見逃した「グラン・トリノ」がまたやっていたので、ようやく観れた。
イーストウッドの映画で初めてウルッときたかもしれない。この人のフィルモグラフィは年齢が年齢だけに、もちろん全部を追うことはできていないわけですが、一番感情的な昂ぶりがあったと思う。イーストウッドの代表作として結構な数の人がこれを挙げるのもわかる。それだけ叙情的であることは言えるだろうから。
至極トーシロな見方を許してもらえるのなら、この映画はイーストウッド自身の決算映画としてあるように思える。
「許されざる者」について感想を書いたときは、それまでの西部劇映画に対する解答としての贖罪のような面があった、的なことを綴った気がする。イーストウッドと西部劇というのは切っても切り離せない関係にある以上、それまで多くのカウボーイなヒーローを演じてきた彼なりのけじめのようなものだったのだろうと。
そして「グラン・トリノ」はイーストウッドという俳優自身に関する一つのけじめなのだろう。
イーストウッドの映画には死がついて回っている。少なくとも、彼が監督を務め彼が出演している映画のほとんどに、人が死ぬ場面がある。すべてがそうかはわからないけれど、彼が監督を努めなくとも彼がメインで出てくる映画も大半はそんな感じだろう。しかし面白いことに、それだけ死を振りまきながらも、イーストウッドと死をすぐさま連想させることはない。なぜならイーストウッドは死なないからだ。
これだけ死を振りまきながら、彼自身はほとんどのーーもしかすると全ての映画で死んだことがないのかもしれない(イーストウッドのフィルモグラフィを把握しているわけじゃないからあくまで推測だけど)。
死ぬことのない絶対的なヒーローのイコンとしてイーストウッドは在り続け、それがさらにイーストウッドから死を遠ざけていく。イーストウッド自身がそのことに自覚的であったことは「スペース・カウボーイ」で自身ではなくトミーリージョーンズを死に追いやったことからも予測できる。死に追いやったというのは、あくまで作劇上の話ですけど。
そんな自分を観照的に見つめ返した結果として、この映画はあるのかもしれない。
そう考えるのは、まさに劇中で神父とイーストウッドが生と死についての問答を交わすシーンがあり、そこで神父に「生よりも死について知っているようだ(意訳)」と言われるからです。不死の象徴として君臨していながら、生ではなく死に傾いている存在であることが述べられる。死んだことのない男が、死を解するという一見すると矛盾したように見えるものの、イーストウッドの周りは常に死に満ちていた。しかし、自分が死なずして本当に死を理解できたといえるのか。老境ゆえの死考でそう思ったのかどうかはわたしの知るところではありませんが、イーストウッドはこの「グラン・トリノ」の中で誰ひとりとして殺さない。イーストウッド自身を除いて。
そう。これまでのイーストウッドの映画であれば、間違いなく誰かが死んでいたはず。イーストウッド+オラついた若者もとい馬鹿者+銃器とくれば、イコールで繋がるのは「死」だ。しかし「グラン・トリノ」ではレイプされる女性(しかも、イーストウッドの行動が招いた結果であり、彼と親しい役柄である)が登場したり、友人が銃撃によって流血したりすれど、死者は出ない。最後の最後、イーストウッド自身の代償行為以外を除いて。
それも理性的な死に方だ。全てを丸く収める(野暮なツッコミをしなければ)ことができる最善の方法であり贖罪だったのだろう。
家族関係の部分についてはもしかするとある程度投影してるのかなーとか思ったりしますが、まあそれよりも継承という部分がクローズアップされているのでイーストウッド的にはプライオリティが低いのでしょう(笑)。
そして「グラン・トリノ」で一度死んだイーストウッドは、再び映画監督として再生する。それこそキリストのように。キリストといえば「グラン・トリノ」の最後でイーストウッドが殺されるシーン。倒れ込んだ姿が磔刑にされたジーザスっぽいんですが、そのへんは偶然なのか狙ったのか。