dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

SI PUO FARE!他者はすべてイカレているということ

イタリア映画「人生、ここにあり!」

 精神障害者に焦点を当てた、いわゆる社会派な映画ではあるんですが、内容はそこまでかしこまってはいない。むしろ、普遍的なテーマ性を持った映画で、誰が見てもわかりやすい物語になっている。観賞した印象としては理想8:現実2といったバランスなのですが、一応は実話ベースの話ということらしい。マジですか。

精神病者を扱った映画といえば「レナードの朝」(はちょっと違うかな)や「カッコーの巣の上で」「17歳のカルテ」などがありますが、そレらに比べると重苦しい空気はない。少なくとも表面上は。これはイタリアという国柄なのかどうかよくわからないけど、悲壮感がない。人死にはありますが、なんだか重く見せかけてはいるけれど軽いし。悪いとか良いとかではなく、単純にそういう作風である、と。
 
ウィッキーさんの情報があまりにテキトーすぎるので、今回はDVDのパッケージに記載されているあらすじをしっかり書きますです。


舞台は1983年のイタリアーーーミラノ。型破りな活動で労働組合を追い出された熱血男・ネッロが行き着いた先は、精神病院の閉鎖によって社会に出ることにあった元患者たTの協同組合だった。お門違いな組合の運営を任されたネッロは、精神病の知識が全くないにも関わらず、持ち前の熱血ぶりを発揮。個性が強すぎて社会に馴染めない元患者たちに仕事でお金を稼ぐことを持ちかける。うぐに手が出るキレやすい男、彼氏が100人いるという妄想を持つ女、UFOが年金を支給してくれていると信じる男…そんな一筋縄ではいかない面々とネッロは、ドタバタなトラブルを巻き起こしながら、無謀ともいえる事業に突っ走っていくがーー。

1978年、イタリアでは、バザーリア法の制定により、次々に精神病院が閉鎖。それまで病院に閉じ込められていた患者たちを外に出し、一般社会で暮らせるような地域づくりに挑戦いた。この物語は、そんな時代に起こった、ある施設の夢のような実話を基にした作品である。

 

今から10年近く前の映画が、さらに30年前の出来事に端を発する実話を下敷きにした映画。ではあるのですが、実のところこれは現代の先進国(とりわけ日本)が直面している問題でもあったりする。
 というのも、精神障害者はなるべく病院や医療施設に頼るのではなく地域全体で、地域中心という方針が政府主導で現在進行形で行われているからだ。
なぜ病院を廃止するという法が成立したのかというのは、まあ一応わたしの専攻している部分であるとはいえここで説明するとかなり長くなってしまうし、半可通な知識で書くとあらぬ誤謬を生みかねないのでごくごく単純化してしまうけれど、簡単に言えば「人権擁護の観点から拘束したり強制入院させたりするのはどうなの?」ということである。たとえば「宇都宮病院事件」なんかは日本でも特にその機運が高まる理由の一つであるし、最近でもNHKのドキュメンタリー「ある青年の死」でも精神病院のスタッフの暴行によって死んだ青年のことが取り上げられていたりしたことからも、決して過去の出来事ではない。

NHKドキュメンタリー - ハートネットTV「ある青年の死」


 ほかにも兵庫県の事件に代表されるように私宅監置の問題なんかもからんでくるのだけれど、先刻承知ながらそこまで突っ込むほどの知識はまだわたしにはないのでとりあえずは「そういう歴史がある」とだけ。

兵庫・長男監禁 5年前親族が市に2回相談(日本テレビ系(NNN)) - Yahoo!ニュース

だから「精神病院を廃止する法」というのは決して患者を見捨てたとかそういうのではなく、むしろ世界的な流れとしてノーマライゼーションを目指した動きの一つなのだろうと思う。1975年の「障害者の権利条約」に少なからず影響を受けているのだろうけれど、イタリアどころか日本の障害福祉に関して学び始めたばかりの自分にはその詳しい背景はわからないので、今現在どうなっているのか詳しいところまではわかりませんが2016年時点では施行されている状態だった模様。

まあ病院を廃止するというのは福祉的にはともかく医療的には色々とぶっ飛びすぎなきらいもありますが、少なくともこの映画に登場するネッロのような人間がいれば成立し得るのでしょう。逆に言えば、こういう人間がいないとこの映画に登場していた人たちはずっと冒頭のように狭苦しい場所で薬を飲まされ切手貼りみたいな細かい作業を延々と続けていることになる。

 

基本的にはあらすじに書いたようなことから、精神障害者の人たちと関わっていくうちに初めは戸惑いがちだったネッロが、紆余曲折を経て彼らの置かれた現状を理解していくにつれ、彼らに相応しい仕事をともに担い、一定の達成をするというもの。
その仕事はある種の「こだわり」から生じる特殊な技能に関わっていたりするわけで、それがひょんなことから成功に繋がっていくというのは実に映画的お約束なのだけれど、どこまでが実話なのだろうか。
 仕事を請け負うことで健常者とも接し、ある精神障害者との恋に発展するという展開が映画の後半にある。最終的には悲劇に繋がっていき、それがネッロを挫折に追い込みはするけれどもみんなの行動によって再起する。
とてもシンプルでわかりやすい。ただ、この映画はちょっとした深い(とか書くと途端に浅く感じる不思議)台詞がある。「誰だってイカれてる」という台詞。結局のところこれが真実なんですよね。精神病者には彼らの理屈があって、それを理解できない・理解しようとしないことから排他・排斥という手段を取ってきたにすぎない。

無論、相手を理解しようとすることはかなり難しいし大変なことだし傷つくこともある。だから楽な方に流される。ぶっちゃけその気持ちはわかるし、先にあげた事件の加害者側のスタッフの行動にしてもわたしは批判できない。究極的に言えば、わたしたちはどちら側にもなりえるのだから。
というか、ネッロもその洗礼を受けるし。
だからこそ、ネッロがある人物から「イカれてる」と言われるシーンは、感動的でもある。ようやく彼が精神病者と同じように見られるくらい彼らに共感・同調できた証左だから。

 なんだか作品そのものに割いた字数が少ないですが、映画としてはどうこうというのは置いておいて悪い映画ではありませんです。