dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

welcome to cinnabon would you like to cinnabon (うろ覚え) そしてダコタん・ファンに…

というわけで予告通り「500ページの夢の束」の感想書きます。

 と書いておきながら映画そのものについてではない、ちょっと思ったことを先に。

 

映画に限らないことだけれど、やはり物事にはブラックビスケッツが歌うようにタイミング(運と置換してもいいかな)が重要である。

たとえば、オナ禁・誓いウォーカー1ヶ月目でアダルティなビデオを観たとして、それが大して面白くも可愛いない女優・男優だったとしても、お気に入りになってしまうようなこともあるかもしれない。アヒルだって一番最初に観たものを親と思うわけですし(鴨だっけ?)、それもタイミングに換言しても無理はないでしょう。

そうでなくとも、思春期や幼年期に触れたものがその後の人生に影響を与えることは多々あるわけで、やはり物事には触れるタイミングの重要性というものがあるのだと思う。

だって、そうじゃなきゃ私がこんなにダコタを好きになるなんてことがあろうか(いやない)。いやね、監督の技量とか女優のちからとか、そういうふうに言ってしまうのは簡単ですがね、やはりある程度は自分の感情に自分でも責任を持つことも必要なのではないかと思うわけです。俳優や監督とかに自分の感情全てをおんぶにだっこさせるのは、それはそれで自分に対しても不誠実だと思うし。

いやほんと「こんなにダコタのこと好きだったっけ?」と困惑してしまうくらいこの映画を観終わったあとに考えてしまった。

 

基本的に、私の場合は物事の評価軸として「良し/悪し」と「好き/嫌い」があるのですが、どうしたって後者の評価軸に触れてくるモノの方に感情を動かされるのです。にんげんだもの。無論、双方を満たすモノもある。

だから、決して歴史に名を残す名作ではないかもしれないけれど、この映画は私にとって好きな映画であるのである。実際、演出を優先するあまり脚本というか展開に無理がある場面が部分部分のシーンとはいえなくもないですし。

でもね、私のフェイヴァリット映画は「トランスフォーマー」なんですよ? その程度のこと「トランスフォーマー」にくらぶれば夢幻のごとくなり。もちろん、ちゃんとした(って失礼な書き方だけど)映画だって好きですよ。このブログで度々名前を出している「大いなる西部」もそうだし「RAW~少女の目ざめ~」ほかにもいろいろ。

 

ちなみに、映画のストーリーはこんな感じ(公式サイトから引用)。

 

 『スター・トレック』が大好きで、その知識では誰にも負けないウェンディの趣味は、自分なりの『スター・トレック』の脚本を書くこと。自閉症を抱える彼女は、ワケあって唯一の肉親である姉・オードリーと離れて暮らし、ソーシャルワーカーのスコッティの協力を得てアルバイトも始めた。ある日、『スター・トレック』脚本コンテストが開催されることを知った彼女は、渾身の作を書き上げるが、もう郵送では締切に間に合わないと気付き、愛犬ピートと一緒にハリウッドまで数百キロの旅に出ることを決意する。500ページの脚本と、胸に秘めた“ある願い”を携えて― 
 
いやもう、本当にこれだけの話といえばそれだけなんですよ。
多分、これは登場人物へのピントや主観性をもっと変えて、脚本的な違和感を払拭すれば「マンチェスター・バイ・ザ・シー」や「20th century women」になるのだろう。監督のベン・リューインはこの二つよりウェンディを、彼女のナラティブを、生暖かく祝福してやることにしたに違いない。それは、あるいは、自身もまた身体障害者であることから来ているのかもしれない。だから、彼女の旅路の障壁となるものはともすれば都合が良すぎてお手軽なために欺瞞的でクリシェとしてしか見えない場面もある。
まあ、これまでの監督のフィルモグラフィーを見ると脚本も自分で書いていたのですが、今回は別の人に書かせているようなので、単にそのへんのチューニングが上手くいかなかっただけかもしれませぬ。「セッションズ」でも主人公が身体障害者だったことや脚本まで自分で書いていたことからの、帰納的な当て推量でしかありませんが。
一応、プロダクション・ノートを読む限りでは脚本のマイケルがニューヨーク・タイムズに載っていた自閉症の少女の記事からインスパイアされてプロデューサーのダニエルとララがマイケルの脚本への愛情に打たれたことがキッカケとなっていて、ベン・リューイン発の企画ではなかったらしい。が、やはり障害を持つ者としての視点を盛り込むべくララが監督にベン・リューインを起用したらしいですね。
だから、あそこまで自然に描けたと言える。それはマイク・ミルズの生い立ちが「20th century women」につながったことと相違ないと思う。
 
 
ソーシャルワーカーのスコッティにはトニ・コレット。「リトル・ミス・サンシャイン」や少し前だと「シックス・センス」なんかにも出てましたが、ほとんど覚えておらず・・・。けれどもどこかで見た顔だなーとは思っていて、どこでみたのかと思ったら「トリプルエックス 再起動」でした。ウェルメイドな作品からビッグバジェットなアクション映画まで、以外に幅広く出演しています。
姉・オードリーには、アリス・イヴ。わたしが見た映画だと「メン・イン・ブラック3」とか「ナイト・ミュージアム/エジプト王の秘密」なんかに出てたんですが、まあこの映画にまつわる部分では「スター・トレック イントゥ・ダークネス」に出演していた、という楽屋オチのキャスティングでもあるところは触れておいたほうがいいですよね、多分。

