dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

どっちが死んでるのコレー

黒沢清の「岸辺の旅」

毎度のことながらこの人の映画ってなんか独特ですよね。黒沢清「叫」で初めて知ったときはそういうのを感じ取るセンサーよりも「なんかつまらないような」といったネガティブセンサーが発動していたのだけれど、少なくとも「岸辺の旅」は奇妙に面白い作品ではあったどす。奇妙だから、というべきなのか。

やたらと音楽が目立っていたなーと思ったら黒沢映画で初めてのフルオケだとのこと。音楽の使い方もなんか普通じゃないんですよね、あれ。「その場面でその音?」という気味悪さというかズレというか。 

この映画全体がそういうズレ・・・みたいなものを意識させる作りになっているように思えてしょうがない。

作品の基本プロットは「妻の前に死んだ夫の霊が現れ、生前に夫が訪れた人々を再訪する」という、なんというか心温まる系にありがちというか想像しやすいものではあります。だけどですねーこれ、普通にホラーですよ。こんなハートフルっぽいガワを使って生と死の垣根を曖昧にさせようと(しかもいつもの黒沢節で)し、現実と幻の境目を不明瞭にさせていく。

深津絵理が何度もベッドから起きるシーンに象徴される(しかも最初の起床シーンで「変な夢」と言わせている)ように、そういう諸々の線引きを曖昧にさせてこようとしているわけですよ。

まず冒頭で深津絵理が女の子にピアノを教えてるシーンなんですけど、顔が映らない。顔が映らないだけでここまで不安を煽れるというのは中々新鮮な体験でしたが、ともかく深津絵理が死者なのかと思うくらい顔が映らない。死者であるはずの浅野忠信の明瞭さと対地させている狙いはあるはずなので、あながち彼女を死者のように見せているというのは外れてはいないでしょう。服装も浅野が暖色だったり(そうでなくとも色味の強い服ばかり)するのに対して、深津は色もグレーだったり服飾そのものも代わり映えしないものばかりで、本当は死んでいるの深津の方ではと思いましたよ。

浅野忠信は水飲んだりぜんざい?食べたり林檎食べたり(なんか肉とか米じゃないとこがまた生と死をあやふやにしてる感じがあったり)してるんですが、深津絵里は何も食さない。蒼井優とバトるとこでお茶飲んでたり、後半でちょっとしたお菓子みたいなのをつまんでいたりはしましたが。それに、テーブルを囲んでるシーンはあったりもしますが。

あと何が怖いって、こちらのわからないロジックが厳然と存在しているのに劇中ではそのロジックの原理がわからないところ。だから観客はそのロジックを想像して安心を保とうとするわけで。これはわたしが観てきた黒沢清の映画の大体に通じる部分ではあると思うのですが、これは特にその傾向が強い気がする。カットの切り替えだけで存在の有無をスイッチングするのとかもそうですけど、もう幽霊がそこに突然現れても動揺とかはしないし、なんだかもうともかく面白い(適当)。

ライティングだと、暖色と白色の電灯の使い方なんかも露骨に使い分けていたり、ガラスや窓越しだったり窓の外の光が尋常じゃないくらいの光量になっていたり(笑)、露骨といえば露骨ではありますか。

 

細かい部分を挙げていくとそれこそザ・黒沢清なところはたくさんあるんで割愛しますが、普通に良い話に収まったという意味では「ニンゲン合格」ぽくもあるような?

 

役者はみんな素晴らしいんですが、深津絵里が個人的にはかなりキマシタ。エロい・・・というとリビドー的な意味合いから齟齬がありそうなので、あえて艶かしいと表現しますがともかく魅力的なんですよね。こう、抱きしめて支えてあげないと消えてしまいそうなおぼつかなさと、後半でそれを払拭していくのとか。

あと蒼井優ね。あの人の顔はどうしても好きになれないんですけど、やっぱり女優としてはずば抜けている。カメラワークやセリフの応酬(ほぼカット割らないのとかも相まって)では食い気味だったり、ここはともかく色々な意味で楽しい。

浅野忠信もかなりはまり役だったし。

 

散歩する侵略者」の宇宙人たちのツーリング場面を除けばこっちの方がすきかもしれない。