dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

女は二度決断する(AUS DEM NICHTS)

劇場行ったら朝一の回なのにアベンジャーズの客でごった返していてがすごかった。ていうかウザかった。GW効果もあるんだけど、あんなにイオンシネマに人がいるの見たことないですよ。ほんと、人ごみって嫌いだ。まあ好きな人はそもそもいないだろうけど、わたしは輪をかけて嫌いだ。

中年の夫婦がクレヨンしんちゃんアベンジャーズどっちを見るかで迷っていたのがなんか面白かったのでほかの客を許しましたが(何様)。しかしこれまでのmcuでこんなに人が入っているのは見たことないんですけど、この人たちはこれまでのシリーズをちゃんと全部おっかけてきたのだろうか。なんてことを思いながら箱に入っていったのだった。チケット渡すのにも列に並ばなきゃいけないくらい混んでましたよ。普段はガラガラなのに。

 

報告はこれくらいにして、映画「女は二度決断する」について。

 ドイツ(語)の映画といえば去年は「ありがとう、トニエルドマン」なんて傑作もありましたが、本作「女は二度決断する」も傑作です。面白いです。面白い、と書くと内容的に不謹慎かもと思わなくもないですが。
ていうか、すごい上手い。社会的な問題をそれとなく台詞や演出の中に盛り込みつつある一人の女性の話としてしっかりと最期まで語り切る巧さに脱帽。
ただ、あまり社会派とか書くと逆にバカっぽい(主に言語に対する思考が足りないマスコミのせいですが)んですが、それでもやぱり社会派な映画ではある。
偏見を偏見のままコメディとして扱う「サウスパーク」と並べてみても面白いかもですね。

 本作は3つのチャプターに章立てされていて、「Ⅰ 家族」といったようにあらかじめ提示される、わかりやすい構成になっています。最近だと「マジカル・ガール」がこんな感じでしたっけ。
そんなわけなので、とりあえず章ごとに書いてきます。

 

1章:家族
 この章に限らず、全編に渡ってほとんどフィックスで撮っている場面がなくて、手持ちカメラのように常に小さなブレがある。その演出は、人間を描くこの映画にはかなりピッタリしている気がする。「ギフテッド」ほど露骨ではないのも印象が良い。よく考えると映画の始まりからして獄中結婚の様子をホームカメラで捉えた映像から始まるわけですし。

 1章で描かれるのは章のタイトルどおり家族についてなわけですが、アットホームな雰囲気とかそういうのはほぼない。ないというか、本当に冒頭にさらっと(しかし巧妙に)描かれるだけで、10分もしないうちにすべての出来事の発端となる爆破事件が起こるので、むしろ家族を失ったカティヤの喪失感を描き出すチャプターと言えるでしょう。この一件で夫と息子を失うわけですが、事件が起こったときに彼女自身はおふろの王様みたいな場所で妊婦の友達とくつろいでいたというのがまたキツい。この直前の家族の些細だけどまさに良い家族といったやりとりがあるだけに。
この一連のシーンですでにカティヤは犯人と遭遇するわけですが、この辺も後の2章の展開と上手くリンクしていて法廷劇のシーンでカティヤ(ダイアン・クルーガー演)に感情移入させる作りになっている。もしかすると、この辺は共同脚本のハーク・ボームさんが助言していたりするのだろうか。
ちなみに、この妊婦の友人の描き方なんかを巧みに使って時間の経過(=裁判にかかっていた時間)を言外に示していたりする。

 で、前述したように台詞や演出からさらっと社会問題が表出する。たとえば犯人捜索のために警察がカティヤに質問をするシーン。夫はトルコ系で薬を売っていた前科者だったこともあって、警察はカティヤに「夫には敵がいたか?」と訊ねます。これの質問の意味するところは色々と背景があるわけですが、その質問に対して彼女は「敵って何?」と問い返すわけです。夫はすでに闇商売から足を洗っていたにもかかわらず、前科者でありガイジンであるというレッテルを貼ったり特定の宗教を信仰していたのかなど未亡人にデリカシーのない質問をぶつけます。
第二次世界大戦、東西冷戦、そして9.11を経た今、単純冥界な「敵」などという仮想敵がいないこの時代に。ほかにも随所にこれらのようなポリティカルなワードを想起させるものがあったのですが、1回観ただけなので失念している箇所が結構ありますです。

