dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

「正しくない」ということは「間違い」でも「誤ち」でもない。だからといって、字面以上の意味があるわけでもない救いのなさ

 

やたらとフジテレビで特集(という名の映画とはあまり関係のない企画)が組まれていたと思ったら資本入ってたんですね。まあ、こういうところで出資してくれるのはありがたいのでじゃんじゃん(金だけ出して口出しはしないで)やってほしいものですね。

 

そんなわけで「万引き家族」の先行ロードショーを観てきました。いや、観てきてしまいましたと書くべきか。「犬ヶ島」「ファントム・スレッド」を書くと意気込んでこの体たらくは本当に申し開きのしようがない。

 

是枝作品をよく知っている人であれば(自分はそんな知らないけど)、この「万引き家族」を観てまっさきに思い浮かべるのは「誰も知らない」だろう。それは表面的に「虐待を受けた子ども」というものが描かれているからというよりも、もっと抽象的な「見向きもされない人たち」を描いているからにほかならない。あるいは呉美保監督の「きみはいい子」「そこのみにて光輝く」とも共通している。ていうか、「万引き家族」はそれらを一度に混ぜ込んで落とし込んでいる。
是枝監督と呉美保監督はどっかで対談していた気もするし、気質として似たものがあるのでしょう。また、似た設定としては「ごっこ」もありましたね。虐待を受けている女の子をロリコンニートが救い出して死んだ父親の年金を不正受給して生活するという部分なんか、かなり設定として共通項があるし。もっとも、あの人の場合は基本的に恋愛の方に向かいがちなのでジャンルがそもそも違いますが。行き場のない子どもでいえば「バケモノの子」も近いかもですね。「誰も知らない」といえば、今作で脚光を浴びた子役の城桧吏の顔が当時の柳楽くんに似てるんですよね。造作というよりは雰囲気とか。多分メイクでちょっと肌を黒っぽく見せているのもあるのでしょうね。
ただ、一つ言えるのは「誰も知らない」から間違いなく進化(時代に適応しているという意味で)し、子どもに寄り添っていた視点から離れより問題を掘り下げたという意味において深化してもいます、この「万引き家族」は。

 

今回はBGMなどはかなり少なく抑えられているのですが、その分冒頭とクレジットで流れる音楽が際立っている。細野晴臣がかなりいい仕事をしています。この音楽というのがまさにこの作品の内包する危うさを端的に示していて、優しげな音の中に挟まれる不協和音が観客の不安を煽ってくるんです。
冒頭でいえば、「誰も彼らをみていない」という状況に怖気がした。映画が始まってすぐ、リリーフランキー演じる柴田治と城桧吏演じる柴田祥太が連携してスーパーで万引きをする場面から始まります。そして、遠目俯瞰気味でスーパーの店内を映し出しながらタイトルバックになるのですが、ここで誰ひとりとしてこの二人に気づかず、ただレジの音が鳴るという「無関心あるいは無知覚の音」とでも言うべき寒々しい場面に。

 

万引きをしたと思えば商店街の店でコロッケを普通に買う。そのコロッケを食べながら帰る途中でベランダに放り出された女の子(佐々木みゆ)を保護するんですが、隙間が少なく狭い形状をしている柵に囲まれているんですね。ここの撮り方がとても意味深で、小さな隙間から覗くようにしているんですよね。まるで、ぎゅっと目を凝らして見ないと見落としてしまうのだと暗に伝えたいかのように。そのわずかな隙間に、彼女のような少女がいるのだと。どうしてもそう受け取ってしまうのは、わたしの思いすごしだろうか。

 

じゅりを連れて治と祥太がボロ屋に戻るとそこには誰ひとりとして血の繋がりのない家族が待っている。血縁がないことは後々に判明することではあるのですが、なんとなく血縁らしさがないことはわかるんですね。だというのに、ここに限らずこの家族のかけあいがすごく自然で(セリフの最中に画面外からほかの柴田家の人物が喋っている演出も含め。ただ、そのせいでセリフがかぶって聞き取れない部分だったり、単にふごふご喋っている樹木希林のセリフが聞き取れなかったりする)本当の家族に見えてくる。

 

 当初は誘拐として騒がれることを恐れたり、おねしょするじゅりに苛々していたり、一度は親元に返そうと信代(安藤サクラ)と治でゆりが元いたマンションの前まで行くも、彼女の両親の口論を聞いて思いとどまるんですが、ここで信代がゆりを抱いたままその場でへたりこむんですよね、無言で。信代もそれを知っているのでしょう。

