dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

英雄が撮る英雄〜75億総英雄社会〜

かつて英雄のアイコンであった老人が、英雄を撮った。

そのくせ、いつもみたいにあっさりと、理路整然とまとめあげる。役者すら使わないという、本来ならば考えもつかないようなことですらも。

劇場でイーストウッドの映画を観るのはこれが三度目だったりする。

アメリカン・スナイパー」のときは今みたいに映画を観ることにそれなりの暇を割くこともなかった。「ハドソン川の奇跡」のを観たときは話題作なら観ておこうという程度でブログでこうして感想を綴るようなこともしなかった。

で、映画というものを人並みに観るようになってから改めて観たイーストウッドの映画が「パーフェクト・ワールド」だったわけですが、「なんだこの映画…」というほかの映画を観たときには抱かなかった奇妙な感覚が残っていたのは覚えている。

「スリービルボード」の感想を書いた時にイーストウッドについてちょっと触れたりはしたのだけれど、こうしてイーストウッドの映画を観ると「いや、やっぱりイーストウッドとは違うな」という、ボキャ貧丸出しな感慨に耽ったのである。

イーストウッドのこれまでの映画はエモーショナルな話を理路整然と組み立てなに食わぬ顔で顔で提供してきていた。と思う。

だから、イーストウッドの映画は感情を高ぶらせる要素をふんだんに含んでいるにもかかわらず、不思議なほどに情動が発生しない。前も同じようなことを書いたような気がするけれど、なんというかこう「1と1を足したら2だろう」と言わんばかりの、しかし達観というには人間の温度がありすぎる一方で、感情的に寄り添うにはあまりに手触りが違うという、なんとも奇妙な映画人(サイヤ人のイントネーションで)である。

 

「15時17分、パリ行き」でもイーストウッドのその変な(としか今の自分には形容できない)部分は変わらない。

ちゃんとした役者を使っている幼少時代の演出もキッチカッチリ正しく撮っていく。たとえば、息子のことを遠まわしに(でもないか)厄介者呼ばわりされたジョイス(ジュディ・グリア演)とジュディ(ジェナ・フィッシャー演)が出て行く時に捨て台詞を吐く。ここで切っても何ら問題はないのだけれど、その後の教師の反応までちゃんと撮る。スペンサーが努力を重ねるモンタージュも的確な編集でさらっと済ませる。

90分ちょっとの尺の中でこの幼少期のシーンはかなり多めに使われていて、さらに言えば事件の場面は本当に最後の方に持ってこられていて、そこにいたるまでのヨーロッパの旅行が延々と描かれるという大胆な構成になっている。それでもイーストウッドは「ソレをソレとして」レリゴーでカメラに収める。

思えば、これまでの映画もそうだったのかもしれない。ただ、そうあるからそう撮る。それゆえに映画の作為性が剥ぎ取られ(というよりむしろ、作為性を作為性のまま使っていたというべきだろうか)、要素としての物語が残り情動が感知されない。

しかし、この映画では役者すらも排することで作り物としての映画が持つ作為性すらも剥ぎ取ることにある程度成功してしまっている。実話に基づき実際の人物を実際のシチュエーションに置く。ライティングすら自然光であるこの映画に残った作為性はカメラのアングルだとか、もはやその位相くらいなものだろう。

唯一、演出的な演出が加えられているとしたらスペンサーの部屋のポスターくらいだろうか。「硫黄島からの手紙」はまあ楽屋オチとして笑うとしても「フルメタル・ジャケット」はどういうつもりなのか。単に権利的にクリアしやすかったからなのか。どちらにせよスペンサーのミリタリー愛の描写としてのさりげない演出として受け取れる。 

そのくせ、(まあこれは事実だから演出もクソもないのですが)幼少期の出来事や軍での失敗、そこから得たものが全てあの瞬間に集約されるという周到さに編集の巧みさ。

そして、ただ撮ることに徹したイーストウッドは、英雄と呼び称される人たちでさえもその通りにだけ撮る。アンソニーとスペンサーとアレクは「英雄」として表彰され地元でのパレードの映像が指し示すように世間としても彼らを「英雄」として扱っている。にもかかわらず、イーストウッドは三人を英雄に仕立て上げるような演出は一切行っていない。「テロリストの一発目がジャムった」という奇跡と呼んでも差し支えない出来事でさえもイーストウッドにかかればただの事実としてカメラに収められてしまう。

肯定も否定もせずにただ「英雄」という称号を背負う英雄たちを撮り、起きた事件とそれにおける各々の人物の行動を再録した。

だから、やっぱり達観と言いたくもなるのだけれど、それよりはむしろ現実主義者と捉えたほうが近いかもしれない。だからイーストウッドの映画には「スリービルボード」のようなイヤミなまで手の込んだ脚本みたいにはならない。「スリービルボード」を観て「イーストウッドみたいだ」とは思っても、こうしてイーストウッドの映画を観るとあくまで「みたい」であってイーストウッドの映画ではないことを再確認する。

イーストウッドの映画にはそんな複雑さはない。「許されざる者」にしたって、普通に観ているぶんには何も驚く要素はない。

イーストウッドは多分、別の位相にいるのだと思う。

この映画を観終わった後にはほとんど何も残らなかった。いや、それこそ「霊的ボリシェヴィキ」の妖精みたいな感じかもしれない。

この感覚は、それこそ無月状態の一護に対するケイゴみたいなものなのかもしれない。

肯定も否定もしないし善悪で分けることもない。ただこうだからこう、というそれこそ観照すらしているような気さえする。

最後の表彰のシーンのカット切り替わるごとに記録映像と映画としての映像がごちゃごちゃになるのとか、スピーチしている人物以外は同じという歪さに変な笑いが出たりしましたな。


なんだか物凄いことを普通にやってのけてますが、それすらイーストウッドは観照しているのやも。

 

トランプ周りのイーストウッドの発言を考えると、あながち間違っていない気もするんですよね。

ただ、ポリコレというものがあまりに窮屈すぎて、観照的な態度でいることすら許されない。その息苦しさからの発言なのだと思う。すごく低レベルな例えをするなら、本当に好きでも嫌いでもないのに「お前あいつのことが好きなんだろ~」としつこく言われるような感覚なのかもしれない、イーストウッドは。そりゃ鬱陶しいはずだ。

 自分なんかは、どうしても人について語るときにはたとえば「美学」とかそういう避雷針を用意して遠まわしに言って批判を前もって避けるような卑怯な寸法を取るのだけれど、イーストウッドはそんな小賢しいことはしない。というか、その域にまで達していないだけなのだけど。

 

今回パンフレットに青山真治樋口泰人のコメントだったり中原昌也と宇野維正の対談が載っていたりと個人的に好きな人ばかりだったので良かった。

特に青山真治の深読みっぷりに対して中原昌也の対談の全体的な楽屋オチみたいな雰囲気とか笑えるのですが、読み応えあります。特に「遅い」という部分に関しては自分の中のイーストウッド映画における奇妙な感覚の理解の手助けになりそうですし。