dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

2回目行ってきた

いろいろあって「デトロイト」の二回目を観に行ってきた。

2回目を観に行ってきて気づいたことがあったので。

1回目は感情を揺さぶられすぎて、感想をまとめるにあたって情緒の面にばかり気が行き過ぎてしまったのですが、2回目ということもあってある程度は冷静に観ることができました。なので感情の波に押されて上書きされていた細かい描写の部分についてちょっと触れたいと思う。まあそれでも泣きそうになった場面はいくつもあったんですが。

 

一応、前回の部分でもちょっと触れてはいたんですが、実際の映像を使うこと云々ということに関して、実はもうちょっと細かい部分で気づいたことがありんす。
一つは、当時の映像(+音声)から映像だけを今回の映画にあたって撮影されたものにカットを切り替えることによってフィクションとしての映像+当時のニュースの音声という音によって、当時とフィクション映像としての映画をリニアに繋ぐ役割を果たしていること。

音に関して言えば、銃声がかなり大きくというか実際に録音したような、なんというか後からSEを付け足したような感じではない実際に体験しているような音圧を感じたのですが、これは音響のポール・N・J・オットソンによる仕事なのか、ともかく臨場感が半端ない。あと、最初の無許可で酒を販売しているところでの護送車へ客を乗せるところでの黒人たちの歓声もとい大きくなっていく野次と市長(?)が冷静になるよう促す中で一向に止む気配のない喚声とかも、下手に調整されている感じがしなくて実際にその場で聞いているような感覚がする。
同じ編集の仕方ですが、モーテルから死体が運び出されていく当時の画像をインサートするときにオーブリーの父親が働いている鉄工場(?)の鈍い金属音に合わせて画像のカットが切り替わっていく演出など、編集のウィリアム・ゴールデンバーグの力もかなり映画に貢献している。

カメラワークだけ(役者の演技もプラスされ)でキャラクターの動揺や齟齬といったものを表現してしまうバリー・アクロイドの手腕も、実に見事。何度でも言いますが「ジェイソン・ボーン」はどうしてああなった。グリーン・グラスは観ていて何も思わなかったのだろうか。まあ「キャプテン・フィリップス」も良かったし、ちゃんと制御さえできれば彼はかなりの力を発揮するのでしょう。


また、対比構造も際立っていることに気づきました。
たとえば、最初の酒無許可販売の飲酒をしている黒人たちを逮捕する場面。ここでは黒人の刑事が前もって内通していた黒人の客の一人との合意のもとで個室に押し込み、暴力をふるっている振りをすることで、実際には暴力を行使することなく逮捕へと客たちを逮捕へと導いている。

それに対してのクラウスたちのアルジュ・モーテルでの暴力による解決(してないけど)が対置されていることは言うまでもない。

ほかにも、ジョン・ボイエガ演じるディスミュークスが取調べを受ける際とその直前に彼が警官ふたりに連れて行かれるシーン。工場で勤務しているディスミュークスの服装は色こそ薄緑色ではあるがツナギ姿はまるで囚人を想起させ、そんな彼を牢屋に導くがごとく警官二人が脇に立ってパトカーにまで誘導する。牢屋に導くがごとく、と比喩表現を使ったけれど、実際にこのあと彼は不当な面通し(容疑者に黒人しかいない)をジュリーにさせて唯一面識のあるディスミュークスを指ささせることで彼を牢屋に入れることになる。しかし、ここは一切の説明がなくごく自然になされることであるがために、ともすると観客は気づかないかもしれない。しかし、面通しはともかくとして、そのあとに続くクラウスの取り調べと裁判の際にディスミュークスとの違いが浮き彫りになる。ディスミュークスが取調べの後すぐに牢屋に入れられる(実際はもう少しプロセスを踏むのでしょうが)のに対して、クラウスは取り調べの途中で弁護士が現れ「強制された自白は無効だ」と彼を取調室から救出する。

ここに立ち現れるのは、黒人は弁護士をつけられないのに白人警官は弁護士が駆けつけるということ。また、これはパンフレットのコラムにも記述があるのですが、制服による力がディスミュークスの立場を大きく変動させていることが指摘されているとおり、警備員の制服を着た彼はアルジュ・モーテルで黒人が徹底的に暴力にさらされる中で唯一その矛先の対象にならなかったのに対し、モーテルよりもはるかに安全圏であったはずの勤務先の工場で彼は為すすべもなく白人警官に連れて行かれる(ここでの白人警官の態度も、制服を着ているときのディスミュークスへのそれとかなり対照的に描かれており、彼が「何か問題でも?」と訊ねただけにもかかわらず警官は「違うと思うが、二度と訊ねるな」といかつい目で彼を睨む)。

ここらへんの一連のジョン・ボイエガの演技は迫真過ぎてもらい泣きします、マジで。

そして、対比構造としてわたしが前回の感想を合わせてまっさきに気づくべきだったものがあったことにも気づいた。この映画には「白人と黒人」「加虐者と被虐者」のほかにもう一つ、「正しい者と正しくない者」とでも呼ぶべき構造がある。
それは人種や性別や所属にかかわらず、正しい行動を起こす者と誤った行動を取るものがいるということ。その構造に気づいたのは、(おそらく)軍の人間がクラウスたち正しくない者たちの占拠するモーテルに侵入し、床に平伏していたリーを救出していたこと。黒人であるリーを救出したのは白人であるし、クラウスに逃がされたラリーを保護して病院に連れて行ったのも白人である。また、被虐者としての黒人だけではなく加虐者としての黒人も描かれている。それは火事の鎮火にあたる消防士たちに石を投げつける黒人たちや、罪なきザ・ドラマテイックスを乗せたバスに投石する黒人の集団というシーンがあるように。

つまり、わたしが前回の感想において人種イデオロギー対立を煽りかねない映画としての可能性も秘めていると書いたのは、単純にわたしの視座が未熟だった(もちろん、だからといってその可能性がなくなるわけではないのですが)だけで、この映画はしっかりとそこに陥らないようなメッセージも放っていたということです。

だから、数時間前までのわたしのように中途半端に思考することの危険性も考えなければいけませんね・・・。そうそう、だけどこの映画に出てくるミシガン州警察は逝ってよし。

ものすごい余談ですが、クラウスを尋問していた爺様ってあれですかね、dotmに出ていた黄色いオフィスの部長の人なんですかね。

 

そうそう、書き忘れてましたがラリー役のアルジー・スミスの顔についても少し触れておきたい。というのも、パンフのコラムで越智氏はポールターの顔を指して童顔と称し「幼稚さ」を表しているとおっしゃっていて、最初に観たときから感じていたアルジーの顔について書きそこねていたからです。わたしはむしろアルジー・スミスのまだあどけなさの残る顔(ウィル・スミス似)に髭を蓄えさせたところに、大人としてのラリーと子どもとしてのラリー葛藤が現出し、最後に彼の選ぶ道を指し示しているようにも思えるのです。