dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

ピアースと不快な家族たち

なんか前も似たような記事タイトルをつけたような気がします。ボキャ貧は本当に辛い。

BSで録画していた「ミルドレッド・ピアース」を観る。

最近はBSっていうかテレビで観た映画に関しては、やはり劇場で観るときとの姿勢が違いますし新しい生活が始まって時間もなくなってきているので、「まとめ」の方で簡素に済ませるようにしていたのですが、個人的に思うところがあるような映画に関しては1つの記事として扱おうかなーと。

そんなわけで色々と考えることの多い「ミルドレッド・ピアース」は単一記事として

監督は「カサブランカ」のマイケル・カーティス。とか書いておきながら「カサブランカ」は観ていないんですが。「郵便配達員は二度ベルを鳴らす」の原作者の同名小説「ミルドレッド・ピアース」の映画化ということらしい。ウィッキーさんによると日本では劇場公開してなくて、DVDが出たのも2013年なんだとか。

 

それはさておき、これはジャンルとしては犯罪ミステリーの映画なわけでありますが、今観ると家族の不協和だったりフェミニズムの側面が強く浮き上がっているように思える。もちろん、市原悦子古畑任三郎を引き合いに出すまでもなくこのジャンルにおいては「殺人に至った動機」というものの比重が大きいわけですが、それにしてもちょっと苦々しい。

主役のミルドレッドを演じるのがジョーン・クロフォード。いわゆる強い女の印象が強かったのですが、今回はそういった自立した女性としての強さを持ちながらも部分部分で自律できない(そしてそれゆえに悲劇に繋がっていく)弱さもしっかりと表出できていて、素直に称賛しますです。顔なんかも、ちょっと原節子に似てる気がするのですが。

家族のゴタゴタという部分では「幼子われらに生まれ」にちょっと通ずる部分もあるかなーなんて思ったりもしました。あっちとこっちでは設定も役柄も違うんですけれど、娘が事態の中心にいるという点と、その娘という繋がりがキーになっている部分が。家族っていう、誰にも変えることのできない繋がりの、呪いとしての側面を強く強調したのが「ミルドレッド・ピアース」なのではないか、と。

田中家の方は思春期の子どもの面倒くささと血縁のなさという肉体的な繋がりの断絶が一つのディスコミュニケーションになっているわけですが、ピアースの場合はその逆というのがまた悲しい。二人の娘がいて、幼い方が病死してしまったことが「娘」という呪いをより強固にしてしまうわけですが、結末まで見てもイマイチやりきれない。

ここで生物学ガーとか遺伝子ガーというのが無粋だとは承知の上で、しかしそこまでして娘との繋がりを重要視することへの一つのアプローチとしてはやはり有用なのではないかと思ったり。

「自分がお腹を痛めて産んだのだから」という実の子との繋がりを強調する定型句がありますよね。やっぱり、その行為(ていうか現象かな)は体験しないと理解できないだろうし、かといって自分の子を愛せないような親もいるし、そう考えると家族って何なんだろう。当たり前のように一緒に住んでいるこの人たちは自分のことをどう思っているのだろう、とか考える。

呪いとしての家族(娘)もさることながら、ミルドレッドを取り巻く男も最低な野郎ばかりで本当に困り果てますね。

自立を邪魔する夫、娘をたぶらかす没落貴族や不動産屋。ミルドレッドが自立しようとすると尽く彼女の自立を妨げようとしてくる。だからというべきなのかどうか、正直なところ因果関係が逆な部分もありそうなのだけれど、ミルドレッドも自分の美貌を使って独立まで持ち込むわけで。使える手札は全て使うという強さでもあるんですけれど、男根主義のシステムが彼女にそうせざるを得ない状況にも追い込んでいるというふうにも受け取れる。そういう意味で、男尊女卑の世界の臭いもするのである。

 アイダとのウーマンス(というにはややドライですが)部分がミルドレッドにとっての休息なのかも、と考えると萌える。

あと黒人のメイドさんを演じるバタフライ・ マックイーン。この人の声がめちゃくちゃ可愛いのなんの! この人が事件とは関係のないところでいつも可愛い声で明るく自然に振舞ってくれていて萌える、ていうか癒される。