dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

私は嫌な思いしてるから

「愛の渇き」が面白すぎて「黙って抱いて」の印象が薄れてしまった。

連続で見ていると、どうしても印象の強い方が弱い方を消しにかかってしまっていけない。いや、「黙って抱いて」も全然面白いんですよ。ただ、「愛の渇き」の浅丘ルリ子が強烈すぎて。

 

そういうわけで、まだ印象が残っているうちに「黙って抱いて」の感想を書き留めておきましょう。

大まかなストーリーは↓こんな感じ。

 パリのヴァンドーム広場にある宝石商で起きた、エメラルドの強奪事件。
18歳の美しい孤児ヴィルジニー(ミレーヌ・ドモンジョ)は孤児院から脱走すること三度という経歴の持ち主。友達のオルガと逃げ出したところを、不良仲間のルールー(アラン・ドロン)たちと知り合う。しかし、知り合った経緯のせいで事件に巻き込まれてしまう。捕えられ警察署にいるヴィルジニーに、刑事のジャン(アンリ・ヴィダル)は身分を隠し近づく。やがて二人は本気で惹かれあうことになる。
しかし、ジャンが刑事だと知ってからもヴィルジニーは、仲間たちと離れられなかった・・・

 

これ読み返して気づいたんですけど、アラン・ドロン出てたんかい。

うん、人は割とドライに死んだりするけど、普通にコメディ映画です。音楽の演出とか捕まったときの脱出の仕方とか、ゆるーく演出していますし、明らかなコメディリリーフのキャラクターも配置していますし。その割にはみんな真面目な顔をしているのでなんか笑えてくるんですけど。

「黙って抱いて」というのは映画のラストシーンのある人物の科白なんですけど、映画の途中っていうか終盤までは、むしろそのセリフをいうのは抱かれている方だと思っていたり。ま、お互いに好きあっているので、どちらが言っても間違いではないんですけど、そっちに言わせるのはいいですよね。自分なんかは口下手ですし、ミソジニーが台頭していたりいなかったりするこの社会では、そっちから言わせる=君に首ったけ=あの手錠の大写しでの「FIN」なわけですから。

ゆるくはありますが展開はしっかりとサスペンスフルですし、興味の持続という点ではしっかりしたプロットかと。

 

 

で、問題の「愛の渇き」

 これヤベーですよ。映画の持つ熱量というか、黒い炎とでも呼ぶべき寒々しくも灼熱めいたものがあって。一言で言えば面白いんですよ、マジで。

三島由紀夫の同名小説が原作ということなんですが、例のごとく三島由紀夫の書いたものは読んだことない。んですけど、科白(まはあ、どこまで原作通りなのかは知りませんが、少なくともわざわざ入れてるナレーションなんかは引用してそうな気が)とかすごい良い。冒頭の台詞からして「この体にもまだ生きた血が流れていると知れて嬉しい(意訳)」みたいなことを老体たる弥吉の口からいわせますからね。このシチュエーションというのが悦子(浅丘ルリ子)に髭剃りをさせていて手元が滑って弥吉の首元から出血させる、というシーンなわけですが、鶏のカットとか色々と冒頭から炸裂しています。これに限りませんが、他人に髭をそらせているシーンってかなり緊張感がある気がするんですけど、どうなんでしょうかねこれ。個人的な感覚の問題なのでしょうか。「カラーパープル」はシチュエーションと関係性から生じるものだと思いますし。

さて、両者の関係性も不明なまま冒頭からそんなシーンをぶっ込んだ監督は蔵原惟繕という、ぶっちゃけまったく知らない人でした。が、本多猪四郎の紹介で映画界に入ったり代表作に「南極大陸」があったりと、名前はともかく腕はあるようです。ていうか腕がなかったらこの映画撮れないでしょうし。

 

この人の作品はこれしか観ていないんですが、カメラワークがすごい面白い。やたらと真上からの俯瞰で撮ったり、そうかと思えばその俯瞰の長いカットから下がっていって人物の目線と同じ位置になったり。まあ、これは食卓のシーンで最初の方と終盤の方で同じように使われていて、対比的に使っていることはわかるんですが、そんなカメラワークはあまり観たことがなかったのでちょっと感動しました。

