dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

「死」が生き生きと描かれる世界で死ぬために生きるということ

ペンギン・ハイウェイ」を観てきました。「カメラを止めるな」と迷ったんですけど、原作未読につきどういう話かまったくわからない状態で「お姉さんの投げた缶がペンギンになった」というあらすじを耳にし、しかもそれがSFであるという情報を仕入れたのでどういう形に落ち着くのかと気になってこちらにすることに。

ただ


 普通に観ているとSFというか限りなくローファンタジーな様相ではある。SFとは何かということを深く突っ込むとキリがないのと私自身の底が知れてしまうのでどこがどう、とは言えないのですが、原作がSFの賞を取っているしパンフには大森望も寄稿してるし、SFでいいでしょう(テキトー)。

成長の象徴として歯が抜け、ペンギンの謎解き(大森望はこれをもって精神的イニシエーションと書いていました)。ここまでがアバンだと言ってもいい。
で、こっからしばらくはおねショタ大歓喜のシーンが続きます。
それから大人(だけの世界)と子ども(だけの世界)の両方が描かれ、それが「海」を中心にして収束していき後半のスペクタクル展開へとつながっていく。
部分部分でどことなく宮崎アニメな世界を思わせる。森の奥の海がある世界はハウルの魔法が降ってくる世界に似ているし、ほかにも「千と千尋~」に似ている場面もある。
だからどう、というわけではなく印象としてあるとはいえる。

見た目は至ってシンプルで、ひと夏の冒険を通して少年が成長する話、という体である。体である、というか別に間違ってはないのですけれど、一見すると実にとっつきやすいものに見えて中身は結構子どもにはとっつきにくいものだと思うのですよ。夏休みということもあって子どももいたんですけど、多分、わかりきってはいないと思う。

なぜなら、立ち位置が違うだけでこの映画の見据えているものは細田守のそれに近いから。

 つまり、「死」の存在を否が応でも感じ取りながら成長を促される人間の話、ということ。それは「少年」の部屋に、妹が母親が死ぬことに気づくて泣き出すシーンに象徴される(唐突に見えて、実は予感が張り詰めていたりする)。
この映画において少年ことアオヤマくんは「死」の存在を知ってこそすれ、ついぞ物語中では理解にまで至ってはいないわけ(のように私には見える)で、映画館にいた小学校低学年か年長くらいの子どもは「死」を知っているかどうかすらわからない子どもには些か首をかしげたくもなるのではないか。

かといって、それを補ってあまりあるほどのアニメーションのダイナミズムを含んでいるかと言われると私にはわからない。ただ、後述しますが「あるもの」に関するアニメーションの力の入れようはあるので(パンフでも言及していますし)、それをもって「子どもも楽しめる」と言うことはできよう。ただ、ディズニー並みのCGで水を表現しているわけでもなく、徹底的にアナログな水を表現した「ポニョ」のような振り切りでもない水の表現は、もしかすると意図的に生命感を排していたのかな、と思う。まあ、だってこの映画における「海」は生命のスープではないから。

この映画では重要な要素として「お姉さん」「ペンギン」「海(世界の果て)」がある。これらはいずれもは「死」を形成するトリニティのピースであり、「世界の果て」はすなわち死の世界であると言える。

そしてそれはこの映画が描き出す「人間の(それとも子どもの、かな)理解の及ばぬもの」をどう描くか、という直接的な表現にもつながってくる。大森望はパンフで「正体不明の怪物=ジャバウォックを人間の理解を超える、なんだかわけのわからないものを象徴している」と書いている。ただ、個人的な解釈で言えばジャバウォックだけではなく「ペンギン」も両者を生み出す「お姉さん」も、そして直接的な研究対象となる「海」も理解不能なものとして描かれていると感じる。それゆえに研究つまり理解を進めようとする「少年」の物語たりえるのだから。


再び細田守を引き合いに出すのだけれど、彼の作品で必ず出てくる青空もとい入道雲のシーン。この映画にも、空が頻出する。ただ、「ペンギン・ハイウェイ」では細田作品のように予感として張り詰め絶えずこちらを不安にさせるものではない。「ペンギン・ハイウェイ」における空は、それでもおそらくは「死」に寄っている。あるいは「死」たる「海」を包む巾着袋として描かれているのかもしれないが、ともかく細田映画のようではない。そう主張するかのように、雲は薄く散り散りに散在し、しかもぐんぐん動く。生き生きと、と言ってもいいくらいにともかく雲がはやい。

 「死」がそうやって描かれているのは、前述したトリニティの要素へのアニメーションのちからの入れ具合は明らかに違うからだ。ペンギンの生命力にあふれたアニメーション、お姉さんの些細な機微のアニメーション、海のCGによる無機質な描出。

この映画において、死は絶望ではない。
この世で唯一絶対(すくなくとも今のところは)なのは、死だけである。死を肯定的に描くことは往々にしてある。だがしかし、それらの多くは諦観やシニシズム、苦悩や苦痛からの脱却としての救いあるいは慰めとしてある(と思う)。

