dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

始まりの始まり

センター試験の日に「キッズリターン」を放送するというのも中々に悪魔的なことをするなぁBS11は。

しかしこんなにも良い映画だったか、この映画。遠い昔、遥か彼方の記憶の隅にこの映画の記憶はあったのですが、改めて見るとなんだかすごい映画だなぁと。単純に「良い映画」と言うと語弊がある気がするのは、多分そのまんま単純に「良い映画」ではないからだろう、と。

ここ数日は体調がずっとすぐれなくて、昨日ようやく持ち直したと思ったら今日また体が怠いという体たらくだったので、昨日リアタイで観れたのは良かったかもしれない。 

 

大方の人が青春映画の傑作としてこの映画を挙げている。まあ、それはわかる。しかし、これはなんというかある種の軛に落とし込んでいるように思えてしまう。それは北野映画に独特の間(人物がいなくなったあとも1~2秒ほどカットを維持し続けたり)や青春を語るにはあまりに青い画面にもあるわけですが、そういう手法としてではなく、もっと根本の部分に青春映画とは別の何かがあるように思えてならない。

まず、冒頭の舞台袖から謎の(この時点では)漫才コンビの漫才をカットを割らずにひたすら撮り続けたかと思えば、まったく別のシーンに移る。この時点ではこの漫才コンビが一体どこのどいつでどういう意図で配置されているのかわからない。それでも否応なく映画は進んでいき、マサルとシンジの「日常」をカメラが収め始める。

イタズラ(とするにはあまりに過剰なものも含めて)やカツアゲ、タバコに酒とPTAが卒倒しそうな素行を、ヤンキー映画・漫画のようにカッコよく描かない。さりとて、特段批判的に描くわけでもない。ただ「この二人はこういうやつだから」という以外の意味はない。マサルとシンジ以外の人物たちもそんな感じで描かれているように見えるのですが、それが青春映画の持つ叙情性を排他してる要因でもあるのではないかと。

笑える部分とかも一々指摘してもいいのですが、それよりはもっと構造的な楽しみ方をするべき映画なのではないかと思います。いや、笑いの部分もカットの間とかくだらなすぎる人形とかカツアゲ(カツアゲされるのがクドカンというのも今振り返ると面白い)とかジャブとか橋田先生が車のタイヤ蹴ったりとか一々笑えるわけですが。切られた左腕をシンジの背中によっかかることで暗に示していたりとか、そういう細かくもあざとくな演出は見事ですし。まあそういうのは観て感じるのが一番だとは思うので。

ほとんどの人物が二人組なのとか、あれはやっぱり漫才コンビとしてのビートたけしを投影しているのかなーと思ったり。実際に冴えない二人(いじめられてた方)が漫才やっていたり、不良トリオをわざわざ二人に分割して残った一人を漫才コンビに憧憬させたり、ヒロシくんにまで相方をつけさせたりするわけで。なんにせよ二人組ということに意識的であることは間違いないでせう。

たとえば、人物をペアにして配置することで同じ環境にいる人間に異なる二面性を持たせている。ボクシングジムの会長とシゲさんのアメとムチ(ってほどアメはないけど)だったり、ハヤシとイーグルというダメな先達と良か「った」先達とか、不良であるマサルとシンジの別々の道に行ってまた同じ地点に戻ってくるのとか。

あとは広義での「親」を見つける話でもありますね、そういえば。

ただ、それをことさら露骨に描くのではなく「だって、ヒトってそういうもんだろ」という姿勢があまり他の監督には見られないクールさなのかな、と。ニヒルなのともまた違って、少なくともたけしの映画には何らかの情みたいなものはある、と思う。そうじゃなきゃそもそもこんな映画撮らないでしょうし。

愛のある傍観者、というスタンスというか。映画というフィクションとしての事実を本当にそのまま撮っているような無機質な距離感。だけど、眺めることはとても大好き。その大好きという部分が情感というか。シンジたちの物語の裏でひっそりと描かれる津田寛治が演じるカズオの末路なんかは、まさにそんな感じではないでしょうか。かといって、そういった不条理さだけではなく漫才コンビの二人のような素直さが引き起こすラッキーもこの世界にはあって、あるいはまた一度落ちても再起しようとする人間もいる。そういった「色々あったな・・・(byマイ伝stsk)」な人・世界の「色々」をこの映画の中で表現しようとしているのではないだろうか。

 

そうそう、音楽も印象的でしたね。 

タイトルが出てくるまでの久石譲のスピーディな音楽(全体的にこの作品における久石譲の音楽はローギアなハイテンションとでも言いたくなる)と流れていくコンクリの映像と相まって最高なのですが、宮崎駿作品における久石譲の仕事とも違っていて新鮮でしたが、エンドクレジットの最後までそれが続くので耳心地も良い。

あと森本レオ森本レオっぽさのない演技とか、ちょっとびっくりしました。どこにでもいそうな、普通に嫌な感じだけど決して悪人というわけではなくむしろ誰にでもある人に対して怠惰な部分のある人間というのを、森本レオがやるというのはイメージがなかったので。

 

 北野映画は全体的にドライですが、まあ火というのは乾いた空間でこそよく燃えるわけでして。