dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

未来のミライの試写会に行ってきたよ

気づけば映画館で映画を見るのがひと月ぶりという。

映画館に行く頻度が減ったなぁとは思っていたんですが、まさかこれほどとは・・・。いや、4月から本当に忙しいんですよね。忙しいというか、大変というか。そんなわけで試写会でもないと映画館に足を運んでなかったでしょう、という気はするのでありがたく馳せ参じました。まあ、その代わりに犠牲になったものもあるんですが。

 

あ、普段はネタバレ注意とか書きませんが、さすがに公開前の映画なのでネタバレ注意と但し書きしておきますので、読む場合はそのへんあしからず。

あ、それとケモナー要素を期待している人には先に断っておきますが、今回のケモショタ要素はほとんどオマケというか、予告編の一連のシークエンスだけなので「おおかみこどもの雨と雪」とかレナモンを求めている人は肩透かし喰らうかも。このへんも含めて、全体的にシームレスな妄想・想像力(とは、後半を見ると言い切れないわけですが)空間と現実のいまここの転化が同じ角度から繰り返し行われるのですが、個人的にはA.F.ハロルド「ぼくが消えないうちに」なんかを読んでいるとむしろすんなりと頭に入ってくるかな。

 これがもっと境目があやふやになったら今敏といった具合。

 

別に細田守のファンでもなんでもないのですが、なにげにこの人の長編映画は全部観ている不思議。いや、別に数が多くないので不思議でもなんでもないですし、それを誇るつもりはまったくないんですが、個人的に珍しいことではあるので。さすがに「おジャ魔女ドレミ」とかはフォローできてないけど、少なくとも劇場公開された映画は全部観ているはず。細田守は特別好きではないですが「スパイラル」のopは好きですけど。
デジモンでヒカリと太一の兄妹がメインの回で演出してたアレは色々とヤバげだったりして印象に残ってはいましたので、その頃から作家性みたいなものはあったのでしょう。


しかしまあ、宮崎駿(というかスタジオジブリかな)といいこの人といい、なぜか大衆向けのエンタメを作る人と思われている節があるのだけれど、私はちょっと疑問。いや、両者ともわかりやすいエンタメ映画を作っていますし、プロデューサーとか色々とあるんでしょうが、すくなくとも万人受けはしないであろう強烈な何かがあるとは思う。慧眼の持ち主は早くからそれに気づいているわけですが、細田守の場合は特に「生と死」なんじゃないかと。だいたいね、「嫌いな食べ物はイカリング。理由は輪の中が深淵のブラックホールのようで、吸い込まれそうだから」なんて「トップランナー」で答えている人がね、死を意識しないわけないんですよ(偏見)。

思えば、「ぼくらのウォーゲーム」でさえディアボロモン(ラブマシーンや鯨もそうだった)の無機質な「通じなさ」やウォーグレイモン&メタルガルルモンが瀕死に追い込まれるところは恐ろしかった。
なぜ恐ろしいのか。それは、多分、彼岸のものだから。
逆に、なぜ細田守ショタコンもとい成長著しい少年にエロスを感じるのか。それはやはり、セイの匂いを発しているからではないだろうか。そうでもなければカズマHSHS(超意訳)などと人前であることを憚らずに言うはずもない。


ただ、今回はその「生と死」を未来と過去と今に紐付けて、円環的なシステムに包含することで一歩先に進んだんじゃないかなぁ、と個人的には思ったり。というのも、今回はクレジットが冒頭と最後にあるんですよね。わざわざEDテーマを流しながら、どう見てもEDのソレとしか思えない絵ヅラ、テレビアニメ映画なんかでありがちな背景真っ黒で画面左に小さめの画面が出てきてい右側に白い文字でクレジットが縦に流れていくあれ。その左側の画面でくんちゃん(CV:上白石萌音)が誕生するまでの経緯がさらっと描かれるんですよ。

ご丁寧にタイトルも映画の最初と終わりで2回出ますし、この辺の終わりと始まりのダブらせ方は明らかに意図したものであると言える。

いや、「メッセージ」と比べるとそこまで徹底した円環構造とは言いづらいかな、とは相対的に思います。ただ細田監督はあくまで大衆向けを意図しているっぽいので、そこまでやると子どもが分からなくなりますし、塩梅としてはいいのかな。といっても、子どもたちは随所の笑わせポイントでは笑っていましたがタイムスリップしたあたりから話がわからなくなってきてたっぽいですけど。終わったあとは「これで終わり~?」といった子供の声がちらほら聞こえてきましたから。だからといって退屈していた、ということではないですけれど。

で、冒頭といえば頭っから全景からの下へのパンでくんちゃん一家の自宅へとズームしていくんですが、これが2回繰り返されて時間の経過を表現していたり「バケモノの子」での九太の成長以上に手際の良い省略をしていました。省略というか、ダイナミックな時間表現というか。今作は全体的に、説明的な説明を排しているように感じました。前作ではそのへんを評論家諸氏に突っつかれていましたし、監督も色々と考えたのでしょうね(笑)。
 後述する「死の駅(仮名)」から脱出して空に落ちていくシーン(とか書くとパテマをイメージされると思いますが、まああんな感じ)で、未来のミライちゃんが唐突に「インデックスがー過去と未来と今がー」と説明的な説明台詞を口にしたのはちょっとやりすぎかなぁ、とは思いました。そもそも4歳児に単語の説明で「インデックス」なんて単語使われても分からんでしょう。ここはもっと噛み砕いた抽象的な台詞でよかったんじゃないかな。
 

