dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

Do not forget also dead

リメンバー・ミー」観てきました。

その前にトークライブに行ったり、ちょうど本を一冊読み終えたりで日記(としての機能を持たせている)雑ソウ記と読書感想のほうも記事を更新したいんだけれど、とりあえずこちらを優先。

 

えー「リメンバー・ミー」本編について書く前に、「アナと雪の女王」の短編の方についてちょっと文句があるので。いや、ていうか、まず、あれいります? だってあれ4年前でしょう? 今更それを出してきてどうしたいのか。紙ヒコーキみたいなのであれば大歓迎なんですけど、今回の「穴雪」に関してはいかにもな後付けな設定だし(そもそも設定とか覚えてないんですが)オラフことマーチャンダイジングくんはひたすらこちらのヘイトを煽ってくるし。ていうか22分て何。長すぎるでしょう。

そもそもああいう無能なくせにマスコットなキャラクターというのがデウス・エクス・マキナ的に最終的には許されるというのがまあ腹立たしいのです。そして、そういうキャラに腹を立ててしまう自分に童心がないのかと自己嫌悪に陥りそうになってしまうようなリトマス試験紙のような作用も持っていることを作り手はわかっているのだろうか。ジャージャー・ビンクスなんかよりオラフの方がよっぽど不快ですよ、まったく。ていうか単につまらないという問題点がありますし、「リメンバー・ミー」を観にきたのに22分というテレビシリーズ1話分の別の作品を提示されても困る。

どうやら私以外にもこう考えた人は多いらしく、こういう記事もありました。

headlines.yahoo.co.jp

 

さて、出鼻をくじかれたせいで色々と観賞にあたってのコンディションが微妙だったのですが、その評価はいかに。

あ、その前に日本語版ウィキには完全にオチが書いてあるのでネタバレ回避したい人はウィキは見ないほうがいいかもしれません。

どうだろう。「穴雪」によって足を引っ掛けられたことを考慮しなくてはいけないのかもしれませんが、個人的にはギリギリ泣けなかった感じです。

とりあえず吹き替え版だと映像そのものをいじってスペイン語(おそらく)で表記されているであろうチラシとか看板の文字が「ザ★ゴシック体」といった感じの味気無さ過ぎる日本語文字に置き換えられているのが、はっきり言って小さな親切大きなお世話です。新聞とかチラシの類ならまだしも、タイトルロゴ以外はほとんど同じ書式じゃないのかな、あれ。やるならしっかりやってほしい、と言いたいところですが、そもそもの置き換えが不要だと思います。いやね、これは「シュガーラッシュ」のときにもあったんですが、今回はそれがすごく多いので結構ノイズになりますです。そもそもメキシコに日本語が溢れているというユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパンなif世界かと思わせる、一種の文化侵略的な想像を働かせてしまうわけで。そういう理由もあって本当は字幕で観に行くつもりではあったのですが、とはいえ日本語吹き替えを担当した声優たちは素晴らしかったですよ。まあ基本的に吹き替え自体が外れることはありませんが。すごく個人の趣味なのですが、最近は多田野曜平が出てくるだけでその作品が少し好きになるというメインストリームとは異なる声優ヲタな部分が顔を覗かせたりしました。

 

まあそういうのトランスレーション問題を除いても自分はあまりハマりませんでしたが、相変わらずハイレベルなことに変わりありません。伏線というか、設定とか小道具の使い方が非常に巧みで後々の展開に絡んでくる脚本はさすが集合知のディズニー。相変わらず練り込まれています

たとえばひいひいおじいちゃんの設定ですが、ともすればデラクルスが実のひいひいおじいちゃんだったというのを落ちにもって行きがちな作品が凡庸であることは承知しているので、そうそうにこの設定を回収し、そこからむしろ話をスタートさせる。さらに言えばここには二重の父親構造があって、実は父親の正体はは灯台下暗しなわたくしめはむしろ「血縁」というものをあまり信用していないタイプの人間でありますので、ごく自然に(それゆえに自分のようにヒネクレ者には誇張されて見えてしまうのですが)血の繋がり(だけ)が当然のように死人の拠り所になっているというように捉えられてしまう。もちろん、有名人でなければ身内程度しか覚えている人はいないだろうし、ましてヘクターはかなり昔の人間ですから友人もほとんど死んでいるでしょう。だから、最後のよすがママココだけであるというのは設定をうまく使っていると言えるし、ラストまで観ればおそらくはよすがになるのは家族だけではないということがわかるといえばわかるんです。が、ないものねだりであることを承知しつつも血縁的な家族が是とされることにレプレゼンテーションの足りなさを感じなくもない。家族がテーマであるのならば別に血縁は必要ないはずですし、よくよく考えたらやはり家族だけが「ゆるし」を与えられるというのもやはり血縁主義みたいなものが浮かび上がってくるように思える。まあ、それを掘り下げていくとそもそも「どこまでが家族として認識するのか」という問題が生じてくるわけで、血縁ではなく戸籍上ならありなのか、しかし戸籍という形式主義があの世で適用されるとせっかくのスピリチュアルな世界観に水を差すことになりますから、落としどころとしてスピリチュアルを維持するために血縁を前提条件するのはやむなしだったのかもしれませんが。

