dadalizerの映画雑文

観た映画の感想を書くためのツール。あくまで自分の情動をアウトプットするためのものであるため、読み手への配慮はなし。

西宮さんマジ天使

と書いたのですが、本編をご覧になった方はこの言葉が皮肉であることはわかるでしょう。

聲の形」(じゃなくてTHE SHAPE OF  VOICEですか(失笑))がまさかここまで不快極まる映画だとは思わなんだ。なんかウィキが充実してるのも腹立たしいんですが。

 

漫画の方は途中まで読んだ記憶はあったのですが、内容は本当に忘れていて、今回のアニメを観ても原作がどうだったかまったく思い出せないくらい印象に残らなかったんですよね。もし、原作の内容がアニメと同じだというなら、今読んだら間違いなく嫌いになるだろうな、と思う。

この映画なにが不快かって社会的弱者とされる人を慰みものに、登場人物が揃いも揃ってカマトトぶりながらマスターベーションしてるんですよ。そのくせ石田くん以外は大して印象に残らないし。石田くんにしたって、メインに据えられたことの不快さの印象ですしね。自罰のため(もしかしたらそれすらポーズなんじゃないかと思えるんですが)西宮さんをオナペットにしている。

正直言って気持ち悪い。

作ってる途中に何かおかしいと思わなかったんですかね、これ。作り手も劇中の人物も、誰も西宮さんの声を聞いちゃいない。それどころか封殺してしまっている。

西宮さんから人格を奪い去って神格化=非人間化することで西宮さんを強者たるいじめっ子たちにとって都合のいい存在として描いているだけなんですもん。しかもあんな小奇麗な作画で。

はっきり、そして徹底的にほかの登場人物たちにとって都合のいい女としてしか描かれていないんですよ、西宮さん。

唯一、彼女が人間としての感情を発露したのは小学生時代のシーンで石田くんと取っ組み合ったところくらいでしょうか。

さらに腹立たしいのは、いわゆる俺TUEEEEハーレムものと同じ構造を持ってもいるということ。が、それよりもタチが悪いのは俺TUEEEEではなく俺YOEEEEでハーレムを形成していること。弱いこと自体は責めることじゃない。それを笠に着て碇シンジくんごっこしてるのが気色悪いんです。

石田くん、表向き(というか劇中の描写として)は贖罪意識を持っているように描かれてますけど、あんなのポーズですよポーズ。「ぼく弱いモン」と観客にアピールするだけして、西宮さんのことなんてこれっぽっちも考えてない。西宮さんがどう思うかではなく、自分が彼女をどう思うか・彼女にどう思われているかしか考えてない。この映画自体が石田くんの主観で進むため、そういう構造に陥りやすいというのがあるのですが。

あと、石田くんに好意を持たせるというのはいいとしても、西宮さんに口で喋らせるというのがもう、本当に石田くんに彼女を寄り添わせるんだなぁ、と。だってね、西宮さんにとっての言葉っていうのは手話(筆談もかな)なんですよ。彼女にとっての言葉を捨てさせ、強者たる石田くんたちの言葉である口で話させようとするんですよ作り手は。

確かにそれは彼女なりの頑張りであることは確かだろう。もっとも、それは石田くんにとって都合の良い頑張りでしかないんだけれど。

 

しかも彼女を非難するような描写すらある。石田くんが橋のところでふさぎ込んだあとにみんなが離散していくシーン。あそこでね、西宮さんの困惑したような顔を映すんですよ。なにそれ。そこまでして西宮さんをいじめたいわけですか。石田くんは石田くんで「つれーわー、まじつれーわー」とミサワってるし。

この辺、ほとんど主人公の石田くんの行動と映画そのものの物語が一致しているので、作り手の意識の底にあるものなのかと疑いたくなる。

 

で、本当に信じられないことなんですが、西宮さんの人間性が剥奪され石田くんの自我の肥大が極に達するシーンが2箇所もあるんですよ。西宮さんがマンションから投身を図るシーン。西宮さんの顔を映さないんですよね。石田くんからの視点から描かれる彼女の背中だけを画面は追っていくんですよ。

マジか。自殺しようって人間の感情をここまで徹底的に排して石田くんの贖いの道具に徹底されるのか。

本当にどういう神経してんでしょうね。

しかもね、彼女が自殺を図って代わりに石田くんが入院することになってからね、なぜかわからないけれど西宮さんがほかの人のところに赴くんですよ。元々彼女をいじめていた人とかのところに。

いやいや、オメーらが西宮さんのとこに来なさいよ。本当に都合のいい女でしかないんですよ、西宮さん。

で、もう1箇所は石田くんが「俺が生きるのを手伝ってくれ」と懇願するシーン。

オメーが西宮さんが生きるのを手伝えボケ

本当に自分のことしか考えてないのね、石田くん。

 

本当に宗教じみているのですよね。中世のキリスト教的価値観でっしゃろか、と。当時、貧者は聖なる存在としてあったんですよ。それというのも、強者が救うべき対象として在ったから。要するに、強者が勝手に救済すべき者として(それによって天に召されるため)貧者をオナホとして使っていたわけです。それとまったく同じ構図を、この映画は描いている。

西宮さんという非人間化され神格化され人格を奪われた表象としての神をみんなしてやいのやいの言って信仰の対象としようとしてるし、閉塞感といいラストの「おめでとう(パチパチ)」っぽさといい、旧劇エヴァエヴァ最終回っぽくもある。

2010年代の映画なのにだいぶ後退したな、と。

 

あと、音楽の使い方もちょっと臭いかな、と。モンタージュでBGM垂れ流すのとか、くどいと私は思います。

あと地味にマリアがずっと笑顔なのも怖いです。いやほんと、何でなのかわからない。

多様性表現なのかレプレゼンテーションのつもりなのか知りませんけど。

西宮妹のアニメアニメした描き方もなんかモヤモヤするし。

まあ大抵のキャラは結局のところ石田くんの慰みものとしているので、どうでもいいかな。

作画の美麗さすら石田くんの自我の中に収められてしまうという意味で、なんだか変な気分になってくるんですけど。

本当、あまりにも西宮さんが哀れすぎて泣きそうになりましたよ。

最後に全員を平手打ちして土下座させてから「よし、許してやろう」と胸を張ってくれたらまだ良かったんですけお。