dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

バートンマンの帰還

8月のまとめに入れるつもりで見てたら、なんだか悲しくなってきてしまったのでこちらに。

バットマン リターンズ」がこんなにやりきれない話だとは思わなかった。

それにしても、技術的な部分やアクションへの嗜好を別にしても、やはりバートンはヒーロー/ヴィランを超人として描くことをしないのだなぁ、と「バットマン」からこっち、「リターンズ」を観て考えてしまった。

後で更新する予定の「8月のまとめ」の方にも書いてあることなのだけれど、バートンははバットマンたちをスナイダーのようなカッコいいルックとしてのヒーローだったり、ノーランのような現実(にありうる問題)と相対化させるための装置として暑かったりはしていない。確かに特別な存在として描いてはいるのだろうけれど、それはベルタースキャンディ的に前提として肯定を含んだものではなく、フリークである自身を世界と対立させて自虐し、それを踏まえたうえで「それでもレリゴーしたい」願望の発露なのだろう。

だからペンギンとキャットウーマンだった。

キャットウーマンは徹底して被害者だった。フリークの肯定されるべき側面が、しかしダーティな現実の前に破れてキャットウーマンになった。そしてそれは社会規範としての正しさを内包しているがために、ラストのワンカットに結実する。

けれどバートンは優しいだけではない。根底にフリークに注ぐ優しさや愛なるものがあるのは確かだけれど、フリーク(≒オタク)が疎外者である理由を決して世界のせいだけにはしない。歪みとしての醜悪さゆえに排斥されるのだ、とバートンは自嘲しているはずだ。だから、ペンギンにはフリークの背負わされたスティグマがあるのだけれど、それを笠に着て傍若無人に振る舞う。たとえ、そこに世界の悪意の囁きに唆された部分があったとしても、肯定はしない。

だから、ペンギンの最後は悲しくもあるのだけれど、哀愁漂う悲しいものとして描けるということ自体がフリークスへの慰めであるとも言える。

これは9.11以後のノーランのバットマンの横に並ばせるのがいささか居心地の悪さを感じてしまう(無邪気なかっこよさを追求しただけのスナイダーバッツが間に入ってくれることで、なにげに良い塩梅になっている気もする)。

伊藤はこれが転じると「そのままの君でいいんだよ」に繋がると書いていたけれど、そうだろうか?そうかもしれない。そうかもしれないのだけれど、ペンギンをああいうふうに描ききった時点で、バートンにはやはり大人としての矜持があって(映画製作上の都合、と言い捨ててしまっても表面上はなんら変わりはないのだけれど)、それを受け取る側の私たちがどう動くか、というところで踏みとどまっているように思える。すくなくとも、「シザーハンズ」に比べれば。

 

キャットウーマンになることを暗示するメガネの影使いとか、演出も凝っていて楽しいのですが、今見ると個人的には色々と辛い映画ではある。

 

そういえば、自分は発達障害なのではないか、と考える人が増えているらしい。これは多分、バートンバッツの優しさの庇護に与ろうとする人たちが増えてるということだと思う。けれど、そうしたスティグマを欲しがるほとんどの人が実のところペンギンでもなければキャトウーマンでもなくて、それどころかペンギン軍団のサーカス団員ですらもないのだ。もちろん、このわたしも含めて。

要するに、自分が無能で怠惰であることをスティグマに求めようとしているわけだ。本来であれば逆なのだけれど、無能な怠け者はその無能さの根拠となるお手軽な免罪符を欲しがっている。これは医療化の波というのが関係している、と思う。

痴漢犯罪ですら病とみなされるこの見方は、あらゆるものに原因を貼り付けるこの見方は、色々と歪みを持っていると思う。そうした方が社会が上手く回るのだとしても。弱者救済・ノーマライゼーション・社会的包摂・・・それはら全て、弱者たりえる弱者のための概念であって、真に弱者足りえない弱者はその囲いの中には含まれない。

それは、実のところ「バットマン リターンズ」にも同じことが言えるのだ。「万引き家族」のあの一家が受けるべきバートンの眼差しは、無能な怠け者である私は含まれない。

多分、少し前だったらこの映画に自分を含ませていたかもしれない。けれど、さすがにそこまで自己欺瞞に陥るほどの馬鹿ではないと気づいてしまった今、「リターンズ」を観て涙を流すことはなかった。

けれど安心して欲しい。そんな無能の怠け者のためにこそ「大いなる西部」があるのだから。ただし気をつけなければならないのは、「大いなる西部」におんぶにだっこのままでいることは進歩を妨げるということを。それはこの世の中では生きづらいことなのだということを。

あくまで安全基地として。