dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

新年度一発目

わたくしめも新生活が始まりますゆえ、これからは更新頻度が目に見えて減ってくるでしょうが、それはともかく一発目をば。

今更前置きとかいるのかどうかという話ですが、最近はなぜかアクセス数が増えてきているし、新年度ということで改めて付記しておきますがネタバレとか関係なしにダラダラ書いていくのであしからず。

 

で、何を観てきたのかというと今年度(去年か)のアカデミー賞で主演男優賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞を獲得した


ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」。
サブタイいらないと思いますけどね。最後まで観ればわかりますが、これはむしろヒトラーに対して宣戦布告をする(ということを議会でスピーチして終わる)シーンで終わるので、劇中だけを観ると「まだ世界救ってないじゃん!」ってことになりますから。たしかに原題の「DARKEST HOUR」は、どうあがいてもタイトルとポスターだけではわかりづらいでしょうから、変更するのはわかりますし「ウィンストン・チャーチル」というのはまさにこの映画そのものであるのでわかりますが、「ヒトラーから世界を救った男」とかいうのはいかがなものか。一昔前のラノベ的タイトルのダサさをなぜここで持ってきたのか。


さて、この映画。もしかするとある種の政治的思想を持つ人によってはプンスカなる可能性が無きにしも非ず。言うまでもなくこの映画は第二次世界大戦におけるチャーチル首相の決断を描いた映画ですから政治の話が絡まないわけはないので、人によるとはいえ多かれ少なかれイデオロギーの話題になるのは避けがたいでしょう。実際、見方によっては「大本営発表じゃないですかー!」というツッコミもできなくはないし、この映画における重要な「民の意見」というものがそもそもプロパガンダによるものではないかとも言えるわけですから。

しかしこの映画、そういった政治的な云々とはもっと別のものを描いているのではないでしょうか。「この世界の片隅に」のB面としての側面が非常に強いのではないかとわたしは思います。どういうことかと言うと「戦争という過酷な状況の中で自分のなすべきことをなそうとする一個人の話」であるということ。

もちろん立場はまったく違います。方や市井に住まうごく普通の人、方や戦争の局面を左右するかなりのパワーを持った政治家。けれど、この両者はそれぞれに負った人生をそれぞれに全力でまっとうしようとしています。この点において、チャーチルとすずさんの間に差異はないのではなかろうか。

少なくともこれを政治劇だとか、まして戦争映画だとかみなす人はいますまい。とはいえ、戦争のシーンはほとんどなくともその悲惨さは伝わってくるように描写されている。闇夜の爆撃で町が燃え上がる俯瞰の映像からのリニアなトランジションで顔の(といってもほとんど目だけ)アップで死体(のはず)を描く。あたかも、その死体の肌の上で爆炎が上がっているかのように。
そして、そういった悲惨な状況やハリファックスとの衝突や妻クレメンティーンや秘書のエリザベスとのやり取りを通じて、チャーチルが民の立場へと降り立つ物語でもある。というより、ウィンストン・チャーチルという一人の人間を描くためには、同時に彼を神の座から人間の領域に引き下ろす必要があったのでしょう。
パンフレットで村山章が指摘するように、この映画では真上からの俯瞰シーンが多く、そして印象的に使用されている。冒頭の最初のカットからして議場を真上の俯瞰で捉えたシーンになっている。ほかにも飛行機に乗るチャーチルが眼下の少年を見下ろすシーンやカレーの部隊に残酷な電報が届けられた部隊の指揮官が空を見上げるシーン。そしてなによりチャーチル自身が夜空を見上げズームアウトでしぼんでいく。
さらに、議場の俯瞰から始まったこの映画は地に足付いたチャーチルが議場を歩くカットで幕を閉じる。

これは、この映画の描き出そうとすることと手法が一致していることの証左でしょう。我々が歴史上の偉人を思い浮かべるとき、それが社会的に悪であれ善であれそこに立ち現れてくるのは伝説化された偶像でしかない。ノーベル文学賞の名誉を持ち、死してなお「世界のCEOが選ぶ、最も尊敬するリーダー」の誉れを受けた彼を、人々は程度はあれ神格化していることは否めない。そう、わたしたちは伝説として神として彼を観ている。そして多用される俯瞰のショットはまごう事なき神の視点でありその神とはチャーチルにほかならない。ここまでくれば、この映画の紡ぎ出したものとその手法が巧みに作られていることがわかる。

つまり、わたしたちが神格化することで神の視点を持ったチャーチルという存在をメタ的に取り込み、最終的には民=人間の領域に落とし込むことで一人の人間としてのチャーチルを描こうとしたのだ。そして、それは成功した。叙事的に理想化された人物の周縁を描き、また彼自身の人間性(苦悩や葛藤や人々との接触)を暴いていくことで民を見下ろしていた神の座から見下ろされる側へと落ち、そうすることで彼は民の思いを理解する。叙情的でありながら、理路整然とした構造を持っている。

彼が真に民と向き合う場面。この映画の白眉といえるシーンの一つに、チャーチルが地下鉄に乗り込み市民の声を聞くというシーンがあるのですが、その直前に、路上を行き交う人々を車中の彼の視点からきりとったシーンがある。この直前に車の中から町の人々を眺める視点のシーンがある。これと似たようなシーンが序盤にもあり、そのシーンでチャーチルは町の人たちのよに列に並んだこともないと自嘲気味に漏らす(ボイルドエッグのくだりも含め)。つまるところ、彼はこの序盤のシーンにおいては民の生活を理解できないでいた。それがここに来て、車から降りて自ら地下鉄に乗り込んでいくのだ。多くの市民が移動の手段として使っている地下鉄を。チャーチル専用の車ではなく。

地下鉄に乗り込んだ彼が人々の視線を集め彼らと率直な意見を交わすこのシーンがわたしは一番好きだ。実は、 ここは映画独自のフィクションな部分ではあるらしいのですが、それがまたわたしには嬉しかった。実際にはないものをあるように見せることで人を感動させるものこそがフィクションであり物語であるのだから、このフィクションのシーンにおいて感動したということは、紛れもなくそれはフィクションの力なのですから。

 

今月は後にもたくさん話題作が控えていますがほかにも「ペンタゴンペーパーズ」やら「ヴァレリアン」やら観たいのがたまっていて辛い・・・。