世間がスター・ウォーズで浮かれている中、BSでシコシコと過去の作品を観ているわたしは隠者ならぬ陰者である。
スター・ウォーズという世界的イベントにそこまでノリノリでないのは、それに代わるのがわたしにとってはトランスフォーマーであるからなのですが、まあそれはどうでもいいことで、「キャプテン・フィリップス」観ました。
実際の事件を題材にしたフィクションと言えば、今年はピーター・バーグの「バーニング・オーシャン」と「パトリオット・デイ」がありましたね。この「キャプテン・フィリップス」で主演を務めたトム・ハンクスがジェリー機長役を務めたイーストウッドの「ハドソン川の奇跡」があったりと、振り返ってみるとなにげに実録ものが豊富でしたね。イーストウッドは次の作品も実録ものみたいですが、どういう心境の変化なのだろうか・・・。
して「ソマリア沖2009年4月12日の事件 - Wikipedia」を題材にしたこの「キャプテン・フィリップス」を「ボーン」シリーズを手がけたポール・グリーングラスが監督したことを観たあとに知って納得。カメラがやたら揺れる揺れる。ピーター・バーグの二作でも臨場感を出すために揺らしていたりするので、「状況もの(なんてジャンルはありませんが)」においてそれが異端というわけではないのでしょうが(むしろイーストウッドが異端なのでは)、グリーングラスはちょっと酔ってしまうレベルでカメラを揺らすのでわかりやすい。「ジェイソン・ボーン」はあまりの気持ち悪さに瞼を閉じてましたからね、ええ。
ただ、そういうギミック以外の部分でも作家性と呼べるようなものはあるんじゃないかと思っている。といっても、これを除くと「ジェイソン・ボーン」くらいしかまともに彼の作品は見ていないのですが。
それでも、あらすじなんかを読んでいるとある程度どういうものを撮ろうとしているのかは読める。上で「状況もの」と書いたけれど、グリーングラスはまさに状況に翻弄される個人、その個人の主体の在り処を状況とかシステムといったものの中で描くことに固執しているように思える。そして、その主体としての自身に与えられた役割を全うしようとする主人公を描いているのではないか。
ボーンシリーズは言うまでもないことだけれど、それは「キャプテン・フィリップス」におけるフィリップスも同様だろう。
ある状況下(本作の場合は海賊に襲われるというケース)でキャプテンとしての役割をまっとうしようとするリチャード・フィリップスという個人の話であり、そしてまた合わせ鏡としてその海賊たるアブディワリ・ムセが対置させられている。
作劇は非常にスピーディかつ実話ベースということもあり、双方が双方を探り合い出し抜こうとしているために頭脳戦とまではかずとも、緊張感が常に保たれているため見ていて飽きることはない。
けれど、両者の駆け引きは海軍という大きな力の介入によって急激に収束の色を見せ始める。なんとなく原作デビルマンのラストを思い起こさせる物語展開ですた。
トム・ハンクスはさすがとしか言いようがなく、生還した直後の検査のシーンなどは本当に生還者なのではないかと思う迫真の演技で、それによってフィリップという人物の個人性が浮かび上がり説得力を持たせている。
ムセを演じるバーカッド・アブディもその頭骨の形だけでもう存在感を持って行ってくれるし、この二人のための映画といっても過言ではないと思う。
それは演技合戦だとかそういうことだけではなくて、描かれ方からしてこの二人がメインであるからです。
対置させられるということは、つまるところどこかで何かを共有しているということでもあるわけですが、ひとつには大きなシステム(今回の場合は海軍という力、ひいては経済とか、そこまで突き抜けることも不可能ではない気が)の中で役割をまっとうしようとし続けるところ。もっとも、それによって両者はあまりハッピーとは言えない結末を迎えるのですが、この部分を補強するためにアイリッシュというワードに関して考えられそう。フィリップスたちの船は彼を含めてアイリッシュが大半だろうし、それはつまり先祖が帝国主義時代のイギリスの植民地のアイルランド出身であろうと深読みができる。
もうちょっとしっかり書きたい気はするんですが、とりあえずこの辺で。