そうして柴田家に迎えられることになったじゅりは信代から「凛」と新たに名付けられるんですね。この映画における名前というのは、個々の人間の繋がりを示す重要なファクターであったりもしますよね。子どもを産めない信代から新しく「名前をつけられる」凛は言わずもがな、「父さん」と呼ばれたい治とか、血の繋がった妹の名前を勤め先のJK見学店で源氏名として使う亜紀(松岡茉優)とか、治に彼の実の名前をつけられた祥太とか・・・。

 

 それにしても、一見するとハートフル(自分はそう見えなかったけど)な装いの割に、この映画で提起した問題に対する明確な答えはないし(そもそも出せない)ほとんど救いらしい救いはない。救いに関しては最後のシーンの解釈によるけど、どうもノベライズ版を読めばはっきりしそうな感じもある。

家族の中心だった初枝(樹木希林)は死ぬし亜紀はいかがわしい店で働かなくてはならない(全年齢向け映画でここにそれなりの時間を割くあたり、やはり監督なりの正義感のようなものがあるようにおもえる。あと単純に松岡茉優が好きなんでしょう。いやらしい!)し足折ったのに労災は降りないし善意で子どもを匿ったら同僚に脅されて仕事辞めなければならないし勃起しはじめの年なのに学校に通えないし、それでも笑って暮らせてたのにそれすら社会の力に引き裂かれる始末。


特に子どもにも容赦がないと思ったのは、祥太と信代とのやり取りの中で祥太が万引きの是非を信代に問うシーン。ここで信代は子どもである祥太に対して現実と正しさの間で葛藤する中で「店が潰れなければいい」と、彼の中で芽生えつつある罪悪感を軽くしようとするのです。けれど、物語の後半で祥太が常習的に盗んでいた駄菓子屋が潰れてしまうのです。ここの駄菓子屋の店主を塚本明が演じていて、出番自体は少ないのですが祥太が万引きをしていることを知りつつそれを見逃し続けていて、ある日凛に万引きをさせたときに「妹にはさせちゃいけない」と諭されお菓子をただで渡されてしまう。
そんな店主の店が、自分の万引きという行為で潰れてしまったのだと、気づかされてしまう。もちろん、大局的に見れば祥太の万引き以上の問題があってそれらが集積した結果であるわけですが、それで彼の行為が許さるわけでもなければ一因でないとされるわけでもない。10歳かそこらの男の子にはあまりに酷だ。

 
くわえて初枝が死んだあとの描写の生々しさ。経済的な理由や正式な手続きを踏んでいない柴田一家にとって彼女が死んだことは隠匿しなければなりません。かといって夏場に死体をそのままにしていられるはずもなく、そうなるとどうするか。はい、そのとおり「冷たい熱帯魚」コースです。もちろん、直接描写されることはないのですが、一瞬だけ赤い色が飛び散った白いタンクトップを来た信代が映るんですよね。
ここまで描写しなければならないのだと監督が考えたのは、表現者としての責務のようなものがあったのだとしか考えられない。おためごかしや誤魔化しではなく、徹底的に「そうしなければならない人々」を描き出す。

やがて、直接的ではないものの彼女の死をきっかけに家族は瓦解していく。駄菓子屋のおじいさん(塚本明)に諭されたことで揺らぐ祥太の治に対する信頼。手際の悪い凛を庇って捕まりそうになって足を折ってしまう祥太。そんな彼を病院に残し夜逃げしようとしたところを見つかって柴田一家は御用になります。

 

そして歪な家族は離散し、信代と治の過去の前科が暴かれたり凛は結局血のつながった家族のところに返されたり(この辺のマスコミの描き方が、本当にこんな感じなのでしょうが無言の批判のようなものを読み取ってしまうのですね、わたしのような人間は)バラバラになってしまいます。
ここに至るまでにもこの一家はそれぞれに辛い目に合っている。安藤サクラと仲の良い同僚のどちらかを切らなければならないという選択を、まさにその二人にさせる無責任という残忍さ。あるいは、松岡茉優樹木希林が保護した理由が実は損得勘定に根付いているのではないかという揺さぶりをかけて答えを明示しないのとか。
ほかにも些細な演出ですが、ランドセルを背負って通り過ぎる小学生を見て「学校は家で勉強できないやつが行くところ」という強がり(強がりではなく本当にそう考えているとも取れるのですが)をつぶやく祥太とか。ここをあくまでバストとかではなくそっけなく、撮るのが上手いバランスだったりしますよね。ほかにも、信代と祥太が一緒に歩いているところで本当に背景としてすれ違っていく小学生の姿とか、さりげなくダメージを与えてくる。

まったく、世知辛い世の中である。

 

ここまで至るとほとんど終盤なのですが、ここから登場する社会正義側の人間に高良健吾池脇千鶴が登場してびっくり。その前にも、亜紀の客として「生きづらさ」を抱える池松壮亮が出ていたり、脇に至るまで演技派な俳優陣で固められているあたりにこの映画の隙のなさがうかがい知れる。

