dadalizerの映画雑文

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脱・殺人マシーン。サイコと理性と感情と~個人的なシンクロニシティを添えて~

あのね、日本の予告編で同胞が敵であることをバラしちゃったら予想できちゃうでしょうが。ほんといい加減にしてほしいですね。

ということで「イコライザー2」観てきました。

個人的にはフークワ作品では「トレーニング・デイ」に勝るとも劣らないトップレベルに好きな作品でした。正直なところ一作目に関しては好きは好きだけれど午後ローでバッティングしただけということもあって、やはり劇場で観るのと寝っころがりながら観るのとでは印象が違いましてですね(よく考えたらトレーニング・デイもバッティングだけんど)、やっぱり劇場で観ると集中できるからですかね。

トマトの方だとそこまでじゃないらしいですけど。まあ「リプレイスメント・キラー」とかいう印象に残らなすぎて逆に印象に残ってしまう凡作以下のものを撮っている過去もあるので、手放しに褒めてはいけないというのは確かにあるんですが。

 よくある話ではありますが、アウターヘイブンと同じような問題定期もあったりしたのが良かった。そこは別に問題として取り扱われるわけではないんですけれどもね。

 

イコライザー」シリーズがほかのアクションと異なるのは、日常シーンがかなり多めに尺を咲かれていることでしょう。日常とは「つまりアパートで本を読んで穏やかな生活を送るタクシードライバー」の生活。もっとも、マッコールからしてみればそれは逆説的に非日常なのかもしれませんが、ともかく表の社会で「平凡」な生活ができているのです。前半は乗せる客の顔を楽しむ日常系(?)だったり、でも冒頭から列車でイコライズしていたり、なんだか妙ちきりんなバランスではあります。

はっきり言ってしまえば、本筋に絡まない日常描写が多いのです。もちろん、マックの日常を描いているからこそその対比としての局の仲間との因縁が映えると言えないことはないでしょうが、姉を探しているおじいちゃんにしても、あれは別に削っても物語の進行上は問題ない。ただ、あのおじいさんとのやりとりが映画のはじめの方にあって、終わりの方で解決するということで日常を起点として戦いがあってからの日常への帰還という全体としての構造からは機能しているともいえるので、まったく必要ないかというとそれはそれで違う気もする。

なんとなく、あのつなげ方が「ザ・コンサルタント」ぽくもあったり。

日常の中に侵入してくる非日常(三宅SD的に言えば精算されずにいた過去からの逆襲とでもいうか)というか、積極的にマックが介入しにいったりもしていて(まあそれがかれにとっての日常を守ることではあるのですが)、この人の行動の撃鉄を起こすレベルが微妙に判断しづらいな、と観ているときは思っていた。

 

ただ、それはマックを善人として見ているからそう感じてしまうのであって、かなりの自己中心的な人物として捉えると割とすんなり受け入れられたりするのだ。

親切な自己チュー、という表現が個人的には一番しっくりくる。そう。マックという男は親切(おせっかいと言ってもいいかもしれない)なのだ。それは落書きのくだりや前作の諸々のシーンを思い出せばなんとなくわかるでしょう。そして、彼が親切な理由は性善説的なこともあるにはあるのでしょうが、それだけでなくおそらくは自分の日常を壊されることを嫌うがゆえに、だとも思うのですよね。

几帳面さ、という部分も要するに自分の世界の構築(おそらくは、感情を律するためでもあるのだろう)にほかならず、マイルズが悪に落ちることを阻止することと机の上に置いた本の位置を修正することは彼の中ではレベルは同じなのかもしれない(伴う労力はもちろん桁違いですが)。

何が言いたいかというと、マックは決してヒーローではなく、まして心の底から他者や世界を救おうなどとは思っておらず、「自分の世界を乱すものが視界に入ったら正しますよ」という人なのだ。

だから人並みに悩んだりはしない。だから、ともするとサイコ(ネット上で使われているスラングとしての意味合いで)に見えてしまう。 

だってね、いくら敵が同胞を殺したとは言え、その敵(それも同胞ですが)の小さい娘子を笑顔で人質に取るわけですよ。あそこで映るデンゼル・ワシントンの白い歯がさらに危険人物感が増している。しかも全部始末が終わったあと、あの家族について一切言及ないですからね。いや、あんたが手を下したことで娘二人を抱えた未亡人ができあがってますがな、と。

ですが、マックはそれを気に留めるような描写はない。ここが、徹頭徹尾私利私欲でしか動かない、サイコに見えてしまうという部分だと思うのですよ。

でも、実際は単に自己中心的なだけなのだ。冒頭での列車で女の子を救ったのだって、近所の本屋が閉店してしまいそう=生活の利便性が失われてしまうことへの対処であって、決して英雄的行為などではない。少なくとも動機としては。

というのが、このシリーズの面白いところだと思う。

決して聖人君子ではなく、超軼絶塵な殺人技能を持った一般人。それを突き詰めたら面白いものになってしまった、というのがこの映画なのではないか。

冷静な殺人マシーンに見えて、実はかなり感情的なマックの描写はところどころにありますしね。それこそ、本を手元の机にびしっと揃えて置くのが習慣づいているのに、スーザンの死を聞くと本を忘れておいていってしまうほど激情するシーンなんかに顕著ですし。

 

ただひとつ気になるのは、マックがマイルズに「人種差別を理由にするな」と説教かますところは同じ黒人同士であるからというところで誤魔化されているような気もしますが、アマルティア的な批判もできそうなのですよね。そもそも、フークワが黒人でなかったらこのシーン自体叩かれそうなものですが。

でもそこ以外はやっぱり好きな映画です。さっきも書きましたが、「トレーニング・デイ」に匹敵する好きさですたい。

 

あ、ちなみにシンクロニシティの部分は劇中でマックが読んでいる「僕と世界の間に」(世界と僕の間に、だっけ)という著作のことについてで、実はたまたまこの間本屋に寄った時に同じタイトルの本が目についてブックマークしていたんですよね。

その本はかなり最近のものでアメリカ本国でも2015年に出たばかりの本なのですが、内容はアメリカにあって黒人として生きることを父から息子へと説くものなんですね。タナハシ・コーツさんという人(タナハシの語感がちょっと日本語っぽいですが、綴りはta-nehisiなので多分関係ない)が書いたものらしいのですが、まあそういうシンクロニシティがあったということだけです、はい。

 

まあ、意図としてはマックとマイルズの関係を示唆しているのでしょう。説教のパートのセリフからも読み取れますが。

うん、それはフークワなりの黒人としての問題意識としてあるのかもですな。