dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

デトロイト

劇場

で落涙したのは「この世界の片隅に」を観たとき以来だろうか。
 涙腺の脆い自分は映画を観ていても結構な頻度で目に涙をためることはあるのですが(リベンジのオプティマスが爆発したときでさえジワっとくる)、涙が頬伝うほどいっぱいになることはそんなになかったりする。記憶している限りでは前述の「この世界~」と「大いなる西部」と、そして今回の「デトロイト」くらいだろうか。
それぞれの涙の理由は異なるのだけれど、この「デトロイト」における涙の理由は割と明白で、理不尽さと悲しさと何よりも恐怖だった。

はっきり言って、この映画はどんなホラー映画よりも怖い。
それは何かの隠喩や超常的な何かや、避けようのない真理としての理解不能な死といった類のものではなく、限りなく卑近でどうしようもないほど万人の内側に潜み、あるいはそれが自分に向けられるかもしれない恐怖にほかならないからだろう。
その点で、この映画における恐怖体験は戦争映画における恐怖体験に近いのかもしれない。尋問と称した暴力に隠蔽。今も世界中のそこかしこにある光景。

ストーリーそれ自体は事実を元にしているということもあって、入り組んだ構造があるわけではないのですが、あらかじめ先に知っておいたほうが書きやすいのでパンフレットから抜粋。

 

 1967年7月23日、アメリカ中西部の大都市デトロイトで激しい暴動が勃発した。事の発端は、黒人のベトナム帰還兵を祝うパーティーが催されていた無許可営業の酒場に警察が押し入ったこと。横暴な取締に反発した地元住民との間で小競り合いが生じ、一部の市民が暴徒化したのだ。その騒乱は大規模な略奪や放火へと発展し、市の警察だけでは事態を収集できなくなったミシガン州当局は州警察と軍隊を投入。無数の兵sと洗車が行き交うデトロイトの街は、まさに戦場と化していた。

 暴動発生から3日目。音楽業界での成功を夢見る地元出身の黒人ボーカル・グループ、ザ・ドラマテイックスのメンバーは、フォックス劇場でのステージを控えて期待に胸を膨らませていた。しかし出演の直前に警察からの通達でコンサートは中止され、晴れ舞台を失ったリード・シンガーのラリー(アルジー・スミス)は、メンバーの弟で友人のフレッド(ジェイコブ・ラティモア)を伴い、バージニア・パークのそばにあるアルジェ・モーテルにチェックインする。周辺地域の平穏が比較的保たれていたそのモーテルは、大勢の若い黒人客で賑わっていた。ラリーはプールサイドで見かけたふたり組の白人の女の子ジュリー(ハンナ・マリー)、カレン(ケイトリン・デヴァー)と親しくなる。
 そして夜が深まった頃、モーテルはまたたく間に異様な緊張に包まれた。ジュリーらの遊び仲間である黒人青年カール(ジェイソン・ミッチェル)が窓際でオモチャの銃を奈良市、そのたわいない悪ふざけを゛狙撃者による発砲゛と誤認した警察と軍がモーテルを包囲したのだ。慌てて階段を駆け下りたカールは、真っ先にモーテル内に突入してきたデトロイト市市警の白人警官クラウス(ウィル・ポーター)に背後から撃たれて死亡。それは明らかに警察の規則に背く行為だったが、クラウスはカールが倒れた現場にこっそりナイフを置いて正当防衛を偽装した。
 モーテルに居合わせた若者たちは次々と拘束され、1階の廊下に整列させられた。ラリーとフレッド、ジュリーと可憐、ベトナム帰りの復員兵グリーン(アンソニー・マッキー)、カールの仲間であるリー(ペイトン・アレックス・スミス)、オーブリー(ネイサン・デイヴィス・ジュニア)、マイケル(マルコム・デヴィッド・ケリー)の全8人である。「お前らは犯罪の容疑者だ。銃はどこにあるのか正直に言え。撃ったのは誰だ?」。そう威圧的に言い放ったクラウスは、同僚のフリン(ベン・オトゥール)、デメンズ(ジャック・レイナー)とともに゛狙撃犯゛を割り出すための強制的な尋問を開始する。その場には、騒動を聞きつけて近所の食料品店からやってきた民間警備員のディスミュークス(ジョン・ボイエガ)の姿もあった。
 市警と州兵の大々的な捜索にもかかわらず、モーテルのどの部屋からも銃は見つからない。苛立ったクラウスは、脅えきった8人に執拗な暴力を加え始める。黒人であるディスミュークスは、表向きは操作に協力しながら穏便に事を済ませようとするが、極度の興奮状態にあるクラウスらを抑えることができない。人権問題に抵触しかねない現場への関与を恐れた州警察は、見て見ぬふりをしてモーテルから立ち去っていった。
 もはや誰にも暴走を止められないクラウスは、いっそう過激な尋問をエスカレートさせていった。廊下からひとりを別室に連れ出し、その鼻先で拳銃を発砲したクラウスは、泣き叫ぶ゛容疑者゛たちに「呆気なく死んだぞ。嘘をつくとああなるんだ」と脅し文句を告げる。それは8人を順番に殺すとほのめかし、彼らを完全に服従させようとする゛死のゲーム゛だった。
 やがてその常軌を逸した危険なゲームは、思いがけない手違いによって新たな惨劇を引き起こしてしまう。デトロイトを大混乱に陥れた暴動とは何の関係もなく、つかの間の楽しみと安らぎを求めてアルジェ・モーテルに偶然集った若者たちは、さらなるおぞましい悪夢に引きずり込まれていくのだった……。