 このチャプターは全体として彼女の悲しみや夫の死によって生じる軋轢なんかが表出させられてくるのですが、ダイアン・クルーガーの煙草の吸い方一つとってもその混乱状態や悲壮感が伝わってきますし、殺された夫ヌーリ(ヌーマン・アチャル演)の実親が彼と彼の息子(要するにカティヤの息子)の損傷した遺体を故郷のトルコに持ち帰りたいと提案されたときのカティヤ側の親の反応やヌーリ側の親の反応、そしてその申し出に対して一度部屋にこもってクスリを吸ってから断るといった、カティヤの弱さを丁寧に描く。やりすぎて「もういい…!もう…休め!」と叫びたくなります。そんな喪失の只中にいる彼女が彼女の弁護人であるダニーロ(デニス・モシット演)からもらったクスリに頼ったり、それが後々の展開に影響していったりと、ともかく脚本がかなーり有機的に絡んでいる。

チャプター1のときは事件が起こってから章の終わりまで、ずっと雨が降っていてちょっと笑えてくるくらいなのですが、カティヤのことを考えるとそれほどの悲しみの中にいるということなのでしょう。
そして雨の降る中、風呂場でリストカットして自殺を図るカティヤ。が、犯人が捕まったという留守電を聞き覚醒し次のチャプターへ。

が、次の章に移る前に、ヌーリが自宅に三人でいる風景をスマホで撮っている短い動画がインサートされる。会社の経理担当でありつつ壊れた息子のラジコンを修理するエンジニアを自称するカティヤ。三人が楽しげにフレームに収まることはもうないのだという物悲しさや寂寥感で胸が苦しくなってきますね。
ところがどっこい、そこは周到なファティ・アキン監督。ここでのラジコン修理というのがまたまた後の展開の伏線というか布石になっていたりする。

 

 2章:正義
 この章は、法廷劇がメインとなっていて、エンタメとしてはここが一番楽しい部分だと思います。検察側と弁護側が参考人の情報などから相手を打ち負かそうとしている頭脳戦が見れますし。見た限りだと法廷では先攻より後攻の方が優位なのだろうか。それとも単純に力量の差なのだろうか。
ここは、共同脚本のハーク・ボームさんが弁護士でもあるという才人だったので、彼の助言なども結構大きかったようです。

 この辺、場所がほとんど法廷内だけなんですがカメラワークや被写界深度でカティヤとダニール(カティヤの弁護人)の距離感を演出していたり、飽きさせない作りになっているんですよ。それにここで犯人(ネオナチカップル)がまともに登場するわけで、ここまでカティヤに感情移入してきた観客にとっても明確な「敵」の登場に盛り上がるわけです(怒りで)。ま、それゆえにラストの展開が納得いかないとおっしゃる人もいるのでしょうが、わたしはむしろあれこそが人間だと思いますね。

 ここで登場する犯人側の弁護士のハーバーベック(ヨハネス・クリシュ演)の顔のウザさとかもね、いいんですよ。すきっ歯だったり眉間に皺寄せる表情だったり小癪な論法使ってきたり。
あるいは、参考人として召喚されるネオナチカップルの男のほうの父親であるユルゲン・メラー(ウルリッヒ・トゥクール演)と、カティヤの加害側と被害側の交流が描かれることで単純な二元論に陥っていないのもイイネ。ウルリッヒさんのちょっと所在なさげな顔がですね、いくら絶縁状態だったとはいえ息子を警察に通報するという行為に胸を痛ませなかったはずがないのだと思わせる。

