味を見たことでいろいろと両者の女性の描き方の違いとかそういう点でも話をしたいのですが、気づけば普通に1記事分の文章量になっていたので、残り二つについては後ほど。