以上がストーリー。

この映画は、それぞれの人物を追っていくことでそこにストーリーが生じるタイプの映画なので、すべからくそれぞれの人物について語っていくことになります。

この映画、このフィクションの元となった人物として欠かすことができない、おそらく観た誰もが真っ先に思いを馳せる(怒りの矛先を向ける)であろう白人警官クラウス。彼を演じたウィル・ポールターのインタビューによると、クラウスは単一の人物ではなく監督らがモデルとなる3人を複合させたキャラクターらしいのですが、こいつのクズっぷりは精神衛生に悪影響を及ぼすレベルで観ている間ひたすら不快感を催します。

いともたやすく行われるえげつない行為、とはまさにこいつのためにある言葉でしょう。

ちょおっと今回の役どころは本気で許せないというか。それがウィルの演技力であるということはわかっているのだけれど、映画を見ている間中は終始彼に対する怒り・・・ほとんど殺意に近い感情が激っていた。劇場を後にした今ならばウィル・ポールターの演技を賞賛できるのだけれど、それでも彼を嫌いになりそうなくらいにクラウスというキャラクターは度し難い。大体、あの眉毛はなんなんだ。キートンバットマンでさえあんなに露骨な眉毛はしていなかったぞ。
アルジュ・モーテルでの一連のことは言うに及ばず、法廷での首を横に二回かぶく仕草や、彼の劇中最後の表情が不敵な笑みだったこととか、そのくせ上司に詰問されると震えた手で煙草を蒸すクソみたいな小心者(というか小物)なところなどは、思い出すだけで腸が煮えくり返ってくる。

ちなみに、上述のストーリーの部分では省かれてますが、アルジュ・モーテルの事件の前に彼が暴動に乗じて窃盗を働き逃走する黒人を背後から射殺するシーンがあります。これには色々な作劇的な作用があるのですが(前もってクラウスの悪辣さを見せておくことでアルジュ・モーテルに彼が駆けつけたことそのものが悪い予感を観客に与えるなど)、根っからの差別主義者であることが提示されていて、後にアルジュ・モーテルの一件での後始末のシーンと繋がっていきます。
躊躇なく背後から人を撃ったことに、まずわたしは恐怖しました。なぜなら、本当にごく自然な振る舞いであるかのように、まるで日常の一部分かのように監督がこの撃つシーンを演出しているからです。

日本にいると、銃の危険にさらされることはありませんから、ここはもしかすると気づきにく場面かもしれません。しかし、極めて私事ながら、以前、夢の中で銃を突きつけられことがあったわたしは、そのときの恐怖が夢から覚めたあとも忘れ難かったことを知っているわたしは、このシーンに戦慄を覚えました。
職務の一環としての射殺という行為に。それを躊躇なく行えるほど日常化させたクラウスの人間性に。

彼だけではなく、モーテルの事件に加担した人物はほかに三人います。陸軍州兵のロバーツ(オースティン・エベール)、クラウスの同僚であるフリンとおそらくクラウスとフリンよりは立場が低いデメンズ。彼らもクラウスほど顕著ではないにせよ、それぞれにその悪逆非道さや人間としての弱さが描かれています。
フリンに関しては、後半に直接的な言及はされないまでも家庭を持っていることがさりげない演出で示されるのですが、それゆえに「なぜあんなことをしたのか」という彼に対する疑問や悲しさが募ります。妻を持つということは個人としてその人を見るという視点を持っていることのはずなのに、どうしてそれをたかが肌の色の違いだけで捨て去ってしまえるのかと。
集団心理が働いていたとはいえ、積極的に死のゲームに参加したロバーツも、見て見ぬふりをしたほかの州兵もクソ野郎どもであることに違いはありませんが、唯一デメンズに関しては同情の余地があるのではないかとも言えます。というのも、彼は白人ではあってもアイルランド系の移民であり英国人の差別にさらされてきた立場でもあるからです。もっとも、それゆえに、という部分も強いのだけれど。

