dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

フィラデルフィア物語と青い山脈

別に関連性があるというわけではなく、単に連続で見たからという理由で二つセットで1つの記事にしました。

 

一つ目の「フィラデルフィア物語」ですが、実際に観るまで作品名も監督についても全く知らないまっさらの状態でした。ていうか、基本的にそういうスタンスで見るのがほとんどなんですけど、これに限らず古い作品を見るというのは中々骨が折れるんですよね。理由はいろいろとあるんですが、やっぱり「慣れていない」というのが大きい気がする。言うまでもなく、それでも本当に面白い作品は集中して観れるんですけれども。

では、この「フィラデルフィア物語」はどうだったのか。

 

ロマンティックコメディとしては、中々面白いんじゃなかろうか。実際、向こうでは古典的名作として知られているっぽいし。自分はそこまで強烈な印象を抱いたわけではなかったけれど、やはりゴシップというのはいつの時代もあるのだなぁと痛感させられたり、その割に変にギクシャクしたりドロドロしたしりない(ブラックコメディではないので)からカラっと楽しめる。

本編開始早々、デクスター(ケーリー・グラント)とトレイシー(キャサリン・ヘプバーン)の夫婦喧嘩が始まって何事かと思ったら時間が飛んで新聞記事のアップという掴み。この夫婦喧嘩のところも中々強烈で、トレイシーがクラブ(?)を折ったりデクスターは彼女の顔掴んで押し倒したり「オイオイオイ」となったり、冒頭から驚かせてくれる。

しかも次のシーンではトレイシーが別の男との明後日の挙式について母親のマーガレット(マリー・ナッシュ)と妹のダイアナ(ヴァージニア・ウェイダー)と話していて、最近の作品にはない奇妙なテンポ感がある。

そこから先の話の展開も色々と面白いんですが、個人的にこの「フィラデルフィア物語」は意外に大人なことを語っているようにも思える。

この映画には多くの男性が登場し、彼らはトレイシーを軸にドタバタ動き回ることになるのですが、それぞれの彼女へのスタンスが彼女と最終的に結ばれるかどうか、ひいては女性ーーというか他者ーーとの繋がりというものに関わってくるのではないかと。

一人は醜な部分も知り、一人は理想を押しつけ理解には遠く、もう一人はそれ以前の問題。全身タイツのパペットマペットも仰っていましたとおり「憧れは理解から最も遠い感情」であるわけで。

いろいろあったけど、丸く収まってめでたしめでたし。

 

 

 

2つ目の「青い山脈」なんですが、ちょっといろいろな意味でびっくり。

原節子が主演ということで見たんですけど、この1949年の映画ですら言われていることが未だに放置されている日本社会、というか世界の在り方に少し絶望してくる。

ここ最近、大林宣彦のドキュメント番組とか彼の話を少し耳にすることがあったりしたんだけれど、そういうのと照らし合わせてこの映画を見るとそれだけで少しウルッとくるものがある。

戦後まもないこの映画も、小津の映画も、そして大林宣彦の映画も、その全ては「戦争」というものが根底にある。この映画の、小津の映画の、一体どこに戦争があるというのだろうか。多分、この時代の映画には直接的に描かれずともただ劇中で「戦争」を匂わせる何か(セリフだったりポスターだったり服装だったり、カタチは問わない)が現出するだけで観客はわかったのだろう。なぜなら、当時の観客も戦争を体験した人々であったから。そして、戦争という道を突き進ませた広義の意味での「大人」や彼らが作り出した制度・社会というものへの怒りがあったのだろう。上野に集まった戦争孤児たちの、戦争で死んでいった青年たちの理想としてこの映画はあるのだろう。

監督の今井正は「戦時中抑圧されていた若い男女が一緒に町を歩く、それを描くだけでも意味がある」と言ったらしい。

この映画で描かれる愛校心とは、言うまでもなく愛国心というやつだ。ただ女の子が青年と歩いているだけで、同じクラスの女の子から非難される。しかも、愛校心の名のもとに。

そんなふざけたことを唾棄すべき悪習と、原節子は学校と相対する。

原節子の掲げる革命に賛同する者たちと、学校側の連中の酒の席の話の内容の雲泥の差など、立ち位置としてこの映画は反体制であることは疑いようはない。けれど、反体制というにはあまりにまっとうなことをただ述べているだけにも思える。それほどに、この既存の風習・制度というやつはおかしいのでせう。

本作だけだとあまりに救いのないバッドエンドなのですが、どうも「續青い山脈」というのがあるらしいので、こっちを見ないことにはなんとも言えませんです。