 

で、あらすじからもわかるようにスタトレが本作のフックとして用いられている。とはいえ、スタトレまったく知らない(リブートシリーズすら)私でも楽しめるので、そのへんは問題ない。ただ、「あーやっぱりママから見るとガンダムとかウルトラマンの違いってわからないんだなー(笑)」といった感覚を持ち合わせている人の方が笑える場面はあります。ソーシャルワーカーのスコッティが「スター・ウォーズのカーク(スポックだっけ?)が~」と誤謬を口走って息子に「ちゃいまんがな」と突っ込みを入れられて、初歩的なことを答えると馬鹿にしたように「よくできましたー」と言われてしまうあたりは笑える。ほかにはクリンゴン語での会話についていけない婦警が「あなた英語以外も喋れるのね」と、《そうだけどそうじゃないんですよ》という類の笑える場面があったり。

 まあ分からないのでいくつかある合図やポーズを見て「やっぱりスタトレネタなのだろうか」と考えてしまう部分はありますが、そこも無問題。

 なぜならスタトレはあくまで表層的な部分でのツールでしかなく、別にスタトレでなくても通用するといえば通用する話だから。既述したような笑いのポイントも、実は代替可能性はかなり高いですし。ただ、自身の感情に振り回される人物としてスポックと自らを重ね、さらに相互理解というところで姉のオードリーとカークをダブらせ前半で描かれる姉妹の「血縁であっても(あるがゆえの)通じ合わない」煩悶を、「種族が違えど通じ合っている」スポックとカークの脚本に託すことで同列のパラダイムに据えて昇華させているので、やはりそこはスタトレである必要性はあったのだと思う。必要性、というよりは描きやすさというところでしょうか。

(壁を超えて)通じ合う、という部分は実は姉妹だけでなく人種や立場の違いという軸をもこの映画は提供している。それはウェンディのバイト先であるシナボンで働くニモ=スパニッシュ&ネイティブアメリカン(英語が壊滅的なのですが、Spanish and Indigenousってそういう意味ですよね・・・?)なトニー・レボロリくん(トムホスパイディにフラッシュとして出演していましたね、彼)とのやりとりでもありますし、追う者と追われる者という関係性をクリンゴン語によって警官と通じ合う場面からも見られます。そういった、通じ合うことこそがこの映画のキモなのです。

 

そして、それを演出的に魅せるための、なにげに上手い反復もある。

ニモとのやり取りで言えば、当初はニモからもらったミックステープをぶっきらぼうに受け取るだけだったのが、旅を経たウェンディは自らがミックステープを作って贈り返すことで双方向のコミュニケーションをもたらしたり、二度に渡る信号を渡るシーンもそう。まあ、信号を渡るシーンは二回やるんだったら二回目はもっとタメを作ってくれても良かったのですけれど。あるいは、一回目のルールブレイクを大げさに大仰に描くことで、旅路の果ての最後の横断としての2回目の信号を渡るシーンは成長を描くためにそっけなく描くとか。

そして最後にやはり、赤ちゃんを抱くシーンでしょう。旅の途中で出会った悪役夫婦の赤ちゃんを抱けなかったウェンディが、最後の最後に姪っ子をその胸に抱くことなど。しかし、こうして見るとエル・ファニングの出ていた「ビガイルド」と真逆の終わり方になっていてちょっと笑えてきます。

それと、なんとなくダコタの歩く姿に「ラッキー」のハリー・ディーン・スタントンを重ねてしまった。あれもあれで愛らしい映画ではありましたね。

あとですね、ちょっと猫背というか首が前に出てる姿勢とかも、芸コマというかああいう人いるなぁって感じでまた愛らしいんですよね。

 

と、まあ「スキスキ大好きもうキスしちゃう」(このネタわかる人いるかな)なテンションで書いてきてなんですが、実のところ割と嫌いなシーンが思い出せる限りだと2箇所ある。細かいことを言えばウェンディの旅の障害の嘘くささ(あそこだけ唐突だしほかのシーンに比べて浮きすぎているんですよね)とかあるんですけれど。

一つは電話の前で「助けを求める」旨のメモを破り捨てて姪っ子の写真を見て再び歩き出すところ。

この意図はもちろんわかるし、決意を表すものとして機能しているのもわかる。ただ、私の場合はこの演出そのものがクリシェであるとも思うし、何より「助けられる手段を放棄する=助けを求めない」ことを強さとして描かれることに反感を覚えるのですよね。なぜなら、その思想は日大タックルとか水飲み禁止といった根性論に近接してしまうから。せめてしまいなおすくらいに押さえておけば、「もう少しだけ頑張ってみよう」というスタンスの方が好きなんですよね。

あと毛布かけるとこ。あれはちょっとね。しかもエモーショナルに描いているのがまた鼻につくんですよね、あそこ。だって、結局はあのおばちゃんがやってることって路肩のベンチに放置させてるのと同じですからね。自宅で腹出して寝ているor勉強机に突っ伏して寝ている人に毛布をかけるのとは訳が違いますぞ。

あれは優しさでコーティングした馬鹿さだと思うのですよ。

 

でもね、いいんです、そんなこと。基本的にこの映画は「優しい世界」ですから。

それに何よりダコタが最高に愛くるしいから。

可愛いくてユーモアに溢れて塗れるダコタが見たい人、ハリポタのルーナよりも断然に魅力的なので、ダコタスキーな人は見るべし。

エル派ニングだったわたしは、これでダコタ派ニングになりました。