この部分に関連して、少し枝葉末節ですが、パンフレットの越智道雄氏のコラムの記述に「クラウスに使嗾される市警官にはフリン(ベン・オトゥール)というアイルランド系がいるように~~」とありますが、おそらくこれは劇中の描写や役者の背景を考えるとフリンではなくデメンズのことだと思われます。デメンズを演じるジャック・レイナーは母親がアイルランド出身でアイルランドで育ったという記述がパンフにあるので。
 

そういったわけで権力側の白人は揃いも揃って卑怯千万で下衆屑芥な奸佞邪智しかないないのですが、モーテルの客9人についてはもはやひたすら同情するしかありません。といっても、40分は感情移入していたため同情ではなく彼らの立場から体験しているため恐怖しかないのですが。
この事件のきっかけを作り、最初にクラウスによって殺されるカールにしても、あそこまで無慈悲に殺される筋合いはまったくない(殺したあとにすごく当然のように持っていたナイフを置いて偽装するクラウスに殺意増し増し)し、グリーンは地獄のようなベトナムから帰還した先が大して変わらない場所であることも理不尽だし、ジュリーもカレンもフリンの持つ白人のプライド(笑)の押し付けによる恐怖を味わう必要もなかった。リーもマイケルも、生き残ったのが不幸中の幸いであるだけで、デメンズの勘違いで殺されたオーブリーのようになっていたかもしれない。
理不尽に対する正義感を貫いたフレッドがクラウスに殺される筋合いなんて、これっぽちもない。モーテルでの事件で夢をあきらめざるを得なくなったラリーが、教会に居場所を見出すまでのあの寒々しい生活を送ることだってなかった。

特に、ラリーとフレッドに関しては前半で描かれた夢への一歩手前の描写、独唱のシーンなども相まって、その末路がたまらなくやるせない。

ディスミュークスもそうだ。彼はこの事件に直接関わった人物の中でもっとも理知的でどうにか事態を収拾しようと孤軍奮闘し被害を減らそうと努めたにもかかわらず、冤罪の嫌疑をかけられる。彼が取調べを受ける際の部屋は薄汚れた白いタイルで占められているのに、そのタイルの一部分には赤茶けた「何か」の跡が見られる。
役者の演技はともかく申し分なく、彼らの手の震えや泳ぐ視線、一挙一動が我々を否応なくモーテルや取調室の中へと引き込む。
 

ジェイソン・ボーン」では見れたものじゃなかったバリー・アクロイド撮影監督のカメラのブレも、ビグローの統制もあったのか本作では非常に抑制が効いていつつも緊張感を出すのに相当な貢献をしている。

途中途中で実際の映像や写真をインサートする手法は「パトリオット・デイ」にもありましたが、この作品でも見られます。その古ぼけた画質の映像や、特に静止画である画像(モーテルから死体が運び出される瞬間を撮影した社員など)は、効果音と相まって何か恐ろしい瞬間を見せつけられたような感覚に陥ってドキッとしました。

 

以前に「ゲットアウト」についての感想で偉そうに「黒人と白人の架橋云々」などと言ったが、舌の根も乾かないうちに(数ヶ月経ってるしオッケーでしょうか)この意見を一部撤回しようと思う。この映画を観たあとでは、フィクションとして過剰に増幅された映画的な力によって得られた疑似体験ーーそれが微々たる共感であったとはいえモーテル内での経験をした今では、いかに自分の書いた指摘が部外者のそれであったかを痛感した。

しかし、だからこそ、やはり、という思いもある。なぜなら、彼はこの映画に登場する黒人ほどの仕打ちを受けてはいないだろうから。黒人だから、といって同一視することは、それこそデトロイト州警察と変わらない。

