dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

試写の会

というわけで豊洲に試写会に行ってきました。

日本では宮崎吾朗が声優監修にあたった「西遊記 ヒーローイズバック」ですが、まあ試写会でもなければ見に行かない映画ではありましたので、良かったといえば良かったのだろうか。

 

えー本編の感想の前にせっかくなので本編が始まる前のゲスト登壇について触れておきますか。「クボ」でもありましたが、今回の「西遊記~」の登壇ゲストは本作の主役であるリュウアの声優を務めた羽村仁成くんと馬鹿よあなたはの三人でした。わたくしとしてはこの三人よりも司会進行を勤めていた中国人の女性(名前忘れた)のカタコト日本語紹介とかが一番面白・可愛い感じでしたが。

日本のドラマとか最近はとんと見なくなっていたので羽村くんのことは全く知らず、今回初めて知ったわけですが、あまり人前で話すのは得意ではなさそうで年相応の可愛げがありました。芦田プロや心くんにはないものですが、彼らがどれだけ立ち振る舞いのしっかりした子どもだったのかということを改めて思い知った気がします。それでもしっかりと声は張ろうとしていて、なんというか父性な目で見ていましたです。馬鹿よあなたはの二人に関しては、まあこの二人が採用された理由はまったく不明だったのですが、うまく羽村くんをサポートしつつ捌いていました。全体的に滑ってはいましたが、あれは客層の問題もありそうですな(そもそも映画見に来てるのであってお笑いを見に来ている層とは一致しないでしょうから)。新ネタ(といっても既存フォーマットの台詞コンバートっぽい感じでしたが)も披露してくれていましたが、やや滑りといったところでした。やっぱりテレビの編集って偉大なのだなぁと、どうでもいいことを思った次第です。

 

さて、本編はどうだったのか。

なんとも言い難い、というのが正直なところ。

まずストーリーの部分が奇妙。製作陣は孫悟空の成長譚として描こうとしているのはプロダクションノートや部分部分の演出からも明らかなのですが、それに反して物語の進行のさせかたは感情をリニアに繋いではいないように思える。場面場面を取り出せば確かにエモーショナルではあるのですが、それが全体としての流れにはなっておらず、そこが奇妙に感じるというのはある。途中の日本版挿入歌が流れるシーンなんかが顕著なのですが、シーンの繋ぎが「え、そこで暗転すんの?」「え、そこを省くの?」「お前ずっといなかったのになんでここにいるんだよ?」という部分があって、感情がおいてけぼりを喰らう。まあ、初代TFもそんな感じなので慣れっこではありますが。

だから、理路整然としたものを求めるのであれば、これはダメだと思う。「これがこうなって、これがこうなるから、これがこうなる」というようなものではないから。

大暮維人のように描きたい場面が先にあって、それに付随するように物語を肉付けしていっているのではないかなーと。

ただこれに関しては、もしかすると西遊記の原作が本国ではもっと深く広く知られているがために端折っているという可能性も無きにしも非ず。というのも、プロダクションノートで平然と登場する「九世の輪廻転生」という言葉は、おそらく大半の日本人にはなじみのないものだろうから。まあワンカット入れればそれで説明になるのではないかと思わなくもないところもあったりするのだけれど、人の死を直接的に描かないようにしていた制約かなぁ。

あと世界観に疑問符が。斉天大聖が封印されてから500年後が舞台なわけですが、お風呂場にあるようなアヒルのおもちゃみたいなものが転がっていたりとか、まあギャグ演出としては理解できますが、いいのかそれは。別にキッチリカッチリした世界観を求めているわけではないので、いいんですけど。

 

そんなわけで、精緻なストーリーを期待して観に行くと文句たれパンダさんになります。そもそも、西遊記のタイトルを関していながら三蔵法師沙悟浄は出てきませんからね。もっとも、「西遊記」は邦題だけで原題は「MONKEY KING: HERO IS BACK」なので西遊記ではないのでセーフといえばセーフとも言えるんでしょうが。

 

だがしかし、つまらないのかと言われるとそんなことはない。

基本的にキャラクターは動きっぱなし・テンポが速い・アクションは良いので観ていて飽きるということはないし。肝心の悟空の成長云々というエモーション重視の場面はすごいクリシェ的で退屈ではあったりギャグシークエンスが長かったりという部分はあったりするのですが、それでも上映時間が88分と短いこともあってそこまで苦になりません。

敵キャラ(おそらくは「グレート・ウォール」にたくさん出てきたアレ)の中にメスがいて、それが中盤でベティ・ブープのような人間に化けるのですがボンキュッボンな上に無駄に乳が揺れているなどのHENTAI趣味が現れていたり猪八戒への鼻フックを鼻の内側から描いていたり(「シンプソンズ」でもバーガーの咀嚼を口の内部から描いてましたが、あんな感じ)と、変に凝っている部分も散見できて面白かったです。

