dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

と、いうわけで

オールタイムベストに入るくらいの傑作(断言)。
早くBD出して欲しい。特典にデュクルノー監督の短編をつけて。

もうね、これから週刊少年ジャ〇ンプに応募しようと思う漫画家志望の人はこれを観ることを義務付けたいくらい。それくらい、この映画にはメジャーとしての王道を失ったジャンプ的な「友情・努力・勝利」イズムがある。嘘です、努力描写はそんなにないです。葛藤をイコールで努力と結びつけてもいいのであれば、あるいは可能かもしれませんが。
けれど、ジャンプ的というのは事実です。この映画にはメインとなるふたりの人物、というか姉妹が出てくるわけですが、これがもう「NARUTO」におけるナルトとサスケをサスケとイタチの関係でやっている感じ。そこに肉体的な女性性と恋を盛り込みカニバルというラッピングを施した王道の青春映画とも言える。

一方で、これは甘酸っぱさの甘さを極限までミニマルにしそこに辛さを加えた青春映画でありかなわない恋愛映画でもあるのです。

パンフレットのコメントにもあるように、この映画は少女の変体を通じてその変体そのものと折り合いをつけていく物語である。なるほど、デュクルノー監督自身の言うようにクローネンバーグの用いる身体性のグロテスクさを通じて表現するという部分はまさしく、といったところ。「ザ・フライ」において主人公のセスがその身体の変容によって自己の精神を増長させ他者とのコミュニケーションとの阻害が生じたのと同じように、デュクルノーは一人の少女の肉体を通して、しかしクローネンバーグの「ザ・フライ」が徐々に変貌していく身体の時間をゴールドブラムの肉体そのものを変えていくことで見せていたのに対し、デュクルノーはそれをあくまで過程として描いている。
皮が向けるシーンの痛々しさは、文字通り一皮むけたことを示し、あるいは新しいコミュニティ(社会)との接触による破瓜としての膜の喪失とも取れる。

さりげない演出やユーモアも特筆すべき部分であろう。あの、おそらくは拒食症に向かうデブスっ子トイレでのアドバイスとその後の「ニカっ」と効果音のつきそうな笑顔や、「キューブリックか!」と突っ込まざるを得ないインリンオブジョイトイも顔負けの画面に据えたM字開脚からの犬のアソコ舐めは笑わずにはいられない。
あるいは、覚醒を終えたジュスティーヌとアレックスがゲームをするシーンのカット。両者のバストアップのカットが交互に入れらるのですが、この二人の画面の位置関係が擬似的なスプリットスクリーンとも言える対比になっており、このあとに待ち受ける対決を予感させてすらいる。

そこはかとない演出で言えば、最初にジュスティーヌが着ている服の絵が(おそらく)ユニーコン=処女性を表している。のですが、入学直後のパーティ=イニシエーションのシーンでは馬のぬいぐるみがまるで絞首刑にされたかのように吊るされている。馬、とは処女性の特筆すべき象徴であるユニコーンの角が取れたことを表しているのだろう。

そして、儀式を終えた彼女はベッドの中でもがく。揺籃とも思えるベッドの中で悶えもがく姿は羽化を待つ蛹のようにも、誕生の時を待つ胎児のようでもある。
呪怨」でも逆説的に示されていたように、布団あるいはベッドの中というのは極めてパーソナルな絶対空間でもあるわけです。しかし、イニシエーションを通った彼女はもはやそこに留まり惑溺していることはできないのです。

姉の指を食すシーンにかかるあのノイジーな音楽。パンフで町山智浩は「サスペリア」のゴブリンの音楽に言及していましたが、わたしはそれ以上に「早春 DEEP END」(傑作)の最後にかかる音楽に似ていると思いました。

ともかく、このシーンで目覚めたジュスティーヌと、それに驚くことのない姉のアレックスの二人にしか通じあえない特質。ああ、なんて寂しくて悲しくて、それでいて喜ばしいのだろう。姉妹の立ちションシーンは、笑うよりも先に微笑ましさがくる。

ともかく、好きなシーンがありすぎて一々言及していくとキリがないので、自分が感極まったシーンを最後に取り上げます。

それはアレックスによってまるで獣のようになってしまった自分の姿を拡散させられたジュスィーヌが怒りに狂ってアレックスに飛びかかるシーン。そこに至るまでのジュスティーヌの怒りはとても複雑な感情に基づいている。好意を寄せているアドリアンに見られたこと、そしてまさしく彼からそれを告げられた屈辱、あるいは彼との軋轢をうむ一件があったにもかかわらず自分のことを心配してくれる彼の優しさにやるせなくなったのかもしれない。

だから、ジュスティーヌの怒りはもっともだ。

では、アレックスはなぜそんなことをしたのだろうか。もちろん、妹に堕ちてほしかったからだ。唯一、自分を理解することのできる妹に、堕ちてしまった自分の元に来て欲しかったからだ。

アレックスは寂しいのだろう。ここにおいて、この二人の関係性はバットマンジョーカーの関係性と同じであることが明らかになる。

そして、二人は取っ組み合いになる。周囲の人間がスマホを向ける様は「ザ・サークル」のシーンを想起させる寒々しさや他者性というもののどうしようもない壁を見せ付けられる。しかし同時に、姉妹はお互いを傷つけ合っているにもかかわらずそこにはどうしようもないほどコミュニケーションが発生している。

ここは二人の攻撃の仕方にも注目したいのですが、カニバルに堕ちたアレックスはジュスティーヌの頬を噛みちぎるのに対してジュスティーヌはアレックスに噛み付きはするものの服の上からであるし、そもそも噛みちぎったりはしないのです。ここに、ラストの明暗が提示されてもいたりする。

わたしは、この取っ組み合いが極に達する瞬間に、あまりの泥臭いかっこよさに目に涙を貯めていました。お互いがお互いの手に噛み付き合う、つばぜり合いと言っていいこのシーンに。

どうしようもなく暴力的なコミュニケーション。その直後に、この二人は肩を組んで周囲の人間たちに中指おったてます(画面意訳)。

はたして、血みどろの暴力を繰り広げた二人とそれを冷笑しながら囲う人々の、どちらが人間たりえるのでしょうか。

そして最後近く。留置所の面会室の窓を介してジュスティーヌの顔とアレックスの顔が重ねられるとき、二人が同じ存在であり、それこそガラス一枚分の差異でしかなかったことに気づかされるのです。

二人のいる場所は逆だったかもしれないし、二人共内側だったかもしれません。

 

まあラストのオチに関しては「血は争えぬ・・・」的なある種、血統主義的というか、そこまでジャンプイズムあるんかいと笑ってしまう部分でもあるのですが、よく見るとお父さんは最初から彼女ら姉妹の性質を見抜いていた節があって、そうなると「才能を見せつける」という意味もちょっと違ったニュアンスに受け取れたり・・・。まあともかくパパンは苦労人ということがわかるラストでもありましたね。

 

それと、ジュスティーヌ役のギャランス・マリリエの顔が最高。何が最高って高橋一生ジャンルの顔なのが最高。このジャンルの顔には高杉真宙や満島慎之介も加えていいかなーと思うのですが、要するに危うい・危ない目をした胡散臭く、それでいてどこか妖艶さを持っている顔です。

このマリリエさんは、目だけでなく口元の感じまで高橋一生ぽくて最高です。あーもうともかく最高。


ともかく最高の映画。