 
ではなぜ、白人警官たちはあそこまで鬼気迫る態度でモーテルにいただけの彼らを追い込んだのか。それに関してはパンフレットの越智道雄の寄稿を参考にしてもらうのが一番手っ取り早いのですが、まあそうでなくとも彼らの演技からも浮かび上がるものを読み取るだけでも理解は容易い。
つまり、黒人に対する恐怖感情だ。
装甲車(戦車だったかな)に乗った兵士が、ただ騒々しさに窓から外を覗いただけの小さな黒人の女の子を狙撃手と見なして射撃をするシーンが、それを象徴している。越智氏はトランプ政権の成立と絡めてシージ・メンタリティから生じる被害妄想によるとしていたけれど、これだけでは説明不充分に思える(ウィル・ポールターの童顔をトランプを選んだ支持層の幼稚さを浮かび上がらせた、というのは面白い評ですが)。彼らの恐怖は、その根幹にむしろ黒人差別に自覚的だからこそ「叛逆」「反乱」に対するものだったのだと。被害者意識ではなく、被害を受けることになるのでは、という根拠のある予感に怯えていたのではないかと私は思います。
もっとも、同じくパンフレットへの寄稿として藤永康政氏のコラムのタイトルが「暴動か」、それとも「叛乱」か。とあるようにセットにして読めば得心のいく構造になってはいますが、藤永氏の方も白人からの視点が欠如しているように思えるので、わたしなりの考えとして上述したわけですが。
それだけでなく、白人同士の間でさえイデオロギーによる上下関係が垣間見えるシーンがある。それは移民であるアイルランド系のフリンが、クラウスに逆らえず、また暗黙の了解を知らずに撃ち殺してしまうシーンからもわかるでしょう。


もしも冒頭の一件で裏口から誘導させることができていたら(これはこれで問題があるのだけれど)、もしもカールがトイガンを発砲するような馬鹿ではなかったら、そうやって個々の要素を抜き出して「もしも・・・」と考えることもできる。けれど、そうではない。黒人と白人の間の長い歴史の中で蓄積された歪みが表出しただけで、もしも・・・なんて考えたところで別のところで歪みが噴出していただけに過ぎない。
カールがあのような行動に出たのは、彼が馬鹿だったからだけではなく彼らを虐げた社会にもある。
だからこそ、考え続けなければならない。ヒューリスティックは生物としてのヒトにとって重要な機能ではありますが、アルゴリスティックに考えることをやめてしまっては、もはや人間である必要はないのですから。


少し話はそれるのですが、渡辺直美がボーグでアジア人のステレオタイプを壊したということで取り上げられていた。
けれど、そもそもの話、一人一人が別の一人一人に対して各々がそれぞれ「異なる個人」であるという当たり前のことに気づいてさえいれば、こんな回りくどい讃え方すらする必要はないということを忘れていないだろうか。
もちろん、ステレオタイプに当てはめることで表現の幅を広める側面もある。サウスパークに見られるように極度に戯画化することで笑いに昇華することもあれば、様式美と言われるものも一種のステレオタイプであり、そういった型があるからこそ型破りが映えるのだから。

しかし、それを人種というイデオロギーに当てはめた瞬間、それはレイシズムを呼び覚ます。

 

 そしてまた、この映画の存在についても考えなければならない。キャスリン・ビグローがこの映画を撮った背景は、昨今のアメリカの事情を考えれば想像に難くない。
ただし、「ゲット・アウト」に続いてこの「過去の罪を振り返る」ことで間接的に(いや直接的か)白人を糾弾するということは、罪なき白人に対するイデオロギーの否定を喚起しかねないからだ。実際、黒人や有色人種への配慮という名目で白人が枷を負っているというのも、ないわけではない。大学進学において、白人と黒人で成績が同じ場合、黒人が優遇されるという実態もある。そんな白人からしてみれば「どうして何もしてないのに」と思うはず。
「いや、そんなの逆ギレじゃん」という声もあるでしょう。
けれどそれは、人種というくくりで見ていることの証左だと、個人的には思う。これは何もアメリカに限った話ではなく、この日本にだって朝鮮人に対する様々な差別の問題はある。
たとえば、慰安婦の問題で不快感を覚える日本人はいるだろう。自分の知らないところで自分の関与ができない不可逆な件に、個人としてではなく「日本人」として批判されているからだと自分は思うのだけれど。
要するに、個人を人種という軛に落とし込み、それによって生じるレイシズムの悪辣さを描いたこの映画が、まさに白人という人種の軛に個人を貶める可能性を同時にはらんでいるということ。
この意見に対するより大局的なカウンター意見として「ぼくらの」の田中が論ずる「私達は生まれながらにして、生命に対して業と責任を背負っている」という見方もある。それを突き詰めると「人間はみんな雑魚という点で平等」的というか、バーホーベン方面にシフトしていくのでここで考える人間存在とはまた違うレベルでの話になってしまうのでアレですが。

 
ともかく、この映画をその可能性に転化させないために、我々観客も考えなければならないのではないでしょうか。

この映画から何を持ち帰るかは観客一人一人によって異なるだろうけれど、間違いなく恐怖だけは持ち帰ることができるはず。