全体としては生に満ち溢れているこの映画。それは子どもの誕生から始まることからも言わずもがななんだけれど、それと同じくらい死は映画の各所で立ち現れてくる。一番最初はひいおじいちゃんの死。これは劇中ですでに故人であるひいおじいちゃんの話が会話として出てくるだけなんだけれど、中盤あたりではくんちゃんが自転車の練習をするシーンに、まるで心霊写真かのように映り込む彼岸の匂い。あの寂れた時計台みたいな建物。オリコンニュースでは横浜市磯子区金沢区あたりが舞台ということを書いていたんだけれど、ひいじいちゃんの過去の時代では健在だった同じ建物が現在では寂れているという諸行無常さ。ただ、ここがどこかちょっとよくわからないんですよね。どこかで見た気はするんだけど。映画の最後の方で車ででかけようとしている行き先とか、忘れちゃったんですけど、位置関係とか時間軸とかって、どうなってたっけ・・・。
それはともかく、青空の下、緑の生い茂る公園という生に溢れる背後に屹立するその死の匂い。細田作品の空はむしろ「風立ちぬ」の空がそうであったように、彼岸として在るわけだから、やはり怖い。

そして、それが極に達するのが未来のくんちゃんと邂逅した直後に電車に乗って駅に到着する場面。仮に地獄駅と名づけますが、ここがともかく怖い。落とし物の受付の「人」(というにはあまりに抽象的表現なのですが)の無機質な声や対応や無慈悲さ。この質感、どことなく星新一のアニメーションに近い気がするんですよね。

あるいは、のっぺらぼうのモブ。顔が画一化された人違いおかあさん、からのオニババ。ここからさらに、まさしく死の新幹線と呼ぶべき異形の新幹線が自分を見失ったくんちゃんを吸い込もうとする。ここでちょっと「リメンバー・ミー」的な死の概念を想起する人も多いのではないでしょうか。内装といい、この新幹線はちょっと子どもには怖いんじゃないかな。CGのテクスチャ(?)がちょっと気になりましたけど、ともかくこのへんのほかの新幹線の無慈悲な問答といい、全体的に怖い。
なんというか、この映画で描かれる空想空間といいこの死の駅といい、自分が幼い頃に読んだ「めっきらもっきらどおんどん」という絵本がダブるんですよね。

で、そこで生の象徴たる未来ちゃん(赤ん坊ver)を見つけて、「ミライの兄」という自分を見出すことで未来のミライによって救出される。この辺のシーンを観ていて思ったんですけど、そういえば自分が4歳のころって両親の名前って言えたっけ、ということ。このへんは、監督自身の体験が反映されていそう。
死の駅から抜け出した兄妹はそのまま前述した一家のアーカイブたる木の中に入っていって(いや、真面目に)過去と未来と今を見ることで連綿とした繋がりに気づく。そして、くんちゃんは未来のミライののいる未来、つまり未来のミライにとっての現在地点で彼女と別れ、くんちゃんは元の世界に戻っていく。

ラストシーン、兄妹の顔が画面ごと明るくなっていくのが、個人的にはハっとさせられて好きだったりする。が、4歳児のくんちゃんを主観に据えているとはいえ、あれだけ時系列やら入れ替えていたら子どもはさすがにわからないのでは。わからなくていいのかな、まだ。

演出としては反復だったりパンだったり、あまりカットを割らなかったり引きのショットが多かったですね。

 

ただ、極めて個人的なことを言わせてもらえると、4歳児にそれは重すぎる。

あと上白石萌音ちゃんは4歳児をやるには声がさすがにキャピキャピしすぎでは、とは思います。くんちゃん単体で聞いているときはだんだん慣れてきてそこまで違和感があるわけではないんですが、モブの年上の少年たちと絡むシーンでは、そのモブ少年たちの声をおそらく本当の少年を使っているために、明らかに年下のくんちゃんよりも声が高いということに。まあ、くんちゃんはあの年で色々な世界を見てきてしまっているので、その分の積りが声に反映されたと考えれば・・・というのはさすがにキツいか。

 

あまり家族の部分には言及してませんが、そこらへんにいそうな中の上の家族です。 ただ、過去のお母さんのシーンを見ているとADHDというか発達障害というか、なのかなと思ったりしてしまった。あれを子どもの「自由奔放さ」として捉えるには私はちょっと抵抗が。

あと家族に関して言えば、細田監督は「生と死」をオブラートに包むために家族を描いているのか、家族というシステムにそれそのものを見出しているのか、私にはちょっとわからないのだけれど、しかし「サマーウォーズ」から一貫して家族を描き続けているということは少なからず思うところはある気がします。「オマツリ男爵」でさえそれに近い関係性を描いているわけだし・・・ってそれはさすがにそれはこじつけだろうか。

 

 

とりあえず、久々のリアタイ映画の感想としてはこんなところでしょうか。