という経験が多々ある。
「遠すぎた橋」を観て「この映画ってかなりサンプリングされてんじゃないの」と思わず笑ってしまった。
パッと見ただけでわかったのはエヴァが丸々同じアングルでビークルを並べてたりとか、ほかにも明らかにこれ引用元だろうと思うようなシーンがあったり。まあ、「遠すぎた橋」がオリジナルなのかさらにそのオリジナルがあるのかまではわかりませんが。
ほかにも既視感があったのは「プライベート・ライアン」の市街戦だったり、あるいは舞台は違えどmgs4やpwなんかでも似たような感じだったり、市民の協力を得るという部分では「ハイドリヒを撃て」なんかにも通じる部分があると思う。
まあ同じ戦争を舞台にしていればそりゃかぶる部分はあるんでしょうが。
で、こうやって最近(といっても20~30年だけど)の戦争映画を見てみると、どうも戦争というものに対して個人というものの比重が大きくなっているような気がする。
思えば、9.11以降の戦争の在り方もかなり変わってきている。大国同士のパワーゲームはもはや現代ではほとんどありえない。多分、現象としての戦争はもはや現役世代にとって現実的じゃないのだろうと思う。
むしろ、争いは思想に基づいた個人個人の恒久的で散発的なもの=テロといったものへと変貌を遂げているのではないか。こちらのほうがタチが悪いといえばタチが悪い。
そんな中で、もはや映画監督たちは戦争における個人というものを無視できなくなっているのではなかろうか。戦争というものを再定義、とまではいかずとも捉え直してみるという趨勢があるのではないか。
「ハクソーリッジ」にしたって「この世界の片隅に」にしたって前述した映画にしたってそうだ。ただ、スピルバーグとかイーストウッドはなんというか、このリリカルに押し込めきれない奇妙な感じがあるんだけれど。