dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

人間というコンプレックス

主演がフランシス・マクドーマンドってことで、「ダークサイドムーン」以来のファン(ってほどでもないけど)であるわたしは足早に劇場に向かいました。

「ダークサイドムーン」で政府高官で強い女を演じ、その後に観た「プロミスト・ランド」でゴリラことマット・デイモンの相方を演じ、「あの頃ペニー・レインと」で子想いの親を演じ、そのどれもがかなり印象的だったわけですっかりこの人の顔を覚えてしまったわけですが、今作ではフランシスが出ずっぱりで、しかも「おっさん・じじい」な強いばあさんでもあり、同時に弱さもたたえており、まあともかくわたしのツボなわけです。

ほかの役者もわたくしの好きな人ばっかりで、つい最近も「猿の惑星」で強面なおっさんを演じているウディ・ハレルソンだったり、今作で実はウディ・ハレルソンよりも美味しい役どころを演じる「ギャラクシー・クエスト」や「アイアンマン2」のサム・ロックウェル。この人、おバカな役どころばっかやってますけど、今回の馬鹿はちょっと意味が違う。今回の馬鹿は、泣けます。


この映画、暴力的・破壊的なルックや映像にもかかわらず、描いているのは「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」のような人間の多面性だったりする。しかし、アレらが日常や自虐の範疇に収まっているのに対して、こちらは加虐によってその人間性の真価を問うている。

冒頭に顕著なように、三つの看板の表裏がそれぞれの人間の一面的ではないことを指し示している。
 

ちなみにストーリーはこんな感じ↓

アメリカはミズーリ州の田舎町エビング。さびれた道路に立ち並ぶ、忘れ去られた3枚の広告看板に、ある日突然メッセージが現れる。──それは、7カ月前に娘を殺されたミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド)が、一向に進展しない捜査に腹を立て、エビング広告社のレッド・ウェルビー(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)と1年間の契約を交わして出した広告だった。
自宅で妻と二人の幼い娘と、夕食を囲んでいたウィロビー(ウディ・ハレルソン)は、看板を見つけたディクソン巡査(サム・ロックウェル)から報せを受ける。

一方、ミルドレッドは追い打ちをかけるように、TVのニュース番組の取材に犯罪を放置している責任は署長にあると答える。努力はしていると自負するウィロビーは一人でミルドレッドを訪ね、捜査状況を丁寧に説明するが、ミルドレッドはにべもなくはねつける。
町の人々の多くは、人情味あふれるウィロビーを敬愛していた。広告に憤慨した彼らはミルドレッドを翻意させようとするが、かえって彼女から手ひどい逆襲を受けるのだった。

今や町中がミルドレッドを敵視するなか、彼女は一人息子のロビー(ルーカス・ヘッジズ)からも激しい反発を受ける。一瞬でも姉の死を忘れたいのに、学校からの帰り道に並ぶ看板で、毎日その事実を突き付けられるのだ。さらに、離婚した元夫のチャーリー(ジョン・ホークス)も、「連中は捜査よりお前をつぶそうと必死だ」と忠告にやって来る。争いの果てに別れたチャーリーから、事件の1週間前に娘が父親と暮らしたいと泣きついて来たと聞いて動揺するミルドレッド。彼女は反抗期真っ盛りの娘に、最後にぶつけた言葉を深く後悔していた。

警察を追い詰めて捜査を進展させるはずが、孤立無援となっていくミルドレッド。ところが、ミルドレッドはもちろん、この広告騒ぎに関わったすべての人々の人生さえも変えてしまう衝撃の事件が起きてしまう──。

公式サイトのあらすじが微妙にパンフのと違うんですが、まあ大きな違いはないので構わんでしょう。

娘を殺された母親ミルドレッド・余命幾ばくの強面だけど優しい警察署長ウィロビー・暴力マザコン警官のディクソン。この三人がメインではあるものの、決してこの三人だけでは成立しえない。脇を固める人物がいてこそ、彼らは人間として相成り、彼ら三人がいることで街の人々も人間足り得ている、この世界の在り方そのものと言っていい。歯医者とかはまあ、「アウトレイジ」リスペクトのための雑魚キャラでしょう(適当)。

娯楽大作や類型的な映画ばかりを観ている人にとって、あるいは人と接する機会の少ない人や他人に興味のない人は、この映画を観てもちんぷんかんぷんかもしれません。なぜなら、この映画に登場する人物たちは実際の人間がそうであるような複雑さを備えているからです。

娘の事件で怒りに燃え、一向に犯人を見つけ出せないでいる警察に憤懣やるかたない様子のミルドレッドは挑発的なビルボードを広告会社に出すように依頼する。しかも、5000ドルという決して安くない料金を現ナマで、離婚した元夫の車を売って広告費を捻出することすら厭わないほどの怒りを燃料にアクションを引き起こし続ける。

ウィロビーが余命少ないことも知っていて、だ。そして本人を目の前にしてもその姿勢を貫く。だが、警察署での取り調べの際にウィロビーが吐血すると、それまで貼り付けていた鉄仮面が剥がれ動揺を隠しきれないミルドレッドは彼を気遣い救急車を呼ぶように言う。

この瞬間まで映画を観ていた観客は、ともすれば「え?」と思うかもしれない。なぜなら、ミルドレッドの滾らせていた怒りはそんな程度のことでは崩れるようなものではないのではないかと、彼女の行動やその顔つきから思っていたからだ。たしかに、その顔に吐血の血を受けたが、その動揺の仕方は明らかに不快感を含んでいるものではない。

つまり、彼女を「そういう人物」と見做していると混乱してしまうような描かれ方をしているのだ。

このシーンに顕著なように、この映画に登場する人々は誰ひとりとしてわかりやすい人物はいない。現実に存在する人と接するように彼らに接しなければ、この映画を理解することはできない。
そういう映画なのである、これは。

そういうわけで、人間を描いている映画でもあるしかなりウェットではあるんだけれど、泣けないのである、この映画。
北野映画の影響を公言しているだけあって、シュールな笑いが盛り込まれていたりするわ、乾いているのに実にウェットに仕上がっている感じとか、確かに北野映画っぽくもあって泣けないというのはあるんですが、それ以上にどこか無機的な質感にわたしはイーストウッドの映画を想起した。

個人的には北野武イーストウッドはかなり近しい位置にいる映画作家なのではないかと思っているのですが、この映画はその両者をつなげてくれているようにも思える。

たまむすびの町山の解説でイーストウッドに言及していたことを考えると、あながち間違いではないのかもしれない。

町山と言えばパンフレットのコラムでの解説でディクソンのことがより深く知れたので、パンフを買うのもよろしいでしょう。

ただFOX SEARCH LIGHT なので通常のパンフより100円高いです。