池脇・高良の二人が主張する社会通念上の正義と柴田一家のそれぞれの「そうすることでしか生きれない」生き方とのコンフリクトが生じるのですが、柴田一家に感情移入すればするほどに社会正義側に憤りを感じてしまうでしょう。

いやまあ、そうでなくとも池脇千鶴vs安藤サクラのシーンの池脇の追い込み方は明らかに悪意があるんですが、しかし言葉上は間違ったことは言っていない。言っていないがまた腹立たしかったりするのである。清く正しく生きることができない人間にとっては。

その点では、この映画は「フォックス・キャッチャー」で描いていることにも通じるかもしれません。

 

最後に祥太と治の交流が描かれるのですが、バスを追っかけるというのはちょーとクリシェすぎないかなーとは思います・・・クリシェと自然な発露の問題は考えが詰めきれていないので書きませんが。
そして、凛のラストカットでこの映画は幕を閉じるわけですが、 この映画はクレジットに至ってまでなお、観客に安心感を与えてくれない。徹底して映画というフィクションの映像を通して私たちを現実に縛り付けようとする。

徹底して現実を炙り出そうとする。
 

だから、この映画を観て涙を流しちゃいけない気がする。こんなものを見せられて絶望する人もいるだろう。なにせ、この映画には何一つ絶対的な正しさなんてものは出てこないのだから。塚本明にしたって、あれは確かにほかの人々が向けなかった「見て見ぬふり」という優しさではあったけれど、子どもであろうと盗んだことを咎めるのが「大人としての正しさ」ではあるわけで。それ以前に、冒頭のシーンで顕著なようにこの家族を視界にすらいれないのが世間の目なわけで、それに比べればはるかに有情ではあるかもしれない。けれど、そこで立ち止まってはいけない。考え続けなければならない。「デトロイト」がそうであったように。


話もさることながらキャストが揃いも揃って素晴らしい。おそらく是枝監督が最も愛情を注いでいるであろう松岡茉優、と樹木希林

松岡茉優の肉体をあそこまで生々しく描く必要あったのか、と思う。膝枕のあともしつこく太もも撮ってるし、少年の性の芽生えを描くとはいえあんなドアップで胸を撮るとか、ちょっと私情入ってませんか、監督?

樹木希林のあの実在感はなんでしょう。死ぬ直前の老いた(入れ歯を抜いているような口)表情と前半の顔の違いなど、なんかもうやばいです。

リリーフランキーは正直言っていつもリリーフランキーにしか見えないんですけど、今回もリリーフランキーでした。いや、キムタクみたいにキムタクしか演じられないのではなくリリーフランキーリリーフランキーのまま色々な役を演じているんですけど。

子役も良かったですよ、自然で。既述のとおり脇役も素晴らしい。

しかぁし、わたし個人はこの二人以上に、安藤サクラが素晴らしいと思いましたです。

同僚に向かって「もしバラしたら、殺すよ」と脅す(正確には脅されているので脅し返しているのですが)カットの痺れるほどのかっこよさ。ここで「マジで殺るな、この女」と思わせるくらい素っ気なくも迫力ある声と表情だったのですが、後に本当に人を殺していることが判明するあたりなど、安藤サクラは最高です。最高すぎます。あと生々しいフランキーとのベッドシーン。からの子どもが帰宅して大慌てて服を着るあたりのギャグ感とかも含めて安藤サクラのシーンは全部よろしい。
汚い風呂で凛と傷の見せ合いっこするあたりや、地に足付いた生々しさがともかく安藤サクラの真骨頂だと思うのですが、今回はそれが遺憾無く発揮されていました。

 
いい映画だったけれど、でもこれ、日本に存在する問題ではあると思うと、やっぱり気が滅入る。

それにしても、最近の映画を見ていると本当に「善と悪」が概念でしかないのだなぁとしみじみ思う。 

 

 

怒りの余談

何でもかんでも人を神格化するのは気持ちが悪い。と、この映画のある人の考察を目にして思った。まして、この映画が回答だなんて思考停止もいいところでしょ。

どこかの誰かが言った、宗教は思考を奪うというのはこういう部分で意外とありがちなのかもしれない。それは信者だからということではなく。「それを知っている」という衒学的自己解答ありきで考察するのって、それこじつけじゃんすか。

いや、わたしも身に覚えはありますので声高には批判できないんですが、少なくともそうならないように気をつけてはいるつもりですしお寿司。

まあ、もし本当にこの映画がそういう構造を含んでいるのだとしたら、評価は変わらないまでも嫌いになるかもしれないなぁ。