ほかにもラスト近くの温室でのシーンでワンカットで温室の内外での三郎と悦子のやり取りをカメラを軸にして撮っていたり、ともかく面白いカメラワークをしています。

カメラワークで言えば人物のやりとりでも顔面ドアップだったりめちゃくちゃ引いたりと、なんかもう画面内のものは大して動きがないのにその画面の枠が忙しない。

 

物語そのものの面白さもさることながら、やはり役者の顔による力がかなり働いていますです。

まあ言うまでもなく浅丘ルリ子なんですけど、凄まじいものがあります。大仰な演技というわけではないのですが、表情の微細な変化や声音だけでその内側に蟠っているものを垣間見せるその力は、演出と相まって引き笑いしてしまうくらいです。

あと三郎のなんもわかってないくせに、それゆえに確実に悦子にダメージを与えていく、無頓着の残虐さというものも素晴らしい。

補足的に心情説明をしていたりするのは、まあ仕方ない部分ではありましょう。あんな複雑な内面を表情だけで見せるのは不可能ですし、それは小説という媒体の最たる強みを三島由紀夫が生かしたがゆえであるわけで。むしろそれをそのままナレーションとして持ってくるという大胆で、それこそ不敵といってもいいくらいストレートな演出に逆に文句とか言えない。

ほかにも「クローズゼロ」くらいでしか観たことないんですが、人物をすごい引きで撮ってその会話を画面上の字幕で表現していたり。

なんかすごい、映画の総合芸術性みたいなものを楽しめているような気がしました。

 

傍から見ているとストーカー気質な女の一人相撲とも取れるわけで、というかそういうふうに観るのもあながち間違いではないとは思うのですが、ありきたりな昼ドラではないのがなかなかどうして面白いところ。

はっきり言ってしまえば、この物語の主役であるところの悦子は明確に悪の領域にいる人間です。もちろん、その境遇に同情の余地がないわけではありませんが、しかしろくすっぽ働いていない家の長男や、悦子を慰みものにするスケベじじいにしても、まして腹立つとはいえ何も悪事を働いていない(まあ避妊はしろよ、とは思いますが)三郎や美代があんな仕打ちを受けるいわれはないわけです。

状況、というか描かれる環境が実に見事で、悦子はいわばこの金持ちな杉本家における異邦人でありながらもチェスにおけるクイーンであるわけで、キングたる弥吉をその体で懐柔している彼女は実質的な実行者でもあるのです。そんな歪な環境そのものが、悦子の歪みを生み出したのではないか。

彼女が魔女のように描かれているのは確かで、異様に長い爪や目元のメイクなんかは「黒い十人の女」の岸惠子のそれよりも鋭い。ただ、なんというか魔女は魔女なんですけど良心のある魔女というか、それゆえに苦しみ、しかしその人間性の残滓ゆえに他者を巻き込もうとするはた迷惑さが、悦子の素晴らしいところなんですよね。

と、書いていて思ったのですが「マジカル・ガール」的でもあり、その意味では「まどマギ」的であるとも言えるかもしれませんね。

 二度ある炎のシーン。ここの撮影の感じといい、悦子の魔女っぽさといい、「ウィッチ」や「地獄愛」っぽさすらあってちょっと感動すら覚えました。

 

で、自分の苦しみの元である三郎と一瞬ながら通じ合うシーンがあるわけですが、しかし三郎の純粋無垢(ていうかただの馬鹿なような気もしなくもないのですが、本を読んでたりとかしてるので一概に言い切れないのがまたなんとも)さと悦子のどす黒さは相容れるはずもなく、むしろ彼の純粋無垢さが苦しみの元凶である悦子は、最後にぶち殺してしまいます。

この辺の落ち着きぷりといい、どこかさえざえとした表情といい、似たような経験があってどちらかというと三郎より悦子よりな自分はもう陶然モノです。この一線を越えるシーン(まあ、その前に子どもを堕胎させているのですが)は、やはりフィクションでしか得られない快楽でしょう。

その直後の、くどいまでの一線を超えた結果=三郎の死ぬ瞬間を写し取るのは笑いますが。

 

ラストの朝日をバックに大阪に向かう悦子のかっこよさたるや(このシーンだけカラーになるのとか、「シンドラーのリスト」よりも先んじてるじゃん!。とか言い出すともっと最初にありそうな気はするのでやめますが)、どう見ても覚醒した魔女です本当にありがとうございました。

 

これは傑作と言って差し支えないのではなかろうか。