「怒りそうになったときは、おっぱいの事を考える」と少年は諭す。でも、このおっぱいは、多分、「死」に寄って立つものだ。だから、「死ぬことを考えれば、怒りなんてどうということはない」と少年は言っているのだ。というのはもちろん冗談であるけれど。

この映画ではそういったものはない。本当にまっさらに、死を肯定している。
少年の心を惑わす理解不能なものとして「おっぱい」があるというのは、そういうことなのではないか。「世界の果て」を封じ込め、喫茶店でお姉さんが少年を抱きしめるシーン。お姉さんの呼吸に合わせてその豊満な胸が息づくアニメーション。些細な、しかし少年を「死」という優しさでもって包み込むこのシーンには奇妙な感動がある。それは確かだ。

けれどそれは、少年がまだ「死」を理解していないからだと、私は思う。妹が夜中に「少年」に抱きついて母親が死ぬひいては生命が死ぬということを嘆くシーンに象徴されるように、彼は「死」がどういうことか知っている。そうだろう、あれだけ勉強していれば、彼の年頃であれば、死の概念についてくらいは知っているだろう。

ただ、彼はこの映画のラストに至るまで「世界の果て」である「死」を理解してはいない。確かに、その貪欲なまでの好奇心によって、「お姉さん」「ペンギン」「海」のトライアングルが織り成す法則を導き出す。しかし「お姉さん」が人間ではないということがわかったからといって、正体がわかったわけでもない。結局、わけのわからないまま魅了されてわけのわからないまま一緒に世界を救い、わけのわからないまま消えていってしまう、わけのわからない存在として「お姉さん」は最後の最後まで在り続ける。安易に宇宙人という解釈を当てはめることもできようが、なんらかのはめ込みを行うとすれば「お姉さん」はむしろまどマギにおけるアルティメットまどか、つまりシステムそのものであると解釈するのが腑に落ちる。

もっとも、劇中ではそれを特定させないことで「少年」がその未知を見据える開けた終わり方になってはいる。

どうしてここまで気負わずに「死」を描けるのか。
この映画の制作陣が二十代や三十代なのも、大いに関係していると思う。そういう意味で、「少年」の目線で描かれるこの映画は石田監督らのそれと同じだ。こういう書き方をすると語弊がある気もするのだけれど、作り手は「死」について無邪気なのだと思う。お姉さんが完璧なのも、それが「死」だからだ。「死」は何にも脅かされることはない以上、完璧なものである。それは奪うものなどではなくて、ただプログラムされたシステムとして厳然とあるだけ。人の最後の最期に至っても変わらずに待っていてくれるものとしての「死」。諦念とも違うその解釈は、かなり異質だけれど、そういう、無邪気さがなければ「死」をここまで肯定的に描くことはちょっとできない気がするのです。  

異質な手触りを体感したいのであれば、この映画はかなりおすすめできる。けれどはっきり好みが分かれるというか、拒否反応もでるタイプだとも思う。個人的には。

全体的にその異質な(歪といってもいいかも)な感触の映画を楽しんではいたのですが、ちょいちょい気になるところもあったりはした。
場面転換で暗転を多用しすぎていたり、「少年」の行動のあとにそれを受ける相手側(ハマモトさんだったかな?)のリアクションを入れずに場面を切り替えるのとかは「少年」が慇懃無礼なんじゃないかと思えてしまいかねないかなぁ、と思いますです。

あ、それと。くぎゅうの演技に関してなんですが、たしか割と最初の方でアオヤマくんとペンギンを追っていくシーンだったと思うんですが、同じシーンにもかかわらずカット単位では明らかにショタボイスとロリボイスが混在している箇所があったので、これはもうちょっと音響監督はリテイクしたほうがよかったのではないでしょうか。声優だから、ということで過信しすぎてたのでは。いや、くぎゅうは好きなんですけど。

ていうか、演技指導だけでなくこのウチダくんに関しては石田監督も「何も考えずに描けたキャラクターです。ほぼノーチェックでOKだしたデザインです」と言っているようにウチダくんへの良くも悪くもぞんざいな扱いが見て取れますぞ(笑)。いや、モブキャラというわけでは決してないんですけれどね。

ほかにまあ、強いて言うのであれば、相対性理論の本は伏線でもなんでもないというか、内側に世界の果てがあるという話をブラックホール的な収束と重ね合わせてはいるのでしょうが、相対性理論の本はあのワンシーン以外では特になかった気がする(見落としてたかもしれないけれど)ので、あんなに思わせぶりに見せる必要はないのでは。

 

細田守と並列して語ったけど、「未来のミライ」では「くんちゃんに無理強いしすぎだろう、細田さん」と思ったのね。子どもの成長譚としてはこれくらいのバランスが個人的には好きだったりするのです。

 そういうわけで、「未来のミライ」に乗れないという人でもこっちは多分、観れるんじゃないかな、とは思う。