シンプソンズっぽいといえば、物語の構造も似ているなーと思っています。というのも、シンプソンズは本筋とは全く関係ないギャグを畳み掛けることが多い(それが後の展開に繋がることはありますが、ほとんど単発で処理)のですが、このギャグを「象徴的なシーン」に置き換えれば「西遊記~」になるからです。

 

で、既述のとおりやっぱりアクションシーンはいいと思います。冒頭のはちょっとわかりづらいというか、絵コンテもうちょっと上手い人にやらせたほうがいいんじゃないかと思ったりはしましたが、全体的に旧来のセルアニメジャパニメーションを3DCGに再解釈したらこんな感じだろう(効果線がモロに出てたり)という気がします。それはディズニーピクサーを筆頭とする欧米のCGアニメのソレとは違うものであるので、同じ3DCGアニメでも結構な差異はありますし「中国だし劣化コピーじゃね」と侮ってかかるのはちょっと違うかなと。「モンスターホテル」なんかは割と旧来のアニメ的な描写はありましたけど、あれはトゥーンアニメっぽさだし。

 ただまあ、そのアクションシーンというのもぶっちゃけ、特定分野のーー主にジャパニメーション(特にドラゴンボールを筆頭にジャンプ漫画的なもの)とゲーム(ラストの崖のところとかは「ワンダと巨像」っぽいなーとか「モンハン」ぽいなーとか)ーー引用と孫引きで構成されている、よく言えばリスペクト(?)されたパロディと言えるのでしょうが、おそらくは意識的にパロディにしているというわけではないのでしょう。だって画面からは大真面目にやってることが伝わって来るんだもの。これをまあ「東洋美学」と言えばプロダクションノートの下記のとおりになるわけですな。

「大鬧天宮」の部分では、アクションをより誇張的で極端でメリハリのあるものにするため、大げさな遠近法を利用し、二次元漫画のように仕立て上げている。悟空が桃を投げるシーンなどは特にそうである。カメラ前に振りかぶってきた手は、突然巨大になったかのような感覚をもたらす。広角的に見える手は巨大すぎて3次元遠近法には適合しないが、人々のイメージ映像には合致しており、アクションをよりかっこよくヒーローらしく表現することができ、「伝説の孫悟空」という誇張的なストーリーを表すのにも向いている。このようなショットはディズニーやハリウッドなど西洋のアニメでは殆ど用いられておらず、そこからは東洋美学と欧米美学の差異も見えてくる。特にアクション映画は顕著であり、ツイ・ハークジョン・ウーなど実写映画の監督たちも実際の撮影において「東洋の暴力的美学」を運用している。「東洋暴力的美学」とは、つまり「侠」のことであり、それは往々にして誇張的且つ超常的である。アクションがより力強く、天に昇ったかと思えば地に潜り、近くにいたかと思えば遠くに行っているようなイメージで、その力強さをうまく用いることによって、視覚的なインパクトが出せる。特に悟空の場合、このような意匠が彼をより自由で奔放にし、通常のショットでは困難なアツい戦いを実現させている。ショットで動的要素を導入したほか、武術のモーションについても、ブルース・リー作品、ユエン・ウーピン作品、映画『マトリックス』などを参考に、悟空のイメージによりふわさしい個性的な型を作りあげた。例えば、五行山の洞穴でのアクションシーンにおいて、鎖で手を封じられた悟空のアクションをより力強く精彩に表現するために、我々はある詩的な振り付けを設計した。その動きは「トーマス旋回」を変形させたもので、動力学に適合できない部分もあるが、とても綺麗で格好よく、悟空の「サル」らしい個性を引き出している。

確かにモロマトリックスな部分があって「今時マトリックスかよ!」とか「そもそもマトリックスのアクションがジャパニメーション的な表現をライブアクヨンに置換した(それゆえにエポックメイキングだった)ものでは?」とか思ったわけですが、セルアニメ⇒実写ときてCGアニメに回帰するというのは先祖返りのようで面白くもある。如意棒使って斬撃飛ばしたときはちょっと笑いましたが、この斬撃飛ばしからの風景をえぐるという描写もジャンプ的(BLEACHの最後の月牙・ナルトのスサノオ(こっちはアニメのほうではなくゲームの方に似てるかな))だったり、あまりにてらいなくやるもんなんで驚きました。

 

なんだかおかしな映画ですが、CGアニメの別の方向性(といってもゲームに指向性が似ている気もします)を見れますしアクションは結構良いので、年始で暇な人は見てもいいかも。