 紆余曲折があって結局ネオナチカップルは無罪になるわけです。この紆余曲折の中に最終の3章の展開に繋がっていく重要な要素もあったり、前の章における行動が招いた結果であることであったりするのであまり省くわけにもいかないんですな。
たとえば1章でクスリをやっていたがために、様々な事情から薬物検査を拒否するしかなくそれによって証言能力がないとされたことだったり。あるいはホテルを経営するギリシャの極右政党の男がカップルを庇って改ざんした利用歴を提示したことであったり。うろ覚えなのですが、確かこの男の経営するホテルの名前が「オールドドリームなんとか」だった気が…バリバリの保守でちょっと笑えてきます。

 そんなわけで、無罪判決がくだりこの「正義」というサブタイトルの2章は終わり、またしても次の章に移る前に短いホームビデオの動画が挿入されます。

カティヤがおそらくはスマホで撮っている動画(彼女は足先し画面に映らないことから、彼女の視点であると推測できるので)。そこに映っているのは海で戯れる息子と夫。
これは映画のラストショットと密接に繋がります。ラストショットの説明は後に回しますが、これは明らかに生者であるカティヤのいる浜辺をこの世・此岸として描き、海をあの世・彼岸として描いています。この短い動画の中で彼女は夫に誘われるにも関わらず日焼けがどうのこうのと言って浜辺に残り続け、夫と息子は浜辺から海の中に入っていくのですから。

 

最終チャプター、3章の「海」
 この章で描かれるのはカティヤの復讐に至る行動。
確かこの章で1章に登場した妊婦の友達とのやりとりがあったと思うのですが、さらっと描かれるのに情報量が多いです。
まず妊婦だった彼女が実はすでに出産して子どもを連れてきている。「実は」と書いたのはそれを明らかに意図した演出だからです。これが示すのは前述のとおり時間の経過です。裁判にどれだけの時間がかかったのかを暗に示し、それによって疲弊した彼女の心理などを表しているのですが、それだけではなくカティヤの目の前で子どもをあやすという、「悪いわけじゃないけどこっちのことも考えてよ!」なシーンだったり。まあ、これと似たシーンは2章のダニーロとの酒場でのかけあいにも似たのがあるんですが。
 ただ、この友人とのやりとりで重要なのは友人が出産を終えたことで「生理が戻ったの。タンポンあるかしら」という発言に続くカティヤの「これ(タンポン)あげるわ。わたしは止まっちゃったから」というような旨の言葉を発する。この生理というのが、実は結構重要なんですが、それも後述。

それから、彼女は復讐の行動に出ます。
無罪判決によって旅行を楽しむネオナチカップルのフェイスブックを眺めながら情報を収集していく中で、2章のギリシャ人極右オヤジの経営しているホテルの住所を突き止めます。このフェイスブックの投稿コメントも本当に腹立たしくて「国の金で旅行満喫中(。・ ω<)ゞ」みたいなことを書いているわけですよ。キャンピングカーに乗って。
で、ひと悶着ありつつもネオナチカップルの居場所を見つけたカティヤはいよいよ行動に出ます。その間、何度もダニーロから着信があったものの、無視するのです。が、これもラストに繋がっていく演出の一つなのかなーと思います。
犯人の居場所を見つけた彼女は、犯人が使ったのと同じ爆弾を作り始めます。鍋の中に大量の釘を仕込んだ爆弾を。この爆弾を使うのに使われるのが、インサートされた動画で彼女が直していたラジコンというのが、なんともはや言葉にしがたい。

そしてラジコンのリモコンを使って遠隔爆破を狙い、ネオナチカップルがキャンピングカーから出てランニングをしに行っているあいだにキャンピングカーの下に爆弾を置いて二人が戻ってくるのを草葉の陰でじっと待つカティヤ。ですが、ここで彼女は鳥が車のミラーにとまっていることに気づき、爆弾を回収してその場から立ち去っていくのです。