 

デラクスルのラストに関しては、サウスパークを観ている人からするとある種の意趣返しにように見えるかもしれんですね。シーズン13の1話でミッキーマウスがまんま同じ手法でヘマをしていましたし。デラクスルが悪役とわかった直後の露骨な敵キャラ描写なライティングは「レミーのおいしいレストラン」におけイーゴの部屋並で笑ってしまいましたが、しかしやはり彼のラストに関しては「大いなる西部」「フォックス・キャッチャー」でなし得たことからひどく後退したように思えてしまう。まあディズニーはあくまで大人でも観れる子ども向け映画の側面があるので、多くを求めすぎているというか自分が単にイーヴィルな人物に愛着を感じてしまうというだけなので、そもそも自分のような輩はお呼びではないのでしょうが。

もちろん、死者の国のドラッギーでジャンキーなカラフルな世界観のヴィジュアルや橋の葉が滝のように流れ落ちているのだとか、良いところはたくさんあります。

 

本編とはちょっと別の部分でも色々と思うことがあります。

まずママココのキャラデザ。なんか抽象度のレベルがママココだけ違いませんか。ほかの人物はいかにもなアニメといったキャラデザなのに対してママココのシワの作りこみとかほとんどシグルイの虎眼先生レベル。「曖昧」な状態にあるというのもまさに虎眼っぽいし。ラストの方で目を開くと、その大きさも相まって本当に虎眼。

あとこれもないものねだりではあるのですが、認知症とかボケているという描写もそろそろステレオタイプから脱却すべきだと思う。そもそもそういうのを描かない(業界的にそもそもそういうのを描くジャンルが作られないというのもありますが)日本のアニメに比べれば先んじているとは言えますが、認知症にだって色々と種類があるわけで。

わたしがことディズニーに関してうるさくいうのはディズニーがレプレゼンテーションやポリコレといった部分に意識的であるからこそなんですが、まあ自分でもわがままが過ぎるとは思いつつ、あくまで個人の感想として正直にならないわけにもいかないので書き下しますが。

 それとあの世に小さい娘を連れた家族がいましたけれど、あれって要するに家族が一気に死んだってことなんですよね。そう考えると、その死の経緯なんかも気になりますよね。

死生観で言えば、死んだあとの死こそが本当の死ということであれば「ドラゴンボールZ」だったり「シャーマンキング」も死んだ後の自分の魂の在り方に左右されるという意味では共通してはいるのか。シャーマンキングといえばミゲルが死につつある描写として骨の周りの肉が薄くなっていくという描写がありましたが、あれがオーバーソウルの絵ヅラっぽくて好きだったりします。エリザまんま。

まあ上記二つの作品よりは「リメンバー・ミー」の「死後に忘れられたら本当の死」という考え方に一番近いのは「結界師」の斑尾vs鋼夜における「わたしら(妖)は忘れられたら消えるんだよ(超うろ覚え)」みたいなセリフでしょうか。たしかかなり初期の3巻だか2巻だかの話だった気がする。

あと犬に関して。なんかアメリカで制作されるアニメで犬が出てくるときってなんかこうイっちゃってる感じがあるのはなんなのでしょう。そう見えるのは主にロンパってるような目つきとか誇張されすぎた長さのベロを常時出しているからという部分が大きいのでしょうが。私の中ではペティグリチャムのロゴの犬がボーダーになっているので、あれ以上の誇張を重ねられるとイっちゃってるように見えてしまうのです。

深読みというか勝手なこじつけをするのであれば、この「リメンバー・ミー」に関して言えばダンテは終盤に精霊のような存在になるわけでして、日本でも古来はそういった人たちを菩薩だとかそういった対象として観ていたという価値観があるので、そのへんと同じような価値観がメキシコにはあったのかなーとか。

そうそう、エル・サントがしっかり英雄扱いだったりフリーダ・カーロのネタを入れてきたりするところは好感度アップしましたし、エンドクレジットのあとあれはさすがに胸に来るものがありました。色々言いつつも。や、まあ、ここでもヒネクレ者な自分との葛藤がないわけではなかったんですが。なんというかこう、「D-grayman」におけるコムイ室長の実験で死んだ人たちの名前を列挙するシーンとかリーバー班長の「黙れよ」のあとのセリフとか、ああいう死者を思うという行為そのものには感動するタイプなのですが、「リメンバー・ミー」でそれがプラスにあまり働かなかったのはメディア的な違いがあったのかなーと書きながら思いました。

 

世間の評価ほど自分は好きな映画ではありませんが、とりあえずオラフは逝ってよし。