dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

言葉で通じないということ

イニャリトゥ監督の「バベル」

8月のまとめの方に組み込もうとも考えたんですが、色々と思うところがあったのと台風接近につき時間ができたので単独記事をポストしてやることにしました。

イニャリトゥ監督といえば「バードマン」や「レヴェナント」が日本でも話題になってしましたのでそれなりに映画を見ている人なら名前を知っているでしょう。ま、いきなり余談ですみませんが「レヴェナント」の日本版予告で映像の最後にデカデカと「音楽:坂本龍一」と出したのはなんというかこう、ダサいっす。ダサいっていうか、下品というか、舐めてるというか。別に坂本さんが嫌いとかいうわけではないんですがね。

 

「バベル」なんですが、公開当時も色々な意味で反響を呼んでいたらしくこちらの映画も知名度はあるみたいですね。2006年ですが当時は映画なんてほとんど見ていない若輩でしたのでこの映画についてはほとんど知らず。

なんか観ている間にズウィックっぽさを感じたんですけど、そういう人はあまりいないのかしら。あと日本の街並みの撮り方なんかは「ロスト・イン・トランスレーション」ぽいというか、どうもエキゾチックに映っているきらいがある。

映画のタイトルですでに落ちているような気もするんですが、やはりバベルということで重要な要素となってくるのは言葉です。

この映画の中にはいくつもの言語が出てくる。英語、スペイン語アラビア語、日本語、そして日本手話。これらは明確に異なる言語であるのですが、しかしこの映画ではこれら全ての言葉に共通する部分があると思います。

それは、意思疎通の手段としての言葉におけるコミュニケーションが不全に陥っているということ。言語の違いによるコミュニケーション不全ということではなく、表面的に交わされる言葉が、その実はまったく通じあえていないということなのですよね。ブラピとブランシェットが会話している場面の通わなさ、あるいはアフメッドとユセフの兄弟間に生じる決定的な違和と差異、マイクとデビー(今調べたらエル・ファニングだったのかい!)が言葉を発するまもなくただなすがまま状況に流されるさま、そもそも異なる言語での意思疎通を図らざるを得ない菊地凛子

とにもかくにも、この映画の中では言葉が恐ろしい程に頼りない。それゆえにそれぞれがすれ違い・絡まりあって一つの事故へと収束(拡散)していく。

血が血を引き寄せ、不寛容が排他を招き、無理解によるすれ違いが傷を膿ませる。

 

けれど、言葉の代わりにこの映画には意思疎通の手段が用意されている。それは多分、触れ合うこと。登場したシーンではコーラのことですらストレサーになるくらいいがみ合っていたブラピとブランシェットが、皮肉にも撃たれたことによって寄り添い触れtづけたように、浮薄な言葉(異言語、書き置き)でしか会話をしていなかった役所広司菊地凛子の親子が抱き合って終わるように。電話なんていうか純粋に音としての言語以外に伝わりようのない(この映画世界では最も通じあえないコミュニケーション手段であるというのに)しかやりとりのないブラピとアメリアの関係があのような形で終わるように、その逆もしかりなのであろう。

 

演出的に言えばクラブでのミュート使い(煽ってから「September」イントロをミュートにするのとか、切り替えとか)による世界表現と、そこ(放縦な性の世界)に陶酔しようと努める(もちろん上手くいくはずもないのですが)菊地凛子とか、痛々しくて大変よろしい。

時系列をバラバラにしつつまったくこんがらがることがないのも上手いですよね。

あとなにげにペーニャとか出ているし、エルはロリすぎて誰かわからなかったけんど、菊地凛子は妙なエロさがあるんですよねぇ。顔は別に可愛いわけでも特別綺麗ってわけでもないんですけど。