 ちなみに、ランニングから帰ってきた犯人の表情が生き生きしているのが最高に最悪なんですが、この辺のことをフェミニズムの観点からファティ・アキン監督と中村文則氏がパンフレットの対談で語っていて、そのへんもすごく面白いので読んでみるといいかもしれません。パンフレット全体としてはボリュームに欠ける気はしますが。

 

爆弾を爆発させることなく一時撤退した彼女に、またしてもダニーロから電話がかかってきます。けれど、今度は彼女はその電話に出るのです。上告の期限が迫っているから書類の記載にカティヤ本人の署名が必要だと。だから、明日の朝に来てくれと。するとカティヤは本当に心の底から溢れ出たような声で彼に礼を言います。そのあとに、彼女に生理が戻ってくる。

思うに、2章が終わってから生理が戻ってくるまでのカティヤは人間ではなかったのでしょう。人間ではなかったというのは、復讐心に支配され考えること思いやることを止めたがために、人間の血を失った=生理が止まったということ。
そう考えると、どうしてダニーロの電話のあとに彼女に生理が戻ったのかに得心がいく。それまで電話に出なかったのは、他者との接続を完全に絶っている状態であることを示しているのではないか。他者とのつながりを断絶することで他者の個人性を排し、復讐心というゼンマイによって動くだけの機械に成り下がっていたのではないか。

 けれど、彼女は一度踏みとどまる。なぜか。なぜなら、鳥という些細なきっかけではあっても、それによって他者の存在に気づいたから。

他者の存在に気づいた彼女は、ダニーロからの電話を取る。それまで無視していた他者の存在を思い出し、機械から人間に戻った。だから、血を取り戻したんだと思う。
 そして、人間になった彼女は、遠隔から爆弾を起動させて二人を殺すのではなく、自ら爆弾を抱えて乗り込み自爆することを選ぶ。そう。もしも自爆でなかったとしたら、それは息子と夫を奪ったネオナチカップルと何ら変わらない。悪辣な思想に自らの思考を蝕まれ、「他者」という個別な存在を放擲し人種や性別といったガワだけを切り取り攻撃するような思考停止な機械化したネオナチと。

殺戮マシーンというスラングがある。スラングとして定着しているわけではないけれど、殺戮とマシーンという単語を繋げることでそこに人間的な思考が排除されていることを暗に示している(かどうかは不明)のではないか。だとしたら、踏みとどまる直前までの彼女はやはり機械だったのだろう。
だから、彼女はあくまで人間として自爆することを選んだ。悲しみと怒りに支配されていたことで止まっていた生理が、爆破を思い直したあとで再開するのは、つまりそういうことなのだろう。考えることを止めた機械としてではなく「一人の人間として二人の人間を殺める」ために自爆という選択を取ったのではないか。

ただちょっと、映画そのものとは関係ないけれど、少し思うことがある。この映画に限らず「生理」とか女性の人体現象をあまり象徴的に使うっていうのは、それ自体がどこか女性を異なる存在として扱っているような気がしなくもない、というのは前から少し思っていたりする。だって、女性にとってそれはある意味でごくごく身近なものであるはずだから、殊更強調されるとこそばゆいのではないかと。

さて、そんなわけで車が爆発したところで映画は終わるのですが、ここで2章と3章のあいだに挿入される動画について触れた「海があの世である」ということが裏付けされる。裏付けされるというか、このラストのカットによって逆説的に判明する、といったほうが正しいのだけれど。
 なぜ海があの世なのかというのは、ラストに流れる歌の歌詞が露骨にそうであるから。というだけではもちろんないです。ラストショットで爆発した車から空に昇っていく爆煙をカメラが追っていくと、天地が逆転したかのように海が映し出されるからなんですよね。空の上にある世界があの世であることは、誰にだってわかります。まあ、あの世というよりは天国でしょうけれど。
なんにせよ、あのラストカットはすごく美しい。
ラストに至る一連のシーンのカメラのアングルとかもすごい良いです。ちょっとしたホラー(?)にも思えるようなのがあったり。


いや、これはすごい良